恋煩い
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“最初”のイメージは、後 ろ 姿 だった。
実家を出て青心寮に入ってからしばらく──部員全員の名前はまだ覚えてないほどの日数が経った頃だ。それでもさすがに、男子に比べて人数の少ない女子マネージャーの顔くらいは、御幸も覚えていた。
1年生だった御幸は、寮のシンクで部員たちのボトルやジャグを洗っている、ジャージの後ろ姿を見つけた。野球部員に比べて──当たり前だが、小さい背中だな、と思った。ジャブジャブと、水と泡が混ざり合うその“生活”の音は、実家を出てから久しく聞いていなかった。
「ああ、洗っとくから、そこ置いといて──」
ドリンクの入っていた空のボトルを手にしている御幸の気配を背中で感じ取ったのか、彼 女 はこちらを一 瞥 だけして、洗い物の手を休めることなくそう言った。
その背中を、無意識にぼうっと見つめてしまっていたことに気付かず、その場には洗い物の水音だけが響いていた。
そうして、こちらがただ突っ立っているのをおかしく思うのも当然で、彼女はやがて忙しなく動かしていた手を止め、やや後ろにいた御幸の顔を見上げると、少し不審そうに聞いてきた。「……なに?」
確かそのとき、出逢って初めて彼女の顔をまともに見た。同い年の割に、大人びた顔立ちと佇 まい──黙々と、いわゆる“家事”をするところに隙のなさを感じたのだろうか、それが恭子の第一印象だった。
はたと目が合ってしまって、御幸の口は間の抜けたように丸く開いた。意味のない音を出したあと、自分でもよくわからないまま、それは言葉に変わった。
「あー…………手伝う?」
「は?」
御幸の言葉に、恭子はぱちくりとその大きな瞳をしばたいた。彼女の口までぽかんと開いているのが、同じく間の抜けた感じで、ちょっとだけ面白かった。
「なんで。マネージャーの仕事でしょ」
「いや、なんか量多いし、後から持ってこられてウザいかなって」
「別にこれくらい、いいけど……」
自分でもまだ驚いていた。なんで『手伝う』なんて言葉が出たのか、わからなくて。
恭子ももちろん驚いていたが、作業を終わらせたい、というのが先に思い付いたのか、行動に移すのは早かった。水と泡にまみれた両手を宙に浮かせたまま半歩左にズレると、御幸の立つスペースを空け、手にしていたスポンジを渡される。
「じゃあ、あとこれだけお願い」
「うん」
ジャージの袖を捲 りながら、持ってきた自分のボトルを、まだ洗われていない食器と一緒にして順に洗っていく。恭子はその隣で、御幸が洗ったものを手に取り、水で洗剤を流しては、左の水切りカゴに並べる。すると時折、互いの肘が微かに触れ合った。その絶妙な距離感が、なんだか心地良かった。
家事をやっていると、不思議と無心になれる。いつも実家の下 で仕事をしている父に代わってやっていたことを思い出しながら、御幸は黙々と手を動かした。ふいに恭子が口を開いた。
「慣れてるね」
そ れ が、“皿洗い”のことだと気付くまで数秒かかったが、作業しながらのことだったので、お互い大して気にならなかった。「そう?」
「別に、皿洗いくらい小学生でもできるって」
「でも慣れてない人が割れ物とか洗ってるの見ると、ヒヤヒヤするから」
「ちゃんとフタの溝まで洗えてるし。A型?」
「いや、B型」
「全然違ったわ」
「それは短絡的すぎるだろ」
「フッ、御幸って思いのほか生真面目だね」
そんな調子で苦笑いされたので、ちょっとムッとなって左を見下ろす。この頃はそこまでの身長差がなくて、思ったよりも彼女の頭が近くにあった。恭子は御幸の視線に気付かずに、まだ冗談っぽく笑っていた。
「ちゃんとお母さんのお手伝いとかするんだ?」
「えらいじゃん」恭子のその言葉に対しては、訂正するのも面倒で、適当に相槌を打ってごまかした。「まあね」今思えば、その発言がすでに彼女の“オカン気質”を物語っていた。
「意外?」
「というか、野球部のお母さんって、そういうこと全部やってくれるイメージ?」
そんな会話をしている間に、洗い物がなくなった。手に付着した泡を洗い流したいが、彼女がまだ水道を使っている。
「ああ、はいどーぞ」
「どーも」
恭子が、持っていたボトルをできる限り下の方で洗い流して、隙間を空けてくれる。何も言っていないのに、よく気の付くものだなと思った。
流水で手を洗っていると、恭子の手と少し重なり──なめらかで白く、流水を纏 って艶 めいている──ふと、その白い肌に浮かぶ、小さな傷跡が目に留まった。比較的、新しい傷。
目で追うとそれは、ポツ、ポツ、と手から腕の方へ、斑点のように飛び散っていた──見覚えがある──御幸自身も経験があった。そうだ、ヤケドの痕だ。料理で、油が跳ねたときの。
そこで、ああそうか、そう言う彼女こそ、日頃から家事をしているのか、と気付いた。
「いつまで手ぇ洗ってんの?」
「ほら、タオル」恭子はすっかり洗い物を終えて、その手には彼女が拭いた後のフェイスタオル──スポーツブランドのロゴが入ったものが握られている。「あ」と、御幸は慌てて水を止め、それを受け取った。
「ありがとう。手伝ってくれて」
こちらを見上げた恭子が笑う。「ああ……うん」ふわ、と手の中のタオルから、その柄にはそぐわない、甘い香りがした。彼女のハンドクリームの香りだった。
「……どうかした?」
きょとん、としている恭子は最初の印象と違って、妙に隙があった。それを見たら、なんだかからかいたくもなって、御幸はニヤリと笑ってみせた。
「“新婚さん”みたいだった?」
「はぁ?」
「なに言ってんの、もう」と、言いながら、タオルを奪い取られた。存外、はにかむようにして。馬鹿にされるかと思ったのだけれど。
「あんたそういう冗談言うのね」
「……さっきからそれさあ、俺、宇佐美の中でどんなイメージだったわけ?」
「あはは」
「イテッ、──ははっ」
意外と大きく口を開ける笑い方に、親しみやすさをおぼえた。そんなことを言っておきながら、このときは御幸も、恭子に対してどこか気取ったイメージを持っていたから、お互い様だった。
それでも御幸にとっては、そうやって持っているタオルで、照れ隠しにバシッと背中を叩 いてくる彼女のほうが、よっぽど可愛く思えて、つい笑ってしまった。
「かずや〜」
夕飯を終えてリビングのソファでくつろいでいると、キッチンから自分を呼ぶ声が響いた。
「かずー、ちょっとー」
「はいはい、なに」
彼女が砕けてそう呼ぶときは、大抵急かすときなので、思わず苦笑いして立ち上がり、なるべく早足で声の出どころへ向かう。
「ゴメン、洗剤の詰め替え取って。手が濡れてるの」
「ああ、待ってろ」
水と泡にまみれた両手を宙に浮かせている恭子を横目に、ストックの棚から台所用洗剤を取り出して、ボトルに継ぎ足しながら、シンクの中の洗い物を顎で示して言う。
「残りの分、俺が洗ったげるよ」
「なに、今日優しいじゃん。どういう風の吹き回し?」
「言い方」
冗談混じりに笑う妻に満タンになったボトルを手渡しながら、たしなめるように見下ろす。
「俺は昔から優しくしてたつもりなんだけどな」
おまえにだけは。──とは、言わないでおいたが。
恭子はうんざりした様子で、それでもその口からは笑みがこぼれた。「よく言うわよ、もう」
「ありがとう。でももう終わるから大丈夫」
皿洗いの続きを始める、彼女の後ろ姿──見慣れたような、懐かしいような──近くて遠い、それは、“家庭”の眺めだった。
あ の と き の風景も、美しい思い出にだなんてするつもりはないが、今夜はやけに重ねてしまって、どこかセンチメンタルだ。
「なあに、ジャマしないで」
「いーじゃん、これくらい、ご愛嬌ってことで」
その背中を抱き締めて、恭子の頭に顎を乗っける。あのときのやりとりだって、彼女にとってはきっとなんてことない、見落としてしまってもおかしくないのに、覚えていてくれたらなんていうのは、いくらなんでも理不尽すぎるだろうか。
……どうせ覚えてないんだろうなあ。
ちぇ。俺ばっかり。彼女相手では、タフでなんていられない。結婚したところで、それは変わらなかった。恭子も、変わらぬ調子で喋っていた。
「どいて」
「なんで」
「終わったの。離してくれない?」
「今から風呂?」
「そう」
「一緒に入る?」
「なんでそうなるの」
「新婚らしいことしようぜ」
「何を今さら」
彼女の長い髪を片手でもてあそんでは、その髪の隙間からちらりと覗いた白い首筋をつつ、指先でなぞると、抱き締めている体がふるりと震えた。たまらず笑ってしまう。
「たまには素肌でスキンシップもいいだろ?」
「……あんた毎晩してるじゃない」
「それとこれとは別」
「意味わかんないんだけど」
しょうもないことを話していても、心地がいいのも昔から──もう夫婦なんだし、知っていてほしい、隠さないでいたいとは思うのだけれど、どうすれば伝わるんだろうか。
そんなことをぼうっと考えては、彼女の頭に自分の顔を乗せたまま、柔らかな髪へと唇をうずめて、キスを落とした。
「……一也。ねぇ、」
呆れているようだった恭子の声のトーンが、少しだけ下がったのを聴いて、ほんのちょっぴり満たされた気になる。ぎゅっ、と腕に力を込めて、彼女のことを抱き締めなおした。
「ねぇ、大丈夫?」
「……一緒に入っていいなら」
「心配して損したわ」
もうっ、と彼女の細い腰に回していた腕を払いのけられた。つれねーの。
しかし、振り返った妻の頬が、ほんのり赤くなっているのを見たら、さすがにちょっとは期待してしまうだろう。「……あたしが出る直前なら、まあ」
「マジ?」
「そっちがタイミング見計らって来て」
「いや、俺が入るまでは出てくんなって」
「イヤよ、のぼせちゃう」
「なあおい」
「しつこい」
「『俺が洗ったげるよ』」
「エロ親父か」
あのときから変わらず、くだらないことで戯れ合っていられることが、どれだけ得難いことだろう。
お互いが“最初”で“最後”であってほしいから。そ の 意 味 がすり減るくらいまで、共に過ごすことを、心に誓おう。
《生前贈与の冊子の表紙を飾るような年頃になっても 全てを語らい合う二人でいたい》『最/後の恋/煩い』Of/fici/al髭/男di/sm
実家を出て青心寮に入ってからしばらく──部員全員の名前はまだ覚えてないほどの日数が経った頃だ。それでもさすがに、男子に比べて人数の少ない女子マネージャーの顔くらいは、御幸も覚えていた。
1年生だった御幸は、寮のシンクで部員たちのボトルやジャグを洗っている、ジャージの後ろ姿を見つけた。野球部員に比べて──当たり前だが、小さい背中だな、と思った。ジャブジャブと、水と泡が混ざり合うその“生活”の音は、実家を出てから久しく聞いていなかった。
「ああ、洗っとくから、そこ置いといて──」
ドリンクの入っていた空のボトルを手にしている御幸の気配を背中で感じ取ったのか、
その背中を、無意識にぼうっと見つめてしまっていたことに気付かず、その場には洗い物の水音だけが響いていた。
そうして、こちらがただ突っ立っているのをおかしく思うのも当然で、彼女はやがて忙しなく動かしていた手を止め、やや後ろにいた御幸の顔を見上げると、少し不審そうに聞いてきた。「……なに?」
確かそのとき、出逢って初めて彼女の顔をまともに見た。同い年の割に、大人びた顔立ちと
はたと目が合ってしまって、御幸の口は間の抜けたように丸く開いた。意味のない音を出したあと、自分でもよくわからないまま、それは言葉に変わった。
「あー…………手伝う?」
「は?」
御幸の言葉に、恭子はぱちくりとその大きな瞳をしばたいた。彼女の口までぽかんと開いているのが、同じく間の抜けた感じで、ちょっとだけ面白かった。
「なんで。マネージャーの仕事でしょ」
「いや、なんか量多いし、後から持ってこられてウザいかなって」
「別にこれくらい、いいけど……」
自分でもまだ驚いていた。なんで『手伝う』なんて言葉が出たのか、わからなくて。
恭子ももちろん驚いていたが、作業を終わらせたい、というのが先に思い付いたのか、行動に移すのは早かった。水と泡にまみれた両手を宙に浮かせたまま半歩左にズレると、御幸の立つスペースを空け、手にしていたスポンジを渡される。
「じゃあ、あとこれだけお願い」
「うん」
ジャージの袖を
家事をやっていると、不思議と無心になれる。いつも実家の
「慣れてるね」
「別に、皿洗いくらい小学生でもできるって」
「でも慣れてない人が割れ物とか洗ってるの見ると、ヒヤヒヤするから」
「ちゃんとフタの溝まで洗えてるし。A型?」
「いや、B型」
「全然違ったわ」
「それは短絡的すぎるだろ」
「フッ、御幸って思いのほか生真面目だね」
そんな調子で苦笑いされたので、ちょっとムッとなって左を見下ろす。この頃はそこまでの身長差がなくて、思ったよりも彼女の頭が近くにあった。恭子は御幸の視線に気付かずに、まだ冗談っぽく笑っていた。
「ちゃんとお母さんのお手伝いとかするんだ?」
「えらいじゃん」恭子のその言葉に対しては、訂正するのも面倒で、適当に相槌を打ってごまかした。「まあね」今思えば、その発言がすでに彼女の“オカン気質”を物語っていた。
「意外?」
「というか、野球部のお母さんって、そういうこと全部やってくれるイメージ?」
そんな会話をしている間に、洗い物がなくなった。手に付着した泡を洗い流したいが、彼女がまだ水道を使っている。
「ああ、はいどーぞ」
「どーも」
恭子が、持っていたボトルをできる限り下の方で洗い流して、隙間を空けてくれる。何も言っていないのに、よく気の付くものだなと思った。
流水で手を洗っていると、恭子の手と少し重なり──なめらかで白く、流水を
目で追うとそれは、ポツ、ポツ、と手から腕の方へ、斑点のように飛び散っていた──見覚えがある──御幸自身も経験があった。そうだ、ヤケドの痕だ。料理で、油が跳ねたときの。
そこで、ああそうか、そう言う彼女こそ、日頃から家事をしているのか、と気付いた。
「いつまで手ぇ洗ってんの?」
「ほら、タオル」恭子はすっかり洗い物を終えて、その手には彼女が拭いた後のフェイスタオル──スポーツブランドのロゴが入ったものが握られている。「あ」と、御幸は慌てて水を止め、それを受け取った。
「ありがとう。手伝ってくれて」
こちらを見上げた恭子が笑う。「ああ……うん」ふわ、と手の中のタオルから、その柄にはそぐわない、甘い香りがした。彼女のハンドクリームの香りだった。
「……どうかした?」
きょとん、としている恭子は最初の印象と違って、妙に隙があった。それを見たら、なんだかからかいたくもなって、御幸はニヤリと笑ってみせた。
「“新婚さん”みたいだった?」
「はぁ?」
「なに言ってんの、もう」と、言いながら、タオルを奪い取られた。存外、はにかむようにして。馬鹿にされるかと思ったのだけれど。
「あんたそういう冗談言うのね」
「……さっきからそれさあ、俺、宇佐美の中でどんなイメージだったわけ?」
「あはは」
「イテッ、──ははっ」
意外と大きく口を開ける笑い方に、親しみやすさをおぼえた。そんなことを言っておきながら、このときは御幸も、恭子に対してどこか気取ったイメージを持っていたから、お互い様だった。
それでも御幸にとっては、そうやって持っているタオルで、照れ隠しにバシッと背中を
「かずや〜」
夕飯を終えてリビングのソファでくつろいでいると、キッチンから自分を呼ぶ声が響いた。
「かずー、ちょっとー」
「はいはい、なに」
彼女が砕けてそう呼ぶときは、大抵急かすときなので、思わず苦笑いして立ち上がり、なるべく早足で声の出どころへ向かう。
「ゴメン、洗剤の詰め替え取って。手が濡れてるの」
「ああ、待ってろ」
水と泡にまみれた両手を宙に浮かせている恭子を横目に、ストックの棚から台所用洗剤を取り出して、ボトルに継ぎ足しながら、シンクの中の洗い物を顎で示して言う。
「残りの分、俺が洗ったげるよ」
「なに、今日優しいじゃん。どういう風の吹き回し?」
「言い方」
冗談混じりに笑う妻に満タンになったボトルを手渡しながら、たしなめるように見下ろす。
「俺は昔から優しくしてたつもりなんだけどな」
おまえにだけは。──とは、言わないでおいたが。
恭子はうんざりした様子で、それでもその口からは笑みがこぼれた。「よく言うわよ、もう」
「ありがとう。でももう終わるから大丈夫」
皿洗いの続きを始める、彼女の後ろ姿──見慣れたような、懐かしいような──近くて遠い、それは、“家庭”の眺めだった。
「なあに、ジャマしないで」
「いーじゃん、これくらい、ご愛嬌ってことで」
その背中を抱き締めて、恭子の頭に顎を乗っける。あのときのやりとりだって、彼女にとってはきっとなんてことない、見落としてしまってもおかしくないのに、覚えていてくれたらなんていうのは、いくらなんでも理不尽すぎるだろうか。
……どうせ覚えてないんだろうなあ。
ちぇ。俺ばっかり。彼女相手では、タフでなんていられない。結婚したところで、それは変わらなかった。恭子も、変わらぬ調子で喋っていた。
「どいて」
「なんで」
「終わったの。離してくれない?」
「今から風呂?」
「そう」
「一緒に入る?」
「なんでそうなるの」
「新婚らしいことしようぜ」
「何を今さら」
彼女の長い髪を片手でもてあそんでは、その髪の隙間からちらりと覗いた白い首筋をつつ、指先でなぞると、抱き締めている体がふるりと震えた。たまらず笑ってしまう。
「たまには素肌でスキンシップもいいだろ?」
「……あんた毎晩してるじゃない」
「それとこれとは別」
「意味わかんないんだけど」
しょうもないことを話していても、心地がいいのも昔から──もう夫婦なんだし、知っていてほしい、隠さないでいたいとは思うのだけれど、どうすれば伝わるんだろうか。
そんなことをぼうっと考えては、彼女の頭に自分の顔を乗せたまま、柔らかな髪へと唇をうずめて、キスを落とした。
「……一也。ねぇ、」
呆れているようだった恭子の声のトーンが、少しだけ下がったのを聴いて、ほんのちょっぴり満たされた気になる。ぎゅっ、と腕に力を込めて、彼女のことを抱き締めなおした。
「ねぇ、大丈夫?」
「……一緒に入っていいなら」
「心配して損したわ」
もうっ、と彼女の細い腰に回していた腕を払いのけられた。つれねーの。
しかし、振り返った妻の頬が、ほんのり赤くなっているのを見たら、さすがにちょっとは期待してしまうだろう。「……あたしが出る直前なら、まあ」
「マジ?」
「そっちがタイミング見計らって来て」
「いや、俺が入るまでは出てくんなって」
「イヤよ、のぼせちゃう」
「なあおい」
「しつこい」
「『俺が洗ったげるよ』」
「エロ親父か」
あのときから変わらず、くだらないことで戯れ合っていられることが、どれだけ得難いことだろう。
お互いが“最初”で“最後”であってほしいから。
《生前贈与の冊子の表紙を飾るような年頃になっても 全てを語らい合う二人でいたい》『最/後の恋/煩い』Of/fici/al髭/男di/sm
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