水撒き
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「っつぁー……! 初日からハードだったな……」
ポジション上、屈みがちの背中を反らすようにして、御幸はぐぐっ、と腰を伸ばした。
「おいおい、しっかりしてくれよー? "新キャプテン"」
「そういうのマジやり辛いからやめろって……」
ニヤニヤとした顔でからかってくる倉持を、苦々しく思って小突き返してやる。青道野球部・新体制1日目の練習を終え、体力以上に精神的に消耗したのを感じながら、御幸は副主将の倉持と青心寮へ戻る道中にいた。
途中、サッカー部と陸上部兼用のグラウンドの脇道を通る。インターハイが終わり、3年生が引退した部活も多いからか、いつもより後片付けをしている部員が少ないと感じた。
フットサル用の小さいサッカーゴールを片付けたり、幅跳び用の砂場をならしたりしている部員を何気なく眺め、ふと御幸が道の先に視線を戻すと、二人の女子生徒が立っていた。一人は道の端にある水栓からホースを繋いで、絡まらないように伸ばしている。
もう一人は、シャワーヘッドの付いたレバーを握りながら、砂塵が舞うのを防ぐためだろう、陸上トラックあたりに水を撒いていた。見覚えのある後ろ姿に、今朝の出来事が思い出された。ドキッ、と御幸の体が小さく動いた。
向こうを見ているのでこのまま気付かないだろうか、と御幸は戸惑ったが、水栓の近くにいたもう一人の女子が、そばを通った二人のほうを振り向いて、声を上げた。顔をよく見れば、御幸たちと同じクラスの女子だった。
「あ、野球部おつかれー」
「おー」
少し前を歩いていた倉持が、そんな御幸の動揺に気付くわけもなく、女子に返事をする。クラスメイト同士の、当然のやりとりだ。
そしてもちろん、そのやりとりが聞こえただろう、シャー、という水の音が止まったかと思うと、夏実が振り返った。
チームメイトと倉持を見とめすぐに、そばにいる御幸に気付いて視線をこちらに向けた。目が合う。再び、体が反応した。
夏実は特に変わった様子でもなく、ニコッといつものように笑った。……俺の場合、顔に出てなかったかな、と御幸はそんな夏実を見て、自分に呆れた。
「あ、みゆきちゃんだ。おつかれ」
なんだか悔しくなって、同じように愛想よく笑ってみたつもりで答える。
「うん、おつかれ」
「今日も暑かったねー、けど汗だくでも男前だ」
いつもの調子で、挨拶がわりにもてはやすようなことを言う、そう、夏実はいつもの調子だ。その証拠に、もう一人のクラスメイトである女子まで、「よっ、さすが青道屈指のイケメン」と乗っかりだした。
「もっちーもおつかれ」
「おう、橘。陸部も帰るとこか?」
「うん。もっちーも汗スゴい」
「ヒャハッ、監督にシゴかれたからな」
「片岡先生かー、めっちゃ怖そう」
「コンちゃん、現国ニガテだもんね」
「マジかよ」
「言ったなー?」
「あはは、ゴメンゴメン」
倉持が気負わずに女子と話してる光景なんて、実はなかなかレアだったりするよなあ。
先ほどの御幸と同じように、相手が誰であろうと気軽に話しかけては、いつのまにかお互いの空気が馴染んでいる夏実の様子を見て、つい感心してしまう。
「陸部の原 先生は、優しそうでうらやましいけどな」
「原ちゃん? 確かに原ちゃん、あんま怒んないけど、練習はめっちゃハードだよ」
「今日なんか、『夏実ー、今日集中してないぞー』ってニコニコ笑いながら、なっちゃんにだけシャトルラン1セット追加してたからね。原ちゃん、笑いながらえげつないこと言うから」
「鬼かよ!」
「いやあ、アレはあたしが悪いからしょうがないよ」
「けど、おかげで今日はヘトヘトだ」と、うなだれる夏実だったが、その苦笑いは不思議と親しみやすい表情だった。夏実と会話していた二人も、穏やかに笑って彼女を見ている。
しかしふいに、もう一人の陸上部の女子がこちらを振り向いて口を開いた。
「そういえば御幸、キャプテンになったんだってね」
「えっ、なんで知ってんの」
「陸部でそば走ったから見てたよー、声出ししてたじゃん。ね?」
「うん、見えてた」
女子が夏実に同意を求めると、うなずいて御幸のほうを見てくる。全然気付かなかった。うわ、なにそれ恥ずっ。
「なっちゃんもキャプテンになったんだよねー」
「えっ、そうなんだ?」
「ヒャハッ! 仲間いたな、御幸」
「まあ、男子のキャプテンは別にいるし、個人競技多いから、形だけみたいなモンだけど」
「いや、すげーじゃん。橘は慕われてるし、いいキャプテンになりそうだよな」
倉持がそう言うと、隣の御幸を親指で指しながら続ける。
「ウチの主将とちがって」
「はっは、うるせーよ」
「否定はしねーけど」と、肩をすくめると、夏実は少々きまりが悪そうにはにかんだ。
すると突然、手に持っていたシャワーのノズルをパッと上に向けた。御幸が何かと思った、次の瞬間。
「はいっ、暑そうな二人におすそわけー」
夏実が照れ隠しのつもりなのか、御幸と倉持の頭上に向かってシャワーを放出すると、冷たい霧のような水しぶきが降り注いでくる。
「うぉわっ!」
「つめてっ!」
「アハハ! でも部活後は頭からいきたくなるよね」
「いや、笑ってないで止めてよ!」
夏実に『コンちゃん』と呼ばれていた女子がそばで笑っているのを制する。だが正直、部活後は汗でびっしょりなのでそう変わらないし、冷たい水は心地よかった。
シャワーが止むと、倉持が片手で顔の水を払うようにして頭を振りながら笑った。
「ぷはっ、キクわー」
「うん、気持ちイイ」
サングラスについた雫を指で適当に拭ってうなずく。あとで洗わないとな。
犯人の夏実は笑顔で「水も滴るいいオトコ」と、相変わらずの調子で二人に対し親指を突き立てていた。突飛な行動をしても許されてしまうのも、彼女のスキルのようなものなんだろう。
「コンちゃん、あとはあたしが片しとくよ」
「オッケー、よろしく。みんなお疲れ」
「おう。おい、御幸」
夏実が一人だけになったのは、チャンスだと思った。御幸は左肩に掛けたエナメルバッグを持ち直して、こちらを呼び止める倉持に、軽く手を上げ返事をする。
「ああ……ちょっと、先行ってて」
「ん? おう」
こういうとき彼は何かを察するのが得意なのか、深入りしてこないのは助かる。倉持が先に寮へ戻っていくのを見届け、御幸はあらためて夏実のほうを見た。
彼女は水撒きを再開し、まだ乾いている砂地に向けてシャワーを放っていた。邪魔にならないよう、一人分の距離を空けて、そっと隣に並ぶ。
「朝 はそうでもないけど、まだまだ暑いね」
正面を向いたまま、つぶやくように夏実が言った。その言葉は、どう考えても今朝のことを言っていたし、御幸に対して言っていた。それがなぜだか少し、嬉しかった。
そういえば今の夏実は、朝の姿とはずいぶん印象が違って見える。なぜだろう。太陽の位置のせいだろうか、なんて詩的なことを考えた。
「……シャトルラン、」
「え?」
御幸の脈絡のない台詞に、夏実がチラリとこちらを横目に見てくる。
「シャトルラン、野球部でもたまにやるけどさ。俺もニガテだな」
「ああ」
陸上部の監督に叱られただけに苦い経験だったのか、夏実はごまかすように笑った。
「シャトルラン好 きな人って、なかなかいないと思うけどね」
「だよな」
持久力を試される、20mシャトルラン。特にあの片岡監督に見られながら、全員横一列に並べからの延々続く往復ダッシュは地獄絵図のようになる。思い出して失笑した。
「もしかして……俺のせい?」
御幸が聞くと、夏実が隣で首をかしげたのが気配でわかった。そちらに顔を向けて、彼女を見下ろし、続けた。
「シャトルラン増やされたのって」
今朝の出来事のせいで、集中できなかったのか? チームメイト曰く。
そう聞くと、夏実は困ったように、それでも笑いながら、ホースを持っていないほうの手で、首を擦 って言った。
「んー……そう、かも、」
だが、そこまで言って夏実は、慌てて首にやった手を振って否定した。
「や、でも、やっぱ御幸のせいにするのはちょっと、」
「いやいや、それに関しては謝るわ」
「いやいや、ちょっと考えさせてって言ったのはあたしだし」
そんなふうに二人でまごついていると、互いになんだかおかしくなって、顔を見合わせて笑った。
今朝の時点では、先延ばしにされたことで御幸の思考が停止してしまっていたが、『考えさせて』と言った夏実の言葉どおり、彼女はきっと真剣に考えてくれたんだろう。たくさん悩んだんだろう。
そのこと自体が御幸にとって、価値のあることのように思えた。
「御幸」
こちらを向いた夏実が、名前を呼んだ。息を一つのんで、彼女を見る。真正面から目が合った。
「二つだけ、聞いていい?」
「なに」
一つでないところをみると、やはり彼女なりにいろいろ考えた結果だろう、と察した。聞かれそうなことは、大方予想できる。
「なんで、あたしと付き合いたいって思ったの?」
やっぱ一番はそこだよな──
内心、苦笑いする。自分だって、今朝まで告白する気はなかったくせに。ただ、その答えはある程度、あらかじめ用意していた。
「なっちゃんさ、みんなに優しいじゃん? 俺とちがって」
「そう?」
「さっき倉持も言ってたろ。『橘は慕われてるし』ってヤツ」
「アレってそういう意味なの?」
「同じかはわかんないけど、まあ似たような感じ」
誰とでも同じような立場で話せる、だから彼女の周りには自然と人が集まるし、笑顔が絶えない。計算じゃないのだ。
そんな、いつもみんなを平等に見ている彼女の目に、何か飛び抜けて輝いて見えるものなんて、あるのだろうか。たとえば、御幸にとっての"野球"のような、そんなかけがえのないものが。
「彼氏になったら、特別になれるかなって思ったから」
「トクベツ?」
「そう、"特別"」
その、いつでも好奇心に満ち溢れているような目が、あるいは自分に向くことも、あるのだろうか。
「うーん」
その言葉が何か引っかかるのか、よくわからないのか、夏実があまり納得していないことは表情で読み取れた。
「そういうとこ、前から気になってたから」
そうだ、知りたいのだ。橘夏実という人間を。
「もっと知りたいって思ったから。橘のこと」
言っているうちに、御幸の中で確信に変わった。彼女について、知りたい。こんなにも自分とかけ離れている気がしてならない、いったい彼女には、何が見えているのだろう。
「知りたい」
「そう」
御幸の言葉を、夏実が繰り返すようにつぶやくのを聞いて、うなずく。すると彼女は、先ほどよりも少し腑に落ちた様子で首を縦に振った。
「わかった」
「あともう一つは?」
正直、そちらのほうは予想できていない。ちょっぴり不安になってきて、御幸は彼女を急かすように問うた。
そしたら夏実は、なぜかそちらは言いにくそうに目をそらして、口をパクパクさせた。彼女にしてはめずらしく、歯切れの悪い感じだった。
「……あたしが彼女って人に知れたら、恥ずかしく思わない?」
「えぇ?」
あまりにも予想できなかった言葉に、思わず笑いながら言ってしまった。
「思わないよ、なんで」
そもそもそんなこと思っていたら、付き合ってくれなんて言わないだろう。そんなの今さらだ。
「背ぇ高いし」
「俺よりはちっちゃいでしょ」
ああ、そっちの意味か、と少し納得する。確かに彼女はボーイッシュな見た目ではあるかもしれないが、御幸にとっては外見なんて大した問題ではなかった。
「あんまり女のコっぽくないし」
「んなことねぇって」
そもそも、身長のことを気にしてる時点で女のコっぽいんだよなあ。
「なっちゃんっていっつもニコニコしてるし、そういうのが女のコらしいっていうか……俺は、イイと思うけど」
んー、なんか今のは流れ的にも必死っていうか、わざとらしかったか。ただ、お世辞じゃなくてホントのことだしなあ。
今さらな彼女の発言に、思わず反射的に答えたことで、めずらしく正直に伝えたつもりだが、それっぽく言っただけでは上手くいかないものだ、と御幸は自分に対して白けてしまった。
ところが、夏実にとってはそれこそ予想外の言葉だったようで、なぜか目を丸くしている。それから、気まずそうに下を向いた。心なしか、ほんのり顔が赤い気もする。
さっきのはにかんだときともまた違った照れている様子で、カワイイな、と御幸は小さく含み笑いした。
「……いいよ」
「え?」
何が?、と聞き返すように、夏実の顔を覗き込む。彼女が顔を上げ、再び目が合った。
「『付き合ってみない?』っていうの。いいよ」
ひゅっ、と瞬間息を大きく吸った。なんだか、呼吸の仕方を忘れていた気になる。
それからゆっくり、ゆっくりと息を吐いた。少し力が抜けた拍子に、左肩に掛けたバッグがずり落ちそうになる。うまく笑えていない気もするが、漏れた声のトーンは笑っていたように思う。
「よかった」
そう言うと、夏実が少し目を見開いたあと、「ふふ」と小さく笑った。何かおかしなことを言っただろうか。
「どうしたの」
すると、夏実が続ける。
「みゆきちゃん、すごくホッとしたって顔してたよ、今」
「カワイイなと思って」
「か、……いや……」
彼女から視線をそらす。先ほど夏実に対して思いついた同じ言葉を返されて、まさかこっちまで照れるとは、思ってもみない。頭をガシガシと掻く。
ああ、なんだか悔しくなって、夏実をじろっと見ると、まだ笑っていた。その油断しているところ──彼女の手に握られたそのホースを、御幸はパッと奪い取った。
「あっ!」
「……男にカワイイとか言わない!」
グッ、とハンドルを握り、絶妙に夏実への直撃を外しながらも、シャワーの霧がかかる位置に放射する。
「キャー! ハハハ!」
水しぶきを浴びながらも、夏実は子どものように大はしゃぎして、逃げるようにグラウンドの方へ走った。相変わらず綺麗な走り方だな、と妙に感心する。
「ちょっと、御幸ー!」
「お返しだよ!」
つられてこっちまで笑ってしまう。シャワーの霧に、西日のオレンジ色が反射して、キラキラと光っていた。向こうで、夏実がまぶしそうに目を細めた。
いつものグラウンドが、それだけで急に美しく見えてきて、御幸はしばらくその光景から、目が離せないでいた。
(文句なしのイケメンだし、野球に関しては自信家なところもあるのに、告白の返事に緊張してたらいじらしいなと思います。)
ポジション上、屈みがちの背中を反らすようにして、御幸はぐぐっ、と腰を伸ばした。
「おいおい、しっかりしてくれよー? "新キャプテン"」
「そういうのマジやり辛いからやめろって……」
ニヤニヤとした顔でからかってくる倉持を、苦々しく思って小突き返してやる。青道野球部・新体制1日目の練習を終え、体力以上に精神的に消耗したのを感じながら、御幸は副主将の倉持と青心寮へ戻る道中にいた。
途中、サッカー部と陸上部兼用のグラウンドの脇道を通る。インターハイが終わり、3年生が引退した部活も多いからか、いつもより後片付けをしている部員が少ないと感じた。
フットサル用の小さいサッカーゴールを片付けたり、幅跳び用の砂場をならしたりしている部員を何気なく眺め、ふと御幸が道の先に視線を戻すと、二人の女子生徒が立っていた。一人は道の端にある水栓からホースを繋いで、絡まらないように伸ばしている。
もう一人は、シャワーヘッドの付いたレバーを握りながら、砂塵が舞うのを防ぐためだろう、陸上トラックあたりに水を撒いていた。見覚えのある後ろ姿に、今朝の出来事が思い出された。ドキッ、と御幸の体が小さく動いた。
向こうを見ているのでこのまま気付かないだろうか、と御幸は戸惑ったが、水栓の近くにいたもう一人の女子が、そばを通った二人のほうを振り向いて、声を上げた。顔をよく見れば、御幸たちと同じクラスの女子だった。
「あ、野球部おつかれー」
「おー」
少し前を歩いていた倉持が、そんな御幸の動揺に気付くわけもなく、女子に返事をする。クラスメイト同士の、当然のやりとりだ。
そしてもちろん、そのやりとりが聞こえただろう、シャー、という水の音が止まったかと思うと、夏実が振り返った。
チームメイトと倉持を見とめすぐに、そばにいる御幸に気付いて視線をこちらに向けた。目が合う。再び、体が反応した。
夏実は特に変わった様子でもなく、ニコッといつものように笑った。……俺の場合、顔に出てなかったかな、と御幸はそんな夏実を見て、自分に呆れた。
「あ、みゆきちゃんだ。おつかれ」
なんだか悔しくなって、同じように愛想よく笑ってみたつもりで答える。
「うん、おつかれ」
「今日も暑かったねー、けど汗だくでも男前だ」
いつもの調子で、挨拶がわりにもてはやすようなことを言う、そう、夏実はいつもの調子だ。その証拠に、もう一人のクラスメイトである女子まで、「よっ、さすが青道屈指のイケメン」と乗っかりだした。
「もっちーもおつかれ」
「おう、橘。陸部も帰るとこか?」
「うん。もっちーも汗スゴい」
「ヒャハッ、監督にシゴかれたからな」
「片岡先生かー、めっちゃ怖そう」
「コンちゃん、現国ニガテだもんね」
「マジかよ」
「言ったなー?」
「あはは、ゴメンゴメン」
倉持が気負わずに女子と話してる光景なんて、実はなかなかレアだったりするよなあ。
先ほどの御幸と同じように、相手が誰であろうと気軽に話しかけては、いつのまにかお互いの空気が馴染んでいる夏実の様子を見て、つい感心してしまう。
「陸部の
「原ちゃん? 確かに原ちゃん、あんま怒んないけど、練習はめっちゃハードだよ」
「今日なんか、『夏実ー、今日集中してないぞー』ってニコニコ笑いながら、なっちゃんにだけシャトルラン1セット追加してたからね。原ちゃん、笑いながらえげつないこと言うから」
「鬼かよ!」
「いやあ、アレはあたしが悪いからしょうがないよ」
「けど、おかげで今日はヘトヘトだ」と、うなだれる夏実だったが、その苦笑いは不思議と親しみやすい表情だった。夏実と会話していた二人も、穏やかに笑って彼女を見ている。
しかしふいに、もう一人の陸上部の女子がこちらを振り向いて口を開いた。
「そういえば御幸、キャプテンになったんだってね」
「えっ、なんで知ってんの」
「陸部でそば走ったから見てたよー、声出ししてたじゃん。ね?」
「うん、見えてた」
女子が夏実に同意を求めると、うなずいて御幸のほうを見てくる。全然気付かなかった。うわ、なにそれ恥ずっ。
「なっちゃんもキャプテンになったんだよねー」
「えっ、そうなんだ?」
「ヒャハッ! 仲間いたな、御幸」
「まあ、男子のキャプテンは別にいるし、個人競技多いから、形だけみたいなモンだけど」
「いや、すげーじゃん。橘は慕われてるし、いいキャプテンになりそうだよな」
倉持がそう言うと、隣の御幸を親指で指しながら続ける。
「ウチの主将とちがって」
「はっは、うるせーよ」
「否定はしねーけど」と、肩をすくめると、夏実は少々きまりが悪そうにはにかんだ。
すると突然、手に持っていたシャワーのノズルをパッと上に向けた。御幸が何かと思った、次の瞬間。
「はいっ、暑そうな二人におすそわけー」
夏実が照れ隠しのつもりなのか、御幸と倉持の頭上に向かってシャワーを放出すると、冷たい霧のような水しぶきが降り注いでくる。
「うぉわっ!」
「つめてっ!」
「アハハ! でも部活後は頭からいきたくなるよね」
「いや、笑ってないで止めてよ!」
夏実に『コンちゃん』と呼ばれていた女子がそばで笑っているのを制する。だが正直、部活後は汗でびっしょりなのでそう変わらないし、冷たい水は心地よかった。
シャワーが止むと、倉持が片手で顔の水を払うようにして頭を振りながら笑った。
「ぷはっ、キクわー」
「うん、気持ちイイ」
サングラスについた雫を指で適当に拭ってうなずく。あとで洗わないとな。
犯人の夏実は笑顔で「水も滴るいいオトコ」と、相変わらずの調子で二人に対し親指を突き立てていた。突飛な行動をしても許されてしまうのも、彼女のスキルのようなものなんだろう。
「コンちゃん、あとはあたしが片しとくよ」
「オッケー、よろしく。みんなお疲れ」
「おう。おい、御幸」
夏実が一人だけになったのは、チャンスだと思った。御幸は左肩に掛けたエナメルバッグを持ち直して、こちらを呼び止める倉持に、軽く手を上げ返事をする。
「ああ……ちょっと、先行ってて」
「ん? おう」
こういうとき彼は何かを察するのが得意なのか、深入りしてこないのは助かる。倉持が先に寮へ戻っていくのを見届け、御幸はあらためて夏実のほうを見た。
彼女は水撒きを再開し、まだ乾いている砂地に向けてシャワーを放っていた。邪魔にならないよう、一人分の距離を空けて、そっと隣に並ぶ。
「
正面を向いたまま、つぶやくように夏実が言った。その言葉は、どう考えても今朝のことを言っていたし、御幸に対して言っていた。それがなぜだか少し、嬉しかった。
そういえば今の夏実は、朝の姿とはずいぶん印象が違って見える。なぜだろう。太陽の位置のせいだろうか、なんて詩的なことを考えた。
「……シャトルラン、」
「え?」
御幸の脈絡のない台詞に、夏実がチラリとこちらを横目に見てくる。
「シャトルラン、野球部でもたまにやるけどさ。俺もニガテだな」
「ああ」
陸上部の監督に叱られただけに苦い経験だったのか、夏実はごまかすように笑った。
「シャトルラン
「だよな」
持久力を試される、20mシャトルラン。特にあの片岡監督に見られながら、全員横一列に並べからの延々続く往復ダッシュは地獄絵図のようになる。思い出して失笑した。
「もしかして……俺のせい?」
御幸が聞くと、夏実が隣で首をかしげたのが気配でわかった。そちらに顔を向けて、彼女を見下ろし、続けた。
「シャトルラン増やされたのって」
今朝の出来事のせいで、集中できなかったのか? チームメイト曰く。
そう聞くと、夏実は困ったように、それでも笑いながら、ホースを持っていないほうの手で、首を
「んー……そう、かも、」
だが、そこまで言って夏実は、慌てて首にやった手を振って否定した。
「や、でも、やっぱ御幸のせいにするのはちょっと、」
「いやいや、それに関しては謝るわ」
「いやいや、ちょっと考えさせてって言ったのはあたしだし」
そんなふうに二人でまごついていると、互いになんだかおかしくなって、顔を見合わせて笑った。
今朝の時点では、先延ばしにされたことで御幸の思考が停止してしまっていたが、『考えさせて』と言った夏実の言葉どおり、彼女はきっと真剣に考えてくれたんだろう。たくさん悩んだんだろう。
そのこと自体が御幸にとって、価値のあることのように思えた。
「御幸」
こちらを向いた夏実が、名前を呼んだ。息を一つのんで、彼女を見る。真正面から目が合った。
「二つだけ、聞いていい?」
「なに」
一つでないところをみると、やはり彼女なりにいろいろ考えた結果だろう、と察した。聞かれそうなことは、大方予想できる。
「なんで、あたしと付き合いたいって思ったの?」
やっぱ一番はそこだよな──
内心、苦笑いする。自分だって、今朝まで告白する気はなかったくせに。ただ、その答えはある程度、あらかじめ用意していた。
「なっちゃんさ、みんなに優しいじゃん? 俺とちがって」
「そう?」
「さっき倉持も言ってたろ。『橘は慕われてるし』ってヤツ」
「アレってそういう意味なの?」
「同じかはわかんないけど、まあ似たような感じ」
誰とでも同じような立場で話せる、だから彼女の周りには自然と人が集まるし、笑顔が絶えない。計算じゃないのだ。
そんな、いつもみんなを平等に見ている彼女の目に、何か飛び抜けて輝いて見えるものなんて、あるのだろうか。たとえば、御幸にとっての"野球"のような、そんなかけがえのないものが。
「彼氏になったら、特別になれるかなって思ったから」
「トクベツ?」
「そう、"特別"」
その、いつでも好奇心に満ち溢れているような目が、あるいは自分に向くことも、あるのだろうか。
「うーん」
その言葉が何か引っかかるのか、よくわからないのか、夏実があまり納得していないことは表情で読み取れた。
「そういうとこ、前から気になってたから」
そうだ、知りたいのだ。橘夏実という人間を。
「もっと知りたいって思ったから。橘のこと」
言っているうちに、御幸の中で確信に変わった。彼女について、知りたい。こんなにも自分とかけ離れている気がしてならない、いったい彼女には、何が見えているのだろう。
「知りたい」
「そう」
御幸の言葉を、夏実が繰り返すようにつぶやくのを聞いて、うなずく。すると彼女は、先ほどよりも少し腑に落ちた様子で首を縦に振った。
「わかった」
「あともう一つは?」
正直、そちらのほうは予想できていない。ちょっぴり不安になってきて、御幸は彼女を急かすように問うた。
そしたら夏実は、なぜかそちらは言いにくそうに目をそらして、口をパクパクさせた。彼女にしてはめずらしく、歯切れの悪い感じだった。
「……あたしが彼女って人に知れたら、恥ずかしく思わない?」
「えぇ?」
あまりにも予想できなかった言葉に、思わず笑いながら言ってしまった。
「思わないよ、なんで」
そもそもそんなこと思っていたら、付き合ってくれなんて言わないだろう。そんなの今さらだ。
「背ぇ高いし」
「俺よりはちっちゃいでしょ」
ああ、そっちの意味か、と少し納得する。確かに彼女はボーイッシュな見た目ではあるかもしれないが、御幸にとっては外見なんて大した問題ではなかった。
「あんまり女のコっぽくないし」
「んなことねぇって」
そもそも、身長のことを気にしてる時点で女のコっぽいんだよなあ。
「なっちゃんっていっつもニコニコしてるし、そういうのが女のコらしいっていうか……俺は、イイと思うけど」
んー、なんか今のは流れ的にも必死っていうか、わざとらしかったか。ただ、お世辞じゃなくてホントのことだしなあ。
今さらな彼女の発言に、思わず反射的に答えたことで、めずらしく正直に伝えたつもりだが、それっぽく言っただけでは上手くいかないものだ、と御幸は自分に対して白けてしまった。
ところが、夏実にとってはそれこそ予想外の言葉だったようで、なぜか目を丸くしている。それから、気まずそうに下を向いた。心なしか、ほんのり顔が赤い気もする。
さっきのはにかんだときともまた違った照れている様子で、カワイイな、と御幸は小さく含み笑いした。
「……いいよ」
「え?」
何が?、と聞き返すように、夏実の顔を覗き込む。彼女が顔を上げ、再び目が合った。
「『付き合ってみない?』っていうの。いいよ」
ひゅっ、と瞬間息を大きく吸った。なんだか、呼吸の仕方を忘れていた気になる。
それからゆっくり、ゆっくりと息を吐いた。少し力が抜けた拍子に、左肩に掛けたバッグがずり落ちそうになる。うまく笑えていない気もするが、漏れた声のトーンは笑っていたように思う。
「よかった」
そう言うと、夏実が少し目を見開いたあと、「ふふ」と小さく笑った。何かおかしなことを言っただろうか。
「どうしたの」
すると、夏実が続ける。
「みゆきちゃん、すごくホッとしたって顔してたよ、今」
「カワイイなと思って」
「か、……いや……」
彼女から視線をそらす。先ほど夏実に対して思いついた同じ言葉を返されて、まさかこっちまで照れるとは、思ってもみない。頭をガシガシと掻く。
ああ、なんだか悔しくなって、夏実をじろっと見ると、まだ笑っていた。その油断しているところ──彼女の手に握られたそのホースを、御幸はパッと奪い取った。
「あっ!」
「……男にカワイイとか言わない!」
グッ、とハンドルを握り、絶妙に夏実への直撃を外しながらも、シャワーの霧がかかる位置に放射する。
「キャー! ハハハ!」
水しぶきを浴びながらも、夏実は子どものように大はしゃぎして、逃げるようにグラウンドの方へ走った。相変わらず綺麗な走り方だな、と妙に感心する。
「ちょっと、御幸ー!」
「お返しだよ!」
つられてこっちまで笑ってしまう。シャワーの霧に、西日のオレンジ色が反射して、キラキラと光っていた。向こうで、夏実がまぶしそうに目を細めた。
いつものグラウンドが、それだけで急に美しく見えてきて、御幸はしばらくその光景から、目が離せないでいた。
(文句なしのイケメンだし、野球に関しては自信家なところもあるのに、告白の返事に緊張してたらいじらしいなと思います。)
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