クレイジー・イン・ラヴ
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スナックや居酒屋の入った雑居ビルの、地下へ潜っていく階段を、御幸はおずおずと降りた。奥へと続く通路は、安っぽい蛍光灯が数本あるだけで、外のほうが明るいくらいだ。一歩、また一歩、さらに進むと外の明かりが見えなくなり、どんどん薄暗くなっていく無機質な壁や床が、不安を駆り立てる。
やがて、一つの扉が現れた。木製の、厚く重たそうな扉のそばに、店名や看板は見当たらない。代わりに隣の壁に、ショッキングピンクに発光するネオン管が掲げられていた。
『Burlesque』
筆記体の文字で、そう光っている。……どういう意味だ? 英語かどうかも、なんの店かもわかんねーな。
一 見 ではとても入りにくい外観をしているが、ここ以外に扉や抜け道のようなものは見当たらないので、先ほど地下へ降りていった女性が彼 女 であるならば、この中に入ったに違いないのだ。
目の前にあるドアノブ──猫の尻尾のようななめらかな曲線を描いた、金色 のそれを、意を決してつかみ押し下げ、そっ、と手前に引いてみた。
「あーどうぞー」
中を覗くと、殺風景な廊下の先に、カウンターの向こうで中年くらいの小綺麗な男が、座ったままこちらを手招きしている。「もうオープンしてますよー」明るい口調だが、良い意味で事務的な対応にどこか安心をおぼえて、御幸は変装用のキャップを目深に被り直してから、扉をくぐって彼に近付いた。
「チャージ料いただきますー」
「……あ、ああ」
男の言葉に慌ててポケットから財布を出す。現金は十分にあるし、カードもある。御幸は財布の中の札の数を確認しながら、カウンターの椅子に腰掛ける男をさりげなく見下ろした──日奈子がコ コ を通ったことを、この男は知っているだろうか──しかし、ここで彼女のことを聞いたら、それこそ“後をつけてきた”だとか不審者扱いで追い出される可能性もあることを考え、すぐに財布に視線を戻し、口をつぐんだ。
「じゃあコレ、チップね。追加あったら中のスタッフに声かけてくださーい」
そう言った男は、何やらピンク色をした玩具 の紙幣のようなものを御幸に束で渡してきた。なんだコレは。いったい、何に使うというのだろう。
下手なことを聞けずにいたが、男はそんな御幸もお構いなしに「楽しんで〜」と、軽い調子でひらひらと手を振った。されるがまま促され、振られた手はさらに奥の分厚い扉を示していた。今度は、大掛かりの工具のようなレバーが取り付けられた防音扉だった。
耳を澄ませると、扉の向こうから音楽の低音が、ズンズンとこちらまで響き渡っている。ハンドルを握り締め、跳ね上げるように開けると、ガチャンッ、と大げさな音が鳴ったので、軽く心臓も跳ねた。扉の開いた隙間から、途端に爆音が耳から脳髄まで一気に支配して、その音圧にのけぞりそうになった。
「う、わ」慌てて中へ入って扉を閉めたが、大音量の音楽にまだ耳が追いつかない。すると、御幸の目の前を人が横切った。
「いらっしゃいませ〜!」
横切った人物は女性で、爆音の中でも聞き取れるような甲高い声を出し──御幸はその女性の恰好に、思わず目を見開いた。着ているワンピースは、胸元のざっくり開いた襟ぐりと、少し屈めば間違いなくその下着が曝 されるほど短い丈の、ボディコンシャスな服装。
「あらぁ、イケメン♡」
目の前の光景に驚いて後ずさった御幸のことも気にせず、女性店員はそんな声を上げたあと「楽しんでね~♡」と、こちらに手を振ってきた。よく見ると女性は、反対の手にトレーを乗せたまま、店内を歩き回って、テーブル席に酒を提供していた。
呆気にとられたまま、顔を上げた御幸の目に次に飛び込んできたのは、堂々と設置されたステージ。店内は外観から想像していたよりもずっと広く、前方から中央を縦に貫く、高さ1メートルほどのランウェイのようなステージが置かれている。
そして、何より目を引いたのは、その上で踊る女性ダンサーたちだった。周りの客たちが、ステージに向かって歓声を上げている。いるのはほぼ男性客だが、若い女性も少なくはない。
「フゥ〜〜〜」
「ハズキちゃーん!」
「最高!」
「カワイイ〜〜!」
「サラちゃんこっちむいて〜!」
観客の視線の先で舞う彼女たちはというと、レースアップのランジェリーや、剥き出しのガーターベルトとストッキングを身に纏 い、その隙間からのぞく胸の谷間、腰のくびれ、ふとももの素肌を見せつけるように踊っていた。それも、とてもダンスには不向きに見える、10センチ以上はあろうかというピンヒールを履いて。中には、ステージ上から天井に向かって伸びる銀の棒に絡みつくようにしているダンサーも──実際に観るのは初めてだが──あれは“ポールダンス”と呼ばれるものだろう。
ここは、いわゆる“ショーパブ”だ。目の前に拡がる、目眩 く未知の大人 の世界に、そこでようやく脳が追いついた。店はこの雰囲気からしてきっと、“セクシーな女性ダンサー”を売りにしているのだろう。
「それではチップタイムです! ダンサーたちが席まで参りますので、たっぷり振る舞ってくださーい!」
やがてダンスが終わると、司会らしき男性の声でアナウンスがあった。ステージから降りた女性ダンサーが客席へ歩み寄り、いったい何が始まるのかと思いきや、客たちは先ほどの『玩具の紙幣』をダンサーの衣装の隙間や胸の谷間に突っ込み、客が口にくわえたものをダンサーが口で受け取ったりと、地 上 では考えられない状況が繰り広げられていた。もはや現実ではないのではないか、と。
焚 かれたスモークの独特の香りに、スピーカーから吐き出される重低音、まばたくスポットライトも相まって、チカチカ眩暈 がして、内臓までおかしくなりそうだ。御幸はどうしたらよいかもわからず、気付けば店内の後方にあるバーカウンターにもたれ、目の前の未知だ っ た 世界に呆然としてしまっていた──
「そこの男前 のメガネのお兄さ〜ん。いま来たところ?」
息つく暇もなく、そばでそんな猫なで声が聞こえた。御幸は特に何も考えずに声のしたほうを振り返った。そして、最初に目に飛び込んできたのは、“たわわに実った二つの果実”──
バーカウンターを挟んで向こう側、バニーガールの恰好をした女性バーテンダーが数人いて、その中の一人が気を抜いていた御幸のすぐ隣に、いつのまにか立っていた。カウンターの上へ、その深い谷間を見せつけるように“果実”を乗せ、頬杖をついている。
「まだ飲んでないなら、ナニか頼まない?」ふふっ、と営業スマイルを浮かべる女性の胸に目がいってしまったのを取り繕うように、一度カウンターに預けていた体重を慌てて持ち上げ、体ごともう一度振り返った。
人懐っこそうな笑顔に、何よりインパクトのある胸元を隠すことのないボブヘアと、グラマーな体型が特徴的な女性バーテンダーは、そのバニー姿が似合い過ぎていて、逆にイヤらしさを感じさせないような雰囲気があった。なんとなく、自分よりは年上の気がした。
「あー……なんでもいいや。オススメで」
「かしこまりました〜」
バニーガールは姿勢を正して、媚びるようなしぐさで頭に装着したウサギの耳をいじくったあと、こちらに手のひらを差し出してきた。
「チップ持ってる? 入口でもらったピンクのおカネ。それ1枚ちょうだい?」
「ああ……」
どうやらこの紙幣は、店内で金銭の代わりになるらしい。先ほどから店員たちが、“チップ”と呼んでいるのが腑に落ちて、御幸は言われたとおり女性スタッフに渡そうとした。
「じゃあ、コ コ にいれて?」
すると、バニーガールはそう言いながら笑って、自身の胸の谷間を指差した。「えっ」からかわれているのかとも思ってつい見ると──そ こ をじっと見るのも憚 られたが、グラビア写真でしか見たことのないような豊満なバストには、すでに何枚か紙幣が挟まっていた。
先ほどのダンサーたちの振る舞いといい、この店なりのサ ー ビ ス なのだろうと察した御幸は、すこしだけ顔を引きつらせつつ、笑いながら冗談ぽく尋ねた。
「コレ……断ることはできねーの?」
「え〜もうっ、照れちゃって。かぁわいい〜♡」
“ノリの悪い”答えなのだろうが、女性は慣れた返しで目の前の御幸の鼻先をチョンっ、と人差し指で小突いた。……とりあえず無視して、その人差し指の手を取ると、言われたピンクの紙幣を両手でやや強引に握らせる。その瞬間、くしゃ、と紙が少しシワになってしまった。バニーガールはにこにこ笑っていた。
「アラ、紳士なのね〜。いいわよ、高いお酒でもなんでもつくってあげちゃうっ」
「“初回サービス”ね♡」そう言うと、バニーガールは「みんなにはナイショよ?」と先ほどの人差し指を唇に当ててウインクしてみせ、今しがた渡したチップを両手でくるっと手早く器用に折りたたんだかと思うと、御幸の半袖シャツの胸ポケットへ差し込んだ。
「いいの?」
「だって、その様子だと初めてでしょう?」
まあ、それはそうなんだけれども。そりゃあ“プロ”から見ればわかるよな、とこっそり苦笑いして思い出す。
いわゆる“夜の店”というのは今までに数回、チームの先輩にキャバクラなんかへ無理やり連れていかれたことはあった。『お前イケメンだから女のコ取られるし、あんま連れていきたくないけど』と言われたが、御幸の『ノリが悪い』と、ついぞ誘われなくなった。
スキャンダルがあってからは『女なんていくらでもいる』と、ありきたりな励ましを受けてまた誘われたりもした。まあ結局、先輩方には申し訳ないが、なんの気休めにもならなかったのだけれど。
「ワタシは“マヤ”っていうの。ヨロシクね〜」
「あー……お姉さん、ちょっと聞きたいんだけど」
店内で帽子を被りっぱなしというのも違和感があったし、こんな暗い店内で顔をまじまじと見る奴もいないだろう、と高を括 った御幸は、キャップを取ってバッグにしまった。スピーカーから鳴り響くミュージックにかき消されないよう、カウンターに腕をかけて身を乗り出し、酒を作り始めたバニーガール──マヤに顔を近付けて声を張る。
「この店で、“日奈子”ってコ、働いてない?」
するとバニーガールのマヤは、棚に並ぶ酒瓶を手に取りながら眉を上げ、「日奈子?」と聞き返してきた。
「お兄さんのお友だち?」
「いや、友だちっていうか……」
真っ先に浮かんだ言葉──“元カレ”、だとか、ましてや“セフレでした”なんて、とてもじゃないが言えたものではない。今もっとも避けるべきなのは、変に不審者扱いされて店を追い出され、日奈子にたどり着けなくなることだ。
数種類の酒を、人差し指と中指で挟んだメジャーカップへと器用に注ぐバニーガールの手元を見つめながら、口を開いては閉じを数回繰り返していた。
「昔 馴 染 み 、というか……この店で働いてるとは聞いてたんだけど、近くに寄ったから、久しぶりに会っておきたくて」
嘘ではないギリギリの回答に、なんだそれ、と自分でも内心ツッコんでしまった。しかし、目の前のバーテンダーは「アラ、そうなの」とそれ以上追及することもなく、御幸の背後に目を向けて、舞台上を顎で示しながら言った。
「この次のステージが1部のメインで、マドンナとかビヨンセ演 るのよ。店 のトップダンサーたちが踊るから、日奈子も出てくるわよ」
見知らぬバニーガールの口から、ようやく彼女の名前が出たことで、真っ先に安堵した。間違いない。彼女はコ コ にいる。そして、どうやらダンサーでもあるようだ。マヤの視線につられるように、ちらっと振り返った御幸は、セクシーな衣装を着た女性たちにボディータッチする客らに目をやってから、少々複雑な心境になった。
「それにしてもヒナったら、こんなハンサムな昔 馴 染 み がいたのね。妬けちゃうわ〜」
軽くシェイカーを振るマヤが、こちらの顔を覗き込むようにしながらそんなことを言ってきた。バニーガールがその体勢になると、必然胸の谷間が目に飛び込んでくるので、たぶんわざとやってるんだな、とある意味感心しながら、「はぁ」と適当に返事をして、どこにやったらいいかわからない視線を、マヤの頭の上でひょこひょこ動いているウサギの耳に向けていた。
「でもね~、お兄さんみたいな真面目 そうなタイプって、意外とこういう店 にハマりやすいのよね〜」
「きをつけて?」と再びウインクを寄越すマヤに、初めて一瞬ドキッとしてしまった。見透かすようなそのしぐさが、どこか日奈子に似ていた。「まあ、店 としてはおカネ落としてくれるわけだから、ありがたいけどー」
マヤがストレーナーを三角のカクテルグラスに乗せ、シェイカーを傾けると、深いルージュの色のような液体が注がれた。そして、グラスの台座に指を乗せ、スッとカウンターの上を滑らせるようにこちらへと差し出す。
「はい、店 のオリジナルカクテル」
「どーも」
御幸がカクテルを受け取った瞬間、背後の客たちが歓声を上げた。「ヒナー!」「日奈子ちゃ〜ん!」「フゥ〜〜」
「あっほら、出てきたわよ。金髪のウィッグつけてるのが日奈子」
マヤの指さした方を振り返ると、ステージ上には新たにダンサーが数人現れ、客が立ち上がって拍手を送っている。ダンサーは皆、黒いレザーでできたタイトな衣装と、同素材のニーハイブーツに網タイツを履き、警官のような帽子を被っていた。ハイカットの衣装からは、引き締まった臀部が惜しげもなく曝け出されており、客たちの視線を釘付けにしている。
その中の一人──マヤの言うように金髪のロングヘアのダンサーは、髪色はもちろん、いつもより濃い化粧のせいもあって、一目では日奈子だとわからなかった。先ほどまでのダンサーや、隣にいるバニーガールである程度見慣れたと思ったが、やはりこういう場所でしか見ることのない露出の高いコスチュームに、口から出る感想はシンプルな一言でしかない。「……スゲー衣装」「マドンナのイメージなのよ。素敵 でしょう?」
「お兄さんはどっちが好き? バニーとボンデージ。それとも清楚系が好み? セーラー風とか」
相変わらずこちらを覗き込むようにしているマヤを横目に、御幸は手の中のグラスのカクテルを一口含んだ。甘酸っぱくて飲みやすい。チェリーリキュールの味がする。「おいしい?」「うん」
「お姉さんにはたぶん、バニーちゃんが一番似合うと思う」
「ホント? うれしいな~」
その場しのぎやお世辞でなく、第一印象で御幸は伝えた。マヤが照れたようなしぐさで小さく跳ねると、衣装から溢 れそうな胸がぽよんと揺れていた。
「チップは返金できないから、どうせならしっかり女のコたちに渡してあげてね。ダンサー たちも生活かかってるから」
流れてくる歌に合わせ、口パクで踊るダンサーたちを見ていると、そう言われた。あれだけ露出の高い衣装を着るには、体型をキープするだけでも一苦労だろう。御幸は何もわからないなりに、厳しい世界なのだろうなと、マヤの発言で察した。それから、やはり自分よりは年上なのかもしれないなと思った。
「あ、女のコが指定してないトコロに触ったらアウトだからね。コワ~イ人たちに連れ出されちゃうわよ~」
「ははっ。いろいろ教えてくれてありがとう、お姉さん」
「いいのよう。いつでも会いに来て?」
グラスを片手にバーカウンターを離れると、マヤは「楽しんでってね〜♡」とこちらに手を振ったあと、反対の手で投げキッスをした。さっきからこの店の店員に、同じような声をかけられていることに気付く。確かにこ う い う 店に来たら、深く考えずに『楽しむ』のがある種マナーなのかもな、と御幸は手っ取り早く酔いたくて、バニーガール謹製のカクテルを一気に飲み干した。
店内の後方で一人壁によりかかり、ステージ上で踊る日奈子を見つめる。胸や尻を強調するようにカラダをくねらせ、脚を大きく開いては激しく腰を振り、セックスアピールである長い髪を振り乱す。なかなか刺激の強い光景だが、途中ポールダンスで前後左右に開脚をしたり、倒立したり、身体能力の高いポーズで踊る様は、ショーとしての見応えもあった。
「日奈子ちゃーん!」「ヒナちゃん最高~!」と時折上がる客たちの声からも、彼女の人気の高さがうかがえた。
そういえば、彼女はなぜ、この店を教えたがらなかったのだろう。不思議に思ったと同時に、それに、と御幸は彼女の過激な衣装から曝け出された素肌を見て思い返す。
皆に見せつけるようにしているあの肌にも直接、何度も触 れた。『彼女たちも生活かかってるから』衣装どころか、生まれたままの姿で、あんなに躰を重ねたのに──俺は彼女のことを、なにも知らないんだよな──と、改めて気付かされた。
そんなことを考えながら、空 になったカクテルグラスの脚を指の腹で撫 ぜる。歓声と音楽が雑音になっていく。目線の先の日奈子は、手のひらに乗せたキスを、吹く息に乗せて客席に何度も振り撒いている。御幸はしばらくその光景を、まるで他人事のように眺めていた。
「これにて1部のステージを終わります。引き続きダンサーが席を回りますので、お気に入りの女のコにチップをお願いしまーす!」
ショーが終わっても、ダンサブルな音楽は鳴り止まない。先ほどと同じように男声のアナウンスが流れると、ダンサーたちはステージから客席へと降りてきた。
その中にいた日奈子も、やはり客から笑顔でチップを受け取っている。「ありがとうございま〜す」という張り上げた声だけは、この距離でも聞こえてきた。彼女のそんな声を聞くのは初めてで、見た目も相まってちょっと別人のようにも感じた。
だんだんと日奈子がこちらに近付いてくる。御幸の酔いも回ってきた。こちらから声をかけるべきかと迷っていると、彼女は挨拶を切り上げて、バーカウンターへと足を運んでいた。よく見ると、先ほどのマヤに話しかけている。
今がチャンスだと判断し、御幸は一つ息を吐くと、そこへ歩み寄った。カウンターに両腕を乗せた日奈子は、身を乗り出すようにしてバニーガールたちに目をやっていた。
「マヤ姉 〜、ヒナのど渇いちゃった。なんか作ってー」
「アナタ今日、2部も出番あるでしょう? お酒はダメよ」
「一杯くらいいいじゃーん」
「ダーメ。店主 に怒られるわよ」
「ケチ~」
「そういえばさっき、日奈子のこと捜してる男の人が来てたけど。ずいぶんとハンサムだったわ」
「はぁ? 男? あたし、オ ト コ には店の場所教えてな、」
「どーぞ」空になったグラスをカウンターに置き、御幸はポケットにしまっていた玩具の紙幣を引っ張り出すと、全て日奈子に渡そうとした。
御幸の声に振り向き、差し出されたチップに気付いた日奈子はそこでパッ、と表情を変えた。“営業モード”とでも言うのだろうか、媚びるように両手を大げさに顔の前で動かすのは、あまり見たことのないしぐさだった。
「わぁ〜こんなにいいんですか? ありがとうございま、」
そうして日奈子が顔を上げ、御幸と目が合った瞬間、彼女の動きがカチン、と固まった。以前、昼間に偶然二年ぶりの再会を果たしたときともまた違う驚き方で、口を開けたまま徐々に目を見開いていく彼女の姿がちょっぴり面白くて、御幸は吹き出しそうになった。
開いた口が塞がらない、といった様子の日奈子は、絞り出すような声で御幸のことを呼んだ。「キ、ミ……」
すると突然、チップを差し出した腕を、レザーのグローブをはめた日奈子の手にガシッと引っつかまれたかと思うと、彼女は早足でどこかへ向かって歩きだした。
「えっ、ちょ、ヒナ、」
「いいから黙ってついてきて!」
なすすべなく連れられると、背後から「ちょっとヒナ? どこ行くのよ、飲み物いらないの?」というマヤの声が聞こえた。次に、「顔伏せて!」と日奈子の被っていた帽子を無理やり被らされ、頭を押さえつけられる。当然だがサイズが合わないので、ほとんど頭の上に乗っかっているだけの状態だった。
そのとき、「あれ~?」と近くで声を上げたのは、先ほどまで日奈子と一緒に踊っていたダンサーの一人──顔を伏せているせいで足元しか見えなかったが、彼女と揃いの衣装を着ていたのですぐにわかった。
「ヒナちゃんその人どーしたの? 知り合い?」
「な、なんか、タチの悪い酔っぱらい!」
「そんなんボーイに任しときゃいいのに〜」
すれ違いざまそんな会話を交わすが、日奈子が足を止めることはなく、そのまま店のバックヤードらしき扉を開けて入るように促された。
しばらく歩き続けてたどり着いた場所は、店の倉庫かストックのような狭い部屋で、棚には業務用の大きな酒のボトルが並んでいる。店の喧騒からは少し離れ、そこでようやく足を止めた日奈子は、勢いよく振り返ると、御幸を思いきり睨みつけた。
「信じらんない! 店突き止めてまで追っかけてくるなんて!」
「ストーカーかよ!」と、顔を引きつらせる彼女にすこし気圧されながらも、頭に乗っかっていた帽子を取ると、肩の力が抜けた。
「まさか後つけてきたの!?」
「いや……たまたまっていうか、なんていうか……」
「はぁ!? 子どもでももう少しまともな言い訳するでしょ!」
言い訳というか、どこから言うべきかと考えているうちに、説明が面倒くさくなってしまった。
日奈子は両手で頭を抱えては項 垂 れて、「サイアク……! 今日出番後ろだからって、店の入口から入ったのが間違いだった……!」と苦虫を噛み潰したような顔をしている。ここまで感情的になっている彼女もめずらしいので、やはりおかしくて場違いに笑ってしまいそうになる。
「つーかヒナだって、最初っから教えてくれてりゃさあ」
「キミをこ う い う 店に呼べるわけないじゃん!」
手の中の帽子を奪い取られ、「あ」と声が出るが、日奈子は「マジありえない……!」と続けた。
「だいたいキミ、プロ野球選手でしょ!? 下衆なマスコミとかにすっぱ抜かれたらどーすんの!? イマドキ一般人でもネットで拡散したらあっというまなんだから!」
「ま た ワイドショーで世間のネタにされたいわけ?」
「アレの発端は、俺じゃなくて相 手 のほうだから。てかやっぱそれ知ってんのな」
「そりゃあんだけテレビやネットで流れてりゃね」
帽子のせいで乱れた髪を直しながら、肩をすくめてみせると、彼女の胸の谷間に当然のように挟まったチップが目に入った。あらためて近くで見ると、そ う い っ た プ レ イ を想起させるような、刺激の強い衣装だ。
「キミの好感度一つでお金の動きが変わるわけじゃん、プロなんだからもうちょっと危機感持っ、て──」
そこで言葉を区切った日奈子に気付いて彼女の顔を見ると、先ほどまでの怒っていた様子とは違い、呆れたような目つきでこちらを見上げていた。
「……キミ、相変わらずむっつりだね」
「えぁっ?」と間の抜けた声が漏れてしまった。こちらの目線に気付いた日奈子は、すっかり勢いをなくしてはそっぽを向いていて、御幸は開き直るしかなかった。
「そ、そりゃそんなキワドイ服着てたらね……」
「別に、見せるために着てる服だからいいけど」
「そのチップ、くれるの?」金髪のロングヘアを腕に絡め、いつものように爪先でほぐす彼女の視線は、チップを握ったままの御幸の手に注がれていた。
「えっ」
「フフッ、どーぞ? お客サマ。どこでもお好きなところに、たぁっぷり挿 れ て ?」
不敵な笑みを浮かべ、急に芝居がかった口調になったかと思うと、日奈子はその肢体を、御幸の体に押し付けるように迫ってきた。
「どこでも、って……」よく見ると胸の谷間以外にも、“ブラ紐”と呼ばれる肩の部分や、衣装の腰骨・尻のあたり、それからブーツの隙間にも、ピンク色の紙がチラチラと覗いている。わざと胸を押し当てるようにされて、このまま押し倒されるのではないかと焦っていると、さらに強請られた。「はやくぅ」
「それとも“口渡し”がイイの?」
「……結構デス」
目のやり場がないなと断ってから、チップは日奈子が持っていた衣装の帽子の中へ突っ込んだ。それを見て、彼女はようやく御幸から体を離す。自分も酔っているからか、なんだか頭がくらくらした。「つまんない男ね〜」
「ベッドの上であんなコトやこんなコトもシたのにぃ〜」
「……それとこれとは別だろ」
「キミはヘンな性癖なさそうだったけど、今度試しにこの恰好 でシてあげよっか?」
「案外目ざめちゃったりして〜」と、日奈子がニヤニヤしながら指先で顎を撫でてきた。合皮の嫌につるっとした感触にぞわぞわとカラダが震えて、顔が熱くなったのをアルコールのせいにした。
「……っ、なんで今日そんな機嫌いいんだよ」
「ふふ」
苦い顔で歯向かってやると、妙なテンションで笑う日奈子を前に、最 後 まで手は出さないと心に決める。そうでないと意味がない。二年前と同じにはなるまいと、御幸はこっそり唾を飲み込んだ。
「まあ……踊ってるヒナはなんつーか、カッコよかったよ」
「ホントっ?」
ありきたりなことしか言えなかったが、それを聞いた日奈子は嬉しそうにした。セクシーな衣装を着ていても、まるで子どもみたいに喜ぶ様子は、素直で可愛らしかった。
「うん。ああいうの初めて観たから、よくわかんないけど」
「けど楽しいでしょ? ヒナも初めて観たとき感動してこの店のダンサーになって、それで……」
そこで、饒舌になってしまったことにハッとして、日奈子は恥ずかしそうにうつむいた。そこまで彼女が夢中になるほど、この仕事を好きでいることには違いないからこそ、余計に不思議に思えて、御幸はその疑問をぶつけた。
「なんでこの店で働いてること、隠してたんだよ?」
「だって……」
今さら偏見も何もない、というのは前から思っていたことだが、驚いたのは事実だった。たった一晩で、刺激の強いものを浴び過ぎたというのもありそうだ。
「まあ……知りたくなかった気もするんだけど」
そう言うと、日奈子はまた拗 ねたようにそっぽを向いた。「……あっそ」
「ヒナが今すぐタクシー呼ぶから。それで帰って。いい?」
御幸と目を合わせないようにしているのか、体のいろんな箇所に挟まったチップを抜き取っては帽子の中へ追加しながら、さっきまで機嫌の良かったはずの日奈子が冷たく言い放った。
「な、なんだよ、そんなに怒らなくたっていいだろ。俺は普通に客として、」
「言ったはずでしょ、キミが来るような店じゃないって」
「野球選手とかは関係ねーだろとも言ったぞ」
「店に迷惑がかかるなら大アリでしょ」
せっかく日奈子にたどり着いたというのに、また離れていってしまう。俺はただ、彼女に本 気 だと伝えたいだけなのに。どうすれば伝わるんだろう、と胸の中が渦巻いて、酔いもあってか、吐き気がした。
「いざとなったら、ボーイに出禁にしてもらうことだってできるんだからね」その言葉に御幸が一瞬うろたえたのをいいことに、日奈子は振り返って部屋を出ていこうとした。
「そうなりたくなかったら、今日はもうあきらめて」
「待てよ、ヒナ……っ、」
御幸が日奈子へと腕を伸ばした、次の瞬間だった。
ぐわん、と視界が歪んで、頭が揺れた。う、と再び吐き気が催してくる。きもちわるい。足元までふらふらと覚束ない。倒れる、その前にそばの壁にもたれて、御幸はそのまま床にへたり込んだ。カツ、カツ、と彼女のヒールの音が自分から遠ざかっていく。あの日別れた、12月の朝が思い出される。
ああ、情けない。本当に。こんなところまで来て、追いすがって、また手が届かなかった。
胃の中がぐるぐるしている。あたまがいたい。いま、何時だろ、うっ──あした、なんだっけ。
遠くのほうで声がする。
「ねぇ、キミ……しっかりしてよ、大丈夫?」
かすかな意識のなかで、ぼんやりと聞こえてくる。
「キミ……ねぇったら、」
「一也!」
ハッ、と他人にめったに呼ばれない名前を呼ばれ、御幸はなんとか意識を捕まえた。
「大丈夫?」目の前には、しゃがんでこちらを心配そうに覗き込む日奈子がいた。先ほどの衣装の上からアウターを羽織っていて、チップの詰まった帽子はどこかへ置いてきたのか、手にはペットボトルとスマホが握られている。
彼女はこちらの視線で何かを感じとったらしく、御幸の頬を片手で包むようにして、「控室行ってきただけだよ」と優しい声で言った。日奈子の手はひんやりと冷たいのに、同時に温かくて、心地よかった。が、すぐにまた吐き気がした。
「ん゛ん……きもちわる……」
「ちょっと待ってよ、まさかとは思うけど盛 ら れ た んじゃないの?」
めずらしく気を揉んでいる様子の日奈子は、持っていた未開封のミネラルウォーターのフタをパキ、と開けると、御幸の手を取って持たせながら、続けて聞いてきた。
「一回も飲み物から目ぇ離さなかった? スタッフから直 で受け取った?」
「うん……」
「この店にそんな奴いないと思いたいけど……キミ、なに飲んだの?」
「わかんねぇ……なんか赤いやつ……」
受け取った水に口を付けようとしたら、御幸の言葉を聞いた日奈子は、隣で再び頭を抱えていた。
「あ の カクテルは飲みやすい代わりに、めちゃくちゃ度数高いの。なんでそんなの頼んだの……!? キミお酒強くないくせに……」
「わかんない……」
常温の水が喉を通ると不快感が薄まったが、すぐにまた気持ち悪さが戻ってきて、うぅ、と唸 ってしまう。効き目に乏しく、胃の中も空で吐きそうで吐けない。それ以上なにも考えられなかった。
「空 きっ腹 にそんなの入れたら悪酔いするに決まってんじゃん……」
ハァ、とため息をついて、そこで立ち上がろうとした日奈子の手が目に入る。
どこ行くんだよ、と御幸は思わず腕を伸ばしてそれをつかむと、ピンヒールでバランスを崩した彼女が「きゃっ、」と声を上げてこちらに倒れ込んできた。彼女の食生活が心配になるほど軽い手応えだったが、伸ばした腕と体で難なく受け止めた。衣装のグローブは外してきたのか、真っ白で細い日奈子の手の素肌が、御幸の乾いた手に吸いつくようだった。
腕の中の日奈子から、甘くてスパイシーな香水がふわりと香る。吐きそうな状態でも、その香りだけは懐かしくて、安心できた。
「ちょっと……! 手ぇはなしてっ、」
「イヤだ」
振り解 こうとした日奈子の手を、さらに強く握る。
今度は離してやらない。ぼうっとした頭で、それだけははっきりとしている。
「俺……日奈子のこと、あきらめたくない」
行くなよ。ここまできて、今さらプライドなんてあるわけないだろ。誰に見られたって構わない。だから、御幸は前後不覚の状態でも、彼女の手を離すことはしなかった。
日奈子は御幸の目を『理解できない』といった表情で見つめ返したまま、眉をひそめて、まぶたをひくつかせている。彼女の瞳は、グレーのカラーコンタクトが擬似的な光を放っていて、見ていて飽きなかった。本当に猫の目みたいだな、とも思った。小さな扇のようにたっぷりと携えたつけまつ毛が、ふるふると震えていた。
「頭おかしいんじゃないの……」
「と、とにかくタクシー……」戸惑いながらも、御幸につかまれていない方の手で日奈子はなんとかスマホを操作すると、こちらにときどき目をやりながら、受話口を耳に当てがった。「──もしもし」
「タクシー1台お願いします。コーエービルまで…………そうです、カグラ通りを南から入って2本目を……」
また声が遠のいていく。電話している日奈子の手をもう一度強く握ると、おそるおそるといった感じで、それでもわずかに握り返された。表面は冷たいのにぬくもりが伝わってくる、相変わらず不思議だった。そばで彼女の声が響いていた。
「はい……お願いします」
そうして温かさに包まれていると、途端に眠気が襲ってきて、御幸は再び意識を手放してしまった。
《Got me looking so crazy in love.》
やがて、一つの扉が現れた。木製の、厚く重たそうな扉のそばに、店名や看板は見当たらない。代わりに隣の壁に、ショッキングピンクに発光するネオン管が掲げられていた。
『Burlesque』
筆記体の文字で、そう光っている。……どういう意味だ? 英語かどうかも、なんの店かもわかんねーな。
目の前にあるドアノブ──猫の尻尾のようななめらかな曲線を描いた、
「あーどうぞー」
中を覗くと、殺風景な廊下の先に、カウンターの向こうで中年くらいの小綺麗な男が、座ったままこちらを手招きしている。「もうオープンしてますよー」明るい口調だが、良い意味で事務的な対応にどこか安心をおぼえて、御幸は変装用のキャップを目深に被り直してから、扉をくぐって彼に近付いた。
「チャージ料いただきますー」
「……あ、ああ」
男の言葉に慌ててポケットから財布を出す。現金は十分にあるし、カードもある。御幸は財布の中の札の数を確認しながら、カウンターの椅子に腰掛ける男をさりげなく見下ろした──日奈子が
「じゃあコレ、チップね。追加あったら中のスタッフに声かけてくださーい」
そう言った男は、何やらピンク色をした
下手なことを聞けずにいたが、男はそんな御幸もお構いなしに「楽しんで〜」と、軽い調子でひらひらと手を振った。されるがまま促され、振られた手はさらに奥の分厚い扉を示していた。今度は、大掛かりの工具のようなレバーが取り付けられた防音扉だった。
耳を澄ませると、扉の向こうから音楽の低音が、ズンズンとこちらまで響き渡っている。ハンドルを握り締め、跳ね上げるように開けると、ガチャンッ、と大げさな音が鳴ったので、軽く心臓も跳ねた。扉の開いた隙間から、途端に爆音が耳から脳髄まで一気に支配して、その音圧にのけぞりそうになった。
「う、わ」慌てて中へ入って扉を閉めたが、大音量の音楽にまだ耳が追いつかない。すると、御幸の目の前を人が横切った。
「いらっしゃいませ〜!」
横切った人物は女性で、爆音の中でも聞き取れるような甲高い声を出し──御幸はその女性の恰好に、思わず目を見開いた。着ているワンピースは、胸元のざっくり開いた襟ぐりと、少し屈めば間違いなくその下着が
「あらぁ、イケメン♡」
目の前の光景に驚いて後ずさった御幸のことも気にせず、女性店員はそんな声を上げたあと「楽しんでね~♡」と、こちらに手を振ってきた。よく見ると女性は、反対の手にトレーを乗せたまま、店内を歩き回って、テーブル席に酒を提供していた。
呆気にとられたまま、顔を上げた御幸の目に次に飛び込んできたのは、堂々と設置されたステージ。店内は外観から想像していたよりもずっと広く、前方から中央を縦に貫く、高さ1メートルほどのランウェイのようなステージが置かれている。
そして、何より目を引いたのは、その上で踊る女性ダンサーたちだった。周りの客たちが、ステージに向かって歓声を上げている。いるのはほぼ男性客だが、若い女性も少なくはない。
「フゥ〜〜〜」
「ハズキちゃーん!」
「最高!」
「カワイイ〜〜!」
「サラちゃんこっちむいて〜!」
観客の視線の先で舞う彼女たちはというと、レースアップのランジェリーや、剥き出しのガーターベルトとストッキングを身に
ここは、いわゆる“ショーパブ”だ。目の前に拡がる、
「それではチップタイムです! ダンサーたちが席まで参りますので、たっぷり振る舞ってくださーい!」
やがてダンスが終わると、司会らしき男性の声でアナウンスがあった。ステージから降りた女性ダンサーが客席へ歩み寄り、いったい何が始まるのかと思いきや、客たちは先ほどの『玩具の紙幣』をダンサーの衣装の隙間や胸の谷間に突っ込み、客が口にくわえたものをダンサーが口で受け取ったりと、
「そこの
息つく暇もなく、そばでそんな猫なで声が聞こえた。御幸は特に何も考えずに声のしたほうを振り返った。そして、最初に目に飛び込んできたのは、“たわわに実った二つの果実”──
バーカウンターを挟んで向こう側、バニーガールの恰好をした女性バーテンダーが数人いて、その中の一人が気を抜いていた御幸のすぐ隣に、いつのまにか立っていた。カウンターの上へ、その深い谷間を見せつけるように“果実”を乗せ、頬杖をついている。
「まだ飲んでないなら、ナニか頼まない?」ふふっ、と営業スマイルを浮かべる女性の胸に目がいってしまったのを取り繕うように、一度カウンターに預けていた体重を慌てて持ち上げ、体ごともう一度振り返った。
人懐っこそうな笑顔に、何よりインパクトのある胸元を隠すことのないボブヘアと、グラマーな体型が特徴的な女性バーテンダーは、そのバニー姿が似合い過ぎていて、逆にイヤらしさを感じさせないような雰囲気があった。なんとなく、自分よりは年上の気がした。
「あー……なんでもいいや。オススメで」
「かしこまりました〜」
バニーガールは姿勢を正して、媚びるようなしぐさで頭に装着したウサギの耳をいじくったあと、こちらに手のひらを差し出してきた。
「チップ持ってる? 入口でもらったピンクのおカネ。それ1枚ちょうだい?」
「ああ……」
どうやらこの紙幣は、店内で金銭の代わりになるらしい。先ほどから店員たちが、“チップ”と呼んでいるのが腑に落ちて、御幸は言われたとおり女性スタッフに渡そうとした。
「じゃあ、
すると、バニーガールはそう言いながら笑って、自身の胸の谷間を指差した。「えっ」からかわれているのかとも思ってつい見ると──
先ほどのダンサーたちの振る舞いといい、この店なりの
「コレ……断ることはできねーの?」
「え〜もうっ、照れちゃって。かぁわいい〜♡」
“ノリの悪い”答えなのだろうが、女性は慣れた返しで目の前の御幸の鼻先をチョンっ、と人差し指で小突いた。……とりあえず無視して、その人差し指の手を取ると、言われたピンクの紙幣を両手でやや強引に握らせる。その瞬間、くしゃ、と紙が少しシワになってしまった。バニーガールはにこにこ笑っていた。
「アラ、紳士なのね〜。いいわよ、高いお酒でもなんでもつくってあげちゃうっ」
「“初回サービス”ね♡」そう言うと、バニーガールは「みんなにはナイショよ?」と先ほどの人差し指を唇に当ててウインクしてみせ、今しがた渡したチップを両手でくるっと手早く器用に折りたたんだかと思うと、御幸の半袖シャツの胸ポケットへ差し込んだ。
「いいの?」
「だって、その様子だと初めてでしょう?」
まあ、それはそうなんだけれども。そりゃあ“プロ”から見ればわかるよな、とこっそり苦笑いして思い出す。
いわゆる“夜の店”というのは今までに数回、チームの先輩にキャバクラなんかへ無理やり連れていかれたことはあった。『お前イケメンだから女のコ取られるし、あんま連れていきたくないけど』と言われたが、御幸の『ノリが悪い』と、ついぞ誘われなくなった。
スキャンダルがあってからは『女なんていくらでもいる』と、ありきたりな励ましを受けてまた誘われたりもした。まあ結局、先輩方には申し訳ないが、なんの気休めにもならなかったのだけれど。
「ワタシは“マヤ”っていうの。ヨロシクね〜」
「あー……お姉さん、ちょっと聞きたいんだけど」
店内で帽子を被りっぱなしというのも違和感があったし、こんな暗い店内で顔をまじまじと見る奴もいないだろう、と高を
「この店で、“日奈子”ってコ、働いてない?」
するとバニーガールのマヤは、棚に並ぶ酒瓶を手に取りながら眉を上げ、「日奈子?」と聞き返してきた。
「お兄さんのお友だち?」
「いや、友だちっていうか……」
真っ先に浮かんだ言葉──“元カレ”、だとか、ましてや“セフレでした”なんて、とてもじゃないが言えたものではない。今もっとも避けるべきなのは、変に不審者扱いされて店を追い出され、日奈子にたどり着けなくなることだ。
数種類の酒を、人差し指と中指で挟んだメジャーカップへと器用に注ぐバニーガールの手元を見つめながら、口を開いては閉じを数回繰り返していた。
「
嘘ではないギリギリの回答に、なんだそれ、と自分でも内心ツッコんでしまった。しかし、目の前のバーテンダーは「アラ、そうなの」とそれ以上追及することもなく、御幸の背後に目を向けて、舞台上を顎で示しながら言った。
「この次のステージが1部のメインで、マドンナとかビヨンセ
見知らぬバニーガールの口から、ようやく彼女の名前が出たことで、真っ先に安堵した。間違いない。彼女は
「それにしてもヒナったら、こんなハンサムな
軽くシェイカーを振るマヤが、こちらの顔を覗き込むようにしながらそんなことを言ってきた。バニーガールがその体勢になると、必然胸の谷間が目に飛び込んでくるので、たぶんわざとやってるんだな、とある意味感心しながら、「はぁ」と適当に返事をして、どこにやったらいいかわからない視線を、マヤの頭の上でひょこひょこ動いているウサギの耳に向けていた。
「でもね~、お兄さんみたいな
「きをつけて?」と再びウインクを寄越すマヤに、初めて一瞬ドキッとしてしまった。見透かすようなそのしぐさが、どこか日奈子に似ていた。「まあ、
マヤがストレーナーを三角のカクテルグラスに乗せ、シェイカーを傾けると、深いルージュの色のような液体が注がれた。そして、グラスの台座に指を乗せ、スッとカウンターの上を滑らせるようにこちらへと差し出す。
「はい、
「どーも」
御幸がカクテルを受け取った瞬間、背後の客たちが歓声を上げた。「ヒナー!」「日奈子ちゃ〜ん!」「フゥ〜〜」
「あっほら、出てきたわよ。金髪のウィッグつけてるのが日奈子」
マヤの指さした方を振り返ると、ステージ上には新たにダンサーが数人現れ、客が立ち上がって拍手を送っている。ダンサーは皆、黒いレザーでできたタイトな衣装と、同素材のニーハイブーツに網タイツを履き、警官のような帽子を被っていた。ハイカットの衣装からは、引き締まった臀部が惜しげもなく曝け出されており、客たちの視線を釘付けにしている。
その中の一人──マヤの言うように金髪のロングヘアのダンサーは、髪色はもちろん、いつもより濃い化粧のせいもあって、一目では日奈子だとわからなかった。先ほどまでのダンサーや、隣にいるバニーガールである程度見慣れたと思ったが、やはりこういう場所でしか見ることのない露出の高いコスチュームに、口から出る感想はシンプルな一言でしかない。「……スゲー衣装」「マドンナのイメージなのよ。
「お兄さんはどっちが好き? バニーとボンデージ。それとも清楚系が好み? セーラー風とか」
相変わらずこちらを覗き込むようにしているマヤを横目に、御幸は手の中のグラスのカクテルを一口含んだ。甘酸っぱくて飲みやすい。チェリーリキュールの味がする。「おいしい?」「うん」
「お姉さんにはたぶん、バニーちゃんが一番似合うと思う」
「ホント? うれしいな~」
その場しのぎやお世辞でなく、第一印象で御幸は伝えた。マヤが照れたようなしぐさで小さく跳ねると、衣装から
「チップは返金できないから、どうせならしっかり女のコたちに渡してあげてね。
流れてくる歌に合わせ、口パクで踊るダンサーたちを見ていると、そう言われた。あれだけ露出の高い衣装を着るには、体型をキープするだけでも一苦労だろう。御幸は何もわからないなりに、厳しい世界なのだろうなと、マヤの発言で察した。それから、やはり自分よりは年上なのかもしれないなと思った。
「あ、女のコが指定してないトコロに触ったらアウトだからね。コワ~イ人たちに連れ出されちゃうわよ~」
「ははっ。いろいろ教えてくれてありがとう、お姉さん」
「いいのよう。いつでも会いに来て?」
グラスを片手にバーカウンターを離れると、マヤは「楽しんでってね〜♡」とこちらに手を振ったあと、反対の手で投げキッスをした。さっきからこの店の店員に、同じような声をかけられていることに気付く。確かに
店内の後方で一人壁によりかかり、ステージ上で踊る日奈子を見つめる。胸や尻を強調するようにカラダをくねらせ、脚を大きく開いては激しく腰を振り、セックスアピールである長い髪を振り乱す。なかなか刺激の強い光景だが、途中ポールダンスで前後左右に開脚をしたり、倒立したり、身体能力の高いポーズで踊る様は、ショーとしての見応えもあった。
「日奈子ちゃーん!」「ヒナちゃん最高~!」と時折上がる客たちの声からも、彼女の人気の高さがうかがえた。
そういえば、彼女はなぜ、この店を教えたがらなかったのだろう。不思議に思ったと同時に、それに、と御幸は彼女の過激な衣装から曝け出された素肌を見て思い返す。
皆に見せつけるようにしているあの肌にも直接、何度も
そんなことを考えながら、
「これにて1部のステージを終わります。引き続きダンサーが席を回りますので、お気に入りの女のコにチップをお願いしまーす!」
ショーが終わっても、ダンサブルな音楽は鳴り止まない。先ほどと同じように男声のアナウンスが流れると、ダンサーたちはステージから客席へと降りてきた。
その中にいた日奈子も、やはり客から笑顔でチップを受け取っている。「ありがとうございま〜す」という張り上げた声だけは、この距離でも聞こえてきた。彼女のそんな声を聞くのは初めてで、見た目も相まってちょっと別人のようにも感じた。
だんだんと日奈子がこちらに近付いてくる。御幸の酔いも回ってきた。こちらから声をかけるべきかと迷っていると、彼女は挨拶を切り上げて、バーカウンターへと足を運んでいた。よく見ると、先ほどのマヤに話しかけている。
今がチャンスだと判断し、御幸は一つ息を吐くと、そこへ歩み寄った。カウンターに両腕を乗せた日奈子は、身を乗り出すようにしてバニーガールたちに目をやっていた。
「マヤ
「アナタ今日、2部も出番あるでしょう? お酒はダメよ」
「一杯くらいいいじゃーん」
「ダーメ。
「ケチ~」
「そういえばさっき、日奈子のこと捜してる男の人が来てたけど。ずいぶんとハンサムだったわ」
「はぁ? 男? あたし、
「どーぞ」空になったグラスをカウンターに置き、御幸はポケットにしまっていた玩具の紙幣を引っ張り出すと、全て日奈子に渡そうとした。
御幸の声に振り向き、差し出されたチップに気付いた日奈子はそこでパッ、と表情を変えた。“営業モード”とでも言うのだろうか、媚びるように両手を大げさに顔の前で動かすのは、あまり見たことのないしぐさだった。
「わぁ〜こんなにいいんですか? ありがとうございま、」
そうして日奈子が顔を上げ、御幸と目が合った瞬間、彼女の動きがカチン、と固まった。以前、昼間に偶然二年ぶりの再会を果たしたときともまた違う驚き方で、口を開けたまま徐々に目を見開いていく彼女の姿がちょっぴり面白くて、御幸は吹き出しそうになった。
開いた口が塞がらない、といった様子の日奈子は、絞り出すような声で御幸のことを呼んだ。「キ、ミ……」
すると突然、チップを差し出した腕を、レザーのグローブをはめた日奈子の手にガシッと引っつかまれたかと思うと、彼女は早足でどこかへ向かって歩きだした。
「えっ、ちょ、ヒナ、」
「いいから黙ってついてきて!」
なすすべなく連れられると、背後から「ちょっとヒナ? どこ行くのよ、飲み物いらないの?」というマヤの声が聞こえた。次に、「顔伏せて!」と日奈子の被っていた帽子を無理やり被らされ、頭を押さえつけられる。当然だがサイズが合わないので、ほとんど頭の上に乗っかっているだけの状態だった。
そのとき、「あれ~?」と近くで声を上げたのは、先ほどまで日奈子と一緒に踊っていたダンサーの一人──顔を伏せているせいで足元しか見えなかったが、彼女と揃いの衣装を着ていたのですぐにわかった。
「ヒナちゃんその人どーしたの? 知り合い?」
「な、なんか、タチの悪い酔っぱらい!」
「そんなんボーイに任しときゃいいのに〜」
すれ違いざまそんな会話を交わすが、日奈子が足を止めることはなく、そのまま店のバックヤードらしき扉を開けて入るように促された。
しばらく歩き続けてたどり着いた場所は、店の倉庫かストックのような狭い部屋で、棚には業務用の大きな酒のボトルが並んでいる。店の喧騒からは少し離れ、そこでようやく足を止めた日奈子は、勢いよく振り返ると、御幸を思いきり睨みつけた。
「信じらんない! 店突き止めてまで追っかけてくるなんて!」
「ストーカーかよ!」と、顔を引きつらせる彼女にすこし気圧されながらも、頭に乗っかっていた帽子を取ると、肩の力が抜けた。
「まさか後つけてきたの!?」
「いや……たまたまっていうか、なんていうか……」
「はぁ!? 子どもでももう少しまともな言い訳するでしょ!」
言い訳というか、どこから言うべきかと考えているうちに、説明が面倒くさくなってしまった。
日奈子は両手で頭を抱えては
「つーかヒナだって、最初っから教えてくれてりゃさあ」
「キミを
手の中の帽子を奪い取られ、「あ」と声が出るが、日奈子は「マジありえない……!」と続けた。
「だいたいキミ、プロ野球選手でしょ!? 下衆なマスコミとかにすっぱ抜かれたらどーすんの!? イマドキ一般人でもネットで拡散したらあっというまなんだから!」
「
「アレの発端は、俺じゃなくて
「そりゃあんだけテレビやネットで流れてりゃね」
帽子のせいで乱れた髪を直しながら、肩をすくめてみせると、彼女の胸の谷間に当然のように挟まったチップが目に入った。あらためて近くで見ると、
「キミの好感度一つでお金の動きが変わるわけじゃん、プロなんだからもうちょっと危機感持っ、て──」
そこで言葉を区切った日奈子に気付いて彼女の顔を見ると、先ほどまでの怒っていた様子とは違い、呆れたような目つきでこちらを見上げていた。
「……キミ、相変わらずむっつりだね」
「えぁっ?」と間の抜けた声が漏れてしまった。こちらの目線に気付いた日奈子は、すっかり勢いをなくしてはそっぽを向いていて、御幸は開き直るしかなかった。
「そ、そりゃそんなキワドイ服着てたらね……」
「別に、見せるために着てる服だからいいけど」
「そのチップ、くれるの?」金髪のロングヘアを腕に絡め、いつものように爪先でほぐす彼女の視線は、チップを握ったままの御幸の手に注がれていた。
「えっ」
「フフッ、どーぞ? お客サマ。どこでもお好きなところに、たぁっぷり
不敵な笑みを浮かべ、急に芝居がかった口調になったかと思うと、日奈子はその肢体を、御幸の体に押し付けるように迫ってきた。
「どこでも、って……」よく見ると胸の谷間以外にも、“ブラ紐”と呼ばれる肩の部分や、衣装の腰骨・尻のあたり、それからブーツの隙間にも、ピンク色の紙がチラチラと覗いている。わざと胸を押し当てるようにされて、このまま押し倒されるのではないかと焦っていると、さらに強請られた。「はやくぅ」
「それとも“口渡し”がイイの?」
「……結構デス」
目のやり場がないなと断ってから、チップは日奈子が持っていた衣装の帽子の中へ突っ込んだ。それを見て、彼女はようやく御幸から体を離す。自分も酔っているからか、なんだか頭がくらくらした。「つまんない男ね〜」
「ベッドの上であんなコトやこんなコトもシたのにぃ〜」
「……それとこれとは別だろ」
「キミはヘンな性癖なさそうだったけど、今度試しにこの
「案外目ざめちゃったりして〜」と、日奈子がニヤニヤしながら指先で顎を撫でてきた。合皮の嫌につるっとした感触にぞわぞわとカラダが震えて、顔が熱くなったのをアルコールのせいにした。
「……っ、なんで今日そんな機嫌いいんだよ」
「ふふ」
苦い顔で歯向かってやると、妙なテンションで笑う日奈子を前に、
「まあ……踊ってるヒナはなんつーか、カッコよかったよ」
「ホントっ?」
ありきたりなことしか言えなかったが、それを聞いた日奈子は嬉しそうにした。セクシーな衣装を着ていても、まるで子どもみたいに喜ぶ様子は、素直で可愛らしかった。
「うん。ああいうの初めて観たから、よくわかんないけど」
「けど楽しいでしょ? ヒナも初めて観たとき感動してこの店のダンサーになって、それで……」
そこで、饒舌になってしまったことにハッとして、日奈子は恥ずかしそうにうつむいた。そこまで彼女が夢中になるほど、この仕事を好きでいることには違いないからこそ、余計に不思議に思えて、御幸はその疑問をぶつけた。
「なんでこの店で働いてること、隠してたんだよ?」
「だって……」
今さら偏見も何もない、というのは前から思っていたことだが、驚いたのは事実だった。たった一晩で、刺激の強いものを浴び過ぎたというのもありそうだ。
「まあ……知りたくなかった気もするんだけど」
そう言うと、日奈子はまた
「ヒナが今すぐタクシー呼ぶから。それで帰って。いい?」
御幸と目を合わせないようにしているのか、体のいろんな箇所に挟まったチップを抜き取っては帽子の中へ追加しながら、さっきまで機嫌の良かったはずの日奈子が冷たく言い放った。
「な、なんだよ、そんなに怒らなくたっていいだろ。俺は普通に客として、」
「言ったはずでしょ、キミが来るような店じゃないって」
「野球選手とかは関係ねーだろとも言ったぞ」
「店に迷惑がかかるなら大アリでしょ」
せっかく日奈子にたどり着いたというのに、また離れていってしまう。俺はただ、彼女に
「いざとなったら、ボーイに出禁にしてもらうことだってできるんだからね」その言葉に御幸が一瞬うろたえたのをいいことに、日奈子は振り返って部屋を出ていこうとした。
「そうなりたくなかったら、今日はもうあきらめて」
「待てよ、ヒナ……っ、」
御幸が日奈子へと腕を伸ばした、次の瞬間だった。
ぐわん、と視界が歪んで、頭が揺れた。う、と再び吐き気が催してくる。きもちわるい。足元までふらふらと覚束ない。倒れる、その前にそばの壁にもたれて、御幸はそのまま床にへたり込んだ。カツ、カツ、と彼女のヒールの音が自分から遠ざかっていく。あの日別れた、12月の朝が思い出される。
ああ、情けない。本当に。こんなところまで来て、追いすがって、また手が届かなかった。
胃の中がぐるぐるしている。あたまがいたい。いま、何時だろ、うっ──あした、なんだっけ。
遠くのほうで声がする。
「ねぇ、キミ……しっかりしてよ、大丈夫?」
かすかな意識のなかで、ぼんやりと聞こえてくる。
「キミ……ねぇったら、」
「一也!」
ハッ、と他人にめったに呼ばれない名前を呼ばれ、御幸はなんとか意識を捕まえた。
「大丈夫?」目の前には、しゃがんでこちらを心配そうに覗き込む日奈子がいた。先ほどの衣装の上からアウターを羽織っていて、チップの詰まった帽子はどこかへ置いてきたのか、手にはペットボトルとスマホが握られている。
彼女はこちらの視線で何かを感じとったらしく、御幸の頬を片手で包むようにして、「控室行ってきただけだよ」と優しい声で言った。日奈子の手はひんやりと冷たいのに、同時に温かくて、心地よかった。が、すぐにまた吐き気がした。
「ん゛ん……きもちわる……」
「ちょっと待ってよ、まさかとは思うけど
めずらしく気を揉んでいる様子の日奈子は、持っていた未開封のミネラルウォーターのフタをパキ、と開けると、御幸の手を取って持たせながら、続けて聞いてきた。
「一回も飲み物から目ぇ離さなかった? スタッフから
「うん……」
「この店にそんな奴いないと思いたいけど……キミ、なに飲んだの?」
「わかんねぇ……なんか赤いやつ……」
受け取った水に口を付けようとしたら、御幸の言葉を聞いた日奈子は、隣で再び頭を抱えていた。
「
「わかんない……」
常温の水が喉を通ると不快感が薄まったが、すぐにまた気持ち悪さが戻ってきて、うぅ、と
「
ハァ、とため息をついて、そこで立ち上がろうとした日奈子の手が目に入る。
どこ行くんだよ、と御幸は思わず腕を伸ばしてそれをつかむと、ピンヒールでバランスを崩した彼女が「きゃっ、」と声を上げてこちらに倒れ込んできた。彼女の食生活が心配になるほど軽い手応えだったが、伸ばした腕と体で難なく受け止めた。衣装のグローブは外してきたのか、真っ白で細い日奈子の手の素肌が、御幸の乾いた手に吸いつくようだった。
腕の中の日奈子から、甘くてスパイシーな香水がふわりと香る。吐きそうな状態でも、その香りだけは懐かしくて、安心できた。
「ちょっと……! 手ぇはなしてっ、」
「イヤだ」
振り
今度は離してやらない。ぼうっとした頭で、それだけははっきりとしている。
「俺……日奈子のこと、あきらめたくない」
行くなよ。ここまできて、今さらプライドなんてあるわけないだろ。誰に見られたって構わない。だから、御幸は前後不覚の状態でも、彼女の手を離すことはしなかった。
日奈子は御幸の目を『理解できない』といった表情で見つめ返したまま、眉をひそめて、まぶたをひくつかせている。彼女の瞳は、グレーのカラーコンタクトが擬似的な光を放っていて、見ていて飽きなかった。本当に猫の目みたいだな、とも思った。小さな扇のようにたっぷりと携えたつけまつ毛が、ふるふると震えていた。
「頭おかしいんじゃないの……」
「と、とにかくタクシー……」戸惑いながらも、御幸につかまれていない方の手で日奈子はなんとかスマホを操作すると、こちらにときどき目をやりながら、受話口を耳に当てがった。「──もしもし」
「タクシー1台お願いします。コーエービルまで…………そうです、カグラ通りを南から入って2本目を……」
また声が遠のいていく。電話している日奈子の手をもう一度強く握ると、おそるおそるといった感じで、それでもわずかに握り返された。表面は冷たいのにぬくもりが伝わってくる、相変わらず不思議だった。そばで彼女の声が響いていた。
「はい……お願いします」
そうして温かさに包まれていると、途端に眠気が襲ってきて、御幸は再び意識を手放してしまった。
《Got me looking so crazy in love.》
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