デー・ゲーム
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『生放送でお送りしております“モーニングサンデー”、続いてはスポーツコーナー!』
『まずはプロ野球です』
液晶の大きなスクリーンの両脇で、スーツを着た男性アナウンサーと、華やかなブラウスを纏 った女性アナウンサーが、整った笑顔と立ち姿でいる。
『今週のピックアップゲームはこちら!』
『注目はなんと言っても、この選手!』
『そうですよねっ』
その言葉と共に画面に映し出された──打席で次々にホームランを放つ選手の姿が、多角カメラで連続再生されている。
『昨年一軍復帰を果たし、今シーズン絶好調の御幸一也選手!』
『今シーズンは自身最高記録でホームランを量産し、チームの勝利に大きく貢献──』
映像はホームベースを踏んだあと、ベンチに並ぶチームメイトたちとハイタッチを交わすシーンに切り替わる。列の最後尾に構えていたカメラに気付くが、カメラ目線に照れているのか、すこしはにかんでこちらに手を振る彼が印象的だった。
「爽やか……」
気付けば呟 いていた。ゆうてスポーツ選手なんだよなあ。画面通して観るだけで全然印象変わる。あ、隣にいるマスコット、もらったぬいぐるみの──
なんてことを考えながら、起床後着替えとメイクを終えた日奈子は、ベッドの端に腰掛けたまま、ホテルの部屋のテレビを見つめていた。野球好きの出演者が多いのか知らないが、会話はずいぶん盛り上がっている。
『──リーグNo. 1の俊足を持つカルロス選手も、盗塁記録を伸ばし続けています』
『ドラフト同期の二人の活躍、見逃せませんね』
『平井アナはこの試合、どの選手に注目していますか?』
『僕は、予告先発投手の向井太陽選手ですかねー。12球団の中でも希少なサイドスロー投手・それも左投げですから』
『かつて同球団の監督も、現役時代はサイドスロー投手として活躍したんですよね』
『先ほどの御幸選手とのバッテリー間のやりとりなんかも見てもらえたら』
『この試合勝利すれば、シーズン二桁勝利ということで、このままいけば、おそらく新人賞も──』
「…………なんだよ、めずらしくテレビなんか観て」
いつのまにか起きていた男が、まだ眠そうに背後から声をかけてきた。日奈子がテレビへの視線を動かさないままでいると、男はベッドから出て立ち上がり、こちらに近付いてくる。
ちらりとだけ横目で見上げると、下着一枚のみ履いた男は寝癖のついた髪を手で掻 きながら、眠気まなこでテレビを覗き込んでいた。
「お前、野球とか興味あったっけ?」
「別に……なんとなくつけて見てただけ」
ふーん、と鼻を鳴らしながら、男はバスルームに足を向けた。『広島の沢村選手との、サウスポー対決も観られるかもしれません』『そうなると御幸選手との青道対決ですか』テレビの音は鳴り続けているが、男は内容なんて気にもしていないようだった。
『アツい勝負が期待できそうですね!』
『試合は13時からです』
アナウンサーのその言葉を聞いて、日奈子は腰を上げ、デスクに置いていたクラッチバッグから折り畳んだ封筒──勝手に彼が迎えに来たあの日からずっと、出す気にならずバッグに入れっぱなしだった──それを取り出して、中のチケットを確認する。チケットの『日時』には、今日の日付が印字されている。
「ヒナ、今日店休みだろ? 夜に知り合いのバーでスタッフの誕生日パーティーあんだけどさ。俺のツレで出てくんね?」
用を足して戻ってきたのか、男はホテルに備え付けられたバスローブを羽織りながらそう言ってきた。『では続いて、Jリーグの──』テレビの中のアナウンサーは、すでに野球の話題を終えていて、声はそれから雑音に変わった。
“セ ッ ク ス フレンド”なのだから、互いにセックス以外に大したものを求めていないはずなのだが、たまになぜか都合のいいときだけ“俺の女アピール”をしてくる奴はいる。仮にその『パーティー』とやらに行ったとしても、この男のアクセサリーにされるだけだろう。そういう飲み会は決まってつまらない。
そんなことを思って、日奈子はチケットに視線を落としたまま、男とは目を合わせずに答えた。
「悪いけど、午後は人と会う予定があんだよね」
「あ? なんだよその言い方、どうせセフだろ。どっちにしろ途中で切り上げりゃいい」
男の言葉を聞き流しながら、チケットに印字された『13:00 試合開始』の文字を見て、「時間決まってるし、夜も食べてくるからムリ」と事実だけを述べた。
ふいに、男のほうからライターの火を付ける音がした。その音にハッとして顔を上げると、思ったとおり男が見覚えのある細長い棒状のそれを口に咥 えていた。
「ちょっとキ ミ 。外で吸ってくんない?」
「は? お前も吸ってるから一緒だろ」
「今やめてんの」
「ウソつけ」
これ以上は“論外”で、全くの時間の無駄だと判断した日奈子は、チケットをバッグに戻し、部屋の隅に置いていたヒールに足を入れた。男は断られると思っていなかったのか、タバコを咥えたまま少し動揺していた。「おいおい、マジで帰んの? 夜は?」
「行かないって言ってんじゃん。しつこい」吐き捨てて部屋の扉に向かって歩きだそうとすれば、あろうことか腕を引っつかまれた。
「おい、待てって! 落ち着けよ」
「はぁ? そっちが落ち着けよ」
男が近付いてきたことで、タバコから立ちのぼる煙がこちらに流れてくる。日奈子は慌てて顔を背け、力ずくで男の手を振り払った。ニオイをつけて彼に会うのは嫌だ。「っ、離して!」
「んだよ……急に機嫌悪くなってんじゃねーよ!」
「あたしの不機嫌の理由は明確でしょ? そんなこともわかんないの?」
距離をとって睨 みつけ鼻で笑ってやると、男は逆上して手に持っていたタバコの箱とライターを投げつけてきた。
「イタッ! はあ!? キッショ!」「黙れクソビッチが!」我ながら程度の低いやりとりに腹が立つ。もうとにかくこの空間に居たくなくて、日奈子は急いで部屋を飛び出した。
壁に並んだライトが妙に妖艶な光を放つ、ラブホテル独特の廊下を駆け抜ける。さすがにバスローブ姿で追ってくるほど男も馬鹿じゃないらしく、下りのエレベーターに乗り込み扉が締まり切ったところで、日奈子はホッ、と肩の力を抜いた。
あの男は金払いもいいし、互いに夜職として『付き合うのはナシでいい』と割り切って関係を持った。だがいざセフレの関係になると、一度寝ただけでその女を見下し、挙句キレると手が出るプライドの高い男で、相手をするのも面倒くさくなってきた。向こうが忘れた頃に、こっちから切るしかないかな。
「ハァ………………チッ」
エレベーターの中で一人うなだれていると、ため息に加えて舌打ちが出てしまう。全部自分の男癖が招いた結果だとわかっているから、嫌になる。大嫌いな母親がチラつく。また自分が嫌いになる。そんな自分だとしても言い寄ってくる男に、色目を使ってはカラダを許す──結局いつも、その繰り返し だ──
ホテルを出ると、すでに空が白んできていた。辺りを見渡しても、人通りはない。ぼんやり薄明るい朝もやの中で、表の看板の『休憩2時間 ¥2,990〜』という字が目に留まった。
時間、と日奈子はそこで、もう一度バッグの中からチケットを取り出した。確かライブのチケットなんかと同じで、日時と、席の番号や場所も書いてあったはず。
「えーっと……『明治神宮野球場』? 東京なら東京ドームなのかと思ってた……最寄駅ってどこなんだろ」
駅へと歩きながら、ポケットから出したスマホで調べる。
“明治神宮”ってことは渋谷? 原宿とかそっち方面ではないのか……てことは家からも店からもそんな遠くないかも。帰って仮眠とって、シャワーも──男のタバコのニオイがついてないか、念のため──そのあと着替えても間に合いそう。
服かあ、と今の自分の恰好を見下ろす。コレじゃダメかな……いつも通勤するときの、タイトなトップスにスキニーデニムのラフなスタイル。
でも観戦のあと、夜ごはんに連れてってくれるんなら、もうちょっとデートっぽい服──彼曰く、ごはんを食べに行くだけでも(セックスしなくても)、“デート”と呼ぶらしいから──そういえば、彼の趣味の服なんて、聞いたことないや。
『セクシーなの? キュートなの? どっちが好きなの?』と、アイドルソングのフレーズがよぎる。まあ、エッチも趣味嗜好のないオトコだったから、好みなんてないかもしんないけど。マジメだし、露出の高い服は好きじゃなさそうだから、セクシー過ぎるのはやめとくか……やっぱレディのニットワンピとかが無難かな。胸元にカットアウトのある服とか着てって、反応見たい気もするけど。
「ふふっ」
“むっつり”だとかからかってやれば、うろたえる彼の様子が想像できて、つい笑みが漏れた──そこで、あれ、と日奈子の思考が止まる。あたし、けっこう楽しみにしてんのかな。
「──まさかね」だって、野球のルールも知らないのに、楽しめる気がしない。期待はしない。これは、単なる遊 び 。ちょっとしたヒ マ つ ぶ し 。そうでしょ?、と自分に確かめる。
スマホをデニムの尻ポケットに突っ込んで戻す。駅に近付いてきて、ちらほら歩く人々が見えてきた。それでも数えるほどだった。
早朝の人気 のない東京は好きだ。ふとさっきのメロディが、再び頭の中を流れだした。『純情な乙女心〜♪』ちょっぴり浮かれて足取り軽く、朝帰りの日奈子は自慢のピンヒールを鳴らしながら、鼻歌混じりに家路を急いだ。
『外苑前、外苑前──お出口は、左です』
車掌のアナウンスが流れると、やがて、空気圧の音を立てて電車の扉が開く。彼が所属する球団のユニフォーム姿の人々に紛れながら、日奈子は電車を降りた。
……試合のある日は、こんなに観戦に行く人が乗るものなんだ。一目で試合に行くとわかる恰好の乗客らを見て、人生で初めての野球観戦の日奈子は驚くと同時に、“プロ野球”というコンテンツの人気の高さを実感する。
改札を出ると、地上の出口へ向かうまでの途中、大きなポスターが巻かれた円柱が何本か立っていて、球団の選手たちが柱一つにつき一人ずつ貼られていた。
球場が近いからって、駅までこんなことになってんの? てかポスターでかす、ぎ…………「わっ、」
思わず声が出て、足を止めてしまった。
ポスターの中の一人と目が合って、見覚えのある顔にドキッとした。いや、彼 がいるのも当然なのだし、予想はできたはずなのだが。心の準備は全くできていなかった。
「うわ……ホントにいるんだ……」
柱の前で立ち尽くし、じっとそのポスターを眺める。球団のユニフォーム姿でヘルメットを被り、バットを肩に担いで、サングラス(?)をかけた御幸が、カメラ を見つめている。彼の大きな両目とキリッとした太い眉のおかげで、その眼差しにはかなり迫力があった。こんなに大きく引き伸ばされても、綺麗な顔立ちだな、とやはり再認識した。
そういう撮影だから当然なのだが、日常生活ではあまり見ることのない真剣な表情で、日奈子にとってはどこか別人のように見えた。
「あ、みゆかずいる〜」
「写真撮っとこ、写真」
背後からそんな声が聞こえてきたかと思うと、球団のレプリカユニフォームを羽織った20代くらいの女子二人が、スマホ片手に柱の御幸を挟むようにして立ち、「いぇーい」とポーズをとって自撮りをし始めた。
そのとき見えてしまった──二人のうちの一人が着ているユニフォームの背中には、彼の背番号と『MIYUKI』の文字が刺繍されていた。熱度は人によるにせよ、この女子は、彼の“ファン”なのだと確かに知ってしまって、日奈子は体を強張らせた。すれ違ったあたしと彼の関係など、知る由もないのに。
そんなふうに圧倒されて、しばらく柱の近くでぼうっとしていると、日奈子は気付いた。彼女たちだけではない。柱の周りには、ポスターを撮影しようとしている人々が、次々と老若男女集まっている。
御幸一也は──日奈子が半年ほど体の関係を持った男は本当に──本当に、“プロ野球選手”なのだと。
あらためて気付かされた。テレビやネットの情報だけでは、実感がわいていなかったから。……あたし、男漁りの果てに、とんでもない男 と寝ちゃってたんだな……今さらすぎるけど。
「……でも、ますます意味わかんない」
なぜ、こんなにも多くの人間に愛される男が、あたしのような女に『付き合ってほしい』だとか、『心配だから』だなんて言うのか。
そこで思い立って、日奈子はバッグの中からスマホを取り出し、パシャ、と一枚だけ、ポスターの彼の写真を撮った。今日もしこのあと会ったら見せてやろ──照れるか知らないが、彼の困っている姿を見るのは好きなので、いいネタができたと、日奈子はこっそりほくそ笑んだ。
─────────────────────────
「いーじゃん、一人でヒマだろ?」
……なんだかめんどくせぇことになってんな。
球場の外に並ぶ飲食の屋台を周っていたところでそんな声が聞こえて、ついそちらを振り向いた。試合前、賑 わう人混みの中にもかかわらず耳についたその声は、男の声のくせに変に調子のいいようすで、なんだか耳障りなのは気のせいでもないらしい。
「オゴるよ、何がいい?」
「別にいらない」
「冷たいな〜」
見ると、いかにも軽薄そうな男が二人、若い女性一人に絡んでいた。うぉおい! 球場でナンパって、なに考えてやがんだ?
「ちょっ、と! 気安く触んないで」
「カワイイ服着てんね」
「色っぽくてイイなー、誘ってる?」
男の一人が女性の腕をつかもうとするが、彼女はすかさず振り払った。どうやら気の強い女性のようだが、男たちはそれ以上に粘る。
参った。球場内に友人を待たせているので、厄介なことに首を突っ込むのは避けたい。しかし、この状況を見過ごせないのはもはや性格だった。自分でもわかりきっている。それに、高校時代思い入れのある球場だからこそ、余計に許せなかった。
まあ、亮介も話の分かるヤツだからな、と自分を納得させ、伊佐敷は彼女らのほうへ歩み寄り、口を開いた。
「おい。嫌がってんだろ」
とはいえ、なるべく穏便に済ませたいと思った伊佐敷は声を荒げず、代わりに男たちをできる限りの力で思いきり睨みつけてやった。気付いた男二人がこちらを見て、ぎょっ、と怯 んだ──次の瞬間、
「おっそ〜い、待ってたんだからぁ〜」
妙な猫なで声が聞こえたかと思い隣に目をやると、ナンパされていた女性がにこにこと愛想のいい笑みをこちらに向けている。そして、パッと近付いてきたかと思うと、伊佐敷の左腕を抱えるようにして、その華奢な両腕を絡めてきた。
は?、と声が出そうになったのも束の間、彼女は無自覚なのか知らないが、こちらの腕に胸を押し付けるようにしてくるので、そのムニッとした感触にドギマギして、それ以上なにも言えなくなってしまった。
あたっ……当たってんぞオイ……! やわらけ、……だああああ!! いかんいかん!!
「ほらっ、早く行こっ」
「は? ちょっ……おいっ!」
伊佐敷が脳内でパニックを起こしていると、女性は腕を組んだまま早足で歩きだした。彼女に引っ張られながら、先ほどのナンパ男二人のポカンとした間抜け面を横目に、追いつこうと慌てて足を動かした。
「お、おいっ、大丈夫か?」
伊佐敷が声をかけても、女性は止まらない上に振り向きもしない。そのままヒールをカツカツと鳴らしながら、ずんずん歩いていく彼女に圧倒されながらもついていくと、一塁側にいたところから三塁側のほうまで大きく回り込んだところで、ようやく足を止めた。ふう、と息をついた女性が、そこでやっと腕を解放してくれた。
「ハァ、サイアク……せっかくお洒落したのに、あんな奴らに褒められてもぜんっぜん嬉しくない」何かボソボソとつぶやいたかと思うと、女性がこちらを振り向いた。彼女は乱れた前髪を直しながら、肩を落として苦笑いしていた。
「ゴメンね〜、助かっちゃった。あのナンパ野郎共しつこくてさ〜」
口が悪いな、と呆れたが、確かに無作法な男たちだったので『野郎共』には違いない。
「彼氏のフリしてくれて、ありがとっ」そう軽く首をかしげてお礼を言うそのようすは、世間で言う“あざとい”しぐさにも見えたが、そんなしぐさも彼女の場合はなんだか様になっていた。
というのも、伊佐敷があらためて女性の姿を見ると、彼女はナンパされるのもどこか納得してしまうほど、華やかで色気のある顔立ちをしていた。大きな瞳に鋭い目尻は、化粧のせいもあるのか、なんとなく猫を彷彿 とさせた。やや派手な見た目で、いわゆる“ギャル”というような印象を受けるが、歳は同じくらいだろうか。
その服装も、男の目を引く理由の一つかもしれない。ロングスリーブのニットワンピースは、オープンショルダーになっていて肩の素肌が露出している。伸縮性のあるニットがほどよくボディラインを拾い──イヤらしい目で見てしまうのは失礼とはいえ、先ほどその胸が腕に触れていたのだからしょうがない──彼女のスタイルの良さを示している。
それから、階段の多い球場での野球観戦に来たとは思えないような、10センチはあろうかというピンヒールのショートブーツを履いていた。そのせいでスラリとした印象を受けるが、差っ引いてしまえばかなり小柄な女性だと気付いた。
女性はこちらの目線に気付いているのかいないのか、両手を合わせて興奮気味に話し続けている。
「イマドキあんなふうに助けてくれる人いるんだね。なんか少女漫画みたいで、ヒナちょっと感動しちゃった。おにーさんカッコいいっ」
「いや……ネーちゃんももう少し気を付けろよな」
照れくさいのもあるが、やや危機感のない彼女に対し、半分は呆れてそう言ってやった。だが、さっきの機転の利かせ方といい彼女、少々派手な見た目とは裏腹に、頭の回転は速いようだ。
「お礼はビールでいい? お酒飲める?」
気付くと女性は、近くに停まっていたキッチンカーの客の列に並び始め、店頭に張り出された大きなメニュー表を指差してこちらの答えをうかがっている。
「いや、そんなのはいいんだけどよ──ネーちゃんは一人で来たのか?」
「うん。誘われたから」
「あ、そうだ」と、思い出したように声を上げたあと、彼女はバッグの中から一枚の紙を取り出し、こちらに見せてきた。
「ねぇ、この席ってどこのこと?」
「場所わかんなくてうろうろしてたら、さっきの奴らに捕まっちゃって」どうやらチケットのようだ。伊佐敷が覗き込んでみると、そこに書かれている席は『一塁側・ ネット裏』だった。
今いるこの場所は、ビジター側の入口に近い。さっきナンパされていた現場も、一塁側の外野のあたりだったので、どちらにせよ、彼女の席からは見当違いの場所にいる。ネット裏なんて高額の席だが、『誘われた』という割には一人のようだし、初めて訪れたらしいのは明らかだった。
「このへんから中に入れる?」
「まあ、入れるっちゃ入れるが、こっちは相手側だ。ホームチームは一塁側」
「あっちだあっち」と、女性の目的地を指差してやると、彼女はそちらを一瞥してから、ふうんと鼻を鳴らし、こちらに向き直って言った。
「ねぇ、おにーさん、野球詳しい?」
「え?」
詳しい、か。彼女の言葉に、伊佐敷は数秒考えてしまった。
高校三年間を野球に費やしたが、甲子園の夢は叶わず、その後野球に未練を抱えて大学も野球で進学し、就職をした今も社会人野球を続けている。
何より今日の試合には、青道時代の後輩たちが出場する。一つ下の学年だった御幸は堂々とクリーンナップ・その相手チームでは亮介の弟の春市も二番打者を譲ることがない。春市と同じチームの沢村は今日は先発ではないが、リリーフで出番があるかもしれない。
同じチームで戦っていただけに、今の自分と比べてしまう気持ちもあるが、それ以上に後輩たちの活躍は誇らしく、それに球場での観戦も久しぶりで、同級生の亮介と観るのを伊佐敷も先日から楽しみにしていた。
そんな経歴と立場を踏まえれば、『詳しい』どころではないのかもしれないが、初対面の女性にそんなことを言うのも格好がつかないので、無難な返事をしておいた。
「まあ……一応経験者だけど」
「マジ? じゃあさ、一緒に観ながらちょっとルールとか教えてくんない?」
「は?」
彼女の言葉に、再び呆然とする。『一緒に観る』って軽く言いやがるが、そんなことできるわけねーだろ、それすらもわかってねぇのか?
「あたし、野球観に来たの初めてでさー。全然わかんないんだよね。一人で観てもつまんないし」
やはり初めての観戦だったようで、しかし、その誘いは現実的ではない。ところが彼女は、そんなことなどお構いなしに、両手のひらを顔の前で合わせて、懇願するようにしている。
「ねぇ〜おねがいっ、一塁側 行ってさっきの奴らにまた絡まれると困るし──ついでに人助けだと思って〜」
うっ、と伊佐敷はたじろいでしまった。確かに、ここで彼女を見放してしまって、もしまたトラブルに巻き込まれてしまったとしたら、寝覚めが悪い。『人助け』とまで言われたら、見捨てることができないのも自分の性格だった。
……それに、可愛らしい女性に上目遣いで“おねがい”をされて、男として悪い気はしない。そんな言い方されっと断りにくいだろうが……!
「お、俺はいいけどよ……中に野郎のツレが一人いるんだよ」
そう、自分だけならまだしも、球場内では亮介が待っている。さすがに彼を放置するわけにはいかない。綺麗な女性に迫られてつい、しかも下心も全くのゼロというわけでもなし──自分も彼も恋人はいないが、そういう問題でもない──そんなことが亮介にバレたらどうなるか。いろいろと怖すぎる。
ただし、そんな言い逃れもむなしく、彼女は引くどころか話を進めてしまった。
「あたしは全然オッケー。きまりっ」
パンッ、と手を打ち合わせカラッと笑ったかと思うと、「じゃあ、もう1杯買わなきゃ」とキッチンカーの店員に向かって、ビール3杯を注文している。いや待て待て!
「本当についてくる気か!?」
「おつまみもなにかたべる? ポテトでも頼もっか」
「聞けよオイ!!」
クセでつい声を荒げると、びくっと彼女が肩を縮こまらせ、怯 えた表情に変わった。やべっ! ビビらせちまった。
言い訳になってしまうが、生まれてこの方体育会系だ。社会人になってから気を付けてはいるが、女性相手にさすがに言い過ぎだと分かって冷や汗をかく。「んが……! わりぃ」「き、急に大きい声出さないでよね」
しっかしマジか……どうするよ? 亮介になんて言えば……
「はい、コレ持って。あたし自分のビール持つから」
店員が渡してきた、揚げたてのポテトフライと、ビールのカップが2つ乗った紙製のトレーを、言われるがまま受け取ってしまった。彼女は自身のビールのカップを片手に、「ちょっとフライング」とすでに一口飲んでいる。
「ン〜、今日暑いからおいしーね」と言っている彼女を見たままその場で立ち尽くしてしまったことに気付き、ハッとして言い聞かせてやる。
「あ、あのなァ、球場は全部指定席なんだよ。それに、そのチケット高けぇ席だぞ。もったいねーだろ」
「そーなの? 別にどこで観たってそんな変わんなくない?」
「だいじょぶっしょ」と、無知ゆえなのか軽いようすで笑う女性は、「ヒナにいい考えがあるの」と言いながら人差し指を立て、芝居がかったようなしぐさでウインクをしてみせた。
勢いに流されてしまったが、気付いたら女性の言われるがままにしてしまう、それを嫌に思わせない、容姿以上に彼女にはそんな不思議な魅力があった。
いったいなんなんだこのネーちゃんは──いやそれにしても、このあと亮介になんと言い訳しようかと、伊佐敷はそのことに対して気が気でなかった。
(ナンパから助けてくれる純さんと、ヒナちゃんのおっぱいにドギマギする純さんが書けて楽しかったです。)
『まずはプロ野球です』
液晶の大きなスクリーンの両脇で、スーツを着た男性アナウンサーと、華やかなブラウスを
『今週のピックアップゲームはこちら!』
『注目はなんと言っても、この選手!』
『そうですよねっ』
その言葉と共に画面に映し出された──打席で次々にホームランを放つ選手の姿が、多角カメラで連続再生されている。
『昨年一軍復帰を果たし、今シーズン絶好調の御幸一也選手!』
『今シーズンは自身最高記録でホームランを量産し、チームの勝利に大きく貢献──』
映像はホームベースを踏んだあと、ベンチに並ぶチームメイトたちとハイタッチを交わすシーンに切り替わる。列の最後尾に構えていたカメラに気付くが、カメラ目線に照れているのか、すこしはにかんでこちらに手を振る彼が印象的だった。
「爽やか……」
気付けば
なんてことを考えながら、起床後着替えとメイクを終えた日奈子は、ベッドの端に腰掛けたまま、ホテルの部屋のテレビを見つめていた。野球好きの出演者が多いのか知らないが、会話はずいぶん盛り上がっている。
『──リーグNo. 1の俊足を持つカルロス選手も、盗塁記録を伸ばし続けています』
『ドラフト同期の二人の活躍、見逃せませんね』
『平井アナはこの試合、どの選手に注目していますか?』
『僕は、予告先発投手の向井太陽選手ですかねー。12球団の中でも希少なサイドスロー投手・それも左投げですから』
『かつて同球団の監督も、現役時代はサイドスロー投手として活躍したんですよね』
『先ほどの御幸選手とのバッテリー間のやりとりなんかも見てもらえたら』
『この試合勝利すれば、シーズン二桁勝利ということで、このままいけば、おそらく新人賞も──』
「…………なんだよ、めずらしくテレビなんか観て」
いつのまにか起きていた男が、まだ眠そうに背後から声をかけてきた。日奈子がテレビへの視線を動かさないままでいると、男はベッドから出て立ち上がり、こちらに近付いてくる。
ちらりとだけ横目で見上げると、下着一枚のみ履いた男は寝癖のついた髪を手で
「お前、野球とか興味あったっけ?」
「別に……なんとなくつけて見てただけ」
ふーん、と鼻を鳴らしながら、男はバスルームに足を向けた。『広島の沢村選手との、サウスポー対決も観られるかもしれません』『そうなると御幸選手との青道対決ですか』テレビの音は鳴り続けているが、男は内容なんて気にもしていないようだった。
『アツい勝負が期待できそうですね!』
『試合は13時からです』
アナウンサーのその言葉を聞いて、日奈子は腰を上げ、デスクに置いていたクラッチバッグから折り畳んだ封筒──勝手に彼が迎えに来たあの日からずっと、出す気にならずバッグに入れっぱなしだった──それを取り出して、中のチケットを確認する。チケットの『日時』には、今日の日付が印字されている。
「ヒナ、今日店休みだろ? 夜に知り合いのバーでスタッフの誕生日パーティーあんだけどさ。俺のツレで出てくんね?」
用を足して戻ってきたのか、男はホテルに備え付けられたバスローブを羽織りながらそう言ってきた。『では続いて、Jリーグの──』テレビの中のアナウンサーは、すでに野球の話題を終えていて、声はそれから雑音に変わった。
“
そんなことを思って、日奈子はチケットに視線を落としたまま、男とは目を合わせずに答えた。
「悪いけど、午後は人と会う予定があんだよね」
「あ? なんだよその言い方、どうせセフだろ。どっちにしろ途中で切り上げりゃいい」
男の言葉を聞き流しながら、チケットに印字された『13:00 試合開始』の文字を見て、「時間決まってるし、夜も食べてくるからムリ」と事実だけを述べた。
ふいに、男のほうからライターの火を付ける音がした。その音にハッとして顔を上げると、思ったとおり男が見覚えのある細長い棒状のそれを口に
「ちょっと
「は? お前も吸ってるから一緒だろ」
「今やめてんの」
「ウソつけ」
これ以上は“論外”で、全くの時間の無駄だと判断した日奈子は、チケットをバッグに戻し、部屋の隅に置いていたヒールに足を入れた。男は断られると思っていなかったのか、タバコを咥えたまま少し動揺していた。「おいおい、マジで帰んの? 夜は?」
「行かないって言ってんじゃん。しつこい」吐き捨てて部屋の扉に向かって歩きだそうとすれば、あろうことか腕を引っつかまれた。
「おい、待てって! 落ち着けよ」
「はぁ? そっちが落ち着けよ」
男が近付いてきたことで、タバコから立ちのぼる煙がこちらに流れてくる。日奈子は慌てて顔を背け、力ずくで男の手を振り払った。ニオイをつけて彼に会うのは嫌だ。「っ、離して!」
「んだよ……急に機嫌悪くなってんじゃねーよ!」
「あたしの不機嫌の理由は明確でしょ? そんなこともわかんないの?」
距離をとって
「イタッ! はあ!? キッショ!」「黙れクソビッチが!」我ながら程度の低いやりとりに腹が立つ。もうとにかくこの空間に居たくなくて、日奈子は急いで部屋を飛び出した。
壁に並んだライトが妙に妖艶な光を放つ、ラブホテル独特の廊下を駆け抜ける。さすがにバスローブ姿で追ってくるほど男も馬鹿じゃないらしく、下りのエレベーターに乗り込み扉が締まり切ったところで、日奈子はホッ、と肩の力を抜いた。
あの男は金払いもいいし、互いに夜職として『付き合うのはナシでいい』と割り切って関係を持った。だがいざセフレの関係になると、一度寝ただけでその女を見下し、挙句キレると手が出るプライドの高い男で、相手をするのも面倒くさくなってきた。向こうが忘れた頃に、こっちから切るしかないかな。
「ハァ………………チッ」
エレベーターの中で一人うなだれていると、ため息に加えて舌打ちが出てしまう。全部自分の男癖が招いた結果だとわかっているから、嫌になる。大嫌いな母親がチラつく。また自分が嫌いになる。そんな自分だとしても言い寄ってくる男に、色目を使ってはカラダを許す──結局いつも、その
ホテルを出ると、すでに空が白んできていた。辺りを見渡しても、人通りはない。ぼんやり薄明るい朝もやの中で、表の看板の『休憩2時間 ¥2,990〜』という字が目に留まった。
時間、と日奈子はそこで、もう一度バッグの中からチケットを取り出した。確かライブのチケットなんかと同じで、日時と、席の番号や場所も書いてあったはず。
「えーっと……『明治神宮野球場』? 東京なら東京ドームなのかと思ってた……最寄駅ってどこなんだろ」
駅へと歩きながら、ポケットから出したスマホで調べる。
“明治神宮”ってことは渋谷? 原宿とかそっち方面ではないのか……てことは家からも店からもそんな遠くないかも。帰って仮眠とって、シャワーも──男のタバコのニオイがついてないか、念のため──そのあと着替えても間に合いそう。
服かあ、と今の自分の恰好を見下ろす。コレじゃダメかな……いつも通勤するときの、タイトなトップスにスキニーデニムのラフなスタイル。
でも観戦のあと、夜ごはんに連れてってくれるんなら、もうちょっとデートっぽい服──彼曰く、ごはんを食べに行くだけでも(セックスしなくても)、“デート”と呼ぶらしいから──そういえば、彼の趣味の服なんて、聞いたことないや。
『セクシーなの? キュートなの? どっちが好きなの?』と、アイドルソングのフレーズがよぎる。まあ、エッチも趣味嗜好のないオトコだったから、好みなんてないかもしんないけど。マジメだし、露出の高い服は好きじゃなさそうだから、セクシー過ぎるのはやめとくか……やっぱレディのニットワンピとかが無難かな。胸元にカットアウトのある服とか着てって、反応見たい気もするけど。
「ふふっ」
“むっつり”だとかからかってやれば、うろたえる彼の様子が想像できて、つい笑みが漏れた──そこで、あれ、と日奈子の思考が止まる。あたし、けっこう楽しみにしてんのかな。
「──まさかね」だって、野球のルールも知らないのに、楽しめる気がしない。期待はしない。これは、単なる
スマホをデニムの尻ポケットに突っ込んで戻す。駅に近付いてきて、ちらほら歩く人々が見えてきた。それでも数えるほどだった。
早朝の
『外苑前、外苑前──お出口は、左です』
車掌のアナウンスが流れると、やがて、空気圧の音を立てて電車の扉が開く。彼が所属する球団のユニフォーム姿の人々に紛れながら、日奈子は電車を降りた。
……試合のある日は、こんなに観戦に行く人が乗るものなんだ。一目で試合に行くとわかる恰好の乗客らを見て、人生で初めての野球観戦の日奈子は驚くと同時に、“プロ野球”というコンテンツの人気の高さを実感する。
改札を出ると、地上の出口へ向かうまでの途中、大きなポスターが巻かれた円柱が何本か立っていて、球団の選手たちが柱一つにつき一人ずつ貼られていた。
球場が近いからって、駅までこんなことになってんの? てかポスターでかす、ぎ…………「わっ、」
思わず声が出て、足を止めてしまった。
ポスターの中の一人と目が合って、見覚えのある顔にドキッとした。いや、
「うわ……ホントにいるんだ……」
柱の前で立ち尽くし、じっとそのポスターを眺める。球団のユニフォーム姿でヘルメットを被り、バットを肩に担いで、サングラス(?)をかけた御幸が、
そういう撮影だから当然なのだが、日常生活ではあまり見ることのない真剣な表情で、日奈子にとってはどこか別人のように見えた。
「あ、みゆかずいる〜」
「写真撮っとこ、写真」
背後からそんな声が聞こえてきたかと思うと、球団のレプリカユニフォームを羽織った20代くらいの女子二人が、スマホ片手に柱の御幸を挟むようにして立ち、「いぇーい」とポーズをとって自撮りをし始めた。
そのとき見えてしまった──二人のうちの一人が着ているユニフォームの背中には、彼の背番号と『MIYUKI』の文字が刺繍されていた。熱度は人によるにせよ、この女子は、彼の“ファン”なのだと確かに知ってしまって、日奈子は体を強張らせた。すれ違ったあたしと彼の関係など、知る由もないのに。
そんなふうに圧倒されて、しばらく柱の近くでぼうっとしていると、日奈子は気付いた。彼女たちだけではない。柱の周りには、ポスターを撮影しようとしている人々が、次々と老若男女集まっている。
御幸一也は──日奈子が半年ほど体の関係を持った男は本当に──本当に、“プロ野球選手”なのだと。
あらためて気付かされた。テレビやネットの情報だけでは、実感がわいていなかったから。……あたし、男漁りの果てに、とんでもない
「……でも、ますます意味わかんない」
なぜ、こんなにも多くの人間に愛される男が、あたしのような女に『付き合ってほしい』だとか、『心配だから』だなんて言うのか。
そこで思い立って、日奈子はバッグの中からスマホを取り出し、パシャ、と一枚だけ、ポスターの彼の写真を撮った。今日もしこのあと会ったら見せてやろ──照れるか知らないが、彼の困っている姿を見るのは好きなので、いいネタができたと、日奈子はこっそりほくそ笑んだ。
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「いーじゃん、一人でヒマだろ?」
……なんだかめんどくせぇことになってんな。
球場の外に並ぶ飲食の屋台を周っていたところでそんな声が聞こえて、ついそちらを振り向いた。試合前、
「オゴるよ、何がいい?」
「別にいらない」
「冷たいな〜」
見ると、いかにも軽薄そうな男が二人、若い女性一人に絡んでいた。うぉおい! 球場でナンパって、なに考えてやがんだ?
「ちょっ、と! 気安く触んないで」
「カワイイ服着てんね」
「色っぽくてイイなー、誘ってる?」
男の一人が女性の腕をつかもうとするが、彼女はすかさず振り払った。どうやら気の強い女性のようだが、男たちはそれ以上に粘る。
参った。球場内に友人を待たせているので、厄介なことに首を突っ込むのは避けたい。しかし、この状況を見過ごせないのはもはや性格だった。自分でもわかりきっている。それに、高校時代思い入れのある球場だからこそ、余計に許せなかった。
まあ、亮介も話の分かるヤツだからな、と自分を納得させ、伊佐敷は彼女らのほうへ歩み寄り、口を開いた。
「おい。嫌がってんだろ」
とはいえ、なるべく穏便に済ませたいと思った伊佐敷は声を荒げず、代わりに男たちをできる限りの力で思いきり睨みつけてやった。気付いた男二人がこちらを見て、ぎょっ、と
「おっそ〜い、待ってたんだからぁ〜」
妙な猫なで声が聞こえたかと思い隣に目をやると、ナンパされていた女性がにこにこと愛想のいい笑みをこちらに向けている。そして、パッと近付いてきたかと思うと、伊佐敷の左腕を抱えるようにして、その華奢な両腕を絡めてきた。
は?、と声が出そうになったのも束の間、彼女は無自覚なのか知らないが、こちらの腕に胸を押し付けるようにしてくるので、そのムニッとした感触にドギマギして、それ以上なにも言えなくなってしまった。
あたっ……当たってんぞオイ……! やわらけ、……だああああ!! いかんいかん!!
「ほらっ、早く行こっ」
「は? ちょっ……おいっ!」
伊佐敷が脳内でパニックを起こしていると、女性は腕を組んだまま早足で歩きだした。彼女に引っ張られながら、先ほどのナンパ男二人のポカンとした間抜け面を横目に、追いつこうと慌てて足を動かした。
「お、おいっ、大丈夫か?」
伊佐敷が声をかけても、女性は止まらない上に振り向きもしない。そのままヒールをカツカツと鳴らしながら、ずんずん歩いていく彼女に圧倒されながらもついていくと、一塁側にいたところから三塁側のほうまで大きく回り込んだところで、ようやく足を止めた。ふう、と息をついた女性が、そこでやっと腕を解放してくれた。
「ハァ、サイアク……せっかくお洒落したのに、あんな奴らに褒められてもぜんっぜん嬉しくない」何かボソボソとつぶやいたかと思うと、女性がこちらを振り向いた。彼女は乱れた前髪を直しながら、肩を落として苦笑いしていた。
「ゴメンね〜、助かっちゃった。あのナンパ野郎共しつこくてさ〜」
口が悪いな、と呆れたが、確かに無作法な男たちだったので『野郎共』には違いない。
「彼氏のフリしてくれて、ありがとっ」そう軽く首をかしげてお礼を言うそのようすは、世間で言う“あざとい”しぐさにも見えたが、そんなしぐさも彼女の場合はなんだか様になっていた。
というのも、伊佐敷があらためて女性の姿を見ると、彼女はナンパされるのもどこか納得してしまうほど、華やかで色気のある顔立ちをしていた。大きな瞳に鋭い目尻は、化粧のせいもあるのか、なんとなく猫を
その服装も、男の目を引く理由の一つかもしれない。ロングスリーブのニットワンピースは、オープンショルダーになっていて肩の素肌が露出している。伸縮性のあるニットがほどよくボディラインを拾い──イヤらしい目で見てしまうのは失礼とはいえ、先ほどその胸が腕に触れていたのだからしょうがない──彼女のスタイルの良さを示している。
それから、階段の多い球場での野球観戦に来たとは思えないような、10センチはあろうかというピンヒールのショートブーツを履いていた。そのせいでスラリとした印象を受けるが、差っ引いてしまえばかなり小柄な女性だと気付いた。
女性はこちらの目線に気付いているのかいないのか、両手を合わせて興奮気味に話し続けている。
「イマドキあんなふうに助けてくれる人いるんだね。なんか少女漫画みたいで、ヒナちょっと感動しちゃった。おにーさんカッコいいっ」
「いや……ネーちゃんももう少し気を付けろよな」
照れくさいのもあるが、やや危機感のない彼女に対し、半分は呆れてそう言ってやった。だが、さっきの機転の利かせ方といい彼女、少々派手な見た目とは裏腹に、頭の回転は速いようだ。
「お礼はビールでいい? お酒飲める?」
気付くと女性は、近くに停まっていたキッチンカーの客の列に並び始め、店頭に張り出された大きなメニュー表を指差してこちらの答えをうかがっている。
「いや、そんなのはいいんだけどよ──ネーちゃんは一人で来たのか?」
「うん。誘われたから」
「あ、そうだ」と、思い出したように声を上げたあと、彼女はバッグの中から一枚の紙を取り出し、こちらに見せてきた。
「ねぇ、この席ってどこのこと?」
「場所わかんなくてうろうろしてたら、さっきの奴らに捕まっちゃって」どうやらチケットのようだ。伊佐敷が覗き込んでみると、そこに書かれている席は『一塁側・ ネット裏』だった。
今いるこの場所は、ビジター側の入口に近い。さっきナンパされていた現場も、一塁側の外野のあたりだったので、どちらにせよ、彼女の席からは見当違いの場所にいる。ネット裏なんて高額の席だが、『誘われた』という割には一人のようだし、初めて訪れたらしいのは明らかだった。
「このへんから中に入れる?」
「まあ、入れるっちゃ入れるが、こっちは相手側だ。ホームチームは一塁側」
「あっちだあっち」と、女性の目的地を指差してやると、彼女はそちらを一瞥してから、ふうんと鼻を鳴らし、こちらに向き直って言った。
「ねぇ、おにーさん、野球詳しい?」
「え?」
詳しい、か。彼女の言葉に、伊佐敷は数秒考えてしまった。
高校三年間を野球に費やしたが、甲子園の夢は叶わず、その後野球に未練を抱えて大学も野球で進学し、就職をした今も社会人野球を続けている。
何より今日の試合には、青道時代の後輩たちが出場する。一つ下の学年だった御幸は堂々とクリーンナップ・その相手チームでは亮介の弟の春市も二番打者を譲ることがない。春市と同じチームの沢村は今日は先発ではないが、リリーフで出番があるかもしれない。
同じチームで戦っていただけに、今の自分と比べてしまう気持ちもあるが、それ以上に後輩たちの活躍は誇らしく、それに球場での観戦も久しぶりで、同級生の亮介と観るのを伊佐敷も先日から楽しみにしていた。
そんな経歴と立場を踏まえれば、『詳しい』どころではないのかもしれないが、初対面の女性にそんなことを言うのも格好がつかないので、無難な返事をしておいた。
「まあ……一応経験者だけど」
「マジ? じゃあさ、一緒に観ながらちょっとルールとか教えてくんない?」
「は?」
彼女の言葉に、再び呆然とする。『一緒に観る』って軽く言いやがるが、そんなことできるわけねーだろ、それすらもわかってねぇのか?
「あたし、野球観に来たの初めてでさー。全然わかんないんだよね。一人で観てもつまんないし」
やはり初めての観戦だったようで、しかし、その誘いは現実的ではない。ところが彼女は、そんなことなどお構いなしに、両手のひらを顔の前で合わせて、懇願するようにしている。
「ねぇ〜おねがいっ、
うっ、と伊佐敷はたじろいでしまった。確かに、ここで彼女を見放してしまって、もしまたトラブルに巻き込まれてしまったとしたら、寝覚めが悪い。『人助け』とまで言われたら、見捨てることができないのも自分の性格だった。
……それに、可愛らしい女性に上目遣いで“おねがい”をされて、男として悪い気はしない。そんな言い方されっと断りにくいだろうが……!
「お、俺はいいけどよ……中に野郎のツレが一人いるんだよ」
そう、自分だけならまだしも、球場内では亮介が待っている。さすがに彼を放置するわけにはいかない。綺麗な女性に迫られてつい、しかも下心も全くのゼロというわけでもなし──自分も彼も恋人はいないが、そういう問題でもない──そんなことが亮介にバレたらどうなるか。いろいろと怖すぎる。
ただし、そんな言い逃れもむなしく、彼女は引くどころか話を進めてしまった。
「あたしは全然オッケー。きまりっ」
パンッ、と手を打ち合わせカラッと笑ったかと思うと、「じゃあ、もう1杯買わなきゃ」とキッチンカーの店員に向かって、ビール3杯を注文している。いや待て待て!
「本当についてくる気か!?」
「おつまみもなにかたべる? ポテトでも頼もっか」
「聞けよオイ!!」
クセでつい声を荒げると、びくっと彼女が肩を縮こまらせ、
言い訳になってしまうが、生まれてこの方体育会系だ。社会人になってから気を付けてはいるが、女性相手にさすがに言い過ぎだと分かって冷や汗をかく。「んが……! わりぃ」「き、急に大きい声出さないでよね」
しっかしマジか……どうするよ? 亮介になんて言えば……
「はい、コレ持って。あたし自分のビール持つから」
店員が渡してきた、揚げたてのポテトフライと、ビールのカップが2つ乗った紙製のトレーを、言われるがまま受け取ってしまった。彼女は自身のビールのカップを片手に、「ちょっとフライング」とすでに一口飲んでいる。
「ン〜、今日暑いからおいしーね」と言っている彼女を見たままその場で立ち尽くしてしまったことに気付き、ハッとして言い聞かせてやる。
「あ、あのなァ、球場は全部指定席なんだよ。それに、そのチケット高けぇ席だぞ。もったいねーだろ」
「そーなの? 別にどこで観たってそんな変わんなくない?」
「だいじょぶっしょ」と、無知ゆえなのか軽いようすで笑う女性は、「ヒナにいい考えがあるの」と言いながら人差し指を立て、芝居がかったようなしぐさでウインクをしてみせた。
勢いに流されてしまったが、気付いたら女性の言われるがままにしてしまう、それを嫌に思わせない、容姿以上に彼女にはそんな不思議な魅力があった。
いったいなんなんだこのネーちゃんは──いやそれにしても、このあと亮介になんと言い訳しようかと、伊佐敷はそのことに対して気が気でなかった。
(ナンパから助けてくれる純さんと、ヒナちゃんのおっぱいにドギマギする純さんが書けて楽しかったです。)
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