残り香
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御幸はベッドの中で、浅く微睡 んでいた。カーテンの隙間からは、すでに少し高くなってきた太陽の光が差し込んできている。
ベッドの上にある二枚の掛け布団。自分の体に掛かったものと別の、隣のもう一枚に腕を伸ばしてみても、昨夜から居たはずの人肌はもうない──どころか、その中の温もりさえ消えかけている──ベッドを抜け出してから、そんなに時間が経っている……?
開き切らない両目で隣を見て、まだ冴えない頭を起こそうとすこし首をもたげたところで、寝室の扉の向こうから聞こえる、足音と気配に気付いた。
「…………そうだった」
ぼふっ、ともう一度枕に頭を埋める。自分は休日 だからとすっかり油断していたが、平日の今日、妻はいつもどおり仕事だ。
まだ微妙に開いていないまぶたを片手でこすりながら、もう片方の手でベッドサイドに置いていた自分のスマホ──休日で目覚ましをセットしなかった上に消音にしたケータイの画面で、時間を確認する。ああ、もう恭子が家を出る時間が迫っている。
自分がまだ夢の中にいる間、彼女はとっくに一日の活動を始めていたらしい。こちらも試合明けで疲れていたとはいえ、目覚めてから朝ベッドの中でイチャイチャすることもかなわず、寝顔も見られなかったな、と思うと、なんだかもったいないことをした気がして、悔しくて妻が使っていた隣の布団をぐーっ、と引き寄せては、それに包 まった。
あ、ふとん……あまい匂いがする──恭子が風呂上がりにいつも塗っているボディクリームの香りだと気付いて、昨夜の甘い営みも思い出されて、もう一度深く息を吸い込んでから目を閉じた。あー……気持ち良くて二度寝しちまいそう。
「かずや~」
なんなら恭子が出勤の支度をしている気配で自分は目が覚めたのか、ちょうど扉のすぐ向こうで自分を呼ぶ妻の声がした。
「一也、あたしそろそろ出るね」
「んー…………まだねる……」
「あ、起きてた」
家を出る前に念のため声をかけただけなのか、寝ぼけた御幸の返事を耳にした恭子が苦笑いする。そのあと扉がカチャ、と控えめに音を立てて、細く開いた隙間から彼女が顔を覗かせているのが見えた──眼鏡をかけていないから、ボヤけてシルエットしか見えないが。
「大丈夫、寝てていいよ、鍵閉めて勝手に出てくから。あ、お味噌汁多めに作ったから、よかったら食べて」
「アリガトー……」
布団に埋もれているから、くぐもった声になってしまったが、なんとか片手を軽く上げて応える。高校のときは朝練で5時半頃には平気で起きていたのに、習慣というのは油断すると簡単に抜け落ちるものだなと実感する。
パタン、と扉が閉まった音を聞いたところで、御幸は自身のまだ半分眠りについた体に鞭を打った。せめて妻を玄関まで見送ろうと、ヘッドボードの眼鏡に手を伸ばす。
それにしても、昨日あんなにベッドでイチャイチャしたはずなのに、ずいぶんあっさりしてんなー……
御幸は眼鏡をかけてクリアになった視界に目をしばたきながら、朝からちゃきちゃきと準備する恭子を、すこしだけ恨めしく思った。もうちょっとくらい、昨日の余韻に浸ったっていいじゃんなあ。
先ほどの『かずや~』という聞き慣れた呼びかけ──そうは言っても下の名前で自然に呼んでもらえるまで、付き合ってからもずいぶん年月がかかったが──それとは異なる、昨夜の言い方を思い返しては一人で浸ってしまう。
おそらく家の中でしか聞けない、妻の、甘くて、絡みつくような、こちらまでとろけそうになる、
『恭子……もうちょい腰、浮かせて、』
『……、んァッ……そんな、っ』
『はっ、……すげぇ、っ、イイ……』
『や、まって……かず、やぁ…………ぁ』
いかんいかん、とニヤけて引き上がったままの頬をぺちぺち、と自分の手で叩き、ト んでしまった思考を呼び戻す。
昨日『1回だけにするから』ってねだっといて、結局キモチよすぎて盛り上がってもう1回しちゃったし……でも仕方ねーよなあ、恭子がわるい。ああ、この顔のまま出ていったら、妻のお叱りを受けるにちがいない。それはそれでいいけど。
折り重なった布団から抜け出し、スリッパに両足を突っ込む。立ち上がって両腕を上に大きく伸びをしたところで、くあ、とあくびが出た。
寝室を出ると、ちょうどリビングの方からこちらに向かって廊下を歩いてくる恭子と目が合った。「あら」こちらの顔を見上げた彼女に、ふっ、と冗談ぽく笑われる。
「おはよう、ねぼすけくん」
肩からバッグを提げ、もう化粧までバッチリ・仕事モードの、恭子の切り替えの良さにムッとしてしまって、御幸は唇を尖らせた。
「はい、つかまえたー」
ガシッ、と目の前を通過しようとした恭子の腰を、御幸は片腕で抱き寄せる。予想どおり彼女が文句を言ってきた。
「やーめーてよもう行くとこなんだから! ブラウスがシワになるっ」
「いーじゃん、ちょっとくらいさあ」
項 垂 れる恭子のうなじ──シャツの少し抜いた襟から覗いている生白い首筋が見えて、思わずキスを落とした。
恭子はその日によって、つける香水を変える。今朝は、買ってきたばかりの生花を束ねたブーケのような、フレッシュで華やかな香りがした。
御幸は音もなく唇を寄せたが、敏感な箇所に息がかかっただけで、「ひゃ、」といつも落ち着いている彼女が普段は出さないような、調子外れの高い声が聞こえて、やっぱりニヤけてしまう。
「ちょっと!」
慌てて御幸の腕から抜け出し、片手で首の後ろを押さえた恭子が振り返ると、すこし頬が赤くなっていて、それがまたたまらなくなる。にやけ顔も隠さずに、肩をすくめてみせた。
「だいじょうぶ、痕はつけてない」
「当たり前でしょ!」
「まったく、」とスタスタ玄関に足を速める恭子の背中を見ていると、我ながらどうかとは思うが楽しくなってきてしまって、ついまた彼女の腕に手を伸ばし、ぐいーと引っ張った。
「ゴメンって〜怒んなよ」
「もー……いい加減にして、遅れちゃう」
呆れながら首を後ろにそらして、眉間にシワを寄せる恭子に正面を向かせ、軽く抱きしめる。
「勝手に出ていこうとすんなよなー」
「久しぶりのオフなんだから、起こしちゃ悪いでしょ」
「いいんだよ、俺のことは」
むしろ、昨夜ベッドでの盛り上がりとのギャップが激しくて、寂しさ倍増である。先にベッド抜け出されるのってこんなに空しいんだな……俺も気を付けよ。
「……ダメ」
「だからいいって」
「一也が良くてもあたしがダメ」
どういう意味だ、と思って両腕から解放すると、恭子はきまり悪そうに目線をそらして口をぱくぱくさせた。まだ頬が赤い。
「仕事の前にそういうのは……思い出しちゃうし……切り替えるの大変だからやめて」
ああなんだ、そういうことか。再びニマニマと口角が上がる。恭子としては、今朝は浸っていられなかったらしい。こうなると、またからかいたくなってしまうのが自分の性である。
「仕事中なに考えてんの、えっち」
「……昨夜 、結局2回もさせたのはどこの誰だったかしら?」
「イテテ」
赤い顔のまま、軽く耳たぶを下に引っ張られた。その戯れすら愛しいなんていうのは、傍 から見ればただの惚気にしかならないとは思うが、それでも家の中だと妻のガードが緩くなるので、ついやりたくなってしまう。
「しょうがねーじゃん、恭子が、」
言いかけて、止 まる。「あたしが、なに」と、腕組みして眉を上げる眼前の妻の、仕事服に包まれた、魅惑的な肢体を思い返してしまって──
『恭子が、綺麗でエロくて可愛いすぎるのがわるい』──なんて、いま言ったらぶっ飛ばされそうだな。
と、御幸が内心苦笑いして言い淀んでいると、そこで、はたと恭子の両目がこちらの顔を今日初めてしっかり捕らえて、「ふっ!」と急に吹き出された。
「あんた、ヨダレの跡ついてる」
「うそ!? カッコわるっ」
「あはは」
「こっち向いて」と、顔のエラの部分に手を添えられて、恭子の親指が唇の端あたりを拭う。
不満と羞恥を込めて、「ん゛ー……」と喉を鳴らすと、また笑われた。ついでにチリチリと、顎の短い髭をなでられる。
「おまえ、ヒゲ触るの好きだね……」
「めずらしいからね」
確かに、電動シェーバーでほぼ毎朝剃っているので、伸びているのは今日のような休日くらいだろう。
「それに、髭 を見られるのはあたしの特権みたいで、悪い気はしないかな」
「はい、男前になった」と、ほほ笑む恭子に対し、不覚を取った気分になった御幸は、なんだかむず痒 くなってきて首の後ろを掻 いた。
「……ありがと」
「じゃあ、いってくる」
「はい、いってらっしゃい」
ちゅ、と触れるだけの軽いキスで見送る。瞬間、恭子の唇に塗られたリップから、化粧品独特の香りがした。塗りたての朝のときだけ香る匂い。嫌いじゃない。
玄関で靴を履いている彼女に、ゆっくり後ろから近付き、壁にもたれて聞いた。
「夜なに食べたい? 俺なんか作るよ」
「え、いいよ、せっかくオフなんだから。一也が食べたいものあったら、仕事帰りになんか買ってくるし……面倒ならウーバーでもいいし」
昨夜、『今日の家事は一也の担当』なんて言っていたのに。そこは昔からの世話好きの彼女、なんだかんだ甘い人だ。休みの日に家事をするくらい、別になんの苦でもないのだけれど。
「んーん、俺が作りたい気分なの。どうせ一日暇だし。何かリクエストある?」
「じゃあ……パスタがいいな」
「りょーかい」
腕組みしたままうなずくと、振り返った妻は嬉しそうにしたので、これは作りがいがありそうだ。恭子がドアノブに手を掛ける。
「ふふ、楽しみにしてる。いってきます」
「いってらっしゃい、気を付けて」
扉を開けて出ながら手を振った恭子に、手を上げて返す。閉まっていくドアの向こうで、彼女のヒールの音がエレベーターの方へ遠ざかっていくのが聞こえた。バタン、とドアが閉まったところで、御幸は壁に手をついて、体を前に倒しながら腕を伸ばし、鍵を閉めた。
「さて、と」
もう一度、両腕を上げて大きく伸びをする。まずは洗面台で顔を洗って──念のためヨダレの跡が残っていないか確認してから、妻が作ってくれたという味噌汁を温めて、朝食を済ませるとしよう。
(御幸くん、顔立ちやもみあげも濃ゆいので、大人になったらそこそこヒゲ生えそう。)
ベッドの上にある二枚の掛け布団。自分の体に掛かったものと別の、隣のもう一枚に腕を伸ばしてみても、昨夜から居たはずの人肌はもうない──どころか、その中の温もりさえ消えかけている──ベッドを抜け出してから、そんなに時間が経っている……?
開き切らない両目で隣を見て、まだ冴えない頭を起こそうとすこし首をもたげたところで、寝室の扉の向こうから聞こえる、足音と気配に気付いた。
「…………そうだった」
ぼふっ、ともう一度枕に頭を埋める。自分は
まだ微妙に開いていないまぶたを片手でこすりながら、もう片方の手でベッドサイドに置いていた自分のスマホ──休日で目覚ましをセットしなかった上に消音にしたケータイの画面で、時間を確認する。ああ、もう恭子が家を出る時間が迫っている。
自分がまだ夢の中にいる間、彼女はとっくに一日の活動を始めていたらしい。こちらも試合明けで疲れていたとはいえ、目覚めてから朝ベッドの中でイチャイチャすることもかなわず、寝顔も見られなかったな、と思うと、なんだかもったいないことをした気がして、悔しくて妻が使っていた隣の布団をぐーっ、と引き寄せては、それに
あ、ふとん……あまい匂いがする──恭子が風呂上がりにいつも塗っているボディクリームの香りだと気付いて、昨夜の甘い営みも思い出されて、もう一度深く息を吸い込んでから目を閉じた。あー……気持ち良くて二度寝しちまいそう。
「かずや~」
なんなら恭子が出勤の支度をしている気配で自分は目が覚めたのか、ちょうど扉のすぐ向こうで自分を呼ぶ妻の声がした。
「一也、あたしそろそろ出るね」
「んー…………まだねる……」
「あ、起きてた」
家を出る前に念のため声をかけただけなのか、寝ぼけた御幸の返事を耳にした恭子が苦笑いする。そのあと扉がカチャ、と控えめに音を立てて、細く開いた隙間から彼女が顔を覗かせているのが見えた──眼鏡をかけていないから、ボヤけてシルエットしか見えないが。
「大丈夫、寝てていいよ、鍵閉めて勝手に出てくから。あ、お味噌汁多めに作ったから、よかったら食べて」
「アリガトー……」
布団に埋もれているから、くぐもった声になってしまったが、なんとか片手を軽く上げて応える。高校のときは朝練で5時半頃には平気で起きていたのに、習慣というのは油断すると簡単に抜け落ちるものだなと実感する。
パタン、と扉が閉まった音を聞いたところで、御幸は自身のまだ半分眠りについた体に鞭を打った。せめて妻を玄関まで見送ろうと、ヘッドボードの眼鏡に手を伸ばす。
それにしても、昨日あんなにベッドでイチャイチャしたはずなのに、ずいぶんあっさりしてんなー……
御幸は眼鏡をかけてクリアになった視界に目をしばたきながら、朝からちゃきちゃきと準備する恭子を、すこしだけ恨めしく思った。もうちょっとくらい、昨日の余韻に浸ったっていいじゃんなあ。
先ほどの『かずや~』という聞き慣れた呼びかけ──そうは言っても下の名前で自然に呼んでもらえるまで、付き合ってからもずいぶん年月がかかったが──それとは異なる、昨夜の言い方を思い返しては一人で浸ってしまう。
おそらく家の中でしか聞けない、妻の、甘くて、絡みつくような、こちらまでとろけそうになる、
『恭子……もうちょい腰、浮かせて、』
『……、んァッ……そんな、っ』
『はっ、……すげぇ、っ、イイ……』
『や、まって……かず、やぁ…………ぁ』
いかんいかん、とニヤけて引き上がったままの頬をぺちぺち、と自分の手で叩き、
昨日『1回だけにするから』ってねだっといて、結局キモチよすぎて盛り上がってもう1回しちゃったし……でも仕方ねーよなあ、恭子がわるい。ああ、この顔のまま出ていったら、妻のお叱りを受けるにちがいない。それはそれでいいけど。
折り重なった布団から抜け出し、スリッパに両足を突っ込む。立ち上がって両腕を上に大きく伸びをしたところで、くあ、とあくびが出た。
寝室を出ると、ちょうどリビングの方からこちらに向かって廊下を歩いてくる恭子と目が合った。「あら」こちらの顔を見上げた彼女に、ふっ、と冗談ぽく笑われる。
「おはよう、ねぼすけくん」
肩からバッグを提げ、もう化粧までバッチリ・仕事モードの、恭子の切り替えの良さにムッとしてしまって、御幸は唇を尖らせた。
「はい、つかまえたー」
ガシッ、と目の前を通過しようとした恭子の腰を、御幸は片腕で抱き寄せる。予想どおり彼女が文句を言ってきた。
「やーめーてよもう行くとこなんだから! ブラウスがシワになるっ」
「いーじゃん、ちょっとくらいさあ」
恭子はその日によって、つける香水を変える。今朝は、買ってきたばかりの生花を束ねたブーケのような、フレッシュで華やかな香りがした。
御幸は音もなく唇を寄せたが、敏感な箇所に息がかかっただけで、「ひゃ、」といつも落ち着いている彼女が普段は出さないような、調子外れの高い声が聞こえて、やっぱりニヤけてしまう。
「ちょっと!」
慌てて御幸の腕から抜け出し、片手で首の後ろを押さえた恭子が振り返ると、すこし頬が赤くなっていて、それがまたたまらなくなる。にやけ顔も隠さずに、肩をすくめてみせた。
「だいじょうぶ、痕はつけてない」
「当たり前でしょ!」
「まったく、」とスタスタ玄関に足を速める恭子の背中を見ていると、我ながらどうかとは思うが楽しくなってきてしまって、ついまた彼女の腕に手を伸ばし、ぐいーと引っ張った。
「ゴメンって〜怒んなよ」
「もー……いい加減にして、遅れちゃう」
呆れながら首を後ろにそらして、眉間にシワを寄せる恭子に正面を向かせ、軽く抱きしめる。
「勝手に出ていこうとすんなよなー」
「久しぶりのオフなんだから、起こしちゃ悪いでしょ」
「いいんだよ、俺のことは」
むしろ、昨夜ベッドでの盛り上がりとのギャップが激しくて、寂しさ倍増である。先にベッド抜け出されるのってこんなに空しいんだな……俺も気を付けよ。
「……ダメ」
「だからいいって」
「一也が良くてもあたしがダメ」
どういう意味だ、と思って両腕から解放すると、恭子はきまり悪そうに目線をそらして口をぱくぱくさせた。まだ頬が赤い。
「仕事の前にそういうのは……思い出しちゃうし……切り替えるの大変だからやめて」
ああなんだ、そういうことか。再びニマニマと口角が上がる。恭子としては、今朝は浸っていられなかったらしい。こうなると、またからかいたくなってしまうのが自分の性である。
「仕事中なに考えてんの、えっち」
「……
「イテテ」
赤い顔のまま、軽く耳たぶを下に引っ張られた。その戯れすら愛しいなんていうのは、
「しょうがねーじゃん、恭子が、」
言いかけて、
『恭子が、綺麗でエロくて可愛いすぎるのがわるい』──なんて、いま言ったらぶっ飛ばされそうだな。
と、御幸が内心苦笑いして言い淀んでいると、そこで、はたと恭子の両目がこちらの顔を今日初めてしっかり捕らえて、「ふっ!」と急に吹き出された。
「あんた、ヨダレの跡ついてる」
「うそ!? カッコわるっ」
「あはは」
「こっち向いて」と、顔のエラの部分に手を添えられて、恭子の親指が唇の端あたりを拭う。
不満と羞恥を込めて、「ん゛ー……」と喉を鳴らすと、また笑われた。ついでにチリチリと、顎の短い髭をなでられる。
「おまえ、ヒゲ触るの好きだね……」
「めずらしいからね」
確かに、電動シェーバーでほぼ毎朝剃っているので、伸びているのは今日のような休日くらいだろう。
「それに、
「はい、男前になった」と、ほほ笑む恭子に対し、不覚を取った気分になった御幸は、なんだかむず
「……ありがと」
「じゃあ、いってくる」
「はい、いってらっしゃい」
ちゅ、と触れるだけの軽いキスで見送る。瞬間、恭子の唇に塗られたリップから、化粧品独特の香りがした。塗りたての朝のときだけ香る匂い。嫌いじゃない。
玄関で靴を履いている彼女に、ゆっくり後ろから近付き、壁にもたれて聞いた。
「夜なに食べたい? 俺なんか作るよ」
「え、いいよ、せっかくオフなんだから。一也が食べたいものあったら、仕事帰りになんか買ってくるし……面倒ならウーバーでもいいし」
昨夜、『今日の家事は一也の担当』なんて言っていたのに。そこは昔からの世話好きの彼女、なんだかんだ甘い人だ。休みの日に家事をするくらい、別になんの苦でもないのだけれど。
「んーん、俺が作りたい気分なの。どうせ一日暇だし。何かリクエストある?」
「じゃあ……パスタがいいな」
「りょーかい」
腕組みしたままうなずくと、振り返った妻は嬉しそうにしたので、これは作りがいがありそうだ。恭子がドアノブに手を掛ける。
「ふふ、楽しみにしてる。いってきます」
「いってらっしゃい、気を付けて」
扉を開けて出ながら手を振った恭子に、手を上げて返す。閉まっていくドアの向こうで、彼女のヒールの音がエレベーターの方へ遠ざかっていくのが聞こえた。バタン、とドアが閉まったところで、御幸は壁に手をついて、体を前に倒しながら腕を伸ばし、鍵を閉めた。
「さて、と」
もう一度、両腕を上げて大きく伸びをする。まずは洗面台で顔を洗って──念のためヨダレの跡が残っていないか確認してから、妻が作ってくれたという味噌汁を温めて、朝食を済ませるとしよう。
(御幸くん、顔立ちやもみあげも濃ゆいので、大人になったらそこそこヒゲ生えそう。)
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