3:夢も恋もなんだって摩訶不思議
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「すみません、ローリエのストックはありますか?」
「ああ、あっちの棚だな」
「どうも」
指差して答えたコックに、ジャミルは軽く頭を下げた。
このアジーム邸の厨房で、15歳のジャミルがうろついていてもコックたちに何も言われないほどには、それはすでに日常の光景になっていた。
カリムの食事も、ジャミル自身が作れば、毒味役の自分が被害を受けることもない。そういう理由もあって始めたことだったが、どうも自分には料理という作業が性に合っているらしい。
スパイスの配合、火加減、調味料を入れるタイミング、どれを変えても口に入れたときの味は変化する。料理とは奥が深く、興味深い分野だ。凝りだすと案外楽しいものでもあった。
従者としての仕事に問題はない。魔法士の才も見込まれ、来月には名門・NRCへの入学も決まっている。ハイスクールのあいだ、カリムとも離れられるかもしれない。
滞りなく、うまくいっている。ただ一つ、入学に際し熱砂の国を離れる上で、気がかりがあるとすれば──
「姫様? まだお食事の準備はできておりませんが……」
「えっ」
厨房の入り口の方から聞こえてきた声に、思わず手元から顔を上げれば、そこにはアリーヤがいた。夜の食事会の前だからか、華やかなドレスを身に纏っている。
「ああ、お気になさらないでください。ちょっとお勉強のために、厨房を拝見したかっただけなんです。お邪魔にならないようにしますから」
すると、アリーヤと目が合い、にっこりとほほ笑まれた。そこで、ずっと彼女を見つめていたことに気が付いて、ハッとしたジャミルは慌てて鍋の具合を確認した。顔が熱いのは、ガスコンロの火だけのせいではない。
視界の端で、アリーヤは真っ直ぐこちらへ歩いてきていた。たどり着くまでの間、コックたちが「アリーヤ姫、なぜここに」「姫様、火や刃物にお気を付けて」と、口々に声をかけ、頭を下げている。
アリーヤがそんなコックたち一人ひとりに丁寧に挨拶しながら、間違いなく、厨房の一番奥にいるジャミルの元へ少しずつ近付いてくる。つい浮き立ってしまうのを抑えるようにして、ジャミルは息を一つ吐いてから、彼女のほうを見た。
「君……何しに来たんだ、こんなところに」
装うようにそう声をかけると、アリーヤはジャミルの隣で立ち止まって、そのにこやかないつもの表情で答えた。
「私 が、ジャミル様の調理風景を見てみたくて……ジャミル様の料理の腕前、カリム様の話では、コック長も舌を巻くほどだとか」
そう言って、アリーヤは両手を合わせて、弾んだ声を上げる。
カリムに聞いて来たのか……まったく、俺の話なんかしなくていいだろうに。
最近、今日みたいな王家とアジームの食事会やパーティーのたびに、彼女はよく自分に会いにくる。
一度ならまだしも、毎度そんな調子では、ジャミルもアリーヤから向けられる好意に気付いていた。自惚れなんかではない。
そして、その食事会のほとんどが、婚約している二人の交友のための集まりだ。ということは、姫君が一人で抜け出してくるなんてことはまずないから、交友している本人であるカリムが、意図的にジャミルの元へ行かせているとしか考えられない。
まさかとは思うが、アリーヤのことを応援でもしているつもりなのだろうか。つくづくお人好しというか、そもそも彼女は自分の婚約者だということを、カリムはわかっているのだろうか。
それでも、アリーヤと共に過ごす時間は、ジャミルにとって楽しいものだった。
彼女と話しているときは、カリムの従者として振る舞う息苦しさも忘れられたし、本来の自分のままでいられる気がしていた。気付けば彼女に対し、ジャミル自身も、心の安らぎを求めていた。
「いい香り」
フライパンの上の肉塊から漂う、食欲をそそるスパイスとハーブの香りを吸い込むと、アリーヤは顔を綻ばせた。
「今日のメインはキョフテと……おすすめは、マントゥかな。カリムが好きで、作ってくれってよくせがまれるんだ。カレーもあるけど、あいつは食べないから」
ジャミルは鍋のカレーをレードルで混ぜながら、アリーヤのほうをチラッと確認する。去年の収穫の宴があったあの日から、少しは砕けた話し方をするようになっていた。
「カリム様は確か、カレーが苦手でしたね」
「ああ……たぶん、俺が毒味したときに中 って、倒れたことがあるからだろうな」
「あれ以来、あまり口にしなくなった」と言うと、めずらしくアリーヤの顔が険しくなった。
「そんな……ジャミル様は、大丈夫だったのですか?」
「でなきゃココにいませんよ」
「……その冗談は笑えません」
「失礼」
やめてくれと言わんばかりに目を伏せてゆっくり首を横に振ったアリーヤに、それでも肩をすくめて鼻を鳴らす。
出会った頃は、こんな冗談を言える仲ではなかった。しかし、いつも穏やかな彼女を困らせるのは愉快なもので、ついからかいたくなってしまう。まるでエレメンタリーのスクール生のようで、我ながら子どもじみているなと思う。
「それにしても、噂の"アジーム御殿"は厨房も広いのですね」
見慣れないものにわくわくしているのか、アリーヤは目を輝かせて調理台の道具や食材を物色している。
「王族や政界の要人に振る舞う料理も作られる。そこいらのレストランよりは立派だろうな」
「本当に。スパイスだけで、こんなにたくさん」
ふいに、アリーヤが調理台の上に置かれた、鮮やかな黄色い粉末に手を伸ばした。それを視界に捉えてしまい、ジャミルは慌ててレードルを鍋の淵に引っ掛け、彼女に近い方の腕をとっさに出した。
「ああっ、それは直接触れると、皮膚にも色が付いてしまいますから」
パシッ、と彼女の手首をつかむ。
アリーヤの華奢な手──ほっそりした指、なめらかな褐色の素肌に映える、控えめに塗られたほんのりピンクがかったコーラルの艶めくネイルに、健康的なハリのある柔らかな肌の感触。
大げさでなく、こんなに美しい手は見たことがなかった。注視したことがなかったので、気が付かなかっただけだ。あまりの衝撃に、ジャミルは図らずもぎょっとする。
しばらくその手を凝視していたジャミルに、いたたまれなくなったのか、アリーヤが「あの……」と発したところでハッとし、ようやく彼女の手を離した。
「すみませんっ……ご無礼をお許しください」
「い、いいえ。勝手に触ろうとした私がいけないんです」
ジャミルにつかまれた部分の手首を反対の手で擦りながら、少し頬を赤くしたアリーヤがかぶりを振る。二人の間に、気まずいながらも、どこか甘い空気が流れる。
切り替えるように、ジャミルはレードルをもう一度手にして、鍋を見るフリをしながら、アリーヤに問うた。
「アリーヤ様は……苦手なモノはございませんか?」
「いえ、特には。私、なんでもいただきます。どれもとっても美味しそうで、カリム様がうらやましいです」
「相変わらず、食いしん坊だな」
「もう、その言い方はおやめになって」
いつかと同じようにからかってやると、拗ねて口を尖らせるところが、やはり愛嬌があって魅力的だ。調子を戻した気になって、ジャミルは再び砕けた口調で話しかけた。
「わかったよ。では、姫様には"つまみ食い"の権利を与えましょう」
「どうぞ」と、ジャミルは鍋に入ったカレーをレードルで掬い、そばにあった小さい器に入れてアリーヤに差し出した。彼女は、明らかに食べたそうにピクリと反応したが、同時に「でも……」と少し困った顔をしてみせる。
王族だって、カリムと同じように毒味役が付いているはずだし、簡単に口を付けていいものでもないのだろう。
「つまみ食い、したことないだろう?」
「それは……そうですね」
「まあ、"味見"と題せば、作り手の特権だ」
ジャミルはスプーンを取り出し、それを使ってできたてのカレーを口にする。少し辛めに仕上がっているが、彼女は辛い物も好きだったはずだ。それから、同じスプーンでもう一度掬った。
「いま俺が毒味したから」
「そのようなおっしゃりよう」
やや呆れた様子で息を吐くアリーヤを目にして、ジャミルはちょっとした悪戯心がはたらいた。フー、と何度か息を吹きかけて冷ますようにしてから、彼女のほうを向く。
「ほら、口開けて」
「えっ」
顔の前に差し出されたスプーンを目にしたあと、アリーヤは思わず周りを見渡した。その動きで、人目を気にしているのがわかって、ジャミルはニヤリと口角を上げる。
「みんな忙しくて、俺たちなんか見てないよ」
「はい、あーん」と促してやると、アリーヤは意を決して一度きゅっ、と唇を結んだ。
「い、いただきます」
あ、と控えめに開いたアリーヤの小さい口に、やや強引にスプーンを突っ込む。本当にいった、と思いながらも、スプーン越しに手に伝わってくる、彼女の歯や舌の感触が生々しくて、ジャミルは体を震わせた。
スプーンを引っこ抜く瞬間、力が入ってしまったのか、「んっ」と少し悶えたアリーヤが、妙に色っぽく見えて生唾を飲む。
ああ、これは思ってたより、クるものがあるな……。
「おいしいです!」
そんなジャミルの葛藤も知らずに、アリーヤはパァッと表情を明るくさせて、両手で口元を押さえた。無邪気な彼女はとても愛らしい。そう思うと同時に、少しだけ、罪悪感がわく。
「……お行儀が悪いな、プリンセス」
「あ……だ、誰にも言わないでくださいね……」
イジワルしたのは俺のほうなのに、こういう反応をしてくるあたり、この人は──
口元にあった手で、今度は赤くなっている頬を押さえるアリーヤを前に、ジャミルはたまらない気持ちになった。
初めて会ったときは、ずいぶん大人びているなと思った記憶があるが、普段の生活では見せる機会がないというだけで、本当は年相応で、ちょっぴり世間知らずで、ウブで可愛い人なのだとわかってきた。
「まあ俺も、味見なんていうのは建前だから」
思い立って、彼女の食べ終わったスプーンに残ったソースを、ベロッと舌を出して、見せつけるように舐めとる。アリーヤの顔が、さらに真っ赤に染まる。ああ、可愛くてしょうがない。
「これで共犯だな」
ジャミルがそう言うと、アリーヤもはにかみながら肩を揺らし、二人で笑い合った。
そうして向けられる好意は、どうにも心地良いものだった。こんな時間が続けばいい、なんて、現実から目をそらしたくなるくらいには。
叶わない恋だなんて、始めからお互いにわかりきっていたのに。今ならまだ、思春期の可愛らしい恋で済ませられる。
来月から、お互いハイスクールに入れば、そう会うこともないだろう。それでいいのかもしれない。
そうしてそのうち、いい思い出にでも変わればいい。ハイスクールを卒業すれば、彼女は自分の主人 と結婚するのだから──
そのあとの食事会で、事件は起こった。
アジームとアリーヤの一族が、用意された食事を囲み、晩餐会が開かれる。料理は次々とひっきりなしに厨房から運ばれてくるので、ジャミルはそれをテーブルに並べる仕事に追われていた。
「アリーヤもコレ、食べないか? ジャミルの作った揚げ饅頭、旨いぜ!」
「はい、ぜひ」
皿に乗った料理の数々を選んでいくカリムと、その隣の席でうなずくアリーヤ。カリムの言葉を聞いて、彼のそばにいた給仕が取り皿に手際よく分けていく。
ジャミルは皿を両手と両脇いっぱいに乗せて立ち回りながら、その様子をときどき眺めていた。先ほどの厨房での余韻がまだ冷めていない、そんな気分だった。
「……お待たせいたしました」
新しい料理を、カリムとアリーヤの席の間に立ち、二人の前に置く。「おっ、キョフテか。いい匂いだなー!」とカリムが今にもかぶりつきそうな勢いで言った。
「カリム……相手は女性なんだから、食べてもらう量には気を遣え。なんでもかんでも乗せるな」
「えっ? でも、アリーヤなら食べきれるよな?」
「あ、えぇっと……」
「だから彼女に言わせるなって」
デリカシー、と小声で釘を刺すが、カリムはよくわかっていない顔つきで、それを見たアリーヤは苦笑いした。自分も散々彼女を"食いしん坊"だとからかっておいて言うことではないかもしれないが。
「大丈夫です。カリム様、温かいうちに頂きましょう」
「おう! そうだな!」
「どれも本当に美味しそうで、迷ってしまいますね」
そう言ってアリーヤが、テーブルの奥に置かれた、ガス水の入った金属製のゴブレットを手に取った。
彼女の口元へ運ばれるそれが、ジャミルの目の前を通ったとき、気付く──この微かな気配、覚えがあった。ハッとして目を見開く。
ジャミルは、振りかぶれる距離だけ渾身の力で腕を引き寄せ、ゴブレットを持ったアリーヤの手をバシィッ、とそのまま甲で叩 いた。
「きゃあっ!?」
バシャッ、と勢いよく炭酸水が、声を上げたアリーヤのドレスにかかり、フロアに落ちたゴブレットはガランガランと大きな音を立てて転がる。
「ど、どうしたんだよジャミル!?」
「おい、無礼者! 何をやってるんだ!」
従者の突飛な行動と、姫君の悲鳴にざわつくテーブル。カリムが椅子から立ち上がって驚いていると、王族の護衛の男がジャミルを咎めるように怒鳴りつけた。
そのジャミルの視線の先には、彼女のドレスの上とフロアにこぼれた液体──それがふつふつと、まるで沸騰でもしたように泡立っている。どう見ても、炭酸のはじけ方ではない。
すると、透明だったはずの液体は、みるみる真っ黒な色に変化し、じゅわり、と音を立てて気化し始めた。
「毒の魔法薬が入ってる……!」
ジャミルが激しい剣幕で口にすると、テーブルについていた人間たちは一斉に立ち上がって狼狽し、宴会場にはたちまち悲鳴や怒号が飛び交い始めた。
「おい!! 給仕は何をしてる!」
「食事を出していた者を全員呼べ!」
「アリーヤ様! 吸い込まないようにコレで押さえて!」
「ンッ!」
ジャミルはそばにあったまっさらのナプキンを引っつかんで、後ろから彼女の口元を覆い、手をつかんで握らせた。それから、そばに控えていた彼女の侍女を呼び出す。
「ハニーファ様、姫様のお召し物を! すぐに着替えれば大丈夫ですから!」
「か、かしこまりました! 姫様、こちらへ!」
呆然としてしまうのも仕方ない、ジャミルの声かけで慌てて我に返った侍女は、アリーヤの手を取り、立ち上がらせる。
「庁舎の方へ誰か逃げたぞ!」
「追え!!」
「カリム何やってる! 安全が確認できるまで部屋にいろ!」
「わ、わかった!」
「カリム様、お供します! 急ぎましょう」
侍女に手を引かれて客室へ戻るアリーヤを心配そうに見つめて突っ立っていたカリムを、ジャミルが激しい口調で責めると、別の従者が彼に付いて奥へ連れて行った。
先ほどまで和やかな雰囲気だった宴会場は、もはや騒然となっていた。
コンコンコン、と客室の扉をノックする。
「失礼します……アリーヤ様?」
「どうぞ、お入りになって」
中から彼女の声がしたのを確認して、ジャミルはそっとドアノブに手をかけた。
アジーム邸の中でもかなり広い、風呂付きの大きな客室を与えられていた彼女は、所在なさそうにドレッサーの椅子に腰掛けていた。そばには、先ほどの侍女が立って控えている。
よく見ると、さっきまでの食事会用のドレスではなく、色も控えめでシンプルなドレスに着替えていた。侍女に手伝ってもらったのだろう。
「……ハニーファ、少し外してもらえる?」
「かしこまりました」
ノックの時点で、声の主がジャミルだとわかっていたのか、アリーヤは入室を確認すると、すぐに侍女を部屋の外へ出した。バタン、と背後で扉が閉まったのを見届けてから、ジャミルはアリーヤに向き直り、頭を下げる。
「先ほどは、大変失礼いたしました」
「いいえ、助けていただいたのですから。恩人です」
アリーヤが椅子から立ち上がって、ジャミルの元へ近付いてくる。
ここへ来る前に、アリーヤを診断したアジームお抱えの医師からは、体に毒の影響はないと報告は受けていた。ジャミルの素早い対処が、功を奏したようだった。
アリーヤも、このような事態に遭遇するのは初めてではないのか、あんな目に遭ってもずいぶん落ち着いた様子だ。ひとまず胸をなでおろす。
「よくお気付きになられましたね。先ほどお医者様と共に来られた魔法士の方にお伺いしましたら、どうやら発泡性の毒薬だったようで……ごまかすために、炭酸水に入れていたとか」
「はい。前にも似たような毒を目にしたことがあったので……あとは、魔法薬独特の匂いというか、空気といいますか」
「さすがですね。ジャミル様に、名門の魔法士養成学校からお声がかかるのも、必然でしょう」
狙われたのはカリムだったのかもしれないが、先に口を付けたのがアリーヤだったのは、刺客にとって誤算だった可能性もある──その刺客がどうなったかは、アリーヤにいま言うべきではないし、彼女も自分に聞くつもりはないだろう。
「お父様から何か」
「ああ、とんでもない。俺は別に……」
謝礼や詫びに関しては、今頃アジームや自分の両親がそんな話をしているはずだ。どちらにせよ、予定どおり彼女はここで一夜を過ごす。外には昼間よりも警備や衛兵が一段と増えていた。
いや、別にそんなことはどうだっていい。そんなことよりも、ジャミルには気になることがあってここへ来たのだった。
「あの……手、ケガしてないか? 思いっきり叩いてしまったから……」
つい敬語が抜けて、彼女が胸の下で組んでいる手を見つめてしまう。日が暮れてきた中で、客室用の薄明るいライトではその状態もよくわからなかった。
「えぇ。私はこのとおり、何ともありませんよ」
「本当に? 腫れていたり、痕になっていたりは……」
「そんなにご心配なさらずとも……そこまでおっしゃるのでしたらほら、よくご覧になって」
アリーヤは苦笑いして重ねていた両手を広げ、その甲をジャミルの前に差し出すようにした。
やはり先ほど厨房で見たとおり、華奢で細長い、美しい指先。ジャミルは自らの両手で、眼前の二つの手をそれぞれ軽く取って、目を凝らして確かめた。
すると、ふいにきゅっ、とアリーヤの指先が、ジャミルの手を強く握ってきた。
「アリーヤ様……?」
「あっ……これは、その、」
何かと思って顔を上げれば、アリーヤはつい、とでも言うように慌てて手を離そうとした。その離れそうになった彼女の両手を、ジャミルはもう一度強くつかんで引き寄せた。
「えっ、あっ……」
アリーヤが勢い余って前のめりに倒れそうになったところを、ジャミルが体で支える。
ふわり、と香ってくるのは、アプリコットの独特の甘さだった。華やかな食事会に合わせた、熱砂の国らしい香 だ。好きな香りだった。思わず、鼻を寄せてしまいそうになる。
再び、アリーヤの手に目を落とす。俗に言う"箸より重いものを持ったことがない"、などというのが冗談だとしても、彼女なら信じてしまいそうだ。当然、包丁なんて絶対に握ったことがないのだろう。
生まれたときから王族だった彼女だからこそ、この手を持っていることにも納得がいく。美しい、傷一つない、なめらかな肌。
「ジャミル様……」
こちらを見上げてくる、彼女の潤んだ瞳に、自分が映っている。抑えられないこの想いは、もう、とどまることを知らない。
ジャミルは自分の中に眠る、魔物のような、異形の者が目覚める感覚をおぼえた。
『瞳に映るはお前の主人 ……尋ねれば答えよ、命じれば頭 を垂れよ──』
『蛇のいざない 』
詠唱を行えば、アリーヤは目を見開き、次の瞬間がっくりとうなだれた。
「……あ…………うぅ、」
全身の力が抜けて、うめき声を漏らしながら、ジャミルにすがるように倒れ込んでくるアリーヤを、優しく抱き留める。
それにしても、あっさりと侍女を出て行かせて、二人きりになるなんて、俺はずいぶん信頼されているんだな。なんて不用心で、いじらしいことか。
「アリーヤ」
初めて、敬称もなく、彼女の名を口にした。腕の中の彼女の体温が、服越しに伝わってくる。
「大丈夫だ、アリーヤ……ゆっくり……俺に身を委ねろ」
彼女の耳元に唇を寄せ、まるで悪魔のささやきのように、まじないをかけるように。
「ジャミル……様……」
頭をもたげたアリーヤの顔は、熱に浮かされたようにぼうっとしていて、目の焦点が合っていない。そのあられもない姿に、無意識に自身の唇を舐めた。
「アリーヤ……お前の主人の名は?」
「……はい…………あなたさまです、ジャミル様」
そう答えると、彼女の瞳が真っ赤に染まり、やがてこちらを捕らえた。
「どうか思いのままに……ご主人様」
ゾクゾクッ――彼女のその言葉に、全身の毛が奮い立つような快感がジャミルの躰を走った。脳髄が痺れる。ああ、あまりの刺激に腰が砕けそうだ。
自分の中で、冷めることのない興奮を感じながら、ジャミルは続けた。
「君は……俺のことが好きなんだろう?」
そうだ。婚約のことなんて忘れて、その欲求に、素直になってくれればいいのだから。
「はい……ジャミル様……」
「それで……カリムのことは、どう思ってる?」
はっ、ざまあみろ。彼女が好きなのは俺だ、お前じゃない。
俺のところへ来い。あいつのことなんて、捨ててしまえ。
「誰なの? カリムって……?」
彼女の発言からして、ユニーク魔法はしっかり効いている。まだこの魔法を物にしてから間もないとはいえ、効果は絶大だった。
口角が上がるのを抑えられず、ニタァとジャミルはほくそ笑んだ。
「あいつのことは何とも思わない……そう言えよ、なあ?」
「私は……」
ジャミルの腕の中で、アリーヤの美しい両手が、頬を優しく包んでくれる。しっとりとした手のひらの感触と、香の甘ったるさが心地よくて、目を細めた。
「私には、ジャミル様がいる……」
欲しい。彼女が欲しい。
そんな、身も心も熱くなるジャミルと反比例するように、彼女は冷たい瞳と声でその言葉を放った。
「あんな人、どうでもいいわ」
ブツンッ、と。
それが発された瞬間、まるで糸が切れたように、ジャミルの洗脳魔法が解けた。この手の魔法は、術者の精神状態の影響が一番大きいことくらい、わかっていた。
「…………ぁ……れ……? あたし……?」
アリーヤを抱き留めていたジャミルの両腕はだらりと力が抜け、支えのなくなった彼女は一人くらくらする頭を抱えている。
今の今まであれだけ昂 っていたというのに、残ったのは虚しさだけなんて、そんなことがあるのか。
気付いてしまった。魔法で手に入れたって、意味がないことに。自分はどうやら、まやかしを好きになるわけではないらしい。理由はわかっている。
アリーヤがカリムに、そんなことを言うはずがないのだ。そんなことを言うアリーヤは、俺が欲しいアリーヤではない。
美しく、聡くて、穏やかに、ときに愛らしいしぐさと、優しさで包み込んで、ほほ笑んでくれる──そんな彼女が好きだ。
悔しいが、そんな彼女にとって、カリムも大切な"友だち"なのだから──
「ジャミル様……?」
まだ少しぼんやりした顔で、アリーヤは目の前で立ち尽くしているジャミルの背中に右手を添え、そっと覗き込むようにして声をかけた。
「いかが……なさいましたか?」
しばらく呆けていたジャミルが、その声でようやく、彼女に視線を移した。見下ろして、目が合った。そこには心配そうに自分を見つめる、アリーヤがいる。ゆっくりと、目を見開いた。
さっきまで危険な目に遭っていたのは、彼女のほうだというのに。そんな彼女を見て、自分がどれだけ酷いことをしたか、そこで思い知った。
自己満足で、アリーヤをカリムから奪ってやった気に勝手になって、刹那の優越感に浸っていただけだ。
別に、相手がカリムだから奪い取りたかったわけじゃない。それなら誰でもいいわけじゃない。身分も関係ない。
ただ、アリーヤという人が、好きで、たまらない。
「……厨房でも、思ったんだ」
「え?」
その言葉の意味がわからなかったのか、聞き返すアリーヤの前で、ジャミルは右膝を突いた。
いきなり目の前で跪く男に驚いた様子の彼女の、居所をなくし宙に浮く右手──自分の体に添えられていたその手を、右手で掬い上げるように取る。
「あまりに……綺麗で……」
彼女を汚すなんて、できない。
その美しい手と指先に、忠誠のキスをした。
「ジャミル様……」
恋する乙女の純粋さ。頬を赤く染めて、うっとりとため息を漏らす彼女が、こんなにも愛おしい。見つめ合った先にあるアリーヤの瞳は、まるで夜空をそのまま映したように煌めいていて、いつまでも見ていたかった。
バンッ!
「アリーヤ!! 大丈夫か!?」
突然、勢いよく開けられた客室の扉の音に驚いて、ハッとそちらを振り向く二人。飛び込んできたのは、カリムだった。
あのとき従者に守られて、身の安全が確認できるまで自室に連れて行かれていたはずだった。
「ジャミルもいたのか! まだお礼が言えてなかったな」
パッ、とアリーヤが右手を引っ込める。カリムはいつものようにニコニコした顔で、ジャミルのことを労った。
「ありがとう! あそこで気が付くなんて、さすがジャミルだ」
「カ、カリム様……」
誰とも目を合わせられず、たじろいでいるアリーヤを見て、ジャミルは膝を突いた状態からゆっくり立ち上がると、眉をひそめて言った。
「おい……女性の部屋にノックもせず入る奴があるか」
「ああ! そっか、ごめん!」
慌てるカリムの後ろでは、開いた扉の向こうで、申し訳なさそうに侍女が顔を覗かせていた。
「す、すみません。お止めしたのですが、アリーヤ様が心配だからと、お聞き入れにならず……」
すると、カリムは今にも泣きそうな、心配そうな表情でアリーヤに駆け寄り、彼女の両肩をつかんだ。びっくりしている彼女の前で、体の隅々まで確認するように首をあちこち動かしている。
「どこか悪いところはないか? ごめんなあ、怖い思いさせて」
「わ、私は大丈夫です。ジャミル様のおかげで、何ともありません」
「本当か!? よかったあ~」
その言葉でようやく安心したのか、今度は別の意味で泣きそうになっているカリムに、アリーヤは思わず吹き出してしまった。
「ふふ、そんな顔しないでください。お心遣い、感謝いたします」
「アリーヤ……本当によかった」
心から喜んでいるという表情で、アリーヤの手を両手で取るカリム。そんな彼に、彼女は優しくほほ笑みかけている。
そんな二人を目の当たりにしたジャミルは、さっきまでのアリーヤとのやりとりも、全て幻だったかのように思えてきて、動けないでいた。
こんなに俺たちは強く想い合っているのに、最後に彼女の手を取るのは俺ではなく、カリムなのか。
結局そうだ。結局全部カリムが持っていく。今までも、全部あいつに譲ってきてやったのに。
ふざけるな。
ジャミルは、途轍もない憤りを覚えた。
アリーヤは──アリーヤだけは、絶対に譲ってやるもんか。お前より、俺のほうが彼女を好きだし、彼女もきっとそのはずなのだから。
ジャミルは自分の中で、先ほど目覚めたばかりの魔物が、うごめいているような気配を感じていた。
(【杏 (アプリコット)】花言葉:誘惑・臆病な愛・乙女のはにかみ・気後れ)
「ああ、あっちの棚だな」
「どうも」
指差して答えたコックに、ジャミルは軽く頭を下げた。
このアジーム邸の厨房で、15歳のジャミルがうろついていてもコックたちに何も言われないほどには、それはすでに日常の光景になっていた。
カリムの食事も、ジャミル自身が作れば、毒味役の自分が被害を受けることもない。そういう理由もあって始めたことだったが、どうも自分には料理という作業が性に合っているらしい。
スパイスの配合、火加減、調味料を入れるタイミング、どれを変えても口に入れたときの味は変化する。料理とは奥が深く、興味深い分野だ。凝りだすと案外楽しいものでもあった。
従者としての仕事に問題はない。魔法士の才も見込まれ、来月には名門・NRCへの入学も決まっている。ハイスクールのあいだ、カリムとも離れられるかもしれない。
滞りなく、うまくいっている。ただ一つ、入学に際し熱砂の国を離れる上で、気がかりがあるとすれば──
「姫様? まだお食事の準備はできておりませんが……」
「えっ」
厨房の入り口の方から聞こえてきた声に、思わず手元から顔を上げれば、そこにはアリーヤがいた。夜の食事会の前だからか、華やかなドレスを身に纏っている。
「ああ、お気になさらないでください。ちょっとお勉強のために、厨房を拝見したかっただけなんです。お邪魔にならないようにしますから」
すると、アリーヤと目が合い、にっこりとほほ笑まれた。そこで、ずっと彼女を見つめていたことに気が付いて、ハッとしたジャミルは慌てて鍋の具合を確認した。顔が熱いのは、ガスコンロの火だけのせいではない。
視界の端で、アリーヤは真っ直ぐこちらへ歩いてきていた。たどり着くまでの間、コックたちが「アリーヤ姫、なぜここに」「姫様、火や刃物にお気を付けて」と、口々に声をかけ、頭を下げている。
アリーヤがそんなコックたち一人ひとりに丁寧に挨拶しながら、間違いなく、厨房の一番奥にいるジャミルの元へ少しずつ近付いてくる。つい浮き立ってしまうのを抑えるようにして、ジャミルは息を一つ吐いてから、彼女のほうを見た。
「君……何しに来たんだ、こんなところに」
装うようにそう声をかけると、アリーヤはジャミルの隣で立ち止まって、そのにこやかないつもの表情で答えた。
「
そう言って、アリーヤは両手を合わせて、弾んだ声を上げる。
カリムに聞いて来たのか……まったく、俺の話なんかしなくていいだろうに。
最近、今日みたいな王家とアジームの食事会やパーティーのたびに、彼女はよく自分に会いにくる。
一度ならまだしも、毎度そんな調子では、ジャミルもアリーヤから向けられる好意に気付いていた。自惚れなんかではない。
そして、その食事会のほとんどが、婚約している二人の交友のための集まりだ。ということは、姫君が一人で抜け出してくるなんてことはまずないから、交友している本人であるカリムが、意図的にジャミルの元へ行かせているとしか考えられない。
まさかとは思うが、アリーヤのことを応援でもしているつもりなのだろうか。つくづくお人好しというか、そもそも彼女は自分の婚約者だということを、カリムはわかっているのだろうか。
それでも、アリーヤと共に過ごす時間は、ジャミルにとって楽しいものだった。
彼女と話しているときは、カリムの従者として振る舞う息苦しさも忘れられたし、本来の自分のままでいられる気がしていた。気付けば彼女に対し、ジャミル自身も、心の安らぎを求めていた。
「いい香り」
フライパンの上の肉塊から漂う、食欲をそそるスパイスとハーブの香りを吸い込むと、アリーヤは顔を綻ばせた。
「今日のメインはキョフテと……おすすめは、マントゥかな。カリムが好きで、作ってくれってよくせがまれるんだ。カレーもあるけど、あいつは食べないから」
ジャミルは鍋のカレーをレードルで混ぜながら、アリーヤのほうをチラッと確認する。去年の収穫の宴があったあの日から、少しは砕けた話し方をするようになっていた。
「カリム様は確か、カレーが苦手でしたね」
「ああ……たぶん、俺が毒味したときに
「あれ以来、あまり口にしなくなった」と言うと、めずらしくアリーヤの顔が険しくなった。
「そんな……ジャミル様は、大丈夫だったのですか?」
「でなきゃココにいませんよ」
「……その冗談は笑えません」
「失礼」
やめてくれと言わんばかりに目を伏せてゆっくり首を横に振ったアリーヤに、それでも肩をすくめて鼻を鳴らす。
出会った頃は、こんな冗談を言える仲ではなかった。しかし、いつも穏やかな彼女を困らせるのは愉快なもので、ついからかいたくなってしまう。まるでエレメンタリーのスクール生のようで、我ながら子どもじみているなと思う。
「それにしても、噂の"アジーム御殿"は厨房も広いのですね」
見慣れないものにわくわくしているのか、アリーヤは目を輝かせて調理台の道具や食材を物色している。
「王族や政界の要人に振る舞う料理も作られる。そこいらのレストランよりは立派だろうな」
「本当に。スパイスだけで、こんなにたくさん」
ふいに、アリーヤが調理台の上に置かれた、鮮やかな黄色い粉末に手を伸ばした。それを視界に捉えてしまい、ジャミルは慌ててレードルを鍋の淵に引っ掛け、彼女に近い方の腕をとっさに出した。
「ああっ、それは直接触れると、皮膚にも色が付いてしまいますから」
パシッ、と彼女の手首をつかむ。
アリーヤの華奢な手──ほっそりした指、なめらかな褐色の素肌に映える、控えめに塗られたほんのりピンクがかったコーラルの艶めくネイルに、健康的なハリのある柔らかな肌の感触。
大げさでなく、こんなに美しい手は見たことがなかった。注視したことがなかったので、気が付かなかっただけだ。あまりの衝撃に、ジャミルは図らずもぎょっとする。
しばらくその手を凝視していたジャミルに、いたたまれなくなったのか、アリーヤが「あの……」と発したところでハッとし、ようやく彼女の手を離した。
「すみませんっ……ご無礼をお許しください」
「い、いいえ。勝手に触ろうとした私がいけないんです」
ジャミルにつかまれた部分の手首を反対の手で擦りながら、少し頬を赤くしたアリーヤがかぶりを振る。二人の間に、気まずいながらも、どこか甘い空気が流れる。
切り替えるように、ジャミルはレードルをもう一度手にして、鍋を見るフリをしながら、アリーヤに問うた。
「アリーヤ様は……苦手なモノはございませんか?」
「いえ、特には。私、なんでもいただきます。どれもとっても美味しそうで、カリム様がうらやましいです」
「相変わらず、食いしん坊だな」
「もう、その言い方はおやめになって」
いつかと同じようにからかってやると、拗ねて口を尖らせるところが、やはり愛嬌があって魅力的だ。調子を戻した気になって、ジャミルは再び砕けた口調で話しかけた。
「わかったよ。では、姫様には"つまみ食い"の権利を与えましょう」
「どうぞ」と、ジャミルは鍋に入ったカレーをレードルで掬い、そばにあった小さい器に入れてアリーヤに差し出した。彼女は、明らかに食べたそうにピクリと反応したが、同時に「でも……」と少し困った顔をしてみせる。
王族だって、カリムと同じように毒味役が付いているはずだし、簡単に口を付けていいものでもないのだろう。
「つまみ食い、したことないだろう?」
「それは……そうですね」
「まあ、"味見"と題せば、作り手の特権だ」
ジャミルはスプーンを取り出し、それを使ってできたてのカレーを口にする。少し辛めに仕上がっているが、彼女は辛い物も好きだったはずだ。それから、同じスプーンでもう一度掬った。
「いま俺が毒味したから」
「そのようなおっしゃりよう」
やや呆れた様子で息を吐くアリーヤを目にして、ジャミルはちょっとした悪戯心がはたらいた。フー、と何度か息を吹きかけて冷ますようにしてから、彼女のほうを向く。
「ほら、口開けて」
「えっ」
顔の前に差し出されたスプーンを目にしたあと、アリーヤは思わず周りを見渡した。その動きで、人目を気にしているのがわかって、ジャミルはニヤリと口角を上げる。
「みんな忙しくて、俺たちなんか見てないよ」
「はい、あーん」と促してやると、アリーヤは意を決して一度きゅっ、と唇を結んだ。
「い、いただきます」
あ、と控えめに開いたアリーヤの小さい口に、やや強引にスプーンを突っ込む。本当にいった、と思いながらも、スプーン越しに手に伝わってくる、彼女の歯や舌の感触が生々しくて、ジャミルは体を震わせた。
スプーンを引っこ抜く瞬間、力が入ってしまったのか、「んっ」と少し悶えたアリーヤが、妙に色っぽく見えて生唾を飲む。
ああ、これは思ってたより、クるものがあるな……。
「おいしいです!」
そんなジャミルの葛藤も知らずに、アリーヤはパァッと表情を明るくさせて、両手で口元を押さえた。無邪気な彼女はとても愛らしい。そう思うと同時に、少しだけ、罪悪感がわく。
「……お行儀が悪いな、プリンセス」
「あ……だ、誰にも言わないでくださいね……」
イジワルしたのは俺のほうなのに、こういう反応をしてくるあたり、この人は──
口元にあった手で、今度は赤くなっている頬を押さえるアリーヤを前に、ジャミルはたまらない気持ちになった。
初めて会ったときは、ずいぶん大人びているなと思った記憶があるが、普段の生活では見せる機会がないというだけで、本当は年相応で、ちょっぴり世間知らずで、ウブで可愛い人なのだとわかってきた。
「まあ俺も、味見なんていうのは建前だから」
思い立って、彼女の食べ終わったスプーンに残ったソースを、ベロッと舌を出して、見せつけるように舐めとる。アリーヤの顔が、さらに真っ赤に染まる。ああ、可愛くてしょうがない。
「これで共犯だな」
ジャミルがそう言うと、アリーヤもはにかみながら肩を揺らし、二人で笑い合った。
そうして向けられる好意は、どうにも心地良いものだった。こんな時間が続けばいい、なんて、現実から目をそらしたくなるくらいには。
叶わない恋だなんて、始めからお互いにわかりきっていたのに。今ならまだ、思春期の可愛らしい恋で済ませられる。
来月から、お互いハイスクールに入れば、そう会うこともないだろう。それでいいのかもしれない。
そうしてそのうち、いい思い出にでも変わればいい。ハイスクールを卒業すれば、彼女は自分の
そのあとの食事会で、事件は起こった。
アジームとアリーヤの一族が、用意された食事を囲み、晩餐会が開かれる。料理は次々とひっきりなしに厨房から運ばれてくるので、ジャミルはそれをテーブルに並べる仕事に追われていた。
「アリーヤもコレ、食べないか? ジャミルの作った揚げ饅頭、旨いぜ!」
「はい、ぜひ」
皿に乗った料理の数々を選んでいくカリムと、その隣の席でうなずくアリーヤ。カリムの言葉を聞いて、彼のそばにいた給仕が取り皿に手際よく分けていく。
ジャミルは皿を両手と両脇いっぱいに乗せて立ち回りながら、その様子をときどき眺めていた。先ほどの厨房での余韻がまだ冷めていない、そんな気分だった。
「……お待たせいたしました」
新しい料理を、カリムとアリーヤの席の間に立ち、二人の前に置く。「おっ、キョフテか。いい匂いだなー!」とカリムが今にもかぶりつきそうな勢いで言った。
「カリム……相手は女性なんだから、食べてもらう量には気を遣え。なんでもかんでも乗せるな」
「えっ? でも、アリーヤなら食べきれるよな?」
「あ、えぇっと……」
「だから彼女に言わせるなって」
デリカシー、と小声で釘を刺すが、カリムはよくわかっていない顔つきで、それを見たアリーヤは苦笑いした。自分も散々彼女を"食いしん坊"だとからかっておいて言うことではないかもしれないが。
「大丈夫です。カリム様、温かいうちに頂きましょう」
「おう! そうだな!」
「どれも本当に美味しそうで、迷ってしまいますね」
そう言ってアリーヤが、テーブルの奥に置かれた、ガス水の入った金属製のゴブレットを手に取った。
彼女の口元へ運ばれるそれが、ジャミルの目の前を通ったとき、気付く──この微かな気配、覚えがあった。ハッとして目を見開く。
ジャミルは、振りかぶれる距離だけ渾身の力で腕を引き寄せ、ゴブレットを持ったアリーヤの手をバシィッ、とそのまま甲で
「きゃあっ!?」
バシャッ、と勢いよく炭酸水が、声を上げたアリーヤのドレスにかかり、フロアに落ちたゴブレットはガランガランと大きな音を立てて転がる。
「ど、どうしたんだよジャミル!?」
「おい、無礼者! 何をやってるんだ!」
従者の突飛な行動と、姫君の悲鳴にざわつくテーブル。カリムが椅子から立ち上がって驚いていると、王族の護衛の男がジャミルを咎めるように怒鳴りつけた。
そのジャミルの視線の先には、彼女のドレスの上とフロアにこぼれた液体──それがふつふつと、まるで沸騰でもしたように泡立っている。どう見ても、炭酸のはじけ方ではない。
すると、透明だったはずの液体は、みるみる真っ黒な色に変化し、じゅわり、と音を立てて気化し始めた。
「毒の魔法薬が入ってる……!」
ジャミルが激しい剣幕で口にすると、テーブルについていた人間たちは一斉に立ち上がって狼狽し、宴会場にはたちまち悲鳴や怒号が飛び交い始めた。
「おい!! 給仕は何をしてる!」
「食事を出していた者を全員呼べ!」
「アリーヤ様! 吸い込まないようにコレで押さえて!」
「ンッ!」
ジャミルはそばにあったまっさらのナプキンを引っつかんで、後ろから彼女の口元を覆い、手をつかんで握らせた。それから、そばに控えていた彼女の侍女を呼び出す。
「ハニーファ様、姫様のお召し物を! すぐに着替えれば大丈夫ですから!」
「か、かしこまりました! 姫様、こちらへ!」
呆然としてしまうのも仕方ない、ジャミルの声かけで慌てて我に返った侍女は、アリーヤの手を取り、立ち上がらせる。
「庁舎の方へ誰か逃げたぞ!」
「追え!!」
「カリム何やってる! 安全が確認できるまで部屋にいろ!」
「わ、わかった!」
「カリム様、お供します! 急ぎましょう」
侍女に手を引かれて客室へ戻るアリーヤを心配そうに見つめて突っ立っていたカリムを、ジャミルが激しい口調で責めると、別の従者が彼に付いて奥へ連れて行った。
先ほどまで和やかな雰囲気だった宴会場は、もはや騒然となっていた。
コンコンコン、と客室の扉をノックする。
「失礼します……アリーヤ様?」
「どうぞ、お入りになって」
中から彼女の声がしたのを確認して、ジャミルはそっとドアノブに手をかけた。
アジーム邸の中でもかなり広い、風呂付きの大きな客室を与えられていた彼女は、所在なさそうにドレッサーの椅子に腰掛けていた。そばには、先ほどの侍女が立って控えている。
よく見ると、さっきまでの食事会用のドレスではなく、色も控えめでシンプルなドレスに着替えていた。侍女に手伝ってもらったのだろう。
「……ハニーファ、少し外してもらえる?」
「かしこまりました」
ノックの時点で、声の主がジャミルだとわかっていたのか、アリーヤは入室を確認すると、すぐに侍女を部屋の外へ出した。バタン、と背後で扉が閉まったのを見届けてから、ジャミルはアリーヤに向き直り、頭を下げる。
「先ほどは、大変失礼いたしました」
「いいえ、助けていただいたのですから。恩人です」
アリーヤが椅子から立ち上がって、ジャミルの元へ近付いてくる。
ここへ来る前に、アリーヤを診断したアジームお抱えの医師からは、体に毒の影響はないと報告は受けていた。ジャミルの素早い対処が、功を奏したようだった。
アリーヤも、このような事態に遭遇するのは初めてではないのか、あんな目に遭ってもずいぶん落ち着いた様子だ。ひとまず胸をなでおろす。
「よくお気付きになられましたね。先ほどお医者様と共に来られた魔法士の方にお伺いしましたら、どうやら発泡性の毒薬だったようで……ごまかすために、炭酸水に入れていたとか」
「はい。前にも似たような毒を目にしたことがあったので……あとは、魔法薬独特の匂いというか、空気といいますか」
「さすがですね。ジャミル様に、名門の魔法士養成学校からお声がかかるのも、必然でしょう」
狙われたのはカリムだったのかもしれないが、先に口を付けたのがアリーヤだったのは、刺客にとって誤算だった可能性もある──その刺客がどうなったかは、アリーヤにいま言うべきではないし、彼女も自分に聞くつもりはないだろう。
「お父様から何か」
「ああ、とんでもない。俺は別に……」
謝礼や詫びに関しては、今頃アジームや自分の両親がそんな話をしているはずだ。どちらにせよ、予定どおり彼女はここで一夜を過ごす。外には昼間よりも警備や衛兵が一段と増えていた。
いや、別にそんなことはどうだっていい。そんなことよりも、ジャミルには気になることがあってここへ来たのだった。
「あの……手、ケガしてないか? 思いっきり叩いてしまったから……」
つい敬語が抜けて、彼女が胸の下で組んでいる手を見つめてしまう。日が暮れてきた中で、客室用の薄明るいライトではその状態もよくわからなかった。
「えぇ。私はこのとおり、何ともありませんよ」
「本当に? 腫れていたり、痕になっていたりは……」
「そんなにご心配なさらずとも……そこまでおっしゃるのでしたらほら、よくご覧になって」
アリーヤは苦笑いして重ねていた両手を広げ、その甲をジャミルの前に差し出すようにした。
やはり先ほど厨房で見たとおり、華奢で細長い、美しい指先。ジャミルは自らの両手で、眼前の二つの手をそれぞれ軽く取って、目を凝らして確かめた。
すると、ふいにきゅっ、とアリーヤの指先が、ジャミルの手を強く握ってきた。
「アリーヤ様……?」
「あっ……これは、その、」
何かと思って顔を上げれば、アリーヤはつい、とでも言うように慌てて手を離そうとした。その離れそうになった彼女の両手を、ジャミルはもう一度強くつかんで引き寄せた。
「えっ、あっ……」
アリーヤが勢い余って前のめりに倒れそうになったところを、ジャミルが体で支える。
ふわり、と香ってくるのは、アプリコットの独特の甘さだった。華やかな食事会に合わせた、熱砂の国らしい
再び、アリーヤの手に目を落とす。俗に言う"箸より重いものを持ったことがない"、などというのが冗談だとしても、彼女なら信じてしまいそうだ。当然、包丁なんて絶対に握ったことがないのだろう。
生まれたときから王族だった彼女だからこそ、この手を持っていることにも納得がいく。美しい、傷一つない、なめらかな肌。
「ジャミル様……」
こちらを見上げてくる、彼女の潤んだ瞳に、自分が映っている。抑えられないこの想いは、もう、とどまることを知らない。
ジャミルは自分の中に眠る、魔物のような、異形の者が目覚める感覚をおぼえた。
『瞳に映るはお前の
『
詠唱を行えば、アリーヤは目を見開き、次の瞬間がっくりとうなだれた。
「……あ…………うぅ、」
全身の力が抜けて、うめき声を漏らしながら、ジャミルにすがるように倒れ込んでくるアリーヤを、優しく抱き留める。
それにしても、あっさりと侍女を出て行かせて、二人きりになるなんて、俺はずいぶん信頼されているんだな。なんて不用心で、いじらしいことか。
「アリーヤ」
初めて、敬称もなく、彼女の名を口にした。腕の中の彼女の体温が、服越しに伝わってくる。
「大丈夫だ、アリーヤ……ゆっくり……俺に身を委ねろ」
彼女の耳元に唇を寄せ、まるで悪魔のささやきのように、まじないをかけるように。
「ジャミル……様……」
頭をもたげたアリーヤの顔は、熱に浮かされたようにぼうっとしていて、目の焦点が合っていない。そのあられもない姿に、無意識に自身の唇を舐めた。
「アリーヤ……お前の主人の名は?」
「……はい…………あなたさまです、ジャミル様」
そう答えると、彼女の瞳が真っ赤に染まり、やがてこちらを捕らえた。
「どうか思いのままに……ご主人様」
ゾクゾクッ――彼女のその言葉に、全身の毛が奮い立つような快感がジャミルの躰を走った。脳髄が痺れる。ああ、あまりの刺激に腰が砕けそうだ。
自分の中で、冷めることのない興奮を感じながら、ジャミルは続けた。
「君は……俺のことが好きなんだろう?」
そうだ。婚約のことなんて忘れて、その欲求に、素直になってくれればいいのだから。
「はい……ジャミル様……」
「それで……カリムのことは、どう思ってる?」
はっ、ざまあみろ。彼女が好きなのは俺だ、お前じゃない。
俺のところへ来い。あいつのことなんて、捨ててしまえ。
「誰なの? カリムって……?」
彼女の発言からして、ユニーク魔法はしっかり効いている。まだこの魔法を物にしてから間もないとはいえ、効果は絶大だった。
口角が上がるのを抑えられず、ニタァとジャミルはほくそ笑んだ。
「あいつのことは何とも思わない……そう言えよ、なあ?」
「私は……」
ジャミルの腕の中で、アリーヤの美しい両手が、頬を優しく包んでくれる。しっとりとした手のひらの感触と、香の甘ったるさが心地よくて、目を細めた。
「私には、ジャミル様がいる……」
欲しい。彼女が欲しい。
そんな、身も心も熱くなるジャミルと反比例するように、彼女は冷たい瞳と声でその言葉を放った。
「あんな人、どうでもいいわ」
ブツンッ、と。
それが発された瞬間、まるで糸が切れたように、ジャミルの洗脳魔法が解けた。この手の魔法は、術者の精神状態の影響が一番大きいことくらい、わかっていた。
「…………ぁ……れ……? あたし……?」
アリーヤを抱き留めていたジャミルの両腕はだらりと力が抜け、支えのなくなった彼女は一人くらくらする頭を抱えている。
今の今まであれだけ
気付いてしまった。魔法で手に入れたって、意味がないことに。自分はどうやら、まやかしを好きになるわけではないらしい。理由はわかっている。
アリーヤがカリムに、そんなことを言うはずがないのだ。そんなことを言うアリーヤは、俺が欲しいアリーヤではない。
美しく、聡くて、穏やかに、ときに愛らしいしぐさと、優しさで包み込んで、ほほ笑んでくれる──そんな彼女が好きだ。
悔しいが、そんな彼女にとって、カリムも大切な"友だち"なのだから──
「ジャミル様……?」
まだ少しぼんやりした顔で、アリーヤは目の前で立ち尽くしているジャミルの背中に右手を添え、そっと覗き込むようにして声をかけた。
「いかが……なさいましたか?」
しばらく呆けていたジャミルが、その声でようやく、彼女に視線を移した。見下ろして、目が合った。そこには心配そうに自分を見つめる、アリーヤがいる。ゆっくりと、目を見開いた。
さっきまで危険な目に遭っていたのは、彼女のほうだというのに。そんな彼女を見て、自分がどれだけ酷いことをしたか、そこで思い知った。
自己満足で、アリーヤをカリムから奪ってやった気に勝手になって、刹那の優越感に浸っていただけだ。
別に、相手がカリムだから奪い取りたかったわけじゃない。それなら誰でもいいわけじゃない。身分も関係ない。
ただ、アリーヤという人が、好きで、たまらない。
「……厨房でも、思ったんだ」
「え?」
その言葉の意味がわからなかったのか、聞き返すアリーヤの前で、ジャミルは右膝を突いた。
いきなり目の前で跪く男に驚いた様子の彼女の、居所をなくし宙に浮く右手──自分の体に添えられていたその手を、右手で掬い上げるように取る。
「あまりに……綺麗で……」
彼女を汚すなんて、できない。
その美しい手と指先に、忠誠のキスをした。
「ジャミル様……」
恋する乙女の純粋さ。頬を赤く染めて、うっとりとため息を漏らす彼女が、こんなにも愛おしい。見つめ合った先にあるアリーヤの瞳は、まるで夜空をそのまま映したように煌めいていて、いつまでも見ていたかった。
バンッ!
「アリーヤ!! 大丈夫か!?」
突然、勢いよく開けられた客室の扉の音に驚いて、ハッとそちらを振り向く二人。飛び込んできたのは、カリムだった。
あのとき従者に守られて、身の安全が確認できるまで自室に連れて行かれていたはずだった。
「ジャミルもいたのか! まだお礼が言えてなかったな」
パッ、とアリーヤが右手を引っ込める。カリムはいつものようにニコニコした顔で、ジャミルのことを労った。
「ありがとう! あそこで気が付くなんて、さすがジャミルだ」
「カ、カリム様……」
誰とも目を合わせられず、たじろいでいるアリーヤを見て、ジャミルは膝を突いた状態からゆっくり立ち上がると、眉をひそめて言った。
「おい……女性の部屋にノックもせず入る奴があるか」
「ああ! そっか、ごめん!」
慌てるカリムの後ろでは、開いた扉の向こうで、申し訳なさそうに侍女が顔を覗かせていた。
「す、すみません。お止めしたのですが、アリーヤ様が心配だからと、お聞き入れにならず……」
すると、カリムは今にも泣きそうな、心配そうな表情でアリーヤに駆け寄り、彼女の両肩をつかんだ。びっくりしている彼女の前で、体の隅々まで確認するように首をあちこち動かしている。
「どこか悪いところはないか? ごめんなあ、怖い思いさせて」
「わ、私は大丈夫です。ジャミル様のおかげで、何ともありません」
「本当か!? よかったあ~」
その言葉でようやく安心したのか、今度は別の意味で泣きそうになっているカリムに、アリーヤは思わず吹き出してしまった。
「ふふ、そんな顔しないでください。お心遣い、感謝いたします」
「アリーヤ……本当によかった」
心から喜んでいるという表情で、アリーヤの手を両手で取るカリム。そんな彼に、彼女は優しくほほ笑みかけている。
そんな二人を目の当たりにしたジャミルは、さっきまでのアリーヤとのやりとりも、全て幻だったかのように思えてきて、動けないでいた。
こんなに俺たちは強く想い合っているのに、最後に彼女の手を取るのは俺ではなく、カリムなのか。
結局そうだ。結局全部カリムが持っていく。今までも、全部あいつに譲ってきてやったのに。
ふざけるな。
ジャミルは、途轍もない憤りを覚えた。
アリーヤは──アリーヤだけは、絶対に譲ってやるもんか。お前より、俺のほうが彼女を好きだし、彼女もきっとそのはずなのだから。
ジャミルは自分の中で、先ほど目覚めたばかりの魔物が、うごめいているような気配を感じていた。
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