夕飯前
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「かずや〜」
恭子は作業の手を休めることなく、キッチンのカウンター越しにリビングへちらりと目線をやりながら、夫に呼びかけた。
「一也、晩ごはんもうできるよ」
「んー」
彼のその声が生返事なのも当然で、御幸はリビングのソファに腰掛けながら、昨日の試合の映像を、テレビ画面で没頭して観ている。
結婚してもその姿勢は、部活の頃と変わらない──当時のチームメイトたちが知ったら皆、今の自分と同じように苦笑いするだろう。ああ、やっぱりアイツ、“本物”だったか、と。
こうなったら切り上げるのは、せめてこの回が終わってからかな、と察した恭子は、調理の手を一度止め、エプロンを付けたままリビングへと歩み寄り、御幸の座るL字型ソファのサイド側に、脚を組んで腰掛けた。
テレビを観ると、いま御幸のチームは守備──画面には手前に投手、奥に打者と審判と、いま目の前にいる夫が、キャッチャーマスクを付けてミットを構えている。パカン、と木製バットが硬球を捕らえた音、続いて実況の声が響いた。
『打ち上げましたー変化球……ここはレフトが落ち着いて、捕っ、て、ツーアウト。走者 は二塁のままです』
そこで恭子が目線を移せば、テレビの正面で脚を開いてそこに両肘を乗せ、前屈みのままリモコンを片手に、真剣な表情の御幸の横顔がある。頭の中では、昨日のリードの反省でもしているんだろう。
セルフレームの眼鏡のテンプルで、その長いまつ毛を携えた彼の大きな瞳が少し隠れてしまっているのが、ちょっぴりもったいない。恭子は脚の上で頬杖を突いて、ついその綺麗な横顔を覗き込むようにした。
──仕事は“野球”、特技は“野球”、趣味も“野球”
そんな、野球に対してとことん真摯な彼を、近くで見ているのが、昔から好きだった。うーんコレは惚れた弱みかな、と恭子は小さく肩をすくめる。けれどすぐに、“妻の特権”なんて言葉が思い付いて、ふふ、とニヤけながらも優越感に浸ってしまった。
ふと、テレビのスピーカーから聞こえてくる歓声がワッ、と一際大きくなる。
『さて、二死 ・走者 二塁、ここからクリーンナップ。チャンスに打席に入るのは、三番・小林です』
『昨シーズンの打率もリーグ上位でしたからねー、二割九分五厘ですかあ、スバラシイ』
『スタンドからは黄色い歓声。さあ、ファンの期待に応えられるか、注目の初球』
実況・解説の紹介に合わせて映しだされる、バッターボックスに立った相手チームのユニフォーム姿──近頃成績が良いので出番も多くなり、球界を賑わしている“イケメン”の外野手である。スタイルも良し、話したことはないが、インタビューのときの愛想も抜群にイイ印象で、笑顔も爽やかだ。
「やっぱ小林選手、カッコいいなあ……」
おまけに未 だ未婚とくれば、女性ファンは放っておかない。これはモテる──男性の俳優やアイドルにあまり興味のない恭子ですら、そんなふうに思ってしまう。
学生のときとかモテ伝説作ってそうだな……まあ、それを言うならウチの夫もある意味……と、恭子がそこまで考えて本人に目をやると、さっきまでテレビに集中していた両目がしっかりとこちらを捕らえていた。なんの気配もしなかったので、驚いて目を見開いたついでに、ビクッと肩が跳ね上がってしまう。
「びっ、くりしたー……なに?」
「お前……コバさんのファンだったの?」
「……は?」
球界の先輩にあたるその選手を、夫は『コバさん』と呼んでいるらしく、何を言っているのか一瞬ピンとこなかった恭子は固まってしまった。あたしが横に座っても見向きもしなかったくせに。なぜ、急に声をかけてきたのか。
「別にそんなんじゃ……」と口を開きながら、夫の硬い表情をしかと確認した恭子は、そこでようやく気付く。
あ、コレ、めんどくさいやつだ。
「え、なに、普段そういうの全然興味ないじゃん。そんなミーハーだったっけ?」
始まった。しまった、このパターンは初めてだ、と恭子は内心頭を抱えた。いや……何も考えず声に出したあたしも迂 闊 だった。
「別に……ただ、あれだけ活躍してて男前だったらモテるだろうなって、そういう話だよ」
逃げるようにソファから立ち上がり、夕食の準備の続きをしようと試みる。この男が、実は人並はずれて“ヤキモチ焼き”なのは、わかっていたはずなのに。
「いやいやでもさ! そういうの高校の頃から言ったことないだろ、誰がカッコいいとかモテそうとか」
「マネージャーがそんな不謹慎なこと、思ってても言うわけないでしょ」
「それはそうかもしんないけど」
先ほどから、可愛くない発言を続ける夫が、ビデオも止めずにリモコンをテーブルに置いて、慌てるようにキッチンまで近付いてきた。
──この新居を購入する際、シーズンの時期によっては家に帰ることも少ない御幸は、恭子に何不自由ない生活を送ってほしいと、何でも好きな条件を出してくれと言ってきた。ただし、いくらお金があるからといって、身に合わない贅沢は良くない。
そうは思ったのだが、彼の身体 作りのために料理を頑張ってみたかったのと、せめて家で食事するときくらいは二人の時間を大切にしたかったので、キッチンだけはお願いして、他の部屋よりかなりこだわった。
そんな、恭子お気に入りのアイランドキッチン──そのシンクの前に立って、両手を広げて台に寄りかかると、正面で御幸がカウンター越しにじっとこちらを見てくる。
「昨日だって、ずっと打率良かったコバさんを、俺らで抑えたんだぜ!?」
「知ってるよ、もう観たもんその試合。でも『コバさん』をディスるのはさすがにどうかなあ」
「いや、そんなつもりはなくて、」
ああもう、いっそハッキリ言ってってば。
「何が言いたいの?」
「俺 は !?」
そこでパァン、と硬球がミットを気持ち良く叩く音に加えて、大きな歓声と拍手がテレビから聞こえてきた。
『見逃し三振ー! アウトローいっぱーい! ここで今日イチの真っ直ぐでした!』
『ストレートに強い小林を、ストレートで制しましたかー。相変わらず強気なリードしますねー御幸は』
『結局、この回も0点に抑えています』
「夫の活躍には、何かコメントないのかよ?」
目の前の御幸は、ふてくされたように腕組みして恭子を見下ろしては、まだ納得いっていない様子だ。
それを聞いて、恭子はチラッと横目にテレビ画面を見た。スリーアウトチェンジでベンチに戻っていく、打者とバッテリーが交互に映しだされている。
マイクは拾い切れていないため音は小さいが、口の形で「最高!」と御幸が投手に声をかけているのがわかった。そりゃあ『最高』だろう。今の球は、キレイに外角低めに決まった、渾身のストレートだった。そして目が合った投手と二人、ニヤニヤしたり顔のシーンと、苦笑いでかぶりを振る相手選手がアップで映った。
『これには小林も手が出ませんでしたー……バッテリーも、この表情(笑)』
『今のは手応えあったでしょうねー(笑)』
もう一度、正面の夫に目線を戻して、画面の向こうの得意げな顔と、目の前の拗 ねた顔を見比べる──そこでキュン、と胸が高鳴るなんて、自分でもどうかしていると思う。
恭子はハァ、と小さくため息をついて、思わず御幸の形の整った鼻を、片手の指でつまんだ。
「……可愛くないのもカワイイと思ってるんだから、あたしも末期だねっ」
「わっ、なにす……ん、」
軽く鼻を引っ張ると、御幸がぎゅっと目をつむったことで、彼の太くて凛々しい眉が寄った。その顔が、なんだかしわくちゃの犬みたいで可愛くて、吹き出してしまった。
「ほら、夕飯の支度手伝って」
「……そういうのじゃなくてさあ」
「はいはい、カッコいいカッコいい」
「雑すぎない?」
これでも高校の頃に比べれば、ずいぶんわかりやすく妬いてくれるようになった。自分も、少しは余裕が出てきたのだろうか、なんてしみじみ思ってしまった。
すると、やや赤い顔でまだ拗ねている御幸が、ずんずんと早足でカウンターを回り込んでキッチンに侵入してきた。
「調子乗りやがって、このっ」
「やあだ、やめてよ! 鍋の中身こぼれる!」
「うるせー!」
「余計なことしないで、もー!」
あはは、と二人で笑って、子どもみたいに戯れ合っては、ふいに幸せを感じてしまう。
先ほどの試合、このあとの夫の打席は、確かツーベースヒットだったはずだ。そのときは、一言くらい褒めてあげるのもいいかもしれない。
……さっきまでの、『ソファでの真剣な顔も、十分カッコよかったよ』なんていうのは、絶対に言ってあげないけど。
「恭子……」
ふいに、御幸に後ろから抱きしめられ、名前を呼ばれた。その声が、妙に甘い響きを持っている気がして、恭子はイヤな予感がした。「……なに」
「今日、シよ?」
「……昨日もシたんですけど」
それにあんたは休日 でも、あたしは明日仕事なんですけど。という意味を込めて、彼を横から睨 み上げる。
「俺は毎日でもシたい」
「あたしの体力が持たないわよ、おバカ」
そう言って、彼の腕から逃れるように、肘で体を押した。当たり前だが、プロ野球選手と一般成人女性を比べないでほしい。
しかし、一度恭子を腕から解放した御幸のほうを振り返れば、彼は不満そうな顔で「でも、会えない日も多いだろ」と、やはり聞き分けがない。
「1回だけにするから」
「そう言って1回で終わった試しないから」
「なあ、」と今度は正面から、その大きな体で包み込まれるように抱きしめられては、耳元で囁 いてくる。エプロンの腰紐を解 かれたのが、背中越しに感じる彼の手つきでわかった。彼のイヤらしいしぐさに、ぞわぞわと体が震えて熱くなる。ああ、ダメ──このままじゃ、結局、
「恭子」
こちらの顔に頬を擦 り寄せるようにして、夫がもう一度名前を呼んでくる。彼には、お互い長い付き合いで身についたのか、無意識なのか、こちらが『甘えられると弱い』というのをすっかり覚えられてしまっていた。
火照った頬に感じる、御幸の眼鏡の冷たい感触を、すこし疎ましく思いながら、恭子はゆっくりと口を開いた。
「……今晩のお皿洗いと、明日の一通りの家事は、一也担当ね」
「それくらい朝飯前っ」
ンーまっ、と擦り寄せていた恭子の頬にキスをして、すっかりゴキゲンになった御幸は、せっせと料理を食卓へと運び始めた。
そんな調子の良い後ろ姿に、恭子はエプロンを外しながら、意味のないツッコミを入れることくらいしかできなかった。「……今は夕飯前でしょ」
結局、負けてしまった。我ながら、同級生たちの言う“オカン気質”が災いして、甘えられてしまうととことん弱い。
ただ、彼がここまで甘えてくれるようになるまでは、相当の時間がかかったのだ。ここは、少しは素直な夫に成長させた妻の功績──と同時に弊害もあったが、そう思って甘んじて受け入れることにしよう。
……でも、ちょっとは“我慢”も覚えてもらったほうがいいかしら。
恭子は今夜ベッドで行われることを想像して、明日自分が寝不足になるのを心配しては、また小さくため息をついた。
(他人 に自分たちから言うほどじゃなくても、ラブラブなんだと思います。)
恭子は作業の手を休めることなく、キッチンのカウンター越しにリビングへちらりと目線をやりながら、夫に呼びかけた。
「一也、晩ごはんもうできるよ」
「んー」
彼のその声が生返事なのも当然で、御幸はリビングのソファに腰掛けながら、昨日の試合の映像を、テレビ画面で没頭して観ている。
結婚してもその姿勢は、部活の頃と変わらない──当時のチームメイトたちが知ったら皆、今の自分と同じように苦笑いするだろう。ああ、やっぱりアイツ、“本物”だったか、と。
こうなったら切り上げるのは、せめてこの回が終わってからかな、と察した恭子は、調理の手を一度止め、エプロンを付けたままリビングへと歩み寄り、御幸の座るL字型ソファのサイド側に、脚を組んで腰掛けた。
テレビを観ると、いま御幸のチームは守備──画面には手前に投手、奥に打者と審判と、いま目の前にいる夫が、キャッチャーマスクを付けてミットを構えている。パカン、と木製バットが硬球を捕らえた音、続いて実況の声が響いた。
『打ち上げましたー変化球……ここはレフトが落ち着いて、捕っ、て、ツーアウト。
そこで恭子が目線を移せば、テレビの正面で脚を開いてそこに両肘を乗せ、前屈みのままリモコンを片手に、真剣な表情の御幸の横顔がある。頭の中では、昨日のリードの反省でもしているんだろう。
セルフレームの眼鏡のテンプルで、その長いまつ毛を携えた彼の大きな瞳が少し隠れてしまっているのが、ちょっぴりもったいない。恭子は脚の上で頬杖を突いて、ついその綺麗な横顔を覗き込むようにした。
──仕事は“野球”、特技は“野球”、趣味も“野球”
そんな、野球に対してとことん真摯な彼を、近くで見ているのが、昔から好きだった。うーんコレは惚れた弱みかな、と恭子は小さく肩をすくめる。けれどすぐに、“妻の特権”なんて言葉が思い付いて、ふふ、とニヤけながらも優越感に浸ってしまった。
ふと、テレビのスピーカーから聞こえてくる歓声がワッ、と一際大きくなる。
『さて、
『昨シーズンの打率もリーグ上位でしたからねー、二割九分五厘ですかあ、スバラシイ』
『スタンドからは黄色い歓声。さあ、ファンの期待に応えられるか、注目の初球』
実況・解説の紹介に合わせて映しだされる、バッターボックスに立った相手チームのユニフォーム姿──近頃成績が良いので出番も多くなり、球界を賑わしている“イケメン”の外野手である。スタイルも良し、話したことはないが、インタビューのときの愛想も抜群にイイ印象で、笑顔も爽やかだ。
「やっぱ小林選手、カッコいいなあ……」
おまけに
学生のときとかモテ伝説作ってそうだな……まあ、それを言うならウチの夫もある意味……と、恭子がそこまで考えて本人に目をやると、さっきまでテレビに集中していた両目がしっかりとこちらを捕らえていた。なんの気配もしなかったので、驚いて目を見開いたついでに、ビクッと肩が跳ね上がってしまう。
「びっ、くりしたー……なに?」
「お前……コバさんのファンだったの?」
「……は?」
球界の先輩にあたるその選手を、夫は『コバさん』と呼んでいるらしく、何を言っているのか一瞬ピンとこなかった恭子は固まってしまった。あたしが横に座っても見向きもしなかったくせに。なぜ、急に声をかけてきたのか。
「別にそんなんじゃ……」と口を開きながら、夫の硬い表情をしかと確認した恭子は、そこでようやく気付く。
あ、コレ、めんどくさいやつだ。
「え、なに、普段そういうの全然興味ないじゃん。そんなミーハーだったっけ?」
始まった。しまった、このパターンは初めてだ、と恭子は内心頭を抱えた。いや……何も考えず声に出したあたしも
「別に……ただ、あれだけ活躍してて男前だったらモテるだろうなって、そういう話だよ」
逃げるようにソファから立ち上がり、夕食の準備の続きをしようと試みる。この男が、実は人並はずれて“ヤキモチ焼き”なのは、わかっていたはずなのに。
「いやいやでもさ! そういうの高校の頃から言ったことないだろ、誰がカッコいいとかモテそうとか」
「マネージャーがそんな不謹慎なこと、思ってても言うわけないでしょ」
「それはそうかもしんないけど」
先ほどから、可愛くない発言を続ける夫が、ビデオも止めずにリモコンをテーブルに置いて、慌てるようにキッチンまで近付いてきた。
──この新居を購入する際、シーズンの時期によっては家に帰ることも少ない御幸は、恭子に何不自由ない生活を送ってほしいと、何でも好きな条件を出してくれと言ってきた。ただし、いくらお金があるからといって、身に合わない贅沢は良くない。
そうは思ったのだが、彼の
そんな、恭子お気に入りのアイランドキッチン──そのシンクの前に立って、両手を広げて台に寄りかかると、正面で御幸がカウンター越しにじっとこちらを見てくる。
「昨日だって、ずっと打率良かったコバさんを、俺らで抑えたんだぜ!?」
「知ってるよ、もう観たもんその試合。でも『コバさん』をディスるのはさすがにどうかなあ」
「いや、そんなつもりはなくて、」
ああもう、いっそハッキリ言ってってば。
「何が言いたいの?」
「
そこでパァン、と硬球がミットを気持ち良く叩く音に加えて、大きな歓声と拍手がテレビから聞こえてきた。
『見逃し三振ー! アウトローいっぱーい! ここで今日イチの真っ直ぐでした!』
『ストレートに強い小林を、ストレートで制しましたかー。相変わらず強気なリードしますねー御幸は』
『結局、この回も0点に抑えています』
「夫の活躍には、何かコメントないのかよ?」
目の前の御幸は、ふてくされたように腕組みして恭子を見下ろしては、まだ納得いっていない様子だ。
それを聞いて、恭子はチラッと横目にテレビ画面を見た。スリーアウトチェンジでベンチに戻っていく、打者とバッテリーが交互に映しだされている。
マイクは拾い切れていないため音は小さいが、口の形で「最高!」と御幸が投手に声をかけているのがわかった。そりゃあ『最高』だろう。今の球は、キレイに外角低めに決まった、渾身のストレートだった。そして目が合った投手と二人、ニヤニヤしたり顔のシーンと、苦笑いでかぶりを振る相手選手がアップで映った。
『これには小林も手が出ませんでしたー……バッテリーも、この表情(笑)』
『今のは手応えあったでしょうねー(笑)』
もう一度、正面の夫に目線を戻して、画面の向こうの得意げな顔と、目の前の
恭子はハァ、と小さくため息をついて、思わず御幸の形の整った鼻を、片手の指でつまんだ。
「……可愛くないのもカワイイと思ってるんだから、あたしも末期だねっ」
「わっ、なにす……ん、」
軽く鼻を引っ張ると、御幸がぎゅっと目をつむったことで、彼の太くて凛々しい眉が寄った。その顔が、なんだかしわくちゃの犬みたいで可愛くて、吹き出してしまった。
「ほら、夕飯の支度手伝って」
「……そういうのじゃなくてさあ」
「はいはい、カッコいいカッコいい」
「雑すぎない?」
これでも高校の頃に比べれば、ずいぶんわかりやすく妬いてくれるようになった。自分も、少しは余裕が出てきたのだろうか、なんてしみじみ思ってしまった。
すると、やや赤い顔でまだ拗ねている御幸が、ずんずんと早足でカウンターを回り込んでキッチンに侵入してきた。
「調子乗りやがって、このっ」
「やあだ、やめてよ! 鍋の中身こぼれる!」
「うるせー!」
「余計なことしないで、もー!」
あはは、と二人で笑って、子どもみたいに戯れ合っては、ふいに幸せを感じてしまう。
先ほどの試合、このあとの夫の打席は、確かツーベースヒットだったはずだ。そのときは、一言くらい褒めてあげるのもいいかもしれない。
……さっきまでの、『ソファでの真剣な顔も、十分カッコよかったよ』なんていうのは、絶対に言ってあげないけど。
「恭子……」
ふいに、御幸に後ろから抱きしめられ、名前を呼ばれた。その声が、妙に甘い響きを持っている気がして、恭子はイヤな予感がした。「……なに」
「今日、シよ?」
「……昨日もシたんですけど」
それにあんたは
「俺は毎日でもシたい」
「あたしの体力が持たないわよ、おバカ」
そう言って、彼の腕から逃れるように、肘で体を押した。当たり前だが、プロ野球選手と一般成人女性を比べないでほしい。
しかし、一度恭子を腕から解放した御幸のほうを振り返れば、彼は不満そうな顔で「でも、会えない日も多いだろ」と、やはり聞き分けがない。
「1回だけにするから」
「そう言って1回で終わった試しないから」
「なあ、」と今度は正面から、その大きな体で包み込まれるように抱きしめられては、耳元で
「恭子」
こちらの顔に頬を
火照った頬に感じる、御幸の眼鏡の冷たい感触を、すこし疎ましく思いながら、恭子はゆっくりと口を開いた。
「……今晩のお皿洗いと、明日の一通りの家事は、一也担当ね」
「それくらい朝飯前っ」
ンーまっ、と擦り寄せていた恭子の頬にキスをして、すっかりゴキゲンになった御幸は、せっせと料理を食卓へと運び始めた。
そんな調子の良い後ろ姿に、恭子はエプロンを外しながら、意味のないツッコミを入れることくらいしかできなかった。「……今は夕飯前でしょ」
結局、負けてしまった。我ながら、同級生たちの言う“オカン気質”が災いして、甘えられてしまうととことん弱い。
ただ、彼がここまで甘えてくれるようになるまでは、相当の時間がかかったのだ。ここは、少しは素直な夫に成長させた妻の功績──と同時に弊害もあったが、そう思って甘んじて受け入れることにしよう。
……でも、ちょっとは“我慢”も覚えてもらったほうがいいかしら。
恭子は今夜ベッドで行われることを想像して、明日自分が寝不足になるのを心配しては、また小さくため息をついた。
(
1/1ページ