一言一句
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「ハァ…………」
「なによ、めずらしくため息なんかついちゃって」
職場の先輩である女性社員が、デスクで頬杖をついていたこちらへ歩み寄ってきて言った。
「新婚で幸せいっぱいのはずなのに、そのせっかくの幸せが逃げちゃうよー?」
「すいません、今 日 ばっかりはどうしても──」
恭子がそう応えると、先輩はそばにあったデジタル時計の日付を見て、納得したようにうなずき、声を上げた。
「ああ〜今日だったっけ、『発表』」
「そうなんです。別に何も変わらないんですけど、落ち着かなくて……ただ、もう今日はネット見ないって決めてます」
「あはは、いい判断かもね」
先輩に合わせて恭子も時計を見ると、もう終業時間は過ぎている。ぼうっとしすぎたな、と立ち上がってアウターを羽織り、カバンを肩にかけた。
「愚痴みたいなこと言ってすみません。お先に失礼します」
「全然愚痴じゃないよ〜御幸ちゃんの今日が、無事平穏に終わることを祈ってるね」
「ありがとうございます。お疲れ様です」
「おつかれ」
『御幸ちゃん』と、先輩たちに呼ばれるのも慣れてきたというのに。彼の素敵な響きの苗字をもらってから、まだ慣れなくて、とこぼせば“習うより慣れろ”と、職場での呼称は『宇佐美さん』から『御幸ちゃん』へと更新された。
おかげで耐性はついてきた気がする。社員の少ない職場だからと、信頼して夫の素性を伝えていたのは、結果的によかったのかもしれない。
「ねぇ、御幸結婚したって」
ドキッ!、と心臓が跳ね、バレるはずもないのに顔が強張る。帰路についた恭子が、駅のホームで電車を待っていたところ、少し後ろに並んでいた制服の女子高生二人組の話し声が聞こえてしまった。
「見たよインスタ! 相手、同級生のマネージャーらしい」
「高校の頃からの彼女なんて、いいよね〜」
「ね! ワタシらと同い年のときからってことでしょ? めちゃ“一途”ってカンジ。コメント見てキュンした」
「ほんそれ。みゆかず中身までイケメンかよ〜」
「絶対奥さん美人じゃんね」「間違いねぇ」すると、まもなく電車がやってくるアナウンスが響く。ホームに緩やかな風が流れ出す気配がした。「てか明日の英語の小テまじだるい」「それなー」彼女たちは、もう別の話題に夢中だった。
線路を伝って聞こえてくるガタンゴトン、という音に紛れて、恭子はこっそり笑った。自然と頬が緩む。ありがとう、名も知らない女子高生たち。貴女たちのおかげで、朝から緊張していた心が、ちょっと軽くなった。
帰ったらまず、お風呂洗って、付け合わせの野菜の下処理からだな──今夜の夕食作りのシミュレーションをする余裕も出てきたみたいだ。帰宅ラッシュの人混みの中、恭子は足取り軽く、電車へと乗り込んだ。
─────────────────────────
「ニュース観ましたよ。おめでとうございます」
タクシーに乗り込み、行き先を告げると、壮年の男性運転手に、第一声でそう言われた。すこし驚いたものの、運転手には申し訳ないが、本日何度目かわからない『おめでとうございます』だったので、御幸はすっかり言い慣れた口で礼を伝えた。
「はは、ありがとうございます」
「お祝いですか?」
「いや、今日は仕事の取材です。そこでスタッフさんから頂いちゃって──今朝、発表見て慌てて準備してくれたみたいで、申し訳なかったんですけど」
「そうでしたかあ」
そう言って、バックミラー越しでも運転手の目に留まったのであろう、手に持っていた大きな花束を、崩れないようそっと後部座席の隣に置いた。職業柄、花束をもらうことは多いので、家に帰ればいくつか花瓶があるはずだ。帰ったら妻に出してもらおう、とリマインドする。
自宅へと走り出したタクシーの中で、ポケットからスマホを取り出すと、仕事中で確認できなかったため、やはり『発表』を見た人たちからのメッセージで溢れていた。一応、先に来ているものから返しておこうと、画面の下の方をさかのぼっていく。
『ありがとう』『野球は今までどおり』『別に何も変わらねーけど』と、ありきたりな返事を予測変換に溜め込みながら送っていると、彼 からのメッセージにたどりついた。
よく見ると通話しようとしてきた履歴が残っている。返さないとあとでもっと面倒になるので、仕方なくかけ直してやると、彼はすぐに電話に出た。「もしもし、一也?」
「なんですぐ出ないのさ? 俺が祝ってやるって言ってんのに」
「今まで仕事してたんだよ、無茶言うな」
相変わらずの自分勝手さにため息が出る。お互いシーズンオフとはいえ、成宮だって取材だなんだと忙しいだろうに。
「おまえ、月末の表彰式の服、ちゃんと用意した?」
「んー、一応揃えたけどな。次んときケツ入るかなあ。毎回サイズ変わるから……まあ、仕立て直しゃいいんだけど」
「一也、下半身デブだからなー」
「うるせー。鍛えてんだよ」
「ネットの反応見たぜ。広まってるよー“御幸ロス”」
「大丈夫。結果出しゃどうにでもなるって」
「いや、批判は大したことないよ。『女子アナじゃなきゃいい』ってのが大半」
「よくわかんねーけど、そういうもんなの?」
「だいたいなに、あのコメント。ちょっと惚気が過ぎるんじゃない?」
「その言い方はやめろ。事実しか書いてねーだろ」
「まあ、恭子ちゃんほどの女性 が一也を選んでくれたのはマジで奇跡だと思うよ。それは事実」
「んなことは俺が一番わかってんだよっ」
「もう切るぞ。帰ったら愛妻の料理が待ってんだこっちは」
「はぁ〜? やっぱ惚気じゃん。メニューは?」
「照り焼き」
「いいなー今度食わせて」
「やめろよ、恭子おまえに甘いんだから。じゃあな」
「はいはい、おめでとさん」
最初からその言葉を言えばいいのに、と呆れ苦笑いしながら電話を切る。左手の窓から、交差点で停車中の外の景色を見れば、もう自宅は近い。
御幸は軽く上半身を起こして、フロントガラスから見える赤信号を見つめながら、今ごろ自宅で夕食の準備をしているであろう妻の姿に思いを馳せていた。
─────────────────────────
「よし」恭子はキッチンでエプロンを付け腕まくりしたまま、両手を腰に当てて一息ついた。
お風呂が先ならば、沸かせばすぐに入れる。夕食が先ならば、あとはすでに常温になったメインの肉を焼くだけなので、出来立てを食べてもらえる。付け合わせは皿にスタンバイしているので、直前のレンチンで勘弁してほしい。
あとまだできることあったかな──たまにはちゃんとテーブルセッティングでもしておくか、と食器棚の引き出しから箸を取り出したところで、レシピを見るためにキッチン台に立てかけていた恭子のスマホが着信を知らせた。表示された名前を見て、なんだろう、と思い手に取って画面を指でスライドし、耳に当てがう。「はい、もしもし」
「うーす、お疲れさん」
「おつかれ、倉持」
「おー。今どんな気分だよ」
「さっきまでちょっと胃が痛かった。もうとっくに籍入れてるから、結婚の事実は変わんないのに」
「ヒャハハ」
ごく一部の近しい人には、入籍の時点で報告はしていた。倉持もその一人だった。
「わざわざ電話なんて、どうかした?」
「いや、野球部のグループラインに返事なかったからよ。御幸はまだしも、律儀な宇佐美にしちゃめずらしいから、なんかあったんかと思って」
相変わらず気遣い屋というか、社会人になっても変わらないな、と恭子は感心してつい笑ってしまう。夫に言わせると、『あいつは鋭すぎてときどき怖い』らしいが、ちょっとわかる気がする。
「ゴメン、あとで返信する。色々目に入らないようにと思って、今日はテレビ点けてないし、スマホもほとんど見てないの。“自衛”ってヤツね」
「そりゃ気持ちはわかるけどよ。ネット見ても祝福してる人間がほとんどだぞ、でなきゃそいつらがクソだわ」
「ありがと、そう言ってくれると助かる」
「てかなんだよおまえ、じゃあ御幸の出したコメントも見てねーのか?」
「コメントって……別に『結婚しました』って、そういう“ご報告”でしょ?」
「マジかよ」と倉持はめずらしくこちらに対して、呆れたような声で言った。気に障ったなら申し訳ないが、恭子はよく理解できなかった。
「俺が今から個人ラインでスクショ送ってやるわ。ちゃんと読んでやれ」
そう言うと、ティロン、と音が鳴って一度電話が切れた。なんのことだろう、と恭子がスマホの画面を眺めていると、まもなく『倉持』からの『写真を送信しました』という表示。すぐにタップしてそれを開くと、夫のSNSに今朝投稿されたであろう、白い画面の中心に整列した黒い字で文章が書かれた画像が出てきた。
てっきり『結婚しました。これからもよろしく』といったようなあっさりとしたものだと思っていたので、想像より多い文字量と、整った書き口調に、恭子はそれだけですこし驚いた。そのコメントに、左上から目を通す。
一文毎に、もう一度その文を読み返す。何度も戻っては読み返して、ほんの数行なのになかなか読み終わらなかった。最後の字までたどり着いて、ほう、と息が漏れる──静かに鼓動が速くなっている──もう一度頭から読み返す。
「ただいまー」
そんなことを繰り返していたら、玄関のドアを開ける音と、夫の声が聞こえてきた。
「恭子?」いつも玄関まで出迎えるからか、御幸は不思議そうな声でこちらを呼んでは、何かあったのかと廊下を滑るようにトト、と歩みを速めてキッチンへとやってきた。
「恭子、どうした? そんなとこで立ち尽くして」
「フライパン焦げたか?」と、間の抜けたことを言ってくる夫が隣に来たところで、恭子はスマホを握ったまま、思いきり飛び込むようにして、彼の両脇の下から腕を回し抱き締めた。
「う、ぉっ!?」さすがの体幹でビクともしない彼だが、不意打ちだったからか、手に持った大きな荷物を離さないまま、両脇を開けるようにしてこちらを見下ろしているのが声の位置でわかる。
「ちょ、なに、どした急に」
「花が、つぶれる、」御幸が両手に持った荷物をそっと床へ下ろすのが見える。そういえば、自分から突然抱きついたことなんて数えるくらいしかないかもしれない。そのせいか、夫のくせに彼はあたふたしながら、そっとこちらの背中を支えるようにしてゆっくりと抱き締め返してきた。「読んだよ」
「インスタのコメント。いま読んだ」
「あ、ああ。一応ちゃんと考えて、球団にもチェック入れてもらったから……」
「ち ょ っ と 違 う 」と、恭子はそのコメントに異を唱えるように言った。
「あたしは……一也に“ふさわしい人”でいたいだけ」
「え?」
そんなの気にしない、と言う人だと知っているけれど。どうせなら、そう言われたいじゃない。彼がそれに値するほどの人だから。どうせなら、堂々と並んでいたいじゃない。だからこれは、自己満足。
「でも嬉しかった。ありがとう」
そう言って見上げると、夫と眼鏡越しに目が合った。彼はちょっぴり照れくさそうにほほ笑んでいた。「そっか」
自分も 、彼と“家庭”をつくっていきたいと強く思っている。たとえば、休日に夫が作ってくれる料理が最高だとか。我が家で『照り焼き』と言ったら“鶏のむね肉”であることとか。離れていても、『おやすみ』だけは伝えたいとか。
そしてあたしたち夫婦は、きっといろんな人に恵まれている。今日はそれを実感した一日だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
そうして愛する夫を、もう一度強く抱き締めてその身に頬を寄せると、彼は優しく返して受けとめてくれた。
─────────────────────────
いつも応援していただいている皆様、ありがとうございます。私事ではありますが、皆様に結婚したことをご報告させていただきます。
お相手は、高校の同級生です。同じ野球部のマネージャーを務めていた方で、おそらく不甲斐ない主将であった自分を含め、チームをサポートしてくれていました。
学生当時から何度も助けてもらっていますが、今後の人生も、お互いパートナーとして支え合っていきたいと思える方に出会えたことに、感謝しています。野球以外に大した取り柄もない自分ですが、それでも信じてついてきてくれる、自分にはもったいないくらいの素晴らしい女性です。
選手としても、人としてもまだまだ未熟ですが、これからは妻と幸せな家庭を築いていきたいと思いますので、皆様には夫婦共々温かく見守っていただければ幸いです。今後とも、応援よろしくお願いいたします。
20xx年11月某日 御幸一也
(この二人だから成立する“ご報告”をイメージしました。)
「なによ、めずらしくため息なんかついちゃって」
職場の先輩である女性社員が、デスクで頬杖をついていたこちらへ歩み寄ってきて言った。
「新婚で幸せいっぱいのはずなのに、そのせっかくの幸せが逃げちゃうよー?」
「すいません、
恭子がそう応えると、先輩はそばにあったデジタル時計の日付を見て、納得したようにうなずき、声を上げた。
「ああ〜今日だったっけ、『発表』」
「そうなんです。別に何も変わらないんですけど、落ち着かなくて……ただ、もう今日はネット見ないって決めてます」
「あはは、いい判断かもね」
先輩に合わせて恭子も時計を見ると、もう終業時間は過ぎている。ぼうっとしすぎたな、と立ち上がってアウターを羽織り、カバンを肩にかけた。
「愚痴みたいなこと言ってすみません。お先に失礼します」
「全然愚痴じゃないよ〜御幸ちゃんの今日が、無事平穏に終わることを祈ってるね」
「ありがとうございます。お疲れ様です」
「おつかれ」
『御幸ちゃん』と、先輩たちに呼ばれるのも慣れてきたというのに。彼の素敵な響きの苗字をもらってから、まだ慣れなくて、とこぼせば“習うより慣れろ”と、職場での呼称は『宇佐美さん』から『御幸ちゃん』へと更新された。
おかげで耐性はついてきた気がする。社員の少ない職場だからと、信頼して夫の素性を伝えていたのは、結果的によかったのかもしれない。
「ねぇ、御幸結婚したって」
ドキッ!、と心臓が跳ね、バレるはずもないのに顔が強張る。帰路についた恭子が、駅のホームで電車を待っていたところ、少し後ろに並んでいた制服の女子高生二人組の話し声が聞こえてしまった。
「見たよインスタ! 相手、同級生のマネージャーらしい」
「高校の頃からの彼女なんて、いいよね〜」
「ね! ワタシらと同い年のときからってことでしょ? めちゃ“一途”ってカンジ。コメント見てキュンした」
「ほんそれ。みゆかず中身までイケメンかよ〜」
「絶対奥さん美人じゃんね」「間違いねぇ」すると、まもなく電車がやってくるアナウンスが響く。ホームに緩やかな風が流れ出す気配がした。「てか明日の英語の小テまじだるい」「それなー」彼女たちは、もう別の話題に夢中だった。
線路を伝って聞こえてくるガタンゴトン、という音に紛れて、恭子はこっそり笑った。自然と頬が緩む。ありがとう、名も知らない女子高生たち。貴女たちのおかげで、朝から緊張していた心が、ちょっと軽くなった。
帰ったらまず、お風呂洗って、付け合わせの野菜の下処理からだな──今夜の夕食作りのシミュレーションをする余裕も出てきたみたいだ。帰宅ラッシュの人混みの中、恭子は足取り軽く、電車へと乗り込んだ。
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「ニュース観ましたよ。おめでとうございます」
タクシーに乗り込み、行き先を告げると、壮年の男性運転手に、第一声でそう言われた。すこし驚いたものの、運転手には申し訳ないが、本日何度目かわからない『おめでとうございます』だったので、御幸はすっかり言い慣れた口で礼を伝えた。
「はは、ありがとうございます」
「お祝いですか?」
「いや、今日は仕事の取材です。そこでスタッフさんから頂いちゃって──今朝、発表見て慌てて準備してくれたみたいで、申し訳なかったんですけど」
「そうでしたかあ」
そう言って、バックミラー越しでも運転手の目に留まったのであろう、手に持っていた大きな花束を、崩れないようそっと後部座席の隣に置いた。職業柄、花束をもらうことは多いので、家に帰ればいくつか花瓶があるはずだ。帰ったら妻に出してもらおう、とリマインドする。
自宅へと走り出したタクシーの中で、ポケットからスマホを取り出すと、仕事中で確認できなかったため、やはり『発表』を見た人たちからのメッセージで溢れていた。一応、先に来ているものから返しておこうと、画面の下の方をさかのぼっていく。
『ありがとう』『野球は今までどおり』『別に何も変わらねーけど』と、ありきたりな返事を予測変換に溜め込みながら送っていると、
よく見ると通話しようとしてきた履歴が残っている。返さないとあとでもっと面倒になるので、仕方なくかけ直してやると、彼はすぐに電話に出た。「もしもし、一也?」
「なんですぐ出ないのさ? 俺が祝ってやるって言ってんのに」
「今まで仕事してたんだよ、無茶言うな」
相変わらずの自分勝手さにため息が出る。お互いシーズンオフとはいえ、成宮だって取材だなんだと忙しいだろうに。
「おまえ、月末の表彰式の服、ちゃんと用意した?」
「んー、一応揃えたけどな。次んときケツ入るかなあ。毎回サイズ変わるから……まあ、仕立て直しゃいいんだけど」
「一也、下半身デブだからなー」
「うるせー。鍛えてんだよ」
「ネットの反応見たぜ。広まってるよー“御幸ロス”」
「大丈夫。結果出しゃどうにでもなるって」
「いや、批判は大したことないよ。『女子アナじゃなきゃいい』ってのが大半」
「よくわかんねーけど、そういうもんなの?」
「だいたいなに、あのコメント。ちょっと惚気が過ぎるんじゃない?」
「その言い方はやめろ。事実しか書いてねーだろ」
「まあ、恭子ちゃんほどの
「んなことは俺が一番わかってんだよっ」
「もう切るぞ。帰ったら愛妻の料理が待ってんだこっちは」
「はぁ〜? やっぱ惚気じゃん。メニューは?」
「照り焼き」
「いいなー今度食わせて」
「やめろよ、恭子おまえに甘いんだから。じゃあな」
「はいはい、おめでとさん」
最初からその言葉を言えばいいのに、と呆れ苦笑いしながら電話を切る。左手の窓から、交差点で停車中の外の景色を見れば、もう自宅は近い。
御幸は軽く上半身を起こして、フロントガラスから見える赤信号を見つめながら、今ごろ自宅で夕食の準備をしているであろう妻の姿に思いを馳せていた。
─────────────────────────
「よし」恭子はキッチンでエプロンを付け腕まくりしたまま、両手を腰に当てて一息ついた。
お風呂が先ならば、沸かせばすぐに入れる。夕食が先ならば、あとはすでに常温になったメインの肉を焼くだけなので、出来立てを食べてもらえる。付け合わせは皿にスタンバイしているので、直前のレンチンで勘弁してほしい。
あとまだできることあったかな──たまにはちゃんとテーブルセッティングでもしておくか、と食器棚の引き出しから箸を取り出したところで、レシピを見るためにキッチン台に立てかけていた恭子のスマホが着信を知らせた。表示された名前を見て、なんだろう、と思い手に取って画面を指でスライドし、耳に当てがう。「はい、もしもし」
「うーす、お疲れさん」
「おつかれ、倉持」
「おー。今どんな気分だよ」
「さっきまでちょっと胃が痛かった。もうとっくに籍入れてるから、結婚の事実は変わんないのに」
「ヒャハハ」
ごく一部の近しい人には、入籍の時点で報告はしていた。倉持もその一人だった。
「わざわざ電話なんて、どうかした?」
「いや、野球部のグループラインに返事なかったからよ。御幸はまだしも、律儀な宇佐美にしちゃめずらしいから、なんかあったんかと思って」
相変わらず気遣い屋というか、社会人になっても変わらないな、と恭子は感心してつい笑ってしまう。夫に言わせると、『あいつは鋭すぎてときどき怖い』らしいが、ちょっとわかる気がする。
「ゴメン、あとで返信する。色々目に入らないようにと思って、今日はテレビ点けてないし、スマホもほとんど見てないの。“自衛”ってヤツね」
「そりゃ気持ちはわかるけどよ。ネット見ても祝福してる人間がほとんどだぞ、でなきゃそいつらがクソだわ」
「ありがと、そう言ってくれると助かる」
「てかなんだよおまえ、じゃあ御幸の出したコメントも見てねーのか?」
「コメントって……別に『結婚しました』って、そういう“ご報告”でしょ?」
「マジかよ」と倉持はめずらしくこちらに対して、呆れたような声で言った。気に障ったなら申し訳ないが、恭子はよく理解できなかった。
「俺が今から個人ラインでスクショ送ってやるわ。ちゃんと読んでやれ」
そう言うと、ティロン、と音が鳴って一度電話が切れた。なんのことだろう、と恭子がスマホの画面を眺めていると、まもなく『倉持』からの『写真を送信しました』という表示。すぐにタップしてそれを開くと、夫のSNSに今朝投稿されたであろう、白い画面の中心に整列した黒い字で文章が書かれた画像が出てきた。
てっきり『結婚しました。これからもよろしく』といったようなあっさりとしたものだと思っていたので、想像より多い文字量と、整った書き口調に、恭子はそれだけですこし驚いた。そのコメントに、左上から目を通す。
一文毎に、もう一度その文を読み返す。何度も戻っては読み返して、ほんの数行なのになかなか読み終わらなかった。最後の字までたどり着いて、ほう、と息が漏れる──静かに鼓動が速くなっている──もう一度頭から読み返す。
「ただいまー」
そんなことを繰り返していたら、玄関のドアを開ける音と、夫の声が聞こえてきた。
「恭子?」いつも玄関まで出迎えるからか、御幸は不思議そうな声でこちらを呼んでは、何かあったのかと廊下を滑るようにトト、と歩みを速めてキッチンへとやってきた。
「恭子、どうした? そんなとこで立ち尽くして」
「フライパン焦げたか?」と、間の抜けたことを言ってくる夫が隣に来たところで、恭子はスマホを握ったまま、思いきり飛び込むようにして、彼の両脇の下から腕を回し抱き締めた。
「う、ぉっ!?」さすがの体幹でビクともしない彼だが、不意打ちだったからか、手に持った大きな荷物を離さないまま、両脇を開けるようにしてこちらを見下ろしているのが声の位置でわかる。
「ちょ、なに、どした急に」
「花が、つぶれる、」御幸が両手に持った荷物をそっと床へ下ろすのが見える。そういえば、自分から突然抱きついたことなんて数えるくらいしかないかもしれない。そのせいか、夫のくせに彼はあたふたしながら、そっとこちらの背中を支えるようにしてゆっくりと抱き締め返してきた。「読んだよ」
「インスタのコメント。いま読んだ」
「あ、ああ。一応ちゃんと考えて、球団にもチェック入れてもらったから……」
「
「あたしは……一也に“ふさわしい人”でいたいだけ」
「え?」
そんなの気にしない、と言う人だと知っているけれど。どうせなら、そう言われたいじゃない。彼がそれに値するほどの人だから。どうせなら、堂々と並んでいたいじゃない。だからこれは、自己満足。
「でも嬉しかった。ありがとう」
そう言って見上げると、夫と眼鏡越しに目が合った。彼はちょっぴり照れくさそうにほほ笑んでいた。「そっか」
自分
そしてあたしたち夫婦は、きっといろんな人に恵まれている。今日はそれを実感した一日だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
そうして愛する夫を、もう一度強く抱き締めてその身に頬を寄せると、彼は優しく返して受けとめてくれた。
─────────────────────────
いつも応援していただいている皆様、ありがとうございます。私事ではありますが、皆様に結婚したことをご報告させていただきます。
お相手は、高校の同級生です。同じ野球部のマネージャーを務めていた方で、おそらく不甲斐ない主将であった自分を含め、チームをサポートしてくれていました。
学生当時から何度も助けてもらっていますが、今後の人生も、お互いパートナーとして支え合っていきたいと思える方に出会えたことに、感謝しています。野球以外に大した取り柄もない自分ですが、それでも信じてついてきてくれる、自分にはもったいないくらいの素晴らしい女性です。
選手としても、人としてもまだまだ未熟ですが、これからは妻と幸せな家庭を築いていきたいと思いますので、皆様には夫婦共々温かく見守っていただければ幸いです。今後とも、応援よろしくお願いいたします。
20xx年11月某日 御幸一也
(この二人だから成立する“ご報告”をイメージしました。)
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