ビデンス


 風が冷たい。

 山奥にある稲実グラウンドに、冬の夜の空っ風をさえぎる物はなくて、ダウンコートのポケットに手を入れたまま、小さく身震いした。
 あたしたちはグラウンドの端を歩きながら、無意識に暗がりのマウンドを眺めた。なんとなく、互いに同じようなことを考えている気がした。

「こんな時間なのに、親許してくれたの?」

 そっちが呼び出したくせに、ずいぶんな物言いだけれど、まあ、彼は元来こういう人だしなあ、と内心苦笑いしては言い返す。こんなこと言いつつ、どうせ帰りは駅まで送ってくれるんだろうし。

「……鳴こそ、まだ寮で送別会やってたんじゃない?」

 去年は原田先輩、そして今年は彼が、皆に見送られることになった。あと数日して年が明ければ、無事先日ドラフトで指名された彼は、卒業より一足早くここを出て、プロの世界への一歩を踏み出す。

「主役がいなかったらダメでしょう」
「いいんだよ、あいつらは。毎日イヤんなるくらい顔合わせてきたんだし」

「野球やってりゃいつでも会えるって」ああ、原田先輩が卒業したときも、そんなこと言ってたな──比べるものではないとわかっていても、やっぱりちょっと羨ましい。同じ部活の仲間だという自負はあっても、マネージャーと選手──もっと言うと、女子と男子とでは、そもそもの土俵が違う。今さら嘆くこともないけれど。
 二人して自然と足はベンチの方に向いて、そこへ並んで腰掛けた。おしり冷たっ。彼もそのはずだけれど、口にすることはない。きっとお互いに、伝えるべき言葉を、ずっと探していたから。


「忘れ物とかしないようにね」
「小学生かよ」

 小学生みたいなものでしょう、あなたは。正直、出逢ったときから変わらないです──じゃないなあ、なんて、ふと冷静になってしまう自分がいる。

「忘れ物っつーか、」彼も今夜は、いつもの幼い振る舞いからは想像できない、どこか硬い表情で、それは、寒さで強張っているせいだけではないなと思った。

「持って行きたくてもダメなものとかあんじゃん?」
「ゲームとか?」
「だから小学生かよって」

 ほう、と呆れを含んだ息が、彼の口から白く立ちのぼった。なんで鳴さんにため息つかれなきゃなんないの、という言葉は、とうとう口から出なかった。寒さで唇が震えた。


「…………さすがの俺も、今すぐ一緒に暮らすとか、無責任なこと言えないからさ」

 ──その言葉に、息を飲んだ。冷たい空気が、肺の中を刺激した。覚悟してきたつもりだけれど、いざとなると何も言えないものだった。
 傷付きたくなくて、だけどそれ以上に、野球と生きることを決めた彼を止める権利などなくて、結局彼の言葉を待つことしかできないから。あたしにとっても、想像しておいた。やっぱり傷付くのが怖いし、ショックに備えておきたかった。

 数刻前に呼び出されてからここまでの道中、そんなことをぐるぐると考えていたあたしの胸の内は知ってか知らずか、隣の彼はこちらを見つめて言った。「それでも俺が諦め悪いの、よく知ってんだろ」

 顔を上げると、目が合った。ふいに、彼に近いほうの手を握られた。あたたかい。

「手放すつもり、ないから」

 わかっていた。彼はそう言ってくれると信じていた。でも、将来のことなんて、誰にもわからないじゃないか。あたしたちはまだ、子どもなんだから。たとえをされても、受け入れるしかあたしに選択肢などない。
 そんなこちらの不安もよそに、彼はどこまでも真っ直ぐにあたしを見つめ続けた。ベンチから何度も見た、マウンドでの彼の目つきに似ていた。好きな表情カオだった。

「……っ、うん」
「ちゃんとお前んとこ、戻って来るから」
「うん」
「泣いてんの?」
「泣いてない」
「……夏終わってから、すっかり涙腺緩くなったよな」

「調子狂う」めずらしく困ったような顔で、彼は頭をガシガシいた。球児にしては肌が白いからか、暗がりの中でも鼻の頭が赤くなっているのが一目でわかって、ちょっぴり可愛かった。

「泣いてないってば」
「あんまそうやって、他の男に隙見せるなよ?」

 彼のその言葉は、彼が卒業した後のことを指しているのだろうか。根拠なんてないのはお互い様だけれど、私も手を握り返して言った。本当に温かい。相変わらず子ども体温だ。「大丈夫です」

「鳴さんみたいな物好き、この世に二人もいませんよ」
「俺のことそんなふうに言うのも、お前だけだな」

 赤い鼻で笑われる。鼻をすすると、喉の奥まで冷えて凍りそうだった。冬のグラウンドの匂いは、土と草よりも石灰を感じるのだと、去年初めて知った。
 あたしはもう少し、彼の言葉を噛み締めていたい。夢見がちだと後ろ指を指されたっていい。彼のためなら、馬鹿にもなれる。

「うーわ、降ってきた。どうりで寒いんじゃんね」

 ──ほら、計ったように雪が降り始めるのも、きっと出来すぎだ。出来すぎたシーンなのだから、今夜くらい、柄にもなくロマンスに浸って、世間知らずの子どもでいさせてほしい。

「もっとこっち来いよ」
「みんなに見つかったらなんて言うんです」
「はっ、見せつけてやるもんね」
「鳴さんはいいよ、もうすぐ出ていくんだから。あたしはあと半年はいるんですから勘弁してください」
「お互い様だろ、俺のいない間になにも知らない後輩たちが寄ってきたりとか、想像しただけでむかつく」
「大人げないなあ」
「子どもでいーよ」

 大丈夫、その言葉だけで嬉しかったりするものだから。

「信じろよ。俺が好きになったお前だろ」

 なにそれ、と吹き出すと、彼も肩を揺らした。いつもそう。その自信はどこからくるのか、それでもあたしは、彼を信じた。彼のこういうところに、何度助けられただろう。そして、きっとこれからも。
 だから、「待ってるよ」そう言うと、彼も大きくうなずいた。

「ぜったい迎えに行くから。それまで待ってて」








【ビデンス(ウィンターコスモス)】
 ……花言葉『もう一度愛します』



(それは、いつか来るプロポーズなんかより、ずっと情熱的な告白。)
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