デイ・ドリーム
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「以上になります。御幸選手、本日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
向かいのソファに腰掛けるインタビュアーに向かって、御幸は軽く頭を下げた。
スポーツ雑誌の簡単な撮影とインタビューを終え、慣れない状態にされたヘアメイクに未 だ戸惑いながら、ボストンバッグの荷物をまとめる。
「御幸選手、このあとどうされます? 車出しましょうか?」
「いや……私用があるんで、自分で、テキトーに帰ります。すいません」
「いえいえ、お疲れ様です」
すれ違う編集社の社員に挨拶しつつ、オフィスビルのエレベーターに乗り、ロビーへと降りる。エントランスの自動ドアを出たところで、御幸は思わず額の上に右手をかざした。
「あっちぃ……」
照りつける太陽の光線に、ジリジリと焼かれるような、夏の昼下がり。
都内でも“夜の街”として名高いこの街には、オフィスビルも多い。先ほどまでの取材以外にこのあとの予定はないが、この街にやってきた御幸には、迎えの車を断ってでも、つ い で に立ち寄りたい場所があった。
確か、この道を入ったところの裏手だったはず──御幸は、二年ほど前の記憶を頼りに、夜に比べて閑散とした街を歩き、その角を曲がった──あった。
“喫茶 サントス”と書かれた、昭和を思わせるレトロな店名と看板に、アールデコ調の外観。ガラスの壁越しに、中の様子が見える。夜はバーとして経営している店のカウンターの中では、い か に も な主人 らしき、ベストにボウタイを合わせた初老の男が、サイフォンでコーヒーを入れていた。
「ココ、昼間もやってんだな……」
店の前で立ち止まり、滲 んだ汗を手の甲で拭う。何度か訪れたことはあるが、昼に来たのは今日が初めてだった。だからだろうか、少し雰囲気も違って見える気がした。
──いま目の前にあるこの店で、御幸と彼 女 は偶然出逢った。確かそのときも夏で、今と同じ、ペナントレースの前半戦が終わったあとだった。ちょうど二年前くらいだ。
そして、出逢って以降も、彼女との待ち合わせはいつもこの店だった。仕事柄で夜型の彼女が指定する時刻は、決まって日が沈んだ後で、二人ともココですこしアルコールを入れてから、そのあとホテルに行くのがお決まりの流れ──そんな関係を、その年の冬まで──彼女との関係は、たった半年ほどで終わった。決して昼間に会ってはくれなかったし、会うこと自体も数えるほどだった。
意味はないのだ。たまたま今日の取材現場がこの店の近くで、そのあとの予定が特になくて、ふと思い立った──それだけ。この二年の間に来ることもできただろうが、忙しさを理由にしていたのかもな、無意識のうちに忘れようとしていたのかもな、なんてことを思って、御幸はほう、とため息を吐いた。
「あの……入りたいんですけど」
ふいに、隣からそんな声がした。ぼうっとしていたせいで、店の入口を塞いでしまっていたことに気付かず、入店しようとしている客の迷惑になってしまった。
「あ、スミマセ……、」
そうして、慌てて御幸が体を避けようとしたときだった。
ふっ、と鼻をくすぐった、覚えのある香水の香り──それはきっと、フラッシュバック──ぶわっ、と全身の毛穴がかっ開 いたような、生まれて初めて遭う衝撃だった。夜と明け方にしか遭ったことのなかったその香りに、御幸はハッ、とその客を見下ろした。
「ヒナ……」
御幸が思わずその名を呼ぶと、彼 女 は驚いたようにパッと顔を上げて、目を見開いた。
毛先が緩く巻かれたロングヘアに、ノースリーブ・ハイネックのリブニット、スキニーデニムと、華奢なミュール──そのスタイルと、女性的なシェイプを示すタイトなシルエットは変わっていない。間違いなく、日奈子だった。
女性が片手で持てるほどの小さなクラッチバッグだけを手にした、見るからに軽装の日奈子は、驚いた顔のまま、ゆっくりと息を吸った。
「キ ミ ……」
ああ、その呼び方──懐かしい響きだ、と御幸の胸は静かに高鳴った。
もしかして、もしかしたら、会うこともあるかもしれない、なんて考えてたこと──見て見ぬふりをしていたのに、もう、自分自身、隠せそうにない。
ところが、日奈子はこちらの顔を確認したかと思うと、サッと踵 を返して、振り返った勢いそのままに、向こうへ立ち去ろうとした。カツ、カツ、と彼女のピンヒールが、アスファルトを鋭く突き刺すような音が鳴る。
「えっ? ちょ、ちょっと待てって!」
反射的にその腕をつかむと、さすがに日奈子も立ち止まった。慣性にしたがって、彼女のロングヘアが揺れた。
振り向いた日奈子は、呆れたような、困ったような、複雑な表情をしていた。それは御幸も初めて見る顔で、ちょっぴりしおらしい雰囲気が、いじらしく思えた。素肌の腕の柔らかな感触が、かつて二人ベッドで過ごした夜のことを、嫌でも思い起こさせる。「中 ……入るんだろ?」
「せ、せっかく会えたんだし、さ。暑いし……コーヒー一杯くらい、付き合ってよ」
少しは笑ってみたつもりだった。こんな引き止め方、未練がましいだろうか。もう彼女にとっては、終わった関係なのだろうか。そんな不安が次々によぎっていく。
だが、日奈子は抵抗するでもなく、そっと御幸の手を退けると、ひとつ息をついてから言った。
「奢ってくれるなら、いいけど」
その言葉に、ほっ、とひとまず胸をなで下ろす。「もちろん」
応えたあとも、ドアの前でただ待つように佇 んでいる日奈子を見て、御幸は慌ててドアの引き手をつかみ、手前に引いた。その一瞬で、もうすっかり彼女のペースだった。カランカラン、とドアに付けられたベルが鳴った。
「おはよう、マスター」
「ああ、ヒナちゃん。いらっしゃい」
「アイス二つちょうだい」
「奥のボックス席が空いてるよ」
「ありがとう」
店内に入り、日奈子は背後の御幸を示しながら、人差し指と中指を立て“2”をカウンターの中の主人に見せると、彼はすぐに奥の席をすすめた。もう昼過ぎだが、『おはよう』と自然に挨拶する彼女は、やはりここの常連らしい。
背もたれが垂直になった箱型の席のソファに、日奈子が脚を組んで座る。御幸もその向かいに腰掛けると、すぐにウェイトレスが二人分のおしぼりと水を持ってきた。店内のクーラーが、汗で濡れた肌を冷やした。
ウェイトレスが持ち場に戻ったのを確認してから、正面の日奈子に向き直る。御幸は彼女に会えたことに浮かれてつい、知ったふうなことを口走った。
「今日は、『ホットケーキ』はいいの?」
そう言うと、日奈子はすこし目を丸くしていた。
それは彼女が当時、来店すると必ず頼んでいた、この店の看板メニューだった。デザートにあたる品にもかかわらず、日奈子が夜に酒と共に注文するのが印象的で覚えていた。
「……アレは昼限定のメニューを、特別に夜頂くのが至高なの」
「そういうモン?」
「常連の特権だからね」
言いながら、その長い髪を腕に絡めて、綺麗に塗られた細長いネイルの爪先でほぐすようにする癖 ──……変わってねーなあ。
つい思い出してしまって、御幸はじっと目の前の日奈子を見つめていた。その髪も、化粧も、服もしぐさも、記憶の中にいた彼女と、なにも変わっていない。“二年ぶりの日奈子”は、相も変わらず魅力的だった。
ただ、違いがあるとするなら──ふと目に留まった、彼女の首筋や肩先を見て、なんとなく感じたことを、そのまま口にする。
「ちょっと、痩せた?」
「……そう?」
それを聞いた日奈子が、ノースリーブから覗く自身の腕を一 瞥 し、両手で腹のあたりを擦 ると、フゥ、とため息を吐くようにして、もう一度御幸を見た。
「キミ、そういうとこデリカシーないよね」
「えっ」
「あたしが気にしてたらどーすんの? そこは『綺麗になったね』とかじゃない? まあ、社交辞令は好きじゃないけど」
「ご、ゴメン」
ふんっ、と鼻で笑われてしまった。確か付き合っているときも、彼女に似たようなことを言われた気がする。
「ちゃんと、食べてるのかなとか、思って」
「親かよ」
「別に、心配くらいはしたっていいだろ」
「はいはいどーも。フツーだよフツー」
流されてしまった気がしていると、先ほどのウェイトレスが「お待たせいたしました」と、注文の品をトレーに乗せて運んできて、紙のコースターを二枚置いた。
「ありがと。コ レ はいらない」
日奈子が、運ばれてきたミルクとシロップのピッチャーを断ると、ウェイトレスはそれらをトレーに乗せたまま、カウンターの向こうへと去っていった。
こちらがコーヒーを必ずブラックで飲むことは、覚えてくれてるんだなあなんて、つい笑みが漏れてしまいそうだが、日奈子は変わらず淡々と、ストローの袋を開けながら続けた。
「そりゃプロ野球選手ほど、まともなモノは食べちゃいないだろうけど」
「比べるモンでもないだろ」
「そんなこと言って。こないだだってホームラン打ってたじゃん」
「出世したよねぇ、今じゃほぼスタメンだし」と、日奈子はストローをグラスにさして、真っ黒なアイスコーヒーを啜 る。その台詞に、えっ、と御幸は思わず手にした自分のグラスを落しそうになった。
「観てくれてんの?」
「店の控室のテレビ、基本的に野球中継流しっぱだから」
その話が事実だとしても、嬉しい。たとえテレビ越しでも、今も彼女の目に、自分が映っていたんだと思うと。
それから日奈子は、ふざけたようなしぐさで首をかしげながら、自身の顔を指さして言った。
「ヒナ、“あげまん”?」
「そうかも」
「冗談。本気にしないで」
その冗談にノったつもりが、彼女は先ほどの甘えるような視線を天井に向けたかと思うと、呆れて肩をすくめていた。
とはいえ、実際に彼女と別れてからの二年間で、成績も契約金もかなり伸びた。今日の取材が、御幸の単独だったことも、その表れといっていいだろう。呆れる日奈子に反して、御幸自身は割と本気だった。
「ねぇ、吸ってもいい?」
ふいに、そう言った日奈子がバッグの中から、極小の星が一面にプリントされた手のひらサイズのソフトケースを取り出し、片手で軽く振ると、飛び出した一本を歯先で咥 えだした。
「このご時世、吸える店も少なくてさ」咥えたまま紡がれた言葉と一連の動作に、は?、と御幸は目を疑った。
「おまえ……タバコなんて吸ってなかったろ」
「え?」
さらに、いつのまにか彼女の右手には、オイルライターが握られていて、親指でパキンとキャップを開けホイールを回すと、チッ、と軽い音を立てて火が付いた。伏し目のまま、左手で火を囲うようにして吸い込むしぐさも、驚くほど様になっていた。
御幸が呆然としている前で、日奈子はライターのキャップを閉めながら、左手の人差し指と中指で口元のタバコを挟み、ゆっくりと煙を吐き出した。テーブルの端にあった灰皿を手で引き寄せる。それから、何言ってんだ、とばかりに形の整った眉を上げてみせた。
「いや、昔からだけど」
「俺と付き合ってるときは、吸ってなかったじゃん」
隠れて吸ってた、なんてことはないはずだ。御幸のような吸っていない人間からすれば、さすがにニオイでわかる。
すると日奈子は、「ああ……」と思い出したようにつぶやいて、一息分吸ってから、吐いた煙と共に答えた。
「キミ、一応アスリートでしょ? キミと関係あった期間はやめてたの」
「は……」
絶句──全く気が付かなかった。
だが、本当なのだろう。なぜなら慣れたしぐさで、濃い色のリップを乗せた唇から煙を吐く彼女の姿は、まるで往年のハリウッド映画のポスターのように、絵になるほど馴染んでいるのだから。
「フフ、幻滅した? 別れて正解だったでしょ」
「……そんな言い方するなよ」
その皮肉っぽい笑い方も変わっていないが、御幸にとってはむしろ逆だった。自分も当時気付いていなかった、彼女の優しさに触れてしまって、再び胸のあたりが熱を帯びていくのを感じていた。
しかし今はもう、そんな気遣いが不要なほど、自分には気がないらしいけれど。それでもさっきから、逐一そっぽを向いて煙を吐き出しているのを見ると、やはり彼女の優しさを期待してしまった。
……だから、諦めきれないんだよな。
自分にばかり都合の良い解釈をしてでも、その優しさに縋 っていたい──そう、彼女は初めて会ったときから、御幸にとっては“優しい女性”という印象だった。
「で?」
「え?」
「一度関係切られた女を必死に呼び止めてまで、何か言いたいことでもあんの?」
そこで脚を組み替えた日奈子が、また皮肉っぽく笑った。
「ワンチャン、セックスできるかもって?」
品のない冗談に、御幸もつい眉をひそめた。
「あのなあ」
「別に一回くらいイイけど? キミとはカラダの相性は良かったからね」
ぐらり、とその魅力的ながらワ ル イ 誘いに、胸の中で心臓が傾き、ちょっと揺らいでしまった。
だが、そんな物言いができるのは、彼女が性に奔放なこと以上に、御幸のことを今でも“かつてのセ フ レ の一人”としか思っていない証拠だった。実際、御幸自身は日奈子とだけ付き合っているつもりでも、その期間、彼女が複数の男と関係を持っていたような形跡はあった。隠すつもりもなかったのだろうが。
「そんなんじゃねーよ」
「じゃあなに? まさかヨリ戻したいとか? 寝言はセックスんときのベッドで言うモンでしょ」
トントン、と指先で器用に灰を落として、また笑いながら吸い込んだ。浮気癖は、あまり治っていないのだろうか。
「……そ う だ、って言ったら?」
「ヒナ言ったでしょ、真 っ昼 間 からの寝言は勘弁して。サムイ」
「ココに来たの、ホントにたまたまだったんだよ。今日、別れてから初めて来た」
信じてもらえるかわからないが、正直に話した。しかし、意を決した御幸をよそに、日奈子は冷めた態度ですんなりうなずいた。
「だろーね。キミ、暇じゃないだろうし」
「だからさ……なんていうか、その……やっぱ日奈子とは、」
「なに、“運命”的なモノ感じちゃった?」
くつくつと口の中で煙を転がしながら声を抑える彼女に、どこか小馬鹿にしたような感じで笑われる。
「キミ、案外ロマンチストだったんだね」
「茶化すなよ」
「だってさ、あんな一方的に別れられて、連絡もできなくなって……あっさり『はいそーですか』とは、ならないだろ?」
「でもキミ、女のコに困ることないでしょ。あれからもう二年くらい経ってるし。現にプロ野球選手なんだから」
「……けど、別れてからは、」
「なに」
フゥー、とそこで言葉を切り、天井を仰ぎ見て煙を吐き出した日奈子は、再び正面の御幸をその両目で捕らえた。その目は、なんだか楽しそうな空気を孕 んでいた。リップでツヤめいた唇が、三日月の形に弧を描いた。
「他の女じゃ、物足りなかった?」
マスカラがたっぷり塗られたまつ毛にすこし隠れて、日奈子の猫のようにきゅっ、と細くなった瞳が、ギラギラと艶めかしい光を放つ。立ちのぼる紫煙も、御幸の瞳を透かす眼鏡のレンズもものともせず、貫きそうなほど鋭く、じわじわと毒のように効いてくる視線。
「ヒナ……」
「ん?」
思わず彼女の名前を呼ぶと、薄く笑みを浮かべた日奈子は、小さく首をかしげて応えた。ヒナが見ている。テレビ越しでなく、いま、この瞬間。ヒナが俺を見ている。火照った頬を、額に滲んだ汗が伝う。
御幸は、その視線に全て見透かされた気になって、彼女のタイトな衣服の下の肉感が脳を占め──無意識に生唾を飲み込むと、ゴキュ、と自分でも聞いたことのないほど生々しい音が響いた。
日奈子はそんな御幸を前に、タバコを燻 らせながら、フフ、とまた笑った。
「まあ、悪い気はしないかな」
そう言うと、日奈子はタバコを持っていないほうの手で、隣に置いていたクラッチバッグの中からペンを取り出し、テーブルの端に立てられた紙ナプキンの束の一枚を引き抜いた。それからキャップを口に咥えて外すと、さらさらと白いナプキンに何かを書きだし、「ん」とそれを滑らすようにして御幸のほうへ差し出した。
「“運命”分の支払い」
ペンをしまう日奈子の言葉に、目線を落としてテーブルの上のそれを見つめる。書いてあるのは数字で、その桁数からして、携帯電話の番号だった。
「連絡先、ラインしか教えてなかったでしょ? ヤりたくなったら電話して」
最後の一息を吐き出すと、日奈子は持っていたタバコの火を灰皿で揉み消した。残った煙が、吸い殻の先から細くひとすじ立ち上 って、その匂いにもまた、眉をひそめた。
さっきもそうだが、彼女が御幸の前で品のない言い方をするときは、決まってこちらを突き放したいときだ。そういう言い方をすれば、こちらが引 く とでも思っているのだろうか。お互い、いい歳した大人で、それは幼稚が過ぎないか、とも思うのだが。それか、子ども扱いされているのだろうか。
でも今思えば、そうやって当時から、距離をとられていた。セックスをする前提でしか、会ってはくれなかった。
「……こんなの教えられても、おまえが出なきゃ一緒だろ」
「あ、バレた?」
からかうみたいな調子で笑われたとしても、こっちは真剣なのだから。繋ぎ止めるしかないのだ。
「せめて店の連絡先とか、」
「キミもしつこいね。店は教えらんないって言ってんでしょ」
当時と同じように、うんざりした表情で日奈子は肩を落とした。“店”とは、“日奈子が働いている店”のことだ。彼女は頑 に教えようとしなかった。
「それに、キミが行くような店じゃないから」
「んなことねーよ、野球選手だって行くわ」
「そうじゃなくてさ……」困ったように右耳の後ろのうなじを指先で撫 でながら、日奈子は眉間にシワを寄せた。
彼女の風貌と話しぶり、いわゆる“歓楽街”であるこの街で、夜の時間帯に働いているということから、日奈子の職業はおそらく“水商売”の類いなのだろうと察することはできる。今さら偏見も何もないのだが、何がそんなに気になるのだろうか。
……訊 いたらまた、『キミはほんとデリカシーがない』とか言われんだろうな──御幸はひっそりと苦笑いするしかなかった。
「せめてショートメールでも送っとけば。それなら見るかも」
「普通のメールと、なんかちがうの?」
しかし、御幸がそう尋ねると、苦い顔をしていた日奈子はきょとん、とした表情に変わって、次の瞬間「あはは!」と声を上げて笑った。
「キミ、相変わらずスマホ疎いんだね」
くしゃりと、子どもみたいに無邪気に笑う顔に、ドキッと見惚れてしまう。先ほどまでの皮肉っぽい笑い方と違う、ときどき見せるその屈託のない彼女の笑顔は特に好きで、御幸もよく覚えていた。「チームメイトにでも教えてもらいなよ」
「コーヒーごちそうさま」
そう口にして、後腐れない様子で立ち上がっては、店のドアへと向かう日奈子がすれ違いざま、こちらの肩をするりと撫でていった。その指先が、御幸の耳たぶをすこし掠 めた。ゾクッ、と肩が縮こまる──ああ、も っ と 欲 し い 、と──彼女の柔らかな肌の感触が染み付いている、カラダは正直だ。
ちらりと目でその後ろ姿を追いかけても、彼女は振り返りもせずに、おそらく“出勤”していく。
「マスター、ごちそうさま」
「いつもありがとう。いってらっしゃい」
カランカラン、とドアベルが鳴り響いて、こちらの席まで聞こえてきた。殺風景になった目の前のシートの背もたれに、ゆっくりと向き直ったあと、視線を落とす。
テーブルの上には、氷だけを残したグラス、逆にほとんど手をつけていないアイスコーヒー、筒の中に丸まった伝票、電話番号の書かれた紙ナプキンと、灰皿に残った吸い殻──そこに、うすく彼女のリップの色が移っている──白昼夢でも見ていたような気分だ。
今日のこれを、『何かの縁』だとありきたりな言葉で表現してしまっても、いいものだろうか。それでも、御幸の胸に湧いてくるこの感情は、紛れもなく、悦 びだった。
日奈子に会えた。またこの店で出逢えた。こればかりは現実なのだ。
「……ヒナ…………」
もう一度、その呼びかけに応えてくれる彼女が、見たい。沸々 と込み上げる、無意識のうちに積もっていた二年分の欲が、止めどなく溢 れてくる感覚。『好き』だとか、そんなに可愛げのあるものだろうかというほど、まるで、切れば血でも出るような想い。
御幸はソファに大きくもたれると──彼女の言う『真っ昼間』から──夢見心地で軽く目を伏せた。自分の手元に置かれた、ちっとも減っていないアイスコーヒーは、氷が溶けて、すっかり薄くなっていた。
(彼が野球に対してストイック過ぎた場合、こういう未来もあるかもしれないな、という妄想の産物です。)
「こちらこそ、ありがとうございます」
向かいのソファに腰掛けるインタビュアーに向かって、御幸は軽く頭を下げた。
スポーツ雑誌の簡単な撮影とインタビューを終え、慣れない状態にされたヘアメイクに
「御幸選手、このあとどうされます? 車出しましょうか?」
「いや……私用があるんで、自分で、テキトーに帰ります。すいません」
「いえいえ、お疲れ様です」
すれ違う編集社の社員に挨拶しつつ、オフィスビルのエレベーターに乗り、ロビーへと降りる。エントランスの自動ドアを出たところで、御幸は思わず額の上に右手をかざした。
「あっちぃ……」
照りつける太陽の光線に、ジリジリと焼かれるような、夏の昼下がり。
都内でも“夜の街”として名高いこの街には、オフィスビルも多い。先ほどまでの取材以外にこのあとの予定はないが、この街にやってきた御幸には、迎えの車を断ってでも、
確か、この道を入ったところの裏手だったはず──御幸は、二年ほど前の記憶を頼りに、夜に比べて閑散とした街を歩き、その角を曲がった──あった。
“喫茶 サントス”と書かれた、昭和を思わせるレトロな店名と看板に、アールデコ調の外観。ガラスの壁越しに、中の様子が見える。夜はバーとして経営している店のカウンターの中では、
「ココ、昼間もやってんだな……」
店の前で立ち止まり、
──いま目の前にあるこの店で、御幸と
そして、出逢って以降も、彼女との待ち合わせはいつもこの店だった。仕事柄で夜型の彼女が指定する時刻は、決まって日が沈んだ後で、二人ともココですこしアルコールを入れてから、そのあとホテルに行くのがお決まりの流れ──そんな関係を、その年の冬まで──彼女との関係は、たった半年ほどで終わった。決して昼間に会ってはくれなかったし、会うこと自体も数えるほどだった。
意味はないのだ。たまたま今日の取材現場がこの店の近くで、そのあとの予定が特になくて、ふと思い立った──それだけ。この二年の間に来ることもできただろうが、忙しさを理由にしていたのかもな、無意識のうちに忘れようとしていたのかもな、なんてことを思って、御幸はほう、とため息を吐いた。
「あの……入りたいんですけど」
ふいに、隣からそんな声がした。ぼうっとしていたせいで、店の入口を塞いでしまっていたことに気付かず、入店しようとしている客の迷惑になってしまった。
「あ、スミマセ……、」
そうして、慌てて御幸が体を避けようとしたときだった。
ふっ、と鼻をくすぐった、覚えのある香水の香り──それはきっと、フラッシュバック──ぶわっ、と全身の毛穴がかっ
「ヒナ……」
御幸が思わずその名を呼ぶと、
毛先が緩く巻かれたロングヘアに、ノースリーブ・ハイネックのリブニット、スキニーデニムと、華奢なミュール──そのスタイルと、女性的なシェイプを示すタイトなシルエットは変わっていない。間違いなく、日奈子だった。
女性が片手で持てるほどの小さなクラッチバッグだけを手にした、見るからに軽装の日奈子は、驚いた顔のまま、ゆっくりと息を吸った。
「
ああ、その呼び方──懐かしい響きだ、と御幸の胸は静かに高鳴った。
もしかして、もしかしたら、会うこともあるかもしれない、なんて考えてたこと──見て見ぬふりをしていたのに、もう、自分自身、隠せそうにない。
ところが、日奈子はこちらの顔を確認したかと思うと、サッと
「えっ? ちょ、ちょっと待てって!」
反射的にその腕をつかむと、さすがに日奈子も立ち止まった。慣性にしたがって、彼女のロングヘアが揺れた。
振り向いた日奈子は、呆れたような、困ったような、複雑な表情をしていた。それは御幸も初めて見る顔で、ちょっぴりしおらしい雰囲気が、いじらしく思えた。素肌の腕の柔らかな感触が、かつて二人ベッドで過ごした夜のことを、嫌でも思い起こさせる。「
「せ、せっかく会えたんだし、さ。暑いし……コーヒー一杯くらい、付き合ってよ」
少しは笑ってみたつもりだった。こんな引き止め方、未練がましいだろうか。もう彼女にとっては、終わった関係なのだろうか。そんな不安が次々によぎっていく。
だが、日奈子は抵抗するでもなく、そっと御幸の手を退けると、ひとつ息をついてから言った。
「奢ってくれるなら、いいけど」
その言葉に、ほっ、とひとまず胸をなで下ろす。「もちろん」
応えたあとも、ドアの前でただ待つように
「おはよう、マスター」
「ああ、ヒナちゃん。いらっしゃい」
「アイス二つちょうだい」
「奥のボックス席が空いてるよ」
「ありがとう」
店内に入り、日奈子は背後の御幸を示しながら、人差し指と中指を立て“2”をカウンターの中の主人に見せると、彼はすぐに奥の席をすすめた。もう昼過ぎだが、『おはよう』と自然に挨拶する彼女は、やはりここの常連らしい。
背もたれが垂直になった箱型の席のソファに、日奈子が脚を組んで座る。御幸もその向かいに腰掛けると、すぐにウェイトレスが二人分のおしぼりと水を持ってきた。店内のクーラーが、汗で濡れた肌を冷やした。
ウェイトレスが持ち場に戻ったのを確認してから、正面の日奈子に向き直る。御幸は彼女に会えたことに浮かれてつい、知ったふうなことを口走った。
「今日は、『ホットケーキ』はいいの?」
そう言うと、日奈子はすこし目を丸くしていた。
それは彼女が当時、来店すると必ず頼んでいた、この店の看板メニューだった。デザートにあたる品にもかかわらず、日奈子が夜に酒と共に注文するのが印象的で覚えていた。
「……アレは昼限定のメニューを、特別に夜頂くのが至高なの」
「そういうモン?」
「常連の特権だからね」
言いながら、その長い髪を腕に絡めて、綺麗に塗られた細長いネイルの爪先でほぐすようにする
つい思い出してしまって、御幸はじっと目の前の日奈子を見つめていた。その髪も、化粧も、服もしぐさも、記憶の中にいた彼女と、なにも変わっていない。“二年ぶりの日奈子”は、相も変わらず魅力的だった。
ただ、違いがあるとするなら──ふと目に留まった、彼女の首筋や肩先を見て、なんとなく感じたことを、そのまま口にする。
「ちょっと、痩せた?」
「……そう?」
それを聞いた日奈子が、ノースリーブから覗く自身の腕を
「キミ、そういうとこデリカシーないよね」
「えっ」
「あたしが気にしてたらどーすんの? そこは『綺麗になったね』とかじゃない? まあ、社交辞令は好きじゃないけど」
「ご、ゴメン」
ふんっ、と鼻で笑われてしまった。確か付き合っているときも、彼女に似たようなことを言われた気がする。
「ちゃんと、食べてるのかなとか、思って」
「親かよ」
「別に、心配くらいはしたっていいだろ」
「はいはいどーも。フツーだよフツー」
流されてしまった気がしていると、先ほどのウェイトレスが「お待たせいたしました」と、注文の品をトレーに乗せて運んできて、紙のコースターを二枚置いた。
「ありがと。
日奈子が、運ばれてきたミルクとシロップのピッチャーを断ると、ウェイトレスはそれらをトレーに乗せたまま、カウンターの向こうへと去っていった。
こちらがコーヒーを必ずブラックで飲むことは、覚えてくれてるんだなあなんて、つい笑みが漏れてしまいそうだが、日奈子は変わらず淡々と、ストローの袋を開けながら続けた。
「そりゃプロ野球選手ほど、まともなモノは食べちゃいないだろうけど」
「比べるモンでもないだろ」
「そんなこと言って。こないだだってホームラン打ってたじゃん」
「出世したよねぇ、今じゃほぼスタメンだし」と、日奈子はストローをグラスにさして、真っ黒なアイスコーヒーを
「観てくれてんの?」
「店の控室のテレビ、基本的に野球中継流しっぱだから」
その話が事実だとしても、嬉しい。たとえテレビ越しでも、今も彼女の目に、自分が映っていたんだと思うと。
それから日奈子は、ふざけたようなしぐさで首をかしげながら、自身の顔を指さして言った。
「ヒナ、“あげまん”?」
「そうかも」
「冗談。本気にしないで」
その冗談にノったつもりが、彼女は先ほどの甘えるような視線を天井に向けたかと思うと、呆れて肩をすくめていた。
とはいえ、実際に彼女と別れてからの二年間で、成績も契約金もかなり伸びた。今日の取材が、御幸の単独だったことも、その表れといっていいだろう。呆れる日奈子に反して、御幸自身は割と本気だった。
「ねぇ、吸ってもいい?」
ふいに、そう言った日奈子がバッグの中から、極小の星が一面にプリントされた手のひらサイズのソフトケースを取り出し、片手で軽く振ると、飛び出した一本を歯先で
「このご時世、吸える店も少なくてさ」咥えたまま紡がれた言葉と一連の動作に、は?、と御幸は目を疑った。
「おまえ……タバコなんて吸ってなかったろ」
「え?」
さらに、いつのまにか彼女の右手には、オイルライターが握られていて、親指でパキンとキャップを開けホイールを回すと、チッ、と軽い音を立てて火が付いた。伏し目のまま、左手で火を囲うようにして吸い込むしぐさも、驚くほど様になっていた。
御幸が呆然としている前で、日奈子はライターのキャップを閉めながら、左手の人差し指と中指で口元のタバコを挟み、ゆっくりと煙を吐き出した。テーブルの端にあった灰皿を手で引き寄せる。それから、何言ってんだ、とばかりに形の整った眉を上げてみせた。
「いや、昔からだけど」
「俺と付き合ってるときは、吸ってなかったじゃん」
隠れて吸ってた、なんてことはないはずだ。御幸のような吸っていない人間からすれば、さすがにニオイでわかる。
すると日奈子は、「ああ……」と思い出したようにつぶやいて、一息分吸ってから、吐いた煙と共に答えた。
「キミ、一応アスリートでしょ? キミと関係あった期間はやめてたの」
「は……」
絶句──全く気が付かなかった。
だが、本当なのだろう。なぜなら慣れたしぐさで、濃い色のリップを乗せた唇から煙を吐く彼女の姿は、まるで往年のハリウッド映画のポスターのように、絵になるほど馴染んでいるのだから。
「フフ、幻滅した? 別れて正解だったでしょ」
「……そんな言い方するなよ」
その皮肉っぽい笑い方も変わっていないが、御幸にとってはむしろ逆だった。自分も当時気付いていなかった、彼女の優しさに触れてしまって、再び胸のあたりが熱を帯びていくのを感じていた。
しかし今はもう、そんな気遣いが不要なほど、自分には気がないらしいけれど。それでもさっきから、逐一そっぽを向いて煙を吐き出しているのを見ると、やはり彼女の優しさを期待してしまった。
……だから、諦めきれないんだよな。
自分にばかり都合の良い解釈をしてでも、その優しさに
「で?」
「え?」
「一度関係切られた女を必死に呼び止めてまで、何か言いたいことでもあんの?」
そこで脚を組み替えた日奈子が、また皮肉っぽく笑った。
「ワンチャン、セックスできるかもって?」
品のない冗談に、御幸もつい眉をひそめた。
「あのなあ」
「別に一回くらいイイけど? キミとはカラダの相性は良かったからね」
ぐらり、とその魅力的ながら
だが、そんな物言いができるのは、彼女が性に奔放なこと以上に、御幸のことを今でも“かつての
「そんなんじゃねーよ」
「じゃあなに? まさかヨリ戻したいとか? 寝言はセックスんときのベッドで言うモンでしょ」
トントン、と指先で器用に灰を落として、また笑いながら吸い込んだ。浮気癖は、あまり治っていないのだろうか。
「……
「ヒナ言ったでしょ、
「ココに来たの、ホントにたまたまだったんだよ。今日、別れてから初めて来た」
信じてもらえるかわからないが、正直に話した。しかし、意を決した御幸をよそに、日奈子は冷めた態度ですんなりうなずいた。
「だろーね。キミ、暇じゃないだろうし」
「だからさ……なんていうか、その……やっぱ日奈子とは、」
「なに、“運命”的なモノ感じちゃった?」
くつくつと口の中で煙を転がしながら声を抑える彼女に、どこか小馬鹿にしたような感じで笑われる。
「キミ、案外ロマンチストだったんだね」
「茶化すなよ」
「だってさ、あんな一方的に別れられて、連絡もできなくなって……あっさり『はいそーですか』とは、ならないだろ?」
「でもキミ、女のコに困ることないでしょ。あれからもう二年くらい経ってるし。現にプロ野球選手なんだから」
「……けど、別れてからは、」
「なに」
フゥー、とそこで言葉を切り、天井を仰ぎ見て煙を吐き出した日奈子は、再び正面の御幸をその両目で捕らえた。その目は、なんだか楽しそうな空気を
「他の女じゃ、物足りなかった?」
マスカラがたっぷり塗られたまつ毛にすこし隠れて、日奈子の猫のようにきゅっ、と細くなった瞳が、ギラギラと艶めかしい光を放つ。立ちのぼる紫煙も、御幸の瞳を透かす眼鏡のレンズもものともせず、貫きそうなほど鋭く、じわじわと毒のように効いてくる視線。
「ヒナ……」
「ん?」
思わず彼女の名前を呼ぶと、薄く笑みを浮かべた日奈子は、小さく首をかしげて応えた。ヒナが見ている。テレビ越しでなく、いま、この瞬間。ヒナが俺を見ている。火照った頬を、額に滲んだ汗が伝う。
御幸は、その視線に全て見透かされた気になって、彼女のタイトな衣服の下の肉感が脳を占め──無意識に生唾を飲み込むと、ゴキュ、と自分でも聞いたことのないほど生々しい音が響いた。
日奈子はそんな御幸を前に、タバコを
「まあ、悪い気はしないかな」
そう言うと、日奈子はタバコを持っていないほうの手で、隣に置いていたクラッチバッグの中からペンを取り出し、テーブルの端に立てられた紙ナプキンの束の一枚を引き抜いた。それからキャップを口に咥えて外すと、さらさらと白いナプキンに何かを書きだし、「ん」とそれを滑らすようにして御幸のほうへ差し出した。
「“運命”分の支払い」
ペンをしまう日奈子の言葉に、目線を落としてテーブルの上のそれを見つめる。書いてあるのは数字で、その桁数からして、携帯電話の番号だった。
「連絡先、ラインしか教えてなかったでしょ? ヤりたくなったら電話して」
最後の一息を吐き出すと、日奈子は持っていたタバコの火を灰皿で揉み消した。残った煙が、吸い殻の先から細くひとすじ立ち
さっきもそうだが、彼女が御幸の前で品のない言い方をするときは、決まってこちらを突き放したいときだ。そういう言い方をすれば、こちらが
でも今思えば、そうやって当時から、距離をとられていた。セックスをする前提でしか、会ってはくれなかった。
「……こんなの教えられても、おまえが出なきゃ一緒だろ」
「あ、バレた?」
からかうみたいな調子で笑われたとしても、こっちは真剣なのだから。繋ぎ止めるしかないのだ。
「せめて店の連絡先とか、」
「キミもしつこいね。店は教えらんないって言ってんでしょ」
当時と同じように、うんざりした表情で日奈子は肩を落とした。“店”とは、“日奈子が働いている店”のことだ。彼女は
「それに、キミが行くような店じゃないから」
「んなことねーよ、野球選手だって行くわ」
「そうじゃなくてさ……」困ったように右耳の後ろのうなじを指先で
彼女の風貌と話しぶり、いわゆる“歓楽街”であるこの街で、夜の時間帯に働いているということから、日奈子の職業はおそらく“水商売”の類いなのだろうと察することはできる。今さら偏見も何もないのだが、何がそんなに気になるのだろうか。
……
「せめてショートメールでも送っとけば。それなら見るかも」
「普通のメールと、なんかちがうの?」
しかし、御幸がそう尋ねると、苦い顔をしていた日奈子はきょとん、とした表情に変わって、次の瞬間「あはは!」と声を上げて笑った。
「キミ、相変わらずスマホ疎いんだね」
くしゃりと、子どもみたいに無邪気に笑う顔に、ドキッと見惚れてしまう。先ほどまでの皮肉っぽい笑い方と違う、ときどき見せるその屈託のない彼女の笑顔は特に好きで、御幸もよく覚えていた。「チームメイトにでも教えてもらいなよ」
「コーヒーごちそうさま」
そう口にして、後腐れない様子で立ち上がっては、店のドアへと向かう日奈子がすれ違いざま、こちらの肩をするりと撫でていった。その指先が、御幸の耳たぶをすこし
ちらりと目でその後ろ姿を追いかけても、彼女は振り返りもせずに、おそらく“出勤”していく。
「マスター、ごちそうさま」
「いつもありがとう。いってらっしゃい」
カランカラン、とドアベルが鳴り響いて、こちらの席まで聞こえてきた。殺風景になった目の前のシートの背もたれに、ゆっくりと向き直ったあと、視線を落とす。
テーブルの上には、氷だけを残したグラス、逆にほとんど手をつけていないアイスコーヒー、筒の中に丸まった伝票、電話番号の書かれた紙ナプキンと、灰皿に残った吸い殻──そこに、うすく彼女のリップの色が移っている──白昼夢でも見ていたような気分だ。
今日のこれを、『何かの縁』だとありきたりな言葉で表現してしまっても、いいものだろうか。それでも、御幸の胸に湧いてくるこの感情は、紛れもなく、
日奈子に会えた。またこの店で出逢えた。こればかりは現実なのだ。
「……ヒナ…………」
もう一度、その呼びかけに応えてくれる彼女が、見たい。
御幸はソファに大きくもたれると──彼女の言う『真っ昼間』から──夢見心地で軽く目を伏せた。自分の手元に置かれた、ちっとも減っていないアイスコーヒーは、氷が溶けて、すっかり薄くなっていた。
(彼が野球に対してストイック過ぎた場合、こういう未来もあるかもしれないな、という妄想の産物です。)
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