酩酊
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「わりぃ! 思った以上に飲ませ過ぎたみたいだわ」
仕事帰りの恭子が、倉持からそう電話をもらったのが、20分ほど前。帰宅した恭子は、普段はめったに使わない夫の所有する高級車を、駅近のコインパーキングに停めて、メッセージで送られてきた居酒屋の場所を地図アプリで確認した。
付近をうろうろしていると暗がりの中、とある店の前に立っていた見覚えのある人物が、こちらに手を振るのが見えた。
「よう、宇佐美」
「倉持! よかった見つかって」
旧姓で呼んでくれる、かつてのチームメイトの声かけの響きが懐かしい。恭子が近付くと、倉持は振っていた手を掲げてきたので、つい嬉しくなって軽くハイタッチをした。「わりぃな、夜中呼び出して」「おつかれ」
「ありがとう、わざわざ店の外まで」
「席、個室だからよ。入ってもわかんねーだろうと思って……また髪伸びたな」
「あーそうね、式までは伸ばそうかと」
「ナルホドな。イイんじゃん?」
「あんたそんなふうに女のコ褒められるようになったんだ?」
「るせーわ」
二人で店に入ろうとすると、倉持がドアを押さえていてくれる。そうは言っても、いろいろと気の利くところは相変わらずで流石だ。
「……で、どんなカンジ?」
「いや、見たことねぇくらい酔ってる。あいつあんなに酒飲んだっけ」
「ホントに? 一応プロだから節制してるし、普段家でもそんなに飲まないんだけど」
「一応かよ」
半分冗談のような会話をしながら、倉持の後ろについて、店の奥へ入っていく。そして倉持は、一つの襖 の前で足を止め、開けながら「おーい、宇佐美来たぞ」と中の座敷に呼びかけると、座っていた彼らが一斉に恭子へ向かって声を上げた。
「おお、宇佐美! 久しぶり!」
「結婚おめでとー」
「宇佐美〜、元気か?」
「インスタ見たぜ〜おめでとう」
「あはは、ありがとう。みんな久しぶりー……って、ウチの代ほぼ全員いない?」
「突然声かけた割に、けっこう集まってさー」
襖の近くに座っていた川上が、手を上げながら話しかけてくる。その向かいの白州は──二人とも、会うのは前回のOB会以来なので、半年ぶりくらいだろうか──川上の言葉に肩を揺らして言った。
「今回は御幸が主役というか、結婚祝いみたいなところあったしな」
「顔見たかった奴も多かったんだろ」
「仕事が仕事で、めったに会えない男だからね」
倉持が、自分が元いた席であぐらを掻 きながら続けると、その向かいの席で渡辺が笑う。
「みんな気ぃ遣わせてごめんね……で、その件 の男は?」
「そこ」
川上が指差した先には、二つ折りにした座布団を枕に、完全に夢の中の夫が寝転がっていた。気の利く誰かが彼自身のアウターを掛けてくれているだけ、ありがたいと思ってほしい。
「ウソ、ガチ寝じゃん」
「さっきまで起きてたけど、結局ベロベロんなって落ちた」
「ごめんね、新婚さんなのに迷惑かけて」
「いや、迷惑かけたのはこっちだし」
申し訳なさそうにする渡辺を制してから、恭子は靴を脱いで座敷に上がり、御幸の肩を軽く叩いた。
「かずや〜、一也、帰るよ。車で来たから」
「……んー…………」
「起きやしねーな」
返事はあるが、全く起きる気配がない。これはよっぽど飲んだな、と恭子は彼の肩に手を添えたまま、息をついた。
「大丈夫なんか?」
「まあ、二人とも明日休日 だから、いいんだけどさー」
「ごめん、俺らが調子乗って飲ませ過ぎたから……」
「ホントよ、こ ん な だけどこの身体 、下手したらウン千万が動くんだからね」
「ひぇ〜そりゃそうだよなあ」
「いや、こんなて」
そんな冗談混じりの会話を交わすが、楽しい席にあまり水を差すようなことも言いたくないので、恭子は御幸にだけ向き直って続けた。
「まあ、そんな男もこの場では“青道野球部のイ チ OB”だからね。自己管理が足りてない、あんたがわるいっ」
ぺち、と寝相のせいで彼のさらけ出されたおでこを、軽く指先で叩くと、「ん゛ー……」と御幸は目を閉じたまま眉根を寄せていた。
そんな元主将とマネージャーのやりとりが懐かしい光景だったのか、周りのチームメイトたちは口を揃えて、苦笑いしていた。「出た、宇佐美のオカン節」
「どーする? 宇佐美。もうちょっといたら?」
「いやでも車だろ」
「メシもう食った?」
「それがまだなんだよねー……おなかすいちゃった」
「あ、そうなの? 遠慮せず頼みな」
「いいの? なんかごめんね」
「御幸がいたとこ空いてるから座れよ」
「あ、でも座布団ないよ」
「そいつが枕にしてるからだろ。どっか余ってねぇ?」
「あったあった。はいどーぞ」
「ありがとう」
彼らが用意してくれた座布団に、膝を折って座る。夫の席だった隣には渡辺と川上、その向かいには倉持と白州がいて、それでも新しく加わった恭子の様子をうかがいに皆がこちらのテーブルに集まっているような状態だった。学生当時、夫がよく話していた上、比較的に良識人ばかり近くの席に集まっているのが、御幸らしくて笑ってしまう。
それでも飲み過ぎて、恭子の背後のスペースで酩酊して熟睡しているのだから、よっぽど気が緩んでしまったのだろうか。
「このポテト食う? ちょっと冷めてっけど」
「うん食べる」
「あれ、御幸はこんなだけど、宇佐美はけっこう酒飲みだったよな?」
「そー。ホントは飲みたいけど」
「でも甘いモノも好きじゃなかった?」
「よく覚えてんね。別に酒好 きの甘党だっていっぱいいるでしょ」
アウターを脱ぎながら答えていると、向かいの倉持が立ち上がり、店の壁に掛かっていたハンガーを手に取って、反対の手をこちらへと伸ばした。「上着貸せよ」「ありがと」
「割に宇佐美、いつ見ても綺麗だよな。細いし」
「え〜なになに、褒めてもなんも出ないわよ」
「最近なんか運動してる?」
「んー一時期ヨガやってたけど、今はたまにジムで体動かすくらいかなあ」
「なに飲む? ノンアルのメニューあるけど」
「ありがとう。ウーロン茶にする」
夫を迎えに来たはずなのだが、焦って無理やり起こしても仕方がないので、恭子は彼らに甘えて小腹を満たすことにした。そもそもセーブできなかった、彼の自業自得だろう。
「宇佐美も来るって知ってたら、もっとちゃんとした形で二人のお祝いしたかったけどな」
「いや、マネたちも誘ったんだぜ? けどそっちが欠席するって言うからだな」
「唯が来られないって言うから、幸と合わせたんだよね。いいのいいの、あたしらは今でもしょっちゅう、三人でゴハン行くし」
「それに久しぶりのメンツだし、男同士のほうが気ぃ遣わなくていいでしょ」
背後で眠る御幸を見下ろしながら、恭子はおしぼりで手を拭いたあと、少ししなしなになっているポテトに、皿の端に残ったケチャップをつけては、指でつまんだ。
「たぶん、御幸も嬉しかったと思うよ。楽しそうだったんじゃない? だからつい飲み過ぎて、こんななってるんでしょ」
昨日だって家で、『恭子、明日ホントに来ねーの? 仕事の後でも来たらいいのに』『けっこう集まるみたいだぜ。つーか、あいつら暇かよ』なんて言いながらも、ずいぶん楽しそうに話していた。ハッキリとは口にしないが、久しぶりに旧友たちに会えるのが嬉しかったに違いない。
なぜなら、“青道高校野球部”で出逢った二人にとって、御幸はもちろん、恭子にとっても、彼らの存在はずっと特別なのだ。
チームメイトたちの前だと、夫に対してもつい当時の呼び方に戻ってしまう恭子の言葉に、彼らはどこか微笑ましい様子で、二人のほうを見つめていた。
「なんかそういう発言聞いてると、結婚したんだなあって思うよね」
「宇佐美の世話焼きは相変わらずだけどなー……ってかそうじゃん、もう“宇佐美”じゃないんじゃん!」
「はいはい、めでたく御 幸 恭子になりましたよ」
「マジか〜すげー違和感」
「呼べる気しないな」
「いいよ宇佐美で。みんなにはそっちで呼ばれるほうが、あたしも落ち着く」
むしろ恭子にとっては、籍を入れたあとに見知った人物に、『御幸さん』と呼ばれること自体、まだ慣れないし、少々照れくさい。
そこで、恭子の分の飲み物と、追加の食事が運ばれてきたので、今回の幹事であろう倉持が、飲みかけのジョッキを手にして声を上げた。
「うし、じゃあもう終盤だけど、宇佐美、結婚おめっとさん。乾杯!」
「カンパ〜イ」
「おめでとう〜」
「おめでとう」
「はーいありがと、ウーロン茶だけど」
「お、宇佐美、こっちもこっちも」
「かんぱーい」
「はいはいどうもね」
周りの四人だけでなく、他のメンバーも立ち上がって乾杯を求めてくるので、恭子は苦笑いしてウーロン茶の入ったグラスを、振り返ってはあちこちでかち合わせた。その間、寝転がっている夫が、皆に邪魔そうにして跨がれているが、それでも彼が起きることはない。
乾杯が一通り済んで、大きな氷がたっぷり入ったウーロン茶を一口含んでから、空腹の恭子は箸を割り、取り皿に料理を乗せる。「しっかしよぉ、」アルコールのせいか、すでに少し口元が緩んで見える倉持は口を開いた。
「御幸にも言ったけど、宇佐美と本当に結婚するとはな」
「ほんとそれ。あたしもビックリ」
「なんでだよ」
「そこはフォローしてやれよ」
割り箸を持った手で倉持を指さすと、親友同士の川上と白州に笑われるが、照れ隠しでもそう言っておかないと、気が済まないのだ。
「いや、別れるつもりとかはなかったけどさ……でもまあ、野球部引退してからは、『あーこのままこの人と結婚するんだろうなー』とは思ってたかな」
「え、高校のときからもう?」
「早くね?」
「へぇ、そういうものなのかな」
「あたしはね。御幸は知らないけど」
唐揚げを一口かじって、ウーロン茶で流し込んでいると、グラスを持った恭子の左手を、今度は倉持が指でさし返してきた。
「つか前も気になったんだけどよ、それ、婚約指輪だろ?」
「ん? あーコレね。そうそう」
「わ、よく見たらダイヤでか」
「見して見して」
グラスをテーブルに置き、結露で濡れた指先をおしぼりで拭き取ってから、「ん」と皆の前に左手を差し出す。その薬指に嵌 った、立て爪に持ち上げられた大粒の金剛石が中心に輝く──おまけにアームにも余すことなくダイヤモンドが敷き詰められたリングを見て、周りの四人は「おー」と声を漏らした。
「かなり高けーんじゃねーの?」
「ヤらしい話はやめようよ」
「まあ、ネットで調べたらだいたいわかるんだろうけどさ……あたしも怖くて見てないのよ」
「マジか」
「なんならあんまり外に着けて行き辛くて……」
「本末転倒だな」
しかし、夫のいるところで着けていないと、彼が寂しそうにするので──本人は口に出さないが──恭子も最近は、仕事を終えて家に帰った時点で着けることにしている。
「御幸の“給料三ヶ月分”ってヤバそう」
「いつの時代だよ」
「いやいや、契 約 内容次第だから」
「宇佐美の契約 は球団の話? 結婚の話?」
渡辺の言葉に、ハハハ、と皆で笑い合う。こういった話題でも、彼ら相手だと気負わないし、冗談も通じるからありがたい。それは夫も同じだろう。
「式は? いつにすんの?」
「んーたぶん次のオフシーズンかなーって」
「自由に動ける時期だと、12月とか?」
「うん。みんな年末バタバタするだろうから、ゲストには申し訳ないけど」
「いやいや、祝わせてよ。俺らの代のカップル代表だもん」
「おまけにプロになったビッグカップルだしね。野球部は先輩後輩みんな大集合だろうな」
「おう。絶対行くわ」
「ありがとう」
そういった友人たちの声は、籍を入れたばかりのときからもらっているので、夫と二人して、これは式を挙げるならばしっかり準備をしなくてはと、喜びと同時に少々懸念もしている事柄であった。
「んなこと言っときながら、いきなり旦那こんなにさせちまったんだけど」
「あらためてすいませんでした……」
「いや、さっき謝ってもらったし、なんなら加減できなかったこ の 人 が悪いし」
恭子がため息混じりに背後で眠る夫を指さすと、彼らは互いに顔を見合わせて、困ったような、呆れたような、複雑な表情をしていた。
「うーんそういう意味じゃなくてね……たぶん御幸が飲みまくったのは、俺らが脅し過ぎたからだと思うんだよね」
「『脅し』?」
また物騒な、と隣に座る川上の台詞に、恭子は思わず唐揚げをつまんでいた手を止める。彼らは腕を組んだり、頬杖をついたり、思い出すようなしぐさで順々に語りだした。
「ついに御幸と宇佐美が結婚かー、って話から始まって」
「宇佐美以上にお前を理解してる人間なんていないんだから、大事にしろよって言ってたんだけど」
「『昔みたいにイジワル言ってたら嫌われるよ?』とか」
「最終的には、『捨てられたら終わりだな』っていうのが、けっこうキいたらしい」
「……それを真に受けて飲みまくったってこと? マジで?」
同級生相手に、つい口調も砕けてしまう。にわかには信じられなかった。いくらお酒が入っていたとはいえ、そんな言葉を真に受けるほど、彼が弱いとは思っていない。
恭子は、のん気に目を閉じたままの御幸の寝顔を見下ろした。そんな隙だらけの姿に、その頬を指先でつつきながら──不快そうに眉をひそめた御幸が「んーやめ……」と寝言を漏らしたのを目にして──文句を言った。
「だいたいもっと自信持ってよ、プロ野球選手でしょ? あたしが言うのもなんだけど。てか捨てないし。失礼な」
「ごめんな、悪気はないんだ」
「けど、後半は俺らも同じこと言って励ましてたわ。あまりにも弱音吐くから不憫でよ」
「アレじゃない? マリッジブルー的な」
「うーんそう言われると、深刻だったら困るんだけど……」
その言葉に、恭子は無意識にこめかみに手をやって、目線を落とした。あたしが彼を捨てることなんて、あるんだろうか。
「今まで散々、御幸に合わせてきたからなあ……正直、今さら愛想尽かす理由がないというか」
「はは、やっぱり宇佐美は強いね」
そう言って笑ったのは、隣に座る渡辺だった。「俺らの言ったことが余計だったな」と白州が申し訳なさそうに笑うのを見て、恭子も肩をすくめる。
「そんないいもんじゃないよ、あたしはほ か に興味がないだけ。悪く言えば、“ドライ”っていうか……冷めてるのかも」
「良く言えば、“一途”でしょ」
「ナベったらやさし〜」
「さっすが」と渡辺を軽く肘で小突くと、眉をハの字にしてやれやれといった表情を向けられた。倉持も、彼に同意するように眉を上げる。
「いや、一途じゃなきゃこんな長く付き合ってねーだろ」
「んー……かもね」
そう言われると、ちょっと照れくさい。彼らといると、居心地は良いのに、なんだか大人でいられない。自分だけ素面 なのがいけないのだろうか。やっぱり、すこし飲みたい気分だ。
「あ、起きた」
向かいの席からそんな声が上がって、恭子は後ろを振り返った。そこでは、さっきまで寝転がっていた御幸が、ひどく緩慢な動きでむくり、と起き上がっている最中だった。
「んー…………」
「御幸、宇佐美迎えに来てんぞ」
「おじゃましてまーす」
上半身を起こした夫に軽く手を振ってやると、少しずり落ちていた眼鏡をかけ直して、ぼうっとした顔のままこちらを向いた。「…………恭子……?」
まだ寝ぼけているのか、酔いが醒 めていないのか、御幸は「なんでいんの……?」と、恭子の顔を見て目をしばたいている。すると、そばにいたチームメイトたちが、彼に向かって次々に声をかけた。
「ほら、君が酔い潰れたって言ったら迎えに来てくれたんだよ。大事にされてるね」
「やっぱ宇佐美の世話焼きにはかなわねーよな」
「そうそう、幸せ者じゃん」
「よかったなー愛されてて」
不自然なほどに、一斉に御幸を慰めに入っているのを目の当たりにして、これは終盤本当に落ち込んでたんだな、と恭子は驚き呆れた。ふと、そんな夫と目が合ったので──酔っていて若干据わっているが、恭子は彼らのノ リ に交ざるように、大げさに首をかしげながら、ふざけた口調で言ってみせた。
「いっしょにおうち帰ろ?」
普段の恭子なら口にしないようなわざとらしい言い方に、周りの何人かが吹き出しているのが聞こえる。夫は相変わらず、半開きの口でぼうっと恭子のことを見つめていた。「ちょっと、しっかりしなさいよ」
すると突然、御幸がこちらの肩にすがりつくように腕を回して、抱きついてきた。
「も~~~~」
「ちょ、一也、重っ……待って、そんなに酔ってる!?」
──野球部に所属していた当時、『付き合っているからといって、みんなの前でそ う い う こ と はしないで』と散々彼に言ってきた。だから、いくら酔っているとはいっても、彼らの前で御幸に抱き締められているのが信じられなかった。
そもそも夫は、節制して普段酒をほとんど飲まない。おまけにアルコールにも弱いため、休日に家で恭子が飲んでいるのを見て、それに合わせてほんのすこし嗜む程度だ。それだけの1、2杯でも酔ってしまうくらいで、気分良くふわふわしているのを見たことはあるが、こんなふうに絡んでくるのは初めてだった。
御幸は恭子の首に頭をぐりぐりと押しつけながら、「うぅ~……」とアルコールで焼けた喉から、かすれた声を出した。
「かえる……おまえと二人でウチに帰るぅ~……」
「当たり前でしょ、わざわざ車出して来たんだから……もうっ、離れて、お酒くさい!」
酔っ払いをまともに相手にしてはいけないとはいえ、うんざりしてしまう。酒臭いのは正直大して気にならないが、何より同級生たちの前では恥ずかしいからやめてほしい。
恭子が御幸の体を押しのけるようにして、離れた彼の腕がテーブルの上を掠 めたところで、危険を察知した倉持が恭子のグラスを持ち上げ、食べかけの唐揚げの乗った取り皿を白州が引き寄せた。彼らの連携プレーを横目に、巻き込まれそうになった川上と渡辺は、サッと自らのジョッキを片手に避ける。
恭子から無理やり離された御幸は、ガバッと顔を上げて、何やら泣きそうな顔で矢継ぎ早に話した。
「えっ、俺のこと嫌いになった? 俺と別れたいの? そんな、待って、おれ、なおす、お前がイヤだと思ってること、ぜんぶなおすから」
「そんなこと言ってない! 飛躍しすぎ!」
「俺のこと捨てないで……」
「はぁ? なに本気にして……っていうかちょっと! こんなことにまでなってるなんて聞いてないんですけど!?」
周りの同級生たちを見渡せば、爆笑している者、こらえている者、こらえきれず笑っている者、スマホをこちらに向けている者、囃 し立てる者──隣には変わらず、押しのけられた恭子の腕にすがりついて抱え込むようにしては、捨てないで、と何度もうわ言のように口にする夫。もはや収拾がつかなくなっている。
「すてないでくれよぉ……」
「だから捨てないってば! 人聞きの悪い」
かつてのチームメイトたちの冷やかしを真に受けている夫に、恭子はつい思ってもいない言葉をぶつけてしまう。
「だいたい、あんたみたいな野球しか取り柄のない性格難アリの男を捨てたら、あたしでない誰かさんに迷惑がかかるでしょうが」
「ひでー言いよう」
ヒャハハ、とアルコールが入っている分、いつもより高めの笑い声で倉持が肩を揺らす。恭子は思わず、ハァ……と大きくため息を吐いて、御幸に奪い取られた腕と反対の手で頭を抱えた。こういうとき、素面なのがいけない。彼に投げかける言葉も、大真面目になってしまう。
「あのねぇ……そんな半端な気持ちであんたと結婚なんかするわけないでしょ。言っとくけど、成績落ちてクビになろうが、稼げなくなろうが、ケガして路頭に迷おうが、さいごまで面倒見るからね。あんまり自分の妻のことナメないで」
酔っ払いの反論を受ける前に言い切ると、同級生たちは酒の勢いもあってか、ずいぶんと盛り上がっていた。「おっとこまえ~」「新手のプロポーズみたい」
……ああ、車じゃなかったらあたしも飲んでるのに。シラフで一人飛び込んだあたしを誰か労って。
夫はといえばすっかり出来上がった顔つきで、いつのまにか恭子の腰に、背後から両腕をベルトのようにガッチリと巻き付けていた。御幸の頭が、恭子の左肩にだらりと乗っかっていて、髪の触れている頬がくすぐったい。そして重い。
ここまでくると、チームメイトたちに見られて恥ずかしいだとか、そんなこともどうでもよくなって、夫の頭がガクッと肩から落ちるのも気にせず、恭子は前のめりになって自分のグラスに手を伸ばした。
彼が頭をもたげる。懲りずにまた肩に乗ってきた。恭子はもう一度、大きくため息を吐いた。顔のすぐ横で、夫のちょっぴり情けない声が聞こえる。
「かっこいい、すき……結婚して……」
「もうしてるわ、おバカ」
呆れて目を伏せた恭子が、婚約指輪の嵌った左手を持ち上げ、指の関節でこつん、と夫の頭を軽く叩きながらツッコミを入れてそのままウーロン茶を煽ると、宴席には今日一番の笑いが起こっていた。
(彼はプロ野球選手になっても、(奥さん含め)気を許してる同級生たちからは、割と雑な扱い受けてたらいいな笑)
仕事帰りの恭子が、倉持からそう電話をもらったのが、20分ほど前。帰宅した恭子は、普段はめったに使わない夫の所有する高級車を、駅近のコインパーキングに停めて、メッセージで送られてきた居酒屋の場所を地図アプリで確認した。
付近をうろうろしていると暗がりの中、とある店の前に立っていた見覚えのある人物が、こちらに手を振るのが見えた。
「よう、宇佐美」
「倉持! よかった見つかって」
旧姓で呼んでくれる、かつてのチームメイトの声かけの響きが懐かしい。恭子が近付くと、倉持は振っていた手を掲げてきたので、つい嬉しくなって軽くハイタッチをした。「わりぃな、夜中呼び出して」「おつかれ」
「ありがとう、わざわざ店の外まで」
「席、個室だからよ。入ってもわかんねーだろうと思って……また髪伸びたな」
「あーそうね、式までは伸ばそうかと」
「ナルホドな。イイんじゃん?」
「あんたそんなふうに女のコ褒められるようになったんだ?」
「るせーわ」
二人で店に入ろうとすると、倉持がドアを押さえていてくれる。そうは言っても、いろいろと気の利くところは相変わらずで流石だ。
「……で、どんなカンジ?」
「いや、見たことねぇくらい酔ってる。あいつあんなに酒飲んだっけ」
「ホントに? 一応プロだから節制してるし、普段家でもそんなに飲まないんだけど」
「一応かよ」
半分冗談のような会話をしながら、倉持の後ろについて、店の奥へ入っていく。そして倉持は、一つの
「おお、宇佐美! 久しぶり!」
「結婚おめでとー」
「宇佐美〜、元気か?」
「インスタ見たぜ〜おめでとう」
「あはは、ありがとう。みんな久しぶりー……って、ウチの代ほぼ全員いない?」
「突然声かけた割に、けっこう集まってさー」
襖の近くに座っていた川上が、手を上げながら話しかけてくる。その向かいの白州は──二人とも、会うのは前回のOB会以来なので、半年ぶりくらいだろうか──川上の言葉に肩を揺らして言った。
「今回は御幸が主役というか、結婚祝いみたいなところあったしな」
「顔見たかった奴も多かったんだろ」
「仕事が仕事で、めったに会えない男だからね」
倉持が、自分が元いた席であぐらを
「みんな気ぃ遣わせてごめんね……で、その
「そこ」
川上が指差した先には、二つ折りにした座布団を枕に、完全に夢の中の夫が寝転がっていた。気の利く誰かが彼自身のアウターを掛けてくれているだけ、ありがたいと思ってほしい。
「ウソ、ガチ寝じゃん」
「さっきまで起きてたけど、結局ベロベロんなって落ちた」
「ごめんね、新婚さんなのに迷惑かけて」
「いや、迷惑かけたのはこっちだし」
申し訳なさそうにする渡辺を制してから、恭子は靴を脱いで座敷に上がり、御幸の肩を軽く叩いた。
「かずや〜、一也、帰るよ。車で来たから」
「……んー…………」
「起きやしねーな」
返事はあるが、全く起きる気配がない。これはよっぽど飲んだな、と恭子は彼の肩に手を添えたまま、息をついた。
「大丈夫なんか?」
「まあ、二人とも明日
「ごめん、俺らが調子乗って飲ませ過ぎたから……」
「ホントよ、
「ひぇ〜そりゃそうだよなあ」
「いや、こんなて」
そんな冗談混じりの会話を交わすが、楽しい席にあまり水を差すようなことも言いたくないので、恭子は御幸にだけ向き直って続けた。
「まあ、そんな男もこの場では“青道野球部の
ぺち、と寝相のせいで彼のさらけ出されたおでこを、軽く指先で叩くと、「ん゛ー……」と御幸は目を閉じたまま眉根を寄せていた。
そんな元主将とマネージャーのやりとりが懐かしい光景だったのか、周りのチームメイトたちは口を揃えて、苦笑いしていた。「出た、宇佐美のオカン節」
「どーする? 宇佐美。もうちょっといたら?」
「いやでも車だろ」
「メシもう食った?」
「それがまだなんだよねー……おなかすいちゃった」
「あ、そうなの? 遠慮せず頼みな」
「いいの? なんかごめんね」
「御幸がいたとこ空いてるから座れよ」
「あ、でも座布団ないよ」
「そいつが枕にしてるからだろ。どっか余ってねぇ?」
「あったあった。はいどーぞ」
「ありがとう」
彼らが用意してくれた座布団に、膝を折って座る。夫の席だった隣には渡辺と川上、その向かいには倉持と白州がいて、それでも新しく加わった恭子の様子をうかがいに皆がこちらのテーブルに集まっているような状態だった。学生当時、夫がよく話していた上、比較的に良識人ばかり近くの席に集まっているのが、御幸らしくて笑ってしまう。
それでも飲み過ぎて、恭子の背後のスペースで酩酊して熟睡しているのだから、よっぽど気が緩んでしまったのだろうか。
「このポテト食う? ちょっと冷めてっけど」
「うん食べる」
「あれ、御幸はこんなだけど、宇佐美はけっこう酒飲みだったよな?」
「そー。ホントは飲みたいけど」
「でも甘いモノも好きじゃなかった?」
「よく覚えてんね。別に酒
アウターを脱ぎながら答えていると、向かいの倉持が立ち上がり、店の壁に掛かっていたハンガーを手に取って、反対の手をこちらへと伸ばした。「上着貸せよ」「ありがと」
「割に宇佐美、いつ見ても綺麗だよな。細いし」
「え〜なになに、褒めてもなんも出ないわよ」
「最近なんか運動してる?」
「んー一時期ヨガやってたけど、今はたまにジムで体動かすくらいかなあ」
「なに飲む? ノンアルのメニューあるけど」
「ありがとう。ウーロン茶にする」
夫を迎えに来たはずなのだが、焦って無理やり起こしても仕方がないので、恭子は彼らに甘えて小腹を満たすことにした。そもそもセーブできなかった、彼の自業自得だろう。
「宇佐美も来るって知ってたら、もっとちゃんとした形で二人のお祝いしたかったけどな」
「いや、マネたちも誘ったんだぜ? けどそっちが欠席するって言うからだな」
「唯が来られないって言うから、幸と合わせたんだよね。いいのいいの、あたしらは今でもしょっちゅう、三人でゴハン行くし」
「それに久しぶりのメンツだし、男同士のほうが気ぃ遣わなくていいでしょ」
背後で眠る御幸を見下ろしながら、恭子はおしぼりで手を拭いたあと、少ししなしなになっているポテトに、皿の端に残ったケチャップをつけては、指でつまんだ。
「たぶん、御幸も嬉しかったと思うよ。楽しそうだったんじゃない? だからつい飲み過ぎて、こんななってるんでしょ」
昨日だって家で、『恭子、明日ホントに来ねーの? 仕事の後でも来たらいいのに』『けっこう集まるみたいだぜ。つーか、あいつら暇かよ』なんて言いながらも、ずいぶん楽しそうに話していた。ハッキリとは口にしないが、久しぶりに旧友たちに会えるのが嬉しかったに違いない。
なぜなら、“青道高校野球部”で出逢った二人にとって、御幸はもちろん、恭子にとっても、彼らの存在はずっと特別なのだ。
チームメイトたちの前だと、夫に対してもつい当時の呼び方に戻ってしまう恭子の言葉に、彼らはどこか微笑ましい様子で、二人のほうを見つめていた。
「なんかそういう発言聞いてると、結婚したんだなあって思うよね」
「宇佐美の世話焼きは相変わらずだけどなー……ってかそうじゃん、もう“宇佐美”じゃないんじゃん!」
「はいはい、めでたく
「マジか〜すげー違和感」
「呼べる気しないな」
「いいよ宇佐美で。みんなにはそっちで呼ばれるほうが、あたしも落ち着く」
むしろ恭子にとっては、籍を入れたあとに見知った人物に、『御幸さん』と呼ばれること自体、まだ慣れないし、少々照れくさい。
そこで、恭子の分の飲み物と、追加の食事が運ばれてきたので、今回の幹事であろう倉持が、飲みかけのジョッキを手にして声を上げた。
「うし、じゃあもう終盤だけど、宇佐美、結婚おめっとさん。乾杯!」
「カンパ〜イ」
「おめでとう〜」
「おめでとう」
「はーいありがと、ウーロン茶だけど」
「お、宇佐美、こっちもこっちも」
「かんぱーい」
「はいはいどうもね」
周りの四人だけでなく、他のメンバーも立ち上がって乾杯を求めてくるので、恭子は苦笑いしてウーロン茶の入ったグラスを、振り返ってはあちこちでかち合わせた。その間、寝転がっている夫が、皆に邪魔そうにして跨がれているが、それでも彼が起きることはない。
乾杯が一通り済んで、大きな氷がたっぷり入ったウーロン茶を一口含んでから、空腹の恭子は箸を割り、取り皿に料理を乗せる。「しっかしよぉ、」アルコールのせいか、すでに少し口元が緩んで見える倉持は口を開いた。
「御幸にも言ったけど、宇佐美と本当に結婚するとはな」
「ほんとそれ。あたしもビックリ」
「なんでだよ」
「そこはフォローしてやれよ」
割り箸を持った手で倉持を指さすと、親友同士の川上と白州に笑われるが、照れ隠しでもそう言っておかないと、気が済まないのだ。
「いや、別れるつもりとかはなかったけどさ……でもまあ、野球部引退してからは、『あーこのままこの人と結婚するんだろうなー』とは思ってたかな」
「え、高校のときからもう?」
「早くね?」
「へぇ、そういうものなのかな」
「あたしはね。御幸は知らないけど」
唐揚げを一口かじって、ウーロン茶で流し込んでいると、グラスを持った恭子の左手を、今度は倉持が指でさし返してきた。
「つか前も気になったんだけどよ、それ、婚約指輪だろ?」
「ん? あーコレね。そうそう」
「わ、よく見たらダイヤでか」
「見して見して」
グラスをテーブルに置き、結露で濡れた指先をおしぼりで拭き取ってから、「ん」と皆の前に左手を差し出す。その薬指に
「かなり高けーんじゃねーの?」
「ヤらしい話はやめようよ」
「まあ、ネットで調べたらだいたいわかるんだろうけどさ……あたしも怖くて見てないのよ」
「マジか」
「なんならあんまり外に着けて行き辛くて……」
「本末転倒だな」
しかし、夫のいるところで着けていないと、彼が寂しそうにするので──本人は口に出さないが──恭子も最近は、仕事を終えて家に帰った時点で着けることにしている。
「御幸の“給料三ヶ月分”ってヤバそう」
「いつの時代だよ」
「いやいや、
「宇佐美の
渡辺の言葉に、ハハハ、と皆で笑い合う。こういった話題でも、彼ら相手だと気負わないし、冗談も通じるからありがたい。それは夫も同じだろう。
「式は? いつにすんの?」
「んーたぶん次のオフシーズンかなーって」
「自由に動ける時期だと、12月とか?」
「うん。みんな年末バタバタするだろうから、ゲストには申し訳ないけど」
「いやいや、祝わせてよ。俺らの代のカップル代表だもん」
「おまけにプロになったビッグカップルだしね。野球部は先輩後輩みんな大集合だろうな」
「おう。絶対行くわ」
「ありがとう」
そういった友人たちの声は、籍を入れたばかりのときからもらっているので、夫と二人して、これは式を挙げるならばしっかり準備をしなくてはと、喜びと同時に少々懸念もしている事柄であった。
「んなこと言っときながら、いきなり旦那こんなにさせちまったんだけど」
「あらためてすいませんでした……」
「いや、さっき謝ってもらったし、なんなら加減できなかった
恭子がため息混じりに背後で眠る夫を指さすと、彼らは互いに顔を見合わせて、困ったような、呆れたような、複雑な表情をしていた。
「うーんそういう意味じゃなくてね……たぶん御幸が飲みまくったのは、俺らが脅し過ぎたからだと思うんだよね」
「『脅し』?」
また物騒な、と隣に座る川上の台詞に、恭子は思わず唐揚げをつまんでいた手を止める。彼らは腕を組んだり、頬杖をついたり、思い出すようなしぐさで順々に語りだした。
「ついに御幸と宇佐美が結婚かー、って話から始まって」
「宇佐美以上にお前を理解してる人間なんていないんだから、大事にしろよって言ってたんだけど」
「『昔みたいにイジワル言ってたら嫌われるよ?』とか」
「最終的には、『捨てられたら終わりだな』っていうのが、けっこうキいたらしい」
「……それを真に受けて飲みまくったってこと? マジで?」
同級生相手に、つい口調も砕けてしまう。にわかには信じられなかった。いくらお酒が入っていたとはいえ、そんな言葉を真に受けるほど、彼が弱いとは思っていない。
恭子は、のん気に目を閉じたままの御幸の寝顔を見下ろした。そんな隙だらけの姿に、その頬を指先でつつきながら──不快そうに眉をひそめた御幸が「んーやめ……」と寝言を漏らしたのを目にして──文句を言った。
「だいたいもっと自信持ってよ、プロ野球選手でしょ? あたしが言うのもなんだけど。てか捨てないし。失礼な」
「ごめんな、悪気はないんだ」
「けど、後半は俺らも同じこと言って励ましてたわ。あまりにも弱音吐くから不憫でよ」
「アレじゃない? マリッジブルー的な」
「うーんそう言われると、深刻だったら困るんだけど……」
その言葉に、恭子は無意識にこめかみに手をやって、目線を落とした。あたしが彼を捨てることなんて、あるんだろうか。
「今まで散々、御幸に合わせてきたからなあ……正直、今さら愛想尽かす理由がないというか」
「はは、やっぱり宇佐美は強いね」
そう言って笑ったのは、隣に座る渡辺だった。「俺らの言ったことが余計だったな」と白州が申し訳なさそうに笑うのを見て、恭子も肩をすくめる。
「そんないいもんじゃないよ、あたしは
「良く言えば、“一途”でしょ」
「ナベったらやさし〜」
「さっすが」と渡辺を軽く肘で小突くと、眉をハの字にしてやれやれといった表情を向けられた。倉持も、彼に同意するように眉を上げる。
「いや、一途じゃなきゃこんな長く付き合ってねーだろ」
「んー……かもね」
そう言われると、ちょっと照れくさい。彼らといると、居心地は良いのに、なんだか大人でいられない。自分だけ
「あ、起きた」
向かいの席からそんな声が上がって、恭子は後ろを振り返った。そこでは、さっきまで寝転がっていた御幸が、ひどく緩慢な動きでむくり、と起き上がっている最中だった。
「んー…………」
「御幸、宇佐美迎えに来てんぞ」
「おじゃましてまーす」
上半身を起こした夫に軽く手を振ってやると、少しずり落ちていた眼鏡をかけ直して、ぼうっとした顔のままこちらを向いた。「…………恭子……?」
まだ寝ぼけているのか、酔いが
「ほら、君が酔い潰れたって言ったら迎えに来てくれたんだよ。大事にされてるね」
「やっぱ宇佐美の世話焼きにはかなわねーよな」
「そうそう、幸せ者じゃん」
「よかったなー愛されてて」
不自然なほどに、一斉に御幸を慰めに入っているのを目の当たりにして、これは終盤本当に落ち込んでたんだな、と恭子は驚き呆れた。ふと、そんな夫と目が合ったので──酔っていて若干据わっているが、恭子は彼らの
「いっしょにおうち帰ろ?」
普段の恭子なら口にしないようなわざとらしい言い方に、周りの何人かが吹き出しているのが聞こえる。夫は相変わらず、半開きの口でぼうっと恭子のことを見つめていた。「ちょっと、しっかりしなさいよ」
すると突然、御幸がこちらの肩にすがりつくように腕を回して、抱きついてきた。
「も~~~~」
「ちょ、一也、重っ……待って、そんなに酔ってる!?」
──野球部に所属していた当時、『付き合っているからといって、みんなの前で
そもそも夫は、節制して普段酒をほとんど飲まない。おまけにアルコールにも弱いため、休日に家で恭子が飲んでいるのを見て、それに合わせてほんのすこし嗜む程度だ。それだけの1、2杯でも酔ってしまうくらいで、気分良くふわふわしているのを見たことはあるが、こんなふうに絡んでくるのは初めてだった。
御幸は恭子の首に頭をぐりぐりと押しつけながら、「うぅ~……」とアルコールで焼けた喉から、かすれた声を出した。
「かえる……おまえと二人でウチに帰るぅ~……」
「当たり前でしょ、わざわざ車出して来たんだから……もうっ、離れて、お酒くさい!」
酔っ払いをまともに相手にしてはいけないとはいえ、うんざりしてしまう。酒臭いのは正直大して気にならないが、何より同級生たちの前では恥ずかしいからやめてほしい。
恭子が御幸の体を押しのけるようにして、離れた彼の腕がテーブルの上を
恭子から無理やり離された御幸は、ガバッと顔を上げて、何やら泣きそうな顔で矢継ぎ早に話した。
「えっ、俺のこと嫌いになった? 俺と別れたいの? そんな、待って、おれ、なおす、お前がイヤだと思ってること、ぜんぶなおすから」
「そんなこと言ってない! 飛躍しすぎ!」
「俺のこと捨てないで……」
「はぁ? なに本気にして……っていうかちょっと! こんなことにまでなってるなんて聞いてないんですけど!?」
周りの同級生たちを見渡せば、爆笑している者、こらえている者、こらえきれず笑っている者、スマホをこちらに向けている者、
「すてないでくれよぉ……」
「だから捨てないってば! 人聞きの悪い」
かつてのチームメイトたちの冷やかしを真に受けている夫に、恭子はつい思ってもいない言葉をぶつけてしまう。
「だいたい、あんたみたいな野球しか取り柄のない性格難アリの男を捨てたら、あたしでない誰かさんに迷惑がかかるでしょうが」
「ひでー言いよう」
ヒャハハ、とアルコールが入っている分、いつもより高めの笑い声で倉持が肩を揺らす。恭子は思わず、ハァ……と大きくため息を吐いて、御幸に奪い取られた腕と反対の手で頭を抱えた。こういうとき、素面なのがいけない。彼に投げかける言葉も、大真面目になってしまう。
「あのねぇ……そんな半端な気持ちであんたと結婚なんかするわけないでしょ。言っとくけど、成績落ちてクビになろうが、稼げなくなろうが、ケガして路頭に迷おうが、さいごまで面倒見るからね。あんまり自分の妻のことナメないで」
酔っ払いの反論を受ける前に言い切ると、同級生たちは酒の勢いもあってか、ずいぶんと盛り上がっていた。「おっとこまえ~」「新手のプロポーズみたい」
……ああ、車じゃなかったらあたしも飲んでるのに。シラフで一人飛び込んだあたしを誰か労って。
夫はといえばすっかり出来上がった顔つきで、いつのまにか恭子の腰に、背後から両腕をベルトのようにガッチリと巻き付けていた。御幸の頭が、恭子の左肩にだらりと乗っかっていて、髪の触れている頬がくすぐったい。そして重い。
ここまでくると、チームメイトたちに見られて恥ずかしいだとか、そんなこともどうでもよくなって、夫の頭がガクッと肩から落ちるのも気にせず、恭子は前のめりになって自分のグラスに手を伸ばした。
彼が頭をもたげる。懲りずにまた肩に乗ってきた。恭子はもう一度、大きくため息を吐いた。顔のすぐ横で、夫のちょっぴり情けない声が聞こえる。
「かっこいい、すき……結婚して……」
「もうしてるわ、おバカ」
呆れて目を伏せた恭子が、婚約指輪の嵌った左手を持ち上げ、指の関節でこつん、と夫の頭を軽く叩きながらツッコミを入れてそのままウーロン茶を煽ると、宴席には今日一番の笑いが起こっていた。
(彼はプロ野球選手になっても、(奥さん含め)気を許してる同級生たちからは、割と雑な扱い受けてたらいいな笑)
1/1ページ