クラッカー・ジャック
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カツン、カツン、カツン──と、コンクリートで固められた階段を、彼女のヒールが鋭く叩く。
「……よくそんな靴で歩けるな」
「慣れよ、慣れ」
伊佐敷は食事の乗ったトレイを持って歩きながら、ビールのカップを手にして後ろをついてくる女性を気にしていた。彼女はピンヒールのショートブーツを履いているにも関わらず、球場の狭くて急な階段をものともせずに、背すじを伸ばしたまま、美しく階段を降りてみせる。その姿は、舞台女優が大階段を華麗に降りるときのように優雅で、ビール片手なのがそぐわないほどだ。
先ほどから、男女問わずすれ違う観客らの目を引いているのは、気のせいでもなさそうだ──ただ美人というだけでなく、彼女の身なりやしぐさには、なんだか華 があった。
「あー……亮介?」
「ああ、おかえり」
通路に面した端の外野席に腰掛けていた彼のそばで立ち止まり声をかけると、気付いた亮介は振り返った。すると、すぐ後ろにいた女性が、こちらの肩口からひょこっ、と顔を覗かせるようにした。
「あっ、おにーさんが、ジュンの“ツレの同級生”?」
「……は?」
「ちょっと失礼」と、彼女は顔をしかめる亮介の膝の前を抜け、隣の空いている伊佐敷の席の、さらに隣に座る男性客に猫なで声で話しかけた。「すみませ〜ん」
「あのぅ、あたしチケット間違えて買っちゃって〜……イイ席みたいなんで、もしよかったらコレあげますから、この席譲ってもらえません?」
ネット裏の席のチケットを差し出し、男性客とやりとりする彼女の横で、亮介は通路に立ったままでいる伊佐敷を見上げ、不審そうに彼女を指差していた。
「……誰? 知り合い?」
「いやー、その……成り行きっつうか」
「はあ?」
眉をひそめる亮介の隣で、彼女は男性とその後一言二言かわすと、互いのチケットを交換し、男性が席を立ってその場から去っていった。男性が一人で来ていたというのも幸運だった。どうやら引きの強い女性は、伊佐敷の当初の心配をよそに、あっさりと席をゲットした。
「親切な人でよかったね〜、ジュンこっち座って。あたし真ん中がいい」
「え? お、おお……」
「あ、おにーさん初めまして」
二人して席に着くと、彼女はネイルの綺麗に塗られた手をひらひらと振って、「ヨロシク」と隣の亮介に挨拶している。
「純……おまえ、なんか食べ物買いに行くって言ってたんじゃなかった? なにナンパして帰ってきてんの?」
「ナンパじゃねーよ!!」
「むしろナンパされてるところを助けてもらっちゃった」
「なにそれ」
──そこで伊佐敷は、亮介に事の顛末を説明してやった。亮介も経緯は理解したようだったが、やはり初対面の女性が突然やってきたことに対して、まだ納得がいっていない様子だった。
そりゃそうだ、弟も出る試合だし、楽しみにしてたろうからな……申し訳ねぇ。
「ふうん。まあ、あんたも初めての球場で、災難だったね」
「そーなの。でね? ヒナ、野球初心者だから、ルールとか教えてほしいの。おにーさんも経験者なんでしょ? ジュンから聞いたよ」
「あっ、もちろんタダでとは言わないから! そのビールは、あたしのオゴり」
「すでに俺が飲んでから言う?」
狙っててやったな?、と伊佐敷が手渡したビールにすでに口をつけていた亮介は、呆れた表情で女性を睨 んだ。「バレた?」と彼女は悪びれることもなく笑ってみせた。
「そういうわけで、今日はよろしく、えーっと……リョースケ?、だっけ」
「まあ、純がお人好しだから仕方ないけど、あんたが途轍もなく図々しい女 だってことはよくわかったよ」
「おにーさんめっちゃ毒舌じゃん! まじウケる」
ケラケラ笑う彼女を前に、やれやれと肩を落としてビールを飲み下す亮介を見て、伊佐敷は頭を掻 いた。なんとか丸く収まった……のか?
亮介の性格を考えると、彼女のようないわゆる“ギャル”っぽい軽薄そうなタイプはあまり好きではない。高校時代を思い出してみても、たとえば教室で騒がしい生徒がいれば、ハッキリ『うるさいんだけど』と、女子相手だろうが空気が悪くなろうがオブラートに包むことをしない男なので、見ているこっちがヒヤヒヤしたものだ。
「おにーさん、彼女 いるの?」
「なんでそんなこと教える必要があんの?」
「いや、彼女にもそんなズケズケ言うやばい男 なのかなーって思って」
「そりゃあ ん た は 彼女じゃないからズケズケ言うよ」
「ダイジョウブ安心して、ヒナがおにーさんの彼女になる予定は1ミリもないから」
「はっ、こっちこそ天地がひっくり返ってもナイね。あんたみたいなケバい女はお断り」
「ひっど! 女のコが頑張って可愛くなる努力してるのに『ケバい』はないでしょうが! 褒めろよ!」
バシッ、と亮介の背中を叩く彼女に対し、彼は迷惑そうな顔でしれっとしている。相変わらずの亮介だが、彼女のほうも負けていない。放っておいてもずっと二人で言い争っていそうなので、ある意味相性がいいのかもしれないな、とポテトをつまみ、伊佐敷もビールを煽った。
「つーかネーちゃんは、なんでルールもわかんねぇのに一人で観戦に来てんだ?」
「ああ、あたしは日奈子っていうの。気軽に『ヒナ』って呼んで」
「さては御幸が目当てとか?」
亮介が冗談混じりに笑って訊 くと、こちらに手を伸ばしてきたので、彼女を挟んでポテトの袋を渡してやった。日奈子は「えっ」と声に出して固まった。図星とも違う、妙な反応に違和感をおぼえた。
「な、なんで?」
「いや、あいつ女性ファン多いし、野球詳しくない層もけっこう付いてるイメージ」
「ミーハーな“顔ファン”ってヤツ?」と亮介がポテトをかじりながら続けると、固まっていた日奈子は、ゆっくりと動きを取り戻してうなずいていた。「ああ……そういう……」
「ヒナは面食いじゃないし。なんかー……知 り 合 い にタダ券もらってさ、もったいないから来てあげただけ」
「へぇ。意外と律儀なんだな」
素直な印象を言った。誰かに譲るという手もあったろうに、それか、言葉とは裏腹に少しは野球に興味があるのだろうか。
「まあ、ヒマだったし? ていうか詳しくないから、選手も全然知らないんだってば」
「……そのミユキって選手、そんな人気なの?」
「そのレベルで知らないの? 馬鹿にしてるとかじゃなくて、よく来ようと思ったね」
亮介が呆れながら日奈子にポテトの袋を差し出すと、彼女も一つつまんでいた。彼の言うことも一理ある。
御幸が高校の後輩という贔屓目を差し引いても、彼はもはや野球に詳しくない一般人でも知っている選手にまでなっている──まあ、二年前のスキャンダルのせいも多少あるだろうが──それでも、次の世界大会でのトップチーム代表入りは間違いないとまで言われているのだ。
「そう言うおにーさんたちは? 経験者って言ってたけど、選手については詳しい?」
「詳しい、っつうか──」
伊佐敷はそこまで答えて、日奈子の頭越しに亮介を見た。続く言葉を察したのか、彼は肩をすくめてポテトの袋をこちらに返しながら促してきたので、そのまま彼女に伝えた。
「御幸は俺たちの一つ下の後輩だ。高校んときのな」
「え、マジ? おんなじチームだったってこと?」
「ちなみに相手チームにも、あと二人後輩がいるよ」
「そのうちの一人は、亮介の弟な」
「弟、って……そんな偶然ある?」
口を押さえて引きつったように笑って見える日奈子は、また何かボソボソとつぶやいていた。「世間狭すぎ……彼の知り合いだったなんて」「コレもある意味“運命”?」
「うわ、野球全然わかんないから不安だったけど、ちょっと楽しみになってきた。その後輩たちが出てきたら教えてね」
「言ってる間に、そろそろスタメン発表だろ」
亮介がそう言って腕時計の時刻を確認していると、ベンチのほうから球団のマスコットやチアガールたちが現れた。それを見た日奈子が「あっ」と声を上げる。
「なんだっけ、“ちくぺん”?」
「なんでネットで出回ってる名前のほうだけ知ってんの」
「誰に教わったんだ?」
「えっ、ア レ ってペンギンじゃないの?」
日奈子が指さす先では、球界では有名な、御幸の所属する球団のマスコットがイベント用のバズーカを肩に担いで悠々と歩いている。
「いや確かにずんぐりしてっけど、ありゃツバメだわ」
「“スワローズ”の意味考えたらわかるだろ」
「ヒナ、アホだから英語わかんない」
「……なるほど?」
「じゃあ、あっちの青い妖怪みたいなのは? 妖怪は“カープ”と関係あんの?」
「鯉とは関係ないな」
「妖怪ってよりは、モンスターじゃねぇ?」
「腰回してめちゃくちゃ踊ってる。すごいシュール」
「ダンスうまいね〜」と、日奈子はまたケラケラ楽しそうに笑って、ポテトの塩がついた指先をペロッと舐めていた。吸いつくとチュッと音が鳴って妙にエロい。
日奈子の隣で伊佐敷が生唾を飲んでいる反対側では、亮介が彼女を見かねて「ティッシュ持ってないの?」と、バッグからウェットティッシュを取り出していた。
「ちゃんと拭けよ」
「え〜おにーさん優し〜さっきはああ言ってたけど彼女いるんじゃない?」
「調子いいな」
「割と最近、職場で逢った彼女と二、三ヶ月付き合ってすぐに別れたとか言ってなかったか」
「おまえは余計なこと言わなくていいの」
「やっぱ彼女にもキツいんだ?」
ニヤニヤしている日奈子の言葉に心当たりはあるらしく、思い出しているのか、亮介はめずらしく子どものようにむすっとした顔になっていて、カッカと笑いが込み上げる。
彼は厳しい中に確かな優しさもあって、そこに気付いた女性が彼を好きになってもおかしくないが、やはり亮介の正論と気の強さについていけずに、うまくいかないことはあるのかもしれない。
「ジュンも使う?」
「おー」
「そうやって勝手に──いいけどさ」
「笑ってるけど、ジュンは彼女いないの?」
「はっ? お、俺?」
日奈子からウェットティッシュを一枚手渡されたときにそんなことを聞かれ、つい彼女の猫のようなつぶらな瞳と目が合い、ドキッと心臓が高鳴った。
「純は学生のときの彼女と別れてから、もう二年くらいいないんじゃない?」
「なっ!」
「えー意外! 見ず知らずの女のコ助けてくれるくらい優しいんだから、絶対モテるのにぃ」
「なに言ってんの、ほら、よく見ろって」
ビールをちびちびと飲んでいた日奈子に顔を近づけ、亮介がこちらを指差してくる。
「あんな顔が怖いと、寄ってくる女子もいないんだよ」
「あーそういうことね?」
「亮介てめっ……!」
お返しと言わんばかりのことをされ言葉に詰まっていると、二人はおかしそうに笑っていた。「でもおにーさんたち二人とも優しくて、ヒナは好きだよ」
「ジュン的に、ヒナはどう? 付き合うのはアリ?」
「あァっ?」
「俺はナシ」
「リョースケには聞いてないし」
ふざけ合っている二人を横目に、素っ頓狂な声が出てしまったが、あらためて彼女の姿を見る。日奈子のように、明るくて社交的、酒も飲める、可愛らしくてスタイルもよく、会話もはずませてくれる彼女 がいれば、デートは楽しいものになるだろう。ぶっちゃけ全然ア リ だ。
「でもヒナ、今は男 募集してないし間に合ってるから。ゴメンね〜」
「は、はあ?」
「勝手に思わせぶりして勝手にフるとか。鬼畜の所業じゃん」
「女のコに『お断り』とかバッサリ言っちゃうおにーさんに言われたくありませ〜ん」
さっきまでの熱が急激に冷めていく……まあ、そもそもこれだけ魅力のある女性に、彼氏がいないことのほうがおかしいか、と自分を納得させた。
『ここで、両チームのスターティングメンバーを発表します』
そんなくだらない話をしていたら、スタジアムDJのアナウンスが流れだした。ビジターのスタメンから順に読まれているのを、日奈子も黙って聞いている。やはりわからないなりに、興味を持とうとはしているようだ。
『二番・セカンド──小湊春市』
「今のが俺の弟」
「2番っていうのは背番号?」
「そっから教えなきゃダメ? ちがう、打順だよ。攻撃側のときに打つ順番。だから毎試合変わる」
「ああ、四番とかそういうやつね」
「こ・み・な・と──あ、サジェストされた」春市について検索しているのか、日奈子は手元のスマホで彼のことを調べだした。チラッと目に入った画面には、選手情報の顔写真が表示されている。
「へー、カワイイ顔してんね。おにーさんとはあんま似てないかも?」
「兄弟だからって似てるとは限らないだろ」
「いや、笑うと瓜二つだぜ」
あとキレてるときもな、と思い出して顔が引きつる。春市は亮介よりずっと穏やかな性格でめったに感情的にならないが、怒らせたら怖いところもそっくりの兄弟だ。
それを聞いて、日奈子は画面の春市と、隣の亮介の顔を交互に見つめていた。「ふうん」「なに、人の顔ジロジロ見ないで」
「んー、ヒナはリョースケの顔のほうがタイプかな」
そう言って日奈子はフッとほほ笑んだ。さっきからずっと言い争っているくせに、なかなかた ら し の発言をする。見た目だけじゃなく、こういうところもモテる要素なのだろうな、と伊佐敷が感心していると、亮介は表情を崩さずに返していた。
「彼女になる予定はないんだろ? お世辞のつもり?」
「おにーさん照れてるでしょー」
正解、アレはちょっぴり照れている。基本的にポーカーフェイスの男なのでわかりにくいが、長い付き合いの伊佐敷にはわかった。すこし捻 くれた性格だからこそ、ストレートな言葉には案外弱いのだ。
「ヒナだっけか? なかなかやるな」
「でしょ」
「いちいち尻軽だけどね」
「よく言われる〜」
「開き直るなよ」
『それでは! スワローズのスターティングメンバーです!』
その言葉とともに、球場の大きなスピーカーからアップテンポの音楽がかかると、外野の応援席のファンたちが歓声を上げた。まず大型ビジョンに流れてきた映像は、ゆらゆらと特徴的な動きでバットを構える褐色肌の選手──伊佐敷も見覚えのある顔だった。
『一番・センター──神谷カルロス俊樹!』
「コイツも高校のとき対戦したことあんだよ」
「へぇ、やっぱプロになるくらいの選手って、覚えてるもんなんだ?」
「まあな」
「……苦い思いさせられたぜ」確かに当時から才能のある選手ではあったろうが、理由はそれ以上に“因縁”だ。その因縁の稲実にいたカルロスと同じチームで戦う御幸は、どんな気持ちでいるのだろうか。
スタメンが呼ばれる度に、外野席で立ち上がっているファンたちは各選手の応援歌を歌いだす。二番、三番、と順に読み上げられ、次にビジョンに登場したのは、おそらく本日チームで最も注目されている選手が、マスクを上げ、その整った顔立ちがあらわになる瞬間だった。
『五番・キャッチャー──御幸一也!』
ワッ、と一斉に拍手と掛け声が沸き起こる。「御幸ー!」「ホームラン打てよー!」「みゆきくーん!」野太い声に混じって、黄色い声援も多い。相変わらずの人気ぶりだ。一際大きくなった歓声に、日奈子は「すごっ、」と声を漏らし驚いて周りを見渡していた。
「こ、こんなに一人の選手に対してのファンっているもんなの?」
「まあ、今日は特にだろうね。今日ホームラン出ればシーズン大台の30本だもん」
「期待してるぜ〜気張れよ御幸〜!」
亮介の言うとおり、その瞬間を楽しみにしているファンが多いのだろう。自分たちもその中の人間だ。
「えっ、でもリョースケはどっちの味方なわけ?」
「『味方』ってなに」
「だって、弟クンは相手チームなわけでしょ?」
「関係なくない? 春市やほかの後輩たちにも活躍してほしいと思ってるのは、ただの私情だし」
それに関しては伊佐敷も同意見だった。選手個人を応援するも良し、球団全体を応援するも良し、それがたとえ同じチームでなくとも、構わないはずだ。
「身内って、そういうカンジなんだ」
「応援の仕方なんて人それぞれだろ。誰かに迷惑かけなきゃなんだっていい」
「それとは別に、こういう試合では弟も活躍をほどほどにしてほしいとかはあるけどね」
「イジワルなこと言うねぇ」
日奈子ですら苦笑いしている。伊佐敷も思うが本当に、小湊亮介という男は、身内の弟相手にはいつまでも“手厳しい兄”だ。
『そして、本日の先発投手は──向井太陽!』
ホームチームのメンバーがそれぞれ守備位置についたところで、先発の向井がマウンドに駆け上がってきた。キャッチャーマスクを着けた御幸が、ホームベースの位置から彼に向かってボールを投げる。軽くキャッチボールを済ませ、向井がマウンドの土を足で均 している。
「向井が先発だっけか」
「勝ち付けさせたいんでしょ、二桁勝利目前だし。御幸は自分の記録もかかってるから、今日は大仕事だな」
「ふうん、よくわかんないけど、リョースケほんと詳しいね」
「俺は、弟がカープ入る前からスワローズファンなの」
「始まるよ」と亮介は、どこを見ていたらいいのかわからないのかキョロキョロしていた日奈子の腕を手の甲で小突いてから、マウンドのほうを指さして、きちんと試合を観るように促した。球場内に、スタジアムDJの声が響き渡った。
『東京ヤクルトスワローズ 対 広島東洋カープ──まもなく、プレイボール!!』
(タイトルは『私を野球に連れてって』より。)
「……よくそんな靴で歩けるな」
「慣れよ、慣れ」
伊佐敷は食事の乗ったトレイを持って歩きながら、ビールのカップを手にして後ろをついてくる女性を気にしていた。彼女はピンヒールのショートブーツを履いているにも関わらず、球場の狭くて急な階段をものともせずに、背すじを伸ばしたまま、美しく階段を降りてみせる。その姿は、舞台女優が大階段を華麗に降りるときのように優雅で、ビール片手なのがそぐわないほどだ。
先ほどから、男女問わずすれ違う観客らの目を引いているのは、気のせいでもなさそうだ──ただ美人というだけでなく、彼女の身なりやしぐさには、なんだか
「あー……亮介?」
「ああ、おかえり」
通路に面した端の外野席に腰掛けていた彼のそばで立ち止まり声をかけると、気付いた亮介は振り返った。すると、すぐ後ろにいた女性が、こちらの肩口からひょこっ、と顔を覗かせるようにした。
「あっ、おにーさんが、ジュンの“ツレの同級生”?」
「……は?」
「ちょっと失礼」と、彼女は顔をしかめる亮介の膝の前を抜け、隣の空いている伊佐敷の席の、さらに隣に座る男性客に猫なで声で話しかけた。「すみませ〜ん」
「あのぅ、あたしチケット間違えて買っちゃって〜……イイ席みたいなんで、もしよかったらコレあげますから、この席譲ってもらえません?」
ネット裏の席のチケットを差し出し、男性客とやりとりする彼女の横で、亮介は通路に立ったままでいる伊佐敷を見上げ、不審そうに彼女を指差していた。
「……誰? 知り合い?」
「いやー、その……成り行きっつうか」
「はあ?」
眉をひそめる亮介の隣で、彼女は男性とその後一言二言かわすと、互いのチケットを交換し、男性が席を立ってその場から去っていった。男性が一人で来ていたというのも幸運だった。どうやら引きの強い女性は、伊佐敷の当初の心配をよそに、あっさりと席をゲットした。
「親切な人でよかったね〜、ジュンこっち座って。あたし真ん中がいい」
「え? お、おお……」
「あ、おにーさん初めまして」
二人して席に着くと、彼女はネイルの綺麗に塗られた手をひらひらと振って、「ヨロシク」と隣の亮介に挨拶している。
「純……おまえ、なんか食べ物買いに行くって言ってたんじゃなかった? なにナンパして帰ってきてんの?」
「ナンパじゃねーよ!!」
「むしろナンパされてるところを助けてもらっちゃった」
「なにそれ」
──そこで伊佐敷は、亮介に事の顛末を説明してやった。亮介も経緯は理解したようだったが、やはり初対面の女性が突然やってきたことに対して、まだ納得がいっていない様子だった。
そりゃそうだ、弟も出る試合だし、楽しみにしてたろうからな……申し訳ねぇ。
「ふうん。まあ、あんたも初めての球場で、災難だったね」
「そーなの。でね? ヒナ、野球初心者だから、ルールとか教えてほしいの。おにーさんも経験者なんでしょ? ジュンから聞いたよ」
「あっ、もちろんタダでとは言わないから! そのビールは、あたしのオゴり」
「すでに俺が飲んでから言う?」
狙っててやったな?、と伊佐敷が手渡したビールにすでに口をつけていた亮介は、呆れた表情で女性を
「そういうわけで、今日はよろしく、えーっと……リョースケ?、だっけ」
「まあ、純がお人好しだから仕方ないけど、あんたが途轍もなく図々しい
「おにーさんめっちゃ毒舌じゃん! まじウケる」
ケラケラ笑う彼女を前に、やれやれと肩を落としてビールを飲み下す亮介を見て、伊佐敷は頭を
亮介の性格を考えると、彼女のようないわゆる“ギャル”っぽい軽薄そうなタイプはあまり好きではない。高校時代を思い出してみても、たとえば教室で騒がしい生徒がいれば、ハッキリ『うるさいんだけど』と、女子相手だろうが空気が悪くなろうがオブラートに包むことをしない男なので、見ているこっちがヒヤヒヤしたものだ。
「おにーさん、
「なんでそんなこと教える必要があんの?」
「いや、彼女にもそんなズケズケ言うやばい
「そりゃ
「ダイジョウブ安心して、ヒナがおにーさんの彼女になる予定は1ミリもないから」
「はっ、こっちこそ天地がひっくり返ってもナイね。あんたみたいなケバい女はお断り」
「ひっど! 女のコが頑張って可愛くなる努力してるのに『ケバい』はないでしょうが! 褒めろよ!」
バシッ、と亮介の背中を叩く彼女に対し、彼は迷惑そうな顔でしれっとしている。相変わらずの亮介だが、彼女のほうも負けていない。放っておいてもずっと二人で言い争っていそうなので、ある意味相性がいいのかもしれないな、とポテトをつまみ、伊佐敷もビールを煽った。
「つーかネーちゃんは、なんでルールもわかんねぇのに一人で観戦に来てんだ?」
「ああ、あたしは日奈子っていうの。気軽に『ヒナ』って呼んで」
「さては御幸が目当てとか?」
亮介が冗談混じりに笑って
「な、なんで?」
「いや、あいつ女性ファン多いし、野球詳しくない層もけっこう付いてるイメージ」
「ミーハーな“顔ファン”ってヤツ?」と亮介がポテトをかじりながら続けると、固まっていた日奈子は、ゆっくりと動きを取り戻してうなずいていた。「ああ……そういう……」
「ヒナは面食いじゃないし。なんかー……
「へぇ。意外と律儀なんだな」
素直な印象を言った。誰かに譲るという手もあったろうに、それか、言葉とは裏腹に少しは野球に興味があるのだろうか。
「まあ、ヒマだったし? ていうか詳しくないから、選手も全然知らないんだってば」
「……そのミユキって選手、そんな人気なの?」
「そのレベルで知らないの? 馬鹿にしてるとかじゃなくて、よく来ようと思ったね」
亮介が呆れながら日奈子にポテトの袋を差し出すと、彼女も一つつまんでいた。彼の言うことも一理ある。
御幸が高校の後輩という贔屓目を差し引いても、彼はもはや野球に詳しくない一般人でも知っている選手にまでなっている──まあ、二年前のスキャンダルのせいも多少あるだろうが──それでも、次の世界大会でのトップチーム代表入りは間違いないとまで言われているのだ。
「そう言うおにーさんたちは? 経験者って言ってたけど、選手については詳しい?」
「詳しい、っつうか──」
伊佐敷はそこまで答えて、日奈子の頭越しに亮介を見た。続く言葉を察したのか、彼は肩をすくめてポテトの袋をこちらに返しながら促してきたので、そのまま彼女に伝えた。
「御幸は俺たちの一つ下の後輩だ。高校んときのな」
「え、マジ? おんなじチームだったってこと?」
「ちなみに相手チームにも、あと二人後輩がいるよ」
「そのうちの一人は、亮介の弟な」
「弟、って……そんな偶然ある?」
口を押さえて引きつったように笑って見える日奈子は、また何かボソボソとつぶやいていた。「世間狭すぎ……彼の知り合いだったなんて」「コレもある意味“運命”?」
「うわ、野球全然わかんないから不安だったけど、ちょっと楽しみになってきた。その後輩たちが出てきたら教えてね」
「言ってる間に、そろそろスタメン発表だろ」
亮介がそう言って腕時計の時刻を確認していると、ベンチのほうから球団のマスコットやチアガールたちが現れた。それを見た日奈子が「あっ」と声を上げる。
「なんだっけ、“ちくぺん”?」
「なんでネットで出回ってる名前のほうだけ知ってんの」
「誰に教わったんだ?」
「えっ、
日奈子が指さす先では、球界では有名な、御幸の所属する球団のマスコットがイベント用のバズーカを肩に担いで悠々と歩いている。
「いや確かにずんぐりしてっけど、ありゃツバメだわ」
「“スワローズ”の意味考えたらわかるだろ」
「ヒナ、アホだから英語わかんない」
「……なるほど?」
「じゃあ、あっちの青い妖怪みたいなのは? 妖怪は“カープ”と関係あんの?」
「鯉とは関係ないな」
「妖怪ってよりは、モンスターじゃねぇ?」
「腰回してめちゃくちゃ踊ってる。すごいシュール」
「ダンスうまいね〜」と、日奈子はまたケラケラ楽しそうに笑って、ポテトの塩がついた指先をペロッと舐めていた。吸いつくとチュッと音が鳴って妙にエロい。
日奈子の隣で伊佐敷が生唾を飲んでいる反対側では、亮介が彼女を見かねて「ティッシュ持ってないの?」と、バッグからウェットティッシュを取り出していた。
「ちゃんと拭けよ」
「え〜おにーさん優し〜さっきはああ言ってたけど彼女いるんじゃない?」
「調子いいな」
「割と最近、職場で逢った彼女と二、三ヶ月付き合ってすぐに別れたとか言ってなかったか」
「おまえは余計なこと言わなくていいの」
「やっぱ彼女にもキツいんだ?」
ニヤニヤしている日奈子の言葉に心当たりはあるらしく、思い出しているのか、亮介はめずらしく子どものようにむすっとした顔になっていて、カッカと笑いが込み上げる。
彼は厳しい中に確かな優しさもあって、そこに気付いた女性が彼を好きになってもおかしくないが、やはり亮介の正論と気の強さについていけずに、うまくいかないことはあるのかもしれない。
「ジュンも使う?」
「おー」
「そうやって勝手に──いいけどさ」
「笑ってるけど、ジュンは彼女いないの?」
「はっ? お、俺?」
日奈子からウェットティッシュを一枚手渡されたときにそんなことを聞かれ、つい彼女の猫のようなつぶらな瞳と目が合い、ドキッと心臓が高鳴った。
「純は学生のときの彼女と別れてから、もう二年くらいいないんじゃない?」
「なっ!」
「えー意外! 見ず知らずの女のコ助けてくれるくらい優しいんだから、絶対モテるのにぃ」
「なに言ってんの、ほら、よく見ろって」
ビールをちびちびと飲んでいた日奈子に顔を近づけ、亮介がこちらを指差してくる。
「あんな顔が怖いと、寄ってくる女子もいないんだよ」
「あーそういうことね?」
「亮介てめっ……!」
お返しと言わんばかりのことをされ言葉に詰まっていると、二人はおかしそうに笑っていた。「でもおにーさんたち二人とも優しくて、ヒナは好きだよ」
「ジュン的に、ヒナはどう? 付き合うのはアリ?」
「あァっ?」
「俺はナシ」
「リョースケには聞いてないし」
ふざけ合っている二人を横目に、素っ頓狂な声が出てしまったが、あらためて彼女の姿を見る。日奈子のように、明るくて社交的、酒も飲める、可愛らしくてスタイルもよく、会話もはずませてくれる
「でもヒナ、今は
「は、はあ?」
「勝手に思わせぶりして勝手にフるとか。鬼畜の所業じゃん」
「女のコに『お断り』とかバッサリ言っちゃうおにーさんに言われたくありませ〜ん」
さっきまでの熱が急激に冷めていく……まあ、そもそもこれだけ魅力のある女性に、彼氏がいないことのほうがおかしいか、と自分を納得させた。
『ここで、両チームのスターティングメンバーを発表します』
そんなくだらない話をしていたら、スタジアムDJのアナウンスが流れだした。ビジターのスタメンから順に読まれているのを、日奈子も黙って聞いている。やはりわからないなりに、興味を持とうとはしているようだ。
『二番・セカンド──小湊春市』
「今のが俺の弟」
「2番っていうのは背番号?」
「そっから教えなきゃダメ? ちがう、打順だよ。攻撃側のときに打つ順番。だから毎試合変わる」
「ああ、四番とかそういうやつね」
「こ・み・な・と──あ、サジェストされた」春市について検索しているのか、日奈子は手元のスマホで彼のことを調べだした。チラッと目に入った画面には、選手情報の顔写真が表示されている。
「へー、カワイイ顔してんね。おにーさんとはあんま似てないかも?」
「兄弟だからって似てるとは限らないだろ」
「いや、笑うと瓜二つだぜ」
あとキレてるときもな、と思い出して顔が引きつる。春市は亮介よりずっと穏やかな性格でめったに感情的にならないが、怒らせたら怖いところもそっくりの兄弟だ。
それを聞いて、日奈子は画面の春市と、隣の亮介の顔を交互に見つめていた。「ふうん」「なに、人の顔ジロジロ見ないで」
「んー、ヒナはリョースケの顔のほうがタイプかな」
そう言って日奈子はフッとほほ笑んだ。さっきからずっと言い争っているくせに、なかなか
「彼女になる予定はないんだろ? お世辞のつもり?」
「おにーさん照れてるでしょー」
正解、アレはちょっぴり照れている。基本的にポーカーフェイスの男なのでわかりにくいが、長い付き合いの伊佐敷にはわかった。すこし
「ヒナだっけか? なかなかやるな」
「でしょ」
「いちいち尻軽だけどね」
「よく言われる〜」
「開き直るなよ」
『それでは! スワローズのスターティングメンバーです!』
その言葉とともに、球場の大きなスピーカーからアップテンポの音楽がかかると、外野の応援席のファンたちが歓声を上げた。まず大型ビジョンに流れてきた映像は、ゆらゆらと特徴的な動きでバットを構える褐色肌の選手──伊佐敷も見覚えのある顔だった。
『一番・センター──神谷カルロス俊樹!』
「コイツも高校のとき対戦したことあんだよ」
「へぇ、やっぱプロになるくらいの選手って、覚えてるもんなんだ?」
「まあな」
「……苦い思いさせられたぜ」確かに当時から才能のある選手ではあったろうが、理由はそれ以上に“因縁”だ。その因縁の稲実にいたカルロスと同じチームで戦う御幸は、どんな気持ちでいるのだろうか。
スタメンが呼ばれる度に、外野席で立ち上がっているファンたちは各選手の応援歌を歌いだす。二番、三番、と順に読み上げられ、次にビジョンに登場したのは、おそらく本日チームで最も注目されている選手が、マスクを上げ、その整った顔立ちがあらわになる瞬間だった。
『五番・キャッチャー──御幸一也!』
ワッ、と一斉に拍手と掛け声が沸き起こる。「御幸ー!」「ホームラン打てよー!」「みゆきくーん!」野太い声に混じって、黄色い声援も多い。相変わらずの人気ぶりだ。一際大きくなった歓声に、日奈子は「すごっ、」と声を漏らし驚いて周りを見渡していた。
「こ、こんなに一人の選手に対してのファンっているもんなの?」
「まあ、今日は特にだろうね。今日ホームラン出ればシーズン大台の30本だもん」
「期待してるぜ〜気張れよ御幸〜!」
亮介の言うとおり、その瞬間を楽しみにしているファンが多いのだろう。自分たちもその中の人間だ。
「えっ、でもリョースケはどっちの味方なわけ?」
「『味方』ってなに」
「だって、弟クンは相手チームなわけでしょ?」
「関係なくない? 春市やほかの後輩たちにも活躍してほしいと思ってるのは、ただの私情だし」
それに関しては伊佐敷も同意見だった。選手個人を応援するも良し、球団全体を応援するも良し、それがたとえ同じチームでなくとも、構わないはずだ。
「身内って、そういうカンジなんだ」
「応援の仕方なんて人それぞれだろ。誰かに迷惑かけなきゃなんだっていい」
「それとは別に、こういう試合では弟も活躍をほどほどにしてほしいとかはあるけどね」
「イジワルなこと言うねぇ」
日奈子ですら苦笑いしている。伊佐敷も思うが本当に、小湊亮介という男は、身内の弟相手にはいつまでも“手厳しい兄”だ。
『そして、本日の先発投手は──向井太陽!』
ホームチームのメンバーがそれぞれ守備位置についたところで、先発の向井がマウンドに駆け上がってきた。キャッチャーマスクを着けた御幸が、ホームベースの位置から彼に向かってボールを投げる。軽くキャッチボールを済ませ、向井がマウンドの土を足で
「向井が先発だっけか」
「勝ち付けさせたいんでしょ、二桁勝利目前だし。御幸は自分の記録もかかってるから、今日は大仕事だな」
「ふうん、よくわかんないけど、リョースケほんと詳しいね」
「俺は、弟がカープ入る前からスワローズファンなの」
「始まるよ」と亮介は、どこを見ていたらいいのかわからないのかキョロキョロしていた日奈子の腕を手の甲で小突いてから、マウンドのほうを指さして、きちんと試合を観るように促した。球場内に、スタジアムDJの声が響き渡った。
『東京ヤクルトスワローズ 対 広島東洋カープ──まもなく、プレイボール!!』
(タイトルは『私を野球に連れてって』より。)
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