雨上がりの空は高く
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試合後の整列と挨拶を終え、女房役である乾と連れ立ってベンチへ戻ると、監督の岡本がいつものように活を入れてきた。
「太陽! 下向くんじゃねぇ、バカヤリョオ!」と叫ぶ監督の横を通り過ぎる際、キャップを持った左手のアンダーシャツの袖で口元を拭いながらも、軽く返事をした。
「……はい」
「いいかおめぇら! 落ち込んでる暇なんざあねぇぞ! オフのあいだシバきあげてりゃ夏はすぐそこだぜぃ!」
てやんでぃ!、と両手をビシッと掲げながらチームを鼓舞する監督を視界にとらえつつ、ふぅ、と息を吐いてベンチに腰掛け、キャップを置く。
やられた──青道相手に終盤の8回で、一挙に3点。
油断したつもりはなかった。それまでは完璧だったはずだ。だけど、ちくしょう。歯ぎしりした。それまでどんなに内容が良くったって、勝たなきゃ意味ねぇだろ。
「太陽っ」
シャン、と鈴を転がしたような女性の澄んだ響く声が自分の名前を呼んだかと思うと、次の瞬間、やわらかい感触と優しい重みが頭を覆うように視界を暗くした。「わっ」
「なにぼうっとしてるの、ちゃんと体拭きなさい」
「みんな! 新しいタオル出してきたから、まだの人持っていって!」マネージャーの万理花は、畳んだタオルの山を抱えながら、ベンチ裏へと入っていく選手たちに、次々とそれを渡していた。試合中ずっと降っていた大雨は、もう止 んでいた。
「乾くん、タオルある? バスもう乗れるらしいから、準備できた人から行って大丈夫」
「ああ。監督は?」
「取材あるらしいから、先に乗り込んどこう」
「そうだな。ありがとう」
彼女に向かってうなずいた主将の乾は、自身のバッグを肩に掛けながら、「荷物持った奴から球場を出るぞ!」と呼びかけた。
先ほど万理花に頭へ落とされたタオルを首へ引っかけていると、柔軟剤の甘い香りと、雨上がりの土の匂いとが混ざり合って鼻を刺激して、すこし眉をひそめた。通りすがりに乾が、こちらを見下ろす気配がした。
「太陽」
「うん」
彼の呼びかけに短くうなずくだけしておくと、乾はそれ以上何も言わずにその場を去った。わかってるよ。お互い反省はあるだろうって。
だけど、『打線で応えてやれなかった』だとか言われるのは心外だ。“エース”を安売りなんかしていない。監督は俺を信じて変えなかったのだから。応 え ら れ な か っ た のは俺のほうだ。「くそっ……」
「ちょっと太陽! 早くしなさい、体冷えちゃうでしょ」
人の減ってきたベンチで、再び先輩マネージャーの声が響いた。そばに立ったかと思うと、「ほらっ、まだ髪が濡れてる」と首にかかったタオルを取られて、無理やり頭を拭かれる。
「ちょっ……子どもじゃないんで、自分でやります」
「そんなこと言って、もうみんな出てったわよ」
頭に乗せられた手を振り払うと、ジャージ姿の万理花は目の前でしゃがんで、タオルの隙間からこちらの顔を覗き込むようした。呆れたような、困ったような彼女の視線と重なって、つい目をそらす。先輩にそのつもりはなくとも、責められているような気がした。
「なに拗 ねてるのよ」
「拗ねてなっ、……! 子ども扱いすんな!」
バッ、と勢いよく頭のタオルを左手で剥ぎ取って、思わず怒鳴りつけるようにしてしまった。ポタポタ、と髪から滴ったしずくがベンチの樹脂の表面に落ちた。
でも次の瞬間には、見開いた万理花の瞳を見て、一気に申し訳なさと後悔が襲ってきて、言葉に詰まった。
「……っ、わかってますよ。大口叩いといてこのザマか、って思ってるんでしょ」
日頃散々、人前で威勢の良いことを言ってきた。特に彼女 の前では。万理花が主将の乾と話している横で、余計なことを言った記憶もある。いつも母親か姉とでもいうような振る舞いをしてくるこの人に、認めさせたいと思った。
でも、こ う い う こ と を考える時点で子どもだってんだ。ああ、カッコわりぃ。しゃがんだままこちらを見上げてくる彼女は、やや間の抜けたようすできょとん、とした顔をしていた。
「あら、負けていじけてたわけじゃないの」
「……あんた俺のこと何歳だと思ってんのさ」
「一コしか変わんねーだろ」べ、と舌を出して文句を言うと、万理花は苦笑いした。通じてないのか、からかわれてるのか、どっちにしろ力が抜けた。
「──夏、」つぶやくと、額の上で汗と雨のしずくが一緒になって、おおきな玉に成り、つつつ、と頬を滑るのがわかった。湿度が肌を這う。
「夏は行くから。先輩の最後の甲子園。必ず」
「俺 が 連れて行く」強調するように息を吐くと、彼女はゆっくりとうなずいた。
「大丈夫。オフは監督が、死ぬほどシゴいてくれるわ」
「やめてよ、今日くらい忘れさせて」
思わず嘆息をもらして、押しのけるように先輩へ手を伸ばすと、軽く払いのけられた。戯 れ合っているみたいで、互いに笑みがこぼれた。「けど、望むところだっての」
「いい試合だった。雨の中、よく集中切らさないで頑張ってた」
なんだよ、慰めてるつもり?、という、我ながら可愛くない台詞が思いついたのに、万理花はそれを挟ませなかった。
「カッコよかったわよ」
「おつかれさま」とやわらかく微笑 まれたら、もう言い返す気にもなれなくて、んむ、と口をつぐんでまた目をそらした。頬を伝う汗がくすぐったかった。
「……センパイ、なんでそんなに俺に構うんだよ」
届いていない気がして、くやしい。ぎゅう、と左手の中のタオルを握り締めた。野球のほうが──捕手の示すとおり投げ分けるほうが、自分にとってはよっぽど容易 くて、なんだか情けない。先輩は、いつもの面倒見の良い口調で続けた。
「世話焼きな性分で、ほっとけないの。それに──」
ふいに彼女に手の中のタオルを奪われ、また頭の上に乗せられた。タオル越しに頭を撫 でてきたので、また子ども扱いして、と振り解 こうとして腕を上げると、彼女の腕に当たって、ついそのジャージの袖をつかんだ。二人の動きが止まり、目の前で揺れる布地の向こうの、優しいまなざしと触れ合った。
「帝東 の“大事なエース”に、風邪ひいてもらっちゃ困るもの」
「ち ゃ ん と 期待してるわよ」両手でタオルと一緒に頬を包むようにされて、きゅう、と息が止まりそうになる。ぽたり、と自分の前髪の先から落ちたしずくが、万理花の腕の肌の上で弾 けて、甘い香りが強くなった。
「やだ! よく見たら顔赤いじゃない、言わんこっちゃない。早くあったかくしなきゃ」
「だから……子どもじゃ、ないです」
さっきと同じように逆らったつもりが、声は力なく尻すぼみになるだけで、されるがまま拭かれていた。ちくしょう。
それ以上は彼女になにも言えなくて、速まる胸の鼓動に気付かないふりをして、それでも、握った先輩の袖を離せずにいた。
(彼には年上のおねいさんをぶつけたくなります。がんばれ青少年。)
「太陽! 下向くんじゃねぇ、バカヤリョオ!」と叫ぶ監督の横を通り過ぎる際、キャップを持った左手のアンダーシャツの袖で口元を拭いながらも、軽く返事をした。
「……はい」
「いいかおめぇら! 落ち込んでる暇なんざあねぇぞ! オフのあいだシバきあげてりゃ夏はすぐそこだぜぃ!」
てやんでぃ!、と両手をビシッと掲げながらチームを鼓舞する監督を視界にとらえつつ、ふぅ、と息を吐いてベンチに腰掛け、キャップを置く。
やられた──青道相手に終盤の8回で、一挙に3点。
油断したつもりはなかった。それまでは完璧だったはずだ。だけど、ちくしょう。歯ぎしりした。それまでどんなに内容が良くったって、勝たなきゃ意味ねぇだろ。
「太陽っ」
シャン、と鈴を転がしたような女性の澄んだ響く声が自分の名前を呼んだかと思うと、次の瞬間、やわらかい感触と優しい重みが頭を覆うように視界を暗くした。「わっ」
「なにぼうっとしてるの、ちゃんと体拭きなさい」
「みんな! 新しいタオル出してきたから、まだの人持っていって!」マネージャーの万理花は、畳んだタオルの山を抱えながら、ベンチ裏へと入っていく選手たちに、次々とそれを渡していた。試合中ずっと降っていた大雨は、もう
「乾くん、タオルある? バスもう乗れるらしいから、準備できた人から行って大丈夫」
「ああ。監督は?」
「取材あるらしいから、先に乗り込んどこう」
「そうだな。ありがとう」
彼女に向かってうなずいた主将の乾は、自身のバッグを肩に掛けながら、「荷物持った奴から球場を出るぞ!」と呼びかけた。
先ほど万理花に頭へ落とされたタオルを首へ引っかけていると、柔軟剤の甘い香りと、雨上がりの土の匂いとが混ざり合って鼻を刺激して、すこし眉をひそめた。通りすがりに乾が、こちらを見下ろす気配がした。
「太陽」
「うん」
彼の呼びかけに短くうなずくだけしておくと、乾はそれ以上何も言わずにその場を去った。わかってるよ。お互い反省はあるだろうって。
だけど、『打線で応えてやれなかった』だとか言われるのは心外だ。“エース”を安売りなんかしていない。監督は俺を信じて変えなかったのだから。
「ちょっと太陽! 早くしなさい、体冷えちゃうでしょ」
人の減ってきたベンチで、再び先輩マネージャーの声が響いた。そばに立ったかと思うと、「ほらっ、まだ髪が濡れてる」と首にかかったタオルを取られて、無理やり頭を拭かれる。
「ちょっ……子どもじゃないんで、自分でやります」
「そんなこと言って、もうみんな出てったわよ」
頭に乗せられた手を振り払うと、ジャージ姿の万理花は目の前でしゃがんで、タオルの隙間からこちらの顔を覗き込むようした。呆れたような、困ったような彼女の視線と重なって、つい目をそらす。先輩にそのつもりはなくとも、責められているような気がした。
「なに
「拗ねてなっ、……! 子ども扱いすんな!」
バッ、と勢いよく頭のタオルを左手で剥ぎ取って、思わず怒鳴りつけるようにしてしまった。ポタポタ、と髪から滴ったしずくがベンチの樹脂の表面に落ちた。
でも次の瞬間には、見開いた万理花の瞳を見て、一気に申し訳なさと後悔が襲ってきて、言葉に詰まった。
「……っ、わかってますよ。大口叩いといてこのザマか、って思ってるんでしょ」
日頃散々、人前で威勢の良いことを言ってきた。特に
でも、
「あら、負けていじけてたわけじゃないの」
「……あんた俺のこと何歳だと思ってんのさ」
「一コしか変わんねーだろ」べ、と舌を出して文句を言うと、万理花は苦笑いした。通じてないのか、からかわれてるのか、どっちにしろ力が抜けた。
「──夏、」つぶやくと、額の上で汗と雨のしずくが一緒になって、おおきな玉に成り、つつつ、と頬を滑るのがわかった。湿度が肌を這う。
「夏は行くから。先輩の最後の甲子園。必ず」
「
「大丈夫。オフは監督が、死ぬほどシゴいてくれるわ」
「やめてよ、今日くらい忘れさせて」
思わず嘆息をもらして、押しのけるように先輩へ手を伸ばすと、軽く払いのけられた。
「いい試合だった。雨の中、よく集中切らさないで頑張ってた」
なんだよ、慰めてるつもり?、という、我ながら可愛くない台詞が思いついたのに、万理花はそれを挟ませなかった。
「カッコよかったわよ」
「おつかれさま」とやわらかく
「……センパイ、なんでそんなに俺に構うんだよ」
届いていない気がして、くやしい。ぎゅう、と左手の中のタオルを握り締めた。野球のほうが──捕手の示すとおり投げ分けるほうが、自分にとってはよっぽど
「世話焼きな性分で、ほっとけないの。それに──」
ふいに彼女に手の中のタオルを奪われ、また頭の上に乗せられた。タオル越しに頭を
「
「
「やだ! よく見たら顔赤いじゃない、言わんこっちゃない。早くあったかくしなきゃ」
「だから……子どもじゃ、ないです」
さっきと同じように逆らったつもりが、声は力なく尻すぼみになるだけで、されるがまま拭かれていた。ちくしょう。
それ以上は彼女になにも言えなくて、速まる胸の鼓動に気付かないふりをして、それでも、握った先輩の袖を離せずにいた。
(彼には年上のおねいさんをぶつけたくなります。がんばれ青少年。)
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