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「委員長!」
放課後になって、教室を出ようとしたところで、真知子はそんな声に呼び止められた。その声の主には覚えがあって、苦い顔をしながらそちらを振り向くと、思ったとおり廊下には水戸洋平が立っている。
ただしよく見ると、そばには彼の友人である桜木花道や、クラスのほかの男子たちもいた。何事かと、真知子はカバンを体の前で両手で持つようにしながら、おそるおそる近付いた。
「……なあに、水戸君 」
「花道の奴 、部活行くんだってさ。委員長もこのあと図書室だろ? いっしょに行こうぜ」
「は、はぁ?」
彼を指さす洋平に向かって、なんで、と言い返そうとしたところで、今度は花道がこちらを指さしてきた。
この距離で彼と話そうと思うと、真知子はその場で見上げなければいけなかった。真っ赤なリーゼントに、すこし息を飲む。相変わらず派手な出で立ちで、地味だという自覚のある真知子とは、無縁の生徒のように思えた。
「おお、オレらのクラスの学級委員長の……えーと、」
「花岡真知子」
「真知子ちゃんね」
「真知子ちゃんって呼ばないで」
笑顔で余計な補足を入れる洋平に、間髪を入れずじろりと視線でもたしなめると、花道はこちらに向けていた指を顎にやって、何やら考えるようなしぐさでうなずいていた。
「花岡サン……洋平 とはオトモダチか」
「お、お友達って……べつに、た だ の クラスメイトよ。桜木君と変わらないわ」
「こういう、つれねートコがいいだろ?」
そう言ってニヤリと笑う洋平を、やはり真知子は睨 み続ける。相変わらず調子いいんだから。花道は一瞬きょとん、としていたが、笑う友人を見ては「ほう」とうなずくようにして、体育館へと歩き出した。
「なんだか楽しそうだな? 洋平」
「おい、待って……」
ところが、先を行こうとする花道たちを引き留めるように、そばにいたクラスメイトの男子が、不安そうな声を上げたので、真知子と洋平は立ち止まった。そういえば、彼らとはいったい何を話していたのだろう。
真知子はそんな思いで、隣の洋平のほうを見たが、彼はいつもの飄々としたようすで、カバンを脇に挟みポケットに両手を入れたまま、肩をすくめるだけだった。
「オレたちは関係ねーよ、それ。あいつをかかわらすな」
「行こうぜ、委員長」親指で先行く花道を指しながら彼らに伝えた洋平は、真知子に目配せすると、そう声をかけてきた。え、と真知子が戸惑っているあいだに、洋平は歩き始めてしまったので、慌てて彼の後を追う。
チラッと振り返ると、クラスメイトの男子たちは困惑したまま、どうしたものかと互いの顔を見合わせていた。真知子はそっと洋平に向き直って、歩きながら問うた。
「なんの話?」
「ん? なんかさっき、バイク乗った他校 の奴らを校門前で見かけたらしくてな。オレに『なんか心あたりねーか』ってさ」
「『心あたり』……それってつまり、他校の不良生徒がいたってこと?」
「なんじゃねぇ?」
彼はいつもの調子で答えたが、洋平たちが関係ないにしろ、只事ではない気がする。不良 と呼ばれている生徒たちの諍 いがよくわからない真知子にだって、他校との“抗争”だとか、“頭”だとかいう言葉を聞いたことがないわけではない。
「……それ、大丈夫なの?」真知子は少し顔を強張らせたが、洋平はやっぱりいつものように笑いかけてくるだけだった。
「まあね。本当にヤバいのがいたら、あぶなっかしーから──委員長のことも、図書室まで“お見送り”ってことで」
「な、なによう。子どもじゃないんだから……」
真知子が膨れてみせると、隣の洋平はこちらの顔を下から覗き込むようにしながら「アレッ? 委員長、照れてる?」といたずらっ子のように笑った。目が合った真知子は、慌てて片手でおさげをいじりながら、ふんっ、とそっぽを向いた。
「あなたが勝手に言いだしたの。お礼なんて言わないわっ」
「モチのロン。いらねーよ、オレのおせっかいだもんな」
わかってるよ、とでも言うように、洋平はまだ笑っていた。
そうは言っても彼のことだから……心配してくれたのはほんとう、なのかもしれない。そっぽを向いたまま、こっそり横目で洋平のほうを見ると、彼の視線は少し前を歩く花道へと注がれていた。
花道は部活に行くのがよっぽど楽しみなのか、謎の自作の歌を歌いながら、まっすぐに体育館へ向かって歩いている。背が高いから普通に歩くだけで、のっしのっし、と表現できるほどの迫力だった。
「桜木君はいつも元気ね」
「ああいうのは“単純バカ”っていうんだ」
ずいぶんな言いよう、とさすがの真知子も咎 めようとしたが、隣の洋平は前を歩く花道と同じように、なんだか楽しそうにしていた。
長年の友人の空気感とでもいうのだろうか、男子ならではというか、その雰囲気を真知子はなんだかほほ笑ましくもあり、ちょっぴり羨ましくも感じた──羨ましい? どうして? あたしは女子なんだし、彼らみたいな“不良”とは違うのだから、何とも思わなくていいはずなのに──
「……水戸君は、部活に入らないの?」
「んーオレはいいかな。バイトもあるし……きっと向いてねーっていうか」
「それに、委員長だって部活入ってないだろ? オレといっしょじゃん」一緒一緒、と洋平は真知子と自分を交互に指差しながら、にっと笑っている。
いつもなら、『授業をサボるようなあなたといっしょにしないで』と言い返しているところだが、今日はなんだかそうする気にならなくて、真知子は不思議な気持ちでうなずいた。
「……そうね」
「そうそう。委員長は? 部活に入らない理由でもあんの?」
「別に……あたしにとっての他人 との距離感がほしいだけ。それくらいのほうが気が楽だし」
「それに、勉強が好きなの」と付け足すと、洋平はうへぇ、と顔を歪 ませて苦笑いした。「委員長──まさかとは思ってたけど、ホントに“そんなやつ”いるんだな」
「さすが委員長」
「ちなみに、あ な た は不躾にあたしの対人距離に踏み込みすぎよ」
「それって、誰よりオレが真知子ちゃんに、とりわけ“お近づきに”なれてるってコト?」
「……どうしてそう前向きに捉えるの?」
なぜか嬉しそうに眉を上げる洋平を、呆れた目で見つめる。「あと真知子ちゃんはやめて」
なんて楽観的なのだろう。そして、よくもまあ飽きずにあたしのことをからかい続けられるなと、今度は呆れを通り越して感心してしまいそうになる。
……彼にとって、あたしは何なんだろう。“口うるさい委員長”というだけなのだとしたら、このあいだみたいに、わざわざ家まで送ったりはしない……と、思う。さっきの『お近づき』発言からしても、全くの冗談というわけでもなさそうだ。
ちょっとは好意的にとらえてもいいものかしら、と真知子はすこし前を歩く洋平の横顔を盗み見て、声を出さずにこっそり笑った。
「あっ、桜木君!」
やがて一行が体育館に着くと、入口あたりにバスケット部の練習を見学している女子生徒が数人見えて、その中の一人が花道に声をかけた。ミディアムヘアのよく似合う、ほんわかした可愛らしい雰囲気が印象的だった。
「今日も練習、がんばってね!」
「ハ、ハルコさん! ワハハ、この天才が来たからにはもう安心! 着替えてきます!」
「うふふ」
照れているようすの花道が頭を掻 きながら、体育館の向こう側へと走っていく──“ガールフレンド”、というよりは彼の“片思い”だろうか。桜木君ってわかりやすいのね、と思うと同時に、見た目が大きくてちょっと怖いだけで、水戸君の友達ってやっぱりそんなに悪い人じゃないのかも、と真知子は再度思っていると、隣にいた洋平が彼女に向かって片手を上げた。
「や、ハルコちゃん」
「洋平君! 今日は一人?」
「オレこのあとバイトだから。ついでにチョイと花道の冷やかし」
「やだもう」
洋平に『ハルコちゃん』と呼ばれた彼女は、口元に手を当てて、くすくすと笑っていた──そんな二人のやりとりを見て、真知子が放心していると、彼女のほうがこちらに気が付いた。
「あら、その子は?」
「ん? ああ、このコは真知子ちゃん。オレと花道のいる、七組の学級委員長」
「ハルコちゃんは、バスケ部のキャプテン・ゴリの妹で──」自然な流れで紹介する洋平の言葉は、真知子の耳から抜けていくようだった。軽いようすで『ハルコちゃん』って……しかも『洋平君』とも呼ばれているし。
なによ、女子に対しては誰にでもあ あ なのね。どうりであたしみたいな、イモくさい女にも声をかけるはずだわ……と、真知子は静かに納得してしまった。さっきまで一人でちょっぴり浮かれていたことが、恥ずかしくて、情けなくて、自分がばかみたいだ。そう気付いた瞬間、カァッと顔が熱くなった。
洋平が話し終えると、真知子の目の前に立った彼女は、天使のようににっこりとほほ笑んだ。「赤木晴子です。ヨロシク」すると晴子は、両手を胸の前で合わせ、そのぱっちりした目をきらきらとさせてこちらに話しかけてきた。
「真知子さんも、バスケットに興味があるの?」
何を勘違いされてしまったのか知らないが、晴子はそんなことを言って真知子もたじろいでしまうほど、ぐいぐいと迫ってくる。
「もし興味があるなら、今度みんなで県大会の応援に行かない? 実際に試合を観たら、きっともっと面白いと思うの!」
「あ、あたしはただ……」
水戸君に連れて来られて、と言い訳する隙も与えてくれない。第一印象は大人しそうに見えたのに、よっぽど彼女はバスケットが好きなのか、それはいつものことなのか、彼女の隣にいた女子生徒が「もう晴子……真知子さん、困っちゃってるよ」と苦笑いして止めている。
「と、図書室で勉強したいだけなのっ。じゃあね、赤木さん」
彼女には悪いと思いながらも、真知子は図書室のほうへ足を速めた。その瞬間、「あっ」と声を上げたのは洋平だった。
「待てよ、委員長。オレも図書室まで行くって」
「子どもじゃないってば。一人で平気」
後ろから彼がついてくる気配を感じても、真知子は冷たい声で突き放し、勢いそのままにスタスタと歩く。洋平は次に、トーンを上げて、いつもの調子の良い声色でまたからかうように言った。「待ってよ、真知子ちゃん。いっしょに行こうぜ」今度は無視した。苛立ちが募る。そうよ、彼にとってあたしは、た だ の クラスメイトのはずだから──
「真知子ちゃんってば」
「……っ、ほっといてよ!!」
バッ、と立ち止まり振り返って、そんなことを叫んだ真知子に、寸前までしつこかった洋平も、ビックリして目を丸くしていた。彼の背後の向こうにいる晴子たちも、その声に気付いたのか、振り向いてこちらを見ていた。先ほどの二人のやりとりが思い出される。彼女は、同じ女子の自分から見ても、とても可愛らしい子だった。地味でイモくさい女とは、比べものにならないほど──って、他人と比べたって仕方がないのに。なに考えてるんだろう。
ばっかみたい。そんな考えに取りつかれて、自分が自分じゃないような感覚がして、真知子は苛立ちも振り払うように歩き出した。もう、洋平が追いかけてくる気配はなかった。
とにかく彼から離れたくて、無心で歩いていた真知子のそばを、黒い人だかりが横切ったのは、ほどなくしてだった。
えっ、と真知子は肝を冷やした。黒く見えたのは学ランを着ていた男子生徒たちで、見るからにおっかなそうな風貌をしている。5人、いや、10人くらいにも見えた。それくらいの物々しい雰囲気があった。
一瞬、その中にいた髪の長い男子と目が合い──振り向いては、関わってはいけない──直感した真知子は、慌てて身を固くし、息を止めて真っ直ぐに歩いた。すれ違いざま、彼らが自分について話しているように聞こえたが、それも無視した。
「なんだあ? いまの女 」「けっこう可愛かったなァ」「ハァ~? お前目ぇついてんのか、イモくせぇ眼鏡だったぞ」「いや、顔は可愛かったって」「ウソつけ」
彼らの声が完全に聞こえなくなったところで、ようやく息を吐いて、真知子は足を止めた。冷や汗が頬を伝った。今の人たちって……さっきクラスの男子が言ってた、他校の不良生徒?
小さく振り向くと、校舎の向こうに体育館の壁が見える。彼らが向かった先には、その体育館しかない。あんな人たちが、体育館に用事ってなに? 嫌な予感がした。
「水戸君、大丈夫かな……」
つぶやいてから、真知子はハッとした。別に、あたしが心配する義理はないじゃない。不良だとかケンカだとか、自分には関係のない世界だ。勉強のほうがよっぽど大事。
真知子は、体育館のほうへ向いていたつま先でごまかすように地面を擦ると、当初の目的を思い出したように、一人図書室へ足を運んだ。
─────────────────────────
すっかり遅くなっちまったな……。
職員室のある校舎を出たところで、さすがの洋平も固まった肩をほぐすようにしてため息をついた。バスケ部と花道を庇 うためとはいえ、今の今まで職員室で教員たちにこってり絞られてしまっていた。
その上、謹慎──まあ、それは中学のときにも経験済みだから、大したことでもないのだが。『正義の味方』なんて、慣れないことはするもんじゃないな、と内心苦笑いする。
ケガの酷かった野間や花道たちの見舞いも済ませ、彼らに断って洋平は図書室のある校舎へと足を向けていた。
喧嘩は大したことない。謹慎も怖くない。ただ、そんな洋平にも一つだけ気がかりがあった。さっき体育館で別れた彼 女 は、なんだかようすが変だった。
すっかり空は暗くなっていて、部活帰りの生徒も見当たらない。図書室も閉まる頃だろうが、彼女のことだから終わりまでいるはず、と歩き続けていたら、思ったとおり見覚えのあるおさげ髪を見つけた。
洋平が「おーい!」と手を上げながら軽やかに駆け寄ると、真知子はこちらを向いて目を見開いた。思ったとおり驚いた顔をする彼女を見て、すこしほっとした。
「よかった、やっぱ委員長、まだいたんだ」
「み、水戸君? 今日はアルバイトだったんじゃ……」
そこまで言った真知子が、ひゅっ、と息をのむ音が聞こえた。彼女はこちらの顔を見上げて、固まっていた。
「…………血?」
「え?」
彼女の口から漏れた言葉に少々思案したあと、その視線に気付いた洋平は、指先で自分の口元に触 れた。とっくに痛みは引いていたので、傷のことなんて忘れていた。
「あ……ああ。ちょっと油断したときに、殴られただけ」
「殴られただ け 、って……」
真知子はあんぐりと開けた口を片手で押さえて、呆然としていた。あの大男から一発と、三井という男から一発。しっかり殴られたのは久しぶりだった。入学してからガチの喧嘩してなかったから、ニブったかな。「びっくりさせてごめんな」
「真知子ちゃん?」
いつもならこ こ で反応があるのに、真知子は言い返すどころか、よく見ると青ざめた表情で、小さく震えていた。怖がられているのがわかって、洋平もしどろもどろになってしまった。
「え……そんなにショッキングだった? へーきへーき、こんなのかすり傷だって」
「ほらっ、オレ、ピンピンしてる」両手を意味もなくブンブンと真知子の目の前で大きく振るようにしてみせても、彼女の表情は大して変わらなかった。
「ただ、ちょーっといろいろ揉めちゃって。さっきまで先公 たちに捕まっててさ。3日間謹慎処分になっちゃった」
「は……えぇ!? 謹慎って……そんな軽い調子で言うことじゃ……」
真知子の顔がみるみる曇っていくので、洋平もなんと言っていいかわからなくなってしまった。自分にとって大したことがないのは、本当だったから。
「詳しくはなんとも……ああ、ハ ル コ ち ゃ ん に聞いたら教えてくれるカモ」
部外者の自分の口から、バスケ部の内部事情を言うのは気が引けて、そんなことを口走った。すると、真知子は目線を落として、なんだか気まずそうにしていた。
「……それで? 謹慎を言いつけられたのに、水戸君は何しにココへ来たの?」
「いや、そんなカンジで殴りかかってくるようなヤバい連中が来てたからさ。物騒だから、委員長を家まで送っていこうかと」
「結構よ。だいたい、無断でアルバイトを休んだら大変なんじゃない?」
「だな〜、まあウチの店長ハナシ通じるから、大丈夫だと信じたいね」
“ヤンチャ”している自分にも理解のある店長だが、実際話をしてみるまではわからないな、と思って肩をすくめて笑う。それでも真知子の顔は冴えなかった。
「真知子ちゃん?」彼女の顔を覗き込んでみても、黙ったまま。言い返したり、呆れて文句を言うこともない。体育館での言動といい、やっぱりようすがおかしかった。何がきっかけだったか思い出そうとする。あのときは確か、花道が着替えにいなくなって、ハルコちゃんと話してて、それで……
「ねぇ、マジで心配だから。送らせて?」
心配なのは本心だった。どうすれば伝わるんだろう、とさっき殴られて切れた下唇を噛んでいると、すこし頭をもたげた真知子は、なんだか泣きそうな顔でいた。女のコのそういう顔を見るのは、無条件に胸が痛んだ。洋平が何も言えずにいると、真知子のほうが先に口を開いた。「水戸君にとって、あたしは……」
「おい、そこで何してるんだ、校舎は閉めたぞ」
その声に、二人してハッと顔を向けると、そこには洋平たちの学年主任が立っていた。真知子は慌てて姿勢を正すように両手でカバンを持ち直し、男性教師に向き直った。「せ、先生」
真知子と洋平を順に見た教師は、「水戸……」と不愉快そうな顔で洋平を睨んだ。先ほど謹慎処分を受けた一連の出来事は、すでにほかの教師たちにも伝わっているだろうと察した。
「もう済んだんだろう? とっとと帰れ」
「うす」
「花岡は? 一人か?」
教師にそう聞かれ、真知子はこちらをちらりと一瞥してから、洋平とのやりとりなんてなかったかのように、こくんとうなずいていた。「はい」
「ならもう遅いから、先生が車で送ろう。職員室の電話を貸すから、親御さんに連絡しなさい」
「わかりました。よろしくお願いします」
真知子は教師に頭を下げると、職員室へ向かう彼の後ろへついていくようにした。あ、待って、と引き留めるようなことを言ったところで、今の彼女には響かないという確信もあった。
「委員長」
振り返ってほしくて、そ う 呼んだ。先行く教師を気にしながらも、真知子は立ち止まってこちらを見た。また明日──と言いかけて、謹慎になったことを思い出して、喉が詰まった。
「また、な」
ぎこちなく笑って言ってみたら、真知子は唇をすこしまばたきさせて、でも何も言わず、静かに去っていった。いつもみたいに言い返されるより、何も言ってくれないほうが、洋平にはこ た え た 。
やっぱり不良だなんて乱暴だとか、野蛮だとか、彼女に軽蔑されたのかもしれない。無理もない。真面目で模範的な生徒の彼女に、理解してほしいなんて場違いなことを言うつもりもない。
わかっていたはずなのに、なんだか虚 しかった。喧嘩してケガを負った自分を見る彼女の目も。男女の違いがあるとはいえ、同じ学年の生徒とは思えない教師の対応も。いつもなら気にならないはずなのに、やけに胸に鈍く刺さった。
彼女はやっぱり、オレとは住む世界が違うのかもしれない。わかっていたはずだったのに──
独りになった洋平は、再びため息をついて、とぼとぼと帰路についた。痛みはとっくに引いたと思っていたのに、殴られた傷が今さら沁みてきて、こっそり顔をしかめたあと切れた唇を舐めると、ほんのりしょっぱい鉄の味がした。
(『仲良くなったと思ってたのは自分だけ』と、お互いに思ってる二人。)
放課後になって、教室を出ようとしたところで、真知子はそんな声に呼び止められた。その声の主には覚えがあって、苦い顔をしながらそちらを振り向くと、思ったとおり廊下には水戸洋平が立っている。
ただしよく見ると、そばには彼の友人である桜木花道や、クラスのほかの男子たちもいた。何事かと、真知子はカバンを体の前で両手で持つようにしながら、おそるおそる近付いた。
「……なあに、水戸
「花道の
「は、はぁ?」
彼を指さす洋平に向かって、なんで、と言い返そうとしたところで、今度は花道がこちらを指さしてきた。
この距離で彼と話そうと思うと、真知子はその場で見上げなければいけなかった。真っ赤なリーゼントに、すこし息を飲む。相変わらず派手な出で立ちで、地味だという自覚のある真知子とは、無縁の生徒のように思えた。
「おお、オレらのクラスの学級委員長の……えーと、」
「花岡真知子」
「真知子ちゃんね」
「真知子ちゃんって呼ばないで」
笑顔で余計な補足を入れる洋平に、間髪を入れずじろりと視線でもたしなめると、花道はこちらに向けていた指を顎にやって、何やら考えるようなしぐさでうなずいていた。
「花岡サン……
「お、お友達って……べつに、
「こういう、つれねートコがいいだろ?」
そう言ってニヤリと笑う洋平を、やはり真知子は
「なんだか楽しそうだな? 洋平」
「おい、待って……」
ところが、先を行こうとする花道たちを引き留めるように、そばにいたクラスメイトの男子が、不安そうな声を上げたので、真知子と洋平は立ち止まった。そういえば、彼らとはいったい何を話していたのだろう。
真知子はそんな思いで、隣の洋平のほうを見たが、彼はいつもの飄々としたようすで、カバンを脇に挟みポケットに両手を入れたまま、肩をすくめるだけだった。
「オレたちは関係ねーよ、それ。あいつをかかわらすな」
「行こうぜ、委員長」親指で先行く花道を指しながら彼らに伝えた洋平は、真知子に目配せすると、そう声をかけてきた。え、と真知子が戸惑っているあいだに、洋平は歩き始めてしまったので、慌てて彼の後を追う。
チラッと振り返ると、クラスメイトの男子たちは困惑したまま、どうしたものかと互いの顔を見合わせていた。真知子はそっと洋平に向き直って、歩きながら問うた。
「なんの話?」
「ん? なんかさっき、バイク乗った
「『心あたり』……それってつまり、他校の不良生徒がいたってこと?」
「なんじゃねぇ?」
彼はいつもの調子で答えたが、洋平たちが関係ないにしろ、只事ではない気がする。
「……それ、大丈夫なの?」真知子は少し顔を強張らせたが、洋平はやっぱりいつものように笑いかけてくるだけだった。
「まあね。本当にヤバいのがいたら、あぶなっかしーから──委員長のことも、図書室まで“お見送り”ってことで」
「な、なによう。子どもじゃないんだから……」
真知子が膨れてみせると、隣の洋平はこちらの顔を下から覗き込むようにしながら「アレッ? 委員長、照れてる?」といたずらっ子のように笑った。目が合った真知子は、慌てて片手でおさげをいじりながら、ふんっ、とそっぽを向いた。
「あなたが勝手に言いだしたの。お礼なんて言わないわっ」
「モチのロン。いらねーよ、オレのおせっかいだもんな」
わかってるよ、とでも言うように、洋平はまだ笑っていた。
そうは言っても彼のことだから……心配してくれたのはほんとう、なのかもしれない。そっぽを向いたまま、こっそり横目で洋平のほうを見ると、彼の視線は少し前を歩く花道へと注がれていた。
花道は部活に行くのがよっぽど楽しみなのか、謎の自作の歌を歌いながら、まっすぐに体育館へ向かって歩いている。背が高いから普通に歩くだけで、のっしのっし、と表現できるほどの迫力だった。
「桜木君はいつも元気ね」
「ああいうのは“単純バカ”っていうんだ」
ずいぶんな言いよう、とさすがの真知子も
長年の友人の空気感とでもいうのだろうか、男子ならではというか、その雰囲気を真知子はなんだかほほ笑ましくもあり、ちょっぴり羨ましくも感じた──羨ましい? どうして? あたしは女子なんだし、彼らみたいな“不良”とは違うのだから、何とも思わなくていいはずなのに──
「……水戸君は、部活に入らないの?」
「んーオレはいいかな。バイトもあるし……きっと向いてねーっていうか」
「それに、委員長だって部活入ってないだろ? オレといっしょじゃん」一緒一緒、と洋平は真知子と自分を交互に指差しながら、にっと笑っている。
いつもなら、『授業をサボるようなあなたといっしょにしないで』と言い返しているところだが、今日はなんだかそうする気にならなくて、真知子は不思議な気持ちでうなずいた。
「……そうね」
「そうそう。委員長は? 部活に入らない理由でもあんの?」
「別に……あたしにとっての
「それに、勉強が好きなの」と付け足すと、洋平はうへぇ、と顔を
「さすが委員長」
「ちなみに、
「それって、誰よりオレが真知子ちゃんに、とりわけ“お近づきに”なれてるってコト?」
「……どうしてそう前向きに捉えるの?」
なぜか嬉しそうに眉を上げる洋平を、呆れた目で見つめる。「あと真知子ちゃんはやめて」
なんて楽観的なのだろう。そして、よくもまあ飽きずにあたしのことをからかい続けられるなと、今度は呆れを通り越して感心してしまいそうになる。
……彼にとって、あたしは何なんだろう。“口うるさい委員長”というだけなのだとしたら、このあいだみたいに、わざわざ家まで送ったりはしない……と、思う。さっきの『お近づき』発言からしても、全くの冗談というわけでもなさそうだ。
ちょっとは好意的にとらえてもいいものかしら、と真知子はすこし前を歩く洋平の横顔を盗み見て、声を出さずにこっそり笑った。
「あっ、桜木君!」
やがて一行が体育館に着くと、入口あたりにバスケット部の練習を見学している女子生徒が数人見えて、その中の一人が花道に声をかけた。ミディアムヘアのよく似合う、ほんわかした可愛らしい雰囲気が印象的だった。
「今日も練習、がんばってね!」
「ハ、ハルコさん! ワハハ、この天才が来たからにはもう安心! 着替えてきます!」
「うふふ」
照れているようすの花道が頭を
「や、ハルコちゃん」
「洋平君! 今日は一人?」
「オレこのあとバイトだから。ついでにチョイと花道の冷やかし」
「やだもう」
洋平に『ハルコちゃん』と呼ばれた彼女は、口元に手を当てて、くすくすと笑っていた──そんな二人のやりとりを見て、真知子が放心していると、彼女のほうがこちらに気が付いた。
「あら、その子は?」
「ん? ああ、このコは真知子ちゃん。オレと花道のいる、七組の学級委員長」
「ハルコちゃんは、バスケ部のキャプテン・ゴリの妹で──」自然な流れで紹介する洋平の言葉は、真知子の耳から抜けていくようだった。軽いようすで『ハルコちゃん』って……しかも『洋平君』とも呼ばれているし。
なによ、女子に対しては誰にでも
洋平が話し終えると、真知子の目の前に立った彼女は、天使のようににっこりとほほ笑んだ。「赤木晴子です。ヨロシク」すると晴子は、両手を胸の前で合わせ、そのぱっちりした目をきらきらとさせてこちらに話しかけてきた。
「真知子さんも、バスケットに興味があるの?」
何を勘違いされてしまったのか知らないが、晴子はそんなことを言って真知子もたじろいでしまうほど、ぐいぐいと迫ってくる。
「もし興味があるなら、今度みんなで県大会の応援に行かない? 実際に試合を観たら、きっともっと面白いと思うの!」
「あ、あたしはただ……」
水戸君に連れて来られて、と言い訳する隙も与えてくれない。第一印象は大人しそうに見えたのに、よっぽど彼女はバスケットが好きなのか、それはいつものことなのか、彼女の隣にいた女子生徒が「もう晴子……真知子さん、困っちゃってるよ」と苦笑いして止めている。
「と、図書室で勉強したいだけなのっ。じゃあね、赤木さん」
彼女には悪いと思いながらも、真知子は図書室のほうへ足を速めた。その瞬間、「あっ」と声を上げたのは洋平だった。
「待てよ、委員長。オレも図書室まで行くって」
「子どもじゃないってば。一人で平気」
後ろから彼がついてくる気配を感じても、真知子は冷たい声で突き放し、勢いそのままにスタスタと歩く。洋平は次に、トーンを上げて、いつもの調子の良い声色でまたからかうように言った。「待ってよ、真知子ちゃん。いっしょに行こうぜ」今度は無視した。苛立ちが募る。そうよ、彼にとってあたしは、
「真知子ちゃんってば」
「……っ、ほっといてよ!!」
バッ、と立ち止まり振り返って、そんなことを叫んだ真知子に、寸前までしつこかった洋平も、ビックリして目を丸くしていた。彼の背後の向こうにいる晴子たちも、その声に気付いたのか、振り向いてこちらを見ていた。先ほどの二人のやりとりが思い出される。彼女は、同じ女子の自分から見ても、とても可愛らしい子だった。地味でイモくさい女とは、比べものにならないほど──って、他人と比べたって仕方がないのに。なに考えてるんだろう。
ばっかみたい。そんな考えに取りつかれて、自分が自分じゃないような感覚がして、真知子は苛立ちも振り払うように歩き出した。もう、洋平が追いかけてくる気配はなかった。
とにかく彼から離れたくて、無心で歩いていた真知子のそばを、黒い人だかりが横切ったのは、ほどなくしてだった。
えっ、と真知子は肝を冷やした。黒く見えたのは学ランを着ていた男子生徒たちで、見るからにおっかなそうな風貌をしている。5人、いや、10人くらいにも見えた。それくらいの物々しい雰囲気があった。
一瞬、その中にいた髪の長い男子と目が合い──振り向いては、関わってはいけない──直感した真知子は、慌てて身を固くし、息を止めて真っ直ぐに歩いた。すれ違いざま、彼らが自分について話しているように聞こえたが、それも無視した。
「なんだあ? いまの
彼らの声が完全に聞こえなくなったところで、ようやく息を吐いて、真知子は足を止めた。冷や汗が頬を伝った。今の人たちって……さっきクラスの男子が言ってた、他校の不良生徒?
小さく振り向くと、校舎の向こうに体育館の壁が見える。彼らが向かった先には、その体育館しかない。あんな人たちが、体育館に用事ってなに? 嫌な予感がした。
「水戸君、大丈夫かな……」
つぶやいてから、真知子はハッとした。別に、あたしが心配する義理はないじゃない。不良だとかケンカだとか、自分には関係のない世界だ。勉強のほうがよっぽど大事。
真知子は、体育館のほうへ向いていたつま先でごまかすように地面を擦ると、当初の目的を思い出したように、一人図書室へ足を運んだ。
─────────────────────────
すっかり遅くなっちまったな……。
職員室のある校舎を出たところで、さすがの洋平も固まった肩をほぐすようにしてため息をついた。バスケ部と花道を
その上、謹慎──まあ、それは中学のときにも経験済みだから、大したことでもないのだが。『正義の味方』なんて、慣れないことはするもんじゃないな、と内心苦笑いする。
ケガの酷かった野間や花道たちの見舞いも済ませ、彼らに断って洋平は図書室のある校舎へと足を向けていた。
喧嘩は大したことない。謹慎も怖くない。ただ、そんな洋平にも一つだけ気がかりがあった。さっき体育館で別れた
すっかり空は暗くなっていて、部活帰りの生徒も見当たらない。図書室も閉まる頃だろうが、彼女のことだから終わりまでいるはず、と歩き続けていたら、思ったとおり見覚えのあるおさげ髪を見つけた。
洋平が「おーい!」と手を上げながら軽やかに駆け寄ると、真知子はこちらを向いて目を見開いた。思ったとおり驚いた顔をする彼女を見て、すこしほっとした。
「よかった、やっぱ委員長、まだいたんだ」
「み、水戸君? 今日はアルバイトだったんじゃ……」
そこまで言った真知子が、ひゅっ、と息をのむ音が聞こえた。彼女はこちらの顔を見上げて、固まっていた。
「…………血?」
「え?」
彼女の口から漏れた言葉に少々思案したあと、その視線に気付いた洋平は、指先で自分の口元に
「あ……ああ。ちょっと油断したときに、殴られただけ」
「殴られた
真知子はあんぐりと開けた口を片手で押さえて、呆然としていた。あの大男から一発と、三井という男から一発。しっかり殴られたのは久しぶりだった。入学してからガチの喧嘩してなかったから、ニブったかな。「びっくりさせてごめんな」
「真知子ちゃん?」
いつもなら
「え……そんなにショッキングだった? へーきへーき、こんなのかすり傷だって」
「ほらっ、オレ、ピンピンしてる」両手を意味もなくブンブンと真知子の目の前で大きく振るようにしてみせても、彼女の表情は大して変わらなかった。
「ただ、ちょーっといろいろ揉めちゃって。さっきまで
「は……えぇ!? 謹慎って……そんな軽い調子で言うことじゃ……」
真知子の顔がみるみる曇っていくので、洋平もなんと言っていいかわからなくなってしまった。自分にとって大したことがないのは、本当だったから。
「詳しくはなんとも……ああ、
部外者の自分の口から、バスケ部の内部事情を言うのは気が引けて、そんなことを口走った。すると、真知子は目線を落として、なんだか気まずそうにしていた。
「……それで? 謹慎を言いつけられたのに、水戸君は何しにココへ来たの?」
「いや、そんなカンジで殴りかかってくるようなヤバい連中が来てたからさ。物騒だから、委員長を家まで送っていこうかと」
「結構よ。だいたい、無断でアルバイトを休んだら大変なんじゃない?」
「だな〜、まあウチの店長ハナシ通じるから、大丈夫だと信じたいね」
“ヤンチャ”している自分にも理解のある店長だが、実際話をしてみるまではわからないな、と思って肩をすくめて笑う。それでも真知子の顔は冴えなかった。
「真知子ちゃん?」彼女の顔を覗き込んでみても、黙ったまま。言い返したり、呆れて文句を言うこともない。体育館での言動といい、やっぱりようすがおかしかった。何がきっかけだったか思い出そうとする。あのときは確か、花道が着替えにいなくなって、ハルコちゃんと話してて、それで……
「ねぇ、マジで心配だから。送らせて?」
心配なのは本心だった。どうすれば伝わるんだろう、とさっき殴られて切れた下唇を噛んでいると、すこし頭をもたげた真知子は、なんだか泣きそうな顔でいた。女のコのそういう顔を見るのは、無条件に胸が痛んだ。洋平が何も言えずにいると、真知子のほうが先に口を開いた。「水戸君にとって、あたしは……」
「おい、そこで何してるんだ、校舎は閉めたぞ」
その声に、二人してハッと顔を向けると、そこには洋平たちの学年主任が立っていた。真知子は慌てて姿勢を正すように両手でカバンを持ち直し、男性教師に向き直った。「せ、先生」
真知子と洋平を順に見た教師は、「水戸……」と不愉快そうな顔で洋平を睨んだ。先ほど謹慎処分を受けた一連の出来事は、すでにほかの教師たちにも伝わっているだろうと察した。
「もう済んだんだろう? とっとと帰れ」
「うす」
「花岡は? 一人か?」
教師にそう聞かれ、真知子はこちらをちらりと一瞥してから、洋平とのやりとりなんてなかったかのように、こくんとうなずいていた。「はい」
「ならもう遅いから、先生が車で送ろう。職員室の電話を貸すから、親御さんに連絡しなさい」
「わかりました。よろしくお願いします」
真知子は教師に頭を下げると、職員室へ向かう彼の後ろへついていくようにした。あ、待って、と引き留めるようなことを言ったところで、今の彼女には響かないという確信もあった。
「委員長」
振り返ってほしくて、
「また、な」
ぎこちなく笑って言ってみたら、真知子は唇をすこしまばたきさせて、でも何も言わず、静かに去っていった。いつもみたいに言い返されるより、何も言ってくれないほうが、洋平には
やっぱり不良だなんて乱暴だとか、野蛮だとか、彼女に軽蔑されたのかもしれない。無理もない。真面目で模範的な生徒の彼女に、理解してほしいなんて場違いなことを言うつもりもない。
わかっていたはずなのに、なんだか
彼女はやっぱり、オレとは住む世界が違うのかもしれない。わかっていたはずだったのに──
独りになった洋平は、再びため息をついて、とぼとぼと帰路についた。痛みはとっくに引いたと思っていたのに、殴られた傷が今さら沁みてきて、こっそり顔をしかめたあと切れた唇を舐めると、ほんのりしょっぱい鉄の味がした。
(『仲良くなったと思ってたのは自分だけ』と、お互いに思ってる二人。)
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