うたた寝
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いま見たことを、黙っていることはできるか、って?
ああ、別に、俺は口堅ぇほうだ。それに誰かに言ったところで、あ の 二 人 のノロケにしかならねぇだろう。……むしろ言えねぇって。こっぱずかしくてよ。
「倉持?」
ビクッ!、と肩が跳ね上がるのを、力で無理やり押さえて振り返ると、そこには純さんを先頭に、3年の先輩たちが立っている。
練習終わって、晩メシ食って、一旦部屋で休んでたところを、食堂へ戻ってきたのは、俺と同じだろう。これから、3年の自主練が始まるのは、すぐにわかった。
「なんで、んな入口で立ち止まってんだよ、中入れねぇだろ。邪魔だオラ」
「あ……ああ! えっと、す、スンマセン!」
見てはいけないものを見てしまった、っつう感覚に近いだろうか。無意識に、食堂にあ の 二 人 しかいない状況を、自分の背中で隠すように、さらに先輩たちの道をふさいじまっていた。
そんな俺を見て、純さんをはじめ、先輩たちが怪訝そうな顔をしだす。
「どうしたお前……挙動不審だぞ」
「いや、だからそれは! えっと……」
「なんか動きがキモいよ?」
「亮さん、そんな言い方ないっス!」
せめて、中にいる人物に、他の人間がやってきたことを知らせようと、無駄に大声を出してみたりする。
頼む、後ろがどうなってるかは知らねぇが、せめてさ っ き の 状 況 から、態勢を立て直してくれ……!
「どうした?」
「おう、哲。もういたのか」
よし、思惑どおり! 助かったぜ……。
騒ぎを聞きつけたらしい哲さんが、俺たちのほうへ歩み寄ってきたのが、背中越しでわかった。俺はホッと一息ついて、純さんたちの気が哲さんにそれたのを見ると、その隙にこっそり食堂へ入る。
「このあと行くだろ!? 自主練」
「ああ。そのつもりだが……ちょっと、静かにな」
「どうしたの?」
亮さんのいぶかしげな声が後ろから聞こえたけど、俺には哲さんが何のことを言ってるのか、すぐにわかった。なるべく関わり合いにならないように、喉が渇いた体 を装って、共有の流し台に向かう。
チラッと、横目で食堂の椅子の方を見ると、二 人 のうちの一人が、同じ体勢のままだった。
「なんだ萩野、まだ帰ってなかったの?」
「みたいだな」
「つか寝てるし……」
そこに座ってたのは、マネージャーの萩野先輩だ。あの純さんが声を潜めたのも仕方ねぇ、先輩は日誌でも書いてたのか、部活のときのジャージ姿のまま、広げたノートの上に腕を組んで、それを枕に、寝てしまっている。
その肩には、野球部揃いのジャージが掛けられていて、それを再びしっかりと確認してしまった俺はドキッ、とまた肩が跳ね上がっちまった。
「こんなところでよく熟睡できんな……自分が女子だって自覚あんのか?」
「よっぽど疲れてるんだろう」
「起こしたほうがいいんじゃねーの」
「無理に起こすのも、かわいそうじゃない?」
いつも練習中は、後輩の手本になるような大声を出してる先輩たち(特に純さん)が、萩野先輩を起こさないようにと小声で会話してるのを聞いてると、なんだかいじらしい。
「あとで起こしてやればいいだろう。心配するな、帰りは俺が送っていく」
哲さんも、萩野先輩も、自宅生だ。二人がよく一緒に帰っているのは、みんな知っているからか、先輩たちも特に疑問を持たない。
「哲に任せるのは構わねぇけど、だからってココに放置するか?」
「いいんじゃね? すぐ近くには、誰かしらいるんだし」
「少し、休ませてやろう」
結局、自主練が終わるまで、そっとしておいてやる、と話はまとまったようで、先輩たちは連れだって、ぞろぞろと(けど静かにそっと)食堂を出ていった。
「ハァー……ったく、タイミング悪かったな……」
緊張が抜けた俺は、ガクッと肩を落として、流し台の近くにあったガラスのコップを一つ手に取った。水道のコックをひねって水を入れたあと、それを飲みながら、あいにく(?)放置された萩野先輩を見る。
萩野先輩は、自宅生にも関わらず、夜遅くまで残っていることが多い。
俺が思うに、マネージャーの中で一番働き者なのは、萩野先輩じゃねぇかな。同じ3年生なら、明るくてハキハキしてる分、藤原先輩のほうが人当たりは良さそうだけど。
萩野先輩は特に手際が良いし、自ら次々仕事をもらっていくから、単純に、こなす仕事の量も一番多い。あと料理上手なのか、先輩の作る差し入れはすげー美味い。
大人しそうに見える割には、度胸もある。ウチの、あんな強面の監督が『おい、誰かマネージャー来てくれ』って呼んでも、ひるむことなく真っ先に前に出るくらいだし、フットワークも軽いからな。
つーか、萩野先輩はもちろんだけど、そもそも日頃世話んなってるマネさんたちにゃ、頭上がんねぇもんなあ。
「ぅおーっしゃあ!! 今日も今日とて、特訓特訓!!」
「ぶふっ!」
食堂出たところ、中庭のほうから聞こえてきた突然の檄 に驚いて、思わず口に含んでた水を吹き出した。コップの中であふれ返った水のせいで、口の周りがビチャビチャになる。クソッ! Tシャツ濡れた!
ってか、今の声! いや、こんなこと叫んでんのはアイツしかいねぇのはわかってっけど!
俺は袖で強引に口をぬぐったあと、コップをシンクの中に置いて、足音を立てない程度の速さで、中庭側の入り口に駆け寄った。そこから顔を出すと案の定、俺と同室の、無駄に馬鹿デカい声の持ち主がいたので、小声で怒鳴ってやる。
「バッカ、沢村! 声デケェって!」
「わっ!? なんスか、もっち先輩!」
「だから声!」
「シーッ!」と人差し指を口に当てて、オーバー気味にジェスチャーしてやれば、さすがの沢村も何かヤバイと思ったんだろう。奴は反射的にパッと両手で、自分の口をふさいだ。よし、それでいい。
沢村の後ろには、同じように室内練習場のほうへ向かおうとしていた御幸と降谷が、突然やってきた俺を見て、目を丸くしていた。
「なんかあった?」
「あー、なんつーか、その……」
御幸が首をかしげて聞いてくるから、答えかけて、そっと後ろを振り返ってみる。もぞもぞとジャージのかかった背中が動いたかと思ったら、ゆっくり頭が持ち上がった。
あー……起きちまったか。
「ハァ……いい、手遅れだった」
「なにが?」
「いや、もう大丈夫だから、行ってくれ。投球練習だろ?」
「ああ……?」
「しっしっ」と、手で払いのけるしぐさをすれば、首をひねりながらも、三人は室内練習場のほうへ歩いていく。
ハァ、と一つため息をついてから、食堂の中へ戻ると、ちょうど「んんっ……」と目をこすっている萩野先輩が目に入った。それから、何度かパチパチまばたきして、ぼうっとあたりを見渡してる。まだ寝ぼけてんな。
「ん……あれ…………?」
「スンマセン、萩野先輩。目ぇ覚めちゃいました?」
沢村のせいだけどな、と心の中で奴に悪態をつく。あとで部屋戻ってきたらシメてやろう。
「くら、も、ち? …………えっ、やだ、いま何時……!?」
俺の顔を確認した萩野先輩は、焦った表情のまま、自分の腕時計を見た。どうやらそこで、やっと今の状況を思い出したらしく、「あー……」と声を漏らしながら、少し頭を抱えている。
「大丈夫っスか?」
「うん……。寝ちゃってたか……やっちゃったな……ハァ」
先輩がため息をついて、椅子に大きくもたれると、肩に掛かっていたジャージが床に落ちた。思わず、「あっ」と声が出ちまう。
「ていうか、誰も起こしてくれなかったんだ……この時間なら、絶対誰か通ると思うんだけど」
どうやら、萩野先輩は気付いていないらしい。まだ少し眠たそうな目つきで、机の上のノートやペンケースを、隣の椅子の上に置いていたカバンの中へと入れ始めた。
「え、帰るんスか?」
「うん。日誌は書けてるし……もうみんな、自主練してるでしょ?」
「いや、けど……」
「け ど ?」
椅子から立ち上がろうとした萩野先輩を制すと、先輩は不思議そうな顔をする。そりゃ、先輩からしたら、当然の反応だけど。
「倉持、どうかした? もしかしてあたし、何か仕事忘れてる?」
「あ、えっと……それ」
俺が、床に落ちていたそ の ジ ャ ー ジ を指差すと、萩野先輩が下を見た。そこで、「ん? あ、ジャージ」とつぶやいて、拾い上げる。
「倉持の?」
「いや、俺のじゃなくて……先輩の肩に掛かってたヤツですよ」
「えっ?」
「たぶん、もう少し寝ててもいいと思います」
俺のじゃないと知って、誰のか確認しようとしているんだろう、萩野先輩はジャージの左胸を手繰り寄せている。野球部揃いのジャージには、左胸に、自分たちの名前が刺繍してあるからだ。
「そのジャージの持ち主が、自主練終わったら、送っていくって言ってましたんで」
俺がそう言ったのと、萩野先輩の手が、名前の刺繍を探し当てたのが、ほぼ同時だった。
そこには、“結城”という漢字二文字が、しっかり縫い付けてある。
「あ……」
萩野先輩は、小さくぽかん、と口を開けて、ようやく全部理解した顔になった。
ジャージの持ち主と、持ち主がとった行為も。それをわざわざ本人が肩に掛けた上に、『送っていく』って言ったっつーことは、気を遣って、わざと起こさなかったということも。
すると、外でのマネージャーの仕事で、少し日に焼けた萩野先輩の頬が、赤色に染まった。まるで、水に溶かした絵の具が、じわっと滲んだみたいに。
つられて、俺の顔まで熱くなった気がした。
「お、俺もちょっと走ってきます! じゃ、先輩、お疲れっした!」
いたたまれなくなった俺は、バッと一礼してから、食堂の扉をブチ開けて、勢いよく飛び出した。
「あ、倉持っ! 暗いから気を付けて!」
俺があっというまにいなくなったから、止める暇もなかっただろう萩野先輩の声が、背後から聞こえてくる。野球以外で、自分の足が速くて心底良かったと思ったのは、久しぶりだ。
それとさっき、萩野先輩に挨拶した瞬間、先輩があ の 人 のジャージを、大切そうに握りしめたのを、俺は見逃さなかった。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
慌てて出てきたから、もう息が切れてら。寮の敷地を出て、グラウンドのほうへと走る。ラッキーなのかどうかはわかんねぇけど、人影は見当たらなかった。今、誰かに鉢合わせるのは御免だ。
本当は素振りでもしたかったところだけど、今の体の熱を冷ますには、何も考えずに走りまくるのがちょうどよかった。
完全に、当てられちまった。けどそれは、萩野先輩だけじゃない。あ の 人 だってそうだ。
俺は、最初に食堂へ入ったときのことを、思い出していた。
食堂の入り口手前あたりで俺は、一人で立っている哲さんの姿を見つけた。
「あ、哲さ、」
お疲れっス、と挨拶しながら、中に入ろうとしたときだ。哲さんのそばの椅子に座って眠っている、萩野先輩に気付いて、反射的に足を止めた。
そのとき頭に浮かんだのは、前に何気なく御幸と話したことだった。
『なんで付き合ってねぇの? マジで』
『さあ……なにせ哲さんが、ああいう人だからなあ』
別に、あの二人がそういうふうに見えるのは、今に始まったことでもねぇし、俺があそこで入ったところで、哲さんがごまかすようなそぶりをするとも思えない。
だから、俺が立ち止まったのは、特に気を遣ったわけでもねぇ。強いて言うなら、単なる俺の好奇心だったのかもな。
そしたら哲さんは、自分が羽織っていた野球部揃いのジャージを脱いで、萩野先輩の肩に、そっと掛けた。ああ、さすが、“夫婦”ってからかわれるだけあるな、と苦笑いしそうになる。けど、いつもの二人のやりとりを思えば、大して驚くほどのことでもなかった。問題はそのあとだ。
哲さんが、ジャージ越しに萩野先輩の肩に乗せていた片手を、ゆっくり先輩の頭に置いた。それから、その大きな手のひらで、髪を優しくなでるようにするのを。
それだけでも、マジか、と驚いたが、俺が本当に息をのんだのはそ っ ち じゃない。
そのときの哲さんの表情を、俺はしばらく忘れられそうになかった。
同じ野球部で、一年以上あの人のプレーを見てきたし、誰よりも練習熱心なあの人をみんな手本にしてきたはずなのに。あんな目をしてほほ笑む哲さんは、見たことがない。
“慈愛”、って言うんだっけか。美術の教科書で見たような絵画。赤ん坊を抱いた母親のそれに似た、あたたかい目だった。その場合、自分の娘を見守る父親、っつーことになるんだろうか、でもそれとも違う気がする。
俺の知ってる中で誰よりも自制的で、自分にも他人にも厳しい人が、あんな表情をするなんて、それまでの俺には考えもつかなかった。
あんなにも、あの人を変えることができるモノがあるとしたら、それは──
「倉持?」
「なんで、んな入口で立ち止まってんだよ、中入れねぇだろ。邪魔だオラ」
「あ……ああ! えっと、す、スンマセン!」
思い出して、また顔が熱くなった。こりゃもう少し、距離を伸ばして走る必要がありそうだ。でないと到底、熱、冷めねぇって。
つーか、やっぱり哲さんは、自覚……ねぇんだろうな、アレ。あんな表情までしといて。あのとき、鏡持ってきて、その顔を本人に見せてやりたかったな。ヒャハッ。
哲さんと萩野先輩の顔を思い浮かべながら、『俺もいつか、あんなふうに想い合えるような相手ができるのかな』、なんて。
ヤベェ……思考まで、完全に当てられちまったらしい。こんなこと、同じ野球部の奴になんか、絶対言えねーよな……、とむずがゆくなっちまったけど、それでも俺は足を止めずに走り続けた。
(俺にもよくわからねーけど、それが“恋”ってヤツなのか。)
ああ、別に、俺は口堅ぇほうだ。それに誰かに言ったところで、
「倉持?」
ビクッ!、と肩が跳ね上がるのを、力で無理やり押さえて振り返ると、そこには純さんを先頭に、3年の先輩たちが立っている。
練習終わって、晩メシ食って、一旦部屋で休んでたところを、食堂へ戻ってきたのは、俺と同じだろう。これから、3年の自主練が始まるのは、すぐにわかった。
「なんで、んな入口で立ち止まってんだよ、中入れねぇだろ。邪魔だオラ」
「あ……ああ! えっと、す、スンマセン!」
見てはいけないものを見てしまった、っつう感覚に近いだろうか。無意識に、食堂に
そんな俺を見て、純さんをはじめ、先輩たちが怪訝そうな顔をしだす。
「どうしたお前……挙動不審だぞ」
「いや、だからそれは! えっと……」
「なんか動きがキモいよ?」
「亮さん、そんな言い方ないっス!」
せめて、中にいる人物に、他の人間がやってきたことを知らせようと、無駄に大声を出してみたりする。
頼む、後ろがどうなってるかは知らねぇが、せめて
「どうした?」
「おう、哲。もういたのか」
よし、思惑どおり! 助かったぜ……。
騒ぎを聞きつけたらしい哲さんが、俺たちのほうへ歩み寄ってきたのが、背中越しでわかった。俺はホッと一息ついて、純さんたちの気が哲さんにそれたのを見ると、その隙にこっそり食堂へ入る。
「このあと行くだろ!? 自主練」
「ああ。そのつもりだが……ちょっと、静かにな」
「どうしたの?」
亮さんのいぶかしげな声が後ろから聞こえたけど、俺には哲さんが何のことを言ってるのか、すぐにわかった。なるべく関わり合いにならないように、喉が渇いた
チラッと、横目で食堂の椅子の方を見ると、
「なんだ萩野、まだ帰ってなかったの?」
「みたいだな」
「つか寝てるし……」
そこに座ってたのは、マネージャーの萩野先輩だ。あの純さんが声を潜めたのも仕方ねぇ、先輩は日誌でも書いてたのか、部活のときのジャージ姿のまま、広げたノートの上に腕を組んで、それを枕に、寝てしまっている。
その肩には、野球部揃いのジャージが掛けられていて、それを再びしっかりと確認してしまった俺はドキッ、とまた肩が跳ね上がっちまった。
「こんなところでよく熟睡できんな……自分が女子だって自覚あんのか?」
「よっぽど疲れてるんだろう」
「起こしたほうがいいんじゃねーの」
「無理に起こすのも、かわいそうじゃない?」
いつも練習中は、後輩の手本になるような大声を出してる先輩たち(特に純さん)が、萩野先輩を起こさないようにと小声で会話してるのを聞いてると、なんだかいじらしい。
「あとで起こしてやればいいだろう。心配するな、帰りは俺が送っていく」
哲さんも、萩野先輩も、自宅生だ。二人がよく一緒に帰っているのは、みんな知っているからか、先輩たちも特に疑問を持たない。
「哲に任せるのは構わねぇけど、だからってココに放置するか?」
「いいんじゃね? すぐ近くには、誰かしらいるんだし」
「少し、休ませてやろう」
結局、自主練が終わるまで、そっとしておいてやる、と話はまとまったようで、先輩たちは連れだって、ぞろぞろと(けど静かにそっと)食堂を出ていった。
「ハァー……ったく、タイミング悪かったな……」
緊張が抜けた俺は、ガクッと肩を落として、流し台の近くにあったガラスのコップを一つ手に取った。水道のコックをひねって水を入れたあと、それを飲みながら、あいにく(?)放置された萩野先輩を見る。
萩野先輩は、自宅生にも関わらず、夜遅くまで残っていることが多い。
俺が思うに、マネージャーの中で一番働き者なのは、萩野先輩じゃねぇかな。同じ3年生なら、明るくてハキハキしてる分、藤原先輩のほうが人当たりは良さそうだけど。
萩野先輩は特に手際が良いし、自ら次々仕事をもらっていくから、単純に、こなす仕事の量も一番多い。あと料理上手なのか、先輩の作る差し入れはすげー美味い。
大人しそうに見える割には、度胸もある。ウチの、あんな強面の監督が『おい、誰かマネージャー来てくれ』って呼んでも、ひるむことなく真っ先に前に出るくらいだし、フットワークも軽いからな。
つーか、萩野先輩はもちろんだけど、そもそも日頃世話んなってるマネさんたちにゃ、頭上がんねぇもんなあ。
「ぅおーっしゃあ!! 今日も今日とて、特訓特訓!!」
「ぶふっ!」
食堂出たところ、中庭のほうから聞こえてきた突然の
ってか、今の声! いや、こんなこと叫んでんのはアイツしかいねぇのはわかってっけど!
俺は袖で強引に口をぬぐったあと、コップをシンクの中に置いて、足音を立てない程度の速さで、中庭側の入り口に駆け寄った。そこから顔を出すと案の定、俺と同室の、無駄に馬鹿デカい声の持ち主がいたので、小声で怒鳴ってやる。
「バッカ、沢村! 声デケェって!」
「わっ!? なんスか、もっち先輩!」
「だから声!」
「シーッ!」と人差し指を口に当てて、オーバー気味にジェスチャーしてやれば、さすがの沢村も何かヤバイと思ったんだろう。奴は反射的にパッと両手で、自分の口をふさいだ。よし、それでいい。
沢村の後ろには、同じように室内練習場のほうへ向かおうとしていた御幸と降谷が、突然やってきた俺を見て、目を丸くしていた。
「なんかあった?」
「あー、なんつーか、その……」
御幸が首をかしげて聞いてくるから、答えかけて、そっと後ろを振り返ってみる。もぞもぞとジャージのかかった背中が動いたかと思ったら、ゆっくり頭が持ち上がった。
あー……起きちまったか。
「ハァ……いい、手遅れだった」
「なにが?」
「いや、もう大丈夫だから、行ってくれ。投球練習だろ?」
「ああ……?」
「しっしっ」と、手で払いのけるしぐさをすれば、首をひねりながらも、三人は室内練習場のほうへ歩いていく。
ハァ、と一つため息をついてから、食堂の中へ戻ると、ちょうど「んんっ……」と目をこすっている萩野先輩が目に入った。それから、何度かパチパチまばたきして、ぼうっとあたりを見渡してる。まだ寝ぼけてんな。
「ん……あれ…………?」
「スンマセン、萩野先輩。目ぇ覚めちゃいました?」
沢村のせいだけどな、と心の中で奴に悪態をつく。あとで部屋戻ってきたらシメてやろう。
「くら、も、ち? …………えっ、やだ、いま何時……!?」
俺の顔を確認した萩野先輩は、焦った表情のまま、自分の腕時計を見た。どうやらそこで、やっと今の状況を思い出したらしく、「あー……」と声を漏らしながら、少し頭を抱えている。
「大丈夫っスか?」
「うん……。寝ちゃってたか……やっちゃったな……ハァ」
先輩がため息をついて、椅子に大きくもたれると、肩に掛かっていたジャージが床に落ちた。思わず、「あっ」と声が出ちまう。
「ていうか、誰も起こしてくれなかったんだ……この時間なら、絶対誰か通ると思うんだけど」
どうやら、萩野先輩は気付いていないらしい。まだ少し眠たそうな目つきで、机の上のノートやペンケースを、隣の椅子の上に置いていたカバンの中へと入れ始めた。
「え、帰るんスか?」
「うん。日誌は書けてるし……もうみんな、自主練してるでしょ?」
「いや、けど……」
「
椅子から立ち上がろうとした萩野先輩を制すと、先輩は不思議そうな顔をする。そりゃ、先輩からしたら、当然の反応だけど。
「倉持、どうかした? もしかしてあたし、何か仕事忘れてる?」
「あ、えっと……それ」
俺が、床に落ちていた
「倉持の?」
「いや、俺のじゃなくて……先輩の肩に掛かってたヤツですよ」
「えっ?」
「たぶん、もう少し寝ててもいいと思います」
俺のじゃないと知って、誰のか確認しようとしているんだろう、萩野先輩はジャージの左胸を手繰り寄せている。野球部揃いのジャージには、左胸に、自分たちの名前が刺繍してあるからだ。
「そのジャージの持ち主が、自主練終わったら、送っていくって言ってましたんで」
俺がそう言ったのと、萩野先輩の手が、名前の刺繍を探し当てたのが、ほぼ同時だった。
そこには、“結城”という漢字二文字が、しっかり縫い付けてある。
「あ……」
萩野先輩は、小さくぽかん、と口を開けて、ようやく全部理解した顔になった。
ジャージの持ち主と、持ち主がとった行為も。それをわざわざ本人が肩に掛けた上に、『送っていく』って言ったっつーことは、気を遣って、わざと起こさなかったということも。
すると、外でのマネージャーの仕事で、少し日に焼けた萩野先輩の頬が、赤色に染まった。まるで、水に溶かした絵の具が、じわっと滲んだみたいに。
つられて、俺の顔まで熱くなった気がした。
「お、俺もちょっと走ってきます! じゃ、先輩、お疲れっした!」
いたたまれなくなった俺は、バッと一礼してから、食堂の扉をブチ開けて、勢いよく飛び出した。
「あ、倉持っ! 暗いから気を付けて!」
俺があっというまにいなくなったから、止める暇もなかっただろう萩野先輩の声が、背後から聞こえてくる。野球以外で、自分の足が速くて心底良かったと思ったのは、久しぶりだ。
それとさっき、萩野先輩に挨拶した瞬間、先輩が
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
慌てて出てきたから、もう息が切れてら。寮の敷地を出て、グラウンドのほうへと走る。ラッキーなのかどうかはわかんねぇけど、人影は見当たらなかった。今、誰かに鉢合わせるのは御免だ。
本当は素振りでもしたかったところだけど、今の体の熱を冷ますには、何も考えずに走りまくるのがちょうどよかった。
完全に、当てられちまった。けどそれは、萩野先輩だけじゃない。
俺は、最初に食堂へ入ったときのことを、思い出していた。
食堂の入り口手前あたりで俺は、一人で立っている哲さんの姿を見つけた。
「あ、哲さ、」
お疲れっス、と挨拶しながら、中に入ろうとしたときだ。哲さんのそばの椅子に座って眠っている、萩野先輩に気付いて、反射的に足を止めた。
そのとき頭に浮かんだのは、前に何気なく御幸と話したことだった。
『なんで付き合ってねぇの? マジで』
『さあ……なにせ哲さんが、ああいう人だからなあ』
別に、あの二人がそういうふうに見えるのは、今に始まったことでもねぇし、俺があそこで入ったところで、哲さんがごまかすようなそぶりをするとも思えない。
だから、俺が立ち止まったのは、特に気を遣ったわけでもねぇ。強いて言うなら、単なる俺の好奇心だったのかもな。
そしたら哲さんは、自分が羽織っていた野球部揃いのジャージを脱いで、萩野先輩の肩に、そっと掛けた。ああ、さすが、“夫婦”ってからかわれるだけあるな、と苦笑いしそうになる。けど、いつもの二人のやりとりを思えば、大して驚くほどのことでもなかった。問題はそのあとだ。
哲さんが、ジャージ越しに萩野先輩の肩に乗せていた片手を、ゆっくり先輩の頭に置いた。それから、その大きな手のひらで、髪を優しくなでるようにするのを。
それだけでも、マジか、と驚いたが、俺が本当に息をのんだのは
そのときの哲さんの表情を、俺はしばらく忘れられそうになかった。
同じ野球部で、一年以上あの人のプレーを見てきたし、誰よりも練習熱心なあの人をみんな手本にしてきたはずなのに。あんな目をしてほほ笑む哲さんは、見たことがない。
“慈愛”、って言うんだっけか。美術の教科書で見たような絵画。赤ん坊を抱いた母親のそれに似た、あたたかい目だった。その場合、自分の娘を見守る父親、っつーことになるんだろうか、でもそれとも違う気がする。
俺の知ってる中で誰よりも自制的で、自分にも他人にも厳しい人が、あんな表情をするなんて、それまでの俺には考えもつかなかった。
あんなにも、あの人を変えることができるモノがあるとしたら、それは──
「倉持?」
「なんで、んな入口で立ち止まってんだよ、中入れねぇだろ。邪魔だオラ」
「あ……ああ! えっと、す、スンマセン!」
思い出して、また顔が熱くなった。こりゃもう少し、距離を伸ばして走る必要がありそうだ。でないと到底、熱、冷めねぇって。
つーか、やっぱり哲さんは、自覚……ねぇんだろうな、アレ。あんな表情までしといて。あのとき、鏡持ってきて、その顔を本人に見せてやりたかったな。ヒャハッ。
哲さんと萩野先輩の顔を思い浮かべながら、『俺もいつか、あんなふうに想い合えるような相手ができるのかな』、なんて。
ヤベェ……思考まで、完全に当てられちまったらしい。こんなこと、同じ野球部の奴になんか、絶対言えねーよな……、とむずがゆくなっちまったけど、それでも俺は足を止めずに走り続けた。
(俺にもよくわからねーけど、それが“恋”ってヤツなのか。)
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