おやすみよ
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※生理ネタです。生理の諸症状には個人差があります。
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『ごめん、今日体調悪いからごはん何か買って食べて』
練習を終え、スマホの画面を点 けたところ、そのトークアプリの通知を見て、御幸は「えっ」と思わず声を上げてしまった。
「どうした?」
「あ──ああ、すみません、独り言です」
隣のロッカールームを使っていた先輩に声をかけられ、慌てて空いた手を振ってなんでもないと伝えた。
とはいえ、彼 女 が 言うなんてよっぽどだから──おそらく原因を思いついて、御幸はさっさと荷物をまとめると、選手とスタッフに挨拶をし、ロッカールームを後にした。周りに人がいないのを確認して、妻と共有している“管理アプリ”を開いてみる。ああ、やはり──周期的に間違いなさそうだ。
駐車場にたどり着き、自家用車へ乗り込んだあと、助手席のシートに荷物を置いてから電話をかけた。しばらく鳴らしてから、寝ているかもと気付いたが、そのときコール音が途切れた。
「──もしもし?」彼女のその声は、いつもよりどこか疲れを含んでいる気がした。
「恭子? わるい、寝てた?」
「ううん、起きてたよ」
「ライン見たぜ、大丈夫か?」
「うん……ごめん、忙しいのに」
「俺のことはいいって。もう練習終わったし」
やっぱり声が暗い。スマホ片手にブレーキを踏みながらエンジンをかけ、腕時計を確認する。帰宅ラッシュは避けられるか。何時までに帰れっかな。
「生理か?」
「うん……二日目でしんどい」
「なんか買って帰るモンある?」
「大丈夫。ありがとう」
「俺のことは気にしなくていいから。辛かったら寝とけ?」
「うん」
そうして言葉少なに電話は切れた。よっぽど辛いのだろうか、心配になった御幸はシートベルトを締めて、安全運転、と胸の内で念押ししながらも家路を急いだ。
「ただいまー」
近所のスーパーに寄ってから帰宅した御幸は、エコバッグを片手に、常に綺麗に片付いている玄関で靴を脱いだ。いつもの出迎えがないので、寝ているかもしれない。
「恭子?」気付いて声量を落としながらリビングへ向かうと、電気は点いている。キッチンにいるのか、と覗き込もうとしたとき、「一也……?」視界の端に入ったリビングのソファから自分を呼ぶ声がして振り向いた。そこでは恭子がソファに腰掛けたまま、ぐったりと横になっている。全身がヒヤリとして、慌てて駆け寄った。
「おい、大丈夫かっ?」
「ああ──ゴメン、おかえり……」
彼女のそばにしゃがみ込み、荷物を下ろすと、エコバッグの中身がガサガサと音を立てた。恭子はひどく緩慢な動きで起き上がり、こちらをゆっくりと見下ろしてくる──顔色が良くない。それに、よく見るとエプロンを着けたままだ。夕飯を作ろうとして、やはり辛くて断念したということか。
「ちゃんとベッドで寝ろって。体痛めるぞ」
「一也帰ってくるから……起きて待ってただけ」
「なに可愛いこと言ってくれてんだよ」
「おバカ、そういうことじゃな、……んっ」
ちゅ、といじらしくてたまらない妻に、『ただいま』のキスをする。彼女はどこか呆れたようすで、それでもすこし照れているように見えて、ますます愛しい。「……思ったより早かったね」「心配だったから」
「薬飲んだか?」
「うん。ごめん、いつもここまでじゃないけど今日重くて……」
付き合ってから何年も経つのだ。男手一つで育てられた自分だが、さすがに毎回痛みの程度が同じでもないことくらいは学んだ。少なくとも、妻 自身によく起こる症状は理解しているつもりだ。
「なんか食えそう?」
「んー……おなかは空いてる……はず」
「……まさかなんも食ってないのか?」
「お昼はチーズかじった」
「ネズミじゃねーんだから」
そうやって冗談を言い合っても、今日の彼女は声を出さずに笑うだけ。相当しんどいんだな、と彼女の痩せ我慢を見抜けてしまって、余計に心配になる。
「夕飯は俺が作るから。エプロンよこして」
「代打オレ」「古田さんが作ってくれるのは普通に嬉しい」捕手なりのジョークにようやく妻は笑い声を上げた。心の中でレジェンドキャッチャーに感謝しつつ、彼女が取ったエプロンを受け取り、首の紐の長さを調節しなおして自分が着用する。荷物を移動させ、まずは手を洗おうとキッチンへ向かった。
「あ……ご飯なら炊いてあるよ」
「ああ、ありがとう」
練習後の夕飯、我が家は白米と決めている。だが今日の妻には、こ っ ち のほうがいいだろうと、御幸は炊飯器よりも先にストックの棚を開けて、いつもの米に比べ茶色いそ れ があることを確認し、買ってきた食材を捌 き始めた。
「できたぜ、食えそう?」
「え……あたしのだけ作ってくれたの?」
「先にな。俺は米があれば適当におかず作って済ますし」
静かに休んでいた恭子に声をかけ、コンロにかけていた小さな一人用の土鍋を鍋つかみで持ち、反対の手に鍋敷きとレンゲを乗せて、リビングへと運んだ。
「ココに置いていい?」「うん」いつもはダイニングテーブルで食事をするが、体調の悪い彼女に動いてもらうのも申し訳ないので、ソファの前のローテーブルに鍋敷きを置き、その上に土鍋を乗せる。ソファに腰掛けていた恭子が、おしりを滑らすようにしてソファとテーブルの間のラグにぺたんと座り込んだ。御幸はその隣で胡座 を組んだ。
「なあにコレ」
「あんま期待すんなよ、恭子ほど上手くねぇんだから」
パカ、と鍋つかみの手で土鍋の蓋を開けると、ほかほかと湯気が立ち上 る。「あ、お粥だ」と恭子は中を覗き込んだ。
「玄米使った?」
「恭子への栄養素はこっちのがいいだろ?」
まあ、その点に関しては彼女のほうが詳しいので、説明不要かもしれない。具材は、鉄分豊富なほうれん草、体をあたためる生姜と、たんぱく質も欲しいので溶き卵に、ほぐした鶏肉も少し。
「……おいしそう」
「お粥といえば、思い出すんだよな」
「高2のとき、恭子が寮の部屋までお粥持って来てくれたこと」鍋つかみを外して、熱を冷ますように中身をレンゲで適度にかき混ぜながら言うと、恭子は苦笑いしていた。
「周りの人目盗んでまで来てくれるなんてさ、俺って愛されてるな〜って思ったね」
「調子いいこと言っちゃって。あのときあたしに怒られたばっかで傷心だったくせに」
「なんだ覚えてんのかよ」
「そりゃそうよ、あんたとまともにケンカしたの、秋大のあとが初めてだったもの」
お粥をかき混ぜているようすを、恭子はテーブルに頬杖をつきながら見つめていた。妻とは長い付き合いだが、確かにお互いが『ケンカ』と認識しているケンカは、数えるくらいしかしていない。
「いま思い返せばホント、ケガを黙ってるなんてありえないよね」
「そりゃい ま はプロだし……」
「あら、言い訳?」
「“若気の至り”ってヤツ?」
「そう言えばなんでも許されると思わないでちょうだい」
「んんー反省はしてるって。ほら、『あーん』して」
逃れるように話を切ったあと、いやまだ熱いか、と──フー、と息を吹きかけ、レンゲの上の一口分を冷まして、恭子の口元へと運ぶが、彼女には苦い顔をされてしまった。「……子どもじゃないし、風邪ひいたわけでもないから自分で食べられるわよ」
なんて言われてもめげない。10代の(いま思えば)可愛いケンカを、今さら持ち出してお説教しかけた妻への仕返しである。
「あーん」ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、レンゲをさらにずいっと差し出すと、観念したのか彼女は「……あ」と口を開けた。かぷ、と歯がレンゲに当たる音がして、お粥が彼女の口の中へと入っていくのをじっと見てしまう。おそらくこんな彼女の姿、家の中でしかお目にかかれない。妻は咀嚼しながら、なんだかちょっぴり悔しそうだ。その表情も可愛らしい。
「……おいしい」
「味薄くねぇ?」
「ちょうどいい。生姜がきいてて美味しい」
「もう。自分でたべるから」恥ずかしそうにしていた恭子は、こちらの手からレンゲを奪い取ると、二口目をすくった。やれやれ、と御幸は立ち上がり、エプロンの位置を直しながらキッチンへと戻る。
お粥の残った具材で適当に炒め物でも作って、自分の夕飯のメニューとしよう。あとは炊かれた白米に、一人分なら味噌汁もインスタントでいいだろう。
まな板の上で具材を切りながら、ときどきキッチンカウンター越しに、妻のようすを眺める。彼女は鍋を抱えるようにしながら、お粥をぱくついている。さすがに『チーズをかじった』だけでは心配だったが、今は食欲があるみたいで一安心だ。
幼い頃から料理はしていた。ひたむきに仕事をする父や、自分の体づくりのために、栄養バランスを考えて作ったりもしたが、今はそれとも違う。自分よりよっぽど料理上手の妻が、嬉しそうにお粥を頬張るのを見て、思わず笑みが漏れる。
愛する人が喜んでくれることを考えて料理をするというのも、悪くない。
片付けまで終えて、料理である。二人が食べ終えた食器を食洗機にかけ、かけられないものを一通り洗ってから御幸は一息ついた。風呂に入るか、しかし練習後にシャワーは浴びたから、先に以前の試合でも見返しておこうか、とツールを用意する。
ソファでは、すこし顔色の良くなった妻が、空腹が満たされたからか眠そうにしていた。おなかいっぱいで眠い、なんて、子どもみたいで笑ってしまう。言ったらちょっと怒られそうだけど。
「痛みは?」
「まだちょっとだるいけど大丈夫……お粥ごちそうさま。すごく美味しかった」
「そりゃよかった」
恭子の隣に座ると、彼女は御幸がタブレットとイヤホンを持っているのに気が付いて、「あ」とテレビのほうを向いてから再びこちらを見た。
「テレビ使う? 試合観たいでしょ」
「いいよ、音うるさいだろ」
「そう……」
「眠そうだな。ベッドいく? 運んでやろうか?」
「ううん。イヤホン使うなら……ココがいい」
そう言って横に寝そべると、こちらの脚に頭を乗せてきた恭子。それからそばにあった御幸の手に頬を擦 り寄せて、目を伏せたままつぶやいた。
「……寝室に一人だと、さみしい」
これは──稀有な妻の“甘えるモード”だ。さっきの『あーん』といい──役得、とこっそりニヤつきながらも、夫の権利を行使する。膝枕をしたまま、妻の頬に触れている手で頭を撫 でてやった。
「いつもそれくらい甘えてくれたっていいんだぜ?」
「そんな……仕事、あるのに」
俺が野球に集中できるように、と常に気遣ってくれているのは知っている。頭が下がるほど家事はいつも完璧で、文句のつけようがない。
だからこそ、無理をしていないかときどき気にかかる。結婚したのは、『支え合っていきたい』と思ったからだ。
「恭子はいつも頑張りすぎ。いつでも寄りかかってくれよ、家族なんだから」
それに、結婚してから気付いた。自分もなかなか甘えられるのも、世話を焼くのも好きみたいだ。まあたぶん、愛する妻限定だけど。
頭を撫でていた手を伸ばし、彼女の服の上から、下腹部のあたりをさすってあたためてやる。以前妻から直接聞いたが、こうするだけでも楽になるらしい。学生の頃は、これくらいのこともできなかったのだから。これから、いくらでもする。
「…………ありがとう」
そんな想いが伝わったのか、恭子の声はか細いながらも、どこか嬉しそうだった。
「ねぇ、かずや」
「ん?」
「すきよ」
「俺も好きだよ」
寝ぼけたような調子だ。ふと妻の顔を見下ろすと、やはりすでに目を閉じていて、つい笑ってしまった。それでもこうして愛を伝えてくれるから、自分も素直に言える。自然と上半身をかがめて、彼女の額にキスを落とすと、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえてきた。
「おやすみ」
イヤホンを装着し、片手でタブレットを操作して、試合の映像を観る。もう片方の手では、妻の手を握り、親指で優しくさすってやる。それだけで心地よく、十分に心身が癒される。
仕事の都合で無理なときもあるが、彼女が辛いときにそばにいてやれる。彼女が素直に甘えてくれる存在でいられる。愛する人が肩の力を抜いて、自分に身を預けてくれる──結婚してよかった。そう思う瞬間でもある。
(いつも夫のために動く妻が、唯一甘えられるのもまた、愛する夫なのです。)
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『ごめん、今日体調悪いからごはん何か買って食べて』
練習を終え、スマホの画面を
「どうした?」
「あ──ああ、すみません、独り言です」
隣のロッカールームを使っていた先輩に声をかけられ、慌てて空いた手を振ってなんでもないと伝えた。
とはいえ、
駐車場にたどり着き、自家用車へ乗り込んだあと、助手席のシートに荷物を置いてから電話をかけた。しばらく鳴らしてから、寝ているかもと気付いたが、そのときコール音が途切れた。
「──もしもし?」彼女のその声は、いつもよりどこか疲れを含んでいる気がした。
「恭子? わるい、寝てた?」
「ううん、起きてたよ」
「ライン見たぜ、大丈夫か?」
「うん……ごめん、忙しいのに」
「俺のことはいいって。もう練習終わったし」
やっぱり声が暗い。スマホ片手にブレーキを踏みながらエンジンをかけ、腕時計を確認する。帰宅ラッシュは避けられるか。何時までに帰れっかな。
「生理か?」
「うん……二日目でしんどい」
「なんか買って帰るモンある?」
「大丈夫。ありがとう」
「俺のことは気にしなくていいから。辛かったら寝とけ?」
「うん」
そうして言葉少なに電話は切れた。よっぽど辛いのだろうか、心配になった御幸はシートベルトを締めて、安全運転、と胸の内で念押ししながらも家路を急いだ。
「ただいまー」
近所のスーパーに寄ってから帰宅した御幸は、エコバッグを片手に、常に綺麗に片付いている玄関で靴を脱いだ。いつもの出迎えがないので、寝ているかもしれない。
「恭子?」気付いて声量を落としながらリビングへ向かうと、電気は点いている。キッチンにいるのか、と覗き込もうとしたとき、「一也……?」視界の端に入ったリビングのソファから自分を呼ぶ声がして振り向いた。そこでは恭子がソファに腰掛けたまま、ぐったりと横になっている。全身がヒヤリとして、慌てて駆け寄った。
「おい、大丈夫かっ?」
「ああ──ゴメン、おかえり……」
彼女のそばにしゃがみ込み、荷物を下ろすと、エコバッグの中身がガサガサと音を立てた。恭子はひどく緩慢な動きで起き上がり、こちらをゆっくりと見下ろしてくる──顔色が良くない。それに、よく見るとエプロンを着けたままだ。夕飯を作ろうとして、やはり辛くて断念したということか。
「ちゃんとベッドで寝ろって。体痛めるぞ」
「一也帰ってくるから……起きて待ってただけ」
「なに可愛いこと言ってくれてんだよ」
「おバカ、そういうことじゃな、……んっ」
ちゅ、といじらしくてたまらない妻に、『ただいま』のキスをする。彼女はどこか呆れたようすで、それでもすこし照れているように見えて、ますます愛しい。「……思ったより早かったね」「心配だったから」
「薬飲んだか?」
「うん。ごめん、いつもここまでじゃないけど今日重くて……」
付き合ってから何年も経つのだ。男手一つで育てられた自分だが、さすがに毎回痛みの程度が同じでもないことくらいは学んだ。少なくとも、
「なんか食えそう?」
「んー……おなかは空いてる……はず」
「……まさかなんも食ってないのか?」
「お昼はチーズかじった」
「ネズミじゃねーんだから」
そうやって冗談を言い合っても、今日の彼女は声を出さずに笑うだけ。相当しんどいんだな、と彼女の痩せ我慢を見抜けてしまって、余計に心配になる。
「夕飯は俺が作るから。エプロンよこして」
「代打オレ」「古田さんが作ってくれるのは普通に嬉しい」捕手なりのジョークにようやく妻は笑い声を上げた。心の中でレジェンドキャッチャーに感謝しつつ、彼女が取ったエプロンを受け取り、首の紐の長さを調節しなおして自分が着用する。荷物を移動させ、まずは手を洗おうとキッチンへ向かった。
「あ……ご飯なら炊いてあるよ」
「ああ、ありがとう」
練習後の夕飯、我が家は白米と決めている。だが今日の妻には、
「できたぜ、食えそう?」
「え……あたしのだけ作ってくれたの?」
「先にな。俺は米があれば適当におかず作って済ますし」
静かに休んでいた恭子に声をかけ、コンロにかけていた小さな一人用の土鍋を鍋つかみで持ち、反対の手に鍋敷きとレンゲを乗せて、リビングへと運んだ。
「ココに置いていい?」「うん」いつもはダイニングテーブルで食事をするが、体調の悪い彼女に動いてもらうのも申し訳ないので、ソファの前のローテーブルに鍋敷きを置き、その上に土鍋を乗せる。ソファに腰掛けていた恭子が、おしりを滑らすようにしてソファとテーブルの間のラグにぺたんと座り込んだ。御幸はその隣で
「なあにコレ」
「あんま期待すんなよ、恭子ほど上手くねぇんだから」
パカ、と鍋つかみの手で土鍋の蓋を開けると、ほかほかと湯気が立ち
「玄米使った?」
「恭子への栄養素はこっちのがいいだろ?」
まあ、その点に関しては彼女のほうが詳しいので、説明不要かもしれない。具材は、鉄分豊富なほうれん草、体をあたためる生姜と、たんぱく質も欲しいので溶き卵に、ほぐした鶏肉も少し。
「……おいしそう」
「お粥といえば、思い出すんだよな」
「高2のとき、恭子が寮の部屋までお粥持って来てくれたこと」鍋つかみを外して、熱を冷ますように中身をレンゲで適度にかき混ぜながら言うと、恭子は苦笑いしていた。
「周りの人目盗んでまで来てくれるなんてさ、俺って愛されてるな〜って思ったね」
「調子いいこと言っちゃって。あのときあたしに怒られたばっかで傷心だったくせに」
「なんだ覚えてんのかよ」
「そりゃそうよ、あんたとまともにケンカしたの、秋大のあとが初めてだったもの」
お粥をかき混ぜているようすを、恭子はテーブルに頬杖をつきながら見つめていた。妻とは長い付き合いだが、確かにお互いが『ケンカ』と認識しているケンカは、数えるくらいしかしていない。
「いま思い返せばホント、ケガを黙ってるなんてありえないよね」
「そりゃ
「あら、言い訳?」
「“若気の至り”ってヤツ?」
「そう言えばなんでも許されると思わないでちょうだい」
「んんー反省はしてるって。ほら、『あーん』して」
逃れるように話を切ったあと、いやまだ熱いか、と──フー、と息を吹きかけ、レンゲの上の一口分を冷まして、恭子の口元へと運ぶが、彼女には苦い顔をされてしまった。「……子どもじゃないし、風邪ひいたわけでもないから自分で食べられるわよ」
なんて言われてもめげない。10代の(いま思えば)可愛いケンカを、今さら持ち出してお説教しかけた妻への仕返しである。
「あーん」ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、レンゲをさらにずいっと差し出すと、観念したのか彼女は「……あ」と口を開けた。かぷ、と歯がレンゲに当たる音がして、お粥が彼女の口の中へと入っていくのをじっと見てしまう。おそらくこんな彼女の姿、家の中でしかお目にかかれない。妻は咀嚼しながら、なんだかちょっぴり悔しそうだ。その表情も可愛らしい。
「……おいしい」
「味薄くねぇ?」
「ちょうどいい。生姜がきいてて美味しい」
「もう。自分でたべるから」恥ずかしそうにしていた恭子は、こちらの手からレンゲを奪い取ると、二口目をすくった。やれやれ、と御幸は立ち上がり、エプロンの位置を直しながらキッチンへと戻る。
お粥の残った具材で適当に炒め物でも作って、自分の夕飯のメニューとしよう。あとは炊かれた白米に、一人分なら味噌汁もインスタントでいいだろう。
まな板の上で具材を切りながら、ときどきキッチンカウンター越しに、妻のようすを眺める。彼女は鍋を抱えるようにしながら、お粥をぱくついている。さすがに『チーズをかじった』だけでは心配だったが、今は食欲があるみたいで一安心だ。
幼い頃から料理はしていた。ひたむきに仕事をする父や、自分の体づくりのために、栄養バランスを考えて作ったりもしたが、今はそれとも違う。自分よりよっぽど料理上手の妻が、嬉しそうにお粥を頬張るのを見て、思わず笑みが漏れる。
愛する人が喜んでくれることを考えて料理をするというのも、悪くない。
片付けまで終えて、料理である。二人が食べ終えた食器を食洗機にかけ、かけられないものを一通り洗ってから御幸は一息ついた。風呂に入るか、しかし練習後にシャワーは浴びたから、先に以前の試合でも見返しておこうか、とツールを用意する。
ソファでは、すこし顔色の良くなった妻が、空腹が満たされたからか眠そうにしていた。おなかいっぱいで眠い、なんて、子どもみたいで笑ってしまう。言ったらちょっと怒られそうだけど。
「痛みは?」
「まだちょっとだるいけど大丈夫……お粥ごちそうさま。すごく美味しかった」
「そりゃよかった」
恭子の隣に座ると、彼女は御幸がタブレットとイヤホンを持っているのに気が付いて、「あ」とテレビのほうを向いてから再びこちらを見た。
「テレビ使う? 試合観たいでしょ」
「いいよ、音うるさいだろ」
「そう……」
「眠そうだな。ベッドいく? 運んでやろうか?」
「ううん。イヤホン使うなら……ココがいい」
そう言って横に寝そべると、こちらの脚に頭を乗せてきた恭子。それからそばにあった御幸の手に頬を
「……寝室に一人だと、さみしい」
これは──稀有な妻の“甘えるモード”だ。さっきの『あーん』といい──役得、とこっそりニヤつきながらも、夫の権利を行使する。膝枕をしたまま、妻の頬に触れている手で頭を
「いつもそれくらい甘えてくれたっていいんだぜ?」
「そんな……仕事、あるのに」
俺が野球に集中できるように、と常に気遣ってくれているのは知っている。頭が下がるほど家事はいつも完璧で、文句のつけようがない。
だからこそ、無理をしていないかときどき気にかかる。結婚したのは、『支え合っていきたい』と思ったからだ。
「恭子はいつも頑張りすぎ。いつでも寄りかかってくれよ、家族なんだから」
それに、結婚してから気付いた。自分もなかなか甘えられるのも、世話を焼くのも好きみたいだ。まあたぶん、愛する妻限定だけど。
頭を撫でていた手を伸ばし、彼女の服の上から、下腹部のあたりをさすってあたためてやる。以前妻から直接聞いたが、こうするだけでも楽になるらしい。学生の頃は、これくらいのこともできなかったのだから。これから、いくらでもする。
「…………ありがとう」
そんな想いが伝わったのか、恭子の声はか細いながらも、どこか嬉しそうだった。
「ねぇ、かずや」
「ん?」
「すきよ」
「俺も好きだよ」
寝ぼけたような調子だ。ふと妻の顔を見下ろすと、やはりすでに目を閉じていて、つい笑ってしまった。それでもこうして愛を伝えてくれるから、自分も素直に言える。自然と上半身をかがめて、彼女の額にキスを落とすと、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえてきた。
「おやすみ」
イヤホンを装着し、片手でタブレットを操作して、試合の映像を観る。もう片方の手では、妻の手を握り、親指で優しくさすってやる。それだけで心地よく、十分に心身が癒される。
仕事の都合で無理なときもあるが、彼女が辛いときにそばにいてやれる。彼女が素直に甘えてくれる存在でいられる。愛する人が肩の力を抜いて、自分に身を預けてくれる──結婚してよかった。そう思う瞬間でもある。
(いつも夫のために動く妻が、唯一甘えられるのもまた、愛する夫なのです。)
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