プレイボール
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「ねぇ、外野ってめっちゃヒマじゃない?」
試合が始まってから日奈子は、いきなりそんなふうに初心者然とした台詞を放ちながら、こちらに寄りかかってきた。
「逆にいつボールが飛んでくるかわからねーから、気は抜けねーけどな」
「にしたって、ポジションによって負担が極端すぎるスポーツだよね、野球って」
「だからピッチャーの年俸は高いんだろ」
「そういうことなの?」
「知らんけど」
適当に受け流しているあいだも、彼女はパーソナルスペースが狭いのか、無意味に腕が触れ合う距離で話してくる。ついでに、香水か元からかわからないが、甘くていい香りもする。
くそ、近 けぇ……あー意識しない、意識しない、と一旦リセットしてかぶりを振るが、亮介にはバレているらしく、彼女を挟んで向こうに座る彼からの呆れた視線を感じた。
すると、一番打者がカン、とバットの音を鳴らしてボールを打ち上げたので、彼女は体を起こした。「あ、言ってたら飛んできた」
外野フライは右中間を舞い、ライトとセンターが追いかけたが、最終的にセンターのカルロスが難なくキャッチした。伊佐敷たちの周りからも、拍手が起こる。まずは一死 。すると日奈子が、ボールのほうを指差して口を開いた。
「ああいうとき、“お見合い”になんない?」
「ちゃんと声かけあってらぁ」
「でもたまになるよ。純なんて、俺らが高一のときさあ、」
「おまえ何回その話引っ張り出すんだよ!!」
亮介のそ れ は間違いない、一年生のとき伊佐敷が初めてセンターを任された練習試合のことを言っているのだろう。明らかなレフトフライを張り切りすぎて、合図も出さず無理に捕りにいったところ、レフトの先輩と大交錯をかまして、片岡監督の大目玉を食ってしまい、一週間ボールに触らせてもらえなかったのだ。
監督の鬼の形相が、今でも鮮明に思い出せる──いや、思い出したくはないのだが。にしたって亮介も、いつまでそのエピソード擦 る気だ!
「あはは、二人仲良いんだね」両サイドの言い合いに挟まれながらも、日奈子はそうやって笑っていた。「今のどこを見てそう思うんだよ……」
『二番・セカンド──小湊春市』
そして、早速亮介 の弟の出番はやってきた。電光掲示板に、直近の彼の成績が映し出される。
「打率.325!? 相変わらずエグいなおまえの弟」
「そう? まあ、こんなもんでしょ」
さらりと彼は言う。もう少し褒めてやっても──まあ、亮介が身内を手放しに褒めまくるってのも、それはそれで違和感あるけどな。
「おにーさんの弟クンだ? いいね、構え方雰囲気あって。小柄なのにオーラある」
打席に立つ春市の後ろには、マスクを着けた御幸が構えている。何か言葉を交わしているのだろうか、返球の合間に春市がときどき彼のほうを見下ろしていた。
「えーっと、ストライクが2回までで、ボールが3回までね?」
「まあ、とりあえず今はそれで覚えとけ」
「ファウルもストライク?」
「そう。ツーストライクになったら何度ファウルになってもやり直し」
「うぇ〜やっぱピッチャーしんど」
「それも攻撃側からしたら“作戦”だぜ」
そんなことを三人でやいやい言っていると、フルカウントで迎えた春市が、向井の投球に振らず見送った。三塁側の赤い集団から拍手が起こり、春市はバットを置いて一塁へと歩きだす。
「あー歩かせちまったか」
「ボール4回でフォアボールだから、1コ進める、と──え、でも今みたいに一塁に人がいたらどうすんの?」
「そのときは押し出しで一塁の人間が二塁に行くの」
「じゃあもし満塁だったら一点入るの?」
「うん」
初歩的なルールについて質問する日奈子に対し、めんどくさがりながらもきちんと答えてやる亮介は、一塁でバッティンググローブやヘルメットをチームメイトに渡している春市に目をやっていた。マウンドでは向井が、切り替えるように腕を振っている。
「向井は立ち上がりイマイチか?」
「いや、でも相当打ちにくいコースとか際どいところ狙ってきてるから……むしろいきなり攻めのコースで試してるのかもね、御幸は渋ってたみたいだけど」
「手ぇ出なかったとか?」
「そこまではどうだろ、向井は元々よく首振るタイプだし」
亮介の分析に相槌を打っていると、会話を聞いていた日奈子は二人の間でちんぷんかんぷん、といったようすで、唇をとがらせながら頭の上に“?” を浮かべていたので、ちょっと笑えた。
『2回裏・スワローズの攻撃──五番・キャッチャー……御幸一也!』
歓声の中、ベンチから出てきた彼がバットの両端を持ち、伸びをするようにして打席にゆっくりと入っていく。
「本日初の打席だな」
「相変わらずすごい応援だね」
「見ものだぜ〜」
今日の広島の先発ピッチャーは、150km台も投げられる上にカーブ・チェンジアップ・カットボールなども多用する右の本格派だ。
初球──いきなり御幸は狙っていった──アウトコースへのストレート。低めの球をすくい上げるように当て、打球がレフト方向へ飛んでいく。おおっ、と観客がどよめくが、亮介は冷静に言い放った。「いやいや全然」
流し打ちした球は伸び切らずに、レフトが難なく捕球し、ワンアウト。一塁 側では、あー、と落胆の声が上がる。御幸も手ごたえでわかっていたのか、首を傾げながらすでに右の肘当てを外している。日奈子はそれを見て、肩透かしを食ったような様子だった。
「えっ、もう出番おわり? 早っ」
「なにやってんのあいつ。なんでいまだに走者 いないとポカするんだよ」
「おにーさんめっちゃ言うじゃん」
毒を吐く亮介に対して苦笑いする日奈子の横で、我慢できず伊佐敷は座ったまま地団駄を踏んだ。
「だあぁーーーっ!! しっかりしろや!!」
すると、ビクッ!、と隣の日奈子が大げさに肩を縮こまらせて、こちらを避けるように亮介のほうへ身を寄せた。またやってしまった、本日二回目だ。ついでに周囲2、3メートルの観客の視線も感じた。
「びっくりしたあ……まじで急に大声出さないで……」
「今のは純が悪いよ。場所考えろ」
「ぐぅぅ、すまん……!」
「ヒナ、声の大きい人ニガテなの……コワイから」
「ほら、怖がられてんじゃん」
亮介に呆れて笑われた。それについては申し訳ないが、日奈子の怖がりようもかなりのもので、心臓を落ち着かせるように胸に手を当ててうつむき息をする彼女の姿を見て、さすがに心配になった。
「お、おい、悪かったって」
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「……ゴメン、だいじょうぶ!」
彼女の顔色を覗き込んでいると、日奈子は両サイドの二人を振り払うようにパッと顔を上げ、こちらを指差してから笑い飛ばした。「もうっ、次は気を付けてよね」「お、おう」
「野球ってさ、四番が一番打つ人なんでしょ?」
「あ? まあ、長打力があるって意味じゃそうだろうな」
「じゃあ、五番の御幸 は?」
「三・四・五はクリーンナップって呼ばれてて、ホームランバッターがよく指名される」
「一・二はとにかく塁に出ることが求められるから、足の速ぇ奴が多いな」
「最近はそうとも限らないけどね。手っ取り早く点とるために、二番に長打力ある奴持ってきたりもするし」
「六から九は?」
「もう一回チャンス作るために一番と同じような選手置いたり、繋ぐのが上手い奴が入ったり、いろいろだな。そこはチームの作戦もあるし」
「じゃあ、九番が最弱?」
「最弱って」
「そんなことはない」と、亮介が半ばツッコミを入れるような形で返すので伊佐敷も苦笑いしてしまった。
「そんなヘンなこと言った?」
「あんたの発想が突飛で面白かっただけ」
「まあ、打順だけじゃうまいヘタは図れねーかもな。パ・リーグはDHあるしよ」
「なにそれ〜聞いたことないし」
そう言って日奈子は子どものようにぶうぶう文句を言っているが、手にはビールを持ってときどきそれを煽っているのがちぐはぐで笑えた。
その頃打席では、六番打者がフルカウントで速球に喰らい付いていたところ、ワンバンしたボールを捕手が取り損ねた。すかさずバットを放って走る。それを見た日奈子はまた首をひねっている。
「なんで今のバッターは、三振したのに走ってしかもセーフなの? あんなのアリ?」
「今のはキャッチャーがボール溢 したから。“振り逃げ”ってヤツだね」
「ああやってキャッチャーが捕れなかったらマズいぜ。ピンチになる場面も多い」
「……じゃあ、キャッチャーってめっちゃ重要じゃん。どんなに凄いピッチャーがいても、捕れる人がいなかったら成立しないってことでしょ?」
「そうだよ」
「だから、体に当ててでも絶対後ろに逸 らせないのも仕事」
「御幸は学生んときから相当“壁性能”高かったよな」
「丹波の荒れがちなフォークのショートバウンド拾い切れるの、クリス抜いたら御幸くらいだったからなあ。青道 のピッチャーたちはスタイルも多種多様で、ある意味鍛えられたろうし」
御幸が三年生の代を思い出す。スピードが抜きん出た剛腕・クセ球持ちのサウスポー・投げ分けのできるサイドスロー──バラエティ豊かな投手たちを指導しながら、主将と四番を見事に務めたのだ。
しっかしあいつもよくやりきったな、と伊佐敷も舌を巻く。今もプロで活躍できるほどの器は、すでにあったのだろう。
「その点は今もリーグ一じゃねーか?」
「阪神の乾もいい勝負してると思うけどね」
「おにーさんたち、ミユキのことずいぶん買ってるんだね」
「後輩だから多少の贔屓はあるかもしれねーけど、割と一般的な評価だと思うぜ。クリスってのは俺らと同学年のキャッチャーで、そいつはいま千葉でプロやってるよ」
「クリス、高校んときはケガに悩まされててさ。とはいえ、1年の頃から御幸 が正捕手やってたから」
「そんなプロばっかり……おにーさんたちの高校って、ほんとに強豪校ってやつなんだね」
「やっぱスパルタ?」
「入部したらみんな一回は吐くんじゃない?」
「マジ?」
「俺は冬合宿が地獄だった。一週間朝から晩までひたすら基礎練……思い出したくもねーや」
「その感覚わかんないな……ヒナの高校、部活なんて大会とか目標もなくて、楽しく集まってるだけだったし」
「大抵の高校はそうだろ」
「そうだよ。俺らみたいなのが異常なだけ」
「へぇ。行ってよかったって思う?」
日奈子の素直な問いに、伊佐敷が思わず亮介のほうを見ると、彼もこちらを見てきた。互いに意図せずも目が合って、つい「え? あー」と声を漏らすと、亮介はぷっと小さく吹き出して、マウンドのほうへ視線を戻した。
「まあ、でなきゃ今日ココに後輩たち観に来たりしないんじゃない?」
「そんだけ野球が大好きってことだ?」
「否定はしないよ」
「んも〜リョースケってば素直じゃないんだから〜」
「うざ」
にやにやしながら隣の亮介を肘でつつく日奈子はやはり怖いもの知らずだと思うが、傍 から見るとカップルがイチャついてるようにしか見えないのだから、彼女の対話能力も大したものだ。
「ハハッ、野球バカの集まりには変わりねぇだろうな」
「そっか……高校や部活に思い入れとかあるんだ……ちょっとうらやましい」
「…………どうりで彼も、野 球 バ カ なんだな」
3回表。ここまで両チーム点が入らず、どちらの投手も良い立ち上がりだ。
ただ、スコアの動かない展開にすでに飽きてきたらしいのはやはり初心者の日奈子で、そりゃ仕方ねーか、とビールを飲み干してしまった彼女を横目で見下ろした。日奈子は座ったまま両手を座面の縁 に掛け、わざと子どものようにプラプラと脚を浮かせていた。
「ねー、全然点入んなーい」
「まあ確かに、点入らねーと面白くねーよな」
「ピッチャーどっちも投げてるからね。まだ3回だけどお互い球数多いし、そのうち動くよ」
すると、言っているそばから木製バットが硬球を叩く音がして、向井の投げた球は鋭く跳ね返された。右中間を綺麗に抜けていった打球を、ライトとセンターが追う。三塁側の観客が歓声を上げる。おまけに一番打者だ。
「ホントだ、あの選手、足はや!」
日奈子が驚いたのと、打者が二塁を蹴ったのがほぼ同時だった。ライトの選手が投げた球を、セカンドが捕ったところで、打者は走るのをやめた。スリーベースヒット。大きな拍手。相手チームのチャンスだ。さっきまで退屈そうだった日奈子も身を乗り出している。
「次、弟クンの出番? やばいね」
「ここは手堅く1点か?」
「──どうだろうね」
集中して観ているのか、亮介の返事がワンテンポ遅れていた。御幸がタイムを取った。マウンドへ駆け寄るが、向井はなにやら不満そうだ。
「なんて言ってるのかな?」
「あくまで想像だけど、『1点やってもいいからアウト確実に一つ』って言って向井は嫌がってるとかじゃない? 若いのにめずらしく自分のこだわりとか美学みたいなのが強い投手だから」
「……『若い』って二年しか変わんねーだろ」
「ふうん」
すると、それを聞いた日奈子が脚を組みながら頬杖をついてつぶやいた。
「でも確かに、無理に三振とらなくてもよくない? 打たれてもちゃんと周りが捕ってアウトにしてくれれば、そっちのほうが投げる回数少なくて済むわけじゃん。ピッチャーも楽できるでしょ?」
「おバカな割に察しがいいな」
「褒めてなくね?」
「いや、初心者にしちゃあ、いい気付きじゃねーか?」
「じゃあ今みたいな状況のとき、バッターはどこに打てばいいと思う?」
亮介が試すように日奈子に問う。ワンアウト・ランナー三塁の場面。未だ両チーム得点はなし。日奈子は相変わらず難しい顔をしているが、試合を真剣に観ているのは伝わってきた。
「……ワンアウトだから、もしバッターがアウトになっても、点は入るかもしれなくて……だったら、三塁 からなるべく遠いところに飛ばせばいいんじゃない? 高く上がる球のほうがいいよね、落ちてくるまで時間かかるし」
「おお、“犠牲フライ”に自力で気付くか」
「地頭は悪くないんだな」
ところがそこで亮介は、日奈子をからかうように、ただし面白そうに笑ってみせた。
「でも残念、今度は“タッチアップ”を教えないといけないな」
「なにそれ」
「“スクイズ”って方法もあるしよ」
「クイズ……? イミわかんない。野球ってメジャースポーツのくせに、知らない単語いっぱいあんだけど」
次から次へと新しい野球用語が飛び出してくるので、日奈子は眉をひそめて反応に困っていておかしい。さすがにからかいすぎたかと、亮介もフォローの言葉を吐いた。「大丈夫、その考えは合ってるよ」
「ただ、相手チームもそれをわかってる。だから外野はちょっとライトに寄ったり、後ろに下がったりもする。そうすると、バッターも裏をかこうとするだろ?」
それを聞いた日奈子の表情は、腹に落ちたといったようすで、ゆっくりと何度もうなずいていた。
「そっか、ランナーがいると得点のチャンスだけど、打つ場所が狭まるし、アウトになる人数も増えるからピンチにもなるんだ……なるほどね、ちょっとわかってきたかも」
「そうやって作戦考えると、面白いね」初心者が野球の面白みを理解していくようすというのもある意味新鮮で、伊佐敷にとっても、面白いものには違いなかった。おそらく亮介も同じ気持ちなのだろう。表情の変化がわかりにくい彼だが、心なしかいつもより目尻が下がって見える。
「初めての野球とは思えない吸収ぶりだぜ」
「ホント?」
「うん。やるじゃん」
二人に褒められた日奈子は、胸の前で手を合わせて、子どもみたいに嬉しそうに笑った。奔放なくせに可愛げがあるところも、放っておけないと思わせる理由なのかもしれない。
結局その会話の間に、春市は三塁線にギリギリ乗るような見事なバントを決めてみせ、手堅く送ってきた。一塁はアウト・三塁ランナーがホームへと帰ってくる──先制は広島だ。「よっ! 絶妙! さすが! さすが我らが春男児!!」
「おい、ぜってぇ今の沢村だろ!」
「相変わらずバカでかい声だな」
「なんで三塁側のブルペンの声が一塁側の外野まで聞こえるんだよ!」
懐かしい後輩の声が球場に響き渡っている。歓声も拍手も場内で流れる音楽も貫くなんて、いったいどんな声帯をしているんだ、と先輩二人して恥ずかしくなって呆れ果てた。その間で、日奈子は隣の亮介の腕をつかんでは軽く揺さぶっていた。「ね、すごいじゃんリョースケ」
「弟クンのおかげで、1点入ったよ」
「送りバントだけどね。ちなみに、今のが“スクイズ”だよ」
「あの“ちょこんっ”てだけ当てるワザ?」
「ワザ……うん、まあ、技っちゃ技か」
「まあ、まだ3回だぜ。こっから──」
と、話しているうちに、次の三番打者がシングルヒットを放つ。「んが! 言ってるそばから!」さすがにまだ流れは広島にあるようだ。
「ピッチャー大丈夫かな」
「全然、これくらい」
「今日の向井球走ってっからなあ。フツーに140キロ台も投げやがる」
「そのスピードのボールがサイドスローで飛んでくるとか、ちょっとお か し い よね」
「あのスクリュー、右打者たまったモンじゃねぇだろうな」
「いや、向井がホントにヤバいのはカーブのキ レ でしょ。その上でゾーンギリギリに入れてくるコントロール──前に御幸も、捕ってて楽しいって言ってたし」
「どうした?」何気なく隣を見ると、二人の会話についていけなくなった日奈子が、なぜか一点を見つめて動かないでいる。少し申し訳なくなって声をかけてみた。
「わりぃな、ほったらかして」
「ん? おしり見てたのお し り 」
「は?」
会話が成立していない。意味がわからず眉をひそめ、日奈子の視線の先をよくよく追ってみると、膝に両手を乗せて前傾姿勢で構えるセンター・カルロスの後ろ姿があった。
「野球選手のおしりイイよね〜プリケツで」
「試合関係ねーのかよ!」
「まあ、概ね同意だけど」
「あのハーフっぽい選手はおしりの位置高くてめちゃスタイル良いし」
「ケツのデカさで言ったらやっぱ外野より内野陣じゃねーか? キャッチャーとか」
「……確かに彼のおしりデカかった記憶あるわ」
「誰の話してる?」
「えっ? ああ、なんでもない」
亮介はそこで、いまランナーの隣にいる、一際体格のいい一塁を守る選手を指差しながら、残っていたビールを飲み下すようにした。
「あのファーストとか?」
「あいつ四番だっけか」
それを聞いた日奈子は、ファーストの選手をじっ、と見て品定めをするような目つきをしたあと、「んー……」と喉を鳴らしてから片眉を上げた。
「……ただおしりはデカくても、ア ッ チ は小さそう」
「「ぶっ!」」
いきなり何を言いだすかと思えば、動揺した伊佐敷と亮介は同時にビールを吹き出した。危うく前の席の観客にかかるところである。慌てる二人に挟まれながら、しかし日奈子は冷静に、「ま、オトコはデカさだけじゃないけど」と笑っていた。
先ほどのウェットティッシュで手と口元を拭きつつ、こちらにもそれを寄越してくるのでありがたく受け取ったが、ちらりと見えた亮介は苦虫を噛み潰したような顔で日奈子を睨 んでいて、短く一言で返した。
「下品」
「あはは、正論」
「つかテキトー言うなよ!」
「いやこれがけっこう当たるんだなー。あたし、後ろ姿だけでム ス コ のデカさわかるもん」
「マジかよ……」
「品のない特技だな」
なんて女だ、と二人して軽く引いている一方で、日奈子は平然としていた。むしろそんな中、「ビールおかわりいる? もう一杯くらいなら、ヒナ奢ったげるよ」と笑い、キョロキョロして売り子を探している。
「そうそう、おまけにその四番の選手はヤバい性癖持ってるタイプだよ。顔つきがそんなカンジ」
「さっきのハーフっぽい選手は、なんだかんだしれっと女のコお持ち帰りしてそう」
「ピッチャーはこだわりが強いのか好き嫌いが激しいのか、エッチも選り好みしそうな男だね」
「あと、そこにいるライトの選手はヤリチン。セフ多そ〜」
「ま、ぜんぶヒナの偏見だけどね〜」そうでなくては困る。第一印象でそういった雰囲気は確かにあったが、これはかなり遊 ん で い る と見た。
昼間からすらすらと艶めいた話をしだす彼女を前に、……まさか自分のこともわかっているんじゃないか、と思うと少しぞっとした。
「下ネタはいいからちゃんと試合観ろって」
「ふふっ、はーい」
亮介に怒られてもけろっとしている。大した女だな、とある意味感心していると、日奈子が「あっ!」と声を上げ、観客もどよめいた。
向井が投げたあと、一塁ランナーが盗塁を試みた──その瞬間──甘く見られたものだ、そう言わんばかりの豪速球がホームベースから二塁へ、ダイヤモンド上を真っ二つに切り分けるように飛んでいった。向井が軽くしゃがんで見送った先では、ショートが二塁上よりやや一塁寄りに飛んできたボールを難なくキャッチする。「余裕」と亮介がつぶやくように、もはやランナーを待ち構えるだけの完璧な送球だ。
スライディングで飛び込んできたランナーに対し、塁審が右拳を出す──アウトの判定──盗塁阻止・スリーアウトチェンジ。こちらの外野席は歓声に包まれ今日一番の盛り上がりだ。「刺したあ!」「ドンピシャ!」「“みゆキャノン”!」
「おしきたぁ!」
「さすが。送球低いね」
「な、なに今の、急に立ち上がって投げるからビックリした」
球場のビジョンには、マスクを上げながら御幸がベンチへの歩みを遅くして待ち構えていたところに、マウンドを降りた向井が駆けてきて、何やら互いに言葉を交わしていた。結果的に、この二盗阻止が相手の流れを断ち切ったことになるだろう。打撃だけでなく、守備でもチームを鼓舞するのだから流石だ。
「……今のはちょっとカッコよかった」
「盗塁阻止は捕手の強肩の見せどころだしな」
「これは酒も進むね。あっ、お姉さんすみませ〜ん」
「3つください──あ、キャッシュレスいけるんだ?」と、そばを歩いていたビールの売り子を呼び止め、日奈子がバッグからスマホを取り出した。女子大生くらいの年齢に見える売り子がビールを注いでいるあいだ、「お姉さんのリップめちゃカワイ〜どこの使ってるの?」と話しかけている。
「はい、ジュンの分」
「お、サンキュー」
「ねぇ、あんたが言ってたさっきの“偏見”は、御幸相手でも通じるもの?」
「え?」
攻守交代のあいだ、観るものがなく退屈なのか暇つぶしなのか、亮介は売り子からビールを受け取りながら、隣の日奈子に尋ねていた。売り子が階段を登り去ったところで、彼女は「んー……」とまた喉を鳴らして、ビジョンに流れる映像に目をやった。
流れているのは、球団のオーナー企業の主力製品である、乳酸菌飲料のCM──今シーズン起用されているのは、御幸本人だ。CMといっても、練習中の姿や飲料を飲み干す姿が撮られているだけだが、やはり彼の容姿は華がある。
「……割と“ノーマル”? モテそうな顔して、根は真面目 。女のコ相手にガツガツしてないし、一見超ドライ」
「ははっ、確かになんだかんだ真面目にキャプテンやってたしなあ。冗談通じないときも多いし」
「高校んとき彼女 いたなんてハナシも聞かなかったぜ? けっこう当たってるかもな」
「まあそれでも、大人になって浮 気 されてちゃ世話ないけどね」
「あれ、なんだ知ってんじゃん、御幸のこと」
ふと亮介が、注ぎたてのビールの泡をすすりながらそれに気付いて発言した。指摘された日奈子は慌ててごまかすようなしぐさで、髪を耳にかけていた。そのとき、そばにいた伊佐敷が気付く──彼女のうなじに、黒 い 何 か が見えた──刺青 だろうか。一瞬だったのでわからなかった。
「お、思い出したの。女子アナとのニュース、聞いたことあったなと思って」
「あー、だろうな」
「確かにそのスキャンダルのイメージついてから大変だったろうけど、まあよくやってると思うよ」
本人から詳しく聞いたわけではないが──こちらから聞くのも憚 られるし、御幸も話したがらないはずだ──ちょうど二軍落ちしてファームで奮闘していたであろうときに降ってわいたようなスキャンダルは、かなりのストレスだっただろう。ネットがあればいろいろ言われてしまう時代、彼の当時の苦悩は計り知れないが、乗り越えて今活躍しているのだから、亮介の言うことにもうなずくしかない。
「……でもそういうの全部、“言い訳”みたいにしたくないタイプなんだろーね」
「なに、今日初めて観に来た割に、やたらと肩持つじゃん。やっぱイケメンだから?」
「全然。そんなんじゃないよ」
「なんとなく──なんとなく、そう思うだけ」彼女の“偏見”は、突拍子もないが、なぜだか妙に現実的で、情けをかけるような口ぶりだった。
「浮気したほうが悪いのに、自分にも原因があるとか言ってさ、相手を責めようともしない“お人好し”なの」
「ダハハ、やけにリ ア ル だな」
『3回裏──ここから逆転に向けてみなさんで応援しましょう! GO・GO・Swallows!』
場内アナウンスが球場を盛り上げる。音楽と歓声がさらに大きくなった。「……そうやって弱ってるときに、ほんのちょっとヒナに優しくされたくらいでさ……コロッ、とイっちゃって」そのとき、ぽつり、とこぼした日奈子の言葉は、伊佐敷には聞こえなかった。
「ホント……バ カ だなあ」
(ヒナちゃんにとっても、リ ア ル な話。)
試合が始まってから日奈子は、いきなりそんなふうに初心者然とした台詞を放ちながら、こちらに寄りかかってきた。
「逆にいつボールが飛んでくるかわからねーから、気は抜けねーけどな」
「にしたって、ポジションによって負担が極端すぎるスポーツだよね、野球って」
「だからピッチャーの年俸は高いんだろ」
「そういうことなの?」
「知らんけど」
適当に受け流しているあいだも、彼女はパーソナルスペースが狭いのか、無意味に腕が触れ合う距離で話してくる。ついでに、香水か元からかわからないが、甘くていい香りもする。
くそ、
すると、一番打者がカン、とバットの音を鳴らしてボールを打ち上げたので、彼女は体を起こした。「あ、言ってたら飛んできた」
外野フライは右中間を舞い、ライトとセンターが追いかけたが、最終的にセンターのカルロスが難なくキャッチした。伊佐敷たちの周りからも、拍手が起こる。まずは
「ああいうとき、“お見合い”になんない?」
「ちゃんと声かけあってらぁ」
「でもたまになるよ。純なんて、俺らが高一のときさあ、」
「おまえ何回その話引っ張り出すんだよ!!」
亮介の
監督の鬼の形相が、今でも鮮明に思い出せる──いや、思い出したくはないのだが。にしたって亮介も、いつまでそのエピソード
「あはは、二人仲良いんだね」両サイドの言い合いに挟まれながらも、日奈子はそうやって笑っていた。「今のどこを見てそう思うんだよ……」
『二番・セカンド──小湊春市』
そして、早速
「打率.325!? 相変わらずエグいなおまえの弟」
「そう? まあ、こんなもんでしょ」
さらりと彼は言う。もう少し褒めてやっても──まあ、亮介が身内を手放しに褒めまくるってのも、それはそれで違和感あるけどな。
「おにーさんの弟クンだ? いいね、構え方雰囲気あって。小柄なのにオーラある」
打席に立つ春市の後ろには、マスクを着けた御幸が構えている。何か言葉を交わしているのだろうか、返球の合間に春市がときどき彼のほうを見下ろしていた。
「えーっと、ストライクが2回までで、ボールが3回までね?」
「まあ、とりあえず今はそれで覚えとけ」
「ファウルもストライク?」
「そう。ツーストライクになったら何度ファウルになってもやり直し」
「うぇ〜やっぱピッチャーしんど」
「それも攻撃側からしたら“作戦”だぜ」
そんなことを三人でやいやい言っていると、フルカウントで迎えた春市が、向井の投球に振らず見送った。三塁側の赤い集団から拍手が起こり、春市はバットを置いて一塁へと歩きだす。
「あー歩かせちまったか」
「ボール4回でフォアボールだから、1コ進める、と──え、でも今みたいに一塁に人がいたらどうすんの?」
「そのときは押し出しで一塁の人間が二塁に行くの」
「じゃあもし満塁だったら一点入るの?」
「うん」
初歩的なルールについて質問する日奈子に対し、めんどくさがりながらもきちんと答えてやる亮介は、一塁でバッティンググローブやヘルメットをチームメイトに渡している春市に目をやっていた。マウンドでは向井が、切り替えるように腕を振っている。
「向井は立ち上がりイマイチか?」
「いや、でも相当打ちにくいコースとか際どいところ狙ってきてるから……むしろいきなり攻めのコースで試してるのかもね、御幸は渋ってたみたいだけど」
「手ぇ出なかったとか?」
「そこまではどうだろ、向井は元々よく首振るタイプだし」
亮介の分析に相槌を打っていると、会話を聞いていた日奈子は二人の間でちんぷんかんぷん、といったようすで、唇をとがらせながら頭の上に
『2回裏・スワローズの攻撃──五番・キャッチャー……御幸一也!』
歓声の中、ベンチから出てきた彼がバットの両端を持ち、伸びをするようにして打席にゆっくりと入っていく。
「本日初の打席だな」
「相変わらずすごい応援だね」
「見ものだぜ〜」
今日の広島の先発ピッチャーは、150km台も投げられる上にカーブ・チェンジアップ・カットボールなども多用する右の本格派だ。
初球──いきなり御幸は狙っていった──アウトコースへのストレート。低めの球をすくい上げるように当て、打球がレフト方向へ飛んでいく。おおっ、と観客がどよめくが、亮介は冷静に言い放った。「いやいや全然」
流し打ちした球は伸び切らずに、レフトが難なく捕球し、ワンアウト。
「えっ、もう出番おわり? 早っ」
「なにやってんのあいつ。なんでいまだに
「おにーさんめっちゃ言うじゃん」
毒を吐く亮介に対して苦笑いする日奈子の横で、我慢できず伊佐敷は座ったまま地団駄を踏んだ。
「だあぁーーーっ!! しっかりしろや!!」
すると、ビクッ!、と隣の日奈子が大げさに肩を縮こまらせて、こちらを避けるように亮介のほうへ身を寄せた。またやってしまった、本日二回目だ。ついでに周囲2、3メートルの観客の視線も感じた。
「びっくりしたあ……まじで急に大声出さないで……」
「今のは純が悪いよ。場所考えろ」
「ぐぅぅ、すまん……!」
「ヒナ、声の大きい人ニガテなの……コワイから」
「ほら、怖がられてんじゃん」
亮介に呆れて笑われた。それについては申し訳ないが、日奈子の怖がりようもかなりのもので、心臓を落ち着かせるように胸に手を当ててうつむき息をする彼女の姿を見て、さすがに心配になった。
「お、おい、悪かったって」
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「……ゴメン、だいじょうぶ!」
彼女の顔色を覗き込んでいると、日奈子は両サイドの二人を振り払うようにパッと顔を上げ、こちらを指差してから笑い飛ばした。「もうっ、次は気を付けてよね」「お、おう」
「野球ってさ、四番が一番打つ人なんでしょ?」
「あ? まあ、長打力があるって意味じゃそうだろうな」
「じゃあ、五番の
「三・四・五はクリーンナップって呼ばれてて、ホームランバッターがよく指名される」
「一・二はとにかく塁に出ることが求められるから、足の速ぇ奴が多いな」
「最近はそうとも限らないけどね。手っ取り早く点とるために、二番に長打力ある奴持ってきたりもするし」
「六から九は?」
「もう一回チャンス作るために一番と同じような選手置いたり、繋ぐのが上手い奴が入ったり、いろいろだな。そこはチームの作戦もあるし」
「じゃあ、九番が最弱?」
「最弱って」
「そんなことはない」と、亮介が半ばツッコミを入れるような形で返すので伊佐敷も苦笑いしてしまった。
「そんなヘンなこと言った?」
「あんたの発想が突飛で面白かっただけ」
「まあ、打順だけじゃうまいヘタは図れねーかもな。パ・リーグはDHあるしよ」
「なにそれ〜聞いたことないし」
そう言って日奈子は子どものようにぶうぶう文句を言っているが、手にはビールを持ってときどきそれを煽っているのがちぐはぐで笑えた。
その頃打席では、六番打者がフルカウントで速球に喰らい付いていたところ、ワンバンしたボールを捕手が取り損ねた。すかさずバットを放って走る。それを見た日奈子はまた首をひねっている。
「なんで今のバッターは、三振したのに走ってしかもセーフなの? あんなのアリ?」
「今のはキャッチャーがボール
「ああやってキャッチャーが捕れなかったらマズいぜ。ピンチになる場面も多い」
「……じゃあ、キャッチャーってめっちゃ重要じゃん。どんなに凄いピッチャーがいても、捕れる人がいなかったら成立しないってことでしょ?」
「そうだよ」
「だから、体に当ててでも絶対後ろに
「御幸は学生んときから相当“壁性能”高かったよな」
「丹波の荒れがちなフォークのショートバウンド拾い切れるの、クリス抜いたら御幸くらいだったからなあ。
御幸が三年生の代を思い出す。スピードが抜きん出た剛腕・クセ球持ちのサウスポー・投げ分けのできるサイドスロー──バラエティ豊かな投手たちを指導しながら、主将と四番を見事に務めたのだ。
しっかしあいつもよくやりきったな、と伊佐敷も舌を巻く。今もプロで活躍できるほどの器は、すでにあったのだろう。
「その点は今もリーグ一じゃねーか?」
「阪神の乾もいい勝負してると思うけどね」
「おにーさんたち、ミユキのことずいぶん買ってるんだね」
「後輩だから多少の贔屓はあるかもしれねーけど、割と一般的な評価だと思うぜ。クリスってのは俺らと同学年のキャッチャーで、そいつはいま千葉でプロやってるよ」
「クリス、高校んときはケガに悩まされててさ。とはいえ、1年の頃から
「そんなプロばっかり……おにーさんたちの高校って、ほんとに強豪校ってやつなんだね」
「やっぱスパルタ?」
「入部したらみんな一回は吐くんじゃない?」
「マジ?」
「俺は冬合宿が地獄だった。一週間朝から晩までひたすら基礎練……思い出したくもねーや」
「その感覚わかんないな……ヒナの高校、部活なんて大会とか目標もなくて、楽しく集まってるだけだったし」
「大抵の高校はそうだろ」
「そうだよ。俺らみたいなのが異常なだけ」
「へぇ。行ってよかったって思う?」
日奈子の素直な問いに、伊佐敷が思わず亮介のほうを見ると、彼もこちらを見てきた。互いに意図せずも目が合って、つい「え? あー」と声を漏らすと、亮介はぷっと小さく吹き出して、マウンドのほうへ視線を戻した。
「まあ、でなきゃ今日ココに後輩たち観に来たりしないんじゃない?」
「そんだけ野球が大好きってことだ?」
「否定はしないよ」
「んも〜リョースケってば素直じゃないんだから〜」
「うざ」
にやにやしながら隣の亮介を肘でつつく日奈子はやはり怖いもの知らずだと思うが、
「ハハッ、野球バカの集まりには変わりねぇだろうな」
「そっか……高校や部活に思い入れとかあるんだ……ちょっとうらやましい」
「…………どうりで彼も、
3回表。ここまで両チーム点が入らず、どちらの投手も良い立ち上がりだ。
ただ、スコアの動かない展開にすでに飽きてきたらしいのはやはり初心者の日奈子で、そりゃ仕方ねーか、とビールを飲み干してしまった彼女を横目で見下ろした。日奈子は座ったまま両手を座面の
「ねー、全然点入んなーい」
「まあ確かに、点入らねーと面白くねーよな」
「ピッチャーどっちも投げてるからね。まだ3回だけどお互い球数多いし、そのうち動くよ」
すると、言っているそばから木製バットが硬球を叩く音がして、向井の投げた球は鋭く跳ね返された。右中間を綺麗に抜けていった打球を、ライトとセンターが追う。三塁側の観客が歓声を上げる。おまけに一番打者だ。
「ホントだ、あの選手、足はや!」
日奈子が驚いたのと、打者が二塁を蹴ったのがほぼ同時だった。ライトの選手が投げた球を、セカンドが捕ったところで、打者は走るのをやめた。スリーベースヒット。大きな拍手。相手チームのチャンスだ。さっきまで退屈そうだった日奈子も身を乗り出している。
「次、弟クンの出番? やばいね」
「ここは手堅く1点か?」
「──どうだろうね」
集中して観ているのか、亮介の返事がワンテンポ遅れていた。御幸がタイムを取った。マウンドへ駆け寄るが、向井はなにやら不満そうだ。
「なんて言ってるのかな?」
「あくまで想像だけど、『1点やってもいいからアウト確実に一つ』って言って向井は嫌がってるとかじゃない? 若いのにめずらしく自分のこだわりとか美学みたいなのが強い投手だから」
「……『若い』って二年しか変わんねーだろ」
「ふうん」
すると、それを聞いた日奈子が脚を組みながら頬杖をついてつぶやいた。
「でも確かに、無理に三振とらなくてもよくない? 打たれてもちゃんと周りが捕ってアウトにしてくれれば、そっちのほうが投げる回数少なくて済むわけじゃん。ピッチャーも楽できるでしょ?」
「おバカな割に察しがいいな」
「褒めてなくね?」
「いや、初心者にしちゃあ、いい気付きじゃねーか?」
「じゃあ今みたいな状況のとき、バッターはどこに打てばいいと思う?」
亮介が試すように日奈子に問う。ワンアウト・ランナー三塁の場面。未だ両チーム得点はなし。日奈子は相変わらず難しい顔をしているが、試合を真剣に観ているのは伝わってきた。
「……ワンアウトだから、もしバッターがアウトになっても、点は入るかもしれなくて……だったら、
「おお、“犠牲フライ”に自力で気付くか」
「地頭は悪くないんだな」
ところがそこで亮介は、日奈子をからかうように、ただし面白そうに笑ってみせた。
「でも残念、今度は“タッチアップ”を教えないといけないな」
「なにそれ」
「“スクイズ”って方法もあるしよ」
「クイズ……? イミわかんない。野球ってメジャースポーツのくせに、知らない単語いっぱいあんだけど」
次から次へと新しい野球用語が飛び出してくるので、日奈子は眉をひそめて反応に困っていておかしい。さすがにからかいすぎたかと、亮介もフォローの言葉を吐いた。「大丈夫、その考えは合ってるよ」
「ただ、相手チームもそれをわかってる。だから外野はちょっとライトに寄ったり、後ろに下がったりもする。そうすると、バッターも裏をかこうとするだろ?」
それを聞いた日奈子の表情は、腹に落ちたといったようすで、ゆっくりと何度もうなずいていた。
「そっか、ランナーがいると得点のチャンスだけど、打つ場所が狭まるし、アウトになる人数も増えるからピンチにもなるんだ……なるほどね、ちょっとわかってきたかも」
「そうやって作戦考えると、面白いね」初心者が野球の面白みを理解していくようすというのもある意味新鮮で、伊佐敷にとっても、面白いものには違いなかった。おそらく亮介も同じ気持ちなのだろう。表情の変化がわかりにくい彼だが、心なしかいつもより目尻が下がって見える。
「初めての野球とは思えない吸収ぶりだぜ」
「ホント?」
「うん。やるじゃん」
二人に褒められた日奈子は、胸の前で手を合わせて、子どもみたいに嬉しそうに笑った。奔放なくせに可愛げがあるところも、放っておけないと思わせる理由なのかもしれない。
結局その会話の間に、春市は三塁線にギリギリ乗るような見事なバントを決めてみせ、手堅く送ってきた。一塁はアウト・三塁ランナーがホームへと帰ってくる──先制は広島だ。「よっ! 絶妙! さすが! さすが我らが春男児!!」
「おい、ぜってぇ今の沢村だろ!」
「相変わらずバカでかい声だな」
「なんで三塁側のブルペンの声が一塁側の外野まで聞こえるんだよ!」
懐かしい後輩の声が球場に響き渡っている。歓声も拍手も場内で流れる音楽も貫くなんて、いったいどんな声帯をしているんだ、と先輩二人して恥ずかしくなって呆れ果てた。その間で、日奈子は隣の亮介の腕をつかんでは軽く揺さぶっていた。「ね、すごいじゃんリョースケ」
「弟クンのおかげで、1点入ったよ」
「送りバントだけどね。ちなみに、今のが“スクイズ”だよ」
「あの“ちょこんっ”てだけ当てるワザ?」
「ワザ……うん、まあ、技っちゃ技か」
「まあ、まだ3回だぜ。こっから──」
と、話しているうちに、次の三番打者がシングルヒットを放つ。「んが! 言ってるそばから!」さすがにまだ流れは広島にあるようだ。
「ピッチャー大丈夫かな」
「全然、これくらい」
「今日の向井球走ってっからなあ。フツーに140キロ台も投げやがる」
「そのスピードのボールがサイドスローで飛んでくるとか、ちょっと
「あのスクリュー、右打者たまったモンじゃねぇだろうな」
「いや、向井がホントにヤバいのはカーブの
「どうした?」何気なく隣を見ると、二人の会話についていけなくなった日奈子が、なぜか一点を見つめて動かないでいる。少し申し訳なくなって声をかけてみた。
「わりぃな、ほったらかして」
「ん? おしり見てたの
「は?」
会話が成立していない。意味がわからず眉をひそめ、日奈子の視線の先をよくよく追ってみると、膝に両手を乗せて前傾姿勢で構えるセンター・カルロスの後ろ姿があった。
「野球選手のおしりイイよね〜プリケツで」
「試合関係ねーのかよ!」
「まあ、概ね同意だけど」
「あのハーフっぽい選手はおしりの位置高くてめちゃスタイル良いし」
「ケツのデカさで言ったらやっぱ外野より内野陣じゃねーか? キャッチャーとか」
「……確かに彼のおしりデカかった記憶あるわ」
「誰の話してる?」
「えっ? ああ、なんでもない」
亮介はそこで、いまランナーの隣にいる、一際体格のいい一塁を守る選手を指差しながら、残っていたビールを飲み下すようにした。
「あのファーストとか?」
「あいつ四番だっけか」
それを聞いた日奈子は、ファーストの選手をじっ、と見て品定めをするような目つきをしたあと、「んー……」と喉を鳴らしてから片眉を上げた。
「……ただおしりはデカくても、
「「ぶっ!」」
いきなり何を言いだすかと思えば、動揺した伊佐敷と亮介は同時にビールを吹き出した。危うく前の席の観客にかかるところである。慌てる二人に挟まれながら、しかし日奈子は冷静に、「ま、オトコはデカさだけじゃないけど」と笑っていた。
先ほどのウェットティッシュで手と口元を拭きつつ、こちらにもそれを寄越してくるのでありがたく受け取ったが、ちらりと見えた亮介は苦虫を噛み潰したような顔で日奈子を
「下品」
「あはは、正論」
「つかテキトー言うなよ!」
「いやこれがけっこう当たるんだなー。あたし、後ろ姿だけで
「マジかよ……」
「品のない特技だな」
なんて女だ、と二人して軽く引いている一方で、日奈子は平然としていた。むしろそんな中、「ビールおかわりいる? もう一杯くらいなら、ヒナ奢ったげるよ」と笑い、キョロキョロして売り子を探している。
「そうそう、おまけにその四番の選手はヤバい性癖持ってるタイプだよ。顔つきがそんなカンジ」
「さっきのハーフっぽい選手は、なんだかんだしれっと女のコお持ち帰りしてそう」
「ピッチャーはこだわりが強いのか好き嫌いが激しいのか、エッチも選り好みしそうな男だね」
「あと、そこにいるライトの選手はヤリチン。セフ多そ〜」
「ま、ぜんぶヒナの偏見だけどね〜」そうでなくては困る。第一印象でそういった雰囲気は確かにあったが、これはかなり
昼間からすらすらと艶めいた話をしだす彼女を前に、……まさか自分のこともわかっているんじゃないか、と思うと少しぞっとした。
「下ネタはいいからちゃんと試合観ろって」
「ふふっ、はーい」
亮介に怒られてもけろっとしている。大した女だな、とある意味感心していると、日奈子が「あっ!」と声を上げ、観客もどよめいた。
向井が投げたあと、一塁ランナーが盗塁を試みた──その瞬間──甘く見られたものだ、そう言わんばかりの豪速球がホームベースから二塁へ、ダイヤモンド上を真っ二つに切り分けるように飛んでいった。向井が軽くしゃがんで見送った先では、ショートが二塁上よりやや一塁寄りに飛んできたボールを難なくキャッチする。「余裕」と亮介がつぶやくように、もはやランナーを待ち構えるだけの完璧な送球だ。
スライディングで飛び込んできたランナーに対し、塁審が右拳を出す──アウトの判定──盗塁阻止・スリーアウトチェンジ。こちらの外野席は歓声に包まれ今日一番の盛り上がりだ。「刺したあ!」「ドンピシャ!」「“みゆキャノン”!」
「おしきたぁ!」
「さすが。送球低いね」
「な、なに今の、急に立ち上がって投げるからビックリした」
球場のビジョンには、マスクを上げながら御幸がベンチへの歩みを遅くして待ち構えていたところに、マウンドを降りた向井が駆けてきて、何やら互いに言葉を交わしていた。結果的に、この二盗阻止が相手の流れを断ち切ったことになるだろう。打撃だけでなく、守備でもチームを鼓舞するのだから流石だ。
「……今のはちょっとカッコよかった」
「盗塁阻止は捕手の強肩の見せどころだしな」
「これは酒も進むね。あっ、お姉さんすみませ〜ん」
「3つください──あ、キャッシュレスいけるんだ?」と、そばを歩いていたビールの売り子を呼び止め、日奈子がバッグからスマホを取り出した。女子大生くらいの年齢に見える売り子がビールを注いでいるあいだ、「お姉さんのリップめちゃカワイ〜どこの使ってるの?」と話しかけている。
「はい、ジュンの分」
「お、サンキュー」
「ねぇ、あんたが言ってたさっきの“偏見”は、御幸相手でも通じるもの?」
「え?」
攻守交代のあいだ、観るものがなく退屈なのか暇つぶしなのか、亮介は売り子からビールを受け取りながら、隣の日奈子に尋ねていた。売り子が階段を登り去ったところで、彼女は「んー……」とまた喉を鳴らして、ビジョンに流れる映像に目をやった。
流れているのは、球団のオーナー企業の主力製品である、乳酸菌飲料のCM──今シーズン起用されているのは、御幸本人だ。CMといっても、練習中の姿や飲料を飲み干す姿が撮られているだけだが、やはり彼の容姿は華がある。
「……割と“ノーマル”? モテそうな顔して、根は
「ははっ、確かになんだかんだ真面目にキャプテンやってたしなあ。冗談通じないときも多いし」
「高校んとき
「まあそれでも、大人になって
「あれ、なんだ知ってんじゃん、御幸のこと」
ふと亮介が、注ぎたてのビールの泡をすすりながらそれに気付いて発言した。指摘された日奈子は慌ててごまかすようなしぐさで、髪を耳にかけていた。そのとき、そばにいた伊佐敷が気付く──彼女のうなじに、
「お、思い出したの。女子アナとのニュース、聞いたことあったなと思って」
「あー、だろうな」
「確かにそのスキャンダルのイメージついてから大変だったろうけど、まあよくやってると思うよ」
本人から詳しく聞いたわけではないが──こちらから聞くのも
「……でもそういうの全部、“言い訳”みたいにしたくないタイプなんだろーね」
「なに、今日初めて観に来た割に、やたらと肩持つじゃん。やっぱイケメンだから?」
「全然。そんなんじゃないよ」
「なんとなく──なんとなく、そう思うだけ」彼女の“偏見”は、突拍子もないが、なぜだか妙に現実的で、情けをかけるような口ぶりだった。
「浮気したほうが悪いのに、自分にも原因があるとか言ってさ、相手を責めようともしない“お人好し”なの」
「ダハハ、やけに
『3回裏──ここから逆転に向けてみなさんで応援しましょう! GO・GO・Swallows!』
場内アナウンスが球場を盛り上げる。音楽と歓声がさらに大きくなった。「……そうやって弱ってるときに、ほんのちょっとヒナに優しくされたくらいでさ……コロッ、とイっちゃって」そのとき、ぽつり、とこぼした日奈子の言葉は、伊佐敷には聞こえなかった。
「ホント……
(ヒナちゃんにとっても、
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