朝焼け
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
きっかけは、今年の春のことだった。
「うー、やっぱ朝はまださみぃな……」
御幸は肩を縮こまらせながら、まだ薄暗い早朝の空の下をとぼとぼと歩いていた。
青道野球部に入って丸一年と少し、2年生になっても、レギュラーになっても、毎日の練習の厳しさは変わらないが、それでも持ち前の器用さとそつのなさで何とかここまでやってこられたと思う。
ただ、それらをこなすには、知らず知らずのうちに溜まっていくものを無視できないようで。
ストレス、疲労感。心がざわつく。プレッシャー、焦り。落ち着かない。物足りない。
今のままでいいのか、なんて。満足した時点で成長は止まるんだろう。わかってる。わかってるってば。
「……ハァーー…………」
溜め込んだものが、白い息になって宙に消えていく。そうやって本当に、簡単に消えてしまえばいいのに。
考えたくない、投げ出したい、そんな自棄になる自分が、ふっ、と音もなく現れる。そうしたら、一人で何も考えなくていい時間が欲しい。ふいに思いつく。
御幸には、そう思い立つ日がときどき訪れた。そんな日は、寮で眠りについている誰よりも早く目を覚まし、ぶらぶらと寮の周りを当てもなく歩くのが決まりのようになっていた。
そうして早朝の青心寮近辺、当然誰にもすれ違わなかったのだが、寮とグラウンドの間の土手道を歩いていた際に、その日初めて人影を見かけた。
ジャージ姿でランニングをしている女性──いや、体つきからして同い年くらいの女子高生に見えた。動いているものに対し、"何気なく"目で追ったつもりだったが、ちらりと見えた彼女の表情は真剣で、"目を奪われた"というほうが正しかった。
すると、思いがけず彼女と目が合った。その深い茶色の瞳が、煌 めいた。
「あれ? みゆきちゃん?」
唐突な聞き覚えのある声と呼ばれ方に、不意をつかれたようで、びくっと肩が跳ね上がってしまった。
えっ、と御幸はもう一度、目で追った。立ち止まり、弾んだ息を整える彼女の汗ばんだ額に、ショートカットの前髪が少し張り付いている。
彼女の真っ直ぐな視線がしっかりと御幸を捕らえたとき、真剣な表情は突然、パッと明るい笑顔に変わった。なぜかドキン、と心臓が高鳴った。
「おはよう! こんな時間に会うなんて、奇遇だね」
「…………橘?」
確信を持つのには、ずいぶんと時間がかかった。御幸にとっては、その明るい表情のほうが見慣れていたから、さっきの真剣な表情で走っていた彼女と、結びつかなかったのだった。
ああ、確かに橘だ。橘じゃないか。そのボーイッシュな顔立ちだって見たことがある、同じクラスの橘だ。なぜ気が付かなかったのだろう。
「なにしてんの?」
ランニングしているのは目に見えてわかるはずなのに、不意をつかれた御幸の口から出た台詞は間の抜けたものだった。彼女が陸上部だということも知っていた。
「ユズと散歩ついでに、朝の走り込み」
「『ユズ』?」
「ワン!」
御幸が聞き返すと、まるでその声に返事するかのように、足元で吠える生き物がいた。ハッ、ハッ、と舌を出してこちらを見上げる黒柴の首輪から伸びるリードは、夏実の手に握られている。
「そう。ユズって名前なの」
「橘ん家 のイヌ?」
「うん」
当たり前だろう、と言葉にしてから御幸は気付いて、自分に呆れた。他人の家の犬だという可能性はあまりにも低い。不意の出来事で混乱しているのだろうか。いや、早朝で頭が働いていないのかもしれない。
「そういう、みゆきちゃんは? なにしてたの」
と、一人で勝手にぐるぐる考えを巡らせる御幸に気付いているのかいないのか、夏実は同じ質問を返してきた。
「朝練の前に……ちょっと、散歩?」
「じゃあ一緒だ」
「まあ、そうなる、か?」
陸上部の橘がランニングするのとは、一緒じゃない気もするけど……。
『散歩』以外のワードが出てこなかっただけなのだが、目の前の彼女は、ふふ、となんだか嬉しそうに笑っていた。ならまあ、一緒でもいいか、なんて思いついた。やっぱり早朝で頭が働いていない気もする。
すると、こちらを見上げていたユズが、ふんふん、と鼻をひくつかせて御幸の膝下をぐるぐる回り始めた。それから再び舌を出して、興味津々といった表情で尻尾をくるっと動かす。
イヌでも表情はハッキリわかるものだな、と御幸はどうでもいいことを思った。そして、別に特にイヌが好きというわけではなかったが、その反応についしゃがんで手を伸ばした。
「懐っこいな、コイツ」
「ほんと、仔犬のときから人懐っこいの。初対面でも全然へーき」
「へぇ、オス?」
「うん」
それにしても、こんな朝早くに、犬の散歩がてら走り込みとか……イマドキ健康的すぎるな、この女子高生……。
なでられて嬉しそうに尻尾を振るユズを横目に、場違いに感心してしまった御幸は、夏実の顔を見上げた。御幸と戯れる彼を見て、彼女はニコニコと笑っている。朝焼けに照らされた、健康的に日焼けした肌色が、やけにまぶしく映った。
「ヤベ、俺もう行かなきゃ。朝練の準備しねーと」
「そっか」
名残惜しそうな彼を後にし、膝に手をついて立ち上がる。しかし、寮の方角へ向けて歩きだそうとした御幸は、ふと思い立って顔だけそちらへ向け、夏実を呼び止めた。
「橘ってさ、毎朝ココ走ってんの?」
「そうだよ、同じ時間」
ユズのリードを手のひらに巻き直した夏実はうなずきながら、相変わらずの明るい表情で続けた。
「だから、気が向いたらまたこの時間に来てみてよ」
そう言った彼女の言葉に、違和感をおぼえた。いや、来たところで何をするでもないだろう、それに、彼女のランニングを邪魔することになるだろうに。
何と返事をすべきかわからないまま、ただ、夏実の表情を見ていると、そんな違和感も一瞬で薄れてしまった。深読みすることの無用さを知らしめられた気がした。
真っ直ぐに懐へ飛んで来た球を、ただ素直に投げ返す。ウォーミングアップのキャッチボールのようだと思った。好きな感覚だ。
だから、御幸も真っ直ぐに、素直にボールを投げ返した。
「うん」
間違いなく冴えてきた頭で、御幸はうなずいた。夏実は満足そうに笑って、御幸とは反対の方へ体を向けた。
「じゃあね、またあとで。朝練ガンバレ!」
「おう」
リードを持つ手と逆の手を振って去っていく夏実に、小さく手を振り返す。『あとで』ってのも、同じクラスだから数時間後には教室で会うんだもんな、と御幸はなんだか面白くなって苦笑いした。
走り出した夏実がリードを軽く引っ張って、飼い犬に合図すると、彼は返事をするように吠えた。
「行くよ、ユズ」
ワン!
ぐいっ、と頭を振ってリードを強く引いたユズの声に、ぼうっとしていた夏実はハッと我に返った。
「あっ……ああ、ゴメンね」
散歩を中断され、退屈そうにしていた彼に謝りながら、引っ張られたリードを持ち直す夏実と、御幸の目が合う。その表情は、困惑、というのが一番近いだろうか。
昨夜、監督から『お前をキャプテンにする』と言われた。正直、予想できたことでもあったが、いろいろ思うところもあって、あまり眠れなかった。
そんな今朝、ふと彼女のことを思い出した。早朝、誰もいない時間に、彼女と話したい、会いたいと、素直に思ったのだ。そして、会いに来た。理由はわからないまま。
しかし、『好き』とぽろっと言ってしまったのは、全く予定していなかったことだった。勢いだなんて、自分にしては安直すぎる。
そもそも俺、そんなに橘のこと好きになってた? 自覚してなかっただけか? そんなまさか。
仮に、だとしても。明らかに弱っちまっている状態の今の俺が、告白だなんて……浅はか、すぎる。
「イヤだった?」
ハッキリとした行動で、意味を伝えるつもりだったけど、逆効果だったか。勝負を急ぎすぎたか?
「イヤ……って、いうか、」
うつむきながら、もごもごと口ごもる夏実を見て、御幸の頭にハッと一つの答えが浮かんだ。
「初めてだった、とか?」
「それは……」
だとしたらマズい、とさすがの御幸もうろたえた。あんな勢いのような行動で彼女のそ れ を奪ったのだとしたら、デリカシーがないにもほどがある。
「ただ……御幸って、こういうことするんだなあ、と、思って」
少し顔を上げてこちらをちらっと見た夏実の表情をきちんと確認すると、困惑というより、単純に驚いているように見えた。もちろん、夏実が予想していなかったことには違いない。御幸本人すら、当初そのつもりはなかったのだし。
とはいえ、そんな簡単にホイホイするようなろくでもない奴と思われるのは心外だな……まあ、確かにリードミスったのは俺だけどさ。
「誰にでもしないよ。橘にだけ」
「あたし、そんな軽く見えた?」
おっと、と御幸は動揺した。やっちまったか。
一見そういったものとは無縁そうに見えたこのコは、思ったより恋愛に対して思慮深い。性急だったのかもしれない。
「っ、そうじゃねぇって」
何とか自分のペースに戻そうとして、語気が強まる。露骨だっただろうか、だとしたら、みっともないなと思った。
「そういう意味で好きだってこと、伝えたかっただけ」
これは本心だった。だから、夏実の反応を確かめるように、真っ直ぐ見つめた。彼女はゆっくり、うなずいた。
「そっ、か」
「だから、謝らないよ」
どうしてこういう言葉しか出てこない、と自分で自分が嫌になる。もし本当に彼女の、を奪ったのだとしたら、それはそれでろくでもない奴だろう。
「ちょっと、考えていい?」
『ちょっと、考えていい?』?
御幸は、脳内で夏実の言葉を繰り返した。
途中でリードをミスしたところもあったが、それでも持ち直したつもりだった。ところが最後は審判に、ストライクでなくボールの判定をされた。結果、フォアボールで歩かせてしまった。肩透かしを食った気分だ。
……いや、『ちょっと』ってどのくらい? 何を『考える』の?
今ここで問い詰めたくもなったが、彼女が相手では無駄に思えた。審判のジャッジは覆らない。打席は終わってしまったのだ。
「わかった」
だから、御幸も引き下がることしかできなかった。
夏実が、いつものランニングコースをたどるように、ユズと歩き始める。御幸はそれを目で追うだけで、しばらく立ち止まったままだったが、やがて彼女の少し後ろをついていくように歩きだした。
(彼が今まで培ってきたような駆け引きも、なっちゃんに対してはあまり通じないといった感じ。)
「うー、やっぱ朝はまださみぃな……」
御幸は肩を縮こまらせながら、まだ薄暗い早朝の空の下をとぼとぼと歩いていた。
青道野球部に入って丸一年と少し、2年生になっても、レギュラーになっても、毎日の練習の厳しさは変わらないが、それでも持ち前の器用さとそつのなさで何とかここまでやってこられたと思う。
ただ、それらをこなすには、知らず知らずのうちに溜まっていくものを無視できないようで。
ストレス、疲労感。心がざわつく。プレッシャー、焦り。落ち着かない。物足りない。
今のままでいいのか、なんて。満足した時点で成長は止まるんだろう。わかってる。わかってるってば。
「……ハァーー…………」
溜め込んだものが、白い息になって宙に消えていく。そうやって本当に、簡単に消えてしまえばいいのに。
考えたくない、投げ出したい、そんな自棄になる自分が、ふっ、と音もなく現れる。そうしたら、一人で何も考えなくていい時間が欲しい。ふいに思いつく。
御幸には、そう思い立つ日がときどき訪れた。そんな日は、寮で眠りについている誰よりも早く目を覚まし、ぶらぶらと寮の周りを当てもなく歩くのが決まりのようになっていた。
そうして早朝の青心寮近辺、当然誰にもすれ違わなかったのだが、寮とグラウンドの間の土手道を歩いていた際に、その日初めて人影を見かけた。
ジャージ姿でランニングをしている女性──いや、体つきからして同い年くらいの女子高生に見えた。動いているものに対し、"何気なく"目で追ったつもりだったが、ちらりと見えた彼女の表情は真剣で、"目を奪われた"というほうが正しかった。
すると、思いがけず彼女と目が合った。その深い茶色の瞳が、
「あれ? みゆきちゃん?」
唐突な聞き覚えのある声と呼ばれ方に、不意をつかれたようで、びくっと肩が跳ね上がってしまった。
えっ、と御幸はもう一度、目で追った。立ち止まり、弾んだ息を整える彼女の汗ばんだ額に、ショートカットの前髪が少し張り付いている。
彼女の真っ直ぐな視線がしっかりと御幸を捕らえたとき、真剣な表情は突然、パッと明るい笑顔に変わった。なぜかドキン、と心臓が高鳴った。
「おはよう! こんな時間に会うなんて、奇遇だね」
「…………橘?」
確信を持つのには、ずいぶんと時間がかかった。御幸にとっては、その明るい表情のほうが見慣れていたから、さっきの真剣な表情で走っていた彼女と、結びつかなかったのだった。
ああ、確かに橘だ。橘じゃないか。そのボーイッシュな顔立ちだって見たことがある、同じクラスの橘だ。なぜ気が付かなかったのだろう。
「なにしてんの?」
ランニングしているのは目に見えてわかるはずなのに、不意をつかれた御幸の口から出た台詞は間の抜けたものだった。彼女が陸上部だということも知っていた。
「ユズと散歩ついでに、朝の走り込み」
「『ユズ』?」
「ワン!」
御幸が聞き返すと、まるでその声に返事するかのように、足元で吠える生き物がいた。ハッ、ハッ、と舌を出してこちらを見上げる黒柴の首輪から伸びるリードは、夏実の手に握られている。
「そう。ユズって名前なの」
「橘ん
「うん」
当たり前だろう、と言葉にしてから御幸は気付いて、自分に呆れた。他人の家の犬だという可能性はあまりにも低い。不意の出来事で混乱しているのだろうか。いや、早朝で頭が働いていないのかもしれない。
「そういう、みゆきちゃんは? なにしてたの」
と、一人で勝手にぐるぐる考えを巡らせる御幸に気付いているのかいないのか、夏実は同じ質問を返してきた。
「朝練の前に……ちょっと、散歩?」
「じゃあ一緒だ」
「まあ、そうなる、か?」
陸上部の橘がランニングするのとは、一緒じゃない気もするけど……。
『散歩』以外のワードが出てこなかっただけなのだが、目の前の彼女は、ふふ、となんだか嬉しそうに笑っていた。ならまあ、一緒でもいいか、なんて思いついた。やっぱり早朝で頭が働いていない気もする。
すると、こちらを見上げていたユズが、ふんふん、と鼻をひくつかせて御幸の膝下をぐるぐる回り始めた。それから再び舌を出して、興味津々といった表情で尻尾をくるっと動かす。
イヌでも表情はハッキリわかるものだな、と御幸はどうでもいいことを思った。そして、別に特にイヌが好きというわけではなかったが、その反応についしゃがんで手を伸ばした。
「懐っこいな、コイツ」
「ほんと、仔犬のときから人懐っこいの。初対面でも全然へーき」
「へぇ、オス?」
「うん」
それにしても、こんな朝早くに、犬の散歩がてら走り込みとか……イマドキ健康的すぎるな、この女子高生……。
なでられて嬉しそうに尻尾を振るユズを横目に、場違いに感心してしまった御幸は、夏実の顔を見上げた。御幸と戯れる彼を見て、彼女はニコニコと笑っている。朝焼けに照らされた、健康的に日焼けした肌色が、やけにまぶしく映った。
「ヤベ、俺もう行かなきゃ。朝練の準備しねーと」
「そっか」
名残惜しそうな彼を後にし、膝に手をついて立ち上がる。しかし、寮の方角へ向けて歩きだそうとした御幸は、ふと思い立って顔だけそちらへ向け、夏実を呼び止めた。
「橘ってさ、毎朝ココ走ってんの?」
「そうだよ、同じ時間」
ユズのリードを手のひらに巻き直した夏実はうなずきながら、相変わらずの明るい表情で続けた。
「だから、気が向いたらまたこの時間に来てみてよ」
そう言った彼女の言葉に、違和感をおぼえた。いや、来たところで何をするでもないだろう、それに、彼女のランニングを邪魔することになるだろうに。
何と返事をすべきかわからないまま、ただ、夏実の表情を見ていると、そんな違和感も一瞬で薄れてしまった。深読みすることの無用さを知らしめられた気がした。
真っ直ぐに懐へ飛んで来た球を、ただ素直に投げ返す。ウォーミングアップのキャッチボールのようだと思った。好きな感覚だ。
だから、御幸も真っ直ぐに、素直にボールを投げ返した。
「うん」
間違いなく冴えてきた頭で、御幸はうなずいた。夏実は満足そうに笑って、御幸とは反対の方へ体を向けた。
「じゃあね、またあとで。朝練ガンバレ!」
「おう」
リードを持つ手と逆の手を振って去っていく夏実に、小さく手を振り返す。『あとで』ってのも、同じクラスだから数時間後には教室で会うんだもんな、と御幸はなんだか面白くなって苦笑いした。
走り出した夏実がリードを軽く引っ張って、飼い犬に合図すると、彼は返事をするように吠えた。
「行くよ、ユズ」
ワン!
ぐいっ、と頭を振ってリードを強く引いたユズの声に、ぼうっとしていた夏実はハッと我に返った。
「あっ……ああ、ゴメンね」
散歩を中断され、退屈そうにしていた彼に謝りながら、引っ張られたリードを持ち直す夏実と、御幸の目が合う。その表情は、困惑、というのが一番近いだろうか。
昨夜、監督から『お前をキャプテンにする』と言われた。正直、予想できたことでもあったが、いろいろ思うところもあって、あまり眠れなかった。
そんな今朝、ふと彼女のことを思い出した。早朝、誰もいない時間に、彼女と話したい、会いたいと、素直に思ったのだ。そして、会いに来た。理由はわからないまま。
しかし、『好き』とぽろっと言ってしまったのは、全く予定していなかったことだった。勢いだなんて、自分にしては安直すぎる。
そもそも俺、そんなに橘のこと好きになってた? 自覚してなかっただけか? そんなまさか。
仮に、だとしても。明らかに弱っちまっている状態の今の俺が、告白だなんて……浅はか、すぎる。
「イヤだった?」
ハッキリとした行動で、意味を伝えるつもりだったけど、逆効果だったか。勝負を急ぎすぎたか?
「イヤ……って、いうか、」
うつむきながら、もごもごと口ごもる夏実を見て、御幸の頭にハッと一つの答えが浮かんだ。
「初めてだった、とか?」
「それは……」
だとしたらマズい、とさすがの御幸もうろたえた。あんな勢いのような行動で彼女の
「ただ……御幸って、こういうことするんだなあ、と、思って」
少し顔を上げてこちらをちらっと見た夏実の表情をきちんと確認すると、困惑というより、単純に驚いているように見えた。もちろん、夏実が予想していなかったことには違いない。御幸本人すら、当初そのつもりはなかったのだし。
とはいえ、そんな簡単にホイホイするようなろくでもない奴と思われるのは心外だな……まあ、確かにリードミスったのは俺だけどさ。
「誰にでもしないよ。橘にだけ」
「あたし、そんな軽く見えた?」
おっと、と御幸は動揺した。やっちまったか。
一見そういったものとは無縁そうに見えたこのコは、思ったより恋愛に対して思慮深い。性急だったのかもしれない。
「っ、そうじゃねぇって」
何とか自分のペースに戻そうとして、語気が強まる。露骨だっただろうか、だとしたら、みっともないなと思った。
「そういう意味で好きだってこと、伝えたかっただけ」
これは本心だった。だから、夏実の反応を確かめるように、真っ直ぐ見つめた。彼女はゆっくり、うなずいた。
「そっ、か」
「だから、謝らないよ」
どうしてこういう言葉しか出てこない、と自分で自分が嫌になる。もし本当に彼女の、を奪ったのだとしたら、それはそれでろくでもない奴だろう。
「ちょっと、考えていい?」
『ちょっと、考えていい?』?
御幸は、脳内で夏実の言葉を繰り返した。
途中でリードをミスしたところもあったが、それでも持ち直したつもりだった。ところが最後は審判に、ストライクでなくボールの判定をされた。結果、フォアボールで歩かせてしまった。肩透かしを食った気分だ。
……いや、『ちょっと』ってどのくらい? 何を『考える』の?
今ここで問い詰めたくもなったが、彼女が相手では無駄に思えた。審判のジャッジは覆らない。打席は終わってしまったのだ。
「わかった」
だから、御幸も引き下がることしかできなかった。
夏実が、いつものランニングコースをたどるように、ユズと歩き始める。御幸はそれを目で追うだけで、しばらく立ち止まったままだったが、やがて彼女の少し後ろをついていくように歩きだした。
(彼が今まで培ってきたような駆け引きも、なっちゃんに対してはあまり通じないといった感じ。)
1/1ページ