盛夏
名前変換
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──8月3日 早朝
「おはよう」
前に会ったときと同じ時間、同じ場所──寮のすぐ上の土手道で待っていると、向こうから綺麗なフォームで走ってくるジャージ姿のシルエットを見つけて、ほっとした。
俺が声をかけたら、そのコは思ったとおり、いつものパッと明るい笑顔を見せた。ココで俺が待ってたことに驚くとか、そんなそぶりは見せずに、いつもどおりの反応。それが俺の欲しいものだったんだろうし、なんとなく、"助かった"って気にさせる。
「おはよー、みゆきちゃん。朝から男前だね」
「ハハ、そりゃドーモ」
朝っぱらからそんな調子の言葉に肩をすくめてやると、橘は俺のそばまで駆け寄ってきて立ち止まり、息を整えた。
「みゆきちゃん」というのも、呼ばれ慣れたなと感じる。まあ、そんなふうに俺を呼ぶのは橘くらいだけど。
2年で同じクラスになって、初めての会話が確か、『"御幸"って、カワイイ苗字だね』だった気がする。橘はその名前をえらく気に入った様子で、それ以来「みゆきちゃん」なんてあだ名(?)をつけられた。
ただ不思議なのは、今までそうやって呼んでくるのは決まってからかってくる奴だけだし、最初は気になったけど、橘に呼ばれるとしっくりきてしまうというか……言い返す気にならなくて、すんなり受け入れちゃったんだよな。
橘の場合は、からかってるように聞こえないんだろうか。いや? なんでだろ。改めて考えるとやっぱ不思議だ。
「ワン!」
「ぅおっ、と」
「こーら、ユズ。御幸を困らせるんじゃない」
脚にまとわりついてきた、あったかいケモノの感触に一瞬びっくりしたあと、橘が手に持っていたリードを引っ張ったところで、苦笑いが漏れた。
目線を落とすと、オスの黒柴がかまってほしそうに、俺の膝を前足で叩いている。よほど橘との散歩が嬉しいのか、朝からずいぶんご機嫌だ。
「わるいわるい、忘れてた。おまえも、おはよう」
「アウ!」
「ユズ、って名前だったっけ」
「そうだよ。よかったねーユズ、御幸にかまってもらえて」
耳の後ろあたりを掻いてやると、ぶんぶん尻尾を振っている。犬のしっぽってこんな動くんだな。
「コイツ、ほんとなっちゃんのこと好きな」
「まあねー、毎朝こうして一緒に散歩してるし、家族では一番懐いてるかもね」
「昼間会えなくて、さみしがるんじゃない?」
「でも、お昼はお店の人たちもいるから。かまってもらってると思うよ」
そう言って、ぽんぽん、とユズの頭をなでる橘の手と、指先だけちょっと重なった。そしたらユズは、引っ込んだ橘の手を鼻先で追うようにする。人肌と触れ合った指を握りしめながら、俺はそれをぼうっと眺めていた。
犬ってのは素直だ。ちょっとは見習うべきかな、なんて──なに考えてんだか。
「野球部、朝練は?」
「大会終わって、2日間オフだったんだよ。練習今日からだから、今日は朝練ないんだ。だからゆっくりできる」
「なのに、朝早く起きたの?」
「まあ、毎朝この時間だし」
土手道をたどって、寮から一番近くのコンビニに向かう道──橘のランニングコースに合わせるように、二人と一匹で並んで歩く。真夏だってのに、空が白んできたくらいのこの時間じゃ、涼しくて気持ちいい。
「そういやあ、陸部って今年もインハイ行ったんだってな」
「うん。先週、3年の先輩たちがね。あたしたち後輩は、その応援」
「すげーじゃん。橘は? 秋の新人戦とかあるだろ?」
「そう! それに、年末は駅伝の大会だからね。全国目指してがんばる」
「いぇい」と、指でVサインをつくった、子どもみたいに誇らしげな表情がおかしくて笑える。
「でも、それで全国の会場行ってたから、陸部は野球部の応援行けなかったんだよねー」
ぴくっ、と。妙に反応してしまって、それに気付かれたかとつい気になって横目に見たら、橘の視線は、少し前を四つ足で歩くユズのほうへ向けられていた。
どうやらセーフ。こんなときに"引きずってる感"出しても、すげーみっともないし。
「みゆきちゃんともっちーの試合してるとこ、観たかったんだけどなあ」
「そう?」
「うん。クラスメイトだし、当然……、」
ただそこで、飼い犬に注がれていた視線が、横目に見ていた俺のそれと、バチッと合った。ずっと橘の横顔を見てたことがバレるのは、決まりが悪かった。……って、どの立場で言ってんだ俺。
「残念だったよね、野球部。お疲れさま」
笑顔で言った橘のその台詞には、嫌味がなかった。いや、実際に試合を観たわけではないからとか、そんな単純な理由じゃなくて。
なんだろう、大げさでなく、それこそ橘の持ってる、"天性"みたいなモンだと思った。狙ってできることじゃない。少なくとも、俺には絶対に無理だ。
「橘は野球部の試合、観たことねーの?」
「校内の練習試合なら、脇を陸部で走ってるときに、チラッと……でも、ちゃんと観たことないや」
「ふうん」
「野球部もまた、秋に大会あるんだよね? それ観に行きたいな」
「あるよ。しかも、勝ち進んだら修学旅行に行けないヤツ」
「えー! それはさみしい」
「だよなー。俺ら行かす気ねーんだよ」
あはは、とお互いの笑い声が重なったところで、会話が途切れた。それからもう一度、「ふふっ」と橘が肩を揺らして笑った。
"俺と話してるのが楽しい"、だって? 自惚れじゃなくて、橘の場合わかっちまう。裏表のない……つーか、相手が俺じゃなくても同じなんだろうけど。
だとしても、野球部の連中以外で、こんなふうに俺と話す同級生なんていない。ましてや女子だぜ? 同じクラスになってから数ヶ月、正直俺にとっては不思議でしょうがない。
「なあ、」
なんでお前には、それができてしまうんだ、って。いくら考えても、俺にはわからない。
橘が優しいから?──ちがう、正確には、
「俺さー」
「うん」
二人して目線は、少し先で揺れているユズの尻尾に向いていた。そうして歩きながら、橘はもったいぶる俺の次の言葉を待っていた。急かしても来ないから、逆にすとん、と言いたい言葉は、自分の手元に落ちてきた。
「好きみたいなんだよなー」
「なっちゃんのこと」
区切りながらそう言って、一息ついたあと、ふりふり動いてる黒いしっぽから視線を上げた俺は、橘を見た。気配で気付いたのか、橘もすぐに俺のほうを向いた。
ていうか、『好き
「橘のこと、好きなの」
そしたら橘は、"今さら何を言いだすんだ"って顔してるんだから、まあ俺も察するわけよ。ああ、伝わってないんじゃないか、ってな具合に。
開いた橘の口から出た台詞は、想像どおりのものだった。
「あたしも、御幸のこと好きだよ」
ああ、やっぱりなあ! 思わず頭抱えそうになったけど、苦笑いだけは抑えられなかった。橘みたいな性格なら、そういうの平気で言えるんだろうなとは思ってたし。
これはドでかいのを打たれる前に──本格的にフラグがぽっきり折られる前に、決めておかなくちゃならない。あぶなかったぞ今の。ファウルだけど下手すりゃホームランだって。
「そういう意味じゃなくてさ」
そこで立ち止まってみせると、橘は俺の一歩先で、振り返って
今なら決まる、ウエストボール──ストレートの速球、高めのつり球。
俺は、首をかしげた橘の顔と、反対の角度に自分の顔を傾けながら、その一歩分の距離を詰めて、触れるだけのキスをした。
ふに、って柔らかいもの同士があたって、押しつぶされてる感触。そのあと息をのんだ橘の喉から、こくん、と軽い音が鳴った。俺は薄目を開けて、その表情を盗み見るようにしていた。
眼鏡が思った以上に邪魔だけど、見開かれている橘の深い茶色の瞳に、俺の顔が映っていた。驚かれていることは手に取るようにわかった。五感が鋭くなる心地が、妙にリアルで生々しかった。
その反応を確認できただけで十分で、そしたらすぐに下がってまた一歩分の距離を置いた。ちょっぴり触れ合っただけ、本当に音もなく唇は離れた。
「
距離を置いても、相変わらず橘は、ぽかん、とした顔のままだった。"鳩が豆鉄砲を食らった顔"って、こういうのをいうんだろうなっていう。
俺は、いまだに目をぱちくりさせてる橘に対して続けた。
「橘、彼氏いないんだろ?」
そういうのは、クラスの連中とか橘のチームメイトとのやりとりを見ていれば、だいたいわかるモンだしさ。
「だから、俺と付き合ってみない?」
(あだ名の名前変換は、"ちゃん付け"を推奨しております。「○○ちゃん」といった感じで。)
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