レイト・ナイト・ドライブ
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「とにかく! プレゼントならもうちょっと持ち運びやすいモノにして! それか換金できるヤツね!」
最後にそう叫んでから、日奈子は勢いに任せて電話を切った。スマホを持った手の甲を額に当て、がっくりと肩を落とすと、大きなため息が出てしまう。
「ハァーー…………信じらんない……」
店の控室には、積み上げられた靴箱、壁際に並ぶドレッサーに散乱するコスメにドライヤー・ヘアアイロン、カラフルな羽やスパンコールが目にまぶしい小道具に、ハンガーラックにみっちり掛かった布面積の少ない派手な衣装。
そして、ドレッサーに備え付けられたライト付きの鏡──通称・女優ミラー──その日奈子の席である鏡の前の椅子に鎮座している、野球のヘルメットを被り白と黒の色をした、鳥のキャラクターの巨大なぬいぐるみ。背の高い小学生くらいの体長はありそうだが、狭い控室に置く場所がないので、自分の席に置いたはいいものの、おかげで日奈子の座る場所がない。
この店の雰囲気に全くそぐわないため、控室で異様な存在と化しているぬいぐるみの、そのつぶらな瞳と気付けば鏡越しににらめっこしていた。すると、見かねた周りの同僚 が叫んだ。
「ヒナ、いつまで突っ立ってんだよー、ジャマ〜!」
「仕方ないじゃん、ぬいぐるみ のせいで座れないんだってば!」
「こんな騒がしい控室 で誰に電話してたの?」
「贈り主に文句言ってたの! サラ、メイク終わったならどいて!」
「んもう、しょうがないな〜」
「ヒナのご贔屓 にそんな趣味の人いたっけ? 痛客?」
「ちがう、客でもなんでもない!た だ の 知 り 合 い !」
もうっ!、とようやく隣の椅子に座り込むと、話していたダンサー二人は「なんか訳アリ?」「さあ?」と、顔を見合わせていた。
店のオープン時間が迫る控室は、セクシーな衣装を着た若い女たちがバタバタと行き交い、声を張り上げないと聞こえないときもあるほどだ。そんなか し ま し さ の中、彼女たちは慌ただしく化粧や支度をしている。
「ね〜ぇ〜、誰かスパイスガール用のシューズ知らな〜い?」
「やだあ、カラコン切らしちゃった!」
「誰だよウチの盛りパッド勝手に使ったのー!」
「ガーター片っぽないんだけど〜!」
「ヒナの靴貸してよ〜足なんセンチ?」
「ちょっとヘーゼル寄りだけど、コレならイケる?」
「盛ったところで大してチチないんだからいいでしょ」
「ヤバいって! 今日後ろでママ観てるんだから!」
「22センチだけど」
「うっせーし!!」
「フリフリガーターあったよ〜」
「アンタ足ちっさ! 絶対ムリ!」
「ほらほら、おしゃべりばっかりしてないでぇ、1部から出るコは早く準備なさいよ〜」
騒がしい控室に両手を叩きながら入ってきたのは、フロアを仕切るマヤだった。すでにお決まりのバニーガールの衣装を身に付けていて、あとはウサギの耳を装着するだけのようだ。
そんなマヤが「アラ」と、声を上げてこちらへやってきたかと思うと、日奈子の隣に座るぬいぐるみに気付いて、ヘルメットを被った頭をぽんぽん、とやさしく撫 でた。異質の空気を放つ物体を見ても、その反応からして、彼女はなぜ控室にこんなものがあるのか、すぐにわかったらしい。
「カワイイじゃな〜い、畜ペンのぬいぐるみ」
「“ちくぺん”? このコ、そんな名前だったっけ」
「ワタシもこんな大きいの見たことないわ。たぶん非売品のレアモノよ〜」
「嬉しくないし……」
リップを重ねながらマヤに応えると、先ほどの電話でのやりとりが思い出され、彼のしたり顔が頭に浮かんで、つい眉をひそめた。
なんでよりによって、ぬいぐるみなんて一番処分に困るものを贈ってくるかな……貴金属やブランド物じゃないから、質屋で売ることもできないし。かといって捨てるのはかわいそうだし……「メルカリにでも出すか……?」いやでもマヤ姉 の言うように、もし非売品だとしたら、いろいろマズいかもだし……「あーもうめんどくさい!」
思わず頭を掻 きむしると、ブロンドのウィッグが少しズレた。しかし、ショーの出番ももう近い。さっさとヘアメイクを済ませてしまわないと。
そうしてブラシ片手にロングヘアのウィッグをもう一度整えていると、ふとマヤのスマホの通知が鳴った。スマホを確認したマヤは、嬉しそうな表情でこちらに寄り添い、日奈子に画面を見せてきた。
「見てみて〜太陽クンがストーリー上げてる」
『太陽クン』は確か、彼のチームメイトで、マヤがファンだという選手だったはず。
彼女はニヤニヤしたようすで、「アナタのボーイフレンドもいるわよ♡」とさらに画面を指さしてきた。いや、てかボーイフレンドて。正確には(元)セックスフレンドだわ、と言いかけてやめる。
「御幸クンのファンが喜ぶのが目に見えるわ〜」
「彼、全然SNS更新しないので有名だから」「ふうん」マヤのスマホを見ると、やや童顔で黒髪の選手が斜め上の角度から手慣れたようすで自撮りをしている写真が映っていた。
『今日の練習終わり〜 御幸さんどこ見てんの?』という文字が貼ってある写真には、ロッカールームらしき空間でピースする黒髪の選手と、その隣で眼鏡越しになぜかきょとん、とした顔でカメラを見上げる御幸がいた。首にはタオルが掛かっていて、髪がほんのり湿りへ た っ て いる。
ヘアブラシと、ヘアブラシを持っていない手の指を使って自分の毛先を梳 かしながら、よく見ると、以前初めて店にやってきたときよりも髪が短くなっていて、刈り上げが目立っていた。へぇ、ツーブロけっこう似合ってるじゃん。
それを見たマヤが「シャワー浴びた後かしら、セクシーね〜♡」と笑う。その言葉を聞いて──シャワー浴びたあとの彼の姿なんて、会う度見てたし、なんならもっと見えないところまで見てるんだよなあ……お互いに──なんて思ってしまった。
「……こんなもの贈ってきて、迷惑でしかないから」
「いいじゃない、お金も持ってるだろうし、紳士だし、ルックスも申し分ない──“王子様”みたいな人に見初められて、何が不満なのよ?」
「はぁ? なにそれ。彼、そんなキャラじゃないし──」
マヤの言葉に鼻で笑っていると、ふいに鏡の中の皮肉めいた笑みを浮かべた自分と目が合って、ハッと息をのむ。髪を梳かしていた手が、ゆっくりと止まる。
そこに座っているのは、人工の金髪にケバいメイク、うなじに隠れた刺青と、ピアスホールだらけの耳、下着同然の衣装を着た女──幼い頃に聞いた“お姫様”とは程遠い──仮に彼が“王子様”だとしても、選ばれるお姫様はこうであってはならないはずだ。そんなのおかしい。
はっ、馬鹿げてる。「ぼうっとしてどうしたの、ラプンツェルちゃん」「髪だけじゃん」マヤに言い返していると、彼女のスマホから再び通知音が鳴った。画面を確認したマヤが、今度は直接こちらを見下ろして聞いてくる。
「ヒナ、今日0時上がり?」
「そうだけど」
「じゃあ、その時間に合わせてタクシー呼んだら? さすがに持って帰るの大変でしょう?」
「だよね……そうする」
今度彼に会ったらタクシー代請求してやろ、とため息を吐いていると、マヤは誰かにメッセージを送りながら、どこか呆れたようすでいた。「あのね、日奈子」
「相手の想いを素直に受け止めるのも、“いい女”には必要よ。覚えておきなさい」
「さあ、開店するわよ〜」ダンサーたちに声をかけながら、控室から出ていくマヤを、鏡越しに目で追う──『素直に受け止める』って、どういうことだろう。またお説教みたいなこと言っちゃって。別に、嘘ついてるわけじゃないのに。
出番の近いダンサーたちが控室からパタパタと出ていくのを背中で感じつつ、隣に座るぬいぐるみを横目で見下ろす。ぬいぐるみ自体は、可愛らしいと思う。ただ、ネ タ だとしても、コレを選んで贈ってくるセンス──あんなに根が真面目な彼が、どんな顔して選んだんだろ──そう思ってぬいぐるみの顔を見ていたら、なんだか笑えてきた。
「……ふふっ、かーわいっ」
まんまるのフォルムから飛び出た黄色い嘴 が目に留まって、日奈子は思わず手に持ったヘアブラシでそこをつんつん、とつついた。
「ヒナそれ、マジで持って帰んの?」
「デカ〜、いいな〜」
「全然よくないし」
仕事を終え、もうすぐ日付が変わるという頃、日奈子が控室で着替えて帰り支度を終えたところで、化粧直しをしていた同僚たちがバカにしたように笑ってきたのを睨みつける。その中の一人が、不思議そうな表情でぬいぐるみを指さした。
「このキャラ、野球チームのマスコットじゃなかった? ヒナ、野球好 きだったっけ?」
「……まあ、ふつう」
本当は全く興味ないが、これ以上勘繰られて、贈り主が“プロ野球選手の御幸一也”だとバレれば厄介なので、適当に流した。
「それ贈ってきたのどこの誰よ? 客じゃないんでしょ?」
「あ〜! また新しい男 〜?」
「アンタほんっと男切れないよね〜」
「男癖だ け はサイアク」
「ウチにも紹介してよー!」
「股緩すぎ」
控室で自由に過ごすダンサーたち──年齢は皆同じくらいだが、正直こういった店で働く女たちは大抵“訳アリ”で、誰に対しても言いたい放題だ。しかし彼女たちは遠慮がなく、逆に嘘も言わず、いつでも前向きなので、日奈子はこの店にいるときは楽でいられた。
「あたしの股が緩いんじゃなくて、オ ト コ の が小さいだけだっつの」
「ぎゃはははは!」
「間違いねぇ〜! ヒナのそゆとこスキ」
「ちょっとみんな〜、またマヤ姉に品がないって叱られるよ〜」
「やば! まじウケる」
「で? その“ぬいぐるみ彼氏”はデ カ い の?」
「それが、すぅっごいのよ。マジで」
と、冗談混じりに親 指 を立ててやると、瞬間「あははは!」「キャー!!」「ヤバーい!」「だからお下品!」と、無数に女たちの甲高い笑い声が控室に響き渡った。
「それでこんなカワイイの贈ってくんの!? ギャップやば!」
「でもアリかも? ウチはカワイイ〜って思っちゃう」
「いやナシでしょ! ジュエリーが一番じゃない?」
「どうせ換金すんじゃんねー」
「そうそう! こないだ渡されたプレゼントがさ〜」
「……ハズキ、あたし帰るね」
「はいよー、ヒナおつかれ〜」
「おつかれ」
関係のないところで話が広がり始めたので、日奈子は見かねて同僚の一人に声をかけると、ぬいぐるみを両腕で抱きかかえるようにして、控室を後にした。それにしても、重い上に大きすぎる。仕事終わりにこの仕打ち、たまったものではない。
「もぉ〜……このコに罪はないとはいえ……」
従業員用の出口へ向かい、階段を昇る。地上に出ると、深夜の一通の道には誰もいない──どころか、肝心のタクシーも見当たらない。左右を見渡しても、こちらを向いた白い高級車が一台停まっているだけ。時間を間違えただろうか、いや、そんなはずはない。
「道が混んでるとか?」こんな姿、人に見られたくないからさっさと乗り込みたいのに。デニムの尻ポケットに入ったスマホを取り出したくて、なんとかぬいぐるみを片手で持とうと試行錯誤していると──
パッ、パッ
それは、外車特有のクラクションの音。反射的に、その音の方を振り向いた。
音は先ほど停まっていたのを見た、真っ白な高級車が出していた。フロントガラス越しに、運転席に人が一人座っているのが見える。ハンドルを持って、片手を中央のクラクションに乗せた状態のその人物と目が合った瞬間──日奈子は、自分の目を疑った。
─────────────────────────
車の中からパッ、パッ、と短く2回、クラクションを鳴らしてやると、従業員用の出口から出てきた彼女はこちらを振り向いた。視線が重なり、気付いて目を見開いた日奈子の、口の形で「キミ……!?」と呼ばれたのがわかる。
その細い両腕で、所属球団のマスコットの大きなぬいぐるみを抱えている姿が、なんだかシュールで笑ってしまった。いや、カワイイけど。その笑みを隠さないままで、御幸は運転席のドアを開けて車を降りると、彼女に向かってわざとらしく、気障 に話しかけた。「こんばんは、お嬢さん」
「ああ、タクシーなら帰しちゃった」
「はぁ!? なに勝手に、」
バタン、とドアを閉め、日奈子が立っている車道の左側まで回り込む。車とビルの隙間の陰に、二人で隠れるようにしている。
「ってか、まちぶせとかいよいよ笑えないんだけど!? ヒナ今から帰るところだからほっといて!」
「別に構わないけど……そ れ 抱えたまま徒歩か電車で帰る気か?」
「目立ってしょうがないぜ?」と、彼女の腕の中のぬいぐるみを指さしてやる。御幸がしたり顔で言ったその言葉を聞いて、日奈子の表情がサッと曇った。流石の彼女、勘は鋭い。
「キミ、もしかして計画的に……」
「よっ」
ひょい、と日奈子からぬいぐるみを奪い取り、後部座席のドアを開けて、上半身を車内へ入れながらシートに座らせる。重心のせいで座面に乗せただけでは据わりが悪く、一応シートベルトをして安定させてやると、ちょうど小柄でぽっちゃりした成人男性が座っているような格好になった。送るときも思ったけど、やっぱデカいなコレ。
「こんなことして……撮られても知らないよ」
「一応、そういうの撒くように遠回りしてきたから。たぶん大丈夫」
「万が一撮られても、俺は別にいいし」
「だからさあ……」
「けど、もたもたしてたらココで誰かに見つかるかもな?」
それはお互いにデメリットでしかないだろう。後ろのドアを閉め、気障ついでに、紳士よろしく今度は助手席のドアを開けて、首を傾げてみせる。「どうぞ?」
腕組みしてこちらを睨んでいた日奈子はそこで、ハァ、と諦めたようにため息をつき、黙って助手席のシートに腰を下ろした。彼女のタイトなジーンズを纏 った両脚が車内へ収まったのを確認し、そっとドアを閉めたあと、もう一度運転席のほうへ回り込んで、念のため周囲を見渡してから自分も乗り込む。
時間帯もあるのかもしれないが、やはり人通りのない路地だった。以前“路チュー”が見つかったのは、運が悪かったとしか思えないほどだ。
「ベルトした?」「うん」シートベルトを装着し、ドアミラーを見ながらハザードを消して、シフトレバーを操作しつつ右のウインカーを出す。
ハンドルを握って車を発進させると、一息ついた気になって、自然と言葉も出てくる。「クーラー入れてるけど、寒かったりしたら言えよ」「うん」
「キミ、車持ってたんだ」
「まあ、ヒナと会ってた頃は、いつも酒飲んでたから」
「たしかに」
そう言って鼻で笑われた。別に酒は大して好きではないが、あのときは酔ってでもいないと、“セフレ”でいることに納得なんかできなかっただろうから。
「正直、俺自身は車とか興味ないんだよ。この車も、先輩から譲ってもらったやつだし」
「割に綺麗だね」
「車好 きな人でさ。子どもできたからセダンは手放すって。『お前もプロ野球選手なら、中古でもいい車乗っとけ』ってのは、俺にはよくわかんねーけど」
「いい先輩じゃん。この車種人気だし、中古でもかなり高く売れるはずだよ」
「詳しいんだな」
「……まあね」
女性が高級車に興味があるものなのかは知らないが。信号待ちのタイミングで御幸が助手席側へ目をやると、手を伸ばせば届く距離に、日奈子の横顔──やっと二人きりになれた──自分の車に彼女が乗っているという事実に、あらためて高揚する。
東京の夜中は、いつでも明るい。窓の外の灯りが、彼女の白い肌を浮き上がらせている。いつも特に考えず、適当なチャンネルに合わせているカーラジオ──深夜のラジオ番組の、低く落ち着いたパーソナリティの声が、スピーカーから響いている。
『夜の静寂 の、なんと饒舌なことでしょう。光と影の境に消えていった遥かな地平線も、まぶたに浮かんでまいります──夜間飛行のお供をいたしますパイロットは、わたくし──』
「青だよ。前見て」
「ああ、ゴメン」
視線を感じていたのか、正面を見たまま彼女がそう言うので、向きを直してゆっくりとアクセルを踏んだ。深夜の空 いている都会の左車線を、当てもなく走る。ラジオDJの声が、寄せては返す波のように穏やかでいる。このまま遠くまで行けそうだった。
「ねぇ」密室の車内でシートベルトまでして、いよいよ逃げられない状況の日奈子は、先ほどから固くなったようすで、それを紛らすように脚を組み、ドア側に肘を掛けて頬杖をついた。
「キミ……なんであたしのシフト知ってるの?」
「俺、一週間くらい前に、あの店に行ったんだよ」
「は? なにそれ、ヒナ知らないんだけど」
「そりゃあ、日奈子は休みだったからな」
前を走る車の赤いランプについていくようにしながら、彼女に聞かれるだろうと思っていたことに答えた。
「あと、正確には行っただ け 。店に入ってはいなくて、入る直前にビルの前で声かけられてさ。『日奈子のシフト、知ってたほうが何かと都合がいいだろう』って、その場でライン交換して」
「まさか……」
「バーテンダー──あの、バニーちゃんの恰好 した、おっぱい大きいお姉さん」
「マヤ姉か……!」
左目の端で、日奈子が頭を抱えている。その口ぶりからして、なんとなく犯人は分かっていたらしい。それを聞いて、はは、と苦笑いしてしまう。
一週間前、あのバーテンダーに『御幸選手』と呼びかけられたときは、さすがにぎょっとした。あの夜、そこそこ会話をしたはすだが、一度も気付いたような素振 りは見せなかったから。さすがにプ ロ だ。
『安心して〜誰にも言ってないわよ。もちろん、日奈子から聞いたんでもないわ。黙っててゴメンね〜』
『昨日の試合もバッチリ観てたもの。第一打席・初球相手のカーブをライト前に狙いうち。さすがね♡』とほほ笑まれたときは、驚きよりも先に感心してしまったくらいだ。どうやらウチの球団のファンだったらしい。
「なんでも、『こないだ強い酒飲ませたお詫び』だってさ」
「だからってあたしを売りやがって……!」
「ほら。プレゼント、もうひとつ」
「さすがにぬいぐるみだけじゃアレだろ」信号を待っているあいだに、御幸は運転席のドアポケットに入れていた長細い封筒を取り出し、隣の日奈子に手渡した。彼女はぬいぐるみの件があるからか、やや不審そうな顔でそれを受け取った。「……なにコレ」
「あの店、日曜定休なんだろ? 週末の試合観に来てよ」
御幸がそう言ったのと、日奈子が封筒からそれを取り出したのがほぼ同時だった。球団の営業に頼んで用意してもらった、次の広島戦のチケットだ。
日奈子はチケットを眺めてから、しばらく考えるような間 をつくった。「…………土曜の夜は……」
「……土曜日の夜は、仕事の後の予定埋まってんの」
「試合開始は昼過ぎだし、途中でも入れるし。日曜のゲームでチームも好調だから、けっこう盛り上がると思うぜ」
「それと、試合終わったあとでよければ、メシでも行こう。近くに石田屋っていう美味 い焼肉屋があってさ──」信号が変わったので運転に戻るが、押し問答は続いた。
「ヒナ、野球のルール、ぜんぜんわかんないもん」
「全部わかんなくてもいいって。生で観るとけっこう面白いかもしんないだろ?」
「興味ない。マヤ姉にあげようかな」
「でも1枚だけじゃ旦那もいるし困るか……」そうつぶやいて、日奈子がチケットを仕方なくバッグにしまったのを、左目の端で確認する。そういうことなら、今度はマヤにもお礼として2枚準備しておくか、とついでにリマインドした。
「あのお姉さんには、最初から気付かれてたってことだよな」
「マヤ姉、ああ見えてこの業界長いし、ナメちゃダメだよ、あたしなんかよりずっと手強いんだから」
「……ヒナが言うならよっぽどだな。覚えとくよ」
「なんか、“太陽クン”とかいう人のファンらしい。さっきマヤ姉がインスタ見てた」
「あいつ、相変わらず年上の女性ファン多いなあ。よく練習相手になるけど、実際めちゃくちゃ生意気でさ」
「その生意気なお顔がキュートなんだって」
「はは……そういうモンか」
思わぬ形で彼の名前を聞いたことで、脳裏にロッカールームでふてぶてしくくつろいでいた向井の姿がよぎる。……よくわからないが、それがカルロスらの言う“母性をくすぐる”とか“あざとい”とかいうやつなのだろうか。ただの“ワガママ”のような気もするが。鳴然り。
そうして夜に包まれて考えながら、信号待ちの度に助手席のほうを見ていたら、ふと日奈子がこちらを横目に見上げていた。
「……んっ? な、なに」狭い車内でじっと見つめられ、ドキッとする。つい軽い調子で笑ってみせると、彼女はぽつりと言葉を発した。「インスタ見たときにも思ったんだけど」
「髪、切ったんだ」
「え? ああ、コレな……」
言いながら指摘された首元へ手をやると、ふいに「ふっ」といたずらっぽくほほ笑まれ。再び、ドクン、と鼓動が跳ねる。
「ヒナが言ったから?」
「いや……ちょうど、切ろうと思ってただけ」
なんて、バレバレの嘘を吐いたところで、彼女にはいつも、ぜんぶお見通しなのだけれど。一度フられた身だ、好かれるためなら必死にだってなる。
「ふふっ、キミ、カワイイとこあんじゃーん」
「似合ってるよ」とか褒めてきたと思えば、こちらに手を伸ばし「おー、じょりじょり」と笑って、首の刈り上げ部分を撫でられた。
ぞわぞわと肩が縮こまり、ニヤけそうになる口元を抑え噛み締めると、ぎゅう、と喉の奥が鳴る。「……っ、やめろ。運転中だから」「ゴメンゴメン」姿勢を正して、車を発進させる。あーくそ、我ながらちょろいな……。
「あー……っと、ヒナの家、どのへん? 道案内して」
気を取り直し、彼女に尋ねると、日奈子は「え?」と間の抜けた声を上げた。
「ホテル行くんじゃないの?」
「はっ?」
その言葉に、今度は御幸が拍子抜けした。そんなつもりは微塵もなかったため──だがああ、そうか、これまでの俺たちの関係だと、そう思われても仕方ない……のか?
「カーセックスも嫌いじゃないけど」
「いやいやいや」
冗談めかしてそんなことまで言いだす日奈子をたしなめる──御幸の仕事柄、人に見られる可能性のあるような場所での経験はないが──狭い車内で密着して、脱衣もままならないでの性交というのも、それはそれで──「いま『アリかもな』って思ったでしょ」「……なんでわかるんだよ」
やはり彼女は、こちらの表情やしぐさで読み取ってしまうらしい。参ったな、とハンドルを持ったまま、反対の手で先日すっきりした首元を掻いて弁明する。
「今日は、“お迎え”に来ただけ」
「はぁ? なんのために?」
「なんだよ、彼氏面 もさせてくんねーの?」
苦笑いして肩をすくめると、日奈子は『彼氏』という言葉が引っかかったのか、呆れた口調で諭すように言った。
「……そういうのは彼氏じゃなくて、“アッシー”って言うの」
「アッシー?」
「女 の“足”代わりだから」
「へぇ、あだ名みたいなもんか」
そんなことも知らないのか、とでも言いたげに、日奈子は気だるいようすで、履いていたヒールを足元に脱ぎ捨て、シートの座面に両足を乗せはじめる。
膝を抱えるようにして、彼女は「のど渇いた。コレちょうだい」とこちらの返事を聞く前に、運転席と助手席の間のドリンクホルダーに置いていた、御幸の缶コーヒーを取り上げた。「なんか飲みたいなら買ってやるぜ?」「コレでいい」
「別に足代わりでもいいよ。うまいこと利 用 しとけ」
「プロ野球選手サマが、都合のいい男に成り下がるっての?」
「下心は隠さないから安心しろ」
「『安心』の使い方間違ってんだわ」
「アホくさ」と、缶に口を付けながら、悪態をついてくる。別に、日奈子と過ごせるなら、それでも構わない。車内からのこの眺めも、二人で見ればある意味贅沢な夜景というものだ。
「損はさせねーと思うぜ? 日奈子は行きたいところねーの?」
「行きたいところ?」
「デートだよデート」
自分のスケジュールの許す限りではあるが、できるだけ彼女の希望は叶えてやりたいと思う。しかし日奈子は、「はぁ?」としっかりこちらに顔を向けながら眉をしかめた。
「キミの言う“下心”があるなら、とっととヤりたいことヤればいいじゃん」
あのなあ……、と何度目かわからない彼女のそのような台詞に、嘆息が漏れてしまう。「それじゃダメなんだって」「あ た し が イイって言ってんのに?」
「キミはヒナとシたいんでしょ?」
「……まあ、『違う』って言ったら嘘になるけど」
「キミ、嘘つけないよねぇ」と、笑われる。缶コーヒーに口を付けたまま、真上を向いて飲み干す彼女の気配を左に感じながら、どう返したものかとしばらく考えてみる。
「けど、そ れ が一番の目的じゃないってのはホント。デートがしたいってのもホントだし」
そう言うと、ずっと言い返していた日奈子が黙り込んだ。ラジオのミュージックが耳に触 れた。違和感をおぼえて、信号待ちで左を見ると、彼女はなぜかきょとん、とした顔のままこちらを見上げていて、目が合うとゆっくり口を開いた。
「……“デート”ってフツー、セックスするもんじゃないの?」
先ほどから、どこか会話が噛み合わないと思っていたら、そんなことを真顔で訊 かれた。それも、まるで子どもの素朴な疑問のような調子で。
言葉の意味はわかるが、そんなことを訊く意味はわからなかった。すぐには答えられなかった。彼女にとっての『フツー』とは、なんなのか。
「や……そんなこと、ないんじゃない?」詰まりながらも、笑って答えてみた。笑顔が引きつっていたかもしれなかった。そのはずだ、と、思う。たとえば食事するだけでも、こうして夜の東京を軽くドライブするだけでも、“デート”と呼ぶこともあるだろう。一般論で。
「なにその顔」
「えっ」
「なんか悲しそう」
やはり、うまく笑えていなかったらしい。「なんでもねーよ」ともう一度笑ってみたが、ごまかせたかはわからない。
『セックスするのが当たり前』なんて──悲しいというか、なんだか空 しく思った。それは、御幸の立場だけのことじゃなかった。
日奈子はこちらを見つめたまま、おもむろに首を傾げてから、つぶやくように「ヘンなの」と言った。それから、細い両腕で膝を抱え、助手席の窓から外を眺めていた。何も言えない自分が情けなかった。
『夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ、次第に星の瞬 きと区別がつかなくなります──』
御幸が運転しながらときどき横目に見ると、並ぶ街灯が彼女の横顔の上を淡く光って揺らいでは、流れていった。どこか幻想的な空間の中、ラジオDJの声が沈黙を埋めてくれていた。
「ヒナの家、そこのアパートだから。ココで停めて」
靴を履き直した日奈子に言われ、御幸は道の左側に停車すると、シフトレバーをパーキングに入れ、ハザードランプを焚 いた。
日奈子に案内されて着いた場所は、夜でも明るい都会からは離れた、閑静な住宅街だった。「このへんで高級車停まってたら目立つから、さっさと帰ってね」という彼女の言葉どおり、周りを見渡しても、昔ながらの小さな家ばかりだ。
その上、日奈子が指さした家というのは、いわゆる短期契約の賃貸のような見た目で、いまどき二階建ての外階段・外廊下という昭和の空気が漂う、本当に小さなアパートだった。フロントガラス越しに覗き込んでみるが、築年数もずいぶん古そうだ。
「……マジでココに一人で住んでんの?」
「だったらなに?」
「いや、東京で女のコ一人暮らしなんだったら、もっとセキュリティのいいところとか……」
「そんなお金ないよ」
「プロ野球選手と一緒にしないでよね」とシートベルトを外しながら、相変わらず皮肉っぽく笑うが、そういう問題ではないし、笑い事でもないだろう。
「お給料はだいたい美容メンテに突っ込んでるし、ショーダンサーなんて入ってくるお金は安定しないし」「病院とか薬代も馬鹿になんないでしょ」「帰ってこないことも多いしね。友だちの家とかホテルとか転々としてる」
「逆に何かこ じ れ て も、身一つですぐ引っ越せるようにしてんの」
そこで御幸は、以前日奈子の働いている店で聞いた言葉を思い出した。『彼女たちも生活かかってるから』華やかな世界とは裏腹に、これが現実とでも言わんばかりの状況だった。
「そう……だ・か・ら、こ ん な の プレゼントされたら困るんだってば」
そこで思い出したように、日奈子は左手の人差し指で、右の肩口から後部座席のぬいぐるみを指さして文句を言った。
いらないなら捨てるか突き返せばいいのに、とも思ったが、このぬいぐるみに対しすでにちょっとは愛着があるのか、彼女にその選択肢はないらしい。なんだか可愛くて笑ってしまったついでに、おどけて返してやった。「ウチの球団で一番のグッズ売り上げ誇ってる“大先輩”にこ ん な の はダメ」「そういう意味じゃない」
「あと、家張り込んでも無駄だ、ってこと」
「ストーカーじゃねーよ」
「よく言うよ、店突き止めて、今回はまちぶせまでしといて」
確かに、下手すればストーカーとやってることは変わらないかもしれない。こちらもシートベルトを外して、肩をすくめながら彼女をなだめた。「肝に銘じるよ」
「でも、家入るまでは心配だから。ちゃんと見とく」
完全に停まった車内で、しかと日奈子の目を見て告げた。しばし沈黙があって、ラジオの音楽の狭間でカッチ、カッチ、とハザードがズレて聞こえる。
「……勝手にすれば」御幸の視線から逃れるように、バッグの中を漁りだした日奈子は、財布から一万円札を引き抜き、こちらに差し出した。
「コレ、車代」
「いらねーよ、俺が勝手に来たんだし」
「フッ、それもそうだね」
断ると、笑って遠慮なくすぐ引っ込めた。気が利くというよりも、この場合は、借りを作るのが嫌なのだろうなと思った。
「その代わりに……こ っ ち で払うってのはどう?」
自分の唇に人差し指で触 れて、以前と同じ別れ際にキスをねだると、日奈子は途端にしかめっ面になった。
「……こないだ勝手にシたくせに。ネット記事になったの、知ってるんだからね」
「でも流れたろ? 俺を雇ってる人らも、証拠もないからデマで押し通すってさ」
「権力えぐ」
「『キスなんて減るモンじゃない』んだろ?」二年前、彼女は御幸にそう言っていた。そのことにかこつけて、“見返り”にしようとするのはズルいかもしれないが。日奈子自身も、そのことに覚えはあるのか、言い返すというよりは言い訳のようになっていた。
「……ヒナだって売る相手くらいは選ぶっつの」
「てことは……少なくとも二年前も、俺のこと選 ん で くれたわけだ」
「そうやって揚げ足とっ、……! んっ、」
車の中では捕らえるのも容易 くて、御幸は片手で日奈子の頬を包むと、助手席の彼女に覆い被さるように身を乗り出し、問答無用でキスをした。彼女のやわらかい唇は、何度味わっても、する度にもっと欲しくなった。ブラックコーヒーの味のはずなのに、どこか甘い気がした。
途中、身をよじって抵抗しかけた日奈子だったが、頬にやっていた手で優しく頭を撫でてやると、おとなしくなった。時にこういう素直さも見せてくれるから、懐ききっていない猫みたいだ。だから、離れられないのかもしれない。
できるかぎり、彼女を近くに感じたい──ふっくらした下唇を追いかけて、はむ、と唇で挟んでやると、「ン……」と日奈子の声が漏れ聞こえて、腰がうずいた。軽く吸いついたら、ちゅっ、と音が鳴った。
名残惜しいまま唇を離したところで、とあることに気付いた。「あれ……」前回した香りがな い 。
「今日、タバコ吸わなかった?」
深く考えずに尋ねたのだが、それを聞いた日奈子の体が、ギクッ、と強張ったのがわかった。彼女は気まずそうに目線を斜め下にそらしたあと、パッと振り返ってドアを開けようとした。
「……帰るっ」
「お、おい、」
ところがドアには鍵をかけていたため、開かない、と日奈子がもたついているあいだに、御幸もドアロックを解除してすかさず運転席のドアから出た。
「ま た やめたってことだよなっ?」
助手席側に声をかけながら、車を降りようとしている彼女のほうへ慌てて回り込む。点滅するハザードが目に眩 しい。「なあおい、日奈子っ、」
逃 すはずもない。一方的だと思っていたアプローチも無駄じゃなかったんだと。まだ俺にもチャンスがあるんじゃないかと思わせてくれるのなら、そんなの、
バン、と助手席のドアを閉めた日奈子のその手をグイッと引っ張って無理やりこちらを向かせると、彼女が小さく声を上げた。「きゃっ」
「そんなの!」思わず大きな声が出た。やっと目が合った。深夜の静かな住宅街で御幸の声が瞬間響き渡ったので、落ち着かせるように、小さくゆっくり一息、呼吸した。
「そんなの……期待すんだろ」
気付けばその一瞬で胸を膨らませ、軽く息が上がっていた。目が合った日奈子は御幸の声にびっくりしたようすで、やはり気まずそうにしてうつむいてから口を開いた。
「……ちょうど、やめようと思ってただけ」
先ほどの御幸と同じようなフレーズで言い訳する彼女だって、バレバレだとわかっているはずなのに。それを指摘する気にはならなくて、それよりは、彼女の健康のほうが心配だという事実が勝 った。「それは、そのほうがいいと、思うけど」
小さくうなずいた御幸がぼうっとしていた隙に、日奈子はこちらの手を振り解 くと、後部座席のドアを開けて、そこに座らせていた大きなぬいぐるみを抱きかかえた。
「……じゃあね」
逃げるように御幸から離れ、アパートのほうへ去っていく。カン、カン、カン、と彼女のピンヒールが金属を叩く音が聞こえてきたと思うと、外階段を昇る日奈子が見えた。その光景が実家の階段に似ていて、御幸はすこし懐かしくなった。
二階の一室が彼女の自宅のようで、扉を開けて中に姿を消すまで見送ったあと、アパートの反対側へ回り込んでみると、ちょうど入った部屋のベランダの窓越しに、電気が点くのが見えた。見送りを終えて、一安心する。
そこで思い立って、ポケットのスマホを取り出し、電話をかけた。彼女はワンコールですぐに電話に出て、ためらいなく声を上げた。
『なに、まだ何か用? もう寝たいんだけど』
「わりぃ。鍵閉めたか?」
『閉めたよ。心配性だね』
「……あと、言ってなかったなと思って」ん?、と電話の向こうで彼女が不思議そうにした。
「おやすみ」
『…………それだけ?』
「ダメ?」
「ベランダの下にいるんだけど」すると、日奈子がため息を吐く音が聞こえて、先ほど電気の点いた部屋のカーテンが引かれ、カラカラと音を立てて窓が開く。
ベランダの柵に腕を乗せて寄りかかる日奈子の片手には、スマホが握られていて、彼女はそれを耳に当てがったまま、こちらを見下ろした。部屋の灯りの逆光でよく見えないが、その表情は呆れているだけではなくて、なんだか困惑しているふうにも見えた──単に眠かっただけかもしれないけれど。
日奈子のことを見上げながら、どこかにこんな童話があったような気がするな、と御幸は想いを巡らせた。彼女はまるで童話の“お姫様”みたいだった──深夜の思考はあまり良くない。『キミ、案外ロマンチストだったんだね』とは彼女に言われたのだ。
そっと唇を開く日奈子を見つめる。囚われの身だというのなら、いつかその窮屈な家から出してやれるだろうか。そのときは、俺自身の手で、きっと──
「『……おやすみ』」
《どんな恋であったって また終わりが来るくらいなら いつまでもこのままで》『La/te/Nig/ht/Dri/ve』Lou/is Vi/sion, LIL/JA/P, H/ina/ko M/iur/a
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⚾️日奈子(デフォルト:ひなこ)
都内のパブで働く、人気のショーガール。猫のような顔立ちで、やや派手な見た目。言葉遣いに品がないときもあるが、根は優しくてお人好し。ただ如何 せん男癖が悪い。
二年前、カフェバーで出逢った御幸と半年ほどカラダだけの関係を続けるが、突然別れを告げた。小柄でスレンダーだが、出るとこは出てる。ちょっぴり皮肉屋。
⚾御幸 一也
燕所属・青道高校出身。高卒でドラフト指名を受けた。二軍落ちも経験したが、現在はスタメンマスク。10代のときから野球一筋だったため、恋愛下手でデリカシーがない。
二年前、球団での成績が振るわず、恋愛にも嫌気がさしていた頃、日奈子に出逢い惹かれる。彼女との運命の(?)再会で“大恋愛”を確信し、ヨリを戻そうと奮闘中。
⚾マヤ
日奈子が働く店のバーテンダー。お店の娘 たちの頼れるお姉さん的存在。夫がいる(事実婚)。
色々と察しの良い人で、日奈子と御幸の仲をこそっと応援している。元グラドルでもある。Gカップ。
⚾️向井 太陽
燕所属・帝東高校出身。ここ一年の成長が著しい、コントロール抜群の投手。生意気だが後輩気質で愛されている。
御幸の一つ年下にもかかわらず、日常的にタメ口の上、ワガママが絶えないが、御幸本人はやりごたえがあるらしい。
⚾️神谷 カルロス 俊樹
燕所属・稲城実業高校出身。御幸と同い年の外野手。ブラジル人父譲りの手足の長い体躯と、褐色肌がセクシー。
いつも飄々としていて面倒事は上手く避けるが、基本フレンドリー。すぐ脱ぐ癖があり、チームメイトを困らせている。
⚾️[#ruby=畜_ちく#]ペン
御幸たちが所属する球団のマスコットキャラクターの愛称(?)。ペンギンではなく、ツバメである。
御幸が“球界屈指のイケメン”であることをお得意のフリップ芸でよくイジる。メタボリックなフォルムがキュート。
最後にそう叫んでから、日奈子は勢いに任せて電話を切った。スマホを持った手の甲を額に当て、がっくりと肩を落とすと、大きなため息が出てしまう。
「ハァーー…………信じらんない……」
店の控室には、積み上げられた靴箱、壁際に並ぶドレッサーに散乱するコスメにドライヤー・ヘアアイロン、カラフルな羽やスパンコールが目にまぶしい小道具に、ハンガーラックにみっちり掛かった布面積の少ない派手な衣装。
そして、ドレッサーに備え付けられたライト付きの鏡──通称・女優ミラー──その日奈子の席である鏡の前の椅子に鎮座している、野球のヘルメットを被り白と黒の色をした、鳥のキャラクターの巨大なぬいぐるみ。背の高い小学生くらいの体長はありそうだが、狭い控室に置く場所がないので、自分の席に置いたはいいものの、おかげで日奈子の座る場所がない。
この店の雰囲気に全くそぐわないため、控室で異様な存在と化しているぬいぐるみの、そのつぶらな瞳と気付けば鏡越しににらめっこしていた。すると、見かねた周りの
「ヒナ、いつまで突っ立ってんだよー、ジャマ〜!」
「仕方ないじゃん、
「こんな騒がしい
「贈り主に文句言ってたの! サラ、メイク終わったならどいて!」
「んもう、しょうがないな〜」
「ヒナのご
「ちがう、客でもなんでもない!
もうっ!、とようやく隣の椅子に座り込むと、話していたダンサー二人は「なんか訳アリ?」「さあ?」と、顔を見合わせていた。
店のオープン時間が迫る控室は、セクシーな衣装を着た若い女たちがバタバタと行き交い、声を張り上げないと聞こえないときもあるほどだ。そんな
「ね〜ぇ〜、誰かスパイスガール用のシューズ知らな〜い?」
「やだあ、カラコン切らしちゃった!」
「誰だよウチの盛りパッド勝手に使ったのー!」
「ガーター片っぽないんだけど〜!」
「ヒナの靴貸してよ〜足なんセンチ?」
「ちょっとヘーゼル寄りだけど、コレならイケる?」
「盛ったところで大してチチないんだからいいでしょ」
「ヤバいって! 今日後ろでママ観てるんだから!」
「22センチだけど」
「うっせーし!!」
「フリフリガーターあったよ〜」
「アンタ足ちっさ! 絶対ムリ!」
「ほらほら、おしゃべりばっかりしてないでぇ、1部から出るコは早く準備なさいよ〜」
騒がしい控室に両手を叩きながら入ってきたのは、フロアを仕切るマヤだった。すでにお決まりのバニーガールの衣装を身に付けていて、あとはウサギの耳を装着するだけのようだ。
そんなマヤが「アラ」と、声を上げてこちらへやってきたかと思うと、日奈子の隣に座るぬいぐるみに気付いて、ヘルメットを被った頭をぽんぽん、とやさしく
「カワイイじゃな〜い、畜ペンのぬいぐるみ」
「“ちくぺん”? このコ、そんな名前だったっけ」
「ワタシもこんな大きいの見たことないわ。たぶん非売品のレアモノよ〜」
「嬉しくないし……」
リップを重ねながらマヤに応えると、先ほどの電話でのやりとりが思い出され、彼のしたり顔が頭に浮かんで、つい眉をひそめた。
なんでよりによって、ぬいぐるみなんて一番処分に困るものを贈ってくるかな……貴金属やブランド物じゃないから、質屋で売ることもできないし。かといって捨てるのはかわいそうだし……「メルカリにでも出すか……?」いやでもマヤ
思わず頭を
そうしてブラシ片手にロングヘアのウィッグをもう一度整えていると、ふとマヤのスマホの通知が鳴った。スマホを確認したマヤは、嬉しそうな表情でこちらに寄り添い、日奈子に画面を見せてきた。
「見てみて〜太陽クンがストーリー上げてる」
『太陽クン』は確か、彼のチームメイトで、マヤがファンだという選手だったはず。
彼女はニヤニヤしたようすで、「アナタのボーイフレンドもいるわよ♡」とさらに画面を指さしてきた。いや、てかボーイフレンドて。正確には(元)セックスフレンドだわ、と言いかけてやめる。
「御幸クンのファンが喜ぶのが目に見えるわ〜」
「彼、全然SNS更新しないので有名だから」「ふうん」マヤのスマホを見ると、やや童顔で黒髪の選手が斜め上の角度から手慣れたようすで自撮りをしている写真が映っていた。
『今日の練習終わり〜 御幸さんどこ見てんの?』という文字が貼ってある写真には、ロッカールームらしき空間でピースする黒髪の選手と、その隣で眼鏡越しになぜかきょとん、とした顔でカメラを見上げる御幸がいた。首にはタオルが掛かっていて、髪がほんのり湿り
ヘアブラシと、ヘアブラシを持っていない手の指を使って自分の毛先を
それを見たマヤが「シャワー浴びた後かしら、セクシーね〜♡」と笑う。その言葉を聞いて──シャワー浴びたあとの彼の姿なんて、会う度見てたし、なんならもっと見えないところまで見てるんだよなあ……お互いに──なんて思ってしまった。
「……こんなもの贈ってきて、迷惑でしかないから」
「いいじゃない、お金も持ってるだろうし、紳士だし、ルックスも申し分ない──“王子様”みたいな人に見初められて、何が不満なのよ?」
「はぁ? なにそれ。彼、そんなキャラじゃないし──」
マヤの言葉に鼻で笑っていると、ふいに鏡の中の皮肉めいた笑みを浮かべた自分と目が合って、ハッと息をのむ。髪を梳かしていた手が、ゆっくりと止まる。
そこに座っているのは、人工の金髪にケバいメイク、うなじに隠れた刺青と、ピアスホールだらけの耳、下着同然の衣装を着た女──幼い頃に聞いた“お姫様”とは程遠い──仮に彼が“王子様”だとしても、選ばれるお姫様はこうであってはならないはずだ。そんなのおかしい。
はっ、馬鹿げてる。「ぼうっとしてどうしたの、ラプンツェルちゃん」「髪だけじゃん」マヤに言い返していると、彼女のスマホから再び通知音が鳴った。画面を確認したマヤが、今度は直接こちらを見下ろして聞いてくる。
「ヒナ、今日0時上がり?」
「そうだけど」
「じゃあ、その時間に合わせてタクシー呼んだら? さすがに持って帰るの大変でしょう?」
「だよね……そうする」
今度彼に会ったらタクシー代請求してやろ、とため息を吐いていると、マヤは誰かにメッセージを送りながら、どこか呆れたようすでいた。「あのね、日奈子」
「相手の想いを素直に受け止めるのも、“いい女”には必要よ。覚えておきなさい」
「さあ、開店するわよ〜」ダンサーたちに声をかけながら、控室から出ていくマヤを、鏡越しに目で追う──『素直に受け止める』って、どういうことだろう。またお説教みたいなこと言っちゃって。別に、嘘ついてるわけじゃないのに。
出番の近いダンサーたちが控室からパタパタと出ていくのを背中で感じつつ、隣に座るぬいぐるみを横目で見下ろす。ぬいぐるみ自体は、可愛らしいと思う。ただ、
「……ふふっ、かーわいっ」
まんまるのフォルムから飛び出た黄色い
「ヒナそれ、マジで持って帰んの?」
「デカ〜、いいな〜」
「全然よくないし」
仕事を終え、もうすぐ日付が変わるという頃、日奈子が控室で着替えて帰り支度を終えたところで、化粧直しをしていた同僚たちがバカにしたように笑ってきたのを睨みつける。その中の一人が、不思議そうな表情でぬいぐるみを指さした。
「このキャラ、野球チームのマスコットじゃなかった? ヒナ、野球
「……まあ、ふつう」
本当は全く興味ないが、これ以上勘繰られて、贈り主が“プロ野球選手の御幸一也”だとバレれば厄介なので、適当に流した。
「それ贈ってきたのどこの誰よ? 客じゃないんでしょ?」
「あ〜! また新しい
「アンタほんっと男切れないよね〜」
「男癖
「ウチにも紹介してよー!」
「股緩すぎ」
控室で自由に過ごすダンサーたち──年齢は皆同じくらいだが、正直こういった店で働く女たちは大抵“訳アリ”で、誰に対しても言いたい放題だ。しかし彼女たちは遠慮がなく、逆に嘘も言わず、いつでも前向きなので、日奈子はこの店にいるときは楽でいられた。
「あたしの股が緩いんじゃなくて、
「ぎゃはははは!」
「間違いねぇ〜! ヒナのそゆとこスキ」
「ちょっとみんな〜、またマヤ姉に品がないって叱られるよ〜」
「やば! まじウケる」
「で? その“ぬいぐるみ彼氏”は
「それが、すぅっごいのよ。マジで」
と、冗談混じりに
「それでこんなカワイイの贈ってくんの!? ギャップやば!」
「でもアリかも? ウチはカワイイ〜って思っちゃう」
「いやナシでしょ! ジュエリーが一番じゃない?」
「どうせ換金すんじゃんねー」
「そうそう! こないだ渡されたプレゼントがさ〜」
「……ハズキ、あたし帰るね」
「はいよー、ヒナおつかれ〜」
「おつかれ」
関係のないところで話が広がり始めたので、日奈子は見かねて同僚の一人に声をかけると、ぬいぐるみを両腕で抱きかかえるようにして、控室を後にした。それにしても、重い上に大きすぎる。仕事終わりにこの仕打ち、たまったものではない。
「もぉ〜……このコに罪はないとはいえ……」
従業員用の出口へ向かい、階段を昇る。地上に出ると、深夜の一通の道には誰もいない──どころか、肝心のタクシーも見当たらない。左右を見渡しても、こちらを向いた白い高級車が一台停まっているだけ。時間を間違えただろうか、いや、そんなはずはない。
「道が混んでるとか?」こんな姿、人に見られたくないからさっさと乗り込みたいのに。デニムの尻ポケットに入ったスマホを取り出したくて、なんとかぬいぐるみを片手で持とうと試行錯誤していると──
パッ、パッ
それは、外車特有のクラクションの音。反射的に、その音の方を振り向いた。
音は先ほど停まっていたのを見た、真っ白な高級車が出していた。フロントガラス越しに、運転席に人が一人座っているのが見える。ハンドルを持って、片手を中央のクラクションに乗せた状態のその人物と目が合った瞬間──日奈子は、自分の目を疑った。
─────────────────────────
車の中からパッ、パッ、と短く2回、クラクションを鳴らしてやると、従業員用の出口から出てきた彼女はこちらを振り向いた。視線が重なり、気付いて目を見開いた日奈子の、口の形で「キミ……!?」と呼ばれたのがわかる。
その細い両腕で、所属球団のマスコットの大きなぬいぐるみを抱えている姿が、なんだかシュールで笑ってしまった。いや、カワイイけど。その笑みを隠さないままで、御幸は運転席のドアを開けて車を降りると、彼女に向かってわざとらしく、
「ああ、タクシーなら帰しちゃった」
「はぁ!? なに勝手に、」
バタン、とドアを閉め、日奈子が立っている車道の左側まで回り込む。車とビルの隙間の陰に、二人で隠れるようにしている。
「ってか、まちぶせとかいよいよ笑えないんだけど!? ヒナ今から帰るところだからほっといて!」
「別に構わないけど……
「目立ってしょうがないぜ?」と、彼女の腕の中のぬいぐるみを指さしてやる。御幸がしたり顔で言ったその言葉を聞いて、日奈子の表情がサッと曇った。流石の彼女、勘は鋭い。
「キミ、もしかして計画的に……」
「よっ」
ひょい、と日奈子からぬいぐるみを奪い取り、後部座席のドアを開けて、上半身を車内へ入れながらシートに座らせる。重心のせいで座面に乗せただけでは据わりが悪く、一応シートベルトをして安定させてやると、ちょうど小柄でぽっちゃりした成人男性が座っているような格好になった。送るときも思ったけど、やっぱデカいなコレ。
「こんなことして……撮られても知らないよ」
「一応、そういうの撒くように遠回りしてきたから。たぶん大丈夫」
「万が一撮られても、俺は別にいいし」
「だからさあ……」
「けど、もたもたしてたらココで誰かに見つかるかもな?」
それはお互いにデメリットでしかないだろう。後ろのドアを閉め、気障ついでに、紳士よろしく今度は助手席のドアを開けて、首を傾げてみせる。「どうぞ?」
腕組みしてこちらを睨んでいた日奈子はそこで、ハァ、と諦めたようにため息をつき、黙って助手席のシートに腰を下ろした。彼女のタイトなジーンズを
時間帯もあるのかもしれないが、やはり人通りのない路地だった。以前“路チュー”が見つかったのは、運が悪かったとしか思えないほどだ。
「ベルトした?」「うん」シートベルトを装着し、ドアミラーを見ながらハザードを消して、シフトレバーを操作しつつ右のウインカーを出す。
ハンドルを握って車を発進させると、一息ついた気になって、自然と言葉も出てくる。「クーラー入れてるけど、寒かったりしたら言えよ」「うん」
「キミ、車持ってたんだ」
「まあ、ヒナと会ってた頃は、いつも酒飲んでたから」
「たしかに」
そう言って鼻で笑われた。別に酒は大して好きではないが、あのときは酔ってでもいないと、“セフレ”でいることに納得なんかできなかっただろうから。
「正直、俺自身は車とか興味ないんだよ。この車も、先輩から譲ってもらったやつだし」
「割に綺麗だね」
「車
「いい先輩じゃん。この車種人気だし、中古でもかなり高く売れるはずだよ」
「詳しいんだな」
「……まあね」
女性が高級車に興味があるものなのかは知らないが。信号待ちのタイミングで御幸が助手席側へ目をやると、手を伸ばせば届く距離に、日奈子の横顔──やっと二人きりになれた──自分の車に彼女が乗っているという事実に、あらためて高揚する。
東京の夜中は、いつでも明るい。窓の外の灯りが、彼女の白い肌を浮き上がらせている。いつも特に考えず、適当なチャンネルに合わせているカーラジオ──深夜のラジオ番組の、低く落ち着いたパーソナリティの声が、スピーカーから響いている。
『夜の
「青だよ。前見て」
「ああ、ゴメン」
視線を感じていたのか、正面を見たまま彼女がそう言うので、向きを直してゆっくりとアクセルを踏んだ。深夜の
「ねぇ」密室の車内でシートベルトまでして、いよいよ逃げられない状況の日奈子は、先ほどから固くなったようすで、それを紛らすように脚を組み、ドア側に肘を掛けて頬杖をついた。
「キミ……なんであたしのシフト知ってるの?」
「俺、一週間くらい前に、あの店に行ったんだよ」
「は? なにそれ、ヒナ知らないんだけど」
「そりゃあ、日奈子は休みだったからな」
前を走る車の赤いランプについていくようにしながら、彼女に聞かれるだろうと思っていたことに答えた。
「あと、正確には行った
「まさか……」
「バーテンダー──あの、バニーちゃんの
「マヤ姉か……!」
左目の端で、日奈子が頭を抱えている。その口ぶりからして、なんとなく犯人は分かっていたらしい。それを聞いて、はは、と苦笑いしてしまう。
一週間前、あのバーテンダーに『御幸選手』と呼びかけられたときは、さすがにぎょっとした。あの夜、そこそこ会話をしたはすだが、一度も気付いたような
『安心して〜誰にも言ってないわよ。もちろん、日奈子から聞いたんでもないわ。黙っててゴメンね〜』
『昨日の試合もバッチリ観てたもの。第一打席・初球相手のカーブをライト前に狙いうち。さすがね♡』とほほ笑まれたときは、驚きよりも先に感心してしまったくらいだ。どうやらウチの球団のファンだったらしい。
「なんでも、『こないだ強い酒飲ませたお詫び』だってさ」
「だからってあたしを売りやがって……!」
「ほら。プレゼント、もうひとつ」
「さすがにぬいぐるみだけじゃアレだろ」信号を待っているあいだに、御幸は運転席のドアポケットに入れていた長細い封筒を取り出し、隣の日奈子に手渡した。彼女はぬいぐるみの件があるからか、やや不審そうな顔でそれを受け取った。「……なにコレ」
「あの店、日曜定休なんだろ? 週末の試合観に来てよ」
御幸がそう言ったのと、日奈子が封筒からそれを取り出したのがほぼ同時だった。球団の営業に頼んで用意してもらった、次の広島戦のチケットだ。
日奈子はチケットを眺めてから、しばらく考えるような
「……土曜日の夜は、仕事の後の予定埋まってんの」
「試合開始は昼過ぎだし、途中でも入れるし。日曜のゲームでチームも好調だから、けっこう盛り上がると思うぜ」
「それと、試合終わったあとでよければ、メシでも行こう。近くに石田屋っていう
「ヒナ、野球のルール、ぜんぜんわかんないもん」
「全部わかんなくてもいいって。生で観るとけっこう面白いかもしんないだろ?」
「興味ない。マヤ姉にあげようかな」
「でも1枚だけじゃ旦那もいるし困るか……」そうつぶやいて、日奈子がチケットを仕方なくバッグにしまったのを、左目の端で確認する。そういうことなら、今度はマヤにもお礼として2枚準備しておくか、とついでにリマインドした。
「あのお姉さんには、最初から気付かれてたってことだよな」
「マヤ姉、ああ見えてこの業界長いし、ナメちゃダメだよ、あたしなんかよりずっと手強いんだから」
「……ヒナが言うならよっぽどだな。覚えとくよ」
「なんか、“太陽クン”とかいう人のファンらしい。さっきマヤ姉がインスタ見てた」
「あいつ、相変わらず年上の女性ファン多いなあ。よく練習相手になるけど、実際めちゃくちゃ生意気でさ」
「その生意気なお顔がキュートなんだって」
「はは……そういうモンか」
思わぬ形で彼の名前を聞いたことで、脳裏にロッカールームでふてぶてしくくつろいでいた向井の姿がよぎる。……よくわからないが、それがカルロスらの言う“母性をくすぐる”とか“あざとい”とかいうやつなのだろうか。ただの“ワガママ”のような気もするが。鳴然り。
そうして夜に包まれて考えながら、信号待ちの度に助手席のほうを見ていたら、ふと日奈子がこちらを横目に見上げていた。
「……んっ? な、なに」狭い車内でじっと見つめられ、ドキッとする。つい軽い調子で笑ってみせると、彼女はぽつりと言葉を発した。「インスタ見たときにも思ったんだけど」
「髪、切ったんだ」
「え? ああ、コレな……」
言いながら指摘された首元へ手をやると、ふいに「ふっ」といたずらっぽくほほ笑まれ。再び、ドクン、と鼓動が跳ねる。
「ヒナが言ったから?」
「いや……ちょうど、切ろうと思ってただけ」
なんて、バレバレの嘘を吐いたところで、彼女にはいつも、ぜんぶお見通しなのだけれど。一度フられた身だ、好かれるためなら必死にだってなる。
「ふふっ、キミ、カワイイとこあんじゃーん」
「似合ってるよ」とか褒めてきたと思えば、こちらに手を伸ばし「おー、じょりじょり」と笑って、首の刈り上げ部分を撫でられた。
ぞわぞわと肩が縮こまり、ニヤけそうになる口元を抑え噛み締めると、ぎゅう、と喉の奥が鳴る。「……っ、やめろ。運転中だから」「ゴメンゴメン」姿勢を正して、車を発進させる。あーくそ、我ながらちょろいな……。
「あー……っと、ヒナの家、どのへん? 道案内して」
気を取り直し、彼女に尋ねると、日奈子は「え?」と間の抜けた声を上げた。
「ホテル行くんじゃないの?」
「はっ?」
その言葉に、今度は御幸が拍子抜けした。そんなつもりは微塵もなかったため──だがああ、そうか、これまでの俺たちの関係だと、そう思われても仕方ない……のか?
「カーセックスも嫌いじゃないけど」
「いやいやいや」
冗談めかしてそんなことまで言いだす日奈子をたしなめる──御幸の仕事柄、人に見られる可能性のあるような場所での経験はないが──狭い車内で密着して、脱衣もままならないでの性交というのも、それはそれで──「いま『アリかもな』って思ったでしょ」「……なんでわかるんだよ」
やはり彼女は、こちらの表情やしぐさで読み取ってしまうらしい。参ったな、とハンドルを持ったまま、反対の手で先日すっきりした首元を掻いて弁明する。
「今日は、“お迎え”に来ただけ」
「はぁ? なんのために?」
「なんだよ、彼氏
苦笑いして肩をすくめると、日奈子は『彼氏』という言葉が引っかかったのか、呆れた口調で諭すように言った。
「……そういうのは彼氏じゃなくて、“アッシー”って言うの」
「アッシー?」
「
「へぇ、あだ名みたいなもんか」
そんなことも知らないのか、とでも言いたげに、日奈子は気だるいようすで、履いていたヒールを足元に脱ぎ捨て、シートの座面に両足を乗せはじめる。
膝を抱えるようにして、彼女は「のど渇いた。コレちょうだい」とこちらの返事を聞く前に、運転席と助手席の間のドリンクホルダーに置いていた、御幸の缶コーヒーを取り上げた。「なんか飲みたいなら買ってやるぜ?」「コレでいい」
「別に足代わりでもいいよ。うまいこと
「プロ野球選手サマが、都合のいい男に成り下がるっての?」
「下心は隠さないから安心しろ」
「『安心』の使い方間違ってんだわ」
「アホくさ」と、缶に口を付けながら、悪態をついてくる。別に、日奈子と過ごせるなら、それでも構わない。車内からのこの眺めも、二人で見ればある意味贅沢な夜景というものだ。
「損はさせねーと思うぜ? 日奈子は行きたいところねーの?」
「行きたいところ?」
「デートだよデート」
自分のスケジュールの許す限りではあるが、できるだけ彼女の希望は叶えてやりたいと思う。しかし日奈子は、「はぁ?」としっかりこちらに顔を向けながら眉をしかめた。
「キミの言う“下心”があるなら、とっととヤりたいことヤればいいじゃん」
あのなあ……、と何度目かわからない彼女のそのような台詞に、嘆息が漏れてしまう。「それじゃダメなんだって」「
「キミはヒナとシたいんでしょ?」
「……まあ、『違う』って言ったら嘘になるけど」
「キミ、嘘つけないよねぇ」と、笑われる。缶コーヒーに口を付けたまま、真上を向いて飲み干す彼女の気配を左に感じながら、どう返したものかとしばらく考えてみる。
「けど、
そう言うと、ずっと言い返していた日奈子が黙り込んだ。ラジオのミュージックが耳に
「……“デート”ってフツー、セックスするもんじゃないの?」
先ほどから、どこか会話が噛み合わないと思っていたら、そんなことを真顔で
言葉の意味はわかるが、そんなことを訊く意味はわからなかった。すぐには答えられなかった。彼女にとっての『フツー』とは、なんなのか。
「や……そんなこと、ないんじゃない?」詰まりながらも、笑って答えてみた。笑顔が引きつっていたかもしれなかった。そのはずだ、と、思う。たとえば食事するだけでも、こうして夜の東京を軽くドライブするだけでも、“デート”と呼ぶこともあるだろう。一般論で。
「なにその顔」
「えっ」
「なんか悲しそう」
やはり、うまく笑えていなかったらしい。「なんでもねーよ」ともう一度笑ってみたが、ごまかせたかはわからない。
『セックスするのが当たり前』なんて──悲しいというか、なんだか
日奈子はこちらを見つめたまま、おもむろに首を傾げてから、つぶやくように「ヘンなの」と言った。それから、細い両腕で膝を抱え、助手席の窓から外を眺めていた。何も言えない自分が情けなかった。
『夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ、次第に星の
御幸が運転しながらときどき横目に見ると、並ぶ街灯が彼女の横顔の上を淡く光って揺らいでは、流れていった。どこか幻想的な空間の中、ラジオDJの声が沈黙を埋めてくれていた。
「ヒナの家、そこのアパートだから。ココで停めて」
靴を履き直した日奈子に言われ、御幸は道の左側に停車すると、シフトレバーをパーキングに入れ、ハザードランプを
日奈子に案内されて着いた場所は、夜でも明るい都会からは離れた、閑静な住宅街だった。「このへんで高級車停まってたら目立つから、さっさと帰ってね」という彼女の言葉どおり、周りを見渡しても、昔ながらの小さな家ばかりだ。
その上、日奈子が指さした家というのは、いわゆる短期契約の賃貸のような見た目で、いまどき二階建ての外階段・外廊下という昭和の空気が漂う、本当に小さなアパートだった。フロントガラス越しに覗き込んでみるが、築年数もずいぶん古そうだ。
「……マジでココに一人で住んでんの?」
「だったらなに?」
「いや、東京で女のコ一人暮らしなんだったら、もっとセキュリティのいいところとか……」
「そんなお金ないよ」
「プロ野球選手と一緒にしないでよね」とシートベルトを外しながら、相変わらず皮肉っぽく笑うが、そういう問題ではないし、笑い事でもないだろう。
「お給料はだいたい美容メンテに突っ込んでるし、ショーダンサーなんて入ってくるお金は安定しないし」「病院とか薬代も馬鹿になんないでしょ」「帰ってこないことも多いしね。友だちの家とかホテルとか転々としてる」
「逆に何か
そこで御幸は、以前日奈子の働いている店で聞いた言葉を思い出した。『彼女たちも生活かかってるから』華やかな世界とは裏腹に、これが現実とでも言わんばかりの状況だった。
「そう……だ・か・ら、
そこで思い出したように、日奈子は左手の人差し指で、右の肩口から後部座席のぬいぐるみを指さして文句を言った。
いらないなら捨てるか突き返せばいいのに、とも思ったが、このぬいぐるみに対しすでにちょっとは愛着があるのか、彼女にその選択肢はないらしい。なんだか可愛くて笑ってしまったついでに、おどけて返してやった。「ウチの球団で一番のグッズ売り上げ誇ってる“大先輩”に
「あと、家張り込んでも無駄だ、ってこと」
「ストーカーじゃねーよ」
「よく言うよ、店突き止めて、今回はまちぶせまでしといて」
確かに、下手すればストーカーとやってることは変わらないかもしれない。こちらもシートベルトを外して、肩をすくめながら彼女をなだめた。「肝に銘じるよ」
「でも、家入るまでは心配だから。ちゃんと見とく」
完全に停まった車内で、しかと日奈子の目を見て告げた。しばし沈黙があって、ラジオの音楽の狭間でカッチ、カッチ、とハザードがズレて聞こえる。
「……勝手にすれば」御幸の視線から逃れるように、バッグの中を漁りだした日奈子は、財布から一万円札を引き抜き、こちらに差し出した。
「コレ、車代」
「いらねーよ、俺が勝手に来たんだし」
「フッ、それもそうだね」
断ると、笑って遠慮なくすぐ引っ込めた。気が利くというよりも、この場合は、借りを作るのが嫌なのだろうなと思った。
「その代わりに……
自分の唇に人差し指で
「……こないだ勝手にシたくせに。ネット記事になったの、知ってるんだからね」
「でも流れたろ? 俺を雇ってる人らも、証拠もないからデマで押し通すってさ」
「権力えぐ」
「『キスなんて減るモンじゃない』んだろ?」二年前、彼女は御幸にそう言っていた。そのことにかこつけて、“見返り”にしようとするのはズルいかもしれないが。日奈子自身も、そのことに覚えはあるのか、言い返すというよりは言い訳のようになっていた。
「……ヒナだって売る相手くらいは選ぶっつの」
「てことは……少なくとも二年前も、俺のこと
「そうやって揚げ足とっ、……! んっ、」
車の中では捕らえるのも
途中、身をよじって抵抗しかけた日奈子だったが、頬にやっていた手で優しく頭を撫でてやると、おとなしくなった。時にこういう素直さも見せてくれるから、懐ききっていない猫みたいだ。だから、離れられないのかもしれない。
できるかぎり、彼女を近くに感じたい──ふっくらした下唇を追いかけて、はむ、と唇で挟んでやると、「ン……」と日奈子の声が漏れ聞こえて、腰がうずいた。軽く吸いついたら、ちゅっ、と音が鳴った。
名残惜しいまま唇を離したところで、とあることに気付いた。「あれ……」前回した香りが
「今日、タバコ吸わなかった?」
深く考えずに尋ねたのだが、それを聞いた日奈子の体が、ギクッ、と強張ったのがわかった。彼女は気まずそうに目線を斜め下にそらしたあと、パッと振り返ってドアを開けようとした。
「……帰るっ」
「お、おい、」
ところがドアには鍵をかけていたため、開かない、と日奈子がもたついているあいだに、御幸もドアロックを解除してすかさず運転席のドアから出た。
「
助手席側に声をかけながら、車を降りようとしている彼女のほうへ慌てて回り込む。点滅するハザードが目に
バン、と助手席のドアを閉めた日奈子のその手をグイッと引っ張って無理やりこちらを向かせると、彼女が小さく声を上げた。「きゃっ」
「そんなの!」思わず大きな声が出た。やっと目が合った。深夜の静かな住宅街で御幸の声が瞬間響き渡ったので、落ち着かせるように、小さくゆっくり一息、呼吸した。
「そんなの……期待すんだろ」
気付けばその一瞬で胸を膨らませ、軽く息が上がっていた。目が合った日奈子は御幸の声にびっくりしたようすで、やはり気まずそうにしてうつむいてから口を開いた。
「……ちょうど、やめようと思ってただけ」
先ほどの御幸と同じようなフレーズで言い訳する彼女だって、バレバレだとわかっているはずなのに。それを指摘する気にはならなくて、それよりは、彼女の健康のほうが心配だという事実が
小さくうなずいた御幸がぼうっとしていた隙に、日奈子はこちらの手を振り
「……じゃあね」
逃げるように御幸から離れ、アパートのほうへ去っていく。カン、カン、カン、と彼女のピンヒールが金属を叩く音が聞こえてきたと思うと、外階段を昇る日奈子が見えた。その光景が実家の階段に似ていて、御幸はすこし懐かしくなった。
二階の一室が彼女の自宅のようで、扉を開けて中に姿を消すまで見送ったあと、アパートの反対側へ回り込んでみると、ちょうど入った部屋のベランダの窓越しに、電気が点くのが見えた。見送りを終えて、一安心する。
そこで思い立って、ポケットのスマホを取り出し、電話をかけた。彼女はワンコールですぐに電話に出て、ためらいなく声を上げた。
『なに、まだ何か用? もう寝たいんだけど』
「わりぃ。鍵閉めたか?」
『閉めたよ。心配性だね』
「……あと、言ってなかったなと思って」ん?、と電話の向こうで彼女が不思議そうにした。
「おやすみ」
『…………それだけ?』
「ダメ?」
「ベランダの下にいるんだけど」すると、日奈子がため息を吐く音が聞こえて、先ほど電気の点いた部屋のカーテンが引かれ、カラカラと音を立てて窓が開く。
ベランダの柵に腕を乗せて寄りかかる日奈子の片手には、スマホが握られていて、彼女はそれを耳に当てがったまま、こちらを見下ろした。部屋の灯りの逆光でよく見えないが、その表情は呆れているだけではなくて、なんだか困惑しているふうにも見えた──単に眠かっただけかもしれないけれど。
日奈子のことを見上げながら、どこかにこんな童話があったような気がするな、と御幸は想いを巡らせた。彼女はまるで童話の“お姫様”みたいだった──深夜の思考はあまり良くない。『キミ、案外ロマンチストだったんだね』とは彼女に言われたのだ。
そっと唇を開く日奈子を見つめる。囚われの身だというのなら、いつかその窮屈な家から出してやれるだろうか。そのときは、俺自身の手で、きっと──
「『……おやすみ』」
《どんな恋であったって また終わりが来るくらいなら いつまでもこのままで》『La/te/Nig/ht/Dri/ve』Lou/is Vi/sion, LIL/JA/P, H/ina/ko M/iur/a
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⚾️日奈子(デフォルト:ひなこ)
都内のパブで働く、人気のショーガール。猫のような顔立ちで、やや派手な見た目。言葉遣いに品がないときもあるが、根は優しくてお人好し。ただ
二年前、カフェバーで出逢った御幸と半年ほどカラダだけの関係を続けるが、突然別れを告げた。小柄でスレンダーだが、出るとこは出てる。ちょっぴり皮肉屋。
⚾御幸 一也
燕所属・青道高校出身。高卒でドラフト指名を受けた。二軍落ちも経験したが、現在はスタメンマスク。10代のときから野球一筋だったため、恋愛下手でデリカシーがない。
二年前、球団での成績が振るわず、恋愛にも嫌気がさしていた頃、日奈子に出逢い惹かれる。彼女との運命の(?)再会で“大恋愛”を確信し、ヨリを戻そうと奮闘中。
⚾マヤ
日奈子が働く店のバーテンダー。お店の
色々と察しの良い人で、日奈子と御幸の仲をこそっと応援している。元グラドルでもある。Gカップ。
⚾️向井 太陽
燕所属・帝東高校出身。ここ一年の成長が著しい、コントロール抜群の投手。生意気だが後輩気質で愛されている。
御幸の一つ年下にもかかわらず、日常的にタメ口の上、ワガママが絶えないが、御幸本人はやりごたえがあるらしい。
⚾️神谷 カルロス 俊樹
燕所属・稲城実業高校出身。御幸と同い年の外野手。ブラジル人父譲りの手足の長い体躯と、褐色肌がセクシー。
いつも飄々としていて面倒事は上手く避けるが、基本フレンドリー。すぐ脱ぐ癖があり、チームメイトを困らせている。
⚾️[#ruby=畜_ちく#]ペン
御幸たちが所属する球団のマスコットキャラクターの愛称(?)。ペンギンではなく、ツバメである。
御幸が“球界屈指のイケメン”であることをお得意のフリップ芸でよくイジる。メタボリックなフォルムがキュート。
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