陶酔
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─────────────────────────
恭子は自宅マンションの地下駐車場に車を停めると、運転席から出て、助手席側に回り込んだ。ドアを開けて屈んでから、彼の左肩を軽く叩く。
「かずや〜……着いたよ。起きて」
「んー…………」
帰りの道中、隣でぐっすりだった御幸を起こすと、彼は寝ぼけながらもゆっくりと立ち上がった。ふらふらと頼りない足取りの夫を支えるように、御幸の左腕を右脇に抱えたまま、助手席のドアを閉め、作動音で車のキーがかかったのを確認する。
「気分はどう? 平気?」
「だぁいじょぶだって〜」
「いい加減なんだから……ほら、ちゃんと自分で歩いて」
「恭子〜、いっしょに帰るんだろ〜?」
「はいはい、もうちょっとだから」
やはり、まともに相手しては駄目だ。酔っ払いは適当にあしらうに限る。
すがるように抱きつこうとしてくる夫をかわしながらも、転 けてケガでもしてもらっては困るから、しっかりと手を繋いで歩く。女一人でプロ野球選手の体重を支えるなんて絶対に無理なので、ちゃんと自力で歩いてもらうしかない。
こんなに大きい手だったかな──
恭子の手がすべて隠れてしまいそうなほど大きな、御幸の手のひら。あまり外では彼と手を繋げないから、久しぶりに実感してしまった。皮膚が分厚くて硬い──野球選手の手だ。昔、『色気ねーよな』と彼は自虐気味に苦笑いしていた気もするが、恭子はそういう、野球一筋だと分かる彼の手が、今も昔も好きだった。
「恭子〜……今日、手ぇ特別冷たくね? だいじょうぶか?」
「……あたしが冷たいんじゃなくて、あんたの体温がお酒で上がってんのよ」
ハァ、と酔っ払いの発言に呆れつつ、エレベーターの前でアウターのポケットに準備していたキーケースの中から、マンションの鍵を選び、パネルにタッチした。中に乗り込めば、自宅のフロアボタンが光っている。セキュリティ上、一度扉が閉まれば、他の住人が乗ってくることもない。これ以上は、誰にも迷惑をかけずに済みそうだ。
そんな妻の考えなどつゆ知らず、隣の夫はエレベーターが上昇するあいだ、懲りずに何度も名前を呼んでは話しかけてくる。「恭子ー……」
「恭子……」
「なに。家入るまではシャキッとして」
「……おれ、恭子の手ぇ、すき」
「いつもひんやりしてて、すべすべで、きもちいい」と御幸は、まだ酔っているのがわかるほど、とろけるように甘やかな声色で、繋いだままの恭子の右手を持ち上げ、その手に頬ずりした。彼の頬の柔らかさと、手のひらの硬さと、真逆の感触でぞわぞわとした快感が背中を走る。
ゆっくりと降りてきた彼の顔──それから、ふっ、とアルコールのせいで熱くなった息が、右耳にかかる──ああ、また流されてしまう。恭子は心を鬼にして、繋いだ手と反対の手でぐいっ、と近付いてくる彼の口元を押さえつけた。「やめて」「イテテ」
「いーじゃん、誰も見てないんだし……」
「そういう問題じゃないの」
「ちゅー……」とつぶやきながら、唇をとがらせてはキスをせがむ夫の手をピン、と引っ張って、真っ直ぐに立たせる。
「そ う い う の は外ですることじゃないって、いつも言ってるでしょ」
「けち……」
「……次やったらもう手ぇつないであげないからね」
「…………わかった」
「素直か」
ついムキになって、子どもを相手にしているみたいなことを言ってしまったが、酔っ払いには効いたようで、御幸は面白いくらい、途端にしょんぼりと大人しくなった。
エレベーターの扉が開いたところで、二人連れ立ってフロアに降りる。ドアの前まで来て、先ほどのキーを鍵穴に挿し込んだ。
なんとか無事に、自宅の玄関までたどり着くことができた。ひとまず安心だ。「ついた〜」「待って待って」靴も揃えずに脱ぎ捨てて上がろうとする夫を、繋いだ手を引いて止め、反対の手でダブルロックの鍵を閉めることを忘れない。
廊下を抜けて、リビングに入ったところで恭子が電気を点けると、ようやく御幸は手を離した。「はいっ、到着」と息をつけば、夫はテレビの正面のソファへ倒れ込むようにしている。
「は~〜、やっぱ家が落ち着くよなー」
「俺と恭子の家~……」遠征から帰ってくる度にそんなことを言っている気がするが、酔っていても同じことを言うんだな、と恭子は呆れて寝転がる夫を見下ろしながら、アウターを脱いでキッチンへと足を運んだ。
「一也、ちゃんと手ぇ洗って。キッチン でいいから」
「“青道野球部のオカン”は変わんねーなー……」
「オカンの機嫌が変わらないうちにどーぞ」
「んー……わかったよ……」
よっこらせ、とでも言いそうな、ゆるりとした動きで立ち上がった御幸は、酔っていても間取りと家具の配置は染み付いているのか、きちんと壁伝いに手をやって歩いていた。
せっかく無事に家に着いたのに、またここでどこかにぶつかってケガでもしたら笑えないので、恭子も手を洗いながら、その様子を見守る。ようやくシンクにたどり着いて、御幸も手を洗いだした。
「はい、タオル」
「んー……うぅ……」
「なに、具合わるいの?」
「……あたまいてぇ」
「もう……一回座って」
帰宅して気が抜けたのか、少し顔色を悪くした彼を背中から支えるようにして歩かせ、先ほどのソファに座らせる。
「えーっと、薬、薬……」
恭子はリビングの戸棚にしまっている、常備薬やケガの応急処置セットが入った救急箱を開けて、中から痛み止めの薬を取り出した。それからキッチンのストックにある、ペットボトルのミネラルウォーターを一本取り出し、夫の元へと向かう。
「はい。1回2錠ね」
「んー……」
「お水たっぷり飲んで」
錠剤を手にする御幸に、ボトルのフタを開けた状態で手渡すと、早々に飲み込んでは再び寝転がった。ああもう、そこで寝られると、もう一回起こして寝室に連れていくのがまた大変なのに。
いくら大きめのソファでも、180センチ相当のプロ野球選手がベッドにするには少々窮屈そうだ。こんなことでアスリートに身体 を痛めてもらっても困るのだが、少し酔いが醒 めるまでは、ひとまず寝かせておいたほうがいいかもしれない。御幸は、酔っているせいなのか寝言なのか、もはや判別できないほどに呻 くような声を上げた。
「うぅ~……恭子…………すてないで……」
「……あんた、いい加減失礼だからね?」
まだ言うか、と眉をひそめてしまったが、仕方ないな、と恭子はサイド側のソファの背もたれに掛けていたブランケットを広げて、御幸の身体をそっと覆ってやったあと、しゃがんで彼の耳元に顔を近付けた。……素面 で言うの、恥ずかしいんだけどな。
「捨てないよ。ちゃんと一也のこと、愛してるから」
トン、トン、と子どもを寝かしつけるように、夫の肩をブランケットの上から手で優しく叩いてそう言うと、彼は目を閉じたまま、アルコールで緩み切った口角を上げて「ふへ」と、満足そうに笑っていた。ふにゃふにゃしていて、それこそ子どもみたいだった。ちょっぴり可愛くて、こっちまで笑ってしまった。
「あ、そうだ、グループライン……」
思い出して恭子は立ち上がり、アウターのポケットに入っていた携帯電話を取り出した。とりあえず、同級生たちに無事家に着いたことだけ報告しておこうと、スマホのアプリを立ち上げ、サイド側のソファに腰掛ける。
あの飲み会のあと、チームメイトたちの手を借りて、なんとかへべれけの御幸を助手席に押し込んだ──ただし、ほぼ男性陣の力技だったので『ブチ込んだ』という表現が近い──とにかく迷惑をかけてしまった上に、夫婦揃って奢られてしまったのだが、「あの御幸の弱みが握れた」「面白いモノが見れたのでOK」「結婚式が楽しみだ」「お幸せに」と最後までからかわれてしまった。
アプリを確認すると、すでに飲み会を終えた彼らのやりとりの通知が反映されている。よく見ると『倉持』からは個人で、『ちゃんと家ついたか?』と一言だけだがメッセージが届いていた。昔と変わらず、彼には気を遣わせてばかりだ。明日あらためて、個人的に礼を伝えておこう。
『みんなありがとう。とりあえず、無事に自宅に着きました。迷惑かけてごめんね。』
恭子が、『青道○期生⚾野球部』というグループにメッセージを送ると、すぐに既読の数が2、3、4、と増えていく。
『おお、よかった』
『御幸けっこうガチでベロベロだったけど無事か?』
『宇佐美おつかれー』
『もう御幸夫人な』
『結婚しても相変わらずオカンだなー』
「いやホントそれ」彼らのメッセージに、クスッ、と思わず独り言をまじえて、ソファで眠る夫をチラッと見ては笑ってしまう。
『え、なんか御幸夫婦に事件あった?』
『次は夏川たちも来いよー』
『事件っつーか修羅場?』
『恭子、今度ランチで詳しく教えて!』
『修羅場ウケる』
『おい、もうご祝儀用意してんだぞこっちは!』
『もしかして:スピード離婚』
「また好き勝手言って……」恭子は高校時代から変わらずネタにしてくる彼らに呆れ笑いながら、『さすがに別れないでしょ。年俸○○○○万の男だぞ。手放すものか。』と見るからに冗談だとわかる文章を送れば、思ったとおり盛り上がるグループ内のメッセージが、高速で画面上部へと流れていく。
「あはは」
「……恭子」
彼らとのやりとりに一人で笑っていたら、ふいに名前を呼ばれた。スマホの画面から顔を上げると、先ほどまで眠っていた御幸が寝ぼけ眼 で、寝たまま首だけ伸ばしてはキョロキョロして、「恭子」と捜し求めるようにもう一度名前を呼んできた。
「ここにいるよ」
寝ぼけている夫に、そのままの姿勢で声をかけると、御幸は緩慢な動きでむくり、と起き上がった。ブランケットがカーペットを敷いた床にパサ、と落ちる。それからのっそりと、まるで熊のように立ち上がると、恭子の隣にやってきて腰掛けた。少しは具合も良くなったのだろうか。
こちら側のソファは正面のソファより小さいので、体の大きな御幸と二人だと、あっというまに狭くなる。じっ、と覗き込んでくる彼の視線を感じながらも、とりあえず様子を見ようと、恭子は変わらずスマホの画面を眺めていた。
「……なにしてんの」
「みんなにラインしてるの」
「ふうん……」
どんどん近寄ってくる御幸の体と触れ合っているのを、腕や脚で感じながら画面を指で操作していると、ふいに彼の熱を帯びた息が再び耳にかかって、ぞくっ、とした。続けて、ちゅ、ちゅ、と触れるだけの短いキスが、耳たぶや頬に落とされる。それも、何度も何度もしてくるものだから、くすぐったくてしょうがない。我慢できずに笑ってしまう。
「ふ、……ふふっ、もう、なに?」
「んーふふ」
「ジャマしないで」
「やだ」
薬を飲む前よりも顔色は良く、またほろ酔い状態になっているのか、どことなくふわふわしている夫を、そっとたしなめる。
「こーら。酔っぱらいは早く寝なさい」
「じゃあ、いっしょに寝よ?」
「あたし、仕事から帰ってきてシャワーも何もしてないから。先に寝てて」
「えー……」
明らかに不満そうな声を上げた御幸は、次にとんでもないことを言いだした。
「シたい……」
「ウソでしょ? あんたもシャワー浴びてないし、そんなに酔ってるのに」
この状況でも、いつもと変わらぬ調子で“夜のお誘い”をしてくる夫に、半ば呆れてしまう。……だいたい、酔っていては男性のソ レ は“立ちにくい”とも聞くが、問題ないのだろうか。
何より恭子は、特に自分がシャワーを浴びずにスるのが、いまだに苦手だった。今夜は、化粧もまだ落としていない。彼は『そんなの気にしない』とよく言うが、こういうのは自分自身の“気持ち”の問題なのだ。自己満足だとしても、美意識が許さない。
「でも、俺も恭子も、あした休み……」
「……じゃあ、明日シたらいいじゃない」
細かいことは気にせずそう答えると、御幸は不満げな表情を変えないまま口を開いた。
「今日もスる……」
明日もスる気か、と口から出そうになったが、言うとまた揚げ足をとってこられても厄介なことになりそうだしな……なんて、恭子はくだらないことを考えた──しかし、酔っ払いはそんなことお構いなしだった。
「……えっ、ちょ、ちょっと!」
気付いた瞬間には、御幸が横から、ぐーっと押し倒すようにのしかかってきた。文字どおり上 を 取 ら れ て しまっては、プロ野球選手の身体に対し、勝ち目など微塵もない。
「ダメって……! 汗かいてるからっ……」
「だいじょうぶ」
「恭子はいつもいいにおいする」と、御幸は恭子の首筋に顔を埋めるようにして息を吸い込むと、ぱく、とそこを甘噛みしてきた。「ほら、あまい」
何も大丈夫じゃない、と言い返す暇もなく、ざらざらした彼の舌とぬるりとした唾液の感触に、声が漏れてしまう。「んっ、」
「かわいい」
「なっ、……」
普段ならそういうことは、簡単には言わないくせに──こういうときに限って、その気にさせられて──悔しい、だなんて。結婚した相手に思うことでもないのかもしれないけれど。
「もういーだろ? ケータイは没収な」
そう言って、いつのまにか手の中にあったスマホを抜き取られ、御幸はそれをローテーブルに置いた。
そのあいだも、顔に、首に、鎖骨に、キスの雨が降り注いでくる。そこを優しく手で撫 でるようにされて、反対の手で服の上からやんわりと胸を揉まれて、もう逃げられないと悟った。
「やっ……かず、……あ、ンッ」
「ふは、いまの声、えろ」
興奮した荒い息遣いで、彼が笑う。すると今度は、ぐり、と硬くなったソ レ が、ふとももに押し付けられたのを感じた。ああもう、酔ってるくせに元気だこと──さすがの恭子も観念したが、なんとか最後だけ歯向かってみせる。
「こ……ここではイヤ……」
「ん、じゃあベッドいこ」
そう言って、御幸はすっかり機嫌良さそうに起き上がると、恭子の手を優しく引いて立ち上がらせた。そのまま手を引かれ、寝室へと二人で歩く。リビングの電気はきちんと消しておいた。先ほどの千鳥足はどこへやら、彼は随分しっかりとした足取りだった。
なんだかんだで、こういう空気にいつも流されてしまうのは、自分の悪いところだと反省しながらも、恭子は少し先を歩く手を繋いだ夫の後ろ頭を、こっそり睨 みつけてやった。
寝室に入って扉を閉めると、暗い空間でも真っ直ぐにベッドに向かって、二人して寝そべってしまえば、そのまま御幸が覆いかぶさってきた。
まだ暗くてよく見えないからか、手探りでこちらの顔に手を添えて、親指で唇を探し当てると、そこに彼の熱い唇が押し当てられた。深く、深く、堪能するようにねっとりとした感触に、全身まで痺れるようだった。
「んっ……んんっ……!」
「はっ、…………んっ……ふ、」
舌が絡むと、くちゅ、と卑猥な水音が響く。アルコールの苦み。ツン、と鼻腔を刺激してきて、酸素が足りないのか、頭がくらくらした。自分は酒を飲んでいないのに、こっちまで酔ったような気分だ。
角度を変えて、深い口付けを繰り返していたら、ふいにカチャ、と御幸の眼鏡が音を立ててズレたのを彼が鬱陶しそうにしたので、息継ぎで唇が離れた隙に、恭子がそっと外してやった。キスの雨が止 む。ようやく暗闇に目が慣れてきて、彼の顔がハッキリと見えた。
とろん、と浮かされたような目で、こちらを愛おしそうに見つめる夫がいる。あらためて、綺麗な顔立ちをしている。それが、自分に欲情して崩れていくのが、たまらなくなる。『この顔を見たことがあるのは、自分だけなのだ』という、ゾクゾクするほど途轍もない優越感──反面、ひどくエゴイスティックだと、出てくる笑みは自嘲気味。
「恭子……」
眼鏡を奪い取られて、御幸はそれをヘッドボードに置いた。やはり酔いがすこし醒めてきたのか、痛み止めが効いてきたのか、さっきまでよりも明瞭な口ぶりで続けた。
「捨てないでくれよ……」
まだそんなこと言って、と言ってやりたくもなって、恭子は見上げながら口を開きかけたが、御幸にぎゅう、と突然強く抱き締められて、それはかなわなかった。耳のすぐそばで聞こえてきた声は、ちょっとだけ震えていた。
「俺には、恭子しか……いないのに」
こんなにも──こんなにも、心も体も求められて、愛されて、幸せだ。たとえ、“依存”とか、“執着”だとしても。きっと、妻として、女として、こんなに幸せなことはない。
いつもはあまり言葉にしてくれない夫からの告白に、きゅう、と胸が締め付けられるのと同時に、おなかの下あたりも気持ちよくなって、ショーツを湿らせてしまう。
「……あたしが好きなのは、一也だけ」
彼が腕をほどいて、顔を上げた。その頬を、指先で撫ぜるようにする。
「ほ か には、何もいらない」
そう言うと彼は、ほっとしたような表情で静かに笑った。そうだ、あたしは昔から、酔ってでもいないと本音を言えないような不器用なこの人が、可愛くて仕方がないのだ。
だけど、『捨てないで』というその言葉。引っかかっているのは、もう一つ理由があった。
「一也ばっかり、そんなこと言って……」
「え……?」
「あたしから一也をとったら……なにも残らないのに……」
学生のときからずっと、彼に合わせた選択をしてきた。進路も、大学の専攻も、就職先も、住む場所も、口に入れるものさえ、いつも彼のことを優先して選んできた。“支える”なんて言うほど献身的で立派なものではないけれど、この先も彼を見守っていくと決めたときから、あたしの人生は彼が中心で、彼のために生きてきた。
だから、いなくなったらと思うと、ぞっとする。彼を失うことを思っただけで、恐ろしくて、足がすくむ。あたしは──“あたし”は、空っぽになってしまう。
「そんな、」
「だから」
恭子は、不安そうな声を上げる御幸の言葉を遮った。胸のあたりと目元に力を入れて、強く告げた。
「だから責任、とって」
「死ぬまで」
短く、ハッキリとそう口にすれば、御幸は少しだけ面食らったあと、柔らかくほほ笑んで、恭子の左手を右手で持ち上げた。その薬指には、美しく輝く婚約指輪が嵌 っている。御幸はエレベーターの中でしたように、心地よさそうに恭子の左手に頬ずりしてから、そこへキスをした。
「死ぬまで、大切にする」
──話し合ったことはないが、いつか来る結婚式でも、きっとそうなんだろうと、恭子は思っていた。あたしたち二人はきっと、“神様”にも、どこかの誰かにも、愛を誓ったりはしない。お互いが、お互いに。
「俺のぜんぶ、あげるから」
「受けとめて」
ああ! なんて情熱的なの!
叫びたいほど、歓びで躰 が震える。言われなくても、余すことなく受けとめてあげたい。あんたは驚くかもしれないけれど、あたしにだって、執着はあるのだから。
「どんとこい」
「男前過ぎ」
ふっ、とお互い、笑みがこぼれた。愛しい人とふたり、ひとつ。耳の奥で、リフレインする。
「恭子……、」
あいしてる──
─────────────────────────
…………やっちまった。
まだ空が白んできたくらいの時間、御幸は自宅のベッドで目を覚まし、おもむろに上半身を起こすと、自分が素っ裸であることに気が付いた──ここで一発目のショック──続けて、隣からぬくもりと息遣いを感じてそちらを見下ろせば、そこには自分と同じく、一糸纏 わぬ姿でシーツに包 まって、寝息を立てている妻──さらに二度目の衝撃──と同時に、昨夜 は元野球部の同世代たちと飲み会だったことを思い出した。
待てよ──待て待て待て、どこからト んだ? 俺は何をした? 何かマズいことがあったか?? と、文字どおり頭を抱えて、なんとか昨夜の記憶をたどろうとした。
──そして、アルコールで曖昧になった記憶のパズルが、パチンパチンと頭の中ではまりだした頃、静かに、ゆっくり、冷静になって、息を吐いた。
「マジか…………ところどころ、記憶あるな……」
完全にやらかした。いっそ全部忘れてしまったほうが楽だったかもしれない──いや、それだと妻にもっと怒られるにちがいないので、そんなことはなかった。
飲みの席で、元チームメイトたちに、結婚について散々からかわれ、釘を刺され、その気になってベロベロに酔って、妻に『捨てないでくれ』と何度も懇願していた。おそらく、彼らにとって恰好のネタになっただろうことは、容易に想像できる。ああ、彼らからの連絡──スマホの通知を見るのが怖い。
「ん……」
ふと、隣で眠る恭子が喉を鳴らして、寒そうに身を縮こまらせた──いつもなら服を脱がせたとしても、風邪をひいてはいけないからと妻が気遣うので、せめて肌着だけでも着けて寝るところを、互いに何も着ていないということは、二人ともよっぽど余裕がなかったのだと察することができる。
その寝顔すら愛しい、妻の髪を掻き分けて、こめかみあたりにキスを落とした。
今日は二人とも休日 だ。せめて何かお詫びをしなくてはと、御幸は恭子を起こさないよう、そっとベッドを抜け出した。それから、ヘッドボードに置いていた眼鏡をかけ、床に散らばった二人分の服を片付けると、部屋着を身につけて、キッチンへと足を運んだ。
「恭子?」
作業がひと段落したところで、御幸はそっと寝室の扉を開けて、まだベッドで寝ている妻の名前を呼んだ。
すると、「うーん……」と布団の中から声が聞こえたあと、ゆっくりと彼女が起き上がったのが見えたので、部屋の中へと入った。ぺたん、と膝を折ってベッドに座り込んでいる恭子が、自身の着ている服を示して口を開く。
「……コ レ 、置いてくれた?」
「ああ、うん」
「ありがと……」
恭子は、先ほどから一度目を覚ましていたのか、彼女が寝ているあいだに御幸が枕元に置いておいた、バスローブを素肌に纏っている。ただし、寝ぼけながら着用したのか、ゆるんだ前合わせの部分からちょっと見 え そ う になっていて、朝からそそられてしまった。
「おはよ」
「……おはよう」
まだ寝ぼけた妻の返事が可愛くて、ベッドに腰掛けてから、どちらからともなくキスをする。……で、問題はここからだ。
「えっと……」
「……あんた、昨日のこと覚えてる?」
「ちなみにあたしはシラフだったからね」と、言い淀む御幸に対し、恭子は続きを促すように眉を上げた。当然、言い訳のしようもなく、御幸は両膝に手を突いて、妻に頭を下げたまま、用意していた謝罪の言葉を口にした。
「──完っ全に俺の不覚。飲み過ぎた。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ホントよ。もうちょっとプロとしての自覚持ってよね。馴染みのメンバーだったからよかったものの」
「返す言葉もありません……」
それでも寝起きだからか、いくらか優しい言い方で叱ってくれる妻は、想定していたよりも穏やかだった──が、それも束の間で「ただし、」と恭子はそこからきっぱりとした口調で続けた。
「個人的にはこ っ ち のほうが引っかかったんだけど」
御幸の目の前まで左手を持ち上げた恭子は、薬指に光る婚約指輪を見せつけながら言った。
「『捨てないで』だなんて心外ね。あたしの覚悟は伝わってなかった?」
「そういうわけじゃ、」
とっさに言い返そうとしたが、じーっと目を見られ、その視線がいたたまれなくなって、「ないんだ、けど……、」御幸の言葉はどんどん尻すぼみになっていった。
「……ごめん」
最終的に謝ってしまった。恭子はそこで左手を引っ込めたかと思うと、からかうような調子で笑った。
「でも、昨夜 の愛の告白は、なかなかに熱烈だったわ」
う、とその言葉に、思わず怯んでしまう。全部は覚えていないが、昨夜このベッドの上で、酔いに任せて妻に、自分でも歯が浮くような甘ーいセリフを、何度となく口にした記憶はあった。
「酔いも醒めたいま、一言一句繰り返してあげましょーか?」
「勘弁して……」
「ふふ」
恭子はそうしてどこか嬉しそうに笑うと、ちゅ、と御幸のほっぺたにキスをした。「カワイイ」と、妻は学生の頃からたまにそう言ってくるが、いまだに男の自分に言うその感覚がよくわからない。『カワイイ』のは俺じゃなくて、恭子だと思うんだけど。
「その……“お詫び”って言ったらなんだけど」
切り替えるように言えば、彼女は小さく首をかしげた。
「朝メシ、食う?」
ひとつ間 があって、気付いた恭子はスンスン、と漂ってくる香りを嗅いだ。バターとメープルの、香ばしい匂い。
「……あんたもしかして、朝からホットケーキ作ったの?」
「あたり……」
驚き呆れた表情で言う恭子に対し、ちょっぴり気まずくなって答えた。自分は甘いものが苦手だが、それが好きな妻のために、何度か作ったことのある品だった。
とはいえ、確かに『朝から』粉と卵と牛乳を混ぜてはフライパンで1枚ずつ焼く手間を考えれば、「ヒマかよ」と恭子が寝起きからツッコミを入れたくなるのもわかる。
「あはは、じゃあせっかくだから、甘やかされちゃおっかな」
むしろ妻は、しっかり者が災いしてかなかなか甘えてくれないので、それくらいでちょうどいいと思う。「淹れたてのコーヒーもお願いね」「仰せのままに」
いつも落ち着いていてクールに見える彼女だが、案外大きく口を開け歯を見せて笑う人だ。御幸は恭子の、そういう笑い方も好きだった。
それから、「服着なきゃ」と御幸の横に脚を投げ出して、立ち上がろうとした恭子だったが、足を床につけてから、すぐにまたベッドに座り込んでしまった。
「あー……もう」
「どうした?」
「……脚に力入んない」
あ、と御幸は苦笑いしながら、少々反省した。原因は、昨夜のベッドの上での営み以外ないからだった。「ちょっと、肩貸して」と恭子が隣の自分の肩に手を添えたところで、ふと思いついた。
「じゃあ、俺の首に腕回して」
「え? ……ちょっと、なに……きゃあっ!」
恭子の背中と膝裏を腕で抱え込み、そのまま立ち上がると、彼女はめずらしく悲鳴を上げて、慌てて御幸の首に腕を回した。
「急にやらないでよ、あぶないでしょ!」
「いいだろ、俺が悪いんだしさ。コレも“お詫び”ってことで」
「人の話聞いてる!?」
久しぶりに妻の体を持ち上げた気がするが、相変わらず軽過ぎて拍子抜けしてしまう。女性はみんなこんなものなのだろうか。
「あとはそうだな……予 行 練 習 、的な?」
「ウエディングドレスだと、勝手が違うかもだけど」ニヤリ、と笑ってみせれば、恭子はあまり見せることのない照れたような顔で目をそむけるのだから、可愛くて仕方がない。
「……それまでにはダイエットするんだから」
「いやいや、これ以上痩せてどうすんだよ」
「あたしの気持ちの問題よ。だいたい、式の予定なんてまだまだ先で、やだ! 怖いこわい!」
「ハハハ!」
「まだ酔っぱらってるんじゃないの!?」
ふざけて軽く振り回してやると、声を上げてぎゅっとしがみついてくる彼女が、こんなにも愛おしい。
そう、妻の言うとおり、きっと自分はいまだに酔っているし、この“酔い”は、一生醒めることはないのだろう。むしろ、ずっと酔っていたいくらいに。そしたら昨夜 の言葉だって、将来はもう少し、素直に伝えられるかもしれない。
(とうすい【陶酔】……気持ちよく酔うこと。また、心を奪われて、うっとりとその境地に浸ること。)
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恭子は自宅マンションの地下駐車場に車を停めると、運転席から出て、助手席側に回り込んだ。ドアを開けて屈んでから、彼の左肩を軽く叩く。
「かずや〜……着いたよ。起きて」
「んー…………」
帰りの道中、隣でぐっすりだった御幸を起こすと、彼は寝ぼけながらもゆっくりと立ち上がった。ふらふらと頼りない足取りの夫を支えるように、御幸の左腕を右脇に抱えたまま、助手席のドアを閉め、作動音で車のキーがかかったのを確認する。
「気分はどう? 平気?」
「だぁいじょぶだって〜」
「いい加減なんだから……ほら、ちゃんと自分で歩いて」
「恭子〜、いっしょに帰るんだろ〜?」
「はいはい、もうちょっとだから」
やはり、まともに相手しては駄目だ。酔っ払いは適当にあしらうに限る。
すがるように抱きつこうとしてくる夫をかわしながらも、
こんなに大きい手だったかな──
恭子の手がすべて隠れてしまいそうなほど大きな、御幸の手のひら。あまり外では彼と手を繋げないから、久しぶりに実感してしまった。皮膚が分厚くて硬い──野球選手の手だ。昔、『色気ねーよな』と彼は自虐気味に苦笑いしていた気もするが、恭子はそういう、野球一筋だと分かる彼の手が、今も昔も好きだった。
「恭子〜……今日、手ぇ特別冷たくね? だいじょうぶか?」
「……あたしが冷たいんじゃなくて、あんたの体温がお酒で上がってんのよ」
ハァ、と酔っ払いの発言に呆れつつ、エレベーターの前でアウターのポケットに準備していたキーケースの中から、マンションの鍵を選び、パネルにタッチした。中に乗り込めば、自宅のフロアボタンが光っている。セキュリティ上、一度扉が閉まれば、他の住人が乗ってくることもない。これ以上は、誰にも迷惑をかけずに済みそうだ。
そんな妻の考えなどつゆ知らず、隣の夫はエレベーターが上昇するあいだ、懲りずに何度も名前を呼んでは話しかけてくる。「恭子ー……」
「恭子……」
「なに。家入るまではシャキッとして」
「……おれ、恭子の手ぇ、すき」
「いつもひんやりしてて、すべすべで、きもちいい」と御幸は、まだ酔っているのがわかるほど、とろけるように甘やかな声色で、繋いだままの恭子の右手を持ち上げ、その手に頬ずりした。彼の頬の柔らかさと、手のひらの硬さと、真逆の感触でぞわぞわとした快感が背中を走る。
ゆっくりと降りてきた彼の顔──それから、ふっ、とアルコールのせいで熱くなった息が、右耳にかかる──ああ、また流されてしまう。恭子は心を鬼にして、繋いだ手と反対の手でぐいっ、と近付いてくる彼の口元を押さえつけた。「やめて」「イテテ」
「いーじゃん、誰も見てないんだし……」
「そういう問題じゃないの」
「ちゅー……」とつぶやきながら、唇をとがらせてはキスをせがむ夫の手をピン、と引っ張って、真っ直ぐに立たせる。
「
「けち……」
「……次やったらもう手ぇつないであげないからね」
「…………わかった」
「素直か」
ついムキになって、子どもを相手にしているみたいなことを言ってしまったが、酔っ払いには効いたようで、御幸は面白いくらい、途端にしょんぼりと大人しくなった。
エレベーターの扉が開いたところで、二人連れ立ってフロアに降りる。ドアの前まで来て、先ほどのキーを鍵穴に挿し込んだ。
なんとか無事に、自宅の玄関までたどり着くことができた。ひとまず安心だ。「ついた〜」「待って待って」靴も揃えずに脱ぎ捨てて上がろうとする夫を、繋いだ手を引いて止め、反対の手でダブルロックの鍵を閉めることを忘れない。
廊下を抜けて、リビングに入ったところで恭子が電気を点けると、ようやく御幸は手を離した。「はいっ、到着」と息をつけば、夫はテレビの正面のソファへ倒れ込むようにしている。
「は~〜、やっぱ家が落ち着くよなー」
「俺と恭子の家~……」遠征から帰ってくる度にそんなことを言っている気がするが、酔っていても同じことを言うんだな、と恭子は呆れて寝転がる夫を見下ろしながら、アウターを脱いでキッチンへと足を運んだ。
「一也、ちゃんと手ぇ洗って。
「“青道野球部のオカン”は変わんねーなー……」
「オカンの機嫌が変わらないうちにどーぞ」
「んー……わかったよ……」
よっこらせ、とでも言いそうな、ゆるりとした動きで立ち上がった御幸は、酔っていても間取りと家具の配置は染み付いているのか、きちんと壁伝いに手をやって歩いていた。
せっかく無事に家に着いたのに、またここでどこかにぶつかってケガでもしたら笑えないので、恭子も手を洗いながら、その様子を見守る。ようやくシンクにたどり着いて、御幸も手を洗いだした。
「はい、タオル」
「んー……うぅ……」
「なに、具合わるいの?」
「……あたまいてぇ」
「もう……一回座って」
帰宅して気が抜けたのか、少し顔色を悪くした彼を背中から支えるようにして歩かせ、先ほどのソファに座らせる。
「えーっと、薬、薬……」
恭子はリビングの戸棚にしまっている、常備薬やケガの応急処置セットが入った救急箱を開けて、中から痛み止めの薬を取り出した。それからキッチンのストックにある、ペットボトルのミネラルウォーターを一本取り出し、夫の元へと向かう。
「はい。1回2錠ね」
「んー……」
「お水たっぷり飲んで」
錠剤を手にする御幸に、ボトルのフタを開けた状態で手渡すと、早々に飲み込んでは再び寝転がった。ああもう、そこで寝られると、もう一回起こして寝室に連れていくのがまた大変なのに。
いくら大きめのソファでも、180センチ相当のプロ野球選手がベッドにするには少々窮屈そうだ。こんなことでアスリートに
「うぅ~……恭子…………すてないで……」
「……あんた、いい加減失礼だからね?」
まだ言うか、と眉をひそめてしまったが、仕方ないな、と恭子はサイド側のソファの背もたれに掛けていたブランケットを広げて、御幸の身体をそっと覆ってやったあと、しゃがんで彼の耳元に顔を近付けた。……
「捨てないよ。ちゃんと一也のこと、愛してるから」
トン、トン、と子どもを寝かしつけるように、夫の肩をブランケットの上から手で優しく叩いてそう言うと、彼は目を閉じたまま、アルコールで緩み切った口角を上げて「ふへ」と、満足そうに笑っていた。ふにゃふにゃしていて、それこそ子どもみたいだった。ちょっぴり可愛くて、こっちまで笑ってしまった。
「あ、そうだ、グループライン……」
思い出して恭子は立ち上がり、アウターのポケットに入っていた携帯電話を取り出した。とりあえず、同級生たちに無事家に着いたことだけ報告しておこうと、スマホのアプリを立ち上げ、サイド側のソファに腰掛ける。
あの飲み会のあと、チームメイトたちの手を借りて、なんとかへべれけの御幸を助手席に押し込んだ──ただし、ほぼ男性陣の力技だったので『ブチ込んだ』という表現が近い──とにかく迷惑をかけてしまった上に、夫婦揃って奢られてしまったのだが、「あの御幸の弱みが握れた」「面白いモノが見れたのでOK」「結婚式が楽しみだ」「お幸せに」と最後までからかわれてしまった。
アプリを確認すると、すでに飲み会を終えた彼らのやりとりの通知が反映されている。よく見ると『倉持』からは個人で、『ちゃんと家ついたか?』と一言だけだがメッセージが届いていた。昔と変わらず、彼には気を遣わせてばかりだ。明日あらためて、個人的に礼を伝えておこう。
『みんなありがとう。とりあえず、無事に自宅に着きました。迷惑かけてごめんね。』
恭子が、『青道○期生⚾野球部』というグループにメッセージを送ると、すぐに既読の数が2、3、4、と増えていく。
『おお、よかった』
『御幸けっこうガチでベロベロだったけど無事か?』
『宇佐美おつかれー』
『もう御幸夫人な』
『結婚しても相変わらずオカンだなー』
「いやホントそれ」彼らのメッセージに、クスッ、と思わず独り言をまじえて、ソファで眠る夫をチラッと見ては笑ってしまう。
『え、なんか御幸夫婦に事件あった?』
『次は夏川たちも来いよー』
『事件っつーか修羅場?』
『恭子、今度ランチで詳しく教えて!』
『修羅場ウケる』
『おい、もうご祝儀用意してんだぞこっちは!』
『もしかして:スピード離婚』
「また好き勝手言って……」恭子は高校時代から変わらずネタにしてくる彼らに呆れ笑いながら、『さすがに別れないでしょ。年俸○○○○万の男だぞ。手放すものか。』と見るからに冗談だとわかる文章を送れば、思ったとおり盛り上がるグループ内のメッセージが、高速で画面上部へと流れていく。
「あはは」
「……恭子」
彼らとのやりとりに一人で笑っていたら、ふいに名前を呼ばれた。スマホの画面から顔を上げると、先ほどまで眠っていた御幸が寝ぼけ
「ここにいるよ」
寝ぼけている夫に、そのままの姿勢で声をかけると、御幸は緩慢な動きでむくり、と起き上がった。ブランケットがカーペットを敷いた床にパサ、と落ちる。それからのっそりと、まるで熊のように立ち上がると、恭子の隣にやってきて腰掛けた。少しは具合も良くなったのだろうか。
こちら側のソファは正面のソファより小さいので、体の大きな御幸と二人だと、あっというまに狭くなる。じっ、と覗き込んでくる彼の視線を感じながらも、とりあえず様子を見ようと、恭子は変わらずスマホの画面を眺めていた。
「……なにしてんの」
「みんなにラインしてるの」
「ふうん……」
どんどん近寄ってくる御幸の体と触れ合っているのを、腕や脚で感じながら画面を指で操作していると、ふいに彼の熱を帯びた息が再び耳にかかって、ぞくっ、とした。続けて、ちゅ、ちゅ、と触れるだけの短いキスが、耳たぶや頬に落とされる。それも、何度も何度もしてくるものだから、くすぐったくてしょうがない。我慢できずに笑ってしまう。
「ふ、……ふふっ、もう、なに?」
「んーふふ」
「ジャマしないで」
「やだ」
薬を飲む前よりも顔色は良く、またほろ酔い状態になっているのか、どことなくふわふわしている夫を、そっとたしなめる。
「こーら。酔っぱらいは早く寝なさい」
「じゃあ、いっしょに寝よ?」
「あたし、仕事から帰ってきてシャワーも何もしてないから。先に寝てて」
「えー……」
明らかに不満そうな声を上げた御幸は、次にとんでもないことを言いだした。
「シたい……」
「ウソでしょ? あんたもシャワー浴びてないし、そんなに酔ってるのに」
この状況でも、いつもと変わらぬ調子で“夜のお誘い”をしてくる夫に、半ば呆れてしまう。……だいたい、酔っていては男性の
何より恭子は、特に自分がシャワーを浴びずにスるのが、いまだに苦手だった。今夜は、化粧もまだ落としていない。彼は『そんなの気にしない』とよく言うが、こういうのは自分自身の“気持ち”の問題なのだ。自己満足だとしても、美意識が許さない。
「でも、俺も恭子も、あした休み……」
「……じゃあ、明日シたらいいじゃない」
細かいことは気にせずそう答えると、御幸は不満げな表情を変えないまま口を開いた。
「今日もスる……」
明日もスる気か、と口から出そうになったが、言うとまた揚げ足をとってこられても厄介なことになりそうだしな……なんて、恭子はくだらないことを考えた──しかし、酔っ払いはそんなことお構いなしだった。
「……えっ、ちょ、ちょっと!」
気付いた瞬間には、御幸が横から、ぐーっと押し倒すようにのしかかってきた。文字どおり
「ダメって……! 汗かいてるからっ……」
「だいじょうぶ」
「恭子はいつもいいにおいする」と、御幸は恭子の首筋に顔を埋めるようにして息を吸い込むと、ぱく、とそこを甘噛みしてきた。「ほら、あまい」
何も大丈夫じゃない、と言い返す暇もなく、ざらざらした彼の舌とぬるりとした唾液の感触に、声が漏れてしまう。「んっ、」
「かわいい」
「なっ、……」
普段ならそういうことは、簡単には言わないくせに──こういうときに限って、その気にさせられて──悔しい、だなんて。結婚した相手に思うことでもないのかもしれないけれど。
「もういーだろ? ケータイは没収な」
そう言って、いつのまにか手の中にあったスマホを抜き取られ、御幸はそれをローテーブルに置いた。
そのあいだも、顔に、首に、鎖骨に、キスの雨が降り注いでくる。そこを優しく手で
「やっ……かず、……あ、ンッ」
「ふは、いまの声、えろ」
興奮した荒い息遣いで、彼が笑う。すると今度は、ぐり、と硬くなった
「こ……ここではイヤ……」
「ん、じゃあベッドいこ」
そう言って、御幸はすっかり機嫌良さそうに起き上がると、恭子の手を優しく引いて立ち上がらせた。そのまま手を引かれ、寝室へと二人で歩く。リビングの電気はきちんと消しておいた。先ほどの千鳥足はどこへやら、彼は随分しっかりとした足取りだった。
なんだかんだで、こういう空気にいつも流されてしまうのは、自分の悪いところだと反省しながらも、恭子は少し先を歩く手を繋いだ夫の後ろ頭を、こっそり
寝室に入って扉を閉めると、暗い空間でも真っ直ぐにベッドに向かって、二人して寝そべってしまえば、そのまま御幸が覆いかぶさってきた。
まだ暗くてよく見えないからか、手探りでこちらの顔に手を添えて、親指で唇を探し当てると、そこに彼の熱い唇が押し当てられた。深く、深く、堪能するようにねっとりとした感触に、全身まで痺れるようだった。
「んっ……んんっ……!」
「はっ、…………んっ……ふ、」
舌が絡むと、くちゅ、と卑猥な水音が響く。アルコールの苦み。ツン、と鼻腔を刺激してきて、酸素が足りないのか、頭がくらくらした。自分は酒を飲んでいないのに、こっちまで酔ったような気分だ。
角度を変えて、深い口付けを繰り返していたら、ふいにカチャ、と御幸の眼鏡が音を立ててズレたのを彼が鬱陶しそうにしたので、息継ぎで唇が離れた隙に、恭子がそっと外してやった。キスの雨が
とろん、と浮かされたような目で、こちらを愛おしそうに見つめる夫がいる。あらためて、綺麗な顔立ちをしている。それが、自分に欲情して崩れていくのが、たまらなくなる。『この顔を見たことがあるのは、自分だけなのだ』という、ゾクゾクするほど途轍もない優越感──反面、ひどくエゴイスティックだと、出てくる笑みは自嘲気味。
「恭子……」
眼鏡を奪い取られて、御幸はそれをヘッドボードに置いた。やはり酔いがすこし醒めてきたのか、痛み止めが効いてきたのか、さっきまでよりも明瞭な口ぶりで続けた。
「捨てないでくれよ……」
まだそんなこと言って、と言ってやりたくもなって、恭子は見上げながら口を開きかけたが、御幸にぎゅう、と突然強く抱き締められて、それはかなわなかった。耳のすぐそばで聞こえてきた声は、ちょっとだけ震えていた。
「俺には、恭子しか……いないのに」
こんなにも──こんなにも、心も体も求められて、愛されて、幸せだ。たとえ、“依存”とか、“執着”だとしても。きっと、妻として、女として、こんなに幸せなことはない。
いつもはあまり言葉にしてくれない夫からの告白に、きゅう、と胸が締め付けられるのと同時に、おなかの下あたりも気持ちよくなって、ショーツを湿らせてしまう。
「……あたしが好きなのは、一也だけ」
彼が腕をほどいて、顔を上げた。その頬を、指先で撫ぜるようにする。
「
そう言うと彼は、ほっとしたような表情で静かに笑った。そうだ、あたしは昔から、酔ってでもいないと本音を言えないような不器用なこの人が、可愛くて仕方がないのだ。
だけど、『捨てないで』というその言葉。引っかかっているのは、もう一つ理由があった。
「一也ばっかり、そんなこと言って……」
「え……?」
「あたしから一也をとったら……なにも残らないのに……」
学生のときからずっと、彼に合わせた選択をしてきた。進路も、大学の専攻も、就職先も、住む場所も、口に入れるものさえ、いつも彼のことを優先して選んできた。“支える”なんて言うほど献身的で立派なものではないけれど、この先も彼を見守っていくと決めたときから、あたしの人生は彼が中心で、彼のために生きてきた。
だから、いなくなったらと思うと、ぞっとする。彼を失うことを思っただけで、恐ろしくて、足がすくむ。あたしは──“あたし”は、空っぽになってしまう。
「そんな、」
「だから」
恭子は、不安そうな声を上げる御幸の言葉を遮った。胸のあたりと目元に力を入れて、強く告げた。
「だから責任、とって」
「死ぬまで」
短く、ハッキリとそう口にすれば、御幸は少しだけ面食らったあと、柔らかくほほ笑んで、恭子の左手を右手で持ち上げた。その薬指には、美しく輝く婚約指輪が
「死ぬまで、大切にする」
──話し合ったことはないが、いつか来る結婚式でも、きっとそうなんだろうと、恭子は思っていた。あたしたち二人はきっと、“神様”にも、どこかの誰かにも、愛を誓ったりはしない。お互いが、お互いに。
「俺のぜんぶ、あげるから」
「受けとめて」
ああ! なんて情熱的なの!
叫びたいほど、歓びで
「どんとこい」
「男前過ぎ」
ふっ、とお互い、笑みがこぼれた。愛しい人とふたり、ひとつ。耳の奥で、リフレインする。
「恭子……、」
あいしてる──
─────────────────────────
…………やっちまった。
まだ空が白んできたくらいの時間、御幸は自宅のベッドで目を覚まし、おもむろに上半身を起こすと、自分が素っ裸であることに気が付いた──ここで一発目のショック──続けて、隣からぬくもりと息遣いを感じてそちらを見下ろせば、そこには自分と同じく、一糸
待てよ──待て待て待て、どこから
──そして、アルコールで曖昧になった記憶のパズルが、パチンパチンと頭の中ではまりだした頃、静かに、ゆっくり、冷静になって、息を吐いた。
「マジか…………ところどころ、記憶あるな……」
完全にやらかした。いっそ全部忘れてしまったほうが楽だったかもしれない──いや、それだと妻にもっと怒られるにちがいないので、そんなことはなかった。
飲みの席で、元チームメイトたちに、結婚について散々からかわれ、釘を刺され、その気になってベロベロに酔って、妻に『捨てないでくれ』と何度も懇願していた。おそらく、彼らにとって恰好のネタになっただろうことは、容易に想像できる。ああ、彼らからの連絡──スマホの通知を見るのが怖い。
「ん……」
ふと、隣で眠る恭子が喉を鳴らして、寒そうに身を縮こまらせた──いつもなら服を脱がせたとしても、風邪をひいてはいけないからと妻が気遣うので、せめて肌着だけでも着けて寝るところを、互いに何も着ていないということは、二人ともよっぽど余裕がなかったのだと察することができる。
その寝顔すら愛しい、妻の髪を掻き分けて、こめかみあたりにキスを落とした。
今日は二人とも
「恭子?」
作業がひと段落したところで、御幸はそっと寝室の扉を開けて、まだベッドで寝ている妻の名前を呼んだ。
すると、「うーん……」と布団の中から声が聞こえたあと、ゆっくりと彼女が起き上がったのが見えたので、部屋の中へと入った。ぺたん、と膝を折ってベッドに座り込んでいる恭子が、自身の着ている服を示して口を開く。
「……
「ああ、うん」
「ありがと……」
恭子は、先ほどから一度目を覚ましていたのか、彼女が寝ているあいだに御幸が枕元に置いておいた、バスローブを素肌に纏っている。ただし、寝ぼけながら着用したのか、ゆるんだ前合わせの部分からちょっと
「おはよ」
「……おはよう」
まだ寝ぼけた妻の返事が可愛くて、ベッドに腰掛けてから、どちらからともなくキスをする。……で、問題はここからだ。
「えっと……」
「……あんた、昨日のこと覚えてる?」
「ちなみにあたしはシラフだったからね」と、言い淀む御幸に対し、恭子は続きを促すように眉を上げた。当然、言い訳のしようもなく、御幸は両膝に手を突いて、妻に頭を下げたまま、用意していた謝罪の言葉を口にした。
「──完っ全に俺の不覚。飲み過ぎた。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「ホントよ。もうちょっとプロとしての自覚持ってよね。馴染みのメンバーだったからよかったものの」
「返す言葉もありません……」
それでも寝起きだからか、いくらか優しい言い方で叱ってくれる妻は、想定していたよりも穏やかだった──が、それも束の間で「ただし、」と恭子はそこからきっぱりとした口調で続けた。
「個人的には
御幸の目の前まで左手を持ち上げた恭子は、薬指に光る婚約指輪を見せつけながら言った。
「『捨てないで』だなんて心外ね。あたしの覚悟は伝わってなかった?」
「そういうわけじゃ、」
とっさに言い返そうとしたが、じーっと目を見られ、その視線がいたたまれなくなって、「ないんだ、けど……、」御幸の言葉はどんどん尻すぼみになっていった。
「……ごめん」
最終的に謝ってしまった。恭子はそこで左手を引っ込めたかと思うと、からかうような調子で笑った。
「でも、
う、とその言葉に、思わず怯んでしまう。全部は覚えていないが、昨夜このベッドの上で、酔いに任せて妻に、自分でも歯が浮くような甘ーいセリフを、何度となく口にした記憶はあった。
「酔いも醒めたいま、一言一句繰り返してあげましょーか?」
「勘弁して……」
「ふふ」
恭子はそうしてどこか嬉しそうに笑うと、ちゅ、と御幸のほっぺたにキスをした。「カワイイ」と、妻は学生の頃からたまにそう言ってくるが、いまだに男の自分に言うその感覚がよくわからない。『カワイイ』のは俺じゃなくて、恭子だと思うんだけど。
「その……“お詫び”って言ったらなんだけど」
切り替えるように言えば、彼女は小さく首をかしげた。
「朝メシ、食う?」
ひとつ
「……あんたもしかして、朝からホットケーキ作ったの?」
「あたり……」
驚き呆れた表情で言う恭子に対し、ちょっぴり気まずくなって答えた。自分は甘いものが苦手だが、それが好きな妻のために、何度か作ったことのある品だった。
とはいえ、確かに『朝から』粉と卵と牛乳を混ぜてはフライパンで1枚ずつ焼く手間を考えれば、「ヒマかよ」と恭子が寝起きからツッコミを入れたくなるのもわかる。
「あはは、じゃあせっかくだから、甘やかされちゃおっかな」
むしろ妻は、しっかり者が災いしてかなかなか甘えてくれないので、それくらいでちょうどいいと思う。「淹れたてのコーヒーもお願いね」「仰せのままに」
いつも落ち着いていてクールに見える彼女だが、案外大きく口を開け歯を見せて笑う人だ。御幸は恭子の、そういう笑い方も好きだった。
それから、「服着なきゃ」と御幸の横に脚を投げ出して、立ち上がろうとした恭子だったが、足を床につけてから、すぐにまたベッドに座り込んでしまった。
「あー……もう」
「どうした?」
「……脚に力入んない」
あ、と御幸は苦笑いしながら、少々反省した。原因は、昨夜のベッドの上での営み以外ないからだった。「ちょっと、肩貸して」と恭子が隣の自分の肩に手を添えたところで、ふと思いついた。
「じゃあ、俺の首に腕回して」
「え? ……ちょっと、なに……きゃあっ!」
恭子の背中と膝裏を腕で抱え込み、そのまま立ち上がると、彼女はめずらしく悲鳴を上げて、慌てて御幸の首に腕を回した。
「急にやらないでよ、あぶないでしょ!」
「いいだろ、俺が悪いんだしさ。コレも“お詫び”ってことで」
「人の話聞いてる!?」
久しぶりに妻の体を持ち上げた気がするが、相変わらず軽過ぎて拍子抜けしてしまう。女性はみんなこんなものなのだろうか。
「あとはそうだな……
「ウエディングドレスだと、勝手が違うかもだけど」ニヤリ、と笑ってみせれば、恭子はあまり見せることのない照れたような顔で目をそむけるのだから、可愛くて仕方がない。
「……それまでにはダイエットするんだから」
「いやいや、これ以上痩せてどうすんだよ」
「あたしの気持ちの問題よ。だいたい、式の予定なんてまだまだ先で、やだ! 怖いこわい!」
「ハハハ!」
「まだ酔っぱらってるんじゃないの!?」
ふざけて軽く振り回してやると、声を上げてぎゅっとしがみついてくる彼女が、こんなにも愛おしい。
そう、妻の言うとおり、きっと自分はいまだに酔っているし、この“酔い”は、一生醒めることはないのだろう。むしろ、ずっと酔っていたいくらいに。そしたら
(とうすい【陶酔】……気持ちよく酔うこと。また、心を奪われて、うっとりとその境地に浸ること。)
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