通り雨
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『だから“告っとけ”って言ったじゃん! “アイツに本気の彼女ができたら、後悔するよ”って』
『ま、まだ本気とは限らないでしょ! あたしだって、時期がくれば告白くらいしてたよ!』
『あんたが何言っても、もう遅いんだよ。アイツの彼女はあのコなんだって。あんたじゃないの』
「『時期がくれば』、か……」
「萩野?」
「えっ……あ、哲。なんでココにいるの?」
「いや、帰り道だったんだが、萩野が見えて……今日は、部活が終わった後、すぐに帰ったはずだろう。何かあったのか?」
名前を呼ばれて梓が顔を上げると、そこでは傘をさした結城が、ベンチに腰掛けるこちらを見下ろしていた。サァー、と小雨が降り続く音は、まだ収まっていなかった。
「ほら、ちょっと前に、雨降ってきちゃったでしょ? 通り雨だろうから、雨宿りしてるところで」
「ああ、傘を持っていなかったのか。俺のは、寮の奴に借りてきたからな」
「この公園のベンチなら、屋根があるの知ってたし。家より近かったから」
結城と梓は共に自宅生で、高校からの帰り道が、途中まで同じだった。この公園も、その道中にある。彼は、おそらく部活後の自主練を終えてから、家路についたのだろう。空はもう、すでに暗い。
「そうか。それは、何を読んでいたんだ?」
「あ、コレ? 純から借りた、少女漫画。全10巻、一気に貸してくれたよ」
「なかなかの量だな」
「借り物だから、この雨の中、濡らすわけにもいかなくて。慌ててココに来たってわけ」
伊佐敷から渡された、少々大きめの紙袋を示して、梓は苦笑いした。最近、特に気になる読み物がなかったので、“何かおすすめの少女漫画を貸してほしい”と言ったら、今日これらを渡されたのだ。
「傘がないなら、入っていくか? 家まで送るぞ」
「あ、そんな、いいよ。申し訳ないし、そのうち止むと思うから」
「いつ止むかもわからないだろう? それに、もう遅い。家の人が心配する」
困った。ただ、彼ならそう言うだろうと、見つかったときから思ってはいたが。結城の性格を考えると、簡単に引き下がるとも思えない。
「ほんと、だいじょうぶ。どうせ、いま家に帰っても、誰もいないから」
「ああ……確か、ご両親は共働きだったか」
「そう」
梓は、両親と三人家族だ。ただし、父は転勤が多い職業で、現在も単身赴任中なので、実質母親と二人暮らしである。しかも、母も結婚前からの仕事を、今もずっと続けているため、帰りは夜遅い。
「……帰っても、どうせ家に一人だよ」
肩をすくめてそう言うと、結城は少し身動きを止めた。
それから、ふと何かを思い立ったように、傘を閉じて雨のしずくを払うと、屋根の下へと入ってきた。梓は結城のその行動に、「えっ」と声を上げて驚いた。
「帰らないの?」
「なに、『そのうち止む』だろうからな。そうすれば、傘がなくとも、二人で帰れる」
「そんなっ……あの、本当に気にしないで。哲も帰りが遅くなっちゃうし」
そんなの、さっきよりももっと困る、と梓は取り乱した。
「俺がそうしたいんだ」
「え?」
「雨が止むまで、萩野と話がしたい……そう言っても、ダメか?」
これだから彼にはかなわない、と梓はこっそり口元を手で隠した。なんだか顔が熱い。
もう片方の手の中にある少女漫画を見て、去年、梓と同じクラスだった伊佐敷が言っていたことを思い出す。
『俺は、哲にだけはどーにも勝てる気がしねぇんだよ。野球だけじゃねぇぜ。あんま言いたかねぇけどな』
ああ、確かに。“この男には勝てないな”と思わせる何かが、彼にはあるような気がした。梓は観念して、声をかけた。
「……隣、座る?」
「ああ、悪いな」
ベンチの端に傘を立て掛けると、結城は梓の隣に腰を下ろした。
「昔からそうなのか?」
「何が?」
「仮に、幼い歳で、家に一人では大変だろう」
「あ……うん。でも、そうだよ。昔は母さんに、託児所まで迎えに来てもらってた」
手に持っていた漫画の第1巻を、紙袋へ丁寧にしまいながら、梓は続けた。
「だけど、仕事で疲れてる母さんの手を煩 わせるのは、申し訳なくて。中学に上がる頃には、さっさと家に帰ってたよ。家事も一通り、全部やってた」
自分と話がしたいと彼は言ったが、もともと結城は話すのが得意ではない。それはよく知っている。だからなるべく、自分が話していられるように、梓はいろいろと気を配っていた。とはいえ自分自身も、普段はよく喋るほうではないのだが。
「朝に時間がないから、帰ったらまず洗濯機回して、部屋干しするでしょ。それから、母さんのブラウスとか、自分の制服にアイロンかけて。あとは、二人分の晩ごはんの仕度と、余裕があれば、次の日の朝ごはんの準備も」
「中学生で、それだけの仕事をこなしていたのか?」
「確かにやることは沢山あるけど、自分の家のことだし」
「帰宅部だった分、やってみたいこともいろいろできたから。趣味に没頭したりね」
凝り性な性格が原因で、家の中でできる趣味などの教本を買い込み、さまざまなことを試してみた。
「手間のかかる料理とか、お菓子とか……ビーズと、編み物──洋裁もやったなあ。女のコの友達に、ネイルしたり、髪をいじってあげるのも好きで」
「それで萩野は、料理も裁縫も上手いんだな」
「手先が器用なだけが、取り柄なの」
「いや、おかげで少なくとも、ウチの部は大いに助かっているぞ」
結城が大きくうなずいた。他人のことにも関わらず、その表情は自信に満ちている。梓はそれがちょっぴりおかしくて、思わず笑った。
「そう言われると、マネージャーをやったかいがあったよ」
「中でも、野球部を選んだ理由があるのか?」
「んー、青道に入学した頃には、家事に慣れてきたのもあったから、高校では部活に入りたいと思ってた。今まで培ってきたことを活かせる仕事なら、運動部を支えるマネージャーがいいのかな、って」
「あとは、やっぱり“強いチーム”を支えてみたかった、っていうのもあるかな。だから、強豪の野球部を選んだよ」
始めは、男子ばかりの空間で、日に焼け、汗にまみれ、体力も使う仕事をこなすのに、かなり必死だった。それでも、慣れていくにつれて、先回りして動けるようになったし、手際も良くなったほうだ。
「慣れるまでは大変だったけど、今は野球部のマネをやって、本当に良かったと思ってる。何より、みんなといるのが楽しいし」
「一人だと、心細いのか?」
「ん? どういう……」
「『どうせ家に一人だ』と言っていたとき、そう見えたから」
ドキッ、とした。別に、隠しているつもりはなかったが、誰が見てもそんなふうに見えたのだろうか。
隣に座っている結城に目をやった。彼はこちらに顔を向けたまま、梓の次の言葉を待っているかのように、ゆっくりとまばたきした。
「……前は平気だったんだよ。一人で過ごすのが、当たり前だったから」
玄関の扉を開ければ、家の中は電気もついていない、真っ暗な空間。そこに、ちょっとした虚しさをおぼえるようになったのは、野球部に入ってからだった。
「けど、野球部に入ってから、誰かと一緒にいる時間が長くなって」
「部員や、他のマネージャーたちか」
「うん……今は家に帰って一人だと、ちょっとだけ、さみしいかな。ちょっとだけね」
「だから、できるだけ長く、学校にいたいなあ、って」
「それでか。萩野がいつも、誰よりも最後まで残って仕事をしているのは」
「それだけが理由じゃ、ないけどね。今日も、本当はもっと早く帰れたはずなんだけど」
さすがに毎日毎日そんなに遅い時間までいると、監督や選手たちに心配されてしまうので、ほどほどにはしている。
「それに……いつも哲に送ってもらうの、申し訳ないし」
「気にするな。どうせ自主練で居残っているから、俺も遅いんだ。それに、」
そこで言葉を区切ると、結城は再び梓のほうを見た。口角をわずかに上げた、穏やかな笑顔だった。
「俺一人で帰るより、萩野と一緒のほうが、好きなんだ」
「え…………」
一瞬、彼の言葉の意味をぼうっと考えてしまった。その言葉を深読みしてしまいそうだ。『好き』という言葉に、過剰に反応して。
「萩野が隣で歩いていると、落ち着くというかな……どうした?」
「う、ううん。なんでも……」
しばらくして、慌てて顔を伏せた梓の顔を、結城は覗き込むようにした。あまり見ないでほしいのだが。
きっと、飾らない言葉を使う彼だからだ。仕方ない。けれど少なくとも、好意的に解釈して良さそうだ。梓は、それだけで満たされた気になった。
「お。雨が上がったみたいだな」
「あ……う、うん。帰ろうか。ゴメンね、長々と。変な話聞かせて」
「いや。だが確かに、萩野とこんなに長く、野球部や学校以外のことで話し込んだのは、初めてかもしれないな」
「そうだね」
二人してベンチから立ち上がりながら、お互いを向き合った。自分の顔が赤くはなっていないか、そんなことが気になった。
「だが、萩野の話を聞けて良かった……引退する前に、さっきの話を聞けて」
ああ、そうか。もう半年もしないうちに、自分たちは必然的に『引退』なのか。
今さらのように思い出してしまった。意識していないわけではなかったが、考えないようにしていたのかもしれない。いや、毎日の仕事に一所懸命で、先のことなど考える暇もなかった、というのが正しいだろうか。
「行くか。また降ってこないうちに、早く」
「あっ、それ重いよ?」
「大したことはない。どちらにせよ、いいトレーニングだ」
右手に少女漫画が10冊入った紙袋、左手に借りてきた傘、左肩にはエナメルバッグを提げ、それでも結城は平気な顔をして歩きだした。
ふと視線を落とすと、紙袋の隙間から、少女漫画の表紙がチラッと見えた。先ほど、結城が来る前に読んでいた第1巻、女子高生たちの台詞が、梓の頭に残っていた。
『だから“告っとけ”って言ったじゃん!』
『あたしだって、時期がくれば告白くらいしてたよ!』
『あんたが何言っても、もう遅いんだよ』
「哲」
呼び止めると、彼が振り向いた。どうした?、と聞き返すように、結城は小さく首をかしげる。
彼の言動一つひとつに、こんなに心惑わされるのだから、やはり自分は彼が『好き』なのだろう。それには気付いている。
だが、それを言ったところで、彼は何と言うだろう。どんな反応をするだろう。
きっと、今それを言っても、優しい彼を困らせるだけだ。彼のほうこそ恋愛に不慣れなことは、二年以上そばにいて理解しているという、自負もある。
「……引退まで、よろしくね」
「ああ。俺のほうこそ、よろしく頼む」
二人は、互いの顔を見合わせて、ほほ笑んだ。
雨が止み、しかし辺りは“雨の匂い”がした。湿った空気がもたらす、独特の香りが漂う。空気が澄み渡り、何かまた新たに生まれ変わったような。
「行こう」
「うん」
通学カバンを手に取って、結城の隣に駆け寄り、そのまま家路へと戻っていく。そう、今は『引退』までで十分だ。そのあとのことは、そのときに考えよう。
結城は前だけを見据え、何気なく梓に歩幅を合わせながら、ゆっくりと歩いていた。梓は、そんな無意識の優しさを見せてくれる、彼の横顔を見上げるのが好きだった。
「水溜まりに気を付けてな」
「ありがとう」
けれど、それに気付かれないように、梓はいつもどおりそっと、彼の半歩後ろを歩いていた。
《甘えるのが嫌で 寂しいのが苦手》『通り雨』Mr/Child/ren
─────────────────────────
⚾萩野 梓(デフォルト:はぎの あずさ)
青道高校3年生・野球部マネージャー。不言実行の、慎ましく控えめな性格だが、野球部の仲間に対する想いは厚い。家事全般が得意で好き。
結城哲也に好意を持っている自覚はあるものの、今の関係に満足してしまっているからか、あと一歩が踏み出せない様子。
⚾結城 哲也
青道高校3年生・野球部主将。主将・四番という立場でありながら、最も練習熱心な部員の一人で、ストイックを絵に描いたような男。
周りから見れば、明らかに他の人間と比べて、萩野梓に対する態度が特別だとわかるが、本人に自覚はない様子。
⚾青道高校の野球部員たち
基本的に二人のことをあたたかく見守っているが、「とりあえず、早いとこ付き合ってくれませんかね」というのが総意だったりもする。
『ま、まだ本気とは限らないでしょ! あたしだって、時期がくれば告白くらいしてたよ!』
『あんたが何言っても、もう遅いんだよ。アイツの彼女はあのコなんだって。あんたじゃないの』
「『時期がくれば』、か……」
「萩野?」
「えっ……あ、哲。なんでココにいるの?」
「いや、帰り道だったんだが、萩野が見えて……今日は、部活が終わった後、すぐに帰ったはずだろう。何かあったのか?」
名前を呼ばれて梓が顔を上げると、そこでは傘をさした結城が、ベンチに腰掛けるこちらを見下ろしていた。サァー、と小雨が降り続く音は、まだ収まっていなかった。
「ほら、ちょっと前に、雨降ってきちゃったでしょ? 通り雨だろうから、雨宿りしてるところで」
「ああ、傘を持っていなかったのか。俺のは、寮の奴に借りてきたからな」
「この公園のベンチなら、屋根があるの知ってたし。家より近かったから」
結城と梓は共に自宅生で、高校からの帰り道が、途中まで同じだった。この公園も、その道中にある。彼は、おそらく部活後の自主練を終えてから、家路についたのだろう。空はもう、すでに暗い。
「そうか。それは、何を読んでいたんだ?」
「あ、コレ? 純から借りた、少女漫画。全10巻、一気に貸してくれたよ」
「なかなかの量だな」
「借り物だから、この雨の中、濡らすわけにもいかなくて。慌ててココに来たってわけ」
伊佐敷から渡された、少々大きめの紙袋を示して、梓は苦笑いした。最近、特に気になる読み物がなかったので、“何かおすすめの少女漫画を貸してほしい”と言ったら、今日これらを渡されたのだ。
「傘がないなら、入っていくか? 家まで送るぞ」
「あ、そんな、いいよ。申し訳ないし、そのうち止むと思うから」
「いつ止むかもわからないだろう? それに、もう遅い。家の人が心配する」
困った。ただ、彼ならそう言うだろうと、見つかったときから思ってはいたが。結城の性格を考えると、簡単に引き下がるとも思えない。
「ほんと、だいじょうぶ。どうせ、いま家に帰っても、誰もいないから」
「ああ……確か、ご両親は共働きだったか」
「そう」
梓は、両親と三人家族だ。ただし、父は転勤が多い職業で、現在も単身赴任中なので、実質母親と二人暮らしである。しかも、母も結婚前からの仕事を、今もずっと続けているため、帰りは夜遅い。
「……帰っても、どうせ家に一人だよ」
肩をすくめてそう言うと、結城は少し身動きを止めた。
それから、ふと何かを思い立ったように、傘を閉じて雨のしずくを払うと、屋根の下へと入ってきた。梓は結城のその行動に、「えっ」と声を上げて驚いた。
「帰らないの?」
「なに、『そのうち止む』だろうからな。そうすれば、傘がなくとも、二人で帰れる」
「そんなっ……あの、本当に気にしないで。哲も帰りが遅くなっちゃうし」
そんなの、さっきよりももっと困る、と梓は取り乱した。
「俺がそうしたいんだ」
「え?」
「雨が止むまで、萩野と話がしたい……そう言っても、ダメか?」
これだから彼にはかなわない、と梓はこっそり口元を手で隠した。なんだか顔が熱い。
もう片方の手の中にある少女漫画を見て、去年、梓と同じクラスだった伊佐敷が言っていたことを思い出す。
『俺は、哲にだけはどーにも勝てる気がしねぇんだよ。野球だけじゃねぇぜ。あんま言いたかねぇけどな』
ああ、確かに。“この男には勝てないな”と思わせる何かが、彼にはあるような気がした。梓は観念して、声をかけた。
「……隣、座る?」
「ああ、悪いな」
ベンチの端に傘を立て掛けると、結城は梓の隣に腰を下ろした。
「昔からそうなのか?」
「何が?」
「仮に、幼い歳で、家に一人では大変だろう」
「あ……うん。でも、そうだよ。昔は母さんに、託児所まで迎えに来てもらってた」
手に持っていた漫画の第1巻を、紙袋へ丁寧にしまいながら、梓は続けた。
「だけど、仕事で疲れてる母さんの手を
自分と話がしたいと彼は言ったが、もともと結城は話すのが得意ではない。それはよく知っている。だからなるべく、自分が話していられるように、梓はいろいろと気を配っていた。とはいえ自分自身も、普段はよく喋るほうではないのだが。
「朝に時間がないから、帰ったらまず洗濯機回して、部屋干しするでしょ。それから、母さんのブラウスとか、自分の制服にアイロンかけて。あとは、二人分の晩ごはんの仕度と、余裕があれば、次の日の朝ごはんの準備も」
「中学生で、それだけの仕事をこなしていたのか?」
「確かにやることは沢山あるけど、自分の家のことだし」
「帰宅部だった分、やってみたいこともいろいろできたから。趣味に没頭したりね」
凝り性な性格が原因で、家の中でできる趣味などの教本を買い込み、さまざまなことを試してみた。
「手間のかかる料理とか、お菓子とか……ビーズと、編み物──洋裁もやったなあ。女のコの友達に、ネイルしたり、髪をいじってあげるのも好きで」
「それで萩野は、料理も裁縫も上手いんだな」
「手先が器用なだけが、取り柄なの」
「いや、おかげで少なくとも、ウチの部は大いに助かっているぞ」
結城が大きくうなずいた。他人のことにも関わらず、その表情は自信に満ちている。梓はそれがちょっぴりおかしくて、思わず笑った。
「そう言われると、マネージャーをやったかいがあったよ」
「中でも、野球部を選んだ理由があるのか?」
「んー、青道に入学した頃には、家事に慣れてきたのもあったから、高校では部活に入りたいと思ってた。今まで培ってきたことを活かせる仕事なら、運動部を支えるマネージャーがいいのかな、って」
「あとは、やっぱり“強いチーム”を支えてみたかった、っていうのもあるかな。だから、強豪の野球部を選んだよ」
始めは、男子ばかりの空間で、日に焼け、汗にまみれ、体力も使う仕事をこなすのに、かなり必死だった。それでも、慣れていくにつれて、先回りして動けるようになったし、手際も良くなったほうだ。
「慣れるまでは大変だったけど、今は野球部のマネをやって、本当に良かったと思ってる。何より、みんなといるのが楽しいし」
「一人だと、心細いのか?」
「ん? どういう……」
「『どうせ家に一人だ』と言っていたとき、そう見えたから」
ドキッ、とした。別に、隠しているつもりはなかったが、誰が見てもそんなふうに見えたのだろうか。
隣に座っている結城に目をやった。彼はこちらに顔を向けたまま、梓の次の言葉を待っているかのように、ゆっくりとまばたきした。
「……前は平気だったんだよ。一人で過ごすのが、当たり前だったから」
玄関の扉を開ければ、家の中は電気もついていない、真っ暗な空間。そこに、ちょっとした虚しさをおぼえるようになったのは、野球部に入ってからだった。
「けど、野球部に入ってから、誰かと一緒にいる時間が長くなって」
「部員や、他のマネージャーたちか」
「うん……今は家に帰って一人だと、ちょっとだけ、さみしいかな。ちょっとだけね」
「だから、できるだけ長く、学校にいたいなあ、って」
「それでか。萩野がいつも、誰よりも最後まで残って仕事をしているのは」
「それだけが理由じゃ、ないけどね。今日も、本当はもっと早く帰れたはずなんだけど」
さすがに毎日毎日そんなに遅い時間までいると、監督や選手たちに心配されてしまうので、ほどほどにはしている。
「それに……いつも哲に送ってもらうの、申し訳ないし」
「気にするな。どうせ自主練で居残っているから、俺も遅いんだ。それに、」
そこで言葉を区切ると、結城は再び梓のほうを見た。口角をわずかに上げた、穏やかな笑顔だった。
「俺一人で帰るより、萩野と一緒のほうが、好きなんだ」
「え…………」
一瞬、彼の言葉の意味をぼうっと考えてしまった。その言葉を深読みしてしまいそうだ。『好き』という言葉に、過剰に反応して。
「萩野が隣で歩いていると、落ち着くというかな……どうした?」
「う、ううん。なんでも……」
しばらくして、慌てて顔を伏せた梓の顔を、結城は覗き込むようにした。あまり見ないでほしいのだが。
きっと、飾らない言葉を使う彼だからだ。仕方ない。けれど少なくとも、好意的に解釈して良さそうだ。梓は、それだけで満たされた気になった。
「お。雨が上がったみたいだな」
「あ……う、うん。帰ろうか。ゴメンね、長々と。変な話聞かせて」
「いや。だが確かに、萩野とこんなに長く、野球部や学校以外のことで話し込んだのは、初めてかもしれないな」
「そうだね」
二人してベンチから立ち上がりながら、お互いを向き合った。自分の顔が赤くはなっていないか、そんなことが気になった。
「だが、萩野の話を聞けて良かった……引退する前に、さっきの話を聞けて」
ああ、そうか。もう半年もしないうちに、自分たちは必然的に『引退』なのか。
今さらのように思い出してしまった。意識していないわけではなかったが、考えないようにしていたのかもしれない。いや、毎日の仕事に一所懸命で、先のことなど考える暇もなかった、というのが正しいだろうか。
「行くか。また降ってこないうちに、早く」
「あっ、それ重いよ?」
「大したことはない。どちらにせよ、いいトレーニングだ」
右手に少女漫画が10冊入った紙袋、左手に借りてきた傘、左肩にはエナメルバッグを提げ、それでも結城は平気な顔をして歩きだした。
ふと視線を落とすと、紙袋の隙間から、少女漫画の表紙がチラッと見えた。先ほど、結城が来る前に読んでいた第1巻、女子高生たちの台詞が、梓の頭に残っていた。
『だから“告っとけ”って言ったじゃん!』
『あたしだって、時期がくれば告白くらいしてたよ!』
『あんたが何言っても、もう遅いんだよ』
「哲」
呼び止めると、彼が振り向いた。どうした?、と聞き返すように、結城は小さく首をかしげる。
彼の言動一つひとつに、こんなに心惑わされるのだから、やはり自分は彼が『好き』なのだろう。それには気付いている。
だが、それを言ったところで、彼は何と言うだろう。どんな反応をするだろう。
きっと、今それを言っても、優しい彼を困らせるだけだ。彼のほうこそ恋愛に不慣れなことは、二年以上そばにいて理解しているという、自負もある。
「……引退まで、よろしくね」
「ああ。俺のほうこそ、よろしく頼む」
二人は、互いの顔を見合わせて、ほほ笑んだ。
雨が止み、しかし辺りは“雨の匂い”がした。湿った空気がもたらす、独特の香りが漂う。空気が澄み渡り、何かまた新たに生まれ変わったような。
「行こう」
「うん」
通学カバンを手に取って、結城の隣に駆け寄り、そのまま家路へと戻っていく。そう、今は『引退』までで十分だ。そのあとのことは、そのときに考えよう。
結城は前だけを見据え、何気なく梓に歩幅を合わせながら、ゆっくりと歩いていた。梓は、そんな無意識の優しさを見せてくれる、彼の横顔を見上げるのが好きだった。
「水溜まりに気を付けてな」
「ありがとう」
けれど、それに気付かれないように、梓はいつもどおりそっと、彼の半歩後ろを歩いていた。
《甘えるのが嫌で 寂しいのが苦手》『通り雨』Mr/Child/ren
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⚾萩野 梓(デフォルト:はぎの あずさ)
青道高校3年生・野球部マネージャー。不言実行の、慎ましく控えめな性格だが、野球部の仲間に対する想いは厚い。家事全般が得意で好き。
結城哲也に好意を持っている自覚はあるものの、今の関係に満足してしまっているからか、あと一歩が踏み出せない様子。
⚾結城 哲也
青道高校3年生・野球部主将。主将・四番という立場でありながら、最も練習熱心な部員の一人で、ストイックを絵に描いたような男。
周りから見れば、明らかに他の人間と比べて、萩野梓に対する態度が特別だとわかるが、本人に自覚はない様子。
⚾青道高校の野球部員たち
基本的に二人のことをあたたかく見守っているが、「とりあえず、早いとこ付き合ってくれませんかね」というのが総意だったりもする。
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