キッス・イン・ザ・ダーク
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あたしにとって“デート”する相手は、最低限の金さえあればそれでいいの。セックスするのに、容姿だのステータスだの、そんなものは必要ないでしょ。カラダの相性がイイなら、別にどんな男でもオーケー。妻子持ちか、よっぽど
──それが、日奈子の考えだった。
ただそうは言っても、『プロ野球選手』というのはなかなかに特殊で、日奈子の経験した相手の中でもそれを生業にしている男は、たった一人だけだった。
「野球選手ってことは
「まあ……一応。みんなそうってわけでもねーだろうけど」
「へぇ」
そんな会話をしたのは、彼と
バーカウンターに二人並んで座り、カウンターの向こう側では馴染みの
さっさとホテルに行って、ヤることヤったらそれでいいはずなのに──そんなこちらの考えとは裏腹に、彼が『話したい』『なんならどこかで食事でも』なんて迫ってくるものだから、仕方なく“仕事の後なら”と、働く店の近くにある“喫茶 サントス”で深夜に待ち合わせ、そこで互いにすこしアルコールを入れるついでに他愛もない会話をした──そして、のちにこれが二人で会うときの
「でもヒナ、野球なんてちっともわかんないよ」
“世間一般”の女性たちからすれば、彼の職業は魅力的なのかもしれないが、『日奈子の考え』に則れば、そんなのはどうだっていい。無理に話を合わせて
そこで日奈子は、
そんなことを考えていると、はたと
隣のスツールに腰掛けている御幸は、だらりと頬杖をつき、そのせいですこしズレた眼鏡越しにとろん、とした瞳でこちらを見つめていた。まだ一杯目なのにすでに酔っているのか、やけに熱っぽくて甘い目つきだった。
「なあに。ヤらしい視線」
「……感じた?」
「えっち」
「そうじゃなくて」
鼻で笑ってみせると、御幸は口角を上げながら、その形の整った眉をひそめた。くっきりとした二重に大きな瞳、鼻筋の通った顔。前回初めて会ったときはよく見ていなかったが──一回しかヤってない男の顔なんて、いちいち覚えちゃいない──綺麗な顔立ちの男だなと、日奈子はそのとき改めて思った。
御幸の視線は、なんだか自分の後ろ側のあたりに向けられている気がして、「なに、髪に何かついてる?」と思わず聞くと、彼は「いや……」と口を開いた。
「
そう言って、御幸は自身の首を指先で軽く
「もしかして、
「そうだよ、ほら」ロングヘアを右耳にかけ、髪を払ってみせる。彼が見えやすいかと、頭を左に寝かせるようにかしげたら、顔を上げて覗き込むようにされた。
右耳の後ろのうなじあたりに彫られた刺青は、普段は長い髪で隠れているので、気付かない人間も多い。
「刺青なんて、めずらしくもないでしょ」
「いや……実物は初めて見た、かも」
「マジで?」
とんだ
「花?」
「ダリア。花言葉は『優美』『華麗』」
幾重にも重なった花弁が特徴的なその花を見て、彼は再び目つきを
「……きれいだな」
酔っぱらいのうわごとにしては、芯と熱を持っていた。初めて会ったときも思ったけど、お酒弱いんだな。プロ野球選手だというのが本当なら、あまり飲まないのかもしれない。
安い口説き文句は聞き飽きたし、それがお世辞か本気で言っているかくらいは見分けられるようになったと思う。まあ、明日には忘れてそうな調子に聞こえるけれど。でも日奈子は、彼の熱に当てられたのか、ありきたりな言葉なのに、そのときはなぜか照れてしまった。「……ありがと」
「ふ、ちょっ、と、くすぐったいっ」
「はは、ゴメン」
「もうっ」
刺青に触ろうとした彼の指先が微かに
「そんな慌てなくても……
「ね?」と、わざとらしく耳元で
ああ、純情すぎてもはや泣けてくるね。日奈子は内心苦笑いした。童貞ってわけでもないし、遊んでる雰囲気もないのに、なんであたしみたいな女に引っかかっちゃったかな。かわいそうに、と彼の誘いを了承したくせに憐れんだ。我ながら
「よく見つけたね、
「ああ、まあ……」
何気なく聞いたつもりだったが、そこで御幸の歯切れが急に悪くなった。「あ」日奈子にはわかった。彼の宙に浮く目線、
「わかった。こないだ
「すけべ♡」と頬杖をついて、ニヤリと歯を見せてやると、目を見開いた彼はさらにカァッ、と顔を赤くさせた。「アハハ! マジじゃん、図星かよ!」思わず大声で笑えば、取り繕うようにグラスに入っていた酒を飲み干している。そんな飲み方したら酔い回っちゃうよ?
「キミ、むっつりだな〜、わっかりやす〜!」
「わるかったな……!」
歳も近いはずなのに、開き直る彼がいじらしくて、「ふふっ」と自分の口から自然と笑みが漏れた。視界の端のマスターが笑ったのが、気配でわかる。行きつけの店はいつにも増して居心地が良くて、日奈子は彼につられるようにグラスに口を付けた。いつもよりずっと気持ちよく酔っているのが、自分でもわかった。
「はい……よろしくお願いします」
タクシー会社にそう告げ、スマホを耳から離し、日奈子は電話を切った。それをアウターのポケットにしまいながら、彼に話しかける。「15分くらいしたらタクシー来ると思うから」
しかし、返事がない。顔を上げると、先ほどまで吐きそうにしていた御幸は、店のストックの冷たい壁にぐったりともたれて、目を伏せていた。
「……ねぇ、……? キミ、っ」
まさか、と焦ったが、よく耳を澄ませると、すー、すー、と小さく寝息が聞こえてきた。なんだ、寝ただけか。ほっと胸をなで下ろし、日奈子は御幸の手から滑り落ちそうなペットボトルを、こぼされないよう取り上げておいた。
フタを閉めようと、反対の手でキャップを──ところがそこで、厄介なことになった。彼につかまれたほうの手がビクともしない。
よく見れば手首からがっちりと握られていて、振り
「マジか……勘弁してよ……」
叩き起こしてやろうかとも思ったが、まあ、これ以上食い下がってこられても困るし、タクシーが来るまではおとなしくしておくか、とため息混じりに肩を落とし、日奈子は手を振り解くのをあきらめた。
正直、本当に驚いた。先日行きつけの店でたまたま再会し、『ヨリを戻す』というような話を持ちかけられ、
そのくせ二年前と変わらず、遊び慣れていない上に、未だに酒の飲み方も心得ていないなんて。先ほど日奈子が懸念したように、
「……そんなだから、あたしみたいな女に引っかかるんだよ」
聞こえてないだろうけど、と隣でのんきに寝ている御幸を
それにしても、相変わらず可愛らしい寝顔だこと。綺麗な顔立ちの割に、寝顔は子どもっぽいところも変わらない。久しぶりに彼の寝ているところを見て、なんだか懐かしい気持ちになってしまった。
──やば、もう2部始まっちゃう……間に合うかな。
一息ついて落ち着いたところで、日奈子は遠くで聞こえる店の喧騒に気付いて思った。
アメリカのショー・ビジネスに影響を受けた店主が経営するこの店でダンサーを務めて、もう3年ほどになる。日奈子自身はこの仕事に誇りを持っているが、御幸の来店が世間にバレれば、どんな変な形で伝わって情報が切り取られ、彼の仕事の邪魔になるかわからない。この店を“ストリップ劇場”と勘違いして来る下衆な人間がいるのも事実。
そういえば、『痴女の踊り』だとか馬鹿にしてきた当時のセフレは、そのまま店から追い出し出入り禁止にしたあと、連絡も全て
『知りたくなかった気もするんだけど』
先ほど彼にそう言われて、それなりにショックだった。……まあ、そりゃそうだよね。キミみたいな環境で育った人が、
「だから嫌だったのに……」
そのとき、二人しかいない空間に、トークアプリの着信音が鳴り響いた。音の発信源は、彼の服の左ポケット。
誰だろう。時間はすでに夜中だ。わざわざこの時間に電話をかけてくるということは、彼に近しい人物の可能性が高い。出ないとその人物に心配をかけて、逆に面倒な事態になる可能性もある。経験上予測できた。
御幸が起きる気配はない。日奈子は鳴り止まない彼のスマホを、そっとポケットから引っ張り出し、点灯する画面に目をやった。
『沢村』
と、そう表示されている。苗字だけの登録名に、なんとなく女性ではなさそうと安心して──まあ、仮に
するとその瞬間、
『あっ、御幸先輩、こんばんは! 夜分遅くにすいやせん! 迷惑かとも思ったんですが、どうせ家で一人寂しくしていらっしゃるのではと思いまして!』
『いやー、“
『そうそう、今度からの試合出ますよね!? 俺も春市も対戦楽しみにしてます! 春市から、日曜日はお兄さんがスピッツ先輩を連れて観戦に来てくれるとも聞いておりまして、』
こちらが言葉を挟む間もなく、一気にまくし立てる大声にビックリした日奈子は、そこでようやく「アッ、──」と声が漏れ出た。するとそれが聞こえたのか、大声はピタリと止まって、数秒沈黙が続いたあと、また受話口から声がした。『…………えっ』
『御幸先輩じゃ……ない?』
ようやく電話の男も気が付いたのか、日奈子が動揺を抑えきれずに、「あー……」と言葉にならない声を発したところで、スピーカーフォンにしているのではないかと勘違いするほどの大声が再び。
『も、もしや! キャップの彼女さんですか!?』
しまった、もっとややこしくなる、と日奈子は冷や汗をかいた。女性の声だからって、
そんなことを考えたが、こちらが何か言う前に男の声が遮ってくる。何より、声が大きいのを理由に、日奈子は
『か、彼女さんあの……! 御幸先輩とお付き合いしているということはその……先輩が過去に女性アナウンサーと“痴情のもつれ”があったことはご存知でしょうか……!?』
いきなり何を言いだすかと思えば。ってか、『痴情のもつれ』て。日奈子は戸惑いながらも吹き出してしまった。さっきからずいぶんと独特な、古くさい言い回しをする男だな、と思った。『御幸
日奈子は『沢村』の大声にもようやく慣れてきて、苦笑いしながらつい答えてしまった。
「んー……知ってるけど」
『ですよね! さすがに! いやあ、万が一ご存知ないとのことでしたら、やはりお伝えするべきだと思われるので!』
彼からしたら余計なお世話だろうが、『沢村』という人物は誠実な男なんだろうな、と日奈子は思った。『沢村』は嬉しそうに続けた。
『そんなキャップを受け入れる、彼女さんの器の大きさを感じます! キャップは不器用でデリカシーなくて野球以外どうしようもない男ですが、なんだかんだ真面目で懐のデカい人ですから! もし何かあればこの不肖・
そして、そんな後輩にここまで慕われるほど、彼もまた“いい先輩”なのだろう。野球はまったく詳しくないが、それは日奈子にもわかる気がした。
けど『力を貸す』ったって、なにするつもり? なんていうか、単純な脳みそで羨ましい……会ったこともない相手に失礼だけど。
『あれっ? ちなみに御幸先輩は今どちらに?』
そこでようやく思い出したのか、沢村のその問いを聞いて、日奈子は思わず彼のほうへ視線をやった。このスマホの持ち主はというと、先ほどまでと変わらない姿勢で、こちらの手をつかんだまま、寝息を立てている。
『彼なら今、あたしの隣で寝てるけど』──そんな、冗談みたいな本当のことを言いそうになって留まる。どこから説明したものか。「それが、」
「日奈子〜? そこにいるの?」
ハッ、とそれを聞いて、無意識に電話を切ってしまった。急いでスマホを元のポケットに突っ込む。
日奈子は、彼の顔が見られないようにすこし覆い被さり自分の体で隠すようにして、呼ばれた声と足音の近付いてくる方を振り返った。やってきたのはバニーガールの恰好をした、店のバーテンダーのマヤだった。
「ヒナ! こんなところにいた……まだ衣装着替えてないじゃない! 2部の出番もうすぐ……ってアラ、さっきの彼? どうしたの、大丈夫?」
「あー……なんか、酔い潰れたみたいで」
「へぇ、介抱してあげてたの? やさし〜」
ストックの入り口の壁に手をかけ、そこに寄りかかるようにしてこちらを見下ろすマヤが、反対の手をくびれた腰に当てて言った。
「てっきり酔っぱらい襲って、しけ込んでるのかと思ったわ」
「……あたしだって、そこまで節操ナシじゃないっつーの」
「失礼ね」と、言いたい放題の姉貴分を睨んでたしなめたが、マヤはからかうように笑うだけだった。
「だいたい、お店でそんなことしたら、ヒナが
「それもそうね……でもアナタ、男癖の悪さだけは治らないんだもの。ワタシ心配で」
「さっきタクシー呼んだから、来たらすぐ帰すし」
「日奈子もそろそろ一人の
「マヤ
こんなときまでお説教なんて、勘弁してほしい。マヤの視線から逃れるようにプイッ、とそっぽを向いてやると、呆れたようにため息を吐かれた。
「彼、初めて来たのが丸わかりでね。ヒナのこと捜してるようすだったから」
その言葉を聞いて勘づいた日奈子は、もう一度振り向いてマヤを見た。
「もしかしてウチのカクテル飲ませたの、マヤ姉?」
「えぇ。そのコ、日奈子の
「本人は『昔馴染み』とか言ってたけれど」「はぁ? なにそれ」マヤが胸の下で腕組みすると、その豊満なバストが深い谷間をつくった。
マヤ姉の
「……別に、ただの知り合い。だいたい、酒弱いお客にあんな強いの飲ませないでよ!」
「アラごめんなさい、『オススメで』って言ってたから飲めるものだと」
腕組みしたまま、頬に片手を当てて肩をすくめるマヤに対し、本当かよ……、とため息を吐いた。マヤのことだから、『初めて来たのが丸わかり』の彼をからかっていたんじゃないか、と勘繰ってしまう。
しかし、マヤはそこで、日奈子のそんな推測がどうでもよくなるくらいの爆弾発言をしてきた。
「でも、いつのまにプロ野球選手なんか
ガバッ、と思わずそばに立つ彼女の顔を勢いよく見上げた──いつから? まさか、とっくに気が付いて──その疑問が日奈子の表情でわかったのか、マヤは頬に手を当てたまま苦笑いして答えた。
「ウチの夫が野球
言わんこっちゃない!、と日奈子は
マヤはといえば、「ちなみにワタシは太陽クンのファンなの〜いま期待の新人で
「安心して、彼には言ってないし。こっちも“プロ”だもの、プライバシーは守るわよ」
「彼のも、
どうやら、“姉さん”にはお見通しらしい。この人は言うとおりプロだから、誰かに告げ口したり、リークするつもりもないはずだ。それを理解した上で、日奈子はもう一度だけ“言い訳”で念を押しておいた。
「だから……
「そう。まあ、そういうことにしといてあげる」
「ママにはワタシがうまく言っておくわ。お見送りしたらすぐ戻りなさいよ〜」
「わかってる」
マヤほどの人物ならば、なんとなく彼との関係を察しているのではないかと思った。その証拠に、彼女は立ち去ろうとしたところで「あ、そうそう」とどこか楽しそうに、壁に手をついて振り返った。
「ワタシが声かけた男性客で、こんな紳士で一途な[#ruby=男_ひと#]、初めて見たわ」
「おまけにイケメンだしね♡ [#ruby=逃_のが#]さない手はないわよ〜」
「マヤ姉!」
茶化すな、という意味を込めて叫ぶと、「はいはい」と笑ってかわされ、マヤは持ち場へと戻っていった。
さすがにどっと疲れが出て、ハァーー、と大きなため息をついた。それでも目を覚ますようすのない泥酔状態の御幸と、ずっと強く握られて痛みも麻痺してきた自分の手を見て、今さっきのマヤの言葉を思い出す。
『一途』? そんないいモンなわけないじゃない。ここまできたらもはや『執着』だ。かといって手を出してくるわけでもないし。それが逆に怖いくらい。
どうして、彼はそこまで自分にこだわるのだろう。容姿も、生活力も、家柄も備わった女性──自分よりも魅力のある女性なんて、彼の周りにはたくさんいるだろうに。
『なんであたしなの?』そう[#ruby=訊_き#]いてみても──そろそろタクシーが来る──そんなことを訊く勇気はなく、日奈子にできるのは、彼に握られていない方の手で、御幸の肩を叩いてやることだけだった。
「キミ、起きて」
─────────────────────────
「キミ、起きて」
どれくらいの時間が経ったかわからない。
御幸は優しく叩かれた肩に伝わるぬくもりと、遠くで聞こえる彼女の声で目を覚ました。ゆっくりとまぶたを開ける。目の前には、あの衣装の金髪のまま、しゃがんでこちらを覗き込む日奈子がいた。ずっと隣にいてくれたのだろうか。
「…………ヒナ……?」
「しっかりしな、タクシー来るよ。キミが乗り込むところまで確認するから。ほら、立って」
どうやらあのあと、倒れ込んでそのまま眠ってしまったらしい。まだ頭が痛むが、気持ち悪さは幾分かマシになっていた。
「てかいい加減、手ぇはなして」
「えっ……あ、」
眠っているあいだ、ずっと日奈子の手を握っていたらしく、言われて思わず放すと、彼女の華奢な手首に、御幸の太い指の跡がくっきり赤くなるほど残っていた。どんだけ力いっぱい握ってたんだ、俺。
「わ、わりぃ、痛かったか?」
「平気。ほっとけばそのうち元に戻るから」
素っ気ない態度でそう言って、日奈子は御幸の飲みかけのペットボトルのフタを閉めると、「あげる」とこちらに押しつけ、先にすっくと立ち上がった。慌てて後を追うように立とうとしたが、立ちくらみとまだ酒が残っているせいでふらついた。
「ちょっと!」先を行こうとしていた日奈子がそれを見て取り乱し、こちらへ駆け寄ってくる。「こんなとこでぶっ倒れてケガでもされたら困るんだけど!」
「ねぇ、あたしもさすがに、野球選手のキミのガタイは支えらんないから……ボーイ呼ぶ?」
壁にもたれている御幸の腕を[#ruby=擦_さす#]っては、こちらを心配そうに見上げてくる。[#ruby=そ_・#][#ruby=の_・#][#ruby=気_・#]がないなら優しくしないでくれよ──そんな有象無象に使い古された文句も出ないほど、やっぱりその優しさに[#ruby=縋_すが#]りたくなった。
いま日奈子がそんなふうに接してくるのは、自分が曲がりなりにも“客”だからか? 彼女にとって俺は、抱かれた山ほどの男の中の、取るに足らない一人なのか? 考えるだけ無駄なことが、酔っぱらって小さくなった気のする脳を占める。やっと口から出たのは、味のない強がり。「大丈夫」
「日奈子が一緒に来てくれるんだろ? なら平気」
「根拠ないし」
「そう言うなら手、握ってて」
ふざけるなとか、馬鹿にするか罵るか、無視してくれたらいいものを、そう言えば彼女は「……キミ、酔いすぎだから」と、こちらの手を取って、出口へ向かって歩きだす。ときどき、御幸がちゃんとついてきているか確認するように歩みを遅くする。振り向きもせず、淡々と告げてくる。
「念のため、従業員用の裏口から出るよ。そっち側にタクシー呼んでるから」
御幸は日奈子と手を繋いで歩きながら、ぼうっと彼女への想いを巡らせた──疑いようもなく好きだった。好きになるな、忘れろというほうが無理な要求だった。最初から。最初から好きだった。彼女にとっては遊びでも、御幸ははじめから日奈子が好きだった。
ここまで追いかけてきたことで、確信した。いっそ清々しいくらいだ。今まで付き合った女性たち・例のスキャンダルの相手? 足元にも及ばない。ここまで追いかけられるほど──心から好きになった人はきっと、日奈子だけだった。
彼女に連れられるがまま歩いていると、やがて地上へと続く階段が現れ、二人してゆっくりとのぼった。彼女の揺れる人工の金色の毛と、そのすこし上に浮かぶ夜空、古めかしい街灯。そういえば今、何時だろう。もう日付が変わっているかもしれない。
ずっと地下にいたせいで、都会の真夜中なのに、空気も澄んで明るくなった気分だ。見覚えのない細い一通の路地、ゴミとヤニのにおいが薄暗く漂う、遠くでメインストリートの騒めきが聞こえて、数十メートル先にハザードランプを[#ruby=焚_た#]いたタクシーが停まっているのが見えた。御幸がそれに気付いたところで、日奈子は立ち止まり、手を離した。
「ほら、早く乗って」タクシーのリアを見つめたまま、目も合わせずに言われる。そんな彼女を見ても、名残惜しさだけが湧いた。夏とはいえ、あの過激な衣装にアウターを羽織っただけでは、ちょっぴり寒そうに見えた。
「また来てもいい?」
「はぁ?」
本当に呆れたようすで見上げてくるものだから、また笑いそうになる。あんな目に遭って、懲りない奴だと思われているのが手に取るようにわかった。
「マジで言ってんの? まだ寝ぼけてる?」
「だって、会いたいし」
“客”として[#ruby=来_・#][#ruby=店_・#][#ruby=す_・#][#ruby=る_・#][#ruby=だ_・#][#ruby=け_・#]なら問題ないように思う。まあ、日奈子はそれでも嫌がるだろうが。
「だいたい、『知りたくなかった』って言ってたじゃん」
「それが?」
聞き返すと、彼女は着ている衣装をまるで隠すように、両腕を抱えるしぐさでアウターの袖をぎゅう、と握り締め、顔を背けた。「……キミも、女がこんな恰好で踊ったりして、下品だとか思ってるんでしょ」
「えっ、いや、アレはそういう意味じゃなくて、」
思ってもみなかったので、慌てて否定したが、日奈子が不審そうな顔でこちらを見上げてきたので、一瞬言葉に詰まった。……彼女の仕事を否定するようなことは言いたくなかったが、納得してもらうためには、はっきり伝える必要がありそうだ。
「いや、だってさ……普通、好きなコが下着同然の[#ruby=恰好_カッコ#]で、大勢の男にチヤホヤされてるのは、やっぱ……フクザツな気持ちになるっていうか……」
素直に喜べる光景ではない、と思うのが正常な感覚ではないか──御幸は自分なりに言葉を選んだつもりだったが、なんだか独り言のようになってしまった。
おそるおそる日奈子の表情を見たが、なぜだか彼女は目を丸くして驚いていた。「……そんなこと、初めて言われた」そうつぶやくように言うと、今度は半目でじっとり睨まれる。
「……キミ、わかりにくいし言葉足りなすぎ。ヒナ、前にも言ったよね? 『そんなだからフられるんだよ』って」
うっ、と尻込みしてしまった。そうだったっけ。なんの反省も活かされていないらしい、とわかって、日奈子はついに吹き出した。「キミ、変わってないなあ」彼女のハスキーな、からからと乾燥しているような響きの笑い声は、耳に心地良くて好きだった。
「いまだに彼女できないのも納得。尻軽の尻追っかけてどーすんの?」
「……できないんじゃなくて、つくらねーの」
「あははっ、ベタなこと言うね」
「“言い訳”じゃなくて、ヒナ以外に興味が湧かなかったのは“事実”だから」
「日奈子じゃなきゃ、駄目なんだと思う。俺[#ruby=だ_・#][#ruby=け_・#]と、付き合ってほしい」
彼女の[#ruby=浮気性_それ#]もすべて承知した上で、それでも。わかっている、という意味を込めて強調してみせると、日奈子はまた『理解できない』と、ぐしゃり顔を[#ruby=歪_ゆが#]めた。「ヒナ、十分キミを傷付けたじゃん……なんで、」
「あ……あたしが……」すると、何を思ったかハッとしたようすの日奈子は、急におかしなことを言いだした。
「あたしがめっちゃ[#ruby=束縛_ソクバク#]する女だったらどうすんの? 毎日ライン寄越せとか電話しろとか、キミ耐えられる?」
いったいなんのつもりかは知らないが、御幸はついムッとなって冷静に返してしまった。「ヒナの性格じゃ、そんなこと言わないだろ」フられた身だが、さすがにそれは出まかせだとわかる。ところが彼女は、性懲りもなく続けた。「束縛って、それだけじゃないから」
「髪を切れって言ったら? 服の趣味変えろとか、ピアス開けろとか」
「俺に髪切ってほしいの?」
「い、いや……たとえばの話だからっ」
「常識の範囲内なら、別に」
「っ、……浮気してないか確認するためにスマホ見せろって言ったら見せられるわけ?」
これならどうだ、と言わんばかりの口ぶりで、なんだか妙な意地の張り合いになっていることに気付く。どうやら彼女は、どうにかして俺に諦めさせたいらしい。だが、恥もプライドも捨ててやってきた自分に、今さら怖いものなどなかった。
「要求はそれだけ?」御幸はポケットからスマホを取り出し、「暗証番号は196586」と告げながら、日奈子の目の前にそれを差し出した。彼女は愕然としていた。
「それでヒナが手に入るなら安いモンだよ」
ハッタリなんかではない。他の相手なら考えられなかっただろうが、それで彼女が納得するならば構わない。
しかし日奈子は、「やっぱ頭おかしいって……!」と再び頭を抱えるだけで、本当にスマホを見たかったわけではないとすぐにわかった。そして、苦し紛れとでもいうように声を荒げた。
「キミは恋人に、『野球よりもあたしを大事にして』って言われてもできないでしょ!?」
その言葉に、過去の記憶がフラッシュバックした。前にも言われたことがある。日奈子ではない。『やっぱり──御幸くんにとっては、野球が一番なんだよね』誰だったかも覚えていないが、確かにそう言われた。否定できないし、する気もない、自分にとって当たり前のこと──当時もそう考えたのではないだろうか。
「ほらっ、無理なこと言うもんじゃない。ハイ、この話はナシ。付き合うとかありえない。あきらめて」
それを思い出している間、御幸が黙ったのを見て言い負かしたと思ったのか、日奈子は突き放すように話を切り上げようとした。
「いや、簡単には諦めねーよ」そもそも二年前だって、諦めたわけではなかった。御幸の中にずっと日奈子はいたし、それを超えることはなかったのだから、今日ここにいる。
「俺は[#ruby=野球_シゴト#]も日奈子も、どっちも手に入れてみせる」
「は……なに言って、」
御幸はむしろ高揚した。そんなことを日奈子から言ってくるなんて、何より自分を理解してくれている証拠じゃないか。今はっきりとわかった。やっぱり、日奈子じゃなきゃ駄目だ。
「俺は昔っから“貪欲”なんだよ。でなきゃプロまで野球続けられねぇって」
「それに、ヒナ相手なら“欲張り”になれるって気付いたんだ、俺」
私生活──殊に恋愛に関してはそうなれなかった。彼女の言うとおり、優先順位をつけては他をないがしろにした。だが日奈子は違う。順位とかでなく、自ら手に入れたい。一筋縄でいかないほうが燃えるのは、性格の問題かもしれないが。
「ひとまず、日奈子に俺の[#ruby=本_・#][#ruby=気_・#]が伝わったならそれでいいや。今日はおとなしく帰るよ」
「そ……」
「また店にも来る」絶句している日奈子に言いたいだけ言わせてもらったところで、彼女はようやく正気に戻り、もはやヤケになって言い返してきた。
「く、来るならせめて、チップはずんでくれなきゃお断り!」
チップ、と日奈子のその言葉でふと思い出した御幸は、シャツの胸ポケットに入っていた一枚の玩具の紙幣を引っ張り出した。そういえばまだあった。バーテンダーに『初回サービス』だと言われて突っ返されたものだ。
「まだ持ってたの? それ今日しか使えないし、返金できないよ」
「ほしい?」
「ヒナ、もらえるものはもらっとく主義」
そう言って手を差し出してくる彼女に対し、悪戯心がはたらいた。酔いはもう醒めていた。「“口渡し”だっけ?」
「やってみせて」店にいた客の見よう見まねで、紙幣の端を軽くくわえてみせると、日奈子はぎょっとしてから小さくため息を吐いた。
「さっさと手渡ししてくれればいいのに……なに急にノリ気になってんの?」
やれやれ、と言いつつ、顔を近付けてくる彼女の頬を、逃げられないよう手で固定し、反対の手で腰を一気に引き寄せた。「えっ」という日奈子の驚いた声と、カツン、とこちらに一歩寄ってきたピンヒールの音。一瞬口を開いてチップを落とし、唇を合わせる──彼女の猫の瞳が見開かれている。視界の端で、ピンク色の紙幣がひらひらと汚いアスファルトに落ちていった。
二年ぶりの彼女とのキスは、あま苦いチェリーリキュールの味が口に残っていたのと、あの頃はしなかったタバコの香りが混ざっていた。
(「覚悟しろよ」そう言って、貪欲な男は浮気な女に、宣戦布告のキスをお見舞いした。)
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