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──10月24日 早朝
「おはよう」
前に同じ時間、この場所で彼女と会ってから、3ヶ月くらいだろうか。ということは、付き合ってからも同じくらいの月日が経ったことになる。気付けばあっというまだった。もうすっかり風は、ひんやりと涼しい。
初めてこの土手道で会ったときのことを忘れられなかった。それがきっかけで、きっと、この朝の時間は、お互いにとってこれからも、大切な時間なんだと思う。
御幸が、向こうから走ってきたシルエットに手を上げて挨拶すると、彼女も同じように手を振って応えた。
「おはよー、みゆきちゃん」
「ああ、おかえ、」
「ワン!!」
「あっ! こら、ユズ!」
ところが突然、夏実の手に握られたリードの先の黒い柴犬は、彼女の制止を振り切ると、こちらに向かって猛ダッシュした。ケモノの俊敏な動きに驚いていると、次の瞬間には足元に駆け寄ってこられて、その勢いのまま飛びつかれ、御幸は思わず
「お、おおっ、……ちょ、ちょっと待って!」
ハッ、ハッ、と息を切らして、興奮気味に飛びかかってきたユズは、御幸の体の前面をよじ登ろうとしてくる。無下にもできず、振り払うわけにもいかず、後ずさりしきれなかった御幸は、宙に浮いた両手のうち、片方を後ろにやって、ゆっくり尻もちをついた。
そうして彼と同じ目線になったところで、ユズは大層嬉しそうに御幸の顔を舌で舐め回してきた。顔に掛けたスポーツサングラスごと舐めてしまおうがお構いなしで、しまいには口元まで舐められる。
「ちょ、ぶっ……! ふは、待っ、ぷふ、っふははは」
早朝から彼女の飼い犬に襲われ、
「わかった、わかったから!」
「ユズ、はしゃぎすぎ! 一也困ってるじゃん」
「こーら」と、夏実はそこで軽くリードを引っ張って飼い犬の動きを止めると、すかさずしゃがみ込み、彼の前で人差し指を立ててみせた。
「ユズ! "おすわり"は?」
すると、さっきまで興奮気味だったのが嘘のようにピタッ、と動きを止め、ユズはその場でおすわりをした。飼い主はうなずいて、頭を撫でてやっている。「よしよし」
「久しぶりに一也に会えたのが、そんなに嬉しかった?」
「ずいぶん懐かれたなあ」
「一也に会いたかったんだよなー」
そう言って夏実が笑いかけると、ユズは「クゥ」と鼻を鳴らしながら、ぺろっ、と彼女の頬を舐めて応えた。
「どしたん? 今日甘えんぼだね」
「修学旅行のあいだ、寂しかったんじゃねーの?」
「ああ、そうかな?」
「ゴメンね、みゆきちゃん。戻ったら顔とサングラス、よく洗っといて」
「ははっ、ホントな」
御幸は地面に手をついて立ち上がり、夏実に顎を
「頼むぜ、今日決勝なんだから」
「大丈夫だよ。ベタベタでも男前だから」
「そこじゃねーよ」
立ち上がって言った彼女の返しに、また笑ってしまう。ってか俺、なに言おうとしてたんだっけ──ああ、そうだ、と一つ息をついてから、御幸は夏実に向かって、口角を上げてみせた。
「おかえり、なっちゃん。修学旅行楽しかった?」
「うん! ただいま!」
修学旅行に行っているあいだ、夏実は御幸へマメにメールを寄越していた。『とにかく海が綺麗!』『今日は水族館に行ったよ』『タコス美味しかった!』という日記のような中身でも、クラスメイトたちとはしゃいでいる彼女の様子がそれだけで伝わってきて、呆れ笑ってしまった。
ただ、最終日が近付くにつれ、『野球部の結果が気になる!』『早く一也に会いたいなあ』なんて内容が送られてきて、メールをニヤニヤして読んでいたところを、すれ違った倉持に見つかって「キモッ」と言われたのは内緒だ。
「はいコレ!」
「ん?」
夏実は、手に持っていた紙袋を御幸の前に差し出した。そもそも御幸が今朝ここにやってきたのは、『明日の朝、渡したいものがある』と昨夜彼女からメールをもらっていたからだった。
「差し入れと、おみやげ」
「いらないよ、って言ったじゃん」
気を遣わせまいと言ったのだが、受け取った紙袋には、ブドウ糖やアミノ酸が摂取できるゼリー飲料が数本入っていた。
「こういうのだって、安くないんだしさ」
「ゼリーは家にあったやつだから。お店でお手伝いしたバイト代もあるし」
「"彼女"が何かしてあげたいって思うのは、いけない?」
そう言っていつものように、首をすこしかしげて、にっこりと笑う夏実を見て、なぜだかとっさに目をそらしてしまった。
そんなわけない。『いけない』わけないだろ、って。なんでそんなことを聞くのだろう──いや、俺が言わせてしまったのか。「や、その……ん?」
「なんだこれ」
視線を手元の紙袋の中に落としていたら気が付いた、ゼリー飲料の隙間に挟まった物。手のひらに収まるくらいの大きさのそれを、御幸が引っ張り出して手元に持ってくると、サングラスをかけたマスコットと目が合った。
「ノラギャン?」「カワイイでしょ?」クマなのかネコなのかよくわからないが人気のそのキャラクターは、御幸も知っていた。ご当地バージョンのアロハシャツを着た小さなぬいぐるみの頭頂部には金具が付いていて、よく見るとキーホルダーになっている。
どうやらコレが『おみやげ』らしい。ただ、俺自身はあんまこういうの付けないんだけどな。御幸がどう言うべきか迷っていたところで、「じゃーん」と夏実がポケットから何かを取り出して、御幸の手の中のそれと並べてみせた。
「あたしのと、ふたつ買ったの。おそろい!」
嬉しそうに言った彼女の手に握られていたのは、御幸のものと色違いのアロハシャツを着た、同じマスコットだった。
「青道野球部のカラーってことで、みゆきちゃんが青ね。あたしは赤」
おみやげ、夏実と、ふたつ、おそろい。早朝の冴え切らない脳が、流れ込んできた情報に追い付かず、目の前に並んだ二つのぬいぐるみをしばらく黙って見下ろしていたら、ふと夏実が目線を上げて、御幸の顔を覗き込むようにした。「あれ、赤のほうがよかった?」
「それともこういうの、あんまり好きじゃない?」
「えっ。ああ、いや……」
ついさっきまで、俺はこういうものは付けないとまで思っていただけに、とっさに返す言葉が思いつかなかった。『好きじゃない』、というわけでもない。重要なのは、きっとそこじゃない。
"夏実から"、というところなのだと。自分がずっと欲していたものでもあったはずだ──これはきっと、『独りよがり』ではない──目に見える形で、それが手の中にあること。胸が高鳴って、体温の上がる心地がする。
「俺は……」正直、誰からも見える形なのが、"気恥ずかしい"だけなのだと思う。むしろ、
「あたしは、一也となら、嬉しいんだけどな」
ああ、またそうやって。彼女はいつものように笑って口にするだけ。嬉しかったよ、俺だって。喜べばいいだけなのに、なんだか目頭とか口の端とかが震えて、笑ったつもりでも、顔の表面が歪んでしまっている気がした。
「なっちゃんが、そう言うなら」
「よかった」
ほら、やっぱり。こんな言葉しか出てこない。
「俺……夏実にもらってばっかだなあ」
マスコットをポケットにしまって、手渡された差し入れを見つめていると、そう思わずにいられない。
いろんなもの。いろんなこと。彼女には、もらい過ぎている。逆に、俺が夏実にあげられたものなんて、あるんだろうか。当の本人は、そんな御幸の気がかりをよそに、きょとんとした顔で肩をすくめていた。
「そう?」
「今すぐは難しいと思うけど、今度なんかお礼させて」
「いいよ、ただでさえ寮で大変なんだし。気持ちだけもらっとくよ」
「そうもいかないだろ」
「んー……じゃあ、あんまり期待はしないでおく」
「言ったな?」
夏実の冗談混じりの言葉に、ニヤリと笑って、つい彼女の頭をぐしゃぐしゃ、と乱暴に撫で回した。「わー!」「はっは」慌てて御幸の手を振り払おうとする夏実は、迷惑そうに目を細めながらも、どこか嬉しそうだった。
彼女のそんな言葉も、こちらのプレッシャーにならないようにという優しさからくるものなんだというのは、俺にとって都合が良すぎる解釈だろうか──いや、きっとちがうなあと、これまでの夏実の言動を思い返して笑う。彼女は、それが自然とできる人だ。
「もー、ユズじゃないんだから」
「ゴメンゴメン」
まるで飼い犬を愛でるような手つきに感じたのか、笑いながら膨れる夏実の乱れた髪を、
「けどあたし、一也が選んでくれたものなら、なんでも喜ぶ自信あるよ」
手櫛を止めて、息をのんだ──そんなふうに、むしろ相手を喜ばせるようなことをさらりと言えてしまうのは、性格だけじゃない、もはや才能だと思う──告白した日だってそう。何度だって驚かされる。彼女は、俺とは違う。
そのうち、彼女のことを『もっと知りたい』と思うようになった。最初は、思いどおりにならないと感じることも多かった。だけどそれ以上に夏実は、俺自身も気付いていなかった欲しいものをくれていたんだと。
「夏実はさ……
「えぇ? なんで?」
唐突にこぼした御幸の言葉に、夏実は困ったような笑顔で肩を揺らした。
そんな彼女の頭を、空いたほうの手で抱えてみると、頬ずりできる位置に寄せることができた。「わ、」と夏実は小さく恥ずかしそうに声を上げた。その動揺が可愛らしくて、すこし笑みが漏れる。走ったばかりの彼女の熱が伝わってくる。
「ほんと、ズルい」
唇に触れた彼女の髪は、汗ですこし湿っていた。吸い込むと、どこか甘く、あたたかい匂いがする──季節はすっかり秋なのに、あの日のような夏の匂いがする。
彼女はいつだって、爽やかな空気を
こんなに与えられてばかりで、バチがあたりそうだ。ちょっとは、君の"特別"になれただろうか。自信なんてない。ないのだけれど、この関係に、飽きたりしていないだろうか。あるいは付き合っていなければ、こんな思いもせずに済んだ。
そして、いつか終わることを想像しては、ちょっぴり怖くなる。あのとき告白したのは、失敗だったんだろうか。これ以上捕らわれるくらいなら、やっぱり、
「一也?」
「……なんでもない」
黙り込んでしまった御幸の腕の中で、夏実が不思議そうに呼んできたが、否定した。なんでもないことないくせに。顔を見られないように、夏実の頭を抱え込んだ。彼女にはバレているかもしれないなと思った。試合前でナーバスなのか、弱気になっている自分に気付く。
それでも夏実は、気にしてないようなそぶりで、優しい声色で言った。
「試合前なのに、会ってくれてありがとう」
「コレ渡したかったんだろ?」
「うん」
小さくうなずいたあと、夏実は御幸の肩に頬を
「会いたかったから──」
その言葉を聞いて、思わず彼女をそっと見下ろすと、ほんのり赤くなった頬がちらりと見えた。
「あたしが一也に、ちょっとでも早く、会いたかったから」
そうやって、簡単に口にできる彼女が妬ましいほどに──いや、付き合ってるコ相手に、なに考えてんだろ。腕の中で、彼女の少しこもった熱が、俺の気持ちをぐるぐると引っかき回しては、掻き乱す。嬉しい。嫌になる。なのに、離れがたい。
ふと、そういえば
道の端で、じっと飼い主を見守るようにして、空気を読んでいるユズに、御幸は軽く目配せしてやった。おまえ、賢いね。
御幸の気がそれたところで、夏実はゆっくりと腕の中から抜け出そうとした。その熱が逃げていくのが名残惜しくて、御幸は手にしていた紙袋を地面へ置くと、夏実のほうへと両手を伸ばした。
「ちょっと、顔見して。久しぶりだし」
「『久しぶり』って、一週間くらいだよ」
「いいから」
彼女の言ったことは正しくても、いつもは毎日学校で会っているのだから、一週間はけっこう長く感じるものだ。
夏実のやわらかい頬を、包み込むように触れてみた。すると、思ったとおり彼女の頬は、内側から
「ち、かいね」「照れてる?」御幸はただ、いつもの調子のにやけ顔で、揚げ足をとるような言い方しかできなかった。
「なっちゃん、俺に会いたかったんだろ?」
俺も、会いたかった。
修学旅行だとかデートだとか、そんなことより、ただ会いたかった。会えたらきっと、それだけでよかった。
そうすんなり言えたら、どれだけ楽だろう。
彼女の、いつだって真っ直ぐな瞳、髪も、柔らかい唇、こうやってすぐ赤くなる頬も、ぜんぶ焼き付けていたい。いまこの瞬間、ほんの目の前──彼女の一番近くにいるのが、自分であるということ。それだけで、こんなにも満たされていく。
夏実は、文字どおり御幸の目と鼻の先で、恥ずかしそうにチラチラと目をそらしては、そわそわした様子で、唇をカメラのレンズのように薄くまばたきさせていた。ときどき至近距離で目が合って、笑った。
「……みゆきちゃん、まつ毛長いねぇ」
夏実も十分長いと思うんだけど。「そう?」「うん」
「一也って、お母さん似?」
「えっ」
突然、そんなことを
「あー……たぶん? なんで?」
こちらから
夏実の指先が御幸の頬に触れ、耳を
「一也、キレーな顔してるから……お母さんもきっと、美人なんだろうなーって思って」
素で言ってるんだろうけど、なんだか口説かれているみたいだ。『イケメン腹立つ』とか、部員たちにふざけてからかわれたことはあるが、こう面と向かって言われると、さすがに照れる。顔が赤くなってないといいが。
「……なっちゃんさ、思ったことすぐ口に出すの、どうかと思うよ」
「え、ごめん、怒った?」
「そうじゃなくて」
ついでに照れ隠しで、ごまかすように論点をずらした。
「ときどき、心配になる」
「なんで?」
「なんか……いつか突拍子もないことしそうで」
「う、それは……い、言われたことある、というか……心当たり、ある」
「こらこら」
「なんとなく、危なっかしいんだよなあ」
一週間ほど前、夏実をバッターボックスに立たせたときもそうだが、彼女には危機感があまりないように思う。
そういう意味でも目が離せない、とそこまで考えて、苦笑いが出てしまった。「……何がおかしいの?」むくれたしぐさで、つん、と立った彼女の口先が目に留まる。
「何って、」言い切る前に、そのとんがった唇にキスしたくなって、衝動で顔を近付けてみたら、夏実はほぼ反射のように半歩後ずさったので、思わずこちらも固まった──この距離で反応しきるなんて、相変わらずなんつー運動神経してんだ。
呆れを通り越して、やはりなんだか感心しては固まったままの御幸を前に、夏実は慌てたような表情で、「あっ、」と
「別に、あのっ……イヤなわけじゃ、ない」
「……こないだは、夏実からしたのに?」
あからさまに拒否をされて、こちらもからかい半分で、不満の表情を向けてみた。──不満、というか──不安なのかもしれない、と少しよぎった。夏実は気まずそうに口をぱくぱくさせていた。
「でもやっぱり……ちょっと、恥ずかしい……今は明るいし」
そういえばこないだは夜だったな、と思い出しながら、確かに朝だし、今は夏実の顔が赤いのもよくわかるくらいには明るいか、こんなに顔に出やすいんじゃ、嘘もつけないだろう、とそこまで考えて、「ふっ」また笑みが漏れた。
「なっちゃんって、嘘つくの下手だろ?」
「えっ、な、なに急に」
「まあ、すぐバレそうだもんな」
「はそ、そもそも嘘つく必要ないよ!」
「はは、そりゃそーだ」
ニヤついた調子で額をこつん、と合わせると、「もー、またからかったでしょ」と夏実が笑うので、さらにつられて笑った。彼女の額は、表面がふにゃりと柔らかくて、汗でほんのり湿っていて、すこしの冷たさが心地よかった。「今はしないよ」別に、俺だって無理にしようとまでは思ってないって。それに、そんなことして嫌われたくはない。
軽く目を伏せると、夏実の呼吸が、御幸の頬を撫ぜた。「あれっ、」彼女が小さく声を上げた、その振動が伝わってくる。
「一也、熱ある?」
「え、
「うん。ちょっと」
しまった。昨日のケガのせいかもしれない。
そこまで考えてから、でも取り繕うのは容易かった。彼女は昨日の御幸のプレーを見ていないのだし、バレるわけがないと、根拠のない自信があった。だから、さっぱりと嘘をついた。「気のせいだろ」
「代謝がいいんだよ。俺、体温高いから」
「そう……ふふ」
「なに」
「あったかい」
「だな」
疑うことを知らない彼女は小さくうなずくだけで、二人して額と額をくっつけたまま、お互いくすぐられたように笑った。笑って体が揺れた拍子に、今度は鼻の先同士がちょん、と触れ合って、熱を持った──ああ、どうかこのまま──このまま、捕らえていたい。
「……今日、陸部のみんなで応援に行くから」
「……うん」
互いに声の発信源が近過ぎて、どこから聴こえているのか曖昧だしよく見えていないから、まるで二人だけの空間に包まれているみたいだ。
「一也のこと、ちゃんと見てるからね」
その言葉に、ハッとした。御幸はずっとそう思っていた、俺だけを。俺だけを、見てくれたら、って。
ゆっくり顔を離すと、彼女もゆっくり顔を上げた。その深い茶色の瞳に、朝日の光が反射して、鏡のようになって自分が映っている。いつだって真っ直ぐな目なんだ。
今なら、口に出して言えるかもしれない。御幸は小さく息を吸って、音にした。「夏実、」
「おーい!! ミユキカズヤー!!」
ビクッ!、とそれはまるで、磁石の同じ極同士が反発したみたいに、二人の体はパッと離れた。突然の大声に、夏実からすれば何事かと思うだろうが、御幸にとっては"日常"だった。
目を見開いて、先ほどまでとは違う理由で頬を紅潮させているかもしれない彼女に、引きつった顔のまま弁明した。
「わ、わりぃ、
「朝から元気で、頼もしいね」
「いや、あいつは元気すぎるくらいだから……」
御幸の心配をよそに、夏実はにこにこと笑いながら言った。
あいつ……なんで今日に限って朝っぱらから呼びだして……まあ、それはいつものことだが。どうせ昨夜の監督の『あと10球』じゃ足りなかったとかそんなところだろうが、なにも今日じゃなくたってよくないか? 試合当日なんだし。
というか、二人きりの時間を奪われたこともそうだが、何より彼女の前で呼び捨ては勘弁してくれ。これでは主将だとか彼氏どころか、先輩として格好がつかない。
「じゃあ、あたし行くね」
内心頭を抱える御幸をよそに、夏実はさっと飼い犬のほうを振り向くと、彼の首に繋がるリードを持ち直した。「お待たせ、ユズ。行こっか」「ワン!」彼女の頬は、もう赤くなかった。早朝の風が涼しいせいだろうか、ずいぶんと切り替えの早いことで、御幸はこっそり息を吐いた。
「ああ……気を付けてな」
「うん! 試合、楽しみにしてる」
「じゃあね」と、夏実は手を振って、また走り出した。彼女の駆けて遠ざかる足音と、寮からの階段を
「御幸先輩! 部屋にいないと思ったらこんなところに! 昨日のストレートをもう一回……ん?」
先ほどの大声の主がやってきて、御幸は思わずそちらをじろりと睨むようにした。が、沢村本人はその視線に気付かず、去っていく夏実の後ろ姿を目に留めた。
「どちら様で?」
「クラスメイトが、朝から差し入れ持ってきてくれてさ」
「なんと!
「おいおい」
後輩の言葉はかわしてみせたが、やはり口の減らない男だ。つい苦笑いして、御幸は足元に置いていた、ゼリー飲料の入った紙袋を手に取った。
すると視界の端で、無駄に声のデカい後輩は、何を思ったか夏実の後ろ姿に向かって、勢いよく90度近い角度の礼をした。
「ありがとうございやす!!」
「
慌てて彼のほうへ空いた腕を伸ばし、彼女に目をやったが、夏実は走りながらこちらを振り返ったかと思うと、修学旅行の前日のときのように、大きく手を振っていた。この距離ではもう見えないが、きっと笑っていた。それが沢村にもわかったのか、彼も笑った。
沢村は、彼女が誰なのかとか、そもそも女子だと気付いてすらいなかったのか、はたまたとっとと球を投げたかったのかは知らないが、それ以上は特に聞いてこなかった。
「優しいお人ですね!」
と、ただ走り去っただけの彼女を見て、そう言っただけだった。
「……うん。そうだな」不思議だった。いつも『バカ』がつくほど鬱陶しい彼の言動が、なぜか今だけは"
「俺も、お前みたいに言えたら、もう少し楽になれんのかもな」
「どういう意味です?」
階段に足をかけながら言うと、沢村は首をかしげながらも、少し後ろをついてきた。御幸はポケットの中で、夏実にもらったマスコットを握り締めながら言った。
「こっちの話。ほら、室内練習場行くぞ。投げたいんだろ?」
「おぉ! そうだった!」
「ったく」
さっき言いそびれたこと──今日の試合後、言ってみようかな。
ちゃんと伝えてみて、いいものだろうか。このモヤモヤも、痛みも、伝えてみようか。
このケガを隠していたこととか。なぜか今さら──平然と口を突いて出た小さな嘘が、
言ったら彼女は、どんな反応をするだろう。もしそれで、この関係が変わることがあっても、受け入れられる勇気はあるだろうか。
痛みがぶり返したのを薬が切れたせいにして、御幸はポケットから手を出すと、そっと脇腹を
《素直になるのが こんなにも 難しくなるなんて》『恋の/スーパー/ボール』ai/ko
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