2:こんな暮らしきっといつかは
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婚礼前の宴は、日が落ちてからも大いに盛り上がっていた。
熱気の収まる気配のないアジーム邸の夜、涼しい風が通る広々とした中庭に、男女二人の笑い声が響いた。
「じゃあ、もしかして腹減ってるんじゃないか?」
「えぇ、実は少し」
二人だけで涼みにいきたいと、アリーヤは従者たちに告げて、カリムと外に出た。
手を繋いで、ゆっくりと庭の景色を楽しむ二人の様子は、明日の花婿と花嫁が仲睦まじく談笑している──そんなふうにしか見えない。
踊り子の衣装は冷えるから、とカリムが肩にかけてくれたローブが落ちないよう、空いた手で襟元を引っ張りながら、アリーヤは少し暗い足元に注意して続ける。
「たくさんの方が話しかけてくださるので、美味しそうなお食事になかなかありつけなくて。残念に思っていました」
「アリーヤはその綺麗さに加えて、存外健啖家だからなあ」
「やだわ、はしたないので……」
「いっぱい食べることはいいことじゃないか。オレはそういう姿、好きだけどな!」
「相変わらずお上手ね」
「ホントのことだぞ?」
数歩進んで、時折振り返っては、中庭の入り口に目を向ける。何かあったときのために、アリーヤとカリムの従者がそれぞれ控えているが、先ほど大広間でカリムの後ろに立っていた、彼の姿は見当たらない。
今はカリムと婚約者を装 っ て い る とはいえ、彼に見られるのはやはり気が引ける。
「ジャミルなら、手早く食事を済ませてくるって言ってたぞ。宴の最中、全然手を付けてなかったからさ」
「そう、ですか」
そんなアリーヤの行動に気が付いたのか、察したのかはわからないが、カリムに図星を突かれて、少し恥ずかしくなった。
ところが、急にカリムが繋いだ手をアリーヤの目の前に上げたかと思うと、ぐっと顔を寄せてきた。アリーヤにしか聞こえないくらいの声で、ひっそりと囁く。
「まあ、そんなこと言って、オレとアリーヤが仲良くしてるところ、あんまり見たくなかったのかもなっ」
「あいつ、意外とヤキモチ妬きだったりしてなあ」と、笑いながら空を見上げるカリムの言葉に、空いている手を口元にやって吹き出してしまう。
「もう、カリム様ったら」
「ははっ! ちょっとからかってみたくなったんだ」
許せよ、と和ませるカリムだが、裏表のないカリムだったら実際許せてしまうのも彼の魅力だと、アリーヤもわかっていた。今の一瞬で熱くなった頬に、吹き付ける夜の風が冷たくて心地良い。
中庭の中央に置かれた小さな──小さいといっても一般的には十分大きいが、噴水の水音が夜の静かな空間で、気持ちの良い音を奏でている。
近付くと、水の中からライトアップされ乱反射した光が、二人の褐色の肌の上で、ゆらゆらと揺れていた。
「座ろう。踊って大勢と話して、少し疲れたろう?」
「ありがとうございます」
先に噴水の縁 に腰掛けると、カリムはアリーヤの手を握ったまま支えるようにして、隣に座らせた。
「寒くないか?」
「はい、大丈夫です。お召し物も、ありがとうございます」
アリーヤが礼を言うと、カリムは笑顔で応えた。
それを見て改めて、自身のしようとしているとんでもないことを思い知らされる。
こんなに優しくて、お心が広くて、素晴らしい人を、明日、自分は裏切るのだ。
ただおかしなことに、彼もそれを知っている。ロイヤルウェディングを"茶番"にするというのに、協力しようという。
彼らの在学中も、何度も何度も綿密に打ち合わせた計画だった。
「……先ほども申し上げましたが、お二人からのお手紙、とても勇気をもらいました。本当に嬉しかった」
「そうかそうか! 何よりだ」
カリムは繋いだ手に反対の手を添えて、両手でしっかりとアリーヤの手を包んだ。そこへ向けていた目線を上げれば、彼が自分を力強く見つめている。
「心は、決まったか?」
それは、明日の結婚に対してではない。アリーヤは、カリムのその言葉の"本当の意味"を理解していた。
"覚悟を決めたか?"
アリーヤは一度目を閉じて、息を吸い込み、その包んだ手の上に、さらに自分の空いている手を重ねた。カリムのルビーのように輝く瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。
「はい」
手を握り返すと、カリムはまた、いつものように人懐っこい笑みを浮かべてニッコリと笑いながら、「それは良かった」とうなずいた。
実行は明日だ。やることは決まっている。もう、後戻りはできないし、するつもりもない。
あの日からずっと、思い描いてきた夢でもあった。
その日は、アリーヤの王家の邸宅で、年に一度の、収穫を祝う宴が開かれる日だった。
当時アリーヤは14歳で、王族や貴族が多く通う、女子校のミドルスクールに通っていた。夕方、お付きの運転手の迎えの車で帰宅し、ブックバンドでまとめた教科書を片手に邸宅内を歩いていると、庭のほうから子どもたちの楽しそうな声がたくさん聞こえてきた。
宴のこともあったので、その声の原因はすぐにわかった。そちらへ向かってみれば、案の定先に邸宅に来ていたカリムが、自身の大勢の弟妹たちと、広い庭で遊んでいる。
「おっ! アリーヤ、おかえり! 先にお邪魔してたぞ!」
「あっ、姫様、こんにちはー!」
「アリーヤ姫! どこにいってたの?」
「こんにちはー!」
アリーヤの帰宅に気付いたカリムがこちらに大きく手を振ると、弟妹たちも口々に挨拶する。周りを30名近い弟妹に囲まれているカリムは、まるでプリスクールの先生のようで、思わず吹き出してしまった。
彼は、初めて会ったときに『友だちになろう』と言ってくれたことを、本当に実行してくれていた。
許嫁という肩書は関係なく、スクールであった出来事を教えてくれたり、最近アジーム家で仕入れた品物を見せてくれたり、時折それを、アリーヤに似合いそうだったから、と笑ってプレゼントしてくれたり。
生まれや立場上、本当の友人と呼べる人間が少ないアリーヤにとっては、どれもとても嬉しい出来事だった。
「カリム様、こんにちは。どうぞ、祭事の時間までごゆるりとお過ごしください」
「オレの弟や妹たちまで招待してもらって、悪いなあ。人数多いのに」
「いえ、ご遠慮なさらず。大勢で賑やかなのは楽しいですから。それに、」
「おねえさま! おかえりなさい!」
「おかえりなさーい!」
鈴を転がすような、可愛らしい声が二つ。カリムの弟妹たちに交ざっていた二人の少女が、アリーヤの膝に駆け寄ってきた。
その姿に顔が綻ぶのを感じながら、アリーヤは膝を折り、自身の幼い妹たちに目線を合わせて話しかける。
「ただいま。いい子にしてた? カリム様にきちんとご挨拶した?」
「ああ! 礼儀正しくていい子だったぞ! な?」
「うん!」
「ちゃんとあいさつしたよ!」
二人の小さな頭を順に撫でて、柔らかな頬を包むように擦ると、気持ちよさそうに目を細めるのが何ともいじらしい。
「カリム様のご弟妹 がいらっしゃると、こうして妹たちも喜びますから」
「そうかそうか、みんな歳も近いもんな!」
そう言って、今度はカリムがアリーヤの妹たちの頭を撫でる。二人とも、彼にすっかり懐いていた。
そこでふと思い出して、アリーヤは辺りを見渡した。すると、やはり彼はそばにいた。カリムの従者なのだから、当然だ。
「よし、お前たち! 次はオレが鬼だ! 10数えたら追いかけるぞ!」
「みんなにげろー!」
「キャー!」
彼は、子どもたちの遊びには交ざらず、庭の端に備え付けられたベンチに一人腰掛けている。手元には、本らしきものが見えた。
もちろん、彼らがケガなどしないよう気を配っていはいるのだろうが、家族団欒の邪魔になると思ったのか、束の間の休息といったところだろうか。
「アリーヤの妹たちも、おいで!」
「おねえさま!」
「……えっ」
妹たちに呼び止められ、ハッとする。慌ててそちらを見下ろすと、向こうに駆けていったカリムの方を指さして、二人が懇願していた。
「ねぇ、いいでしょう?」
「あそんでくるね!」
「え、えぇ。気を付けてね」
「わーい!」
大喜びで妹たちがカリムとその弟妹の輪に入っていくのを見届ける。その微笑ましい光景と、笑顔のカリムを目にして、アリーヤは少し顔を伏せた。
婚約どおり彼と結婚すれば、将来生まれた子どもが男の子でも女の子でも、どれだけの人数がいても、あんなふうに同じだけの愛を注いでくれるに違いない。
また、たとえ子どもに恵まれなかったとしても、共に話し合って、将来のため良い手段を、彼は見つけてくれる気がする。文句のつけようがない相手だ。
「なのに、あたしは……」
なのに、なぜだろう。このまま結婚してはいけない、と思うのは。
アリーヤが顔を上げる。その視線の先にはカリムではなく、一人静かにベンチに腰掛けて本に親しんでいる、ジャミル・バイパーがいた。
「ジャミル様も、本がお好きなんですか?」
庭で走り回る子どもたちを横目に、アリーヤはベンチへと歩み寄り、彼に声をかけた。
すると、手元の本から顔を上げたジャミルが、「アリーヤ様、」と立ち上がろうとしたので、すかさずそれを制する。
「ああ、そのままで結構ですから。こんにちは。今日は祭事に来てくださり、ありがとうございます」
「あ、はい……失礼します」
「こんにちは」と座り直した彼の、蛇のように鋭利な三白眼がこちらを捕らえた。その目で見られると、なぜだか動けなくなってしまいそうになる。
それと同時に、ずっと見ていたくなる思いも沸き起こってくるのだ。この感情の説明が、自分でもできない。
「お隣、よろしいですか?」
「どうぞ」
従者の彼が断ることなどできるわけがないとわかっているのに、こんな聞き方をしてしまうのは、ズルいだろうか。だが、同じ年頃の従者──しかも異性となると、どう接するのが正解なのかもわからない。
彼の主人 であるカリムは"友だち"だと言って接してくれるが、ジャミルはそれをあまり快く思っていないのは、アリーヤも気が付いていた。
「学校帰りですよね? お疲れのところ、すみません。カリムの奴、浮かれてはしゃいでしまって」
隣に腰掛けたアリーヤの、膝に置いた教科書に目をやって、彼は軽く頭を下げた。やはり、よく気の付く人だ。
「いいえ。妹たちもあのように楽しんでいますし、むしろありがたいです」
「そう、でしたか」
彼はそれ以上は何も言わず、走り回っている主人と子どもたちをぼうっと眺めた。
カリムとは異なり、ジャミル自身はアリーヤに対し、まだ心を開いてくれていない──もちろん、従者という立場が理由でもあるだろうが、それは目に見えてわかった。
彼は、同い年とは思えないほど達観していて、カリムの世話をいつも完璧にこなしているイメージだった。きっと頭も良く、何でも器用にそつなくこなせる人間なのだろう。
むしろもっとできるであろうに、まだどこかに余裕を持っていて、手を抜いているという印象すらあった。
そして、いつもどこか冷たい目をしていた。主人のカリムがあれほど明るい性格なので、余計にそう感じるだけかもしれないが。
それでも、彼と少しでも親しくなれたらと、アリーヤは思っていた。
そのほうが、今後カリムと長い付き合いになるとしたら、必要なことだから──というのは言い訳だということも、自分でわかっていた。単純に、アリーヤ自身が、彼に興味があったのだ。
ふと彼の手の中にある本をよく見ると、何やら見覚えのある表紙だった。それに気付いて、「あ、」とつい声が漏れる。
「その本、旅行記ですよね」
「はい。ご存知なんですか?」
そう言ってジャミルは、驚いた顔でアリーヤを見た。
「意外でしょうか」
「失礼……ただ、王族の方が読むイメージがなくて」
「あら。私 、活字が好きなので、何でも読みますよ。どんな物語も、どんなエッセイも」
「読書がお好きというのは、おうかがいしております」
正直、アリーヤのほうも意外だった。真面目な彼は、お堅い魔導書でも読んでいるのではないかと思っていたのだ。勝手な先入観を持ってしまい、少々申し訳なく思う。
「お母様のお部屋の本棚に、その冒険家の著書が揃っているんです。私も以前、一読しました」
「また改めて読んでみようかしら」と、独り言を発すると、ジャミルが隣でパラパラと手持ち無沙汰にページを繰る音が聞こえた。
「その本の、特に『輝石の国』についての一節が好きなんです」
「雪景色とか……オーロラとかですかね」
「はい、どれも熱砂の国にはないものばかりで。とても興味があります」
「確かに。わかります」
そう言うと、ジャミルの口角が少しがったような気がした。アリーヤはそれを見て、ちょっぴり嬉しくなった。すると、今度はジャミルのほうから話を続けた。
「自分は、『歓喜の港』にも行ってみたいですね」
「美しい港町で知られる場所ですね。海を眺めるのも好きなので、素敵です」
どうやら共通の話題に、少しは話をする気になってくれたようだ。アリーヤは両手を合わせて、小さく喜ぶしぐさを見せた。
「私、そこの名物だという、"ベニエ"を一度食べてみたいと思っているんです」
「ベニエ……確か、ドーナツに似た揚げ菓子でしたっけ」
書籍の内容がしっかり頭に入っているようで、ジャミルはそう言って本を開くと、記載のあるページを探し始めた。活字を指でたどる彼の横で、同じように本を覗き込む。
「"ガンボ"という食べ物についても、記述があったかと。美味しそうだなあ、と思った記憶があります」
「アリーヤ様……」
ふと、こちらに向けられる視線を感じてジャミルのほうを見ると、目が合った。彼の整った顔が思ったよりも近くにあって、ドキッとする。
彼は目を見開きながらも、少々言いにくそうに続けた。
「なんというか、その……意外と食いしん坊、ですね」
彼のその言葉にしばらく思考が停止して、パチパチとまばたきしたあと、カァッと赤くなったのが、自分でもわかるほど頬が熱くなった。
確かに食べることは好きだが、そんなふうに言われるとは思ってもみなかった。卑しい女だと、引かれてしまっただろうか。
それを見たジャミルは、ハッとして頭を下げた。
「あっ、いえ、失礼しました!」
「ああ、忘れてください……恥ずかしい……」
思わず両手で顔を覆うようにしてうつむくと、「……ははっ!」と聞いたことのない彼の笑い声が響いた。えっ、と少し驚いて顔を上げる。
ジャミルは、片手のこぶしで口元を隠すようにして、笑いを堪えていた。
「いえ、いつも姫君はお す ま し の印象なので……ふっ……可愛らしいなと、思って……っ」
くくっ、と堪えきれず、くしゃっと破顔するジャミルの、あの蛇のような鋭い瞳が、きゅっ、と縮んで光った。初めて見る表情だった。ああ、この方はこんなふうにも笑えるのか。
恥ずかしいのとは別に、体が熱くなるのを感じた。それから、もっと彼の屈託ない素直な表情を見てみたい、と思った。今のジャミルの目は、冷たくなんてなかった。
アリーヤは、そんな彼に惹かれ始めていた──それが、良くないことだと知りながら。
─────────────────────────
「もうっ……そんなに笑わないでください」
そう言って、めずらしく拗ねたしぐさをしてみせるアリーヤは、年相応の"14歳の女のコ"に見えた。
いつもの大人びた雰囲気も様にはなっているが、そんな振る舞いは、ある意味それ以上に、ジャミルには魅力的に思えた。
「大変失礼いたしました、姫様」
まだ笑いが収まりきっていない声で、ジャミルはわざとらしく、手を自分の胸に添えて頭を下げた。
するとアリーヤは、むっ、と唇を尖らせて腕組みする。それがまた、普段行儀の良い彼女は腕組みしなれていないのがわかって、ますますおかしい。
「いつもは名前で呼んでくださるのに、そういうときに限って私を"姫"と呼ぶのは、いかがなものかと思います」
「だって君が、からかいたくなるようなこと言うから……あっ」
砕けた雰囲気に、つい口調が変化してしまったことに気付く。
慌てるジャミルだったが、アリーヤはむしろ、どこか嬉しそうに両手を合わせてほほ笑んでいた。
「構いませんよ。私とジャミル様は、お友だちなんですから」
それでもとっさに謝ろうとしたが、『友だちになる』というのは、初めて会ったときに自分で了承した手前、否定もできなかった。
そんな葛藤に気付いているのか、アリーヤは「カリム様に話すのと、同じように話してください」と言った。ハッキリ口に出されてしまえば、断る選択肢はジャミルにない。
「……わかった。そうするよ」
眉根を寄せながらも笑ってみせると、アリーヤも楽しそうにふふ、と笑みを浮かべた。頭の良い彼女のことだから、してやられたような気もする。
「では、祭事のあとで、お母様のお部屋に行きませんか? 気になる本があれば、お貸しいたします」
「それは、俺が入っていいものなのか?」
「もちろん。それに、今はどなたも使用していませんから」
アリーヤの母は、彼女が幼い頃に病で亡くなったと聞く。その後彼女の父は再婚、新しい奥方との間に産まれたのがいま、目の前でカリムの弟妹に交ざって遊んでいる、アリーヤの腹違いの妹二人である。
そして、娘三人という男児の跡継ぎに恵まれず、困っていたであろうところに浮上したのが、カリムの結婚話だ。常にアリーヤの婿探しをしていたであろう彼女の親たちは、これ幸いと許嫁候補に名乗りをあげたのだ。
「アリーヤ様のお母上様は、元から王族で?」
「いいえ。元はとある貴族に仕える使用人でした。社交場で、お父様に見初められたそうです」
よく知りもしない、それも身分の違う使用人相手にとなると、よっぽどの美貌だったのだろうと想像できる。そしてそれは、アリーヤにもしっかり遺伝しているらしい。
「元々好奇心旺盛な方だったようで……今思えば、ずっと外の世界に憧れていたんでしょう。他国のお話が書かれた本が好きなのも、それでだと思います」
「ああ、そういう……」
ジャミルは手元の旅行記に目を落としながら、彼女の話に耳を傾けた。
「それなのに宮殿からは出してもらえず、男児の世継ぎにも恵まれず……肩身の狭い思いだったのかもしれませんね」
どちらにせよ身分の違いで、アリーヤの母が結婚を断るというのは難しかっただろう。王家に嫁いでからは、不遇の人生だったのかもしれない。
「女の私がお家 のためにできることは、価 値 あ る 結 婚 だけなんです。それが、お父様と……お義母 様のお望みでもあります」
同じ『おかあさま』という呼び方でも、響きが違うので義母のことを指しているのはすぐにわかった。
彼女が謙虚で賢く、大人びているのは、そういった身の上があるからかもしれない。
ただ、この歳にして人間が出来過ぎているとなると、少々難癖をつけたくなる、というのは、自分の性格が悪いのだろうか。それとも、彼女がどこか主人に似ているからだろうか。
「お父上様や、今のお后様は、お嫌いか?」
「まさか、そんな……」
我ながら、意地の悪い質問だと思う。そのあんまりな言い方に、彼女も絶句している。
しかし、賢くて優しい彼女が言い淀んでしまうほどには、アリーヤが今の親に冷遇されていることの察しはついた。
「ああー! 捕まったぁー!」
「兄ちゃん弱ぇー!」
「アハハハ!」
しばらく沈黙が続いていると、カリムと子どもたちのそんな声がポンッと耳に届いて、二人はほぼ同時に顔をそちらへ向けた。少し顔の強張っていたアリーヤも、その光景に顔が綻んでいる。
「ああ……でも、妹たちは本当に素直で愛らしいと思うんです」
カリムたちと遊んでいる二人の妹を眺めながら、彼女はそう言った。
その想いは、実際にナジュマという妹がいるジャミルにも、わかる気がした。わがままで生意気で腹が立つことも多いが、妹という存在は、やはり可愛いと思えるものだった。
「だからあの子たちには、私やお母様にはできなかった、自由な生き方をしてほしい」
「こんな……囚われの身のような生活、味わわせたくないんです」
「囚われの身……」
酷なたとえに、思わず反芻してしまった。アリーヤの綺麗な顔がじわりと歪んでいくのを、初めて見た。
「……誰かに決められたことに従って生きていると、自分が自分ではなくなっていくというか……本当の自分って何なのか、どこにいるのか、それすらもときどき、忘れてしまいそうになるんです」
ひゅっ、とそこでジャミルは、息を飲み込んだ。「十二分な生活をしていて……何を贅沢言ってるんでしょうね」と肩をすくめて、無理に笑ってみせる彼女のその言葉は、驚くほどすんなり理解できた。
「……わかるよ」
この距離で目を合わせるのも気恥ずかしくて、ジャミルは正面を向いて、カリムと子どもたちを眺めるフリをしながら応えた。
えっ、と視界の端で、アリーヤがこちらを振り向く。その同情は、軽率なつもりなどまるでなかった。「わかるよ、その気持ち」
「俺も生まれたときから、両親含め、家族でアジームの家に仕える立場だったから」
他人にペコペコ頭を下げる親の姿というのは、見ていて気分の良いものではなかった。
「いつだって、一番はカリムじゃなくちゃいけないと、決められて生きてきた」
「今まで、自由に生きられたことなんて、あるんだろうか、と……ときどき、思う」
ああ、こんな発言──彼女からカリムにでも伝わったらどうなるだろう。
それでも言わずにはいられなかったし、アリーヤはそれを誰かに告げ口なんてしないと、どこかで確信があったのかもしれない。
「そりゃあ……一国の姫様に比べたら、ちっぽけな悩みかもしれないけれど」
「いいえ」
「人の悩みに、大きさなんてございません」と、アリーヤはかぶりを振る。
「ありがとうございます、おっしゃってくださって」
「ジャミル様は、お優しいですね」
「別に……優しくなんかない」
アリーヤが言うような、そんなイイものじゃない、本当に。それでも、打ち明けるようなことをしてしまったのは、相手が彼女だからだったのだろう。
「いいえ。優しいんですよ」
「え?」
アリーヤはめずらしく、そう言って譲らなかった。
「ジャミル様は、カリム様の優しさを一番理解していて……そしてジャミル様はきっと、それ以上に優しいのです」
「常に主人を立てなければならない生活は、気苦労も多いことでしょう」
ギクッ、と肩が跳ね上がる。なぜ──君は、それがわかってしまうんだ。
「どうして……」
「私も同じだからです」
目線が重なった。ふと、まばたきのタイミングが合った。
「私も、カリム様が優しすぎて、ときどき気後れしてしまうくらいなんです」
「内緒ですよ」と人差し指を唇に当てて、アリーヤは困ったように笑う。
「たとえば……少し前に、『アリーヤには、好きな人とかいないのか?』といつもの調子で聞かれたときは、さすがに驚きました」
「あいつはホントに……」
それを聞いて、ジャミルは頭を抱えたくなった。
まったく、自分の婚約者相手に何てこと聞いてるんだ、あいつは。同級生が"恋バナ"をするノリじゃないんだぞ。
「おそらく、形だけの婚約に私の気持ちが追い付くのを、待ってくださっているのだと思います」
ただ正直、ジャミルから見てもこの二人のやりとりは、"良き友人"の枠を出ない。二人を一番近くで見ている自分がそう思うのだから、きっと違いない。
「ごめんなさい……こんなこと、ジャミル様にしか話せないので、つい」
「あー……」
そう言われてしまうと、複雑だ。まあ、逆を言えば自分も、打ち明けられるのは彼女くらいだった。その悩みの種が、同じ『カリム・アルアジーム』という男なのだから、皮肉なものだ。
アリーヤは、子どもたちとじゃれ合うカリムを直視できない、とでもいうように、少し目を伏せた。
「だから、カリム様には……私より、もっとふさわしい方がいらっしゃるのではと、思ってしまうんです」
どこまでも優しい人なのだと思った。君も大概、カリムといい勝負だな。
「今はただ、あの方の優しさに、甘えてしまっているだけなんだと思います。それが、いつまで続くのか……」
「いつまでって、それは……」
「それでも、私が今すぐ自由になりたいと望めば……カリム様なら、その願いもどうにか叶えてくださるんじゃないかって」
アリーヤはそこで、ジャミルの手の中にある本に、そっと手を添えた。指先が少しだけ重なる。人の体温が心地良かった。
「そしたら、この本に書いてある場所にも、行ってみたいんです」
「ジャミル様も……いかがです?」
「えっ」
突然の誘いに驚いていると、その隙にひょいっと本を奪われる。彼女はいつもどおり、でも少しいたずらっぽく笑っていた。
「いつか、二人で行ってみませんか?」
その言葉に、何かがぐらり、とジャミルの中で揺らいだ。優しい口調のはずなのに、頭を後ろから殴られたような、鈍い衝撃だった。
アリーヤと、二人で──この国ではない、どこか遠くへ──そんな状況になることなんて、つまり、それは、
「君は……」
君は、"その言葉の意味"を、わかっているのか?
「ジャミル! アリーヤ! 二人でなんの話してるんだ?」
そう問いただす前に、主人の声が脳内でパチンと響いて、ジャミルはハッとした。目の前のアリーヤは、ごまかすでもなく、手に持った本をカリムに見せてほほ笑む。
「ふふ、ジャミル様の読んでいる本について、お話していました」
「へぇ! 二人はオレとちがって賢いからなあ。オレは小難しい話はニガテだ」
子どもたちとはしゃいで疲れたのか、一人ベンチへ近付いてきたカリムが、頭を掻きながら苦笑いして言った。
走り回っていたせいか、頭に巻いたターバンがズレているのが、気になってしょうがない。ああ、あとで直してやらないと。
「でも、ちょっとは打ち解けられたみたいでよかったぜ! ジャミルの奴、せっかく話す機会を与えても、アリーヤが綺麗だから緊張する、って言うんだ」
「えっ?」
「は……はぁ!? そんなこと言ってないだろ!」
カリムの突飛な発言に、思わず身を乗り出す。
正確には、アリーヤと無理やり仲良くさせようとしてくるカリムの行動が面倒だったので、それらしい理由をつけようと『相手は身分の高い王家の人間なんだから、緊張するのは当然だ』としか言っていない。どう曲解したらそうなるんだ。
必要のない勘違いをされても困る、とジャミルがアリーヤのほうを見ると、彼女はよくわかっていない様子で首をかしげている。そして、自分の発言の問題点に気付いて、慌てて訂正した。
「ああいや、君が綺麗じゃないとかそういう意味じゃなくて! 君は綺麗だから! ホントに……」
「まあ」
アリーヤが声を上げて、ほんのり赤く染めた頬を片手で押さえるようにした。つられてこっちまで赤くなったのが、鏡を見ずともわかる。
「何を言ってるんだ俺は……」と、文字どおりつい頭を抱えた。
「ジャミルー、何を照れてるんだよ?」
「お前が余計なこと言うからだろう!?」
そう強く言い返してやると、アリーヤがクスクス、と肩を揺らした。
「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」
「おっ、そう見えるか?」
「……だとしたら、君の目はどうかしてる」
「えぇ!? なんてこと言うんだ、ジャミル!」
一瞬嬉しそうにしたカリムが、ジャミルの言葉にショックを受けていると、彼女はあはは、と今度は口を開けて笑った。
そのアリーヤが、細めていた目をこちらに向けると、ジャミルの目を捕らえた瞬間、元の黒く輝きを放つ丸い瞳に戻った。口元には笑みを携えたまま、もう一度人差し指をその唇に当てて『内緒』のポーズをしてみせる。
さっきの言葉が、また頭をよぎった。あれは、彼女なりの戯れだったのだろうか、それとも──
しかし、そのときのアリーヤの瞳は、そんな冗談めいた様子はなくて、どこまでも真っ直ぐで、それこそ気後れしてしまいそうなほどだった。
(あの方は、三つ目の願いを使って、自由にしてくださるかもしれない。)
熱気の収まる気配のないアジーム邸の夜、涼しい風が通る広々とした中庭に、男女二人の笑い声が響いた。
「じゃあ、もしかして腹減ってるんじゃないか?」
「えぇ、実は少し」
二人だけで涼みにいきたいと、アリーヤは従者たちに告げて、カリムと外に出た。
手を繋いで、ゆっくりと庭の景色を楽しむ二人の様子は、明日の花婿と花嫁が仲睦まじく談笑している──そんなふうにしか見えない。
踊り子の衣装は冷えるから、とカリムが肩にかけてくれたローブが落ちないよう、空いた手で襟元を引っ張りながら、アリーヤは少し暗い足元に注意して続ける。
「たくさんの方が話しかけてくださるので、美味しそうなお食事になかなかありつけなくて。残念に思っていました」
「アリーヤはその綺麗さに加えて、存外健啖家だからなあ」
「やだわ、はしたないので……」
「いっぱい食べることはいいことじゃないか。オレはそういう姿、好きだけどな!」
「相変わらずお上手ね」
「ホントのことだぞ?」
数歩進んで、時折振り返っては、中庭の入り口に目を向ける。何かあったときのために、アリーヤとカリムの従者がそれぞれ控えているが、先ほど大広間でカリムの後ろに立っていた、彼の姿は見当たらない。
今はカリムと婚約者を
「ジャミルなら、手早く食事を済ませてくるって言ってたぞ。宴の最中、全然手を付けてなかったからさ」
「そう、ですか」
そんなアリーヤの行動に気が付いたのか、察したのかはわからないが、カリムに図星を突かれて、少し恥ずかしくなった。
ところが、急にカリムが繋いだ手をアリーヤの目の前に上げたかと思うと、ぐっと顔を寄せてきた。アリーヤにしか聞こえないくらいの声で、ひっそりと囁く。
「まあ、そんなこと言って、オレとアリーヤが仲良くしてるところ、あんまり見たくなかったのかもなっ」
「あいつ、意外とヤキモチ妬きだったりしてなあ」と、笑いながら空を見上げるカリムの言葉に、空いている手を口元にやって吹き出してしまう。
「もう、カリム様ったら」
「ははっ! ちょっとからかってみたくなったんだ」
許せよ、と和ませるカリムだが、裏表のないカリムだったら実際許せてしまうのも彼の魅力だと、アリーヤもわかっていた。今の一瞬で熱くなった頬に、吹き付ける夜の風が冷たくて心地良い。
中庭の中央に置かれた小さな──小さいといっても一般的には十分大きいが、噴水の水音が夜の静かな空間で、気持ちの良い音を奏でている。
近付くと、水の中からライトアップされ乱反射した光が、二人の褐色の肌の上で、ゆらゆらと揺れていた。
「座ろう。踊って大勢と話して、少し疲れたろう?」
「ありがとうございます」
先に噴水の
「寒くないか?」
「はい、大丈夫です。お召し物も、ありがとうございます」
アリーヤが礼を言うと、カリムは笑顔で応えた。
それを見て改めて、自身のしようとしているとんでもないことを思い知らされる。
こんなに優しくて、お心が広くて、素晴らしい人を、明日、自分は裏切るのだ。
ただおかしなことに、彼もそれを知っている。ロイヤルウェディングを"茶番"にするというのに、協力しようという。
彼らの在学中も、何度も何度も綿密に打ち合わせた計画だった。
「……先ほども申し上げましたが、お二人からのお手紙、とても勇気をもらいました。本当に嬉しかった」
「そうかそうか! 何よりだ」
カリムは繋いだ手に反対の手を添えて、両手でしっかりとアリーヤの手を包んだ。そこへ向けていた目線を上げれば、彼が自分を力強く見つめている。
「心は、決まったか?」
それは、明日の結婚に対してではない。アリーヤは、カリムのその言葉の"本当の意味"を理解していた。
"覚悟を決めたか?"
アリーヤは一度目を閉じて、息を吸い込み、その包んだ手の上に、さらに自分の空いている手を重ねた。カリムのルビーのように輝く瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。
「はい」
手を握り返すと、カリムはまた、いつものように人懐っこい笑みを浮かべてニッコリと笑いながら、「それは良かった」とうなずいた。
実行は明日だ。やることは決まっている。もう、後戻りはできないし、するつもりもない。
あの日からずっと、思い描いてきた夢でもあった。
その日は、アリーヤの王家の邸宅で、年に一度の、収穫を祝う宴が開かれる日だった。
当時アリーヤは14歳で、王族や貴族が多く通う、女子校のミドルスクールに通っていた。夕方、お付きの運転手の迎えの車で帰宅し、ブックバンドでまとめた教科書を片手に邸宅内を歩いていると、庭のほうから子どもたちの楽しそうな声がたくさん聞こえてきた。
宴のこともあったので、その声の原因はすぐにわかった。そちらへ向かってみれば、案の定先に邸宅に来ていたカリムが、自身の大勢の弟妹たちと、広い庭で遊んでいる。
「おっ! アリーヤ、おかえり! 先にお邪魔してたぞ!」
「あっ、姫様、こんにちはー!」
「アリーヤ姫! どこにいってたの?」
「こんにちはー!」
アリーヤの帰宅に気付いたカリムがこちらに大きく手を振ると、弟妹たちも口々に挨拶する。周りを30名近い弟妹に囲まれているカリムは、まるでプリスクールの先生のようで、思わず吹き出してしまった。
彼は、初めて会ったときに『友だちになろう』と言ってくれたことを、本当に実行してくれていた。
許嫁という肩書は関係なく、スクールであった出来事を教えてくれたり、最近アジーム家で仕入れた品物を見せてくれたり、時折それを、アリーヤに似合いそうだったから、と笑ってプレゼントしてくれたり。
生まれや立場上、本当の友人と呼べる人間が少ないアリーヤにとっては、どれもとても嬉しい出来事だった。
「カリム様、こんにちは。どうぞ、祭事の時間までごゆるりとお過ごしください」
「オレの弟や妹たちまで招待してもらって、悪いなあ。人数多いのに」
「いえ、ご遠慮なさらず。大勢で賑やかなのは楽しいですから。それに、」
「おねえさま! おかえりなさい!」
「おかえりなさーい!」
鈴を転がすような、可愛らしい声が二つ。カリムの弟妹たちに交ざっていた二人の少女が、アリーヤの膝に駆け寄ってきた。
その姿に顔が綻ぶのを感じながら、アリーヤは膝を折り、自身の幼い妹たちに目線を合わせて話しかける。
「ただいま。いい子にしてた? カリム様にきちんとご挨拶した?」
「ああ! 礼儀正しくていい子だったぞ! な?」
「うん!」
「ちゃんとあいさつしたよ!」
二人の小さな頭を順に撫でて、柔らかな頬を包むように擦ると、気持ちよさそうに目を細めるのが何ともいじらしい。
「カリム様のご
「そうかそうか、みんな歳も近いもんな!」
そう言って、今度はカリムがアリーヤの妹たちの頭を撫でる。二人とも、彼にすっかり懐いていた。
そこでふと思い出して、アリーヤは辺りを見渡した。すると、やはり彼はそばにいた。カリムの従者なのだから、当然だ。
「よし、お前たち! 次はオレが鬼だ! 10数えたら追いかけるぞ!」
「みんなにげろー!」
「キャー!」
彼は、子どもたちの遊びには交ざらず、庭の端に備え付けられたベンチに一人腰掛けている。手元には、本らしきものが見えた。
もちろん、彼らがケガなどしないよう気を配っていはいるのだろうが、家族団欒の邪魔になると思ったのか、束の間の休息といったところだろうか。
「アリーヤの妹たちも、おいで!」
「おねえさま!」
「……えっ」
妹たちに呼び止められ、ハッとする。慌ててそちらを見下ろすと、向こうに駆けていったカリムの方を指さして、二人が懇願していた。
「ねぇ、いいでしょう?」
「あそんでくるね!」
「え、えぇ。気を付けてね」
「わーい!」
大喜びで妹たちがカリムとその弟妹の輪に入っていくのを見届ける。その微笑ましい光景と、笑顔のカリムを目にして、アリーヤは少し顔を伏せた。
婚約どおり彼と結婚すれば、将来生まれた子どもが男の子でも女の子でも、どれだけの人数がいても、あんなふうに同じだけの愛を注いでくれるに違いない。
また、たとえ子どもに恵まれなかったとしても、共に話し合って、将来のため良い手段を、彼は見つけてくれる気がする。文句のつけようがない相手だ。
「なのに、あたしは……」
なのに、なぜだろう。このまま結婚してはいけない、と思うのは。
アリーヤが顔を上げる。その視線の先にはカリムではなく、一人静かにベンチに腰掛けて本に親しんでいる、ジャミル・バイパーがいた。
「ジャミル様も、本がお好きなんですか?」
庭で走り回る子どもたちを横目に、アリーヤはベンチへと歩み寄り、彼に声をかけた。
すると、手元の本から顔を上げたジャミルが、「アリーヤ様、」と立ち上がろうとしたので、すかさずそれを制する。
「ああ、そのままで結構ですから。こんにちは。今日は祭事に来てくださり、ありがとうございます」
「あ、はい……失礼します」
「こんにちは」と座り直した彼の、蛇のように鋭利な三白眼がこちらを捕らえた。その目で見られると、なぜだか動けなくなってしまいそうになる。
それと同時に、ずっと見ていたくなる思いも沸き起こってくるのだ。この感情の説明が、自分でもできない。
「お隣、よろしいですか?」
「どうぞ」
従者の彼が断ることなどできるわけがないとわかっているのに、こんな聞き方をしてしまうのは、ズルいだろうか。だが、同じ年頃の従者──しかも異性となると、どう接するのが正解なのかもわからない。
彼の
「学校帰りですよね? お疲れのところ、すみません。カリムの奴、浮かれてはしゃいでしまって」
隣に腰掛けたアリーヤの、膝に置いた教科書に目をやって、彼は軽く頭を下げた。やはり、よく気の付く人だ。
「いいえ。妹たちもあのように楽しんでいますし、むしろありがたいです」
「そう、でしたか」
彼はそれ以上は何も言わず、走り回っている主人と子どもたちをぼうっと眺めた。
カリムとは異なり、ジャミル自身はアリーヤに対し、まだ心を開いてくれていない──もちろん、従者という立場が理由でもあるだろうが、それは目に見えてわかった。
彼は、同い年とは思えないほど達観していて、カリムの世話をいつも完璧にこなしているイメージだった。きっと頭も良く、何でも器用にそつなくこなせる人間なのだろう。
むしろもっとできるであろうに、まだどこかに余裕を持っていて、手を抜いているという印象すらあった。
そして、いつもどこか冷たい目をしていた。主人のカリムがあれほど明るい性格なので、余計にそう感じるだけかもしれないが。
それでも、彼と少しでも親しくなれたらと、アリーヤは思っていた。
そのほうが、今後カリムと長い付き合いになるとしたら、必要なことだから──というのは言い訳だということも、自分でわかっていた。単純に、アリーヤ自身が、彼に興味があったのだ。
ふと彼の手の中にある本をよく見ると、何やら見覚えのある表紙だった。それに気付いて、「あ、」とつい声が漏れる。
「その本、旅行記ですよね」
「はい。ご存知なんですか?」
そう言ってジャミルは、驚いた顔でアリーヤを見た。
「意外でしょうか」
「失礼……ただ、王族の方が読むイメージがなくて」
「あら。
「読書がお好きというのは、おうかがいしております」
正直、アリーヤのほうも意外だった。真面目な彼は、お堅い魔導書でも読んでいるのではないかと思っていたのだ。勝手な先入観を持ってしまい、少々申し訳なく思う。
「お母様のお部屋の本棚に、その冒険家の著書が揃っているんです。私も以前、一読しました」
「また改めて読んでみようかしら」と、独り言を発すると、ジャミルが隣でパラパラと手持ち無沙汰にページを繰る音が聞こえた。
「その本の、特に『輝石の国』についての一節が好きなんです」
「雪景色とか……オーロラとかですかね」
「はい、どれも熱砂の国にはないものばかりで。とても興味があります」
「確かに。わかります」
そう言うと、ジャミルの口角が少しがったような気がした。アリーヤはそれを見て、ちょっぴり嬉しくなった。すると、今度はジャミルのほうから話を続けた。
「自分は、『歓喜の港』にも行ってみたいですね」
「美しい港町で知られる場所ですね。海を眺めるのも好きなので、素敵です」
どうやら共通の話題に、少しは話をする気になってくれたようだ。アリーヤは両手を合わせて、小さく喜ぶしぐさを見せた。
「私、そこの名物だという、"ベニエ"を一度食べてみたいと思っているんです」
「ベニエ……確か、ドーナツに似た揚げ菓子でしたっけ」
書籍の内容がしっかり頭に入っているようで、ジャミルはそう言って本を開くと、記載のあるページを探し始めた。活字を指でたどる彼の横で、同じように本を覗き込む。
「"ガンボ"という食べ物についても、記述があったかと。美味しそうだなあ、と思った記憶があります」
「アリーヤ様……」
ふと、こちらに向けられる視線を感じてジャミルのほうを見ると、目が合った。彼の整った顔が思ったよりも近くにあって、ドキッとする。
彼は目を見開きながらも、少々言いにくそうに続けた。
「なんというか、その……意外と食いしん坊、ですね」
彼のその言葉にしばらく思考が停止して、パチパチとまばたきしたあと、カァッと赤くなったのが、自分でもわかるほど頬が熱くなった。
確かに食べることは好きだが、そんなふうに言われるとは思ってもみなかった。卑しい女だと、引かれてしまっただろうか。
それを見たジャミルは、ハッとして頭を下げた。
「あっ、いえ、失礼しました!」
「ああ、忘れてください……恥ずかしい……」
思わず両手で顔を覆うようにしてうつむくと、「……ははっ!」と聞いたことのない彼の笑い声が響いた。えっ、と少し驚いて顔を上げる。
ジャミルは、片手のこぶしで口元を隠すようにして、笑いを堪えていた。
「いえ、いつも姫君は
くくっ、と堪えきれず、くしゃっと破顔するジャミルの、あの蛇のような鋭い瞳が、きゅっ、と縮んで光った。初めて見る表情だった。ああ、この方はこんなふうにも笑えるのか。
恥ずかしいのとは別に、体が熱くなるのを感じた。それから、もっと彼の屈託ない素直な表情を見てみたい、と思った。今のジャミルの目は、冷たくなんてなかった。
アリーヤは、そんな彼に惹かれ始めていた──それが、良くないことだと知りながら。
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「もうっ……そんなに笑わないでください」
そう言って、めずらしく拗ねたしぐさをしてみせるアリーヤは、年相応の"14歳の女のコ"に見えた。
いつもの大人びた雰囲気も様にはなっているが、そんな振る舞いは、ある意味それ以上に、ジャミルには魅力的に思えた。
「大変失礼いたしました、姫様」
まだ笑いが収まりきっていない声で、ジャミルはわざとらしく、手を自分の胸に添えて頭を下げた。
するとアリーヤは、むっ、と唇を尖らせて腕組みする。それがまた、普段行儀の良い彼女は腕組みしなれていないのがわかって、ますますおかしい。
「いつもは名前で呼んでくださるのに、そういうときに限って私を"姫"と呼ぶのは、いかがなものかと思います」
「だって君が、からかいたくなるようなこと言うから……あっ」
砕けた雰囲気に、つい口調が変化してしまったことに気付く。
慌てるジャミルだったが、アリーヤはむしろ、どこか嬉しそうに両手を合わせてほほ笑んでいた。
「構いませんよ。私とジャミル様は、お友だちなんですから」
それでもとっさに謝ろうとしたが、『友だちになる』というのは、初めて会ったときに自分で了承した手前、否定もできなかった。
そんな葛藤に気付いているのか、アリーヤは「カリム様に話すのと、同じように話してください」と言った。ハッキリ口に出されてしまえば、断る選択肢はジャミルにない。
「……わかった。そうするよ」
眉根を寄せながらも笑ってみせると、アリーヤも楽しそうにふふ、と笑みを浮かべた。頭の良い彼女のことだから、してやられたような気もする。
「では、祭事のあとで、お母様のお部屋に行きませんか? 気になる本があれば、お貸しいたします」
「それは、俺が入っていいものなのか?」
「もちろん。それに、今はどなたも使用していませんから」
アリーヤの母は、彼女が幼い頃に病で亡くなったと聞く。その後彼女の父は再婚、新しい奥方との間に産まれたのがいま、目の前でカリムの弟妹に交ざって遊んでいる、アリーヤの腹違いの妹二人である。
そして、娘三人という男児の跡継ぎに恵まれず、困っていたであろうところに浮上したのが、カリムの結婚話だ。常にアリーヤの婿探しをしていたであろう彼女の親たちは、これ幸いと許嫁候補に名乗りをあげたのだ。
「アリーヤ様のお母上様は、元から王族で?」
「いいえ。元はとある貴族に仕える使用人でした。社交場で、お父様に見初められたそうです」
よく知りもしない、それも身分の違う使用人相手にとなると、よっぽどの美貌だったのだろうと想像できる。そしてそれは、アリーヤにもしっかり遺伝しているらしい。
「元々好奇心旺盛な方だったようで……今思えば、ずっと外の世界に憧れていたんでしょう。他国のお話が書かれた本が好きなのも、それでだと思います」
「ああ、そういう……」
ジャミルは手元の旅行記に目を落としながら、彼女の話に耳を傾けた。
「それなのに宮殿からは出してもらえず、男児の世継ぎにも恵まれず……肩身の狭い思いだったのかもしれませんね」
どちらにせよ身分の違いで、アリーヤの母が結婚を断るというのは難しかっただろう。王家に嫁いでからは、不遇の人生だったのかもしれない。
「女の私がお
同じ『おかあさま』という呼び方でも、響きが違うので義母のことを指しているのはすぐにわかった。
彼女が謙虚で賢く、大人びているのは、そういった身の上があるからかもしれない。
ただ、この歳にして人間が出来過ぎているとなると、少々難癖をつけたくなる、というのは、自分の性格が悪いのだろうか。それとも、彼女がどこか主人に似ているからだろうか。
「お父上様や、今のお后様は、お嫌いか?」
「まさか、そんな……」
我ながら、意地の悪い質問だと思う。そのあんまりな言い方に、彼女も絶句している。
しかし、賢くて優しい彼女が言い淀んでしまうほどには、アリーヤが今の親に冷遇されていることの察しはついた。
「ああー! 捕まったぁー!」
「兄ちゃん弱ぇー!」
「アハハハ!」
しばらく沈黙が続いていると、カリムと子どもたちのそんな声がポンッと耳に届いて、二人はほぼ同時に顔をそちらへ向けた。少し顔の強張っていたアリーヤも、その光景に顔が綻んでいる。
「ああ……でも、妹たちは本当に素直で愛らしいと思うんです」
カリムたちと遊んでいる二人の妹を眺めながら、彼女はそう言った。
その想いは、実際にナジュマという妹がいるジャミルにも、わかる気がした。わがままで生意気で腹が立つことも多いが、妹という存在は、やはり可愛いと思えるものだった。
「だからあの子たちには、私やお母様にはできなかった、自由な生き方をしてほしい」
「こんな……囚われの身のような生活、味わわせたくないんです」
「囚われの身……」
酷なたとえに、思わず反芻してしまった。アリーヤの綺麗な顔がじわりと歪んでいくのを、初めて見た。
「……誰かに決められたことに従って生きていると、自分が自分ではなくなっていくというか……本当の自分って何なのか、どこにいるのか、それすらもときどき、忘れてしまいそうになるんです」
ひゅっ、とそこでジャミルは、息を飲み込んだ。「十二分な生活をしていて……何を贅沢言ってるんでしょうね」と肩をすくめて、無理に笑ってみせる彼女のその言葉は、驚くほどすんなり理解できた。
「……わかるよ」
この距離で目を合わせるのも気恥ずかしくて、ジャミルは正面を向いて、カリムと子どもたちを眺めるフリをしながら応えた。
えっ、と視界の端で、アリーヤがこちらを振り向く。その同情は、軽率なつもりなどまるでなかった。「わかるよ、その気持ち」
「俺も生まれたときから、両親含め、家族でアジームの家に仕える立場だったから」
他人にペコペコ頭を下げる親の姿というのは、見ていて気分の良いものではなかった。
「いつだって、一番はカリムじゃなくちゃいけないと、決められて生きてきた」
「今まで、自由に生きられたことなんて、あるんだろうか、と……ときどき、思う」
ああ、こんな発言──彼女からカリムにでも伝わったらどうなるだろう。
それでも言わずにはいられなかったし、アリーヤはそれを誰かに告げ口なんてしないと、どこかで確信があったのかもしれない。
「そりゃあ……一国の姫様に比べたら、ちっぽけな悩みかもしれないけれど」
「いいえ」
「人の悩みに、大きさなんてございません」と、アリーヤはかぶりを振る。
「ありがとうございます、おっしゃってくださって」
「ジャミル様は、お優しいですね」
「別に……優しくなんかない」
アリーヤが言うような、そんなイイものじゃない、本当に。それでも、打ち明けるようなことをしてしまったのは、相手が彼女だからだったのだろう。
「いいえ。優しいんですよ」
「え?」
アリーヤはめずらしく、そう言って譲らなかった。
「ジャミル様は、カリム様の優しさを一番理解していて……そしてジャミル様はきっと、それ以上に優しいのです」
「常に主人を立てなければならない生活は、気苦労も多いことでしょう」
ギクッ、と肩が跳ね上がる。なぜ──君は、それがわかってしまうんだ。
「どうして……」
「私も同じだからです」
目線が重なった。ふと、まばたきのタイミングが合った。
「私も、カリム様が優しすぎて、ときどき気後れしてしまうくらいなんです」
「内緒ですよ」と人差し指を唇に当てて、アリーヤは困ったように笑う。
「たとえば……少し前に、『アリーヤには、好きな人とかいないのか?』といつもの調子で聞かれたときは、さすがに驚きました」
「あいつはホントに……」
それを聞いて、ジャミルは頭を抱えたくなった。
まったく、自分の婚約者相手に何てこと聞いてるんだ、あいつは。同級生が"恋バナ"をするノリじゃないんだぞ。
「おそらく、形だけの婚約に私の気持ちが追い付くのを、待ってくださっているのだと思います」
ただ正直、ジャミルから見てもこの二人のやりとりは、"良き友人"の枠を出ない。二人を一番近くで見ている自分がそう思うのだから、きっと違いない。
「ごめんなさい……こんなこと、ジャミル様にしか話せないので、つい」
「あー……」
そう言われてしまうと、複雑だ。まあ、逆を言えば自分も、打ち明けられるのは彼女くらいだった。その悩みの種が、同じ『カリム・アルアジーム』という男なのだから、皮肉なものだ。
アリーヤは、子どもたちとじゃれ合うカリムを直視できない、とでもいうように、少し目を伏せた。
「だから、カリム様には……私より、もっとふさわしい方がいらっしゃるのではと、思ってしまうんです」
どこまでも優しい人なのだと思った。君も大概、カリムといい勝負だな。
「今はただ、あの方の優しさに、甘えてしまっているだけなんだと思います。それが、いつまで続くのか……」
「いつまでって、それは……」
「それでも、私が今すぐ自由になりたいと望めば……カリム様なら、その願いもどうにか叶えてくださるんじゃないかって」
アリーヤはそこで、ジャミルの手の中にある本に、そっと手を添えた。指先が少しだけ重なる。人の体温が心地良かった。
「そしたら、この本に書いてある場所にも、行ってみたいんです」
「ジャミル様も……いかがです?」
「えっ」
突然の誘いに驚いていると、その隙にひょいっと本を奪われる。彼女はいつもどおり、でも少しいたずらっぽく笑っていた。
「いつか、二人で行ってみませんか?」
その言葉に、何かがぐらり、とジャミルの中で揺らいだ。優しい口調のはずなのに、頭を後ろから殴られたような、鈍い衝撃だった。
アリーヤと、二人で──この国ではない、どこか遠くへ──そんな状況になることなんて、つまり、それは、
「君は……」
君は、"その言葉の意味"を、わかっているのか?
「ジャミル! アリーヤ! 二人でなんの話してるんだ?」
そう問いただす前に、主人の声が脳内でパチンと響いて、ジャミルはハッとした。目の前のアリーヤは、ごまかすでもなく、手に持った本をカリムに見せてほほ笑む。
「ふふ、ジャミル様の読んでいる本について、お話していました」
「へぇ! 二人はオレとちがって賢いからなあ。オレは小難しい話はニガテだ」
子どもたちとはしゃいで疲れたのか、一人ベンチへ近付いてきたカリムが、頭を掻きながら苦笑いして言った。
走り回っていたせいか、頭に巻いたターバンがズレているのが、気になってしょうがない。ああ、あとで直してやらないと。
「でも、ちょっとは打ち解けられたみたいでよかったぜ! ジャミルの奴、せっかく話す機会を与えても、アリーヤが綺麗だから緊張する、って言うんだ」
「えっ?」
「は……はぁ!? そんなこと言ってないだろ!」
カリムの突飛な発言に、思わず身を乗り出す。
正確には、アリーヤと無理やり仲良くさせようとしてくるカリムの行動が面倒だったので、それらしい理由をつけようと『相手は身分の高い王家の人間なんだから、緊張するのは当然だ』としか言っていない。どう曲解したらそうなるんだ。
必要のない勘違いをされても困る、とジャミルがアリーヤのほうを見ると、彼女はよくわかっていない様子で首をかしげている。そして、自分の発言の問題点に気付いて、慌てて訂正した。
「ああいや、君が綺麗じゃないとかそういう意味じゃなくて! 君は綺麗だから! ホントに……」
「まあ」
アリーヤが声を上げて、ほんのり赤く染めた頬を片手で押さえるようにした。つられてこっちまで赤くなったのが、鏡を見ずともわかる。
「何を言ってるんだ俺は……」と、文字どおりつい頭を抱えた。
「ジャミルー、何を照れてるんだよ?」
「お前が余計なこと言うからだろう!?」
そう強く言い返してやると、アリーヤがクスクス、と肩を揺らした。
「お二人は、本当に仲がよろしいのですね」
「おっ、そう見えるか?」
「……だとしたら、君の目はどうかしてる」
「えぇ!? なんてこと言うんだ、ジャミル!」
一瞬嬉しそうにしたカリムが、ジャミルの言葉にショックを受けていると、彼女はあはは、と今度は口を開けて笑った。
そのアリーヤが、細めていた目をこちらに向けると、ジャミルの目を捕らえた瞬間、元の黒く輝きを放つ丸い瞳に戻った。口元には笑みを携えたまま、もう一度人差し指をその唇に当てて『内緒』のポーズをしてみせる。
さっきの言葉が、また頭をよぎった。あれは、彼女なりの戯れだったのだろうか、それとも──
しかし、そのときのアリーヤの瞳は、そんな冗談めいた様子はなくて、どこまでも真っ直ぐで、それこそ気後れしてしまいそうなほどだった。
(あの方は、三つ目の願いを使って、自由にしてくださるかもしれない。)
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