ラビット・ホール
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「向井」
球団の練習を終え、選手たちがロッカールームで着替え始めたところで、御幸は彼に声をかけた。個人のロッカーが壁際にずらりと備え付けられた部屋の中で振り返った彼は、つん、と顎 を突き出すようなしぐさで、軽く御幸のほうを見上げてくる。その表情はどこか不満げで、それを目にした御幸は、やれやれと肩を落とした。
「何か気に入らないならそう言えって。いい加減擦 り合わせねーと、俺らが組むことも今後増えるんだからな」
「……別に気に入らないってわけじゃないですよ」
彼──向 井 太 陽 は、甲子園常連校である帝東高校出身だ。同じ都内の高校なので、学生のときにも何度か対戦したことがあった。高卒でドラフト指名を受けた御幸よりも数年遅く同球団にやってきた彼だが、ここ一年ほどで勝利数もグッと増えた若手の有望株だ。
当然、スタメンマスクを被ることの多い御幸と組むことにもなるのだが、日々共にトレーニングをこなしていても、やはり一筋縄ではいかない。
「ただ、俺はあんたの“後輩クン”たちみたいに素直 じゃないんで。いざとなったら遠慮なく首振るってだけ」
「あのなあ、ボール球振らせるだけが勝ち方じゃねーの。乾とやってたときはどうか知らねーけど、お前もうプロだろ」
しかし、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせる向井は、御幸が一つ年上だとか気にせず、ときに調子の良いことを言ってくる。
「御幸さんならどんな球も捕れるから、信頼して言ってるんじゃないスか」
「おだてたって無駄だぞ」
なので、めげずに腕組みしてみせ、呆れ顔でサングラス越しにじろりと彼をたしなめると、向井はチッ、と漏らして御幸を睨 み返した。“後輩クン”ってのはアレか、沢村とか降谷のことか。ってか先輩相手に舌打ちってのはどうなんだ。
この生意気でわがままで横暴な態度、幼なじみの成宮にも通ずるものが少なからずあるが、向井は加えてマイペースな傾向が強いので厄介だ。これだから投手という生き物は。
とはいえ、彼が譲りたくないという、その投球 スタイル・左のサイドスローから放たれる、三次元的に捉 えられるほどの制球力 ・名門校で叩き上げられた体力 ・勝負所で動じない精神力 ・確かな技術 による変化球──特に磨きのかかった、“エグい”くらいに沈む決め球のスクリューなんかは、彼の代名詞にもなっていて、実際捕る側から見ても惚れ惚れするほどだ。
向井はピッチャーとして、間違いなく一流だ。互いにバッテリーとしての相性が悪くないと感じているのもわかる。ただ、もうちょっと俺のリードも理解してくれるとありがたいんだけど……。
「まあ、俺の“後輩クン”たちには、お前ほど高い要求できなかったしなあ……ここまで言い返してこられんのも、ある意味新鮮っつーか」
「なにそれ、馬鹿にしてる?」
「なんだよバッテリー、ケンカかー?」
のし、と向井の背後から近付いてきては、彼と肩を組むようにして絡んできた男に対し、御幸は再び呆れてため息をついた。向井も眉をひそめている。
「ちょっとカルさん……パンイチはやめて。せめて何か着てきてくださいよ」
「鳴に手ぇ焼いてた頃思い出すぜ〜なあ? 御幸」
「お前なんでいつもハダカなの?」
「成宮さん と一緒にすんなよな……あーもう、くっつかないでください! あんたの香水甘ったるくてむせるんだよ」
ぐいーっ、と向井が彼の体を手で押しのけるようにすると、「つれねーなあ」とニヤニヤしているだけだった。
神 谷 カルロス俊 樹 もまた、御幸とほぼ同じタイミングで同球団へ入団した。都内のシニア時代から互いの存在は知っていたが、高校で成宮含め、ライバル校の稲実と切磋琢磨した──と思いきや、まさか彼とプロで同じチームになるとは。御幸と同じ年にドラフト入りした成宮も『なんで一也とカルロが同じチームなの!? しかも俺とリーグちがうし! オールスターでも組めないし!』とギャーギャー嘆いていた頃がもう懐かしい。
持ち前の俊足と外野の守備範囲は高校時代と変わらず、むしろより洗練された動きを発揮し、最近はスタメンを譲ることがない。割に、人付き合いがうまいのも相変わらずだ。あと脱ぎ癖も。
「もうちょい仲良くしろよ〜、先輩ら気ぃ遣ってんだろ?」
「俺だって仕事はちゃんとしますよ。ただ、必要以上にベタベタすることはないでしょ」
さっきからチラチラとこちらの様子をうかがっていた周りの選手たちを──ほとんどが年上にあたるため、彼の言うとおり先輩だ──向井は気にすることもなく、カルロスのロッカーに掛かっていたジャージのパンツを、その剥き出しのエキゾチックな素肌にえいっ、と投げつけた。
「いーや、御幸はこう見えて、面倒見るのも嫌いじゃないタイプなんだと。後輩の面倒見も、そりゃあ良かったってよ」
「カルさんのそういう情報って、どっから仕入れてくんの?」
「この件に関しちゃ、雅 さん。『御幸の奴、よくこ ん な 男 の相手してたな……』っつって。ヤ ツ とバッテリー組むの、相当手こずってると見たね」
「はっは、あの人、俺のことあんま好きじゃないと思ってたけど」
御幸は苦笑いしながら、自分のロッカーに背を向け、座面に腰を下ろした。トレーニングシューズを履き替えようと、バッグの中の靴袋へ手を伸ばす。
「まあ、鳴の女房役 ができてた人だから大丈夫でしょ。俺も始めはとっつきにくかったけど、降谷 なんだかんだ素直だし」
「ほらな? おまえら一回、メシでも行ってきたら」
「サシでメシ行って会話続くほど、この人趣味持ってないよ」
「ずいぶん言いたい放題だな……」
パンツにその長い脚を通しながら適当に提案するカルロスに対し、向井は躊 躇 なく御幸のことを親指で指して言った。呆れる御幸が座面に片方の踵 を乗せ、膝を抱えるように靴紐を丁寧に緩めているあいだも、二人の口が止まることはない。
「俺だって全くそういう話をしないってわけじゃないスよ。でも、ゲームもダメ・車もダメ・アイドルにも興味なし、ってさすがにお手上げでしょ」
向井が一本一本指を立ててからその手をひらひらさせて肩をすくめると、カルロスまで顎に手を添えて何やら考えだした。気付けば同時に二人の相手をしながら、御幸は視線を足元にやったまま答えた。
「野球以外のスポーツは?」
「サッカーすらいまいちルール把握してねーからなあ……つーかお前、上も着ろよ」
「あんたオフの日なにしてんの?」
「メシ作るか、掃除するか……あ、洗濯もか」
「そりゃ趣味じゃなくて家事だな」
「だから言ったじゃん、カルさんみたいにウイイレの相手もできないんスよきっと」
「もうさー、御幸さんの事欠かない話題なんて、“ゴシップ”くらいしかないんじゃないの?」
向井がそう言うと、途端にロッカールームは不自然なほどシン、と静まった。別に全員が全員聞き耳を立てていたというわけでもないはずだが、何やら気まずい空気が流れている。いつも飄々としているカルロスですら、言葉を詰まらせて向井に苦言を呈していた。
「あー……太陽。そいつはちょっと」
「なんです、みんなして腫れ物に触るみたいな反応しちゃって。とっくに周知の事実でしょ」
「御幸さんが『付き合ってた女子アナに、浮気された挙句捨てられた』ってことくらい」
「コラ、太陽!」「もうちょいオブラートに包め!」といったような先輩たちの声にも、彼は何食わぬ顔で舌をんべ、と出していた。「おぉー向こう見ずな新人怖 ぇー」と、いつのまにかアンダーシャツを着たカルロスが肩を揺らす。
「御幸さんの二軍落ちと俺の一軍昇格、ほぼ入れ替わりだったからね。直接その話はしたことなかったな」
「御幸ぃ、ここまで好き勝手言わせていいのか?」
見上げると、さすがのカルロスも眉を寄せて心配してくれているようだが、御幸は苦笑いして肩をすくめるくらいしかすることがなかった。
「まあ、事実だし」
「一時期ワイドショーでずーっとやってたよね。相手の女 もネットでボロクソ叩かれてたし」
「清純派のイメージで通ってたから、その反動だろ。太陽が一軍 来てからってことは、もう二年くらい経つか?」
「表沙汰になったのは、そのあと半年くらい経ってからだけど、」
脱いだシューズをバッグにしまい、ポケットに入れていたスマホを取り出して、画面に目線を落としたまま、御幸は二人の会話を遮った。
「俺の中では終 わ っ た こ と だよ。あれから連絡もとってないから、あの女 がいま何してるかも知らないし、どうでもいい」
思っていたより冷たい声が出て、御幸自身少し驚いた。別に、相手に対して怒りはない。本当にもう、『どうでもいい』のだ。仮にいま偶然会ったとしても、なんの感情も湧かない気がする。
しばしの沈黙があったので、御幸がつい見上げると、向井とカルロスは立ったまま互いの目を合わせて、肩をすくめていた。ああそう、まあ、本人がそう言うなら、とでも言いたげで、ちょっぴり笑えた。
「そんなことよりさ、“ショートメール”ってどーやんの?」
「はあ? あんたホントにスマホ苦手だよな……」
「そうなの?」
「そうなの。ラインの“友だち登録”も、いつまでたっても覚えねーし……毎回教える身にもなってくださいよ」
「そーやって、何となーくほっとけねぇところが、母性をくすぐるのかね」
「へぇー、御幸さん意外とあざと〜」
「ホントにわかんねーから聞いてんの。ふざけてないで早く教えろって」
ニヤけ顔の向井をもう一度たしなめると、彼は御幸の隣の空いたロッカー──選手はすでに帰ったらしい──に腰かけて、こちらの手元を覗き込んだ。カルロスもその上から覆いかぶさるようにして、ロッカーの仕切りに腕をかけ、反対の手を腰に当てて見下ろしてくる。
「“メッセージ”の、右上のとこ押して」
「ココ?」
「うん。で、“宛先”の+ 押して、電話番号選ぶの」
「長文送れねーからな」
「いや、そんな長い文章送ることねぇと思う」
「俺と御幸さんのライン、見ます? マジで業務連絡だから」
「逆になに送ることがあるんだよ?」
「んなこと言ってよー、構ってほしい後輩の気持ちも汲 んでやれよ〜みゆきサ〜ン」
「やーめーろよカルさん、そんなんじゃないっての!」
「ははっ。まあ、とりあえずありがと」
カルロスが腰に当てていた手を使って、親指とそれ以外の指で向井の柔らかそうな頬をむに、と挟むようにすると、彼は文句を言いながらすこし顔を赤くしていた。楽しそうに笑うカルロスも、彼は彼で向井の扱いに慣れている。チームメイトだった鳴に似てるからかもな、なんて思って御幸まで笑ってしまった。
御幸が向井に教えてもらったとおりにすると、スマホの画面に連絡先が一覧になって表示される。軽くスクロールして、先日登録したばかりの連絡先──“日奈子”が出てきたところで指を止めた。なに送ることがある──そうだ、何を送ればいい──ハァ、とついため息と共につぶやいていた。
「あのさあ……ヨ リ 戻 す のって、アリだと思う?」
数秒、なんの反応もなくて、ふと顔を画面に向けたまま上目遣いで彼らを見ると、二人してこちらを見つめては固まっている。御幸は「ん?」と一瞬眉を上げたあと、すぐにハッとして、慌てて首を横に振った。
「ばっ……ちげーよ、あの女 じゃないって」
「だよね、ビックリした。『どうでもいい』って言った矢先に」
「あの女子アナって、あのあと離婚したんじゃねーんだ?」
「してないはずだけど」
たぶんね、とやはりどうでもいい御幸の表情を見て、二人は一言二言交わすと、もうそれ以上は聞いてこなかった。「旦那は浮気を許したってこと?」「ふーん」
「俺はナシですね。終わったもんはもう終わったんだし。もう一回付き合ったところでうまくいくわけねーもん」
なるほど、正論だ。迷いなくそう言った向井の言葉に、御幸がゆっくりうなずくと、カルロスが反論した。
「そうか? ナシって決めつけるのはナシだけどなー。久しぶりに会ったりすると、お互い良く見えたりすることはあるんじゃねーの。別れた理由にもよるけどな」
うーん、流石。先日の御幸と日奈子のやりとりを知っているかのような彼の台詞に、御幸は声を出さず苦笑いしてしまった。
それからの会話は、周りの選手たちに聞こえては面倒だと察してくれたのか、二人は先ほどより少し声を潜めては面白そうにしていた。
「御幸さんが自分から狙う女 とかいるんですね。あんなことがあって」
「過去の恋愛の傷が癒えたのは、いいことなんじゃねーの?」
「傷、ってほどでもないけどさあ」
「でも実際、女見る目なかったわけだからなーあんた。その相手も大丈夫かどうか」
「……ただし躊躇 いゼロで傷口抉 ってくれるな、おまえは」
「脈はあるのかよ?」
「どうだろ。モテる女 だから」
「……すげぇ。御幸さんが言うと妙に説得力ある」
「こらこら。それこそ馬鹿にしてるだろ」
「興味はあるよ? あんたの私生活よりよっぽどね」
「まあ、球団 が騒がねー程度にな」
「あと、本気なら最後まで手は出すなよー」
「おまえじゃあるまいし」
「なんだよ、人を手が早 ぇーみたいに」
「速いのはその足だけにしてくださいね」
「上手いこと言いやがって〜」
「褒められたと思ってます?」
じゃれ合う二人を横目に、御幸は一度スマホをポケットにしまって、先ほど引っかかったカルロスの言葉を思い返していた。『別れた理由』ねぇ……。
わかっていたら、こんなに悩むこともない。……いや、わからない時点で俺の問題なんだろうな。
理由は言葉にできずとも、別れた日のことはよく覚えている。12月の早朝だった。間違いない。
そ の 日 の朝も、日奈子は知らぬうちに先に起きていて、もうすでに昨夜 と同じ服を着ていた。
待ち合わせ場所のカフェバーから、歩いてすぐのホテル街の中で、最もグレードの高いそのシティホテル──部屋のタイプによっては大抵空室があったため、決まって日奈子を連れていた。
部屋のデスクに備え付けられた、大きな鏡の前に腰掛ける彼女はきっと、目覚めた御幸の気配に気付いていた。
「……おはよう」
シングルベッドの中でゆっくりと起き上がりながら、御幸が眼鏡をかけ、ホテルのバスローブを羽織りつつ声をかけると、化粧を直す日奈子は、鏡の中の自身の顔に目を向けたまま、「おはよ」と短く応えた。
この日は確かツインの部屋しか空いていなくて、『ヤるにはベッドが狭い』と、いつもダブルの部屋を所望する彼女が文句を言っていた気がする。
御幸はそうやって起き抜けに、日奈子が化粧している姿を、ベッドの中から眺めている時間が好きだった。いつもは着飾っている彼女と、一夜を共に過ごし、自分のせいで寝乱れてしまったのをいそいそと直す、その女性的なしぐさに見惚れる。そうは言っても、それが終わればまた、別れの時間がやってくることが切なく──ただ、その切なさすらも愛おしかった。何度躰を重ねても、不思議と手の届かない存在の彼女に、そ の ま ま でいてほしいとすら──
ところがその日は、彼女からの思いがけない言葉で、途端に目が覚めた。「ああ、そうそう」
「ヒナ、しばらくキミとは会わないから」
えっ、と御幸は固まった。言葉の内容とはそぐわず、まるで軽い様子で、“そういえば今日は雨が降るらしいよ”と、世間話でもするみたいに、日奈子は言った。
「今月の末は、ウチの店もクリスマスイベントあるし、キミも年明けたら“キャンプ”とかなんでしょ?」
それはそのとおりだが。そう、クリスマス──それこそ、記念日だとかそういったイベント事を忘れがちな自分が、頻繁に会ってくれない日奈子の気を引く口実にしようと──クリスマスの彼女の予定は、プレゼントは贈るとしたら何がいいだろうか、なんて、少し前から考えていたくらいだった。
「忙しいから、連絡もしてこないで」
「急になんだよそれ……」
気付けばすっかり頭も冴えて、ベッドの端に腰掛けていた。そんな御幸の体勢よりも、彼女が気になるのは、ビューラーでまぶたを挟まないようにまつ毛の角度を上げることだった。それから、化粧道具をマスカラに持ち替える。
「別れるってこと?」
「別れるも何も」
日奈子はマスカラを塗るときのすこし開いた口で、いつものように皮肉っぽく笑った。
ただ、御幸もわかっていた──彼女のそのあとに続くであろう言葉に、ショックを受けるまでもないくらいには──わかっていた。彼女には他にいくらでも男がいること。“付き合っている”と思っていたのは、自分だけだなんてこと。
「……なら、今からでもいいよ」
御幸はベッドから立ち上がって、日奈子の背後からゆっくり歩み寄りながら言った。鏡越しに目が合った。
さっきまでの自分が惨めに思えるほどに。言われてから気付いた。『そ の ま ま でいてほしい』なんて、綺麗事だった。
「今からでも、付き合ってよ」
本当は、彼女が欲しくてたまらないくせに。だから未練たらしく、そう口にしていた。
日奈子の後ろで立ち尽くすようにしていると、整えられたまつ毛越しに、彼女の猫のような瞳が睨んでくるようだった。描き上がったばかりの眉がひそめられた。
「だからそ う じゃないんだってば……」
ハァ、と日奈子が大きくため息を吐いたあと、舌打ちが聞こえた。その反応一つで、心臓がぎりりと締め付けられるくらいには──情けないことだが──彼女の言動に怖 気 付 いていた。日奈子は鏡越しにこちらを見続けながら、呆れて言った。
「この際だからハッキリ言うけど、あたしはキミのこと、そ ん な ふ う に思ったことないの」
「セックスに誘ったのは、女にフられたキミが哀れで、慰めてあげようと思ったから。そのあとセフでいてあげたのも、カラダの相性が良かったから。そ れ だ け なの」
開き直るように言うと、日奈子は椅子の背もたれに肘をかけて、背後にいた御幸のことを直接見上げた。彼女はまた、“品のないフリ”をしている。こちらを突き放そうとしている。
「ほら、こんな薄情な女といても、キミが傷付くだけでしょう?」
「いい機会だよ」その言葉で御幸は、彼女は最 初 か ら そのつもりだったのかもしれない、とも気付いた。彼女にとっては、今日このタイミングだったのだ。日奈子はどこか諦めたような、憐れむような目で、御幸の言葉を奪うようにして言ってみせた。
「今からでも、やめといたほうがいい」
そのあと付け足すように、「キミにはもっと、ふさわしい女 がいるよ」と言った台詞は、聞こえても頭に入ってこなかった。立ち上がって、鏡にグッと顔を近付ける日奈子の後ろ姿に、言葉を投げつけたくなった──そんなの説得力ないだろ。誰から見て『ふさわしい』とか言うんだよ。だって、
だって、俺にとっては、日奈子が一番なのに。俺には日奈子しか見えてないのに。
そんな御幸の心情なんて知ったことではない彼女は、最後の仕上げとばかりにリップを重ね付けて、ンま、と唇の上下を練り合わせた。熟れた果実のようなそれを、何度貪 ったことか、思い出して自分の唇を舌先で舐めた。
「じゃあね。こんな尻軽 はとっとと忘れな?」
自身に対してそう評しては、また皮肉っぽく笑ってみせて、日奈子はさっさと化粧道具をクラッチバッグに詰め込むと、振り向きもせず部屋のドアへと歩いていく。ノブに手をかけ、扉を開けた。止める間もなかった。
去り際、閉まるドアの向こうへと姿を消す寸前に見えた──軽やかに振った片手、ちらつく細い指先──今朝も化粧はバッチリだ。朝帰りも感じさせないほどに。
「バイバイ」
そうして、最後に会った日から──彼女に『し ば ら く 会わない』と言われてから、連絡は一度もなく、二年近く経ったのだ。
……で、懲りずに今日も来ちまったわけだけど。
向井曰く『趣味を持ってない』自分は、練習が早く終わった今日も、帰宅したらどうせカルロスの言うように『家事』しかすることがない。
練習を終えて先ほどのロッカールームで着替えを終えたあと、例のカフェバー近くの繁華街までやってきた。変装と言うほどでもないが、いつもの眼鏡にキャップを被っていれば、よっぽどのファンでない限り気付かれることもない。
腕時計で時間を確認する。前回、日奈子に会った時間から、1時間ほど過ぎている。このあたりは“夜の店”が多いので、夕方の時間帯では開店したばかりのところがほとんどなのか、人通りもまだそこまで多くない。
道の端で立ち止まると、御幸は先ほど教えてもらったとおりアプリを起動して、宛先に“日奈子”を選んだままの画面から、本文を入力した。
『今から、あの店で会えたりしない?』
上矢印のアイコンをタップすると、背景がグリーンのメッセージが送信された。彼女の携帯電話に御幸の番号は登録されていないはずだが、あえて名前は入れなかった。この時間帯に、『あの店』とあれば、気付いてくれるのではないか──そんな淡い期待を寄せていた。
すると、なんと1分も経たないうちに、画面の左下からメッセージが流れた。おっ、とやや身を乗り出してスクリーンを見つめる。
『ざんねん
今から出勤』
思ったとおりだ。この時間なら返事があるのではと、狙って送った甲斐があった。すかさず御幸はメッセージを返した。
『仕事終わったあとでもいいよ』
『前と同じホテル?』
ああ、と御幸は短くため息を吐いた。それでは駄目なのだ。その流れでは、二年前と同じになってしまう。あまり安売りしないでくれよ。
御幸は画面上部の宛先をタップすると、意を決してその番号にコールした。ワンコールで出た彼女の声は、少し気 怠 げだった。ただ、その声が聴けただけでも嬉しいなんていうのは、さすがに自分でも重症だと思った。
『──なあに?』
「あのなあ、俺は“そういうこと”がしたいわけじゃねーの」
半ば説教するような気持ちで、御幸は日奈子に言った。彼女は意に介さない様子で返してきた。
『ヒナ言ったでしょ、“ヤりたくなったら電話して”って。だから電話してきたんじゃないの?』
つまり俺に対して、セックス以外は求めてないってか。寂しいこと言ってくれる。
『そうじゃないなら切るよ。これから仕事なの』
「いやっ、だから待てって」
慌てて声を上げた。やはり繋ぎ止めておかなくては、彼女が次いつ電話に出てくれるかわからない。これはチャンスのはずだ。
「こないだみたいに、仕事の前に話すだけでもさ。いまあの店の近くにいる」
『“サントス”の? なに、あたしとお茶したかっただけって? カワイイこと言うね』
フフッ、とからかうみたいに笑う日奈子の声を聴いて、細めた猫のような瞳と、薄っすら三日月に弧を描くあの唇が頭に浮かんだ──やっぱり欲しい。ごまかせそうにない。
「……そーだよ、悪いかよ」
だから、そんなことを言って開き直った。彼女は機嫌がいいのか、存外『ううん』と嬉しそうに答えた。
『なーんだ、もう少し早く来てくれたらコーヒー代浮いたのに』いたのに」
そのとき、なぜか電波が悪いのだろうかとか、ケータイの調子が悪いのかとか考えた。スマホのスピーカー以外の場所から、彼女の声が二重になって聞こえた気がして──まさか、と御幸は背後を振り返った。
──いた。
ちょうど数メートル先を、毛先を巻いたロングヘアの女性がスマホを耳に添えたまま、カツ、カツ、とピンヒールを鳴らしながら、通りを闊歩しているのが見えた。後ろ姿だが、あの華奢でタイトなシルエット。見間違いではない。
「時間が合えばまた奢って。じゃあね」
「え……あ、ちょ、ヒナ……っ、」
そこで電話が切れたのと、視線の先の彼女がスマホをスキニーデニムの尻ポケットに突っ込んだのがほぼ同時だった。やっぱり間違いない。彼女だ。
日奈子は、一方通行の道路を挟んで、御幸と反対側の道にいた。その並びにある雑居ビルの、地下へと続く階段を前にすると、そのまま下へと降りていった──そのあいだ、一瞬も目を離せずに、御幸はスマホを耳にあてがったまま、ぼうっとその場に突っ立っていた。
思考は停止している。スマホをポケットにしまって、彼女の後を追うように、道を渡って、雑居ビルの前まで歩いた。
ビルの表の壁には、カラフルな積み木が積み上げられたような、フロアと店名を示すレトロな看板が掲げられている。スナックや居酒屋らしき店名が並ぶ中、よく目で確認すると、地下のフロアは『B1F』しかない。黒地にピンク色で“Oscar”と書かれた店名──店もその1軒だけのようだ。ここで彼女は働いているのだろうか。
「──いやいやいや」
そこで、ようやく御幸は我に返って、苦笑いが出た口元を片手で押さえた。いやいやいや。待て待て待て。
確かに、彼女を見つけたのは偶然だ。だが偶然とはいえ、これはマズいのではないだろうか。さすがにそ の 一 線 を超えるわけには──
……けど、なりふり構ってる場合か?
ただでさえ、今後も連絡がとれるかわからない。自分のような特殊な仕事をしていて、もう一度会えるかどうかも怪しいというのに。
なにより彼女に対して、自分はまだこの胸の内を、一つも明かせていない。それに、偶然は二度もあるものか? やはり『運命』なのではないか、そう言い聞かせた。
顔を上げてよく見ると、地下への階段は一番下の段から、さらに奥へと道が続いている。その先は暗闇しか見えない。
御幸は一つ、息を吸いきれない深呼吸をした。そして、地下へと続く薄暗い階段を、一歩ずつ、ゆっくりと降りては、まるで海底へ沈んでいくような気持ちで、未知の闇の中へと侵入した。
《どうしてなんで期待の戸締り忘れるの? 最初にあれほどやめときなって伝えたじゃん》『ラビ/ットホ/ール』DE/CO*/27
球団の練習を終え、選手たちがロッカールームで着替え始めたところで、御幸は彼に声をかけた。個人のロッカーが壁際にずらりと備え付けられた部屋の中で振り返った彼は、つん、と
「何か気に入らないならそう言えって。いい加減
「……別に気に入らないってわけじゃないですよ」
彼──
当然、スタメンマスクを被ることの多い御幸と組むことにもなるのだが、日々共にトレーニングをこなしていても、やはり一筋縄ではいかない。
「ただ、俺はあんたの“後輩クン”たちみたいに
「あのなあ、ボール球振らせるだけが勝ち方じゃねーの。乾とやってたときはどうか知らねーけど、お前もうプロだろ」
しかし、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてみせる向井は、御幸が一つ年上だとか気にせず、ときに調子の良いことを言ってくる。
「御幸さんならどんな球も捕れるから、信頼して言ってるんじゃないスか」
「おだてたって無駄だぞ」
なので、めげずに腕組みしてみせ、呆れ顔でサングラス越しにじろりと彼をたしなめると、向井はチッ、と漏らして御幸を
この生意気でわがままで横暴な態度、幼なじみの成宮にも通ずるものが少なからずあるが、向井は加えてマイペースな傾向が強いので厄介だ。これだから投手という生き物は。
とはいえ、彼が譲りたくないという、その
向井はピッチャーとして、間違いなく一流だ。互いにバッテリーとしての相性が悪くないと感じているのもわかる。ただ、もうちょっと俺のリードも理解してくれるとありがたいんだけど……。
「まあ、俺の“後輩クン”たちには、お前ほど高い要求できなかったしなあ……ここまで言い返してこられんのも、ある意味新鮮っつーか」
「なにそれ、馬鹿にしてる?」
「なんだよバッテリー、ケンカかー?」
のし、と向井の背後から近付いてきては、彼と肩を組むようにして絡んできた男に対し、御幸は再び呆れてため息をついた。向井も眉をひそめている。
「ちょっとカルさん……パンイチはやめて。せめて何か着てきてくださいよ」
「鳴に手ぇ焼いてた頃思い出すぜ〜なあ? 御幸」
「お前なんでいつもハダカなの?」
「
ぐいーっ、と向井が彼の体を手で押しのけるようにすると、「つれねーなあ」とニヤニヤしているだけだった。
持ち前の俊足と外野の守備範囲は高校時代と変わらず、むしろより洗練された動きを発揮し、最近はスタメンを譲ることがない。割に、人付き合いがうまいのも相変わらずだ。あと脱ぎ癖も。
「もうちょい仲良くしろよ〜、先輩ら気ぃ遣ってんだろ?」
「俺だって仕事はちゃんとしますよ。ただ、必要以上にベタベタすることはないでしょ」
さっきからチラチラとこちらの様子をうかがっていた周りの選手たちを──ほとんどが年上にあたるため、彼の言うとおり先輩だ──向井は気にすることもなく、カルロスのロッカーに掛かっていたジャージのパンツを、その剥き出しのエキゾチックな素肌にえいっ、と投げつけた。
「いーや、御幸はこう見えて、面倒見るのも嫌いじゃないタイプなんだと。後輩の面倒見も、そりゃあ良かったってよ」
「カルさんのそういう情報って、どっから仕入れてくんの?」
「この件に関しちゃ、
「はっは、あの人、俺のことあんま好きじゃないと思ってたけど」
御幸は苦笑いしながら、自分のロッカーに背を向け、座面に腰を下ろした。トレーニングシューズを履き替えようと、バッグの中の靴袋へ手を伸ばす。
「まあ、鳴の
「ほらな? おまえら一回、メシでも行ってきたら」
「サシでメシ行って会話続くほど、この人趣味持ってないよ」
「ずいぶん言いたい放題だな……」
パンツにその長い脚を通しながら適当に提案するカルロスに対し、向井は
「俺だって全くそういう話をしないってわけじゃないスよ。でも、ゲームもダメ・車もダメ・アイドルにも興味なし、ってさすがにお手上げでしょ」
向井が一本一本指を立ててからその手をひらひらさせて肩をすくめると、カルロスまで顎に手を添えて何やら考えだした。気付けば同時に二人の相手をしながら、御幸は視線を足元にやったまま答えた。
「野球以外のスポーツは?」
「サッカーすらいまいちルール把握してねーからなあ……つーかお前、上も着ろよ」
「あんたオフの日なにしてんの?」
「メシ作るか、掃除するか……あ、洗濯もか」
「そりゃ趣味じゃなくて家事だな」
「だから言ったじゃん、カルさんみたいにウイイレの相手もできないんスよきっと」
「もうさー、御幸さんの事欠かない話題なんて、“ゴシップ”くらいしかないんじゃないの?」
向井がそう言うと、途端にロッカールームは不自然なほどシン、と静まった。別に全員が全員聞き耳を立てていたというわけでもないはずだが、何やら気まずい空気が流れている。いつも飄々としているカルロスですら、言葉を詰まらせて向井に苦言を呈していた。
「あー……太陽。そいつはちょっと」
「なんです、みんなして腫れ物に触るみたいな反応しちゃって。とっくに周知の事実でしょ」
「御幸さんが『付き合ってた女子アナに、浮気された挙句捨てられた』ってことくらい」
「コラ、太陽!」「もうちょいオブラートに包め!」といったような先輩たちの声にも、彼は何食わぬ顔で舌をんべ、と出していた。「おぉー向こう見ずな新人
「御幸さんの二軍落ちと俺の一軍昇格、ほぼ入れ替わりだったからね。直接その話はしたことなかったな」
「御幸ぃ、ここまで好き勝手言わせていいのか?」
見上げると、さすがのカルロスも眉を寄せて心配してくれているようだが、御幸は苦笑いして肩をすくめるくらいしかすることがなかった。
「まあ、事実だし」
「一時期ワイドショーでずーっとやってたよね。相手の
「清純派のイメージで通ってたから、その反動だろ。太陽が
「表沙汰になったのは、そのあと半年くらい経ってからだけど、」
脱いだシューズをバッグにしまい、ポケットに入れていたスマホを取り出して、画面に目線を落としたまま、御幸は二人の会話を遮った。
「俺の中では
思っていたより冷たい声が出て、御幸自身少し驚いた。別に、相手に対して怒りはない。本当にもう、『どうでもいい』のだ。仮にいま偶然会ったとしても、なんの感情も湧かない気がする。
しばしの沈黙があったので、御幸がつい見上げると、向井とカルロスは立ったまま互いの目を合わせて、肩をすくめていた。ああそう、まあ、本人がそう言うなら、とでも言いたげで、ちょっぴり笑えた。
「そんなことよりさ、“ショートメール”ってどーやんの?」
「はあ? あんたホントにスマホ苦手だよな……」
「そうなの?」
「そうなの。ラインの“友だち登録”も、いつまでたっても覚えねーし……毎回教える身にもなってくださいよ」
「そーやって、何となーくほっとけねぇところが、母性をくすぐるのかね」
「へぇー、御幸さん意外とあざと〜」
「ホントにわかんねーから聞いてんの。ふざけてないで早く教えろって」
ニヤけ顔の向井をもう一度たしなめると、彼は御幸の隣の空いたロッカー──選手はすでに帰ったらしい──に腰かけて、こちらの手元を覗き込んだ。カルロスもその上から覆いかぶさるようにして、ロッカーの仕切りに腕をかけ、反対の手を腰に当てて見下ろしてくる。
「“メッセージ”の、右上のとこ押して」
「ココ?」
「うん。で、“宛先”の
「長文送れねーからな」
「いや、そんな長い文章送ることねぇと思う」
「俺と御幸さんのライン、見ます? マジで業務連絡だから」
「逆になに送ることがあるんだよ?」
「んなこと言ってよー、構ってほしい後輩の気持ちも
「やーめーろよカルさん、そんなんじゃないっての!」
「ははっ。まあ、とりあえずありがと」
カルロスが腰に当てていた手を使って、親指とそれ以外の指で向井の柔らかそうな頬をむに、と挟むようにすると、彼は文句を言いながらすこし顔を赤くしていた。楽しそうに笑うカルロスも、彼は彼で向井の扱いに慣れている。チームメイトだった鳴に似てるからかもな、なんて思って御幸まで笑ってしまった。
御幸が向井に教えてもらったとおりにすると、スマホの画面に連絡先が一覧になって表示される。軽くスクロールして、先日登録したばかりの連絡先──“日奈子”が出てきたところで指を止めた。なに送ることがある──そうだ、何を送ればいい──ハァ、とついため息と共につぶやいていた。
「あのさあ……
数秒、なんの反応もなくて、ふと顔を画面に向けたまま上目遣いで彼らを見ると、二人してこちらを見つめては固まっている。御幸は「ん?」と一瞬眉を上げたあと、すぐにハッとして、慌てて首を横に振った。
「ばっ……ちげーよ、あの
「だよね、ビックリした。『どうでもいい』って言った矢先に」
「あの女子アナって、あのあと離婚したんじゃねーんだ?」
「してないはずだけど」
たぶんね、とやはりどうでもいい御幸の表情を見て、二人は一言二言交わすと、もうそれ以上は聞いてこなかった。「旦那は浮気を許したってこと?」「ふーん」
「俺はナシですね。終わったもんはもう終わったんだし。もう一回付き合ったところでうまくいくわけねーもん」
なるほど、正論だ。迷いなくそう言った向井の言葉に、御幸がゆっくりうなずくと、カルロスが反論した。
「そうか? ナシって決めつけるのはナシだけどなー。久しぶりに会ったりすると、お互い良く見えたりすることはあるんじゃねーの。別れた理由にもよるけどな」
うーん、流石。先日の御幸と日奈子のやりとりを知っているかのような彼の台詞に、御幸は声を出さず苦笑いしてしまった。
それからの会話は、周りの選手たちに聞こえては面倒だと察してくれたのか、二人は先ほどより少し声を潜めては面白そうにしていた。
「御幸さんが自分から狙う
「過去の恋愛の傷が癒えたのは、いいことなんじゃねーの?」
「傷、ってほどでもないけどさあ」
「でも実際、女見る目なかったわけだからなーあんた。その相手も大丈夫かどうか」
「……ただし
「脈はあるのかよ?」
「どうだろ。モテる
「……すげぇ。御幸さんが言うと妙に説得力ある」
「こらこら。それこそ馬鹿にしてるだろ」
「興味はあるよ? あんたの私生活よりよっぽどね」
「まあ、
「あと、本気なら最後まで手は出すなよー」
「おまえじゃあるまいし」
「なんだよ、人を手が
「速いのはその足だけにしてくださいね」
「上手いこと言いやがって〜」
「褒められたと思ってます?」
じゃれ合う二人を横目に、御幸は一度スマホをポケットにしまって、先ほど引っかかったカルロスの言葉を思い返していた。『別れた理由』ねぇ……。
わかっていたら、こんなに悩むこともない。……いや、わからない時点で俺の問題なんだろうな。
理由は言葉にできずとも、別れた日のことはよく覚えている。12月の早朝だった。間違いない。
待ち合わせ場所のカフェバーから、歩いてすぐのホテル街の中で、最もグレードの高いそのシティホテル──部屋のタイプによっては大抵空室があったため、決まって日奈子を連れていた。
部屋のデスクに備え付けられた、大きな鏡の前に腰掛ける彼女はきっと、目覚めた御幸の気配に気付いていた。
「……おはよう」
シングルベッドの中でゆっくりと起き上がりながら、御幸が眼鏡をかけ、ホテルのバスローブを羽織りつつ声をかけると、化粧を直す日奈子は、鏡の中の自身の顔に目を向けたまま、「おはよ」と短く応えた。
この日は確かツインの部屋しか空いていなくて、『ヤるにはベッドが狭い』と、いつもダブルの部屋を所望する彼女が文句を言っていた気がする。
御幸はそうやって起き抜けに、日奈子が化粧している姿を、ベッドの中から眺めている時間が好きだった。いつもは着飾っている彼女と、一夜を共に過ごし、自分のせいで寝乱れてしまったのをいそいそと直す、その女性的なしぐさに見惚れる。そうは言っても、それが終わればまた、別れの時間がやってくることが切なく──ただ、その切なさすらも愛おしかった。何度躰を重ねても、不思議と手の届かない存在の彼女に、
ところがその日は、彼女からの思いがけない言葉で、途端に目が覚めた。「ああ、そうそう」
「ヒナ、しばらくキミとは会わないから」
えっ、と御幸は固まった。言葉の内容とはそぐわず、まるで軽い様子で、“そういえば今日は雨が降るらしいよ”と、世間話でもするみたいに、日奈子は言った。
「今月の末は、ウチの店もクリスマスイベントあるし、キミも年明けたら“キャンプ”とかなんでしょ?」
それはそのとおりだが。そう、クリスマス──それこそ、記念日だとかそういったイベント事を忘れがちな自分が、頻繁に会ってくれない日奈子の気を引く口実にしようと──クリスマスの彼女の予定は、プレゼントは贈るとしたら何がいいだろうか、なんて、少し前から考えていたくらいだった。
「忙しいから、連絡もしてこないで」
「急になんだよそれ……」
気付けばすっかり頭も冴えて、ベッドの端に腰掛けていた。そんな御幸の体勢よりも、彼女が気になるのは、ビューラーでまぶたを挟まないようにまつ毛の角度を上げることだった。それから、化粧道具をマスカラに持ち替える。
「別れるってこと?」
「別れるも何も」
日奈子はマスカラを塗るときのすこし開いた口で、いつものように皮肉っぽく笑った。
ただ、御幸もわかっていた──彼女のそのあとに続くであろう言葉に、ショックを受けるまでもないくらいには──わかっていた。彼女には他にいくらでも男がいること。“付き合っている”と思っていたのは、自分だけだなんてこと。
「……なら、今からでもいいよ」
御幸はベッドから立ち上がって、日奈子の背後からゆっくり歩み寄りながら言った。鏡越しに目が合った。
さっきまでの自分が惨めに思えるほどに。言われてから気付いた。『
「今からでも、付き合ってよ」
本当は、彼女が欲しくてたまらないくせに。だから未練たらしく、そう口にしていた。
日奈子の後ろで立ち尽くすようにしていると、整えられたまつ毛越しに、彼女の猫のような瞳が睨んでくるようだった。描き上がったばかりの眉がひそめられた。
「だから
ハァ、と日奈子が大きくため息を吐いたあと、舌打ちが聞こえた。その反応一つで、心臓がぎりりと締め付けられるくらいには──情けないことだが──彼女の言動に
「この際だからハッキリ言うけど、あたしはキミのこと、
「セックスに誘ったのは、女にフられたキミが哀れで、慰めてあげようと思ったから。そのあとセフでいてあげたのも、カラダの相性が良かったから。
開き直るように言うと、日奈子は椅子の背もたれに肘をかけて、背後にいた御幸のことを直接見上げた。彼女はまた、“品のないフリ”をしている。こちらを突き放そうとしている。
「ほら、こんな薄情な女といても、キミが傷付くだけでしょう?」
「いい機会だよ」その言葉で御幸は、彼女は
「今からでも、やめといたほうがいい」
そのあと付け足すように、「キミにはもっと、ふさわしい
だって、俺にとっては、日奈子が一番なのに。俺には日奈子しか見えてないのに。
そんな御幸の心情なんて知ったことではない彼女は、最後の仕上げとばかりにリップを重ね付けて、ンま、と唇の上下を練り合わせた。熟れた果実のようなそれを、何度
「じゃあね。こんな
自身に対してそう評しては、また皮肉っぽく笑ってみせて、日奈子はさっさと化粧道具をクラッチバッグに詰め込むと、振り向きもせず部屋のドアへと歩いていく。ノブに手をかけ、扉を開けた。止める間もなかった。
去り際、閉まるドアの向こうへと姿を消す寸前に見えた──軽やかに振った片手、ちらつく細い指先──今朝も化粧はバッチリだ。朝帰りも感じさせないほどに。
「バイバイ」
そうして、最後に会った日から──彼女に『
……で、懲りずに今日も来ちまったわけだけど。
向井曰く『趣味を持ってない』自分は、練習が早く終わった今日も、帰宅したらどうせカルロスの言うように『家事』しかすることがない。
練習を終えて先ほどのロッカールームで着替えを終えたあと、例のカフェバー近くの繁華街までやってきた。変装と言うほどでもないが、いつもの眼鏡にキャップを被っていれば、よっぽどのファンでない限り気付かれることもない。
腕時計で時間を確認する。前回、日奈子に会った時間から、1時間ほど過ぎている。このあたりは“夜の店”が多いので、夕方の時間帯では開店したばかりのところがほとんどなのか、人通りもまだそこまで多くない。
道の端で立ち止まると、御幸は先ほど教えてもらったとおりアプリを起動して、宛先に“日奈子”を選んだままの画面から、本文を入力した。
『今から、あの店で会えたりしない?』
上矢印のアイコンをタップすると、背景がグリーンのメッセージが送信された。彼女の携帯電話に御幸の番号は登録されていないはずだが、あえて名前は入れなかった。この時間帯に、『あの店』とあれば、気付いてくれるのではないか──そんな淡い期待を寄せていた。
すると、なんと1分も経たないうちに、画面の左下からメッセージが流れた。おっ、とやや身を乗り出してスクリーンを見つめる。
『ざんねん
今から出勤』
思ったとおりだ。この時間なら返事があるのではと、狙って送った甲斐があった。すかさず御幸はメッセージを返した。
『仕事終わったあとでもいいよ』
『前と同じホテル?』
ああ、と御幸は短くため息を吐いた。それでは駄目なのだ。その流れでは、二年前と同じになってしまう。あまり安売りしないでくれよ。
御幸は画面上部の宛先をタップすると、意を決してその番号にコールした。ワンコールで出た彼女の声は、少し
『──なあに?』
「あのなあ、俺は“そういうこと”がしたいわけじゃねーの」
半ば説教するような気持ちで、御幸は日奈子に言った。彼女は意に介さない様子で返してきた。
『ヒナ言ったでしょ、“ヤりたくなったら電話して”って。だから電話してきたんじゃないの?』
つまり俺に対して、セックス以外は求めてないってか。寂しいこと言ってくれる。
『そうじゃないなら切るよ。これから仕事なの』
「いやっ、だから待てって」
慌てて声を上げた。やはり繋ぎ止めておかなくては、彼女が次いつ電話に出てくれるかわからない。これはチャンスのはずだ。
「こないだみたいに、仕事の前に話すだけでもさ。いまあの店の近くにいる」
『“サントス”の? なに、あたしとお茶したかっただけって? カワイイこと言うね』
フフッ、とからかうみたいに笑う日奈子の声を聴いて、細めた猫のような瞳と、薄っすら三日月に弧を描くあの唇が頭に浮かんだ──やっぱり欲しい。ごまかせそうにない。
「……そーだよ、悪いかよ」
だから、そんなことを言って開き直った。彼女は機嫌がいいのか、存外『ううん』と嬉しそうに答えた。
『なーんだ、もう少し早く来てくれたらコーヒー代浮いたのに』いたのに」
そのとき、なぜか電波が悪いのだろうかとか、ケータイの調子が悪いのかとか考えた。スマホのスピーカー以外の場所から、彼女の声が二重になって聞こえた気がして──まさか、と御幸は背後を振り返った。
──いた。
ちょうど数メートル先を、毛先を巻いたロングヘアの女性がスマホを耳に添えたまま、カツ、カツ、とピンヒールを鳴らしながら、通りを闊歩しているのが見えた。後ろ姿だが、あの華奢でタイトなシルエット。見間違いではない。
「時間が合えばまた奢って。じゃあね」
「え……あ、ちょ、ヒナ……っ、」
そこで電話が切れたのと、視線の先の彼女がスマホをスキニーデニムの尻ポケットに突っ込んだのがほぼ同時だった。やっぱり間違いない。彼女だ。
日奈子は、一方通行の道路を挟んで、御幸と反対側の道にいた。その並びにある雑居ビルの、地下へと続く階段を前にすると、そのまま下へと降りていった──そのあいだ、一瞬も目を離せずに、御幸はスマホを耳にあてがったまま、ぼうっとその場に突っ立っていた。
思考は停止している。スマホをポケットにしまって、彼女の後を追うように、道を渡って、雑居ビルの前まで歩いた。
ビルの表の壁には、カラフルな積み木が積み上げられたような、フロアと店名を示すレトロな看板が掲げられている。スナックや居酒屋らしき店名が並ぶ中、よく目で確認すると、地下のフロアは『B1F』しかない。黒地にピンク色で“Oscar”と書かれた店名──店もその1軒だけのようだ。ここで彼女は働いているのだろうか。
「──いやいやいや」
そこで、ようやく御幸は我に返って、苦笑いが出た口元を片手で押さえた。いやいやいや。待て待て待て。
確かに、彼女を見つけたのは偶然だ。だが偶然とはいえ、これはマズいのではないだろうか。さすがに
……けど、なりふり構ってる場合か?
ただでさえ、今後も連絡がとれるかわからない。自分のような特殊な仕事をしていて、もう一度会えるかどうかも怪しいというのに。
なにより彼女に対して、自分はまだこの胸の内を、一つも明かせていない。それに、偶然は二度もあるものか? やはり『運命』なのではないか、そう言い聞かせた。
顔を上げてよく見ると、地下への階段は一番下の段から、さらに奥へと道が続いている。その先は暗闇しか見えない。
御幸は一つ、息を吸いきれない深呼吸をした。そして、地下へと続く薄暗い階段を、一歩ずつ、ゆっくりと降りては、まるで海底へ沈んでいくような気持ちで、未知の闇の中へと侵入した。
《どうしてなんで期待の戸締り忘れるの? 最初にあれほどやめときなって伝えたじゃん》『ラビ/ットホ/ール』DE/CO*/27
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