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日曜日の昼下がり。天気ものどかで風も心地よい。なにより真知子は、前から欲しかった本を買えて上機嫌だった。
行きつけの本屋を出て、ペーパーバッグに入れられた商品を胸に抱え息をつくと、真新しい装丁の紙とインクの匂いがした。思わず鼻唄でも歌い出しそうな気分で、商店街を歩む。
「ふふっ……帰って早速読んじゃお♪」
すると、前を歩いていた男性が、ふととある店に入ったのを、何気なく目で追った。その店先には、売り物の服が掛けられたハンガーラックと、その隣に60〜70年代か、それ以前に流行ったような洋楽レコードのワゴンセールが並んでいた。看板には、年季の入った分厚い木の板の上から、ステンシルでスプレーを吹きつけたように書かれた店名。やや雑然としているようすが、逆に雰囲気を醸し出している、アメリカンヴィンテージの古着屋だ。
それを目にして、立ち止まってからゆっくり店全体の外観を眺め、真知子は思い出した。
そういえば──水戸君 がアルバイトで働いているお店って、ココだったかしら──
「た、たまたま近くを通っただけだし……」
ついでよ、ついで、と、心の中で自分に言い訳をしながら、真知子は店の入口に近付いた。日曜日とはいえ、絶対にいるとも限らないが。ハンガーラックの陰に身を潜めるようにして、そっと店内を覗き込んでみる。
いた。
制服の学ラン姿でない彼を見るのは初めてで、一瞬見逃しそうになったがあの髪型、間違いない。
「っしゃァせー」洋平は、棚の上に重なった商品の服を、立ったまま器用に畳みながら、先ほど入店した男性客に声をかけていた。真知子はつい身を乗り出した、そのとき。
──ガシャン!
「きゃあっ」そう音を立てて、店先に出ていたハンガーラックに足を引っ掛けてしまった。ああもう、これだからトロくさいって言われるんだわ……。
ラックが道にはみ出してしまったところを元に戻そうと試みるが、思ったよりも重くてうまく動かせない。そんな調子でもたもたしていると、先ほどの音で気付いたのか、店の中から店員が出てきてしまった。
「大丈夫スか?」
「す、すみませんっ!」
「いや、オレ直しとくんでそのままでいい、って……あれっ?」
真知子が本とラックを持ったまま慌てて顔を上げると、近付いてきた店員と目が合った。目を丸くした彼を前に、あ、と二人そろって口を開けてしまう。
「委員長?」
「み、水戸君……っ」
バレた。黙って見ているだけで、帰るつもりだったのに──さっきは気が付かなかったが、よく見ると、彼の口の端のあたりには絆創膏が貼られている──最後に会ったときの記憶が思い起こされて、ハッと息をのむ。気まずい空気が流れる前に、真知子はサッと直立不動の姿勢になって先に声を上げた。
「水戸君が働いてるお店って、ココだったのね! あ、あたしはそこの本屋さんでお買い物してきた帰りなの!」
「偶 然 ねっ?」抱き締めるようにした先ほど買ったばかりの本を大げさに見せつけ、ズレた眼鏡を直すと、洋平はしばらくきょとん、としたあと、おもむろに目を細めた。「へぇ、偶然だなあ」
「ホント。偶 然 」
そう言ってゆっくりと口角を上げて深く笑う。いつもの彼の笑い方──何か企むような、ぜんぶ分かっているような、悟ったような笑い方──その表情 は苦手だ。見透かされているみたいで、ドキドキする。
「おーいサボってんなよ洋平」
「言いがかりですよ、店長」
肩をすくめた洋平が、板張りの床をギシギシと鳴らして店の奥から歩いてきた人物のほうを向くので、真知子もつられてそちらを見た。
洋平に『店長』と呼ばれた背の高い男は、革ジャンに革パンと上下にレザーを纏 いながら、無精髭を蓄え、頭に巻いたバンダナで肩まで伸ばしたロングヘアを留め、サングラスのまま咥 えタバコを燻 らせている。のっそりとこちらへやってきたその男を前に、真知子は体を強張らせた。
こ、怖そうな人……
と、思わず後ろに下がろうとそわそわしていると、それに気付いた洋平が、真知子を背後に隠そうとする動きで、男との間に入るようにして片腕を後ろに回してきた。互いの腕が触れ合って、またドキンと胸が高鳴る。
すると、洋平のその動きでわかったのか、真知子の存在に気付いた男が、「おっ?」と声を上げながらサングラスを手で外したことで、見開いた目があらわになった。歳は50代くらいだろうか。よく見るとその目元はきりりと整っていて、無骨な服装とは裏腹に、顔立ちはまるで俳優のような色男だった。
「なんだよ、もしかして洋平のコ レ か?」
そう言ってニヤッと笑うと、店長の男はタバコを持った手の小 指 を立てた。からかうようなしぐさに、真知子は慌てて手を横に振る。「あ、あたしそんなんじゃ、」その隣で、洋平は何食わぬ顔で答えていた。
「オレのクラスの学級委員長なんスよ。いつもオレがサボらねーか目ぇ光らせてて」
「そりゃお前が悪 りぃだろうよ」
「違いねぇっスわ」
苦笑いする洋平に、店長の男は振り返って片手を振りながら、「あんまカノジョ困らせんなよ〜?」と言って店の奥へ引っ込んでいった。
「……なんだか、勘違いされてないかしら」
「いいのいいの。勘違いさせときゃ」
「あ、あたしはイヤよ!」
「ははっ」店長はまだしも、洋平に至っては、こちらの言い分を聞いていない上に、笑って流された。なに考えてるのよ!
「雑多な店だけど、ゆっくりしてってネ」
二人で揉めていたにもかかわらず、奥に見えているレジスターの置かれたカウンターに腰掛けた店長は、真知子に向かってそう微笑 んだので、慌てて軽く頭を下げた。
それから新聞を広げて読みだした店長を、隣の洋平は親指で差してニヤ、と歯を見せて笑った。
「店長イカすだろ? 前に若い頃の写真見してもらったけど、江口洋介に似てた」
「雰囲気はちょっと怖いけど……確かにステキね」
「──へぇ」
洋平は眉を上げてつぶやくようにしたが、妙な間 があった。
そういえば、と真知子は思い出した。このあいだ学校で聞いた、水戸君が『学校外で強面のおっかなそうな大人とやりとりしてるのを見た』っていう噂──アレ、店長さんのことなんじゃないかしら……。
「真知子ちゃんてば、ああいうワイルドな男 がタイプ? イガイだな〜」
「べ、別に、客体的な観点に基づいたまでよ」
「委員長、むつかしい言葉使うね」
そう言って、頭の上に“? マーク”を浮かべ困った顔でいる洋平が、ちょっぴり可愛く思えて真知子はくすっ、と笑った。
そこで洋平は半歩後ろに下がって、真知子の全身を眺めるように、その目線をこちらの頭からつま先まで動かした。
「委員長って、私服も制服みたいだな」
「そうかしら」
今日の真知子の服装は、セーラーカラーの付いたサックスブルーのブラウスと、張り感のあるサンドベージュのチノスカートに、茶色いコインローファー──眼鏡とおさげ髪はいつもどおり──休日は大抵こんな恰好だ。
「こういうのが落ち着くのよ。……どうせダサいって言いたいんでしょ」
どうせイモくさいオンナですよ、と自虐気味に、着ている服を隠すようにして本を抱えなおし、中指で眼鏡を押し上げる。しかし、目の前の洋平は「ぜーんぜん」と今度は間を空けずに言って笑った。
「カワイイじゃん」
その言葉に、またドキッとして──なによ、さらっと言っちゃうなんて……いいえ、どうせあたし以外が相手でも同じなんだわ、勘違いしちゃダメよ真知子、気をしっかり持つのよ。
「お、お世辞なんかいらないわ」
「ホントのことなのに」
ブンブンとかぶりを振り、おさげを振り乱してごまかしたが、洋平は小さく肩をすくめただけだった。……あなたのそ れ は、ウソっぽく聞こえないから手に負えないのよ、と心の中で言い返した。
「そのスカートなら、こういうカレッジスウェットとか合いそうじゃね? 今のシャツの上に重ねてもいいしさ」
「ほら」と、洋平はふとアルバイトの仕事を思い出したように、そばの棚に畳んで陳列されていた、アイボリーの生地にボルドーの色でロゴが入ったトレーナーを広げて、向かい合う真知子の肩に合わせた。
彼の手が肩に触れて、またまたドキッと──本日何度目かわからない──心臓が跳ねた。しかし、この店で扱っているものはほとんどがメンズのアイテムに見える。洋平の持ち出した服も、明らかに男性向けのサイズだ。その着丈は真知子の太ももあたりまで覆うほどで、それを見た洋平は苦笑いしていた。「んー、さすがに真知子ちゃんにはデカいか」
「……水戸君は、」
真知子が思わずそう声をかけたところで、洋平は「ん?」と、今しがた広げたスウェットを畳みながら、こちらに目くばせをした。真知子はそんな彼の恰好を、お返しとばかりに眺めた。
初めて見る彼の私服──バイト中の洋平の服装は、まさにこの店で集めたアイテムのように見えた。上半身には、レーサー仕様なのか至るところにスポンサーワッペンが付いている、赤と黒の革でできたライダースジャケット。綺麗に色落ちしたブルージーンズと、バイカーのようなタフなウェスタンブーツを履きこなしている。リーゼントヘアも、心なしかいつもよりカッチリと固められていた。
格好 いい。お 世 辞 抜 き で 似合っている。ただでさえ同い年の男子たちより早熟に見える彼なのに、制服でないからか、いつも以上に大人っぽく見えた。
言いかけた真知子は、咥えタバコで新聞を読み耽 っている店長のほうを何気なく横目に見て、水戸君も実際に大人になったら、あの店長さんみたいになるのかしら、なんてことを思った。でも、店長さんもステキだけど、あたしは水戸君のほうが……
そこでハッとした。やだ、なに考えてるのあたしったら。彼の目線をさりげなく躱 し、おさげをいじりながら慌てて取り繕う。
「水戸君は、クビにならなくてよかったわね」
「いやホントにな。店長には頭上がんねーや」
皮肉で言ったのに──最後に学校で会った日にかわした会話の続きを受け入れ、苦笑いして頭を掻 く彼──さっきもラックを直すのを手伝ってくれたり、店長さんとも気さくに話していたり……やっぱり、怖い人には見えない。
暴力を振るうような人なんて、本当は苦手だけれど。それでも、このあいだ素っ気ない態度をしたこと、謝りたい。
「真知子ちゃんさあ」「な、なによ」謝りたいけど、なかなかきっかけが掴 めなくて、彼から話しかけられても身構えてしまう。
「今日は言い返さないんだな」
「え?」
「“真知子ちゃん”」
洋平に強調してもう一度呼ばれて、あ、と気付いた。これまでなら、『そんな呼び方しないで』と文句を言っているはずだった。
「こ、ここは学校じゃないから、別に気にならなかったの」
「そういうモン?」
「それはそうでしょう? 他の生徒に見られたとして、それをからかわれたり、先生にあ な た み た い な 不良生徒と仲が良いなんて勘違いされるのは御免だわ」
「……だよなあ」
小さく鼻で笑って腕組みしたままうつむく洋平は、いつもからかってくるようすとは違って、なんだか調子が狂う。真知子もそれ以上はイヤミを言う気になれなくて、文句の代わりに息を吐いた。
「……それに、あなたが何度もしつこいからもう慣れちゃった」
「お、粘ってみるもんだな」
「粘ってたのね……」
言い返されるのをわかっていて呼び続ける彼もどうかと思うけれど。悔しいが、根負けした。そして、いつもの飄々とした口調ですこし笑った洋平を前に、どこかほっとしている自分に気が付く。
『委員長────また、な』最後に会った日の別れ際、やるせない表情でこちらを見つめていた洋平のまなざしが、思い出された。
「……ねぇ」
真知子がおそるおそる呼びかけると、洋平は続きを促すように、こちらを向いて小さく首をかしげた。
「もう、平気なの……?そ の 、」
言いながらおもむろに、トン、と真知子は自分の口元を指差してみせる。意味がわからなかったのか、しばらくきょとん、としていた洋平は、真知子の動きを真似るように片手を口元にやって、自身の指先が絆創膏に触れたことで、ようやくそ の ケ ガ のことを言っていると気が付いたようだった。
「あ……ああ、コレっ? 全然へーき! 痛くも痒くもねーよ」
驚いたように眉を上げ、大げさに肩をすくめた洋平は苦笑いしていた。それからまた、リーゼントの生え際の首を掻いて、なぜか遠慮がちに口を開いた。
「……なあ、委員長──オレ、」
「店員さんすいませーん」
「あっ、ハイ」
「ゴメン、ちょっと待っててな」店の奥の試着室にいたらしい男性客に呼ばれた洋平は、しかしこちらを制止するように両手を出して真知子に声をかけてから、仕事に戻っていった。……水戸君、何を言おうとしてたのかしら。
ズボンを試着していた男性客のそばに寄る彼を目で追うと、洋服屋のやりとりが聞こえてくる。「もう少し大きいサイズあります?」「32インチっスね。出してきます」
一人になった真知子だったが、彼に先ほど『待ってて』と言われてしまったので、さすがに勝手に帰るわけにはいかない。冷 や か し のようで居辛いのだが、仕方なく古着屋の店内をうろうろと回ってみることにした。
革やジーンズのアイテムを中心に、カジュアルなスウェットにシャツ、帽子や靴などが並び、壁には往年の映画のポスターや、有名なブロンド女優とスープ缶のポップアートも飾られている。真知子が歩くと、ときどき木の床がギシ、と軋 んで音を立て、その床のワックス剤と、革の鞣 しの匂いが交互に鼻を刺激した。
「この501の縦落ち、カッコいいっスね」
「イイでしょ? オレ的にはココのイエローステッチも好きなんスよ」
その会話を耳にして、もう一度試着室の方を見た。タグの付いたジーパンを履いた男性客が鏡の前に立ち、その少し後ろで洋平は笑顔で応対しながら、客が渡した商品を片腕に引っ掛け、縫い目のあたりを指差している。
──なんだか楽しそう。お洋服が好きなのね。
ふと視線を試着室から、真知子の正面にある壁の方へ移すと、そこにはコルクに刺した釘にジャラジャラと無造作に引っ掛けられたシルバーのネックレスや、木の箱に埋め込まれたベルベットの生地の隙間に指輪が並んでいた。鷲やホイールといった無骨なデザインの中にある、ターコイズの鮮やかなブルーの色に目を引かれ、顔を近付けてみる。
「お、アクセサリー興味ある?」
「きゃっ」
すると、いつのまにかすぐ傍 まで来ていた洋平が、こちらを覗き込むようにして隣に立っていた。真知子が小さく驚いた声を上げると、洋平もすこし驚いていた。「ああゴメン、びっくりした?」
「最近流行りで、似たようなインディアンアクセが安く出回ってるけど……ウチは通 だから、このへんは全部ゴローズだぜ」
ブランドのことを言っているのだろうが、正直ファッションのことは全くわからない。真知子もアクセサリーは着けないので、なんとなく見ていただけだった。洋平が、壁に並んでいたネックレスのうちの一つを手に取った。
「フェザー、イイと思うんだけど、委員長の服には合わないか」
鳥の羽根の形をしたトップのついたそれを、洋平が真知子の正面から首元に当てがう。大きくてゴツゴツとしたデザインは、流行りに疎い真知子から見ても、合わないなと感じた。「うーん浮いちゃうな」洋平本人も苦笑いしている。
まるで着せ替え人形のような扱いに、遊ばれているのだろうか、と眉を寄せてしまう。先ほど『待ってて』と言ってまでしたかったことなのかと、真知子は隣でネックレスを物色する彼を呼び止めた。
「……ねぇ、べつに、あたしはアクセサリーなんて、」
「あ、コレは? ティファニーのビンテージ」
聞いてないし……、と呆れていると、洋平は商品のネックレスの中から、細いチェーンにアルファベットの“U ”のような形をしたトップのシルバーネックレスを取り出し、真知子に見せた。
「馬蹄?」
「お、さすが委員長、物知りだな。欧米じゃ縁起モンらしい」
「つけてやるよ」そう言って、洋平は両手の指先でネックレスの引き輪を外し、左右に軽く広げた。
「後ろ向いて──髪、持ち上げられる?」
驚いたが、待ち構える洋平に先を越されたので、真知子は咄嗟に言われたとおりにした。本を持っていないほうの手で、二本のおさげを後ろでひとまとめにして、肩の前に持ってくる。「綺麗な髪、引っ掛けたらマズいだろ」
「おっ、いいじゃん」ネックレスを着けたあと、洋平は真知子の前に回り込むようにして嬉しそうに言った。そばにあった姿見を覗き込むと、ブラウスのちょうど胸元で、蹄鉄がキラリと光っているのが見える。
「あげるよ、それ」
「えぇっ!? ダメよ、売り物でしょう?」
鏡越しに笑う洋平と目が合い、彼の発言に驚いて振り返った。しかし洋平は、真知子の反応に慌てることなく、レジカウンターでタバコをふかしている店主のほうを向いて尋ねていた。「いいでしょ? 店長」店長は新聞から視線を動かさないままで、片手を上げて洋平に応えた。
「キッチリお前のバイト代から引いとくぜ〜」
「ちぇ」
苦笑いして肩をすくめる洋平の横で、真知子は首にかかったチェーンに違和感をおぼえながら、自分の胸元を見つめ、指先で触 れた。どきんどきんと覚束ない心臓を、金属の冷たい感触が鎮めてくれる。
「──話せてよかった」
「えっ?」ふいにそんなことを言った洋平の声に、真知子は思わずパッ、と顔を上げた。目の前の洋平は口元に笑みを携えながら、しかしどこかバツが悪そうに、両手をジーンズのポケットに入れたまま目をそらした。
「こないだ、怖がらせちゃったかなって──悪いことしたなと思ってたからさ。なんか、」
言い淀んで、相変わらず首すじを片手で掻いている彼を前に、伝えかけたことを思い出す。そんな、水戸君があたしに、何かひどいことをしたわけじゃないのに。
そうだったわ。からかっていたとしても、あのとき水戸君は、あたしを心配してくれていたと思うから。彼の思いやりを無下にしてしまった。
「あ、あたしのほうこそ──」
「真知子ちゃんは、なにも悪くないよ」
「でも、っ」
「大丈夫だから」わざと遮るみたいに、洋平は言った。そんなふうに、すべて分かっているような顔でほほ笑まれたら、真知子はそれ以上なにも言えなかった。
「謹慎中なのに、まさか真知子ちゃんに会えるなんて、思わなかったからさ。オレの心配までしてくれたし」
「これぞまさに“ケ ガ のコーミョー”、ってヤツ?」と、洋平は痛くも痒くもないと言っていた絆創膏の部分を、ちょんちょんと指差しニヤリと笑った。「アレッ? 使い方あってる?」「も、もうっ、調子いいんだから……」
それからこちらに手を伸ばして、ネックレスのチェーンをなぞるように経由してから、トップを手のひらに乗せた。彼のやや乾いた指先が首すじを掠 めた気がして、思わず肩を縮こまらせる。そっ、と上目に見ると、目が合った。
「会いに来てくれて、嬉しかったよ」
「だからコレは、そのお礼」彼はときどきそうやって、びっくりするほど優しい表情をする。彼が不良生徒だということを忘れるくらい。目がやわらかく弧を描く。心が追いつかなくて困る。
「“お守り”とでも思って」
「あ……ありがとう」
お礼を言うと、洋平は変わらず嬉しそうに笑った。彼の満足げなようすに、真知子はハッと我に返って、慌てて口から出た言葉も変に畏 まってしまっていた。
「あの、あたし、帰ります」
「じゃあ送るよ」
「な、なに言ってるのよ、あなた仕事中じゃない」
「店長ー」
再び洋平が首を伸ばし、カウンターに顔を向ける。呼ばれた店長は、ガサ、と音を立てて新聞を下ろし、眉を上げた。「お、カノジョ。帰るの?」
「洋平、おまえ家まで送ってってやれ」
「ほら、いいってさ」
「ただし、道中サボるなよ〜」
「だ、大丈夫ですっ、まだ明るいですから!」
これ以上いたたまれなくなった真知子は、両腕で本を抱えたまま「お邪魔しましたっ」と店主に向かって勢いよく頭を下げた。「気ィ付けて帰んな〜」店長が、ニカッとタバコを咥えた歯を見せて手を振ってくる。出口へ足を向けたところで、もう一度だけ彼の方を振り向いた。
「また来てネ」
そう言って笑う洋平の表情は、今さっきの店長にすこし似ている気がした。『また』と発した彼に、なんと応えたらいいかわからず、しかし無視もできずに、真知子は小さくペコッと頭を下げるしぐさで返して、逃げるように店を飛び出した。
小走りで家路を急ぐ。親には本屋に行くと伝えただけなのに、ずいぶんと道草を食ってしまった──目当ての本がなかなか見つからなくて──と、走りながら言い訳を考えた。
地面を蹴るたびに、紙袋に入れられた本がガサガサと揺れて、首のネックレスがチャリチャリと音を立てて跳ねる。それに気付いて、片手でぎゅっ、と胸元に押さえるようにした。
すると、心臓がそれを押し返してくる。店に入ってから、いや、彼を見つけたときからそうだ。ずっと胸がドキドキして、ふわふわと浮き足立っている感覚だった──あたし、彼とちゃんと会話できてたっけ。でも、謝れなかったな。謝らせてもくれなかったけど──だけど、思い出す彼の顔は、優しく笑っている。それに、胸元で音を鳴らすネックレスが、彼からの答えのような気がした。
『会いに来てくれて、嬉しかったよ』
……冗談 じゃないのよね? またからかわれてるのかしら。ああ、学校と関係ないところでまで、彼のことを考える羽目になるなんて。全部、ぜんぶ水戸君のせいだ。
真知子は手を押し返してくる心臓を紛らすように、ネックレスを大事に握り締めたまま、自宅までの道を走り続けた。
(たぶんネックレス代は、なんだかんだ店長が払ってくれる。)
行きつけの本屋を出て、ペーパーバッグに入れられた商品を胸に抱え息をつくと、真新しい装丁の紙とインクの匂いがした。思わず鼻唄でも歌い出しそうな気分で、商店街を歩む。
「ふふっ……帰って早速読んじゃお♪」
すると、前を歩いていた男性が、ふととある店に入ったのを、何気なく目で追った。その店先には、売り物の服が掛けられたハンガーラックと、その隣に60〜70年代か、それ以前に流行ったような洋楽レコードのワゴンセールが並んでいた。看板には、年季の入った分厚い木の板の上から、ステンシルでスプレーを吹きつけたように書かれた店名。やや雑然としているようすが、逆に雰囲気を醸し出している、アメリカンヴィンテージの古着屋だ。
それを目にして、立ち止まってからゆっくり店全体の外観を眺め、真知子は思い出した。
そういえば──水戸
「た、たまたま近くを通っただけだし……」
ついでよ、ついで、と、心の中で自分に言い訳をしながら、真知子は店の入口に近付いた。日曜日とはいえ、絶対にいるとも限らないが。ハンガーラックの陰に身を潜めるようにして、そっと店内を覗き込んでみる。
いた。
制服の学ラン姿でない彼を見るのは初めてで、一瞬見逃しそうになったがあの髪型、間違いない。
「っしゃァせー」洋平は、棚の上に重なった商品の服を、立ったまま器用に畳みながら、先ほど入店した男性客に声をかけていた。真知子はつい身を乗り出した、そのとき。
──ガシャン!
「きゃあっ」そう音を立てて、店先に出ていたハンガーラックに足を引っ掛けてしまった。ああもう、これだからトロくさいって言われるんだわ……。
ラックが道にはみ出してしまったところを元に戻そうと試みるが、思ったよりも重くてうまく動かせない。そんな調子でもたもたしていると、先ほどの音で気付いたのか、店の中から店員が出てきてしまった。
「大丈夫スか?」
「す、すみませんっ!」
「いや、オレ直しとくんでそのままでいい、って……あれっ?」
真知子が本とラックを持ったまま慌てて顔を上げると、近付いてきた店員と目が合った。目を丸くした彼を前に、あ、と二人そろって口を開けてしまう。
「委員長?」
「み、水戸君……っ」
バレた。黙って見ているだけで、帰るつもりだったのに──さっきは気が付かなかったが、よく見ると、彼の口の端のあたりには絆創膏が貼られている──最後に会ったときの記憶が思い起こされて、ハッと息をのむ。気まずい空気が流れる前に、真知子はサッと直立不動の姿勢になって先に声を上げた。
「水戸君が働いてるお店って、ココだったのね! あ、あたしはそこの本屋さんでお買い物してきた帰りなの!」
「
「ホント。
そう言ってゆっくりと口角を上げて深く笑う。いつもの彼の笑い方──何か企むような、ぜんぶ分かっているような、悟ったような笑い方──その
「おーいサボってんなよ洋平」
「言いがかりですよ、店長」
肩をすくめた洋平が、板張りの床をギシギシと鳴らして店の奥から歩いてきた人物のほうを向くので、真知子もつられてそちらを見た。
洋平に『店長』と呼ばれた背の高い男は、革ジャンに革パンと上下にレザーを
こ、怖そうな人……
と、思わず後ろに下がろうとそわそわしていると、それに気付いた洋平が、真知子を背後に隠そうとする動きで、男との間に入るようにして片腕を後ろに回してきた。互いの腕が触れ合って、またドキンと胸が高鳴る。
すると、洋平のその動きでわかったのか、真知子の存在に気付いた男が、「おっ?」と声を上げながらサングラスを手で外したことで、見開いた目があらわになった。歳は50代くらいだろうか。よく見るとその目元はきりりと整っていて、無骨な服装とは裏腹に、顔立ちはまるで俳優のような色男だった。
「なんだよ、もしかして洋平の
そう言ってニヤッと笑うと、店長の男はタバコを持った手の
「オレのクラスの学級委員長なんスよ。いつもオレがサボらねーか目ぇ光らせてて」
「そりゃお前が
「違いねぇっスわ」
苦笑いする洋平に、店長の男は振り返って片手を振りながら、「あんまカノジョ困らせんなよ〜?」と言って店の奥へ引っ込んでいった。
「……なんだか、勘違いされてないかしら」
「いいのいいの。勘違いさせときゃ」
「あ、あたしはイヤよ!」
「ははっ」店長はまだしも、洋平に至っては、こちらの言い分を聞いていない上に、笑って流された。なに考えてるのよ!
「雑多な店だけど、ゆっくりしてってネ」
二人で揉めていたにもかかわらず、奥に見えているレジスターの置かれたカウンターに腰掛けた店長は、真知子に向かってそう
それから新聞を広げて読みだした店長を、隣の洋平は親指で差してニヤ、と歯を見せて笑った。
「店長イカすだろ? 前に若い頃の写真見してもらったけど、江口洋介に似てた」
「雰囲気はちょっと怖いけど……確かにステキね」
「──へぇ」
洋平は眉を上げてつぶやくようにしたが、妙な
そういえば、と真知子は思い出した。このあいだ学校で聞いた、水戸君が『学校外で強面のおっかなそうな大人とやりとりしてるのを見た』っていう噂──アレ、店長さんのことなんじゃないかしら……。
「真知子ちゃんてば、ああいうワイルドな
「べ、別に、客体的な観点に基づいたまでよ」
「委員長、むつかしい言葉使うね」
そう言って、頭の上に“
そこで洋平は半歩後ろに下がって、真知子の全身を眺めるように、その目線をこちらの頭からつま先まで動かした。
「委員長って、私服も制服みたいだな」
「そうかしら」
今日の真知子の服装は、セーラーカラーの付いたサックスブルーのブラウスと、張り感のあるサンドベージュのチノスカートに、茶色いコインローファー──眼鏡とおさげ髪はいつもどおり──休日は大抵こんな恰好だ。
「こういうのが落ち着くのよ。……どうせダサいって言いたいんでしょ」
どうせイモくさいオンナですよ、と自虐気味に、着ている服を隠すようにして本を抱えなおし、中指で眼鏡を押し上げる。しかし、目の前の洋平は「ぜーんぜん」と今度は間を空けずに言って笑った。
「カワイイじゃん」
その言葉に、またドキッとして──なによ、さらっと言っちゃうなんて……いいえ、どうせあたし以外が相手でも同じなんだわ、勘違いしちゃダメよ真知子、気をしっかり持つのよ。
「お、お世辞なんかいらないわ」
「ホントのことなのに」
ブンブンとかぶりを振り、おさげを振り乱してごまかしたが、洋平は小さく肩をすくめただけだった。……あなたの
「そのスカートなら、こういうカレッジスウェットとか合いそうじゃね? 今のシャツの上に重ねてもいいしさ」
「ほら」と、洋平はふとアルバイトの仕事を思い出したように、そばの棚に畳んで陳列されていた、アイボリーの生地にボルドーの色でロゴが入ったトレーナーを広げて、向かい合う真知子の肩に合わせた。
彼の手が肩に触れて、またまたドキッと──本日何度目かわからない──心臓が跳ねた。しかし、この店で扱っているものはほとんどがメンズのアイテムに見える。洋平の持ち出した服も、明らかに男性向けのサイズだ。その着丈は真知子の太ももあたりまで覆うほどで、それを見た洋平は苦笑いしていた。「んー、さすがに真知子ちゃんにはデカいか」
「……水戸君は、」
真知子が思わずそう声をかけたところで、洋平は「ん?」と、今しがた広げたスウェットを畳みながら、こちらに目くばせをした。真知子はそんな彼の恰好を、お返しとばかりに眺めた。
初めて見る彼の私服──バイト中の洋平の服装は、まさにこの店で集めたアイテムのように見えた。上半身には、レーサー仕様なのか至るところにスポンサーワッペンが付いている、赤と黒の革でできたライダースジャケット。綺麗に色落ちしたブルージーンズと、バイカーのようなタフなウェスタンブーツを履きこなしている。リーゼントヘアも、心なしかいつもよりカッチリと固められていた。
言いかけた真知子は、咥えタバコで新聞を読み
そこでハッとした。やだ、なに考えてるのあたしったら。彼の目線をさりげなく
「水戸君は、クビにならなくてよかったわね」
「いやホントにな。店長には頭上がんねーや」
皮肉で言ったのに──最後に学校で会った日にかわした会話の続きを受け入れ、苦笑いして頭を
暴力を振るうような人なんて、本当は苦手だけれど。それでも、このあいだ素っ気ない態度をしたこと、謝りたい。
「真知子ちゃんさあ」「な、なによ」謝りたいけど、なかなかきっかけが
「今日は言い返さないんだな」
「え?」
「“真知子ちゃん”」
洋平に強調してもう一度呼ばれて、あ、と気付いた。これまでなら、『そんな呼び方しないで』と文句を言っているはずだった。
「こ、ここは学校じゃないから、別に気にならなかったの」
「そういうモン?」
「それはそうでしょう? 他の生徒に見られたとして、それをからかわれたり、先生に
「……だよなあ」
小さく鼻で笑って腕組みしたままうつむく洋平は、いつもからかってくるようすとは違って、なんだか調子が狂う。真知子もそれ以上はイヤミを言う気になれなくて、文句の代わりに息を吐いた。
「……それに、あなたが何度もしつこいからもう慣れちゃった」
「お、粘ってみるもんだな」
「粘ってたのね……」
言い返されるのをわかっていて呼び続ける彼もどうかと思うけれど。悔しいが、根負けした。そして、いつもの飄々とした口調ですこし笑った洋平を前に、どこかほっとしている自分に気が付く。
『委員長────また、な』最後に会った日の別れ際、やるせない表情でこちらを見つめていた洋平のまなざしが、思い出された。
「……ねぇ」
真知子がおそるおそる呼びかけると、洋平は続きを促すように、こちらを向いて小さく首をかしげた。
「もう、平気なの……?
言いながらおもむろに、トン、と真知子は自分の口元を指差してみせる。意味がわからなかったのか、しばらくきょとん、としていた洋平は、真知子の動きを真似るように片手を口元にやって、自身の指先が絆創膏に触れたことで、ようやく
「あ……ああ、コレっ? 全然へーき! 痛くも痒くもねーよ」
驚いたように眉を上げ、大げさに肩をすくめた洋平は苦笑いしていた。それからまた、リーゼントの生え際の首を掻いて、なぜか遠慮がちに口を開いた。
「……なあ、委員長──オレ、」
「店員さんすいませーん」
「あっ、ハイ」
「ゴメン、ちょっと待っててな」店の奥の試着室にいたらしい男性客に呼ばれた洋平は、しかしこちらを制止するように両手を出して真知子に声をかけてから、仕事に戻っていった。……水戸君、何を言おうとしてたのかしら。
ズボンを試着していた男性客のそばに寄る彼を目で追うと、洋服屋のやりとりが聞こえてくる。「もう少し大きいサイズあります?」「32インチっスね。出してきます」
一人になった真知子だったが、彼に先ほど『待ってて』と言われてしまったので、さすがに勝手に帰るわけにはいかない。
革やジーンズのアイテムを中心に、カジュアルなスウェットにシャツ、帽子や靴などが並び、壁には往年の映画のポスターや、有名なブロンド女優とスープ缶のポップアートも飾られている。真知子が歩くと、ときどき木の床がギシ、と
「この501の縦落ち、カッコいいっスね」
「イイでしょ? オレ的にはココのイエローステッチも好きなんスよ」
その会話を耳にして、もう一度試着室の方を見た。タグの付いたジーパンを履いた男性客が鏡の前に立ち、その少し後ろで洋平は笑顔で応対しながら、客が渡した商品を片腕に引っ掛け、縫い目のあたりを指差している。
──なんだか楽しそう。お洋服が好きなのね。
ふと視線を試着室から、真知子の正面にある壁の方へ移すと、そこにはコルクに刺した釘にジャラジャラと無造作に引っ掛けられたシルバーのネックレスや、木の箱に埋め込まれたベルベットの生地の隙間に指輪が並んでいた。鷲やホイールといった無骨なデザインの中にある、ターコイズの鮮やかなブルーの色に目を引かれ、顔を近付けてみる。
「お、アクセサリー興味ある?」
「きゃっ」
すると、いつのまにかすぐ
「最近流行りで、似たようなインディアンアクセが安く出回ってるけど……ウチは
ブランドのことを言っているのだろうが、正直ファッションのことは全くわからない。真知子もアクセサリーは着けないので、なんとなく見ていただけだった。洋平が、壁に並んでいたネックレスのうちの一つを手に取った。
「フェザー、イイと思うんだけど、委員長の服には合わないか」
鳥の羽根の形をしたトップのついたそれを、洋平が真知子の正面から首元に当てがう。大きくてゴツゴツとしたデザインは、流行りに疎い真知子から見ても、合わないなと感じた。「うーん浮いちゃうな」洋平本人も苦笑いしている。
まるで着せ替え人形のような扱いに、遊ばれているのだろうか、と眉を寄せてしまう。先ほど『待ってて』と言ってまでしたかったことなのかと、真知子は隣でネックレスを物色する彼を呼び止めた。
「……ねぇ、べつに、あたしはアクセサリーなんて、」
「あ、コレは? ティファニーのビンテージ」
聞いてないし……、と呆れていると、洋平は商品のネックレスの中から、細いチェーンにアルファベットの“
「馬蹄?」
「お、さすが委員長、物知りだな。欧米じゃ縁起モンらしい」
「つけてやるよ」そう言って、洋平は両手の指先でネックレスの引き輪を外し、左右に軽く広げた。
「後ろ向いて──髪、持ち上げられる?」
驚いたが、待ち構える洋平に先を越されたので、真知子は咄嗟に言われたとおりにした。本を持っていないほうの手で、二本のおさげを後ろでひとまとめにして、肩の前に持ってくる。「綺麗な髪、引っ掛けたらマズいだろ」
「おっ、いいじゃん」ネックレスを着けたあと、洋平は真知子の前に回り込むようにして嬉しそうに言った。そばにあった姿見を覗き込むと、ブラウスのちょうど胸元で、蹄鉄がキラリと光っているのが見える。
「あげるよ、それ」
「えぇっ!? ダメよ、売り物でしょう?」
鏡越しに笑う洋平と目が合い、彼の発言に驚いて振り返った。しかし洋平は、真知子の反応に慌てることなく、レジカウンターでタバコをふかしている店主のほうを向いて尋ねていた。「いいでしょ? 店長」店長は新聞から視線を動かさないままで、片手を上げて洋平に応えた。
「キッチリお前のバイト代から引いとくぜ〜」
「ちぇ」
苦笑いして肩をすくめる洋平の横で、真知子は首にかかったチェーンに違和感をおぼえながら、自分の胸元を見つめ、指先で
「──話せてよかった」
「えっ?」ふいにそんなことを言った洋平の声に、真知子は思わずパッ、と顔を上げた。目の前の洋平は口元に笑みを携えながら、しかしどこかバツが悪そうに、両手をジーンズのポケットに入れたまま目をそらした。
「こないだ、怖がらせちゃったかなって──悪いことしたなと思ってたからさ。なんか、」
言い淀んで、相変わらず首すじを片手で掻いている彼を前に、伝えかけたことを思い出す。そんな、水戸君があたしに、何かひどいことをしたわけじゃないのに。
そうだったわ。からかっていたとしても、あのとき水戸君は、あたしを心配してくれていたと思うから。彼の思いやりを無下にしてしまった。
「あ、あたしのほうこそ──」
「真知子ちゃんは、なにも悪くないよ」
「でも、っ」
「大丈夫だから」わざと遮るみたいに、洋平は言った。そんなふうに、すべて分かっているような顔でほほ笑まれたら、真知子はそれ以上なにも言えなかった。
「謹慎中なのに、まさか真知子ちゃんに会えるなんて、思わなかったからさ。オレの心配までしてくれたし」
「これぞまさに“
それからこちらに手を伸ばして、ネックレスのチェーンをなぞるように経由してから、トップを手のひらに乗せた。彼のやや乾いた指先が首すじを
「会いに来てくれて、嬉しかったよ」
「だからコレは、そのお礼」彼はときどきそうやって、びっくりするほど優しい表情をする。彼が不良生徒だということを忘れるくらい。目がやわらかく弧を描く。心が追いつかなくて困る。
「“お守り”とでも思って」
「あ……ありがとう」
お礼を言うと、洋平は変わらず嬉しそうに笑った。彼の満足げなようすに、真知子はハッと我に返って、慌てて口から出た言葉も変に
「あの、あたし、帰ります」
「じゃあ送るよ」
「な、なに言ってるのよ、あなた仕事中じゃない」
「店長ー」
再び洋平が首を伸ばし、カウンターに顔を向ける。呼ばれた店長は、ガサ、と音を立てて新聞を下ろし、眉を上げた。「お、カノジョ。帰るの?」
「洋平、おまえ家まで送ってってやれ」
「ほら、いいってさ」
「ただし、道中サボるなよ〜」
「だ、大丈夫ですっ、まだ明るいですから!」
これ以上いたたまれなくなった真知子は、両腕で本を抱えたまま「お邪魔しましたっ」と店主に向かって勢いよく頭を下げた。「気ィ付けて帰んな〜」店長が、ニカッとタバコを咥えた歯を見せて手を振ってくる。出口へ足を向けたところで、もう一度だけ彼の方を振り向いた。
「また来てネ」
そう言って笑う洋平の表情は、今さっきの店長にすこし似ている気がした。『また』と発した彼に、なんと応えたらいいかわからず、しかし無視もできずに、真知子は小さくペコッと頭を下げるしぐさで返して、逃げるように店を飛び出した。
小走りで家路を急ぐ。親には本屋に行くと伝えただけなのに、ずいぶんと道草を食ってしまった──目当ての本がなかなか見つからなくて──と、走りながら言い訳を考えた。
地面を蹴るたびに、紙袋に入れられた本がガサガサと揺れて、首のネックレスがチャリチャリと音を立てて跳ねる。それに気付いて、片手でぎゅっ、と胸元に押さえるようにした。
すると、心臓がそれを押し返してくる。店に入ってから、いや、彼を見つけたときからそうだ。ずっと胸がドキドキして、ふわふわと浮き足立っている感覚だった──あたし、彼とちゃんと会話できてたっけ。でも、謝れなかったな。謝らせてもくれなかったけど──だけど、思い出す彼の顔は、優しく笑っている。それに、胸元で音を鳴らすネックレスが、彼からの答えのような気がした。
『会いに来てくれて、嬉しかったよ』
……
真知子は手を押し返してくる心臓を紛らすように、ネックレスを大事に握り締めたまま、自宅までの道を走り続けた。
(たぶんネックレス代は、なんだかんだ店長が払ってくれる。)
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