春の訪れは雷の如く
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「しゃらくせぇやい! おい太陽!! もっと腰落とさんかい! 腰をォ!」
キッツ……!!
監督に発破をかけられながら、両手を頭の後ろにやったまま歯を食いしばる。今日は下半身のメニューが多いとはいえ、もう何度スクワットをしたかわからない。片脚で行うブルガリアンスクワット・前後に開脚して行うスプリットスクワット・からのランジ。太ももと尻の筋肉が乳酸で爆発しそうだ。
ようやく部活が終わり、筋トレから解放された頃には、部員そろって次々ぐったりとその場に座り込んだ。自分も土のグラウンドなのも気にせずに、仰向けに倒れ込んでしまった。
「太陽~、砂まみれになるわよ、早く起きなさい」
「……今の地獄見て、よくそんな鬼畜なこと言えますね」
この先輩マネージャー、見かけによらす容赦がない。バインダーと数取器を片手に持った万理花が見下ろしてくると、彼女の顔がこちらに陰をつくった。「おつかれさま」とほほ笑む先輩の顔を憎たらしい気持ちで睨 む。
「太陽! なに寝てんだ、シャキッとしろぃ!!」
「へーい……」
監督の大声が飛んできたところで、「ほら、立って」と万理花が空いた手を伸ばしてきたので、その手を取って立ち上がる。今度はそのマネージャーに向かって、監督が苦言を呈した。
「おめぇさんも甘やかすんじゃねぇやい!」
「監督、エースが可愛いのはわかりますけど、贔屓 もほどほどにしてくださいね」
「どこが贔屓だよ……秋大終わってから部員の誰より人一倍シゴいてくれてるし」
「それだけ期待も大きいってことよ。ですよね、監督?」
「フンッ。春の都大会も近 ぇ。帝東 のエース張んなら今の時期これくらいできて当たりめぇよ」
腕組みして鼻を鳴らす監督がニヤリと笑う。相変わらずすげぇ……ウチのクセつよ監督に言い返せる女子なんて万理花先輩くらいだろ。
「大丈夫か、太陽」
「乾さんも言ってよ! 監督俺にだけ手厳しすぎんの!」
「またあなたはそうやってキャプテンに甘えて」
「気にするな。去年このトレーニングを初めて受けたとき俺は、それこそ雷に打たれたような衝撃で──」
「……ツッコみませんよ俺は」
こっちはただでさえ限界まで体力削られてんだよこの野郎。
いちいちツッコむ余裕もなく、膝に両手をついて項垂 れていると、視界の端で彼女が帰り支度を始めたのが見えて、思わず声をかける。「あ、先輩」
「終わったら中庭で待っててよ。俺が駅まで送ってくから」
「昨日も太陽だったじゃない。いいわよ今日は。疲れてるでしょう?」
「は? これくらいどうってことねーし」
口とは真逆に、疲労困憊の体に鞭を打つ。『マネージャーを送る担当』は部員の誰でもいいというなら、先輩らに先を越されるのは癪 だ。
「さっきまで倒れ込んでたくせに」
「いいから早く」
「はいはい」と、肩をすくめて笑いながら去っていく万理花の背中を見送る。明日は確実に筋肉痛だな、とため息を吐いて一度屈伸をしてから、後片付けを急いだ。
「寝てるし……」
帝東野球部のジャージに着替えてから、校舎の狭間のひっそりとした中庭に訪れると、ベンチに腰掛けた制服姿の万理花がうたた寝をしていた。そんなに待たせたつもりはないが、春先の暖かさがそうさせたのだろうか。中庭の一本だけ植えられた桜の木も、満開が近い。
日も長くなってきた。西日のひだまりの中で、桜の木の枝と、彼女の黒髪が、たおやかに揺れている。
部員と同じように外で活動しているはずなのに、先輩の肌は嘘みたいに日焼けしていない──すっと透き通った真っ白な肌と、揺れる髪のコントラストに、目を奪われた。
中庭に広がる名も知らない草花は、生徒たちに踏みしめられて、そこだけ剥き出しになった土がベンチまでの道になっている。その細道を辿 って、彼女のそばで立ち止まり、静かに見下ろした。先日のクラスメイトとのやりとりを思い出した。
『こないだ告白してきたっていうコはどうなったんだよ、太陽』
昼休みの教室、男子たちでたむろしていると、その中の一人がニヤニヤした顔で聞いてきたので、呆れて返してやった。
『そんなのとっくに断ったし』
『えぇっ!? マジ!? もったいねぇ!』
『だいたい、野球部 にそんなヒマないから。わかってて告ってくるとか、自分 のことしか考えてないじゃん』
『うわ、きびいな〜』
やれやれ、とため息混じりに窓際の席で頬杖をつく。すると、前の席に座っていた同じクラスのチームメイトが声を上げた。
『おまえ、もしかしてま だ 諦めてねーの?』
『えっ、太陽って好きなコいたんだ?』
『はあ? なんだよそれ。勝手なこと言いやがって』
そう言って野球部の彼を睨んだが、知っていたのか隣に立つクラスメイトがこちらを遮るように続けた。
『アレだろ、太陽の“憧れの先輩”だろ』
『ああ、あの一コ上のマネのひと?』
『“先輩”ってだいぶ望み薄だよな〜話すタイミングないし』
『その先輩、カレシいんの?』
『知らねーけど、こないだサッカー部のキャプテンとウワサになってた。付き合ってるんじゃないかって』
『マジか〜ドンマイ太陽』
目の前でそんな会話を、勝手に繰り広げられ、勝手に励まされた。
『別に──そんなんじゃねーし』この返 し は、ごまかしているようにしか聞こえないだろうな──と、諦めてそれ以上はなにも言わずに、窓の外へ目をそらした。中庭の桜の木が、木漏れ日の影を生んで、ゆらゆらと揺れていた。
「先輩、風邪ひきますよ」
彼女の寝顔を見下ろしたまま、そっと声をかけた。木漏れ日の影は、その寝顔にまだら模様を浮かべて、揺れている。ゆらゆら吹かれて、花びらが舞っている。その顔はひどく穏やかで、どんな夢を見ているのだろう、不思議とそそられた。
「万理花先輩」
──起きないほうが悪い。
覆いかぶさるように前屈みになって、手を伸ばした。指先が頬の肉に触 れるか触 れないか──顔を近づけて、思わずため息を吐くと、彼女の前髪がふわりと浮いた。ほんの一息で飛んでいってしまいそうなほどに、繊細で壊れそうで、こわいと思った。
細いまつ毛が揺れた瞬間──じんわりとまぶたが隙間をつくり、彼女の黒い瞳が覗いた刹那──“何か”が体を走った。
なんだこの、電流のような、痺れて動けない、金縛りにあったみたいだ。目の前でチカチカと、星が飛んで輝いていて、鼓動が速くなると息苦しくて、なんだかめまいがした。隙間の黒い瞳がこちらをゆっくりととらえた。
「──太──陽──?」
その声が俺の名前を紡いだとき、ふわりと甘い香りが辺りを漂い──ああ、そうか。そうだよな。知ってた。何を今さら気付かされてんだ。認めたくなかっただけのくせに。
「……先輩、寝てないで」何事もなかったかのように、しれっと体勢を元に戻し、その場にすっくと立った。
「帰ろ。遅くなる」
「ああ、ほんと──今日、あったかいね」
万理花はまだすこし寝惚けたようすで、目頭を指先でこするようにしてから立ち上がった。いくら先輩だからって、男女の身長差はある。彼女の頭の先は、自分の目線の高さにあった。
ふいに、見上げた彼女が、先ほどの自分とは逆に、こちらに手を伸ばしてきた。「な、に」万理花のその白くやさしい手が頬を掠 めると、またびりびりと痺れるような感覚がして、心臓が跳ねた。
「か わ い い の ついてた」
万理花が伸ばした手を互いの目の前に持ってくると、その細い指先に一枚の淡いピンク色の花びらが摘まれていた。
「太陽、髪さらさらよね」
「ちょっとうらやましい」と、やわらかく微笑 まれると、やっぱりそれ以上なにも言えない。ほしいのは、そんな言葉じゃない。
「いこっか」
ベンチに置いていた鞄を肩にかけ、万理花が踏みしめられた道を歩きだす。その後ろ姿をしばらく眺めてしまう。
ふらふら、ふらりと、花曇りの中の幻みたいにも見えて、消えていきそうな彼女のほうへ、ついまた手を伸ばした。
一歩、二歩──近付いて、届いたその華奢な肩の感触を頼りに、彼女の腕をぐい、と引っ張った。振り返った万理花は驚くこともなく、小首をかしげただけだった。
「どうしたの?」
なかなか続く言葉が見つからない。伝えたいことは、いつも山ほど頭の引き出しに詰まっているし、言ってやりたいこともあるはずなのに、こうして二人きりになると、どれから取り出していいやら、何 にも出てこない。さっき痺れた気のする箇所が、痛い。
ほかになにもできなくて、ただ、じっと彼女の目を見つめた。「先輩──」取り出す動作も覚束ないで、出せた言葉は、一つだけだった。
「卒業、すんなよ」
なんで、俺は、あと一年早く生まれてこなかったんだ。
あと一年早く生まれていれば、先輩と一緒に卒業できた。あと一年早く生まれていれば、同じクラスにだってなれたかもしれない。あと一年早く生まれていれば──後輩としてじゃなく、一人の男として、見てくれた?──訊 いても無駄なことが、引き出しからあふれて、頭を支配する。
「ヘンなこと言うのね」万理花は眉をハの字にして、ふっ、と優しく笑った。
「まだ一年あるでしょう? もうさみしくなっちゃった?」
「たまには可愛げのあること言うじゃない」なんて言うから、つい黙って彼女を見つめると、睨んでいると思われたのか、「冗談よ」と肩をすくめていた。
「でも、そうね──」こちらが手を離すと、万理花はすこし考えるようなしぐさで伏し目になってつぶやいた。
「想像したら、ちょっとさみしいかもね」
それは、俺 と 同 じ ってことだろうか。「さみしいっていうか、心配?」なんて、また子ども扱いしてくる。だから、知らないふ り をしていようと決めた。
「なんだか感傷的になっちゃった。桜のせいかな」
あんたが気 付 く ことがあるかはわかんないけど、それまでは素知らぬふうでいるつもり、だから、両手をポケットに突っ込んで、鼻で笑ってやった。
「らしくないっスよ」
「もうっ」
肩を落とした万理花は、でもすぐに「やっぱり可愛くないわね」と、それでも笑った。心地よい風が、ふわりと吹いていた。
「でも、太陽がいてくれるから、卒業しても学校に来る理由ができるね」
その言葉に息をのんで、風を吸い込むと、肺と心臓まで流れてきた。見透かされてるのか、まさかな。先輩は素で言ってるんだろう。
後輩でよかったと思えるのには、まだかかりそうだ。それでも、風に舞う花びらのように、ちょっとは心が軽くなった気がして、もう一度風を吸い込んだ。
「ほら、いきますよ、センパイ」
万理花を追い越すようにして、通りすがりに彼女の手を握り、引き寄せて走りだす。「えっ? きゃっ!」
「ちょっと! 走らなくてもいいでしょっ?」
「先輩がチンタラしてるのがわりぃんだろっ」
校舎の渡り廊下をくぐって校門まで来れば、下校中の生徒がちらほら見えてきた。
「待ちなさいってば、太陽!」
追い抜いて背後に流れていく生徒たちが、こちらを向いているのがわかる。明日にはウ ワ サ になればいい。あのサッカー部の男とのことなんて掻き消されるくらい、学校で話題になってしまえばいい。
「太陽!」
そうやって何度も俺の名前を呼んでは諭そうとする。それでも手を振り解 こうとしないのが、あんたの甘さで、俺が諦められない理由なんだって、いい加減気付けよ、ばか。
想いは言わないでいたい。
だから貴女もそのままでいてほしい。
穏やかなひだまりの中、
突然訪れた春の嵐のように──
恋を、しました。
《花びらが散れば あなたとおさらば》『春/雷』米/津玄/師
キッツ……!!
監督に発破をかけられながら、両手を頭の後ろにやったまま歯を食いしばる。今日は下半身のメニューが多いとはいえ、もう何度スクワットをしたかわからない。片脚で行うブルガリアンスクワット・前後に開脚して行うスプリットスクワット・からのランジ。太ももと尻の筋肉が乳酸で爆発しそうだ。
ようやく部活が終わり、筋トレから解放された頃には、部員そろって次々ぐったりとその場に座り込んだ。自分も土のグラウンドなのも気にせずに、仰向けに倒れ込んでしまった。
「太陽~、砂まみれになるわよ、早く起きなさい」
「……今の地獄見て、よくそんな鬼畜なこと言えますね」
この先輩マネージャー、見かけによらす容赦がない。バインダーと数取器を片手に持った万理花が見下ろしてくると、彼女の顔がこちらに陰をつくった。「おつかれさま」とほほ笑む先輩の顔を憎たらしい気持ちで
「太陽! なに寝てんだ、シャキッとしろぃ!!」
「へーい……」
監督の大声が飛んできたところで、「ほら、立って」と万理花が空いた手を伸ばしてきたので、その手を取って立ち上がる。今度はそのマネージャーに向かって、監督が苦言を呈した。
「おめぇさんも甘やかすんじゃねぇやい!」
「監督、エースが可愛いのはわかりますけど、
「どこが贔屓だよ……秋大終わってから部員の誰より人一倍シゴいてくれてるし」
「それだけ期待も大きいってことよ。ですよね、監督?」
「フンッ。春の都大会も
腕組みして鼻を鳴らす監督がニヤリと笑う。相変わらずすげぇ……ウチのクセつよ監督に言い返せる女子なんて万理花先輩くらいだろ。
「大丈夫か、太陽」
「乾さんも言ってよ! 監督俺にだけ手厳しすぎんの!」
「またあなたはそうやってキャプテンに甘えて」
「気にするな。去年このトレーニングを初めて受けたとき俺は、それこそ雷に打たれたような衝撃で──」
「……ツッコみませんよ俺は」
こっちはただでさえ限界まで体力削られてんだよこの野郎。
いちいちツッコむ余裕もなく、膝に両手をついて
「終わったら中庭で待っててよ。俺が駅まで送ってくから」
「昨日も太陽だったじゃない。いいわよ今日は。疲れてるでしょう?」
「は? これくらいどうってことねーし」
口とは真逆に、疲労困憊の体に鞭を打つ。『マネージャーを送る担当』は部員の誰でもいいというなら、先輩らに先を越されるのは
「さっきまで倒れ込んでたくせに」
「いいから早く」
「はいはい」と、肩をすくめて笑いながら去っていく万理花の背中を見送る。明日は確実に筋肉痛だな、とため息を吐いて一度屈伸をしてから、後片付けを急いだ。
「寝てるし……」
帝東野球部のジャージに着替えてから、校舎の狭間のひっそりとした中庭に訪れると、ベンチに腰掛けた制服姿の万理花がうたた寝をしていた。そんなに待たせたつもりはないが、春先の暖かさがそうさせたのだろうか。中庭の一本だけ植えられた桜の木も、満開が近い。
日も長くなってきた。西日のひだまりの中で、桜の木の枝と、彼女の黒髪が、たおやかに揺れている。
部員と同じように外で活動しているはずなのに、先輩の肌は嘘みたいに日焼けしていない──すっと透き通った真っ白な肌と、揺れる髪のコントラストに、目を奪われた。
中庭に広がる名も知らない草花は、生徒たちに踏みしめられて、そこだけ剥き出しになった土がベンチまでの道になっている。その細道を
『こないだ告白してきたっていうコはどうなったんだよ、太陽』
昼休みの教室、男子たちでたむろしていると、その中の一人がニヤニヤした顔で聞いてきたので、呆れて返してやった。
『そんなのとっくに断ったし』
『えぇっ!? マジ!? もったいねぇ!』
『だいたい、
『うわ、きびいな〜』
やれやれ、とため息混じりに窓際の席で頬杖をつく。すると、前の席に座っていた同じクラスのチームメイトが声を上げた。
『おまえ、もしかして
『えっ、太陽って好きなコいたんだ?』
『はあ? なんだよそれ。勝手なこと言いやがって』
そう言って野球部の彼を睨んだが、知っていたのか隣に立つクラスメイトがこちらを遮るように続けた。
『アレだろ、太陽の“憧れの先輩”だろ』
『ああ、あの一コ上のマネのひと?』
『“先輩”ってだいぶ望み薄だよな〜話すタイミングないし』
『その先輩、カレシいんの?』
『知らねーけど、こないだサッカー部のキャプテンとウワサになってた。付き合ってるんじゃないかって』
『マジか〜ドンマイ太陽』
目の前でそんな会話を、勝手に繰り広げられ、勝手に励まされた。
『別に──そんなんじゃねーし』この
「先輩、風邪ひきますよ」
彼女の寝顔を見下ろしたまま、そっと声をかけた。木漏れ日の影は、その寝顔にまだら模様を浮かべて、揺れている。ゆらゆら吹かれて、花びらが舞っている。その顔はひどく穏やかで、どんな夢を見ているのだろう、不思議とそそられた。
「万理花先輩」
──起きないほうが悪い。
覆いかぶさるように前屈みになって、手を伸ばした。指先が頬の肉に
細いまつ毛が揺れた瞬間──じんわりとまぶたが隙間をつくり、彼女の黒い瞳が覗いた刹那──“何か”が体を走った。
なんだこの、電流のような、痺れて動けない、金縛りにあったみたいだ。目の前でチカチカと、星が飛んで輝いていて、鼓動が速くなると息苦しくて、なんだかめまいがした。隙間の黒い瞳がこちらをゆっくりととらえた。
「──太──陽──?」
その声が俺の名前を紡いだとき、ふわりと甘い香りが辺りを漂い──ああ、そうか。そうだよな。知ってた。何を今さら気付かされてんだ。認めたくなかっただけのくせに。
「……先輩、寝てないで」何事もなかったかのように、しれっと体勢を元に戻し、その場にすっくと立った。
「帰ろ。遅くなる」
「ああ、ほんと──今日、あったかいね」
万理花はまだすこし寝惚けたようすで、目頭を指先でこするようにしてから立ち上がった。いくら先輩だからって、男女の身長差はある。彼女の頭の先は、自分の目線の高さにあった。
ふいに、見上げた彼女が、先ほどの自分とは逆に、こちらに手を伸ばしてきた。「な、に」万理花のその白くやさしい手が頬を
「
万理花が伸ばした手を互いの目の前に持ってくると、その細い指先に一枚の淡いピンク色の花びらが摘まれていた。
「太陽、髪さらさらよね」
「ちょっとうらやましい」と、やわらかく
「いこっか」
ベンチに置いていた鞄を肩にかけ、万理花が踏みしめられた道を歩きだす。その後ろ姿をしばらく眺めてしまう。
ふらふら、ふらりと、花曇りの中の幻みたいにも見えて、消えていきそうな彼女のほうへ、ついまた手を伸ばした。
一歩、二歩──近付いて、届いたその華奢な肩の感触を頼りに、彼女の腕をぐい、と引っ張った。振り返った万理花は驚くこともなく、小首をかしげただけだった。
「どうしたの?」
なかなか続く言葉が見つからない。伝えたいことは、いつも山ほど頭の引き出しに詰まっているし、言ってやりたいこともあるはずなのに、こうして二人きりになると、どれから取り出していいやら、
ほかになにもできなくて、ただ、じっと彼女の目を見つめた。「先輩──」取り出す動作も覚束ないで、出せた言葉は、一つだけだった。
「卒業、すんなよ」
なんで、俺は、あと一年早く生まれてこなかったんだ。
あと一年早く生まれていれば、先輩と一緒に卒業できた。あと一年早く生まれていれば、同じクラスにだってなれたかもしれない。あと一年早く生まれていれば──後輩としてじゃなく、一人の男として、見てくれた?──
「ヘンなこと言うのね」万理花は眉をハの字にして、ふっ、と優しく笑った。
「まだ一年あるでしょう? もうさみしくなっちゃった?」
「たまには可愛げのあること言うじゃない」なんて言うから、つい黙って彼女を見つめると、睨んでいると思われたのか、「冗談よ」と肩をすくめていた。
「でも、そうね──」こちらが手を離すと、万理花はすこし考えるようなしぐさで伏し目になってつぶやいた。
「想像したら、ちょっとさみしいかもね」
それは、
「なんだか感傷的になっちゃった。桜のせいかな」
あんたが
「らしくないっスよ」
「もうっ」
肩を落とした万理花は、でもすぐに「やっぱり可愛くないわね」と、それでも笑った。心地よい風が、ふわりと吹いていた。
「でも、太陽がいてくれるから、卒業しても学校に来る理由ができるね」
その言葉に息をのんで、風を吸い込むと、肺と心臓まで流れてきた。見透かされてるのか、まさかな。先輩は素で言ってるんだろう。
後輩でよかったと思えるのには、まだかかりそうだ。それでも、風に舞う花びらのように、ちょっとは心が軽くなった気がして、もう一度風を吸い込んだ。
「ほら、いきますよ、センパイ」
万理花を追い越すようにして、通りすがりに彼女の手を握り、引き寄せて走りだす。「えっ? きゃっ!」
「ちょっと! 走らなくてもいいでしょっ?」
「先輩がチンタラしてるのがわりぃんだろっ」
校舎の渡り廊下をくぐって校門まで来れば、下校中の生徒がちらほら見えてきた。
「待ちなさいってば、太陽!」
追い抜いて背後に流れていく生徒たちが、こちらを向いているのがわかる。明日には
「太陽!」
そうやって何度も俺の名前を呼んでは諭そうとする。それでも手を振り
想いは言わないでいたい。
だから貴女もそのままでいてほしい。
穏やかなひだまりの中、
突然訪れた春の嵐のように──
恋を、しました。
《花びらが散れば あなたとおさらば》『春/雷』米/津玄/師
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