はじまりさえ歌えない
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「「「ルカワくーーーん!!」」」
静かにしてほしい……。
真知子はハァ、とため息を吐いて、黄色い声のした窓ガラスの向こう側を力なく見た。体育館の方角から聞こえる。入り口の扉のあたりに女子生徒が何人か見えるので、どうやら彼女たちが原因らしい。
月曜日の放課後の図書室は、本来閑散としていて、受付の図書委員と、受験勉強をしている3年生──上級生らしき制服や鞄の使い込まれ方をしている──が、離れた席でぽつり、ぽつりと腰掛けているくらいだ。真知子も予備校のない日は、必ずここで課題に取り組み、授業の予習・復習を欠かさない。
しかし、この図書室が校舎の1階で、体育館の近くという環境は変えようがない。先ほどの女子生徒たちの言う『ルカワくん』は、どうやらバスケットボール部らしく、体育館での練習風景を見にきているといったところだろう。
「流川の取り巻きの声、こっからでも聞こえるんだな」
「すげーパワー」真知子が窓の向こうの体育館に目をやっていると、突然そんな笑い声がすぐそばで聞こえて、思わずバッ、と勢いよく振り向いた。この声、まさか──
「よっ、委員長」
「みっ……!」
机を挟んで真知子の正面に立っていたのは、軽く片手を上げてへらりと笑う、クラスメイトの水戸洋平だった。驚いて声を上げそうになって、なんとか踏みとどまる。図書室で大声を出すわけにはいかない。軽く握った手を口元にやって、「んんっ」と喉を鳴らし、姿勢を正して座りなおした。
「なにしに来たの?図書室 は勉強するか本を読むところよ。あ な た に用はないでしょう?」
洋平に聞こえる程度の小声で、ただし『あなた』の部分を強調しながらあえてイヤミっぽく言ってみせる。眼鏡を上げながら、真知子がジト目で見上げてみても、彼は相変わらず軽い調子で笑うだけだった。
「いやいや、オレだってたまには本も読むぜ?」言いながらそのまま自然と、正面の席の椅子を引いて腰掛けている。……なんで彼は、用のない図書室に来てまで、いちいちあたしに絡んでくるんだろう。意味がわからない。
「……水戸君 ってば、今日はずいぶんと暇 なのね? ということは、ア ル バ イ ト はお休み?」
教科書をめくりながら、目も合わせずにちくちくとイヤミを続けてみる。しかし効果がないのか、彼は頬杖をついて歯を見せながら、ニヤリとふざけたことを言ってのけた。
「つれないこと言うなよ〜真知子ちゃん?」
「なっ……!」
真面目で勉強が得意。それだけが取り柄で生きてきた自分の、他人からの呼び名は決まって『花岡さん』だ。そんな呼び方をするのは家族や幼い頃からの友人くらいのもので、高校のクラスメイトの、それも男子の口から飛び出してきた事実に、真知子は一瞬言葉を失った。
「きっ、気安くそんな呼び方しないで!」
バンッ、とつい勢いよく机に手をついて立ち上がり、声を張り上げてしまった。さすがの洋平も、小さく目を見開いて驚いている。そこで真知子が、ハッとして周りを見渡すと、『静かにしろ』と言わんばかりに、他の利用者たちから鋭い視線を向けられていた。
「す、すみません」とっさに頭を下げ、大人しく席につく。やだもう恥ずかしい……それもこれも、余計なことを言ってくる水戸君のせいだ……!
顔が赤くなっているのを自覚しながら、真知子は目の前に平然と鎮座する洋平を睨 みつけてみたが、彼はただ頬杖をついたまま肩をすくめただけだった。
「なんでよ、カワイイ名前なのに」
「あ……あなたいったい何がしたいのよ? ジャマしたいだけなら帰ってちょうだいっ」
再び声を潜めて、それでも洋平は気にも留めないようすで、「まあまあ」と気を紛らすように、真知子が広げていたノートを勝手に取り上げ、パラパラとページを繰った。「さすが委員長、字ぃキレーだな」
「……あたし、水戸君という人が分からないわ」
「そう? オレはオレのやりたいようにやってるつもりだけど」
「“サボり”とかね」と、ノートを手放して冗談ぽく笑う。あたしが毎回サボりを注意するから、当てつけのつもりで言ったのだろうか。でも、それにしてはなんだか思ってもないことを言っている気がしてならないから、彼が分 か ら な い のだ。
「いいえ、そう思ってるのはあたしだけじゃないはずよ? あなたの“妙なウワサ”は絶えないしね」
「たとえば?」
真知子は大判の参考書を立てて両手で持つことで、洋平との間に仕切りを作るようにしながら、それを読むフリをして目も合わせずに淡々と述べてみせた。
「──“桜木軍団”とは名ばかりで、実は一番強くてひそかに和光中を取り仕切ってた“裏番長”だとか。学校外で強面のおっかなそうな大人とやりとりしてるのを見ただとか」
そこで一度言葉を区切って、ちらりと目線だけ参考書の向こう側の、彼の顔に向けた。
「……ハンサムな顔で女子をたぶらかしてるス ケ コ マ シ だとか」
「スケコマシって」
ププ!、とその言葉が可笑 しかったのか、洋平は前のめりになって吹き出した。また周りからの視線を感じたので、小声で文句を言う。「ちょっと。声のトーン落としてっ」「だって真知子ちゃんが笑わせるから」「その呼び方もやめてっ」
「だいたい、“強い”って何 を基準に言うかねぇ」と、洋平は“ウワサ”たちに苦笑いして鼻を掻 きながら言った。
「あと学校外って、それたぶんバイト先だろ? フツーの古着屋だよ。革ジャンとかジーンズとか、ビンテージも扱ってるような店」
「確かにお客には、イカちい恰好 の男もいるかもな」
「古着屋さん……駅前の商店街の?」
「そそ。近くにパチ屋のあるとこ」
その店なら、同じ商店街に並んでいる本屋へ真知子もよく訪れるので、覚えがある。確かに、店先はいつも革の匂いを漂わせていて、男性が好みそうな商品が多く置いてある印象だ。彼、あそこで働いてたのね。私服もそういう雰囲気なのかしら。髪型には合いそうだけれど。
「ていうか委員長、オレのことハンサムだと思ってくれてたの?」
「嬉しいこと言ってくれるね」そう調子づくと、洋平はニッと笑って眉を上げた──以前、眼鏡を取られたときに至近距離で見た彼の顔を『ちょっと格好いい』と思ってしまったことは、言うべきではないと悟った──ので、真知子は片手で三つ編みをいじりながら、慌ててごまかした。
「あ、あたしじゃないわ。周りの女子が言ってたのを聞いたの」
「なーんだ」
「……そんなことより、それが本当だとしたら、同じ女子として聞き捨てならないけれど」
「委員長はそのウワサ、信じてるの?」
ふとそんなことを聞かれたので、前のウワサも含めて、仕返しのつもりで真知子はしれっと答えた。「“火のないところに煙は立たぬ”っていう言葉、ご存じ?」「おっと」
「……でも、あたしは自分の目できちんと見たものを信じるわ」
しかし、真知子は自分で発言したことを、そのあとすぐにそう否定した。彼は確かに軽薄そうに見える瞬間もあるが、正直そこまで“軟派”という感じでもない。それに、そのウワサが本当なら、こんなところであたしみたいなイモくさい女にちょっかいかけないだろうし、と内心呆れてやれやれと肩を落とす。
すると、洋平はどこか嬉しそうに、頬杖をついた手で覆った口元を、やさしく綻ばせた。
「オレ、委員長のそ う い う ところ、好きだなあ」
──かと思うと、またニッと笑って、わざわざ言い直した。
「あ、真知子ちゃんの」
「……あたしは水戸君のそ う い う ところ、ちょっぴりキライ」
「ハハッ、やっぱつれねーの」
前言撤回だろうか、やはり軽い様子だ。真知子はちょっと苦い顔のまま、机の上の状況に目をやった。彼が図書室へ来てから、勉強はちっとも進んでいない。「全然集中できないわ……」
「まったくもうっ」諦めてその場で立ち上がり、広げたノートや参考書を閉じて、隣の椅子の上に置いていた鞄の中へ入れていく。それを目の当たりにした洋平は、えっ、と真知子の顔を見上げた。
「帰んの?」
「あなたがいたら勉強に身が入らないの。仕方ないから家に帰ってやるわ」
片付けを済ませ、座っていた椅子を元の位置に戻し、さっさと図書室を後にした。引き戸の扉を開けると、ガラガラと音を立てるので、出るときも静かに閉める。
ところが、廊下を10メートルほど歩いた時点で、背後からガラガラッ、と再び扉が鳴った。まさかとは思っていたが、つ い て き た らしい。うんざりして足を早めたが、背後の足音はあっさり追いついてくる。校舎を出て、渡り廊下にさしかかったところで、追いかけてきた人物が声を上げた。
「待ってよ、真知子ちゃん」
「っ……! だから、真知子ちゃんって呼ぶのはやめてって言っ、て……」
すかさず真知子がおさげを振り乱す勢いで、足を止めて振り返ると、おぉ、と少し気圧されて一緒になって立ち止まり、軽く目を見張る洋平──と、さらに彼の背後に、体育館の方から歩いてくる見覚えのある男子生徒三人が、二人の声に気付いてこちらを向いた。
「おっ、洋平」
「と、イ イ ン チ ョ ー 」
「イインチョーだ」
通称・桜木軍団と呼ばれている彼らは、そんなことを言いながらわらわらとこちらへやってきた。比較的体の大きい男子がいきなり三人も近付いてきたので、真知子は驚いて、隣でそちらを振り向く洋平の後ろに隠れるようにした。「な、なんなの、あなたたち」
三人は洋平と真知子を交互に見るようにしたかと思うと、顔を見合わせてニヤニヤしだした。
「洋平、いっしょに花道のヒヤカシしてたと思ったら、いつのまにか一人で抜け出して……」
「そういうことだったのか〜」
「相変わらずイインチョーがお 気 に 入 り だな」
そんなことを言われ、戸惑う真知子はそっと洋平の顔を見上げて、彼の顔色をうかがってみた。すると、パチッと互いに目が合ってしまった。真知子が慌てて足元に視線を落とすと、意外と綺麗な彼のローファーが目に入った。
「お前らのせいでカッコつかねーじゃん」真知子の頭の上で聞こえた洋平の台詞は、彼らの言葉を肯定しているようだった。
「ったく、先帰るわ」
「りょーかい」
「ほらっ、行こうぜ」
洋平はそう声をかけると、鞄を挟んだ脇と反対の腕で真知子の手首を掻 っ攫 うようにつかみ、校門の方へ歩きだした。
「えっ? ちょ、ちょっと!」急な展開に頭が追いつかず、真知子は洋平に手を引かれながら振り返った。先ほどの三人は、こちらに向かって笑いかけながら手を振っていた。
「じゃーなーイインチョー」
「また明日ー!」
「明日詳しく聞かせろよ〜」
「うるせー!」
洋平が言い返すのを聞いて、前を向く。図書室で話したようなウワサもあった彼らだが、そんなに怖い人たちではないのかもしれない、と真知子は思った。
「は、はなしてっ」
彼らが見えなくなったところで、我に返った真知子は立ち止まり、洋平に引かれていた腕を軽く引っ張って抵抗した。彼は「ああ、ゴメン」と同じように立ち止まって、パッ、とあっさり手を離した。
「水戸君、あなたって人は……」
つかまれていた手首を胸元へ隠すようにして引っ込め、真知子は洋平の顔を眼鏡越しに睨み上げた。なのに、まだドキドキしている心臓が、胸元にやった手を押し返してくる。当の洋平は、先ほどまで真知子の手首を握っていた手を、手持ちぶさたになったようにして、その指先で頬をぽりぽり掻いていた。
「べつに、一緒に下校したかっただけ──いや、まあ、だ け ってわけでもねーけど」
「あぁー……」独り言のように、だんだんと尻すぼみになる声。それから洋平は、今度は頬の手を頭の後ろにやって、リーゼントの生え際をガシガシと掻くようにした。せっかくかっちりとセットされているのに、そのせいですこし乱れて、耳元のあたりの毛が浮いてしまっていた。
「あークソ、花道のこと笑えねーな……」
そっぽを向いてそうつぶやかれた言葉の意味が、真知子にはよくわからなかった。桜木君が、どうかしたのかしら。
それから洋平は、どこか諦めたように、フッ、と声を出さずに笑って、やわらかい瞳でこちらを見下ろした。
「家まで送ってくよ、真知子ちゃん」
それを、あまりにも優しい表情と声で言うものだから、真知子はしばらく洋平の顔を見つめたまま呆 けてしまった──反応が遅れ、ハッとなってなんとか言い返す。顔が熱いのは、きっとムキになってしまったからだ。
「だ……だから! 真知子ちゃんって呼ばないでっ」
「はいはい」
(『好きな娘 と一緒に登下校するのが夢』の花道を笑えない水戸。)
静かにしてほしい……。
真知子はハァ、とため息を吐いて、黄色い声のした窓ガラスの向こう側を力なく見た。体育館の方角から聞こえる。入り口の扉のあたりに女子生徒が何人か見えるので、どうやら彼女たちが原因らしい。
月曜日の放課後の図書室は、本来閑散としていて、受付の図書委員と、受験勉強をしている3年生──上級生らしき制服や鞄の使い込まれ方をしている──が、離れた席でぽつり、ぽつりと腰掛けているくらいだ。真知子も予備校のない日は、必ずここで課題に取り組み、授業の予習・復習を欠かさない。
しかし、この図書室が校舎の1階で、体育館の近くという環境は変えようがない。先ほどの女子生徒たちの言う『ルカワくん』は、どうやらバスケットボール部らしく、体育館での練習風景を見にきているといったところだろう。
「流川の取り巻きの声、こっからでも聞こえるんだな」
「すげーパワー」真知子が窓の向こうの体育館に目をやっていると、突然そんな笑い声がすぐそばで聞こえて、思わずバッ、と勢いよく振り向いた。この声、まさか──
「よっ、委員長」
「みっ……!」
机を挟んで真知子の正面に立っていたのは、軽く片手を上げてへらりと笑う、クラスメイトの水戸洋平だった。驚いて声を上げそうになって、なんとか踏みとどまる。図書室で大声を出すわけにはいかない。軽く握った手を口元にやって、「んんっ」と喉を鳴らし、姿勢を正して座りなおした。
「なにしに来たの?
洋平に聞こえる程度の小声で、ただし『あなた』の部分を強調しながらあえてイヤミっぽく言ってみせる。眼鏡を上げながら、真知子がジト目で見上げてみても、彼は相変わらず軽い調子で笑うだけだった。
「いやいや、オレだってたまには本も読むぜ?」言いながらそのまま自然と、正面の席の椅子を引いて腰掛けている。……なんで彼は、用のない図書室に来てまで、いちいちあたしに絡んでくるんだろう。意味がわからない。
「……水戸
教科書をめくりながら、目も合わせずにちくちくとイヤミを続けてみる。しかし効果がないのか、彼は頬杖をついて歯を見せながら、ニヤリとふざけたことを言ってのけた。
「つれないこと言うなよ〜真知子ちゃん?」
「なっ……!」
真面目で勉強が得意。それだけが取り柄で生きてきた自分の、他人からの呼び名は決まって『花岡さん』だ。そんな呼び方をするのは家族や幼い頃からの友人くらいのもので、高校のクラスメイトの、それも男子の口から飛び出してきた事実に、真知子は一瞬言葉を失った。
「きっ、気安くそんな呼び方しないで!」
バンッ、とつい勢いよく机に手をついて立ち上がり、声を張り上げてしまった。さすがの洋平も、小さく目を見開いて驚いている。そこで真知子が、ハッとして周りを見渡すと、『静かにしろ』と言わんばかりに、他の利用者たちから鋭い視線を向けられていた。
「す、すみません」とっさに頭を下げ、大人しく席につく。やだもう恥ずかしい……それもこれも、余計なことを言ってくる水戸君のせいだ……!
顔が赤くなっているのを自覚しながら、真知子は目の前に平然と鎮座する洋平を
「なんでよ、カワイイ名前なのに」
「あ……あなたいったい何がしたいのよ? ジャマしたいだけなら帰ってちょうだいっ」
再び声を潜めて、それでも洋平は気にも留めないようすで、「まあまあ」と気を紛らすように、真知子が広げていたノートを勝手に取り上げ、パラパラとページを繰った。「さすが委員長、字ぃキレーだな」
「……あたし、水戸君という人が分からないわ」
「そう? オレはオレのやりたいようにやってるつもりだけど」
「“サボり”とかね」と、ノートを手放して冗談ぽく笑う。あたしが毎回サボりを注意するから、当てつけのつもりで言ったのだろうか。でも、それにしてはなんだか思ってもないことを言っている気がしてならないから、彼が
「いいえ、そう思ってるのはあたしだけじゃないはずよ? あなたの“妙なウワサ”は絶えないしね」
「たとえば?」
真知子は大判の参考書を立てて両手で持つことで、洋平との間に仕切りを作るようにしながら、それを読むフリをして目も合わせずに淡々と述べてみせた。
「──“桜木軍団”とは名ばかりで、実は一番強くてひそかに和光中を取り仕切ってた“裏番長”だとか。学校外で強面のおっかなそうな大人とやりとりしてるのを見ただとか」
そこで一度言葉を区切って、ちらりと目線だけ参考書の向こう側の、彼の顔に向けた。
「……ハンサムな顔で女子をたぶらかしてる
「スケコマシって」
ププ!、とその言葉が
「だいたい、“強い”って
「あと学校外って、それたぶんバイト先だろ? フツーの古着屋だよ。革ジャンとかジーンズとか、ビンテージも扱ってるような店」
「確かにお客には、イカちい
「古着屋さん……駅前の商店街の?」
「そそ。近くにパチ屋のあるとこ」
その店なら、同じ商店街に並んでいる本屋へ真知子もよく訪れるので、覚えがある。確かに、店先はいつも革の匂いを漂わせていて、男性が好みそうな商品が多く置いてある印象だ。彼、あそこで働いてたのね。私服もそういう雰囲気なのかしら。髪型には合いそうだけれど。
「ていうか委員長、オレのことハンサムだと思ってくれてたの?」
「嬉しいこと言ってくれるね」そう調子づくと、洋平はニッと笑って眉を上げた──以前、眼鏡を取られたときに至近距離で見た彼の顔を『ちょっと格好いい』と思ってしまったことは、言うべきではないと悟った──ので、真知子は片手で三つ編みをいじりながら、慌ててごまかした。
「あ、あたしじゃないわ。周りの女子が言ってたのを聞いたの」
「なーんだ」
「……そんなことより、それが本当だとしたら、同じ女子として聞き捨てならないけれど」
「委員長はそのウワサ、信じてるの?」
ふとそんなことを聞かれたので、前のウワサも含めて、仕返しのつもりで真知子はしれっと答えた。「“火のないところに煙は立たぬ”っていう言葉、ご存じ?」「おっと」
「……でも、あたしは自分の目できちんと見たものを信じるわ」
しかし、真知子は自分で発言したことを、そのあとすぐにそう否定した。彼は確かに軽薄そうに見える瞬間もあるが、正直そこまで“軟派”という感じでもない。それに、そのウワサが本当なら、こんなところであたしみたいなイモくさい女にちょっかいかけないだろうし、と内心呆れてやれやれと肩を落とす。
すると、洋平はどこか嬉しそうに、頬杖をついた手で覆った口元を、やさしく綻ばせた。
「オレ、委員長の
──かと思うと、またニッと笑って、わざわざ言い直した。
「あ、真知子ちゃんの」
「……あたしは水戸君の
「ハハッ、やっぱつれねーの」
前言撤回だろうか、やはり軽い様子だ。真知子はちょっと苦い顔のまま、机の上の状況に目をやった。彼が図書室へ来てから、勉強はちっとも進んでいない。「全然集中できないわ……」
「まったくもうっ」諦めてその場で立ち上がり、広げたノートや参考書を閉じて、隣の椅子の上に置いていた鞄の中へ入れていく。それを目の当たりにした洋平は、えっ、と真知子の顔を見上げた。
「帰んの?」
「あなたがいたら勉強に身が入らないの。仕方ないから家に帰ってやるわ」
片付けを済ませ、座っていた椅子を元の位置に戻し、さっさと図書室を後にした。引き戸の扉を開けると、ガラガラと音を立てるので、出るときも静かに閉める。
ところが、廊下を10メートルほど歩いた時点で、背後からガラガラッ、と再び扉が鳴った。まさかとは思っていたが、
「待ってよ、真知子ちゃん」
「っ……! だから、真知子ちゃんって呼ぶのはやめてって言っ、て……」
すかさず真知子がおさげを振り乱す勢いで、足を止めて振り返ると、おぉ、と少し気圧されて一緒になって立ち止まり、軽く目を見張る洋平──と、さらに彼の背後に、体育館の方から歩いてくる見覚えのある男子生徒三人が、二人の声に気付いてこちらを向いた。
「おっ、洋平」
「と、
「イインチョーだ」
通称・桜木軍団と呼ばれている彼らは、そんなことを言いながらわらわらとこちらへやってきた。比較的体の大きい男子がいきなり三人も近付いてきたので、真知子は驚いて、隣でそちらを振り向く洋平の後ろに隠れるようにした。「な、なんなの、あなたたち」
三人は洋平と真知子を交互に見るようにしたかと思うと、顔を見合わせてニヤニヤしだした。
「洋平、いっしょに花道のヒヤカシしてたと思ったら、いつのまにか一人で抜け出して……」
「そういうことだったのか〜」
「相変わらずイインチョーが
そんなことを言われ、戸惑う真知子はそっと洋平の顔を見上げて、彼の顔色をうかがってみた。すると、パチッと互いに目が合ってしまった。真知子が慌てて足元に視線を落とすと、意外と綺麗な彼のローファーが目に入った。
「お前らのせいでカッコつかねーじゃん」真知子の頭の上で聞こえた洋平の台詞は、彼らの言葉を肯定しているようだった。
「ったく、先帰るわ」
「りょーかい」
「ほらっ、行こうぜ」
洋平はそう声をかけると、鞄を挟んだ脇と反対の腕で真知子の手首を
「えっ? ちょ、ちょっと!」急な展開に頭が追いつかず、真知子は洋平に手を引かれながら振り返った。先ほどの三人は、こちらに向かって笑いかけながら手を振っていた。
「じゃーなーイインチョー」
「また明日ー!」
「明日詳しく聞かせろよ〜」
「うるせー!」
洋平が言い返すのを聞いて、前を向く。図書室で話したようなウワサもあった彼らだが、そんなに怖い人たちではないのかもしれない、と真知子は思った。
「は、はなしてっ」
彼らが見えなくなったところで、我に返った真知子は立ち止まり、洋平に引かれていた腕を軽く引っ張って抵抗した。彼は「ああ、ゴメン」と同じように立ち止まって、パッ、とあっさり手を離した。
「水戸君、あなたって人は……」
つかまれていた手首を胸元へ隠すようにして引っ込め、真知子は洋平の顔を眼鏡越しに睨み上げた。なのに、まだドキドキしている心臓が、胸元にやった手を押し返してくる。当の洋平は、先ほどまで真知子の手首を握っていた手を、手持ちぶさたになったようにして、その指先で頬をぽりぽり掻いていた。
「べつに、一緒に下校したかっただけ──いや、まあ、
「あぁー……」独り言のように、だんだんと尻すぼみになる声。それから洋平は、今度は頬の手を頭の後ろにやって、リーゼントの生え際をガシガシと掻くようにした。せっかくかっちりとセットされているのに、そのせいですこし乱れて、耳元のあたりの毛が浮いてしまっていた。
「あークソ、花道のこと笑えねーな……」
そっぽを向いてそうつぶやかれた言葉の意味が、真知子にはよくわからなかった。桜木君が、どうかしたのかしら。
それから洋平は、どこか諦めたように、フッ、と声を出さずに笑って、やわらかい瞳でこちらを見下ろした。
「家まで送ってくよ、真知子ちゃん」
それを、あまりにも優しい表情と声で言うものだから、真知子はしばらく洋平の顔を見つめたまま
「だ……だから! 真知子ちゃんって呼ばないでっ」
「はいはい」
(『好きな
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