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年明け一発目の練習──高校二度目の初打ちのあと、今日の炊き出しを楽しみにしているのは部員皆同じだった。
青道野球部の初打ちの炊き出しでは、餅つきと豚汁が毎年恒例らしい。練習を終えたグラウンドの端では、父母会が用意してくれたテントの下に長机を置き、その上には大きな寸胴鍋が二つ。中で湯気を立たせる豚汁を、マネージャーたちが発泡スチロールでできた椀に入れ、列をなす部員たちやその家族に配っていく。
「さみぃけど外で食うとうめ〜」
「わかる」
「みなさん順番に並んでくださーい」
「そっち豚めっちゃ入ってるじゃん、よこせ」
「ヤだよ」
寒空の下で舌鼓を打つ部員たちを遠目に見ていると、先ほどまで共にブルペンにいた後輩ピッチャー二人と、彼女の声が聞こえてきた。
「ありがとうございます、宇佐美先輩」
「姐 さんいただきます!」
「はいはい、静かに食べなさい」
相変わらずの保護者っぷりだ。先に彼女から軽食を受け取った降谷は嬉しそうにほくほくした空気をまとわせて部員の中へと交ざっていく。沢村に至っては数分前まで、練習後にもかかわらず率先して餅つきの突 く ほ う を買って出ては「おいしょー!」と叫んでいたが元気だ。
両手いっぱいに餅の皿を携える彼の背に、「沢村! たくさん食べるのは結構だけど、喉詰まらせるんじゃないわよ!」と叫ぶ恭子のもとへ、御幸はそっと近付いた。
「姐さん、新年からオカンしてるな」
「あんたにその呼ばれ方されたくないんだけど」
「ひでーの。あけましておめでとう」
「おめでとう。早くしないとなくなるわよ」
「あぶねぇとこだった。宇佐美も食う?」
練習中はまともに話せなかったので、列を捌 き切った彼女にタイミングを見計らって話しかける。冗談混じりに新年の挨拶をしながら、彼女が入れた豚汁を受け取ろうとしたときだった。
「よ こ は い り !」
「え?」
突然の舌足らずな高い声。御幸は思わず声を上げて、声の発せられた場所まで目線を下げた。そこには、ほんの御幸の腰くらいまでしかない身長の幼児がぽつん、と一人で立ってはこちらを見上げていて、目が合った。わかりにくいが、そのくりっとした丸い両目はよく見ると釣り上がっている。どうやら怒って──否、怒 ら れ て いるらしい。
「おにぃちゃん、よこはいりしないで!」
「お……おぉ、わるいわるい」
「ちょっと。子ども相手に何やってんの、御幸」
「ゴメンって。見えてなかったから」
長机から身を乗り出すようにして、こちらの足元を覗き込んだ恭子が子どもに気が付くと、叱られてしまった。悪気はない。言い訳しているあいだに、彼女は豚汁の中身を減らしてからもう一度差し出してきたので、受け取ったのを御幸はかがんで並んでいた幼児に渡してやった。「ほらよ」
「どっから来た? 一人か?」
御幸なりに心配して声をかけたのだが、子どもは知る由もなく、豚汁を受け取ったあとにぷーい、とそっぽを向かれ無視された。「……おい」その反応に眉をひそめていたら、恭子が回り込んで御幸の隣にやってきた。
「知ってる子?」
「いや、わかんねぇ」
「父母会のとこから来たのかな」
「──か、誰かの親族か」
恭子は机の上にあった真新しい割り箸を手に、幼児の前でしゃがみ込んで、その子どもと目を合わせながら話しかけた。
「ゴメンね、このお兄ちゃんがいけないね。まだ熱いしフーフーするから、ちょっと待っててね」
幼児の手にある椀の中の根菜を、箸で器用に小さな一口大に割り、途中息を吹きかけながら冷まして、箸ごと両手で渡していた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
「ちゃんとお礼言えてえらいね。お名前は?」
「ゆうたくん・4 さい」
「ゆうたくんかあ。カッコいい名前だね。今日は、お母さんと来たの?」
「うん! いとこのおにぃちゃんの、おうえんきたの」
「そうなんだ。お兄ちゃん喜んでるよ」
目の前で繰り広げられる彼女の流石の対応に、御幸は舌を巻いた。自分ではこうはいかない。
しばらく見守っていると、『ゆうた』と名乗った子どもは、照れたようなしぐさで恭子をちらちらと見ながら、「んー」と声を漏らしてもじもじしだした。
「んーねぇねぇ、おねぇちゃん──ぼくのおよめさんになる?」
「え?」
「はぁ!?」
「御幸うるさい」
子どもの突拍子もない台詞に御幸が大声を上げると、恭子が横目に睨んできた。
幼児にとっては、どうやら最近覚えたての言葉なのか、「うん、およめさん」と嬉しそうに何度も口にしている。本当に分からず口にしているのだろうが──急に何を言いだすんだこのマセガキ、と御幸の顔は引きつった。
「おねぇちゃんやさしいから、およめさんにしてあげる!」
「あら──」
「おまえ、意味分かってんのか?」
「わかるよ。ケッコンするんでしょ?」
「4歳じゃできねーよ」
「子どもの言うことでしょ、なに真に受けてんの」
恭子は先ほどから呆れてこちらに軽蔑のまなざしを向けてくるが──こ の 状 況 を『子どもだから』と笑って流せるものか? “意中の人が、異性からの堂々とした求婚を受けている”のを?──恭子にとっては子どもの戯れでも、俺にとっては聞き捨てならない。
「おねぇちゃん、ゆうたくんとケッコンする?」
「うーん、嬉しいけど、もうちょっと大きくなったらね」
幼児からの再度の問いに、恭子は苦笑いしながらもすぐにあっさり答え、さらりとかわしていた。それからその場で立ち上がり、こちらに視線を寄越してくる。
「ちょっとこの子のお母さん捜してくる。御幸、はぐれないように見てあげて」
「えっ、俺が? ちょ、宇佐美待っ、」
引き止める間もなく、彼女はギャラリーの大人たちのほうへ足を向けると「ゆうたくんのお母さん、いらっしゃいますかー?」というような声を上げて、離れていってしまった。
再びぽつん、と残された、幼児と二人きり。
参ったな、初対面の子どもの面倒なんてちゃんと見られるかどうか、ま せ た 発言までするし──と、頭を掻 いて隣を見下ろすと、幼児は恭子に渡された豚汁を、箸も使わず両手で抱え飲み干そうとしていた。椀の中で波打つ液体、手つきも危なっかしい──子ども相手の経験が少ない御幸でも、このあと起こりうる惨事が一目で分かる。
「あーばかばか、そのままいったら全部服にこぼれるぞ」
「やー! ゆうたくんのとらないで!」
「取らねーよ。ほら、皿持っててやるからゆっくり飲め」
慌ててしゃがみ込み、豚汁に口を付けようとする子どもの顔の前の皿へ、そっと片手を添え底を支えてやる。幼児はちょっぴり不満そうな顔で、それでもそのまますんなり飲み始めた。今の今まで文句ばかり言っていたのに、素直なところはやはり子どもで、つい苦笑いしてしまう。
「お、なんだよ御幸、子守りか?」
「御幸って弟いたっけ?」
「隠し子?」
「面倒だから全員まとめて否定させろ」
通りすがりに意味もなく冷やかしてくる部員たちを、スポサン越しに睨みつける。「ぷは、」と汁を飲んで子どもが一息ついたのを確認し、こぼされてはかなわんと、満足した隙に皿と箸を取り上げておいた。幼児は恭子が去っていった方を見ながら、よたよたと足踏みしている。
「おねぇちゃんどこいっちゃったの?」
「おまえのお母さん捜しにいったよ」
「ゆうたくんもいくー」
「いやいや、おまえが行っちゃダメだろ」
人が多いとはいえ、母親のほうもこの子を捜しているはずだから、どうせそのうちすぐに見つかる。やれやれ、と汁の中に沈んでいる彼女が一口大に割っていた具を箸でつまんで──4歳って箸使えたっけ。微妙な年齢だよな──子どもの口の前に差し出してやった。
「すぐ戻ってくっからおとなしく待ってろって。な?」
「にんじんやだ、じゃがいもがいい」
「へーへー」
リクエストどおり、じゃがいもに変えて差し出す。むす、と芋を見つめる子どもを前にそこで、あ、と思い出し慌てて自分の口のほうへ引っ込めて、ふー、ふー、と息を吹きかけた。「んん、たべる」「待て待て、ちゃんとやるから」
「ほら、あー」今度はすんなり、ぱくっと口にした。食事させるのも一苦労だ。子どもの面倒見るのってホント大変だな、と思いがけず実感してしまった。
「男なら待てるだろ? そんなわがままじゃ、ケッコンなんかできねーぞ」
「できるもん! おねぇちゃん、おおきくなったらいいよって、いってたよ」
「だーめ。あのお姉ちゃんは、俺 の お嫁さんになるの」
「なんでー?」
「なんでも。少なくとも、人参残してるうちはダメだな」
「お嫁さんの前で、カッコわるいだろ?」そう言って見せつけるように避 けられた人参を食べてやると、「む〜」とむくれていた。
「……にんじんたべれるようになったら、ゆうたくんもケッコンできる?」
「かもな」
「じゃあたべるっ」
「ははっ、その意気や良し」
「雄太!」
ふいに、向こうから彼を呼ぶ声がして二人で振り向くと、ダウンコートを羽織った女性がこちらに駆け寄ってきていた。その少し後ろには、恭子の姿も見える。おそらくこの人が母親だろう、と御幸はほっとして立ち上がった。
「ママ!」
「すみません、ウチの子が──」
「いえ」
「ねぇママ〜、にんじんたべれるようになったら、ゆうたくんもケッコンできるってー」
「んん? そうね、人参食べれたらカッコいいよ」
彼の脈絡のない話にも、母親はうなずいて笑った。子どもはそれを聞いて母親の足元に抱きついたあと、御幸のほうを見上げ嬉しそうにしていた。
つられて声を出さずに笑ってやると、隣に来た恭子が「おつかれ」と、御幸の肩を軽く叩いた。「おう」片手で椀と、割り箸を親指で押さえて持ちなおす。親子は手を繋いで帰っていった。
「ありがとうございました。ほら、お兄ちゃんたちにバイバイは?」
「うんっ、バイバーイ!」
母親に手を引かれ、体を半分こちらに向けながら手を振る子どもに、笑って手を振り返している恭子を横目に見下ろす。ひとまず御幸も小さく胸元で手を振っておくと、それを見た幼児は満足したのか前を向いて母親についていった。
「ありがとう、すぐ見つかってよかった」
「ホント。子どもって突拍子もないこと言うから疲れる」
「お ま せ な子だったもんね」
恭子が苦笑いしている横でその視線を感じながら、片手をグラウンドコートのポケットに突っ込み、子どもの残した冷めた豚汁を、もったいないからと口の中へ流し込んだ。「それはそうと──」
「あたし、あんたの“お嫁さん”になるの?」
「ぶふっ!」
「きたなっ」
げほっげほっ、と前のめりになって咽 せると、彼女にげんなりしたようすで見下ろされているのが気配でわかる。「聞いてたのかよ……」「聞こえたのよ」
飲み干してから、決まりが悪くなって視線を泳がせていたら、恭子は呆れて「ハァ」と白いため息を吐きながら肩を縮こまらせた。
「今日さむっ……」
「グラコン着てきたのに?」
「あんたは練習後だから体あったまってるでしょ」
「けど──じゃあコ レ 貸してやるよ」
持ってて、と空になった皿と割り箸を恭子に預け、首に着けていたネックウォーマーを頭から引っこ抜く。ズレたサングラスを直しながら、正面でこちらを見上げる恭子に無理やり被せた。
「やだぁ、髪が崩れる」
「じっとしてろって」
気にするところが女のコだなあ、と目を細める。ぷは、と息を吐いて覗かせた恭子の顔は、さっきの子どもみたいにむくれていた。いや、可愛いけど、と鼻から笑いの息が漏れた。ついでにネックウォーマーに埋もれた、彼女のポニーテールを引っ張り出してやる。
「もう、乱暴にしないで、ぐちゃぐちゃになっちゃう」
「そんな気にしなくても大丈夫だろ」
「あんたがそれを言うの?」
「んなこと言って、顔赤 ぇぞ。風邪ひくなよ」
「どっちがオカンよ」
唇をつんとさせて、指先で前髪をなおすしぐさ──問題ない。多少乱れても、彼女はいつも綺麗だし。恭子は口元をフリース生地にうずめながら、小さく眉を上げていた。
「……すごい御幸の匂いする」
「え゛、臭いの俺。さすがに傷付くんだけど」
「そうは言ってないでしょ。……ありがとう」
「新年からイチャついてんじゃねー」
「イッテェ!?つ い で に蹴るなっ」
ゲシッ、と通りすがりの倉持に尻を蹴られたので、振り返って抗議しておいた。向き直れば、恭子は彼の指摘にハッとした表情になって、恥ずかしそうにうつむいている。
「全く……言動にはちゃんと責任持ってよ、主将 」
「あー、いやまあ、な」
引退するまであと半年ちょっと、センバツが決まったばかりだというのに──もうすぐ新一年も入ってくるってのに、“主将とマネージャーが”って……やっぱり示しがつかねぇよなあ、と──彼女があえて俺を『キャプテン』と呼んだのもそういう意味だろう、と互いに認識した。
とはいえ、彼女のその発言は少々面白くない──御幸は不満だという思いを隠さずに口を尖らせてみせ、恭子のポニーテールの毛先を指にくるくると巻きつけるようにして弄んでやった。
「つかそう言うなら、恭子もむやみに愛想振り撒くなよ」
「あんな小さい子はノーカンでしょ」
と、眉をハの字にして肩をすくめられた。彼女が苦笑いしているのを見て、まあいいか、と御幸は肩の力を抜いた。恭子はガードが固いし、彼女にその意識があるなら、俺の思い込みってわけでもなさそうだし。
「ただ、俺は子ども相手だろうが、冗談でもそ う い う こ と 言わねぇけどな」
ぱっ、と手を開いて、絡めていたなめらかな髪の毛を離す。彼女の反応をうかがえば、恭子はその大きな瞳と長いまつ毛をぱちくりさせていた。……もしかして引かれた?「な、なんか言えよ」
「だとしたら、付き合ってもいないのに色々すっ飛ばし過ぎじゃない?」
「そりゃあ……待ってい た だ い て る 身としては、たまには攻めの姿勢も大事かなって」
「“インハイで厳しめ”に」「あくまで野球なのね?」この会話自体が冗談みたいに、それでも御幸は本気だった。それくらいの駆け引きをしたって、バチは当たらないだろう?
すると恭子は、すこし思案するようなしぐさでぽつりと溢 した。「お 嫁 さ ん かあ──」
「あたしも、どっちかといえば苗字は『宇佐美』より『御幸』のほうがいいかも。響きが好きだし」
「ふーん…………は?」
一瞬その言葉の意味を考えてぼうっとしていたら、彼女はぐっとこちらに顔を近づけてきて言った。
「“打ち返して”みたの。まさか振ってくるとは思わなかった?」
「油断したな、キャプテン!」そう笑われ、バシッ!、と背中を強く叩いてきた。女子の力なんて大したことないはずなのに、不思議とさっきの倉持の通り魔のような蹴りよりも、ジンジンと熱を帯びて効いている気がする。
「ゆだん、……ってか、えっ?」
「ふふ、今年もヨロシク」
そうして、ほくそ笑むように口角を上げた恭子は、御幸の食べ終えた皿と箸を手にしたまま、持ち場へと戻っていった。御幸のネックウォーマーの隙間から白い息を漏らす彼女の足取りは、スキップでもしそうなほど軽やかだ。
どうやら一部始終を見ていた周りの部員たちは、こちらが背中を思いきり叩かれたことで、二人が揉めているとでも勘違いしたのだろうか、棒立ちになっている御幸に対し、口々に苦言を呈した。
「なんや、またケンカか?」
「今度はなにやらかしたの」
「ほっとけ、どうせ痴話喧嘩だろ」
「見ろよ、ニヤケ面 しやがって」
去っていく彼女の背中を見つめる──やられた──見事な初打ち。あんな綺麗に打ち返されたらバッターを褒めるしかねーだろ。と、一人の捕手は心の中で言い訳をして、新年早々気を引き締め直すことになった。
(『お互い好きなんだろうな、と自覚も自負もしてるけど、引退するまでは言えない』みたいな時期。俗に言う『恋愛で一番楽しい』と言われてる時期、なのかも。)
青道野球部の初打ちの炊き出しでは、餅つきと豚汁が毎年恒例らしい。練習を終えたグラウンドの端では、父母会が用意してくれたテントの下に長机を置き、その上には大きな寸胴鍋が二つ。中で湯気を立たせる豚汁を、マネージャーたちが発泡スチロールでできた椀に入れ、列をなす部員たちやその家族に配っていく。
「さみぃけど外で食うとうめ〜」
「わかる」
「みなさん順番に並んでくださーい」
「そっち豚めっちゃ入ってるじゃん、よこせ」
「ヤだよ」
寒空の下で舌鼓を打つ部員たちを遠目に見ていると、先ほどまで共にブルペンにいた後輩ピッチャー二人と、彼女の声が聞こえてきた。
「ありがとうございます、宇佐美先輩」
「
「はいはい、静かに食べなさい」
相変わらずの保護者っぷりだ。先に彼女から軽食を受け取った降谷は嬉しそうにほくほくした空気をまとわせて部員の中へと交ざっていく。沢村に至っては数分前まで、練習後にもかかわらず率先して餅つきの
両手いっぱいに餅の皿を携える彼の背に、「沢村! たくさん食べるのは結構だけど、喉詰まらせるんじゃないわよ!」と叫ぶ恭子のもとへ、御幸はそっと近付いた。
「姐さん、新年からオカンしてるな」
「あんたにその呼ばれ方されたくないんだけど」
「ひでーの。あけましておめでとう」
「おめでとう。早くしないとなくなるわよ」
「あぶねぇとこだった。宇佐美も食う?」
練習中はまともに話せなかったので、列を
「
「え?」
突然の舌足らずな高い声。御幸は思わず声を上げて、声の発せられた場所まで目線を下げた。そこには、ほんの御幸の腰くらいまでしかない身長の幼児がぽつん、と一人で立ってはこちらを見上げていて、目が合った。わかりにくいが、そのくりっとした丸い両目はよく見ると釣り上がっている。どうやら怒って──否、
「おにぃちゃん、よこはいりしないで!」
「お……おぉ、わるいわるい」
「ちょっと。子ども相手に何やってんの、御幸」
「ゴメンって。見えてなかったから」
長机から身を乗り出すようにして、こちらの足元を覗き込んだ恭子が子どもに気が付くと、叱られてしまった。悪気はない。言い訳しているあいだに、彼女は豚汁の中身を減らしてからもう一度差し出してきたので、受け取ったのを御幸はかがんで並んでいた幼児に渡してやった。「ほらよ」
「どっから来た? 一人か?」
御幸なりに心配して声をかけたのだが、子どもは知る由もなく、豚汁を受け取ったあとにぷーい、とそっぽを向かれ無視された。「……おい」その反応に眉をひそめていたら、恭子が回り込んで御幸の隣にやってきた。
「知ってる子?」
「いや、わかんねぇ」
「父母会のとこから来たのかな」
「──か、誰かの親族か」
恭子は机の上にあった真新しい割り箸を手に、幼児の前でしゃがみ込んで、その子どもと目を合わせながら話しかけた。
「ゴメンね、このお兄ちゃんがいけないね。まだ熱いしフーフーするから、ちょっと待っててね」
幼児の手にある椀の中の根菜を、箸で器用に小さな一口大に割り、途中息を吹きかけながら冷まして、箸ごと両手で渡していた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
「ちゃんとお礼言えてえらいね。お名前は?」
「ゆうたくん・
「ゆうたくんかあ。カッコいい名前だね。今日は、お母さんと来たの?」
「うん! いとこのおにぃちゃんの、おうえんきたの」
「そうなんだ。お兄ちゃん喜んでるよ」
目の前で繰り広げられる彼女の流石の対応に、御幸は舌を巻いた。自分ではこうはいかない。
しばらく見守っていると、『ゆうた』と名乗った子どもは、照れたようなしぐさで恭子をちらちらと見ながら、「んー」と声を漏らしてもじもじしだした。
「んーねぇねぇ、おねぇちゃん──ぼくのおよめさんになる?」
「え?」
「はぁ!?」
「御幸うるさい」
子どもの突拍子もない台詞に御幸が大声を上げると、恭子が横目に睨んできた。
幼児にとっては、どうやら最近覚えたての言葉なのか、「うん、およめさん」と嬉しそうに何度も口にしている。本当に分からず口にしているのだろうが──急に何を言いだすんだこのマセガキ、と御幸の顔は引きつった。
「おねぇちゃんやさしいから、およめさんにしてあげる!」
「あら──」
「おまえ、意味分かってんのか?」
「わかるよ。ケッコンするんでしょ?」
「4歳じゃできねーよ」
「子どもの言うことでしょ、なに真に受けてんの」
恭子は先ほどから呆れてこちらに軽蔑のまなざしを向けてくるが──
「おねぇちゃん、ゆうたくんとケッコンする?」
「うーん、嬉しいけど、もうちょっと大きくなったらね」
幼児からの再度の問いに、恭子は苦笑いしながらもすぐにあっさり答え、さらりとかわしていた。それからその場で立ち上がり、こちらに視線を寄越してくる。
「ちょっとこの子のお母さん捜してくる。御幸、はぐれないように見てあげて」
「えっ、俺が? ちょ、宇佐美待っ、」
引き止める間もなく、彼女はギャラリーの大人たちのほうへ足を向けると「ゆうたくんのお母さん、いらっしゃいますかー?」というような声を上げて、離れていってしまった。
再びぽつん、と残された、幼児と二人きり。
参ったな、初対面の子どもの面倒なんてちゃんと見られるかどうか、
「あーばかばか、そのままいったら全部服にこぼれるぞ」
「やー! ゆうたくんのとらないで!」
「取らねーよ。ほら、皿持っててやるからゆっくり飲め」
慌ててしゃがみ込み、豚汁に口を付けようとする子どもの顔の前の皿へ、そっと片手を添え底を支えてやる。幼児はちょっぴり不満そうな顔で、それでもそのまますんなり飲み始めた。今の今まで文句ばかり言っていたのに、素直なところはやはり子どもで、つい苦笑いしてしまう。
「お、なんだよ御幸、子守りか?」
「御幸って弟いたっけ?」
「隠し子?」
「面倒だから全員まとめて否定させろ」
通りすがりに意味もなく冷やかしてくる部員たちを、スポサン越しに睨みつける。「ぷは、」と汁を飲んで子どもが一息ついたのを確認し、こぼされてはかなわんと、満足した隙に皿と箸を取り上げておいた。幼児は恭子が去っていった方を見ながら、よたよたと足踏みしている。
「おねぇちゃんどこいっちゃったの?」
「おまえのお母さん捜しにいったよ」
「ゆうたくんもいくー」
「いやいや、おまえが行っちゃダメだろ」
人が多いとはいえ、母親のほうもこの子を捜しているはずだから、どうせそのうちすぐに見つかる。やれやれ、と汁の中に沈んでいる彼女が一口大に割っていた具を箸でつまんで──4歳って箸使えたっけ。微妙な年齢だよな──子どもの口の前に差し出してやった。
「すぐ戻ってくっからおとなしく待ってろって。な?」
「にんじんやだ、じゃがいもがいい」
「へーへー」
リクエストどおり、じゃがいもに変えて差し出す。むす、と芋を見つめる子どもを前にそこで、あ、と思い出し慌てて自分の口のほうへ引っ込めて、ふー、ふー、と息を吹きかけた。「んん、たべる」「待て待て、ちゃんとやるから」
「ほら、あー」今度はすんなり、ぱくっと口にした。食事させるのも一苦労だ。子どもの面倒見るのってホント大変だな、と思いがけず実感してしまった。
「男なら待てるだろ? そんなわがままじゃ、ケッコンなんかできねーぞ」
「できるもん! おねぇちゃん、おおきくなったらいいよって、いってたよ」
「だーめ。あのお姉ちゃんは、
「なんでー?」
「なんでも。少なくとも、人参残してるうちはダメだな」
「お嫁さんの前で、カッコわるいだろ?」そう言って見せつけるように
「……にんじんたべれるようになったら、ゆうたくんもケッコンできる?」
「かもな」
「じゃあたべるっ」
「ははっ、その意気や良し」
「雄太!」
ふいに、向こうから彼を呼ぶ声がして二人で振り向くと、ダウンコートを羽織った女性がこちらに駆け寄ってきていた。その少し後ろには、恭子の姿も見える。おそらくこの人が母親だろう、と御幸はほっとして立ち上がった。
「ママ!」
「すみません、ウチの子が──」
「いえ」
「ねぇママ〜、にんじんたべれるようになったら、ゆうたくんもケッコンできるってー」
「んん? そうね、人参食べれたらカッコいいよ」
彼の脈絡のない話にも、母親はうなずいて笑った。子どもはそれを聞いて母親の足元に抱きついたあと、御幸のほうを見上げ嬉しそうにしていた。
つられて声を出さずに笑ってやると、隣に来た恭子が「おつかれ」と、御幸の肩を軽く叩いた。「おう」片手で椀と、割り箸を親指で押さえて持ちなおす。親子は手を繋いで帰っていった。
「ありがとうございました。ほら、お兄ちゃんたちにバイバイは?」
「うんっ、バイバーイ!」
母親に手を引かれ、体を半分こちらに向けながら手を振る子どもに、笑って手を振り返している恭子を横目に見下ろす。ひとまず御幸も小さく胸元で手を振っておくと、それを見た幼児は満足したのか前を向いて母親についていった。
「ありがとう、すぐ見つかってよかった」
「ホント。子どもって突拍子もないこと言うから疲れる」
「
恭子が苦笑いしている横でその視線を感じながら、片手をグラウンドコートのポケットに突っ込み、子どもの残した冷めた豚汁を、もったいないからと口の中へ流し込んだ。「それはそうと──」
「あたし、あんたの“お嫁さん”になるの?」
「ぶふっ!」
「きたなっ」
げほっげほっ、と前のめりになって
飲み干してから、決まりが悪くなって視線を泳がせていたら、恭子は呆れて「ハァ」と白いため息を吐きながら肩を縮こまらせた。
「今日さむっ……」
「グラコン着てきたのに?」
「あんたは練習後だから体あったまってるでしょ」
「けど──じゃあ
持ってて、と空になった皿と割り箸を恭子に預け、首に着けていたネックウォーマーを頭から引っこ抜く。ズレたサングラスを直しながら、正面でこちらを見上げる恭子に無理やり被せた。
「やだぁ、髪が崩れる」
「じっとしてろって」
気にするところが女のコだなあ、と目を細める。ぷは、と息を吐いて覗かせた恭子の顔は、さっきの子どもみたいにむくれていた。いや、可愛いけど、と鼻から笑いの息が漏れた。ついでにネックウォーマーに埋もれた、彼女のポニーテールを引っ張り出してやる。
「もう、乱暴にしないで、ぐちゃぐちゃになっちゃう」
「そんな気にしなくても大丈夫だろ」
「あんたがそれを言うの?」
「んなこと言って、顔
「どっちがオカンよ」
唇をつんとさせて、指先で前髪をなおすしぐさ──問題ない。多少乱れても、彼女はいつも綺麗だし。恭子は口元をフリース生地にうずめながら、小さく眉を上げていた。
「……すごい御幸の匂いする」
「え゛、臭いの俺。さすがに傷付くんだけど」
「そうは言ってないでしょ。……ありがとう」
「新年からイチャついてんじゃねー」
「イッテェ!?
ゲシッ、と通りすがりの倉持に尻を蹴られたので、振り返って抗議しておいた。向き直れば、恭子は彼の指摘にハッとした表情になって、恥ずかしそうにうつむいている。
「全く……言動にはちゃんと責任持ってよ、
「あー、いやまあ、な」
引退するまであと半年ちょっと、センバツが決まったばかりだというのに──もうすぐ新一年も入ってくるってのに、“主将とマネージャーが”って……やっぱり示しがつかねぇよなあ、と──彼女があえて俺を『キャプテン』と呼んだのもそういう意味だろう、と互いに認識した。
とはいえ、彼女のその発言は少々面白くない──御幸は不満だという思いを隠さずに口を尖らせてみせ、恭子のポニーテールの毛先を指にくるくると巻きつけるようにして弄んでやった。
「つかそう言うなら、恭子もむやみに愛想振り撒くなよ」
「あんな小さい子はノーカンでしょ」
と、眉をハの字にして肩をすくめられた。彼女が苦笑いしているのを見て、まあいいか、と御幸は肩の力を抜いた。恭子はガードが固いし、彼女にその意識があるなら、俺の思い込みってわけでもなさそうだし。
「ただ、俺は子ども相手だろうが、冗談でも
ぱっ、と手を開いて、絡めていたなめらかな髪の毛を離す。彼女の反応をうかがえば、恭子はその大きな瞳と長いまつ毛をぱちくりさせていた。……もしかして引かれた?「な、なんか言えよ」
「だとしたら、付き合ってもいないのに色々すっ飛ばし過ぎじゃない?」
「そりゃあ……待って
「“インハイで厳しめ”に」「あくまで野球なのね?」この会話自体が冗談みたいに、それでも御幸は本気だった。それくらいの駆け引きをしたって、バチは当たらないだろう?
すると恭子は、すこし思案するようなしぐさでぽつりと
「あたしも、どっちかといえば苗字は『宇佐美』より『御幸』のほうがいいかも。響きが好きだし」
「ふーん…………は?」
一瞬その言葉の意味を考えてぼうっとしていたら、彼女はぐっとこちらに顔を近づけてきて言った。
「“打ち返して”みたの。まさか振ってくるとは思わなかった?」
「油断したな、キャプテン!」そう笑われ、バシッ!、と背中を強く叩いてきた。女子の力なんて大したことないはずなのに、不思議とさっきの倉持の通り魔のような蹴りよりも、ジンジンと熱を帯びて効いている気がする。
「ゆだん、……ってか、えっ?」
「ふふ、今年もヨロシク」
そうして、ほくそ笑むように口角を上げた恭子は、御幸の食べ終えた皿と箸を手にしたまま、持ち場へと戻っていった。御幸のネックウォーマーの隙間から白い息を漏らす彼女の足取りは、スキップでもしそうなほど軽やかだ。
どうやら一部始終を見ていた周りの部員たちは、こちらが背中を思いきり叩かれたことで、二人が揉めているとでも勘違いしたのだろうか、棒立ちになっている御幸に対し、口々に苦言を呈した。
「なんや、またケンカか?」
「今度はなにやらかしたの」
「ほっとけ、どうせ痴話喧嘩だろ」
「見ろよ、ニヤケ
去っていく彼女の背中を見つめる──やられた──見事な初打ち。あんな綺麗に打ち返されたらバッターを褒めるしかねーだろ。と、一人の捕手は心の中で言い訳をして、新年早々気を引き締め直すことになった。
(『お互い好きなんだろうな、と自覚も自負もしてるけど、引退するまでは言えない』みたいな時期。俗に言う『恋愛で一番楽しい』と言われてる時期、なのかも。)
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