1:月明かりに魂も溶けそうな物語
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──こうして、悪の魔法使いは、
ご主人様の結婚相手だったお姫様 を攫うと、
もう二度と姿を現すことはありませんでした──
そこまで読み終えて、男は本を閉じた。
「悲しいおはなし……」
「お姫様かわいそう……」
男の話を隣で聞いていた少年と少女が、どこか落ち込んだような表情で息を吐く。
「そう、だからお前たちも、悪い人に騙されないように、いろんなことを学ばなくてはいけないんだ」
二人の目を見ながら、男が注意を促す。すると、子どもたちはさっきまでとは打って変わって、うきうきとした声を上げた。
「ねぇ、今度は幸せになるおはなしを聞かせて?」
「そうだよ! 悲しいおはなしよりも、楽しいおはなしが聞きたいな!」
「いいだろう、じゃあこういうのはどうだ?」
そう言うと、男は手に持っていた本をひっくり返し、もう一度表紙を開いた。少女がつまらなさそうな声を漏らす。
「えー? そのおはなしはさっきしたでしょう?」
「いや、違うかもしれないぞ?」
男は二人にほほ笑んでみせると、再びそれを読み上げ始めた。
──むかしむかし……
果てしなく砂丘が続く灼熱の国に、
美しいお姫様がおりました。
お姫様には、
小さいとき親に決められた結婚相手がおりましたが、
彼女には、他に愛する男がおりました。
しかし、結婚相手の決められていたお姫様と、
身分も違う男の結婚を、誰も許してはくれません。
愛し合っていた二人は一緒になるために、
国を出て皆から行方をくらまし、
二人きりで生きてゆくことを決意しました。
そうこれは、
いつの時代にも、どこの国にもある、
愛し合う二人が駆け落ちをする、
きっとありきたりなお話──
─────────────────────────
熱砂の国随一の絢爛たる装飾美を誇るアジーム邸は、少なくともここ一週間はずっと、朝から晩までお祭り騒ぎだった。
なにせ、明日はあ の アジーム家の長男が、いよいよ婚礼の儀を行う。
元々宴好きの国民性からか、前夜祭だなんだとかこつけて、もはや絹の街一体がお祝いムードに包まれていた。
アジーム邸の宴会場は、数百人は収容できるほど広い。宴のあいだは、常にそれほどの数の客が出入りを繰り返している。
しかも今日は、天気が良いからといって、吹き抜けの開閉式の天井が開かれ、外の光と風まで入ってくる。日が落ちてきたからか、夕暮れのオレンジ色の日が差し込んでは、空を舞う埃をチラチラ光らせた。
大広間の前方中央のステージでは、鳴り止むことなく音楽隊の演奏が続いている。
「カリム……あまり飲みすぎるなよ」
ステージ前に設置された、主役の座るローソファで、カリムは悠々とあぐらをかいている。目の前には、縁起が良いとされる豪華な料理の数々。
彼の背後に、後ろ手を組んで立ったまま待機していたジャミルは、演奏やざわめきでかき消されぬよう、屈んで彼の耳元で話しかけた。
「婚礼の儀は明日なんだ。花婿が二日酔いなんて、みっともないだろ」
「ん? なんだ、そんな心配か? へーきへーき! オレが酒強いの知ってるだろ?」
「ちゃんと備えろ、って話をしてるんだよ」
相変わらずの発言にため息が出るが、カリムはカラッと笑いながら酒の入ったゴブレットをあおる。そのゴブレットも、きらびやかな金でできた高級品だ。
「いいじゃないか、せっかくの宴だぞ? ジャミルもこっちに座って交ざればいいのに」
「俺が酔っぱらったら、誰がお前の世話をするんだ?」
「こんな日まで固いこと言うなよなー」
やれやれ、と視線を上にやって首を横に振る。アジームの従者として生まれ育って早二十年ほど、この主人 とのやりとりは変わりそうにない。
ふと、ジャミルはカリムの隣の席に目を落とした。カリムと同じ、もう一人の主役の席。今はちょうど空いている。
祝いの宴は、ここ一週間散々行われてきたが、主役が二人揃って参加するのは、前日の今日と、本番の明日だけだ。
ふいに演奏がフェードアウトし、曲が変わった。瞬間、「おっ」とカリムが食事の手を止め、めずらしく姿勢を正す。
「始まるぞ、ジャミル」
わざわざ俺を呼ばなくたって、わかってる。カリムに声をかけられるより先に、ジャミルは前方のステージに目を向けていた。
そこへゆっくりと上がってきたのは、真っ白な衣装に身を包んだ一人の女性だった。熱砂の国の出身者と一目で想起させる、焼けた素肌に艶めくほど黒々とした長い髪。
音楽に合わせ、右、左、と滑らせるように進める素足。地面を擦るほど長いスカートの、深めのスリットからさらけ出されたすべすべとした生足が、整った体幹に支えられて、ゆっくりと弧を描く。
両手に持った、衣装と同じく真っ白のシルクのヴェールを四肢に絡ませながら、彼女はこの国の伝統的な祝福の舞を披露する。観客からは歓声が沸き起こり、自然と手拍子が鳴り始めた。
彼女の姿をまともに目の前で見たのは、4年ぶりのことだった。
拍子に合わせて彼女が動きをピタリ、と止めると、衣装の腰に巻いた小さな鈴たちが、シャン、と軽やかで心地良い音を鳴らす。くねらせた腰と、回した手首。透けたヴェールが素肌にまとわりつき、スリットから覗く足首に巻かれたアンクレットが夕陽を反射した。
たおやかで妖艶──そんな言葉がピッタリだった。何より、この伝統的な踊りの衣装は、腹と腕や肩がさらされていて、露出が多いのが少々気になるところではあった。
音に合わせて腰を振る彼女の、縦筋の見える健康的な腹筋、スッと綺麗に入った切れ目のように窪んだヘソに目がいってしまって、少しだけ目をそらす。
そらした視線の先にいた座しているカリムはというと、それはもう踊りを楽しんでいるのが一目でわかるほど、ニコニコと彼女を見守るように眺めている。彼の、下心など微塵もなさそうな様子は、たまに羨ましくもなる。
「綺麗になったなあ」
ぽつり、とほほ笑みながら、ジャミルにしか聞こえないくらいの声でつぶやくカリム。いや、彼女は元から綺麗だろう、と言ってやりたくもなったが、そこはあくまで従 者 と し て 遠慮した。
曲調が変わり、タイミングを計らうように、太鼓のロールが響いた。彼女は手に持っていたヴェールを躰にまとわせると、布越しに流し目を送ってみせる。
目が合った。目線の高さからして、座っているカリムではなく、立っている自分に向けたものに違いなかった。彼女がフッ、と艶っぽく笑みを浮かべる。体温が上がる心地がした。
ああ、なんて綺麗だ。
先ほどのカリムの言葉には、やはり同意すべきだろう、と思った。あの頃にはなかった、大人の魅力を兼ね備えた彼女は、最後に会ったときよりも、ずっとずっと美しくなっていた。
「アリーヤ!」
宴のための踊りを終え、拍手も鳴り止まないうちにステージから降りてきた彼女に向かって、カリムは大声で手を振り、隣の空いたソファを示した。
それに気付いた彼女は、先ほどの妖艶なしぐさとは結び付かないような、パッと飾り気のない笑顔で駆け寄ってくる。衣装の腰の鈴が、シャラシャラと鳴り響いた。
「お久しぶりです、カリム様」
カリムの隣──花嫁の席に腰掛けると、アリーヤは両膝を折って横座りになり、カリムのほうに体を向けた。
「すっごくよかったぞ! 綺麗だった!」
「ありがとうございます」
ちょっぴり照れくさそうに笑うアリーヤは、踊っていたときとはまるで別人のように見える。その、気品はあれど、素朴で親しみやすい笑顔は、昔と変わらない。
アリーヤが、目の前に置かれたやはり金でできたデカンタを手に取り、両手を添えて、カリムが手にしたゴブレットに酒を注ぐ。
「どうぞ」「ありがとう」と、目の前で繰り広げられるやりとりは、何も知らない人間から見れば、これから新婚生活を迎える二人の、微笑ましい光景だった。
「アリーヤもどうだ?」
「でしたら、1杯だけ」
ところでさっき、飲みすぎるなとは言ったばかりだが、アリーヤの厚意まで止める理由はないだろう。
「アリーヤは昔から踊りが上手だったけど、一段と上達していたな!」
「目の肥えたカリム様に褒めていただけるなんて、光栄です」
「それはそうと、在学中はたくさんお手紙をくださって、ありがとうございました」
「ああ。オレもアリーヤからの手紙が届いてるときは、嬉しくてなあ!」
現代社会においてはスマホもあるが、彼女は本当に身内と呼べる人間以外との連絡用のそれは持ち合わせていない。王族は、何かと外との連絡手段がシャットアウトされるようだった。
「でも、毎回律儀にオレにまで送ってくれなくてよかったんだぞ? アリーヤはジャミルの、」
「カリム」
思わず主人の名を呼んで制した。カリムはハッとしてこちらを見上げてから、困ったような表情で「ごめん」と声を出さず口をぱくぱくさせた。
念のため周りを確認したが、このざわつく大広間でたとえ聞こえていたとしても、今の発言に問題があるとはだれも思わないだろう。
「大丈夫です。お気になさらないでください」
カリムとジャミルどちらにも向けた言葉なのか、アリーヤが眉をハの字にして笑う。それからそこで初めて、今の距離で目を合わせてきた。
近くで見るとより一層、彼女の美しさが際立った。状況とは裏腹に、やはり胸が高鳴る。
「お二人とも、私 の大切なお友だちであることに、変わりはないですから」
「ああ! もちろんだ!」
そんなアリーヤの言葉に、カリムはハキハキと、ジャミルは黙って軽く会釈で応えた。
彼女の言う、"お友だち"が妙に頭に残り、初めて出逢った日のことを思い出させた。
出逢ったのは、13歳のときだ。
なぜ明確に覚えてるかって、その年にカリムが刺客に仕込まれた毒に侵され、2週間昏睡状態になってしまったことがあった。その出来事が、すでに子どもの結婚について考え始めていた彼の両親にとって、嫁探しのきっかけとなったようだった。
「アリーヤと申します」
ある日、アジーム邸にやってきたカリムと同い年の娘は、洗練された立ち振る舞いで礼をした。
熱砂の国の王族──直接王政を担っている王族とは異なり、親戚筋の小さい一族にはなるが、王家の血を引く人間との婚約は、商家であるアジームにとっても大きな出来事に違いなかった。
「カリム様、どうぞよしなに」
「よろしくな!」
恭しい雰囲気の彼女と異なり、我が主人はミドルスクールの同級生にでも挨拶するように軽く手をあげて応えた。
「許嫁なんて大げさだよなー。親に勝手に決められて、お前も困ってるだろう?」
「まずは、友だちになろう!」
「えっ」
「おい、カリム」
いくら同い年とはいえ、王族の姫君に対してその言い方はどうなんだ、という思いで彼をたしなめる。
だがジャミルはこのとき、幼いなりにすでに理解していた。この婚約は最終的に、アリーヤの家のほうから願い出たことだった。アジームの財力と政治・経済力は、すでに小さな王族をしのぐほどにまで大きいものだったのだ。
「お友だち、ですか」
「おう! あ、それと、」
大きくうなずいたカリムがこちらを向いて、ジャミルの肩に手を乗せて言った。
「こっちは、オレの世話係をしてくれてるジャミル。オレの親友だ!」
"親友"というその言葉を、わざわざ今ここで否定するまではなかったが、苦虫を噛み潰したような気にもなる。
「初めまして、ジャミル様」
そんなジャミルの思いなどつゆ知らず、もう一度お辞儀をするアリーヤは、13歳とは思えないほど大人びていて、輝く玉のように美しかった。結婚相手を希望する男など数知れず、きっとお相手候補で引く手数多だろう。
同じ金持ちだとしても、商家のアジームとも全く異なる、高貴な身分のしぐさ。明らかに自分とは"住んでいる世界が違う"、そう思わせた。
それでもジャミルは従者として、彼女に対し、模範解答の台詞を読み上げてみせた。
「代々アジームに仕えております、バイパー家のジャミルと申します。アリーヤ様、何かお困り事がございましたら、自分にも遠慮なくお申し付けください」
「カ、カリム様……本当に飛べるのですか?」
「だいじょうぶだ! ほら、手を握って」
挨拶もそこそこに、何を思ったかカリムはアリーヤを庭へ連れ出すと、魔法の絨毯を呼び寄せて彼女を乗せようとしていた。魔法で飛行するなどおそらく初めてだろう彼女の顔は、十分強張っているように見えた。
「カリム! アリーヤ様を危ない目に遭わせるな」
王族の彼女の身に何かあれば、大きな問題になりかねない。アジーム家としても困るだろう。
「せっかくなら一緒に散歩でもして、仲良くなろうと思ってさ」
「他に方法はいくらでもあるだろう? 万が一ケガでもしたらどうする。それに、俺の見てないところで何かあったら、」
「なら、ジャミルも一緒に行こう。そうだ、それがいい!」
「あ、おい!」
「きゃっ」
カリムに無理やり腕を引っ張られたジャミルが二人の間へ飛び込むと、絨毯が波打ってアリーヤがバランスを崩した。
反射的に伸ばした手で、彼女の体を引き寄せる。石鹸と花の香りが混ざったような、アリーヤの服に焚き染められた香 が、ふわりと鼻を刺激した。
「アリーヤ様、大丈夫ですか? 失礼しました、カリムの奴が」
「あ、ありがとう」
驚いたであろう彼女が、見開いたままの目でうなずく。上気した頬が、熟れかけの果実のように瑞々しく見えた。
「おいカリム、いい加減に、」
「ちょっと上がるだけだって! ウチの上空だけ!」
その『ウチ』であるアジーム邸の広さをわかっているのか?、と思うが、ここまでくれば強引に押し切られてしまうのもいつものことだと予測できた。
それならば、自分が一緒にいたほうがまだマシだろう。あとで大人たちに叱られるかもしれないが。
「よし、行くぞ! 二人ともしっかりつかまれよ? それっ!」
「わっ!」
ビュウッ、と風を切る音とともに、アリーヤが声を上げた。慣れない不安定な足場がまだ怖いのか、先頭に座るカリムの腕を、しっかと後ろからつかんでいる。
そんな二人の姿を横で見ながら、まあ、どうせ婚約するのであれば、仲がうまくいくに越したことはないだろうな、とジャミルは息を吐いた。
「どうだ? 空からの景色は」
「すごい……」
アジームの豪邸の上で一度止まると、アリーヤは初めての光景に言葉を失っているようだった。
「最高だろ? アリーヤがびっくりしないよう、今日はゆっくり飛ぼうな!」
「まったく……」
調子のいい主人に思わずため息が出る。カリムの言葉どおり、絨毯は歩くくらいの速さでアジーム邸を周回するように飛んでいた。
「ん? アレは……」
ふとカリムが遠くを見つめる。その視線を追うと、空に浮かぶ無数の影が目に留まった。影はどんどんこちらへ近付いてくる。
小鳥の群れだ。そう気付いたときにはもう遅く、数十羽の小鳥たちは、三人の頭上を飛び交い、先頭のカリムを襲った。
「うわぁっ!」
「カリム様!」
「カリム、あぶない!」
彼が思わず腕で小鳥たちを払おうとしたのを見て、ジャミルは庇う体勢を取った。しかし、一番冷静だったのは意外なことに彼女だった。
「驚かせてしまってごめんなさい! 心配しないで、この方は優しいお人よ」
アリーヤがそっと両手を頭上へ差し出すようにすると、小鳥たちはたちまち落ち着いた様子で、絨毯に並ぶようにスーッと飛行した。そのうちの一羽が、アリーヤの手のひらにおさまった。
「みんなでどちらへ行かれるの? 今日はとても良い天気ですね」
こちょこちょ、と指先で小鳥のふわふわとした胸を撫でてやれば、気持ちよさそうに鳴き声を出す。その一連の出来事を、カリムとジャミルはしばらく、ポカンと眺めることしかできなかった。
「アリーヤ……鳥たちの言っていることがわかるのか?」
「正確にはわかりませんが、なんとなくは」
「すごいじゃないか!」
カリムがそう大声で笑うと、アリーヤの手に乗っていた小鳥はびっくりしたのか、ピッと飛んで行ってしまった。ジャミルも興味がわいて、つい口を開く。
「アリーヤ様は、すでにミドルスクールで動物言語学の履修を?」
「いいえ、そんな確かなものではございません。ただ、昔から動物たちに好かれる体質のようで……彼らの言っていることが、なんとなくわかるだけですよ」
「どうやら、空の上では見慣れない生き物がいて、小鳥たちも驚いてしまったみたいですね」
口元に手をやって静かにほほ笑むアリーヤに、カリムははしゃいだ様子で彼女の腕を軽く叩いた。
「いや驚いた! オレも絨毯で飛んでいて、こんな近くで鳥たちと並走したのは初めてだぞ!」
「ふふ、カリム様と新しい経験ができたようで、嬉しいです」
すると、小鳥たちの数羽がカリムの頭と肩に止まった。「おお! オレも仲良くなれそうだ!」と笑ってみせるカリムを見て、アリーヤもまた笑う。
そんなやりとりを見て、二人の仲を心配する必要はなさそうだな、とジャミルは一人胸をなでおろした。
正直、主人と許嫁の仲を取り持つなんて、それも従者の仕事だと言われてしまったら、男女関係以上に面倒なことはないとわかっていたからだ。
彼女のほうも、まともな女性で良かった。失礼な話だが、わがままで高慢ちきな姫だったら、どうしようかと思っていたくらいだ。
「アリーヤにとっては、動物たちも友だちなんだな」
「えぇ、そうですね」
「本当にすごいな! 友だちがいっぱいいて、うらやましいぜ」
しかし、その言葉にアリーヤは真顔になって少しうつむいた。出会ってからずっとにこやかだった彼女の、初めて見た表情だった。
「そんなことないですよ」
ぼそっと小さくこぼすアリーヤを見て、カリムは肩や腕に乗った小鳥たちと戯れながら、どうしたんだとその顔を覗き込むようにした。
「小さい頃から、いろんな方が声をかけてはくださるけれど……みんな私 のことを、"姫様"と呼ぶんです」
「私は結局、"姫"でしかないのでしょうか……」
そう言って笑ってはいるが、どこかさみしそうに伏した横顔は、それはそれで憂いを帯びていて綺麗だと、ジャミルは思った。
「それは、カリム様の言う"お友だち"とは、少し違うのかもしれませんね」
「アリーヤ……?」
どうやらその言葉の意味が、カリムにはよくわかっていないようだった。だが、ジャミルにはなぜかわかる気がした。
"上辺しか見ていない連中"っていうのは、どこにでもいるんだろうな。
アリーヤは、そんな戸惑うカリムに「でも、」とさっきとは打って変わって、明るく笑いかけた。
「だから、嬉しかったんです。カリム様が『友だちになろう』っておっしゃってくれたこと」
「なに言ってるんだ、当たり前だろ!」
アリーヤの言葉に喜んだカリムは、先ほどの戸惑っていた空気をサッと払いのけるように、歯を見せて答える。
「もちろん、ジャミルもだぞ!」
「は?」
急に話を振るカリムに眉をひそめていると、アリーヤもこちらを見ていることに気が付いた。目が合う。彼女の黒く大きな瞳が、ジャミルの両目をとらえた。
「ジャミル様も、私とお友だちになってくれますか?」
そうほほ笑む彼女の肩に、一羽の小鳥が止まるのを、ぼうっと眺めてしまった。
カリムと友だちなんていうのは癪だが、ここは従者として装わなくてはと、やはり模範解答で答えるしかジャミルに選択肢はなかった。
「はい……自分でよければ」
「よかった」
本当に『よかった』と思っているんだろう、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせると、肩の小鳥に手を添え、その指先に乗せてみせた。
そして、空いた手でこちらの手をそっとつかんだかと思うと、ジャミルの手のひらにその小鳥を乗せた。
「えっ?」と思わず声が出てしまう。彼女は小鳥に話しかけた。優しい声と手だった。
「だいじょうぶ、この方も優しいお人よ」
手のひらに、生き物の体温のあたたかい感触。小さいとはいえ、羽毛の柔らかさは心地良いもので、ジャミルもつい指先で撫でてしまう。
もう一度彼女を見ると、やはりあの美しい笑みを浮かべている。本当に、常に笑顔を携えた人だと思った。その様子は、どこか隣の主人にも似ていた。
「お二人とも、よろしくお願いいたしますね」
このあと──絨毯から降りたあとは、三人とも互いの大人の従者たちに、危ないじゃないかと、こってり絞られたのだが、その内容自体はあまり覚えていない。
それよりも、未だによく覚えているのは、アリーヤの昔からいつも変わらない素晴らしい笑顔と、それとは逆に、どこかさみしそうに伏したあの横顔だった。
(動物に好かれるのは、D世界のプリンセスの標準スペックみたいなものだと思っています。)
ご主人様の結婚相手だった
もう二度と姿を現すことはありませんでした──
そこまで読み終えて、男は本を閉じた。
「悲しいおはなし……」
「お姫様かわいそう……」
男の話を隣で聞いていた少年と少女が、どこか落ち込んだような表情で息を吐く。
「そう、だからお前たちも、悪い人に騙されないように、いろんなことを学ばなくてはいけないんだ」
二人の目を見ながら、男が注意を促す。すると、子どもたちはさっきまでとは打って変わって、うきうきとした声を上げた。
「ねぇ、今度は幸せになるおはなしを聞かせて?」
「そうだよ! 悲しいおはなしよりも、楽しいおはなしが聞きたいな!」
「いいだろう、じゃあこういうのはどうだ?」
そう言うと、男は手に持っていた本をひっくり返し、もう一度表紙を開いた。少女がつまらなさそうな声を漏らす。
「えー? そのおはなしはさっきしたでしょう?」
「いや、違うかもしれないぞ?」
男は二人にほほ笑んでみせると、再びそれを読み上げ始めた。
──むかしむかし……
果てしなく砂丘が続く灼熱の国に、
美しいお姫様がおりました。
お姫様には、
小さいとき親に決められた結婚相手がおりましたが、
彼女には、他に愛する男がおりました。
しかし、結婚相手の決められていたお姫様と、
身分も違う男の結婚を、誰も許してはくれません。
愛し合っていた二人は一緒になるために、
国を出て皆から行方をくらまし、
二人きりで生きてゆくことを決意しました。
そうこれは、
いつの時代にも、どこの国にもある、
愛し合う二人が駆け落ちをする、
きっとありきたりなお話──
─────────────────────────
熱砂の国随一の絢爛たる装飾美を誇るアジーム邸は、少なくともここ一週間はずっと、朝から晩までお祭り騒ぎだった。
なにせ、明日は
元々宴好きの国民性からか、前夜祭だなんだとかこつけて、もはや絹の街一体がお祝いムードに包まれていた。
アジーム邸の宴会場は、数百人は収容できるほど広い。宴のあいだは、常にそれほどの数の客が出入りを繰り返している。
しかも今日は、天気が良いからといって、吹き抜けの開閉式の天井が開かれ、外の光と風まで入ってくる。日が落ちてきたからか、夕暮れのオレンジ色の日が差し込んでは、空を舞う埃をチラチラ光らせた。
大広間の前方中央のステージでは、鳴り止むことなく音楽隊の演奏が続いている。
「カリム……あまり飲みすぎるなよ」
ステージ前に設置された、主役の座るローソファで、カリムは悠々とあぐらをかいている。目の前には、縁起が良いとされる豪華な料理の数々。
彼の背後に、後ろ手を組んで立ったまま待機していたジャミルは、演奏やざわめきでかき消されぬよう、屈んで彼の耳元で話しかけた。
「婚礼の儀は明日なんだ。花婿が二日酔いなんて、みっともないだろ」
「ん? なんだ、そんな心配か? へーきへーき! オレが酒強いの知ってるだろ?」
「ちゃんと備えろ、って話をしてるんだよ」
相変わらずの発言にため息が出るが、カリムはカラッと笑いながら酒の入ったゴブレットをあおる。そのゴブレットも、きらびやかな金でできた高級品だ。
「いいじゃないか、せっかくの宴だぞ? ジャミルもこっちに座って交ざればいいのに」
「俺が酔っぱらったら、誰がお前の世話をするんだ?」
「こんな日まで固いこと言うなよなー」
やれやれ、と視線を上にやって首を横に振る。アジームの従者として生まれ育って早二十年ほど、この
ふと、ジャミルはカリムの隣の席に目を落とした。カリムと同じ、もう一人の主役の席。今はちょうど空いている。
祝いの宴は、ここ一週間散々行われてきたが、主役が二人揃って参加するのは、前日の今日と、本番の明日だけだ。
ふいに演奏がフェードアウトし、曲が変わった。瞬間、「おっ」とカリムが食事の手を止め、めずらしく姿勢を正す。
「始まるぞ、ジャミル」
わざわざ俺を呼ばなくたって、わかってる。カリムに声をかけられるより先に、ジャミルは前方のステージに目を向けていた。
そこへゆっくりと上がってきたのは、真っ白な衣装に身を包んだ一人の女性だった。熱砂の国の出身者と一目で想起させる、焼けた素肌に艶めくほど黒々とした長い髪。
音楽に合わせ、右、左、と滑らせるように進める素足。地面を擦るほど長いスカートの、深めのスリットからさらけ出されたすべすべとした生足が、整った体幹に支えられて、ゆっくりと弧を描く。
両手に持った、衣装と同じく真っ白のシルクのヴェールを四肢に絡ませながら、彼女はこの国の伝統的な祝福の舞を披露する。観客からは歓声が沸き起こり、自然と手拍子が鳴り始めた。
彼女の姿をまともに目の前で見たのは、4年ぶりのことだった。
拍子に合わせて彼女が動きをピタリ、と止めると、衣装の腰に巻いた小さな鈴たちが、シャン、と軽やかで心地良い音を鳴らす。くねらせた腰と、回した手首。透けたヴェールが素肌にまとわりつき、スリットから覗く足首に巻かれたアンクレットが夕陽を反射した。
たおやかで妖艶──そんな言葉がピッタリだった。何より、この伝統的な踊りの衣装は、腹と腕や肩がさらされていて、露出が多いのが少々気になるところではあった。
音に合わせて腰を振る彼女の、縦筋の見える健康的な腹筋、スッと綺麗に入った切れ目のように窪んだヘソに目がいってしまって、少しだけ目をそらす。
そらした視線の先にいた座しているカリムはというと、それはもう踊りを楽しんでいるのが一目でわかるほど、ニコニコと彼女を見守るように眺めている。彼の、下心など微塵もなさそうな様子は、たまに羨ましくもなる。
「綺麗になったなあ」
ぽつり、とほほ笑みながら、ジャミルにしか聞こえないくらいの声でつぶやくカリム。いや、彼女は元から綺麗だろう、と言ってやりたくもなったが、そこはあくまで
曲調が変わり、タイミングを計らうように、太鼓のロールが響いた。彼女は手に持っていたヴェールを躰にまとわせると、布越しに流し目を送ってみせる。
目が合った。目線の高さからして、座っているカリムではなく、立っている自分に向けたものに違いなかった。彼女がフッ、と艶っぽく笑みを浮かべる。体温が上がる心地がした。
ああ、なんて綺麗だ。
先ほどのカリムの言葉には、やはり同意すべきだろう、と思った。あの頃にはなかった、大人の魅力を兼ね備えた彼女は、最後に会ったときよりも、ずっとずっと美しくなっていた。
「アリーヤ!」
宴のための踊りを終え、拍手も鳴り止まないうちにステージから降りてきた彼女に向かって、カリムは大声で手を振り、隣の空いたソファを示した。
それに気付いた彼女は、先ほどの妖艶なしぐさとは結び付かないような、パッと飾り気のない笑顔で駆け寄ってくる。衣装の腰の鈴が、シャラシャラと鳴り響いた。
「お久しぶりです、カリム様」
カリムの隣──花嫁の席に腰掛けると、アリーヤは両膝を折って横座りになり、カリムのほうに体を向けた。
「すっごくよかったぞ! 綺麗だった!」
「ありがとうございます」
ちょっぴり照れくさそうに笑うアリーヤは、踊っていたときとはまるで別人のように見える。その、気品はあれど、素朴で親しみやすい笑顔は、昔と変わらない。
アリーヤが、目の前に置かれたやはり金でできたデカンタを手に取り、両手を添えて、カリムが手にしたゴブレットに酒を注ぐ。
「どうぞ」「ありがとう」と、目の前で繰り広げられるやりとりは、何も知らない人間から見れば、これから新婚生活を迎える二人の、微笑ましい光景だった。
「アリーヤもどうだ?」
「でしたら、1杯だけ」
ところでさっき、飲みすぎるなとは言ったばかりだが、アリーヤの厚意まで止める理由はないだろう。
「アリーヤは昔から踊りが上手だったけど、一段と上達していたな!」
「目の肥えたカリム様に褒めていただけるなんて、光栄です」
「それはそうと、在学中はたくさんお手紙をくださって、ありがとうございました」
「ああ。オレもアリーヤからの手紙が届いてるときは、嬉しくてなあ!」
現代社会においてはスマホもあるが、彼女は本当に身内と呼べる人間以外との連絡用のそれは持ち合わせていない。王族は、何かと外との連絡手段がシャットアウトされるようだった。
「でも、毎回律儀にオレにまで送ってくれなくてよかったんだぞ? アリーヤはジャミルの、」
「カリム」
思わず主人の名を呼んで制した。カリムはハッとしてこちらを見上げてから、困ったような表情で「ごめん」と声を出さず口をぱくぱくさせた。
念のため周りを確認したが、このざわつく大広間でたとえ聞こえていたとしても、今の発言に問題があるとはだれも思わないだろう。
「大丈夫です。お気になさらないでください」
カリムとジャミルどちらにも向けた言葉なのか、アリーヤが眉をハの字にして笑う。それからそこで初めて、今の距離で目を合わせてきた。
近くで見るとより一層、彼女の美しさが際立った。状況とは裏腹に、やはり胸が高鳴る。
「お二人とも、
「ああ! もちろんだ!」
そんなアリーヤの言葉に、カリムはハキハキと、ジャミルは黙って軽く会釈で応えた。
彼女の言う、"お友だち"が妙に頭に残り、初めて出逢った日のことを思い出させた。
出逢ったのは、13歳のときだ。
なぜ明確に覚えてるかって、その年にカリムが刺客に仕込まれた毒に侵され、2週間昏睡状態になってしまったことがあった。その出来事が、すでに子どもの結婚について考え始めていた彼の両親にとって、嫁探しのきっかけとなったようだった。
「アリーヤと申します」
ある日、アジーム邸にやってきたカリムと同い年の娘は、洗練された立ち振る舞いで礼をした。
熱砂の国の王族──直接王政を担っている王族とは異なり、親戚筋の小さい一族にはなるが、王家の血を引く人間との婚約は、商家であるアジームにとっても大きな出来事に違いなかった。
「カリム様、どうぞよしなに」
「よろしくな!」
恭しい雰囲気の彼女と異なり、我が主人はミドルスクールの同級生にでも挨拶するように軽く手をあげて応えた。
「許嫁なんて大げさだよなー。親に勝手に決められて、お前も困ってるだろう?」
「まずは、友だちになろう!」
「えっ」
「おい、カリム」
いくら同い年とはいえ、王族の姫君に対してその言い方はどうなんだ、という思いで彼をたしなめる。
だがジャミルはこのとき、幼いなりにすでに理解していた。この婚約は最終的に、アリーヤの家のほうから願い出たことだった。アジームの財力と政治・経済力は、すでに小さな王族をしのぐほどにまで大きいものだったのだ。
「お友だち、ですか」
「おう! あ、それと、」
大きくうなずいたカリムがこちらを向いて、ジャミルの肩に手を乗せて言った。
「こっちは、オレの世話係をしてくれてるジャミル。オレの親友だ!」
"親友"というその言葉を、わざわざ今ここで否定するまではなかったが、苦虫を噛み潰したような気にもなる。
「初めまして、ジャミル様」
そんなジャミルの思いなどつゆ知らず、もう一度お辞儀をするアリーヤは、13歳とは思えないほど大人びていて、輝く玉のように美しかった。結婚相手を希望する男など数知れず、きっとお相手候補で引く手数多だろう。
同じ金持ちだとしても、商家のアジームとも全く異なる、高貴な身分のしぐさ。明らかに自分とは"住んでいる世界が違う"、そう思わせた。
それでもジャミルは従者として、彼女に対し、模範解答の台詞を読み上げてみせた。
「代々アジームに仕えております、バイパー家のジャミルと申します。アリーヤ様、何かお困り事がございましたら、自分にも遠慮なくお申し付けください」
「カ、カリム様……本当に飛べるのですか?」
「だいじょうぶだ! ほら、手を握って」
挨拶もそこそこに、何を思ったかカリムはアリーヤを庭へ連れ出すと、魔法の絨毯を呼び寄せて彼女を乗せようとしていた。魔法で飛行するなどおそらく初めてだろう彼女の顔は、十分強張っているように見えた。
「カリム! アリーヤ様を危ない目に遭わせるな」
王族の彼女の身に何かあれば、大きな問題になりかねない。アジーム家としても困るだろう。
「せっかくなら一緒に散歩でもして、仲良くなろうと思ってさ」
「他に方法はいくらでもあるだろう? 万が一ケガでもしたらどうする。それに、俺の見てないところで何かあったら、」
「なら、ジャミルも一緒に行こう。そうだ、それがいい!」
「あ、おい!」
「きゃっ」
カリムに無理やり腕を引っ張られたジャミルが二人の間へ飛び込むと、絨毯が波打ってアリーヤがバランスを崩した。
反射的に伸ばした手で、彼女の体を引き寄せる。石鹸と花の香りが混ざったような、アリーヤの服に焚き染められた
「アリーヤ様、大丈夫ですか? 失礼しました、カリムの奴が」
「あ、ありがとう」
驚いたであろう彼女が、見開いたままの目でうなずく。上気した頬が、熟れかけの果実のように瑞々しく見えた。
「おいカリム、いい加減に、」
「ちょっと上がるだけだって! ウチの上空だけ!」
その『ウチ』であるアジーム邸の広さをわかっているのか?、と思うが、ここまでくれば強引に押し切られてしまうのもいつものことだと予測できた。
それならば、自分が一緒にいたほうがまだマシだろう。あとで大人たちに叱られるかもしれないが。
「よし、行くぞ! 二人ともしっかりつかまれよ? それっ!」
「わっ!」
ビュウッ、と風を切る音とともに、アリーヤが声を上げた。慣れない不安定な足場がまだ怖いのか、先頭に座るカリムの腕を、しっかと後ろからつかんでいる。
そんな二人の姿を横で見ながら、まあ、どうせ婚約するのであれば、仲がうまくいくに越したことはないだろうな、とジャミルは息を吐いた。
「どうだ? 空からの景色は」
「すごい……」
アジームの豪邸の上で一度止まると、アリーヤは初めての光景に言葉を失っているようだった。
「最高だろ? アリーヤがびっくりしないよう、今日はゆっくり飛ぼうな!」
「まったく……」
調子のいい主人に思わずため息が出る。カリムの言葉どおり、絨毯は歩くくらいの速さでアジーム邸を周回するように飛んでいた。
「ん? アレは……」
ふとカリムが遠くを見つめる。その視線を追うと、空に浮かぶ無数の影が目に留まった。影はどんどんこちらへ近付いてくる。
小鳥の群れだ。そう気付いたときにはもう遅く、数十羽の小鳥たちは、三人の頭上を飛び交い、先頭のカリムを襲った。
「うわぁっ!」
「カリム様!」
「カリム、あぶない!」
彼が思わず腕で小鳥たちを払おうとしたのを見て、ジャミルは庇う体勢を取った。しかし、一番冷静だったのは意外なことに彼女だった。
「驚かせてしまってごめんなさい! 心配しないで、この方は優しいお人よ」
アリーヤがそっと両手を頭上へ差し出すようにすると、小鳥たちはたちまち落ち着いた様子で、絨毯に並ぶようにスーッと飛行した。そのうちの一羽が、アリーヤの手のひらにおさまった。
「みんなでどちらへ行かれるの? 今日はとても良い天気ですね」
こちょこちょ、と指先で小鳥のふわふわとした胸を撫でてやれば、気持ちよさそうに鳴き声を出す。その一連の出来事を、カリムとジャミルはしばらく、ポカンと眺めることしかできなかった。
「アリーヤ……鳥たちの言っていることがわかるのか?」
「正確にはわかりませんが、なんとなくは」
「すごいじゃないか!」
カリムがそう大声で笑うと、アリーヤの手に乗っていた小鳥はびっくりしたのか、ピッと飛んで行ってしまった。ジャミルも興味がわいて、つい口を開く。
「アリーヤ様は、すでにミドルスクールで動物言語学の履修を?」
「いいえ、そんな確かなものではございません。ただ、昔から動物たちに好かれる体質のようで……彼らの言っていることが、なんとなくわかるだけですよ」
「どうやら、空の上では見慣れない生き物がいて、小鳥たちも驚いてしまったみたいですね」
口元に手をやって静かにほほ笑むアリーヤに、カリムははしゃいだ様子で彼女の腕を軽く叩いた。
「いや驚いた! オレも絨毯で飛んでいて、こんな近くで鳥たちと並走したのは初めてだぞ!」
「ふふ、カリム様と新しい経験ができたようで、嬉しいです」
すると、小鳥たちの数羽がカリムの頭と肩に止まった。「おお! オレも仲良くなれそうだ!」と笑ってみせるカリムを見て、アリーヤもまた笑う。
そんなやりとりを見て、二人の仲を心配する必要はなさそうだな、とジャミルは一人胸をなでおろした。
正直、主人と許嫁の仲を取り持つなんて、それも従者の仕事だと言われてしまったら、男女関係以上に面倒なことはないとわかっていたからだ。
彼女のほうも、まともな女性で良かった。失礼な話だが、わがままで高慢ちきな姫だったら、どうしようかと思っていたくらいだ。
「アリーヤにとっては、動物たちも友だちなんだな」
「えぇ、そうですね」
「本当にすごいな! 友だちがいっぱいいて、うらやましいぜ」
しかし、その言葉にアリーヤは真顔になって少しうつむいた。出会ってからずっとにこやかだった彼女の、初めて見た表情だった。
「そんなことないですよ」
ぼそっと小さくこぼすアリーヤを見て、カリムは肩や腕に乗った小鳥たちと戯れながら、どうしたんだとその顔を覗き込むようにした。
「小さい頃から、いろんな方が声をかけてはくださるけれど……みんな
「私は結局、"姫"でしかないのでしょうか……」
そう言って笑ってはいるが、どこかさみしそうに伏した横顔は、それはそれで憂いを帯びていて綺麗だと、ジャミルは思った。
「それは、カリム様の言う"お友だち"とは、少し違うのかもしれませんね」
「アリーヤ……?」
どうやらその言葉の意味が、カリムにはよくわかっていないようだった。だが、ジャミルにはなぜかわかる気がした。
"上辺しか見ていない連中"っていうのは、どこにでもいるんだろうな。
アリーヤは、そんな戸惑うカリムに「でも、」とさっきとは打って変わって、明るく笑いかけた。
「だから、嬉しかったんです。カリム様が『友だちになろう』っておっしゃってくれたこと」
「なに言ってるんだ、当たり前だろ!」
アリーヤの言葉に喜んだカリムは、先ほどの戸惑っていた空気をサッと払いのけるように、歯を見せて答える。
「もちろん、ジャミルもだぞ!」
「は?」
急に話を振るカリムに眉をひそめていると、アリーヤもこちらを見ていることに気が付いた。目が合う。彼女の黒く大きな瞳が、ジャミルの両目をとらえた。
「ジャミル様も、私とお友だちになってくれますか?」
そうほほ笑む彼女の肩に、一羽の小鳥が止まるのを、ぼうっと眺めてしまった。
カリムと友だちなんていうのは癪だが、ここは従者として装わなくてはと、やはり模範解答で答えるしかジャミルに選択肢はなかった。
「はい……自分でよければ」
「よかった」
本当に『よかった』と思っているんだろう、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせると、肩の小鳥に手を添え、その指先に乗せてみせた。
そして、空いた手でこちらの手をそっとつかんだかと思うと、ジャミルの手のひらにその小鳥を乗せた。
「えっ?」と思わず声が出てしまう。彼女は小鳥に話しかけた。優しい声と手だった。
「だいじょうぶ、この方も優しいお人よ」
手のひらに、生き物の体温のあたたかい感触。小さいとはいえ、羽毛の柔らかさは心地良いもので、ジャミルもつい指先で撫でてしまう。
もう一度彼女を見ると、やはりあの美しい笑みを浮かべている。本当に、常に笑顔を携えた人だと思った。その様子は、どこか隣の主人にも似ていた。
「お二人とも、よろしくお願いいたしますね」
このあと──絨毯から降りたあとは、三人とも互いの大人の従者たちに、危ないじゃないかと、こってり絞られたのだが、その内容自体はあまり覚えていない。
それよりも、未だによく覚えているのは、アリーヤの昔からいつも変わらない素晴らしい笑顔と、それとは逆に、どこかさみしそうに伏したあの横顔だった。
(動物に好かれるのは、D世界のプリンセスの標準スペックみたいなものだと思っています。)
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