鼓動
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「じゃあな、御幸」
「はい、ありがとうございました」
こちらに手を上げて、3年生の階へ戻っていく結城に、御幸は軽く頭を下げて見送った。渡辺のこと──前園と揉めたことで、前主将の結城に助言をもらってはみたものの、頼りになる先輩がいてくれるありがたさと同時に、自分のキャプテンとしてのふがいなさを再確認することになっただけだった。
おまけに鵜久森戦のあと、一番近くで見ていたはずなのに、降谷の異常にも気付いてやれなかった。……ここまで現実突きつけられると、さすがに自信なくすなあ。
「ハァー……」
自分のB組の教室へ向かいながら、御幸は大きくため息をついた。ふと、朝に試合内容を先輩たちへ報告していたら、『修学旅行いけなくなったか!』と言われた際の、何気ない言葉を思い出した。
『ここだけの話、同級生に彼女がいる奴はミゾができるぜ! 思い出共有できなくて』
うぅ、と内心うなだれる。思わぬところでその言葉が、トドメとでもいうように刺さった。もちろん、御幸にとっての夏実のことだ。正直、前々から懸念していたことではあった。
まあ、実際俺も行ったところで、前に教室で言ってたみたいに、橘は陸部のメンバーと一緒だったかもしれないし……俺だけのために時間を割くなんてこと──
そこまで思いついて、御幸はハッとした。
というか今までも、俺に言われて仕方なく橘が合わせてるんだとしたら、それは意味がないんじゃ……?
もし、彼氏と友人を天秤にかけたとき、彼女は自分を優先してくれるだろうか。彼女に選ばれるだけのことを、自分はしてやれているのだろうか。
所詮俺が持ってるのは、"彼氏"という肩 書 き だけ──そのことに気付いて、急にダラダラと冷や汗が出てきた。
「橘ー」
ピクッ、とその名前に反応してしまった。2年生の教室が並ぶ廊下を歩いていたら、C組の教室から顔を出した男子が彼女を呼んだ。
「3時間目の原ちゃんから伝言。今日の練習、先に始めといてくれってよー」
「りょーかい、ありがとー」
会話からして、陸上部の伝達なのはすぐにわかった。御幸が声をたどって目線を移すと、そこには廊下に一人で立ち、手を振っている夏実がいる。
教室の中へ戻るところだろうか、そう思って、声をかけようとした──けれど、さっき考えていたことが頭をよぎって、つい動きを止め、数秒迷っているうち。
「夏実ちゃん!」
再び、彼女の名前を呼ぶ声──今度は御幸も覚えのある声が背後から聞こえてきて、ドキッとした。
御幸がその体勢のまま動けないでいると、その声の主は思ったとおり、いま結城にその件で相談してきたばかりの人物──渡辺が、小走りで自分を追い越していったかと思うと、視線の先にいた夏実に駆け寄っているのが見えた。
「やっと見つけた」
「ナベちゃん。どしたん?」
「コレ。こないだ言ってたノート」
「えっ、いいの!?」
驚いた声を上げた夏実は、差し出されたノートと目の前の渡辺を、嬉しそうに交互に見つめる。そのはしゃぎようを前にして、渡辺は苦笑いしながら答えた。
「前払いでお昼奢られちゃったからなあ……夏実ちゃん、男子みたいな交渉の仕方するね」
「陸部は男子もいますから。そういうお礼のほうが、わかりやすくてイイでしょ?」
「まあ、僕としても気を遣わなくて済むから、ありがたいよ」
「そもそもゴハンだけで手を打ってくれるの、ナベちゃんが優しすぎるけどね」
それからノートを受け取って、渡辺を真っ直ぐ見つめながら、彼女は満面の笑みで言うのだ。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
そんな、本来ならほほ笑ましい光景を前にして、御幸は場違いにゾッとした──渡辺に対する遺憾……嫉妬、も、あったかもしれない。だがそれ以上に、虚しい気持ちになった──そのことに対して、自分自身が引いてしまったから。
「そういえば野球部、昨日勝ったんでしょ? おめでとう! でも、やっぱ修学旅行いけなくなっちゃったね」
「うん……まあね」
同じ野球部の同級生の悩み一つも、まともに解決できない。そんな彼をいとも容易く笑顔にできる彼女にも、付き合ってるくせに、大してそれらしくも振る舞えない。
彼らに自分は大きく関わっているはずなのに、実際は全く関与できていない気がしてならない。まるで及ばなかった。あまりの無力さに打ちひしがれた。
俺、あの二人にすら、何もしてやれてないんじゃないか──
「ナベちゃんたちとも行きたかったなあ。応援はしてるけど」
「そうだね、僕らも、気持ちは行きたかったよ」
「代わりに3年なったら、みんなで卒業旅行とか計画してみよっか!」
「気が早いなあ」
ニコニコと楽しそうな夏実の言葉に、渡辺が眉をハの字にして目を細めている。
こんな自分が、今さら二人に声をかけるなんて、きっとなんの足しにもならない。そもそも、声をかける内容すら、思いつかない。
そこで、廊下の地面へと視線を落とした御幸は、彼らを見て見ぬふりをしては重い足取りで、一人教室に入った。
「それはそうとナベちゃん、土日のあいだになんかイイことあった?」
「ん? どうして?」
「先週、ちょっぴり元気なさそうだったから」
「えっ……そんなふうに見えた?」
「あたしの気のせいかも?」
「いや……うん……ちょっと部活で、いろいろあって」
「だけど……昨日、謝ってくれたんだ。それが嬉しかったからかな」
「そっか。仲直りできたってことかな? よかったね」
「はは……ありがとう、夏実ちゃん」
「なんかお礼言われるようなことした?」
「そう……かな?」
「うん? ヘンなナベちゃん」
「ふふ」
「ねぇ、昨日の試合の話、聞かせて!」
「いいよ、もちろん」
──プルルルル、プルルルル、プルルルル
室内練習場の建物の陰に隠れるようにして、夜の暗闇の中で一人、携帯電話を耳に当てがう。電話の呼び出し音が、片耳から聞こえる。
──プルルルル、プルルルル、プルルルル
6回、と心の中でその音を数えていた。あと4回。キリがいいから、10回だけ鳴らしてみることにしようと思った。出なかったらもう、諦める。
──プルルルル、プルルルル、プルルルル
プルルル、と10回目を聞き終わる前に、耐え切れず、御幸は電話を切り、パタン、と画面を閉じた。
出なかった。別に、電話をかけることを伝えたわけでもない。相手の手元にケータイがないことだってあるだろう。
「何やってんだ俺……」
我に返って、ケータイを握り締めた手で額を押さえ、うなだれた。目元のスポーツサングラスが肌に食い込んで、少し痛い。
就寝前、素振りをする体 を装って、反対の手には金属バットを持ったまま、バッティンググローブまではめてきて。何がしたかったんだ。どうかしている。いい加減部屋に戻ろう、そう息をついたときだった。
──ブーン、ブーン
マナーモードにしていた携帯電話が、手の中で震えた。慌てて画面を開くと、そこに表示されていたのは、先ほど御幸が電話をかけた相手の名前だった。
ひとつ、息を飲んで、応答のボタンを押しながらも、なるべく平常心を装って、息を吐き切ってからもう一度、小さく吸う。「……もしもし?」
「もしもし、みゆきちゃん? ゴメン! すぐ出られなくて」
明るくて透き通った、爽やかさすら感じさせる声──いつも学校で聞いているはずなのに、電話だからだろうか、余計にそう感じた。まるで、サイダーのボトルを開けた瞬間のような、気持ちの良い響きだった。
「あ……なっちゃん?」
「はいはい、なっちゃんですよ」
そうして夏実がふざけた調子で返事するものだから、御幸も思わず笑ってしまった。「ははっ、なんだそれ」
「いま平気?」
「うん。どうしたの」
「いや、特に用があったわけじゃねーんだけど……何してるのかなって、思って」
本当のことだった。特に用はないのだ。昼休み、声をかけそびれたことが、今日一日ずっと、自分の中で心残りだっただけで。
ただ、思えば自分から女子に電話したのなんて、初めてだ。気付いて、なんだかかしこまってしまう。それを紛らわすように、バットを室内練習場の壁に立てかけて、自分もそこへ背中からもたれた。
「今? 今はお店のお手伝いしてた。厨房入ってたよ」
「えっ、てことは今日、バイト?」
「うん、そんなとこ」
「ポケットにケータイ入れてたから、電話にはすぐ気付いたんだけど……だから、すぐ出られなかったの、ゴメンね?」
「いや、こっちこそゴメン、仕事中なら邪魔じゃない?」
「大丈夫、今日は片付けとお皿洗いだけだし。今は休憩時間ってことにしてもらってるから」
タイミングが悪かったか、とそわそわしてしまう御幸をよそに、ケータイの向こうから聞こえてくる声は弾んでいた。
「御幸から電話かかってくるなんて、初めてだったから。嬉しくって、すぐかけ直しちゃった」
へへ、と子どもみたいに照れた笑い声を上げる夏実につられて笑う。そういうことを、やはりさらりと言えてしまうのが、もうさあ。
「ほら、そっち寮だから、あたしからは迷惑だと思って」
「迷惑なんて、そんな」
ただ、彼女のほうから電話をかけようと思ってくれたことはあるとその言葉でわかって、それだけで御幸にとっては十分だった。
「前に保健室で、電話とか嬉しいって、言ってたなと思って」
「うん。だから、すごく嬉しい」
「そっか……じゃあ、たまには俺から電話してもいい?」
「もちろん!」
夏実のどれも素直な答えたちに、こっちまで感化されてしまったのだろうか。顔を見ずにいられる電話のほうが、いつもよりちゃんと伝えられている気がするのは、気のせいじゃないなと、御幸は空いたほうの手でむず痒 くなってきた首筋をこっそり掻いた。
「野球部はこの時間、もう寝る前?」
「んーまあな。自主練してることもあるけど、昨日試合だったから、今日はもう上がり」
「お疲れさま」
「昨日の試合、すごかったんでしょ? みゆきちゃん、ホームラン打ったんだってね!」
「え、誰から聞いたの?」
「ナベちゃん!」
「ああ……」
昼間話してたから、そのときだろうか、とまた思い出してしまって、ちょっとだけ心がざわついた。「あたしも観たかったなあ」と言う夏実の言葉に、切り替えるように続ける。
「橘、秋大観に来られねーの? あ、でも陸部もうすぐ関東大会だっけ」
「うん。でも、決勝ならさすがに、全校応援みたいになるんじゃない? ブラバンのコも行くって言ってたし」
「あー部員の誰かがそんなこと言ってたかも」
「原ちゃん、その日練習休みにしてくんないかなー。どうせなら、陸部全員で応援行きたい」
「それはまた大所帯になりそうだな」
「迷惑かな?」
「まさか。応援来てくれるのは、部員みんな、すげー嬉しいと思う」
「みゆきちゃんも?」
「まあな」
本当は、今の自分にとっては、"夏実に観てもらえるかどうか"が、一番の問題なのだけれど。
「そっかあ」と笑う夏実がふと、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。
「なんかね、クラスで話しても、足りないってなるし……だからこうやって電話で話してるのに、やっぱり話してたら、なんか、『もっと』ってなるし……」
「贅沢だね」夏実が投げるボールというのは、やっぱり子どもみたいで、真っ直ぐで、こんなに簡単に捕ることができていいのかと、ときどき気後れするほどだ。
「早く明日になって、御幸に会って、もっと話したいなあ」
「……橘、」
俺は、──俺は、できることなら、"今"
……会いたい
「え?」
という、夏実の声が聞こえて、御幸はハッとした。まさか。無意識に声に出ていたなんて、そんなこと。
「いや! 何でもないっ、聞かなかったことにして」
慌ててそう言うと、しばらく沈黙が流れた。彼女の表情が見えないから、何を考えているのか全くわからない。御幸は焦る。
先に声を出したのは、夏実のほうだった。
「御幸、いま"青心寮"にいるよね?」
「えっ……う、うん」
なんの話だ、とそのままうなずいてしまったが、少しの間があって、彼女のブツブツとつぶやくような声がケータイから聞こえた。「いま……時だから……15分……」
「……いや、10分。10分で着くよ。走って行くから」
電話の向こうで、バタバタと慌ただしい音がする。遠くで、「夏実?」と誰かが彼女を呼ぶ声がした。
「10分後に、朝のいつもの場所に来て」
「え? ちょ、橘っ……!」
プツン、とそこで電話が切れた。ぽかん、と手の中のケータイを見つめて、御幸はあまり今の状況を理解できないでいたが、少しずつ夏実の言葉を思い出していた。『"青心寮"にいるよね?』『走って行くから』『朝のいつもの場所に来て』
「『朝のいつもの場所』……?」
『いつも』と言っても『朝』は2回しか会ったことはないが、その場所は一つだけだ。
御幸は携帯電話をポケットにしまうと、脇に置いていたバットを引っつかんで、寮の上の土手道へと走った。
「……ホントに来た」
御幸が金属バット片手に、先に土手道で待っていると、すっかり夜だというのに、数分後に遠くの暗がりから走ってくるシルエットが見えてきた。
そして、自分の前で止まった夏実に、少し間の抜けた声をかけると、彼女は膝に手をついて、肩で息をしながら呼吸の合間、区切りながら言った。
「ハァ、ハァ……そりゃ、来るよ……ハァ、」
夏実は、白いコックコートに黒いパンツという、まさに厨房の料理人のような恰好をしていて、なのに靴だけランニングシューズを履いていた。先ほど電話で言っていたとおり、家の手伝いをしていたところを、靴だけ履き替えてそのまま走ってきたのは、見ればわかった。
御幸は、目の前で膝に手をついて屈んでいる夏実を見下ろして、ただ呆然と立っていることしかできなかった。
「『会いたい』、なんて……あんな声で、っ、言われたら、……来ちゃうよ……」
ふ、と息を吐いては唾を飲み込み、顔を上げた夏実の表情は真剣なもので、どこか耽 ったような、のぼせたような顔つきでいた。初めて朝、この土手道で会ったときの雰囲気に似ていた。汗の滲 んだ額に、前髪が張り付いていた。
彼女が腕捲りした袖で、その顔を滴る汗を拭うのを、ぼうっと眺めてしまう。コックコートの開けられた第一ボタンの隙間から見える、くっきりと筋の入った首を濡らす汗が、街灯の白い明かりで反射して、てらてらと光っている。その生々しさに、釘付けになってしまった。
「……ははっ、男前」
「"どーも"」
「今のは、みゆきちゃんの真似」と笑って、夏実は息を整える。
それから、どうしたの、とでも言うように、御幸に向かって小首をかしげた。我に返って、ドキッ、と体が強張るのがわかった。
「あ、いや……」
じっ、とこちらを見つめてくる、いつもの彼女の真っ直ぐな目──そんな目で見ないでほしい──自分がなんだか情けなくなる。
彼女のそれは、呆れるほど真っ直ぐで、目をそらしたくもなって、御幸はつい地面へと自分の視線を落とした。夏実のランニングシューズが目に入る。使い込まれていても、手入れの行き届いている、そんな汚れ方をしていた。
「その……なんか、悪い」
「なにが?」
なにが? なにがって、そりゃあ……
こんな時間に、聞き分けのないガキみたいなこと言って……つーか、店の手伝いはいいのかよ。俺、迷惑かけてるよな。
そう頭には浮かんでも、口から出ることなんてなくて、なのに彼女はそれすら汲み取るように、言えてしまうのだ。
「あたしなら大丈夫だよ。ちゃんと親にも言ったし、タイムカード切って出てきたから」
「……それも、あるんだけど」
だいたい、彼氏らしいことなんて、なんもできてねぇくせに。倉持の言ってたとおりじゃねぇか。部活ですら、うまく立ち回れてやしないし……。
こんなことになってばっかだ。橘の負担になってばっかりで、俺、
俺、何もしてやれてない。
こんなことなら──そこで8月の、夏の日の朝を思い出した。夏実が不思議そうな声を上げた。
「御幸……?」
言うんじゃなかった。『好き』だとか、自分の気持ちもよくわかってないまま、中途半端に伝えるべきじゃ、なかったんだ。
付き合ってる意味、ないんじゃないか、なんて、ひどいことを考えた。だからって、この関係をなかったことになんて、俺には──橘は、
「御幸」
ジャリ、と音を鳴らし、視界の端のランニングシューズがこちらに歩み寄ってきて、自然と御幸は顔を上げた。
すると、目の前まで夏実が来ていることに気付いた瞬間──彼女は、御幸の首に両腕を回してきた。そのまま肩を包み込むようにして、抱きしめられる。
何が起こったのか一瞬わからなくて、状況を理解する前に、突然触れられたことで全身の毛がぞわ、と逆立ったような感覚がした。御幸はぎょっとして、動揺を隠すこともままならないで、おどけるように彼女を呼んだ。
「ちょっ……!? なっちゃん……っ、?」
「大丈夫だよ、御幸」
夏実のハッキリとした声。それが顔のすぐ左の、耳のそばで聞こえた。えっ、とそちらに目線をやっても、小さい耳と、後ろ頭しか見えなかった。口元に触れた、彼女の髪。
「大丈夫」
ふと、夏実の服から何かが香った。
……油 ? 粉っぽいのは、小麦。それから、何か焦げたような匂いがする。それは、台所の匂い──"生活"の、匂いだった。どこかほっとする。
「大丈夫だから」
大丈夫、と小さく、それでも芯の通った響く声で、夏実は何度も口にした。いったい彼女は今、どんな表情をしているんだろう。抱きしめられていては、わからなかった。
夏実はわかってるのか、わかってないのか、でも同情だとか、一時の慰めだなんてそんなふうには思えなくて、御幸はさっきの一瞬で激しくなった動悸を鎮めるように、ゆっくり呼吸するようにした。
「…………うん……」
上手く声が出ないのだけれど、気付けばなんとか喉を鳴らすように、うなずいていた。
あらためて実感する、10センチほどしか変わらない身長では、彼女が背伸びする必要もなくて、しっかりと、強く抱きしめられている。
先ほど強張った全身の力が、だんだんと抜けていくのが御幸にもわかって、やがてほどけた手からバットが滑り落ち、カランカラン、と金属が地面のアスファルトにかち合う音が、夜の舗道に響いた。かなり大きな音だったが、それでも彼女の抱擁が緩まることはなかった。
──いいのかな、と思いながら、それでも御幸は、そっ、と夏実の脇から背中にかけて、両腕を回してみた。彼女の両足の間に一歩、片足を入り込ませて、体同士をくっつけるようにする。
それは、想像していたよりずっと薄い体で、御幸の腕の長さでは、優に足りて持て余すほどだった。そして、服の布越しでもわかる、ふわふわとした、包み込まれるような肌の柔らかさ。
ああ、女のコの体だ、と。
真逆の筋肉質な自分の体が、本能的に反応して震えた。それが伝わるのが、なんだか気恥ずかしくて、震えを押さえつけるようにぎゅっ、と抱きしめる力を強くした。それに呼応して、彼女の腕の力も強くなったのがわかった。
あたたかい。熱を持った、彼女の体──ああ、俺のために、ここまで走ってきたからか、そうか。静かに納得する。
あたたかい──
御幸は目を閉じて、夏実の細い首筋に顔をうずめるようにした。サングラスが彼女の頭に当たって、少し浮き上がった。彼女の香りが強くなった。
胸の鼓動が、耳の奥で響く。
ドクン、ドクンと、波打っている。
「大丈夫だからね」
「……うん」
野球の試合で、チームメイトたちと抱き合って喜ぶのとは、全く違う。こんなふうに、誰かに優しく抱きしめられたことなんて、あっただろうか。記憶をたどっても、思い出せないほどだった。
そこで夏実は、背中に回してきた片手を上に伸ばして、御幸の襟足の髪をなでるようにした。それがまるで、小さい子どもを慰めるみたいにするものだからくすぐったくて、いつもなら冗談の一つでも言わなければ気が済まないのに、何もできなかった。
それどころか彼女の、あんまりあたたかくて優しい手つきに、別に悲しくもないのに、なんだか涙が出そうだった。じわ、とまた体が震えてきた。もう一度、夏実のことを強く抱きしめた。
──どれくらいそうしていたかわからない。十数秒だったかもしれない。数分経っていたかもしれない。
胸の鼓動が、心地良い、落ち着いたテンポに変わった頃、御幸は静かに正気になった。逆にまた、心音の間隔が速まった気がする。
ゆっくり、ゆっくりと力を抜いて、腕をほどくと、夏実も御幸から腕を離した。遠のいていく体温を、名残惜しく感じた。
下を向いたままの夏実の頭が、目の前にある。まだ少し、腕が触れ合っている。彼女が顔を上げた。目が合った。
「……ぁ、」
何か言おうとした、開いた口からかすれた声が漏れる。何を言ってもきまりが悪い。
それでも、やっぱり夏実は急かして来ようとはしないで、じっと御幸の言葉を待っていた。声を出すために、ちゃんと息を吸った。
「……ありがとう、もう平気」
「うん」
なんとなく、自分の顔が赤くなっている気がした。夏実からは暗くて見えないことを、祈るばかりだ。
それから、なっちゃんのこと言えねーな……なんてことを思った。ああ、恥ずかしすぎて、どうにかなりそうだ。とにかく話題、変えなきゃ、と何か言葉を発するようにした。
「えっと……その……ああ、そうだ、修学旅行」
「うん?」
脈絡のない台詞に、夏実は目を見開いた。また恥ずかしさがよぎる。離れがたくて彼女の腕に添えたままの手で、袖を擦 るようにした。
「おみやげはいらないから。楽しんできて」
「ふふ、うん」
夏実はほほ笑んで、すぐにうなずいた。
そうだ、と御幸はそこで思い出した。言ってみても、いいだろうか。今なら。
「……本当は、っ」
そこで一度、小さく怖気づいてしまった。『本当』のことを言うのは、こんなに難しいものだっけ。それをいとも簡単にできてしまう目の前の彼女は──続きを促すように眉を上げている──やっぱすげぇや、なんて思い知らされた。「こないだは、あんなこと言ったけど……」
「本当は……ちょっとは、行きたかった……橘とだったら」
振り絞ると、夏実が嬉しそうにした。彼女の表情を見て、ああ、言ってよかったと、ほっとした。
「うん。あたしも」
「代わりにいつか、二人でどっかお泊りとかして、遊びに行こうね」
『二人で』『お泊り』──その部分が妙に頭に残って一瞬、ほんの一瞬だけやましいことを考えてしまったのは仕方ないだろう、夏実が相手だからで、と誰に言い訳しているのか。それでも、普通の顔して答えたつもりだった。「そうだな」
「ねぇ」
今夜、これ以上恥ずかしいことなんてないと、御幸は半ば開き直って声をかけた。いつもより、スルスルと言葉が出てくる気がした。
「夏実、って呼んでいい?」
「え?」
唐突な問いに、夏実は面食らっていた。首をかしげながら、目をパチパチさせている。
「全然いいけど……なんでそんなこと改まって?」
「いや、それは……」
確かに、すでに何度か呼んだ記憶もある。それでも直接、確かめたかった。肩書きだけだなんて思いたくなかったが、意識していたかった……いや、ちがう。
意識し て ほ し い のだ。ずっと、そう思っていた。彼女に、もっと、俺を、
「だったら……俺のことも、名前で呼んで」
先ほどからわずかに触れていた手で、無意識に夏実の腕をぎゅっとつかんでいた。また目が合った。
街灯の白い光が、彼女の瞳の中で、夜の海に浮かぶ月のように揺れて輝いているのが見えた。ただの安っぽい蛍光灯の明かりのはずなのに、御幸にはそれが、手に取ってみたくなるほど綺麗に思えた。
「いいの?」
「うん」
夏実はそれを聞いて、御幸の目を見つめながら、ゆっくりとひとつ、まばたきをした。
「わかった。一也ね」
きゅん、とその響きに胸が高鳴る。
しまった、不覚だった。そういえば、学校で俺を下の名前で呼ぶ奴なんていないしな……と、自分で言ったくせについ目をそらしたが、夏実はけろっとしていた。
「でも、急には難しいかも」
「いいよ」
「あたし、みゆきちゃんって呼び方、気に入ってるから」
「そうだな。俺も呼ばれ慣れた」
彼女の冗談混じりの言葉に返すと、はは、とお互い笑い合った。胸のあたりがスーッと晴れ渡っていく気がした。そこへ、夜の風がさらさらと吹き込んでくる感覚。心地がいい。
「それじゃあ……また」
「うん。また明日ね」
「あっ、」
腕の中からスルリと抜けていく彼女の体。そのせいでふいに切なくなって、中途半端な声で彼女を引き止めてしまった。
帰ろうとした夏実が、振り向いて半身をこちらに見せたまま、「なに」と隙だらけなのを見て思う──あ。キスしたい。
……でも、俺から言ってしたんじゃ、意味がないんだよなあ、なんて、昼間気付いたことを思い出しては押し黙ってしまった。このあいだの保健室での出来事も、今となってはちょっぴり苦味さえ、ある。
すると突然、夏実は素早く、一歩でこちらに近付くと、ちょっとだけ背伸びをして、顔を寄せてきた。目を閉じる暇もなかった。
ちゅっ
軽やかで、弾むような、ずいぶんと可愛らしい音がした。一瞬のことだったから、御幸も思わず、確かめるように指先で、自分の唇に触れてしまう。夏実からしてきたのは、初めてだった。
「……学校では、しないんじゃなかった?」
「ココ、学校の敷地内じゃないよ」
確かに、そう、だけど。
呆けてしまった御幸をよそに、夏実は後ろ手を組んでこちらを覗き込むように笑っていた。ほんのり赤い頬で、ニッ、と歯を見せて目を細めているその表情は、どこか爽やかさすら感じられた。
「みゆきちゃんが、したそうな顔してたから」
……カッコいいな。
彼女に対して使うべきか一瞬迷ったが、一番に浮かんだ言葉はそれだった。カッコいい。言ったら困らせるだろうか。でも、やっぱ『カッコいい』なんだよなあ……。
「じゃなかった、一也だ」
「あー……俺、そんな顔してた?」
「カワイイ顔してた」
「だから……男にカワイイとか言わないの」
「性別とかは、関係ないんじゃない?」
「じゃあ、なっちゃんはイケメン」
「またそれ?」
そう言って夏実は、呆れたように肩を揺らした。いやでも、本当のことだしなあ。
「それじゃ、あたし帰るね」
「ああ。もう夜遅いし、気を付けてな」
「帰りも走るから大丈夫!」
「……いやそれ、なにも大丈夫じゃねーから」
走ればいいってもんじゃないし、とこんなときでものんきな彼女に、つい眉を下げる。タフだとかそういう前に、少しだけ心配になってきた。
「ホントに気を付けて。女のコなんだからさ」
「『女のコ』だって、ははっ」
「何もおかしなこと言ってないでしょ」
「ん、ちょっと嬉しかっただけ」
「さっきは『イケメン』とか言ってたのに」と、夏実は照れたように笑っている。
彼女は、いつか倉持が言っていたような"可愛い系"ではないのかもしれないが、自分のことを『女のコっぽくない』なんて言う割には、やっぱり笑顔やしぐさがカワイイと思う。そんなことないのにな。
「わるい、送ってあげることもできなくて」
「いいよ気にしないで。じゃあ、家着いたらメールする」
「うん。そうして」
「心配してくれて、ありがとう」
来た方向に体を向けた夏実が、手を振って笑ったのを見て、御幸も小さく手を振り返した。彼女と交わす夜の挨拶は、なんだか新鮮だった。
「おやすみなさい」
「うん……おやすみ」
うなずいて見送ると、言っていたとおり、夏実は行きと同じように走り出した。相変わらず、綺麗なフォームだ。よく笑うし、よく話す彼女だけれど、走っているときの姿が一番ら し い なと思う。
そんな夏実の姿が見えなくなるまで、御幸はじっとその背中を見つめていた。やがて目で追えない距離になって、ほう、と一息ついて、バットを拾い上げた。暗い中、足元に注意して階段を降りる。
「御幸?」
ドキッ。動きが止まって、バットを落としそうになった。
御幸がおそるおそる足元から顔を上げると、階段の下に、こちらを見上げている人影が目に入った。
「ナベ……」
どこから見られていた?
そんな懸念が、真っ先に頭に浮かんだ。渡辺のほうも、動揺しているように見えた。
「えっ、なんで、」
「いや、僕は監督に王谷のデータを渡しに行ったところで……こんな時間に誰かいたのが見えたから、来てみたら……」
話しぶりからして、今ここへ来たところだろうか。それでも、御幸の不安は的中した。
「いま走っていったの、夏実ちゃんじゃなかった?」
彼女が走り去った方向を見て、渡辺が首をかしげた。見覚えのある人間だったからなのだろう、気付くのも当然だった。
ごまかしようもないな、と御幸はあえて何も答えず視線をそらすと、渡辺が「あ、」と口を開けた。頭の良い彼のことだ。なぜ夏実がここにいたのか、すぐに察したのだろう。
「もしかして、その……」
「あ……隠してるわけじゃねーんだ、ただ、言わないってだけで……」
「ゴメン、知らなくて……」
そこで気まずそうにうつむいた渡辺は、何か思い出したように、ハッとしてもう一度御幸を見上げた。
「僕、知らずに夏実ちゃんに馴れ馴れしかったかも」
「ごめん」と、渡辺は申し訳なさそうな顔で言う。御幸は、慌てて首を横に振った。
「い、いやいや! 知らなかったんだし」
つか、謝られると逆にヘコむ……俺の心の狭さに。
誠実な渡辺を前に、内心タジタジになりながら、御幸は頭を掻いて階段を降り、彼の隣に並んだ。
「あー……なんか、ヘンなとこ見られちゃったな……示しがつかないっていうか」
キャプテンだというのにこんな体たらく、と思われては、きっとよろしくない。おまけにハプニングとはいえ、年頃の女子高生を夜中に一人外へ出すのはどう考えたって駄目だろう。
御幸は、隣の渡辺の顔色をうかがった。ところが彼は、存外優しいまなざしで、静かにほほ笑んでいた。
昨日の試合中、スタンドに向かって目を合わせて謝ったときの光景が浮かぶ。それでも、申し訳ないのはこちらのほうだ。
「別に、そんなことないよ」
「いや……ごめん」
あ の と き のことも、と。今夜は自分でも驚くほど、自然と口をついて出た。
そういえば、あのとき相談してくれた彼を突き放すようなことを言ってしまったのも、この場所だったな、と思い出した。
すると渡辺は、先ほどよりも少し晴れやかな表情になって、「ううん」とかぶりを振った。
「むしろ僕は……ちょっとほっとした、かな」
「え?」
「あのとき、『人種が違う』なんて言い方しちゃったけど……」
渡辺は、口元に手をやって困ったような、ちょっと呆れたような、そんな笑顔で言った。
「御幸もそういう、なんていうか……同い年の高校生なんだなって」
「えぇ? 当たり前じゃん」
「うん、そうなんだけどね」
当たり前のことしか言われていないが、渡辺の言いたいこともなんとなくわかる気がした。
……俺、そんなにナベや他の奴らに距離置かれてんのかな……やっぱゾノや倉持みたいには、できそうにねぇなあ。
「安心して。言いふらしたりはしないから」
「ナベがそんなことするなんて思ってねーよ……なんだったら見つかったのがナベでよかったわ」
御幸がうなだれると、渡辺が笑って、ふと口元にやった手であごを支えるようなしぐさをして見せた。
「でもそっか……御幸と夏実ちゃんがね」
「ふうん?」と不敵な笑みを浮かべ、こちらに視線を送ってくる。その視線に捕まったような気になって、御幸は一瞬固まった。
「な、なに」
「いや? 先週なんか教室で、ヘンなカンジだなとは思ってたんだよ。それが今、腑に落ちた」
「あ、そう……」
「そういえば今日、夏実ちゃんにやたらと御幸のこと聞かれたんだけど、アレもそういうことだったのかなあ」
昼休みのことだろうか。さっき電話でそんなこと言ってた気もするな。彼女のその行動は、嬉しいものだった。
「御幸、あ あ い う コが好きなんだね」
なんか、倉持にも似たようなこと言われたっけか。御幸は、かつての彼の様子を思い出して、渡辺に聞いてみた。
「……意外?」
「ううん、そんなことないよ。夏実ちゃん、優しいしね」
「それはホントそう思う……イケメンだし」
「あはは、なにそれ」
「いやマジだって。俺、男だけど負けそうだもん」
だって夜中に走って会いに来てくれるんだぜ? カッコよすぎるでしょ。
至って真面目にそう言った御幸に対して、渡辺は呆れた笑い声を上げながらも、最後には同意した。「ああでも、ちょっとわかる気もする」
「だけど君 、好きなコいじめそうだからなあ。嫌われないようにね?」
「な、なにその具体的なアドバイス」
「鋭すぎて逆に怖いわ」と、その言葉には御幸も形無しだった。渡辺がまた笑った。
ポケットに手を入れると、ケータイの感触がある。部屋に戻ったら、夏実が無事家に着いたかを確認することにしよう、と御幸は息を吐いた。
見上げればすっかり更けて、夜空は暗く落ちていきそうなほどなのに、御幸の心は昼間なんかより、ずっとずっと軽くなっていた。
《夜空のページを開けば 特別なものなどいらないよ》『Hea/rt B/eat/s』e/mon
「はい、ありがとうございました」
こちらに手を上げて、3年生の階へ戻っていく結城に、御幸は軽く頭を下げて見送った。渡辺のこと──前園と揉めたことで、前主将の結城に助言をもらってはみたものの、頼りになる先輩がいてくれるありがたさと同時に、自分のキャプテンとしてのふがいなさを再確認することになっただけだった。
おまけに鵜久森戦のあと、一番近くで見ていたはずなのに、降谷の異常にも気付いてやれなかった。……ここまで現実突きつけられると、さすがに自信なくすなあ。
「ハァー……」
自分のB組の教室へ向かいながら、御幸は大きくため息をついた。ふと、朝に試合内容を先輩たちへ報告していたら、『修学旅行いけなくなったか!』と言われた際の、何気ない言葉を思い出した。
『ここだけの話、同級生に彼女がいる奴はミゾができるぜ! 思い出共有できなくて』
うぅ、と内心うなだれる。思わぬところでその言葉が、トドメとでもいうように刺さった。もちろん、御幸にとっての夏実のことだ。正直、前々から懸念していたことではあった。
まあ、実際俺も行ったところで、前に教室で言ってたみたいに、橘は陸部のメンバーと一緒だったかもしれないし……俺だけのために時間を割くなんてこと──
そこまで思いついて、御幸はハッとした。
というか今までも、俺に言われて仕方なく橘が合わせてるんだとしたら、それは意味がないんじゃ……?
もし、彼氏と友人を天秤にかけたとき、彼女は自分を優先してくれるだろうか。彼女に選ばれるだけのことを、自分はしてやれているのだろうか。
所詮俺が持ってるのは、"彼氏"という
「橘ー」
ピクッ、とその名前に反応してしまった。2年生の教室が並ぶ廊下を歩いていたら、C組の教室から顔を出した男子が彼女を呼んだ。
「3時間目の原ちゃんから伝言。今日の練習、先に始めといてくれってよー」
「りょーかい、ありがとー」
会話からして、陸上部の伝達なのはすぐにわかった。御幸が声をたどって目線を移すと、そこには廊下に一人で立ち、手を振っている夏実がいる。
教室の中へ戻るところだろうか、そう思って、声をかけようとした──けれど、さっき考えていたことが頭をよぎって、つい動きを止め、数秒迷っているうち。
「夏実ちゃん!」
再び、彼女の名前を呼ぶ声──今度は御幸も覚えのある声が背後から聞こえてきて、ドキッとした。
御幸がその体勢のまま動けないでいると、その声の主は思ったとおり、いま結城にその件で相談してきたばかりの人物──渡辺が、小走りで自分を追い越していったかと思うと、視線の先にいた夏実に駆け寄っているのが見えた。
「やっと見つけた」
「ナベちゃん。どしたん?」
「コレ。こないだ言ってたノート」
「えっ、いいの!?」
驚いた声を上げた夏実は、差し出されたノートと目の前の渡辺を、嬉しそうに交互に見つめる。そのはしゃぎようを前にして、渡辺は苦笑いしながら答えた。
「前払いでお昼奢られちゃったからなあ……夏実ちゃん、男子みたいな交渉の仕方するね」
「陸部は男子もいますから。そういうお礼のほうが、わかりやすくてイイでしょ?」
「まあ、僕としても気を遣わなくて済むから、ありがたいよ」
「そもそもゴハンだけで手を打ってくれるの、ナベちゃんが優しすぎるけどね」
それからノートを受け取って、渡辺を真っ直ぐ見つめながら、彼女は満面の笑みで言うのだ。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
そんな、本来ならほほ笑ましい光景を前にして、御幸は場違いにゾッとした──渡辺に対する遺憾……嫉妬、も、あったかもしれない。だがそれ以上に、虚しい気持ちになった──そのことに対して、自分自身が引いてしまったから。
「そういえば野球部、昨日勝ったんでしょ? おめでとう! でも、やっぱ修学旅行いけなくなっちゃったね」
「うん……まあね」
同じ野球部の同級生の悩み一つも、まともに解決できない。そんな彼をいとも容易く笑顔にできる彼女にも、付き合ってるくせに、大してそれらしくも振る舞えない。
彼らに自分は大きく関わっているはずなのに、実際は全く関与できていない気がしてならない。まるで及ばなかった。あまりの無力さに打ちひしがれた。
俺、あの二人にすら、何もしてやれてないんじゃないか──
「ナベちゃんたちとも行きたかったなあ。応援はしてるけど」
「そうだね、僕らも、気持ちは行きたかったよ」
「代わりに3年なったら、みんなで卒業旅行とか計画してみよっか!」
「気が早いなあ」
ニコニコと楽しそうな夏実の言葉に、渡辺が眉をハの字にして目を細めている。
こんな自分が、今さら二人に声をかけるなんて、きっとなんの足しにもならない。そもそも、声をかける内容すら、思いつかない。
そこで、廊下の地面へと視線を落とした御幸は、彼らを見て見ぬふりをしては重い足取りで、一人教室に入った。
「それはそうとナベちゃん、土日のあいだになんかイイことあった?」
「ん? どうして?」
「先週、ちょっぴり元気なさそうだったから」
「えっ……そんなふうに見えた?」
「あたしの気のせいかも?」
「いや……うん……ちょっと部活で、いろいろあって」
「だけど……昨日、謝ってくれたんだ。それが嬉しかったからかな」
「そっか。仲直りできたってことかな? よかったね」
「はは……ありがとう、夏実ちゃん」
「なんかお礼言われるようなことした?」
「そう……かな?」
「うん? ヘンなナベちゃん」
「ふふ」
「ねぇ、昨日の試合の話、聞かせて!」
「いいよ、もちろん」
──プルルルル、プルルルル、プルルルル
室内練習場の建物の陰に隠れるようにして、夜の暗闇の中で一人、携帯電話を耳に当てがう。電話の呼び出し音が、片耳から聞こえる。
──プルルルル、プルルルル、プルルルル
6回、と心の中でその音を数えていた。あと4回。キリがいいから、10回だけ鳴らしてみることにしようと思った。出なかったらもう、諦める。
──プルルルル、プルルルル、プルルルル
プルルル、と10回目を聞き終わる前に、耐え切れず、御幸は電話を切り、パタン、と画面を閉じた。
出なかった。別に、電話をかけることを伝えたわけでもない。相手の手元にケータイがないことだってあるだろう。
「何やってんだ俺……」
我に返って、ケータイを握り締めた手で額を押さえ、うなだれた。目元のスポーツサングラスが肌に食い込んで、少し痛い。
就寝前、素振りをする
──ブーン、ブーン
マナーモードにしていた携帯電話が、手の中で震えた。慌てて画面を開くと、そこに表示されていたのは、先ほど御幸が電話をかけた相手の名前だった。
ひとつ、息を飲んで、応答のボタンを押しながらも、なるべく平常心を装って、息を吐き切ってからもう一度、小さく吸う。「……もしもし?」
「もしもし、みゆきちゃん? ゴメン! すぐ出られなくて」
明るくて透き通った、爽やかさすら感じさせる声──いつも学校で聞いているはずなのに、電話だからだろうか、余計にそう感じた。まるで、サイダーのボトルを開けた瞬間のような、気持ちの良い響きだった。
「あ……なっちゃん?」
「はいはい、なっちゃんですよ」
そうして夏実がふざけた調子で返事するものだから、御幸も思わず笑ってしまった。「ははっ、なんだそれ」
「いま平気?」
「うん。どうしたの」
「いや、特に用があったわけじゃねーんだけど……何してるのかなって、思って」
本当のことだった。特に用はないのだ。昼休み、声をかけそびれたことが、今日一日ずっと、自分の中で心残りだっただけで。
ただ、思えば自分から女子に電話したのなんて、初めてだ。気付いて、なんだかかしこまってしまう。それを紛らわすように、バットを室内練習場の壁に立てかけて、自分もそこへ背中からもたれた。
「今? 今はお店のお手伝いしてた。厨房入ってたよ」
「えっ、てことは今日、バイト?」
「うん、そんなとこ」
「ポケットにケータイ入れてたから、電話にはすぐ気付いたんだけど……だから、すぐ出られなかったの、ゴメンね?」
「いや、こっちこそゴメン、仕事中なら邪魔じゃない?」
「大丈夫、今日は片付けとお皿洗いだけだし。今は休憩時間ってことにしてもらってるから」
タイミングが悪かったか、とそわそわしてしまう御幸をよそに、ケータイの向こうから聞こえてくる声は弾んでいた。
「御幸から電話かかってくるなんて、初めてだったから。嬉しくって、すぐかけ直しちゃった」
へへ、と子どもみたいに照れた笑い声を上げる夏実につられて笑う。そういうことを、やはりさらりと言えてしまうのが、もうさあ。
「ほら、そっち寮だから、あたしからは迷惑だと思って」
「迷惑なんて、そんな」
ただ、彼女のほうから電話をかけようと思ってくれたことはあるとその言葉でわかって、それだけで御幸にとっては十分だった。
「前に保健室で、電話とか嬉しいって、言ってたなと思って」
「うん。だから、すごく嬉しい」
「そっか……じゃあ、たまには俺から電話してもいい?」
「もちろん!」
夏実のどれも素直な答えたちに、こっちまで感化されてしまったのだろうか。顔を見ずにいられる電話のほうが、いつもよりちゃんと伝えられている気がするのは、気のせいじゃないなと、御幸は空いたほうの手でむず
「野球部はこの時間、もう寝る前?」
「んーまあな。自主練してることもあるけど、昨日試合だったから、今日はもう上がり」
「お疲れさま」
「昨日の試合、すごかったんでしょ? みゆきちゃん、ホームラン打ったんだってね!」
「え、誰から聞いたの?」
「ナベちゃん!」
「ああ……」
昼間話してたから、そのときだろうか、とまた思い出してしまって、ちょっとだけ心がざわついた。「あたしも観たかったなあ」と言う夏実の言葉に、切り替えるように続ける。
「橘、秋大観に来られねーの? あ、でも陸部もうすぐ関東大会だっけ」
「うん。でも、決勝ならさすがに、全校応援みたいになるんじゃない? ブラバンのコも行くって言ってたし」
「あー部員の誰かがそんなこと言ってたかも」
「原ちゃん、その日練習休みにしてくんないかなー。どうせなら、陸部全員で応援行きたい」
「それはまた大所帯になりそうだな」
「迷惑かな?」
「まさか。応援来てくれるのは、部員みんな、すげー嬉しいと思う」
「みゆきちゃんも?」
「まあな」
本当は、今の自分にとっては、"夏実に観てもらえるかどうか"が、一番の問題なのだけれど。
「そっかあ」と笑う夏実がふと、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。
「なんかね、クラスで話しても、足りないってなるし……だからこうやって電話で話してるのに、やっぱり話してたら、なんか、『もっと』ってなるし……」
「贅沢だね」夏実が投げるボールというのは、やっぱり子どもみたいで、真っ直ぐで、こんなに簡単に捕ることができていいのかと、ときどき気後れするほどだ。
「早く明日になって、御幸に会って、もっと話したいなあ」
「……橘、」
俺は、──俺は、できることなら、"今"
……会いたい
「え?」
という、夏実の声が聞こえて、御幸はハッとした。まさか。無意識に声に出ていたなんて、そんなこと。
「いや! 何でもないっ、聞かなかったことにして」
慌ててそう言うと、しばらく沈黙が流れた。彼女の表情が見えないから、何を考えているのか全くわからない。御幸は焦る。
先に声を出したのは、夏実のほうだった。
「御幸、いま"青心寮"にいるよね?」
「えっ……う、うん」
なんの話だ、とそのままうなずいてしまったが、少しの間があって、彼女のブツブツとつぶやくような声がケータイから聞こえた。「いま……時だから……15分……」
「……いや、10分。10分で着くよ。走って行くから」
電話の向こうで、バタバタと慌ただしい音がする。遠くで、「夏実?」と誰かが彼女を呼ぶ声がした。
「10分後に、朝のいつもの場所に来て」
「え? ちょ、橘っ……!」
プツン、とそこで電話が切れた。ぽかん、と手の中のケータイを見つめて、御幸はあまり今の状況を理解できないでいたが、少しずつ夏実の言葉を思い出していた。『"青心寮"にいるよね?』『走って行くから』『朝のいつもの場所に来て』
「『朝のいつもの場所』……?」
『いつも』と言っても『朝』は2回しか会ったことはないが、その場所は一つだけだ。
御幸は携帯電話をポケットにしまうと、脇に置いていたバットを引っつかんで、寮の上の土手道へと走った。
「……ホントに来た」
御幸が金属バット片手に、先に土手道で待っていると、すっかり夜だというのに、数分後に遠くの暗がりから走ってくるシルエットが見えてきた。
そして、自分の前で止まった夏実に、少し間の抜けた声をかけると、彼女は膝に手をついて、肩で息をしながら呼吸の合間、区切りながら言った。
「ハァ、ハァ……そりゃ、来るよ……ハァ、」
夏実は、白いコックコートに黒いパンツという、まさに厨房の料理人のような恰好をしていて、なのに靴だけランニングシューズを履いていた。先ほど電話で言っていたとおり、家の手伝いをしていたところを、靴だけ履き替えてそのまま走ってきたのは、見ればわかった。
御幸は、目の前で膝に手をついて屈んでいる夏実を見下ろして、ただ呆然と立っていることしかできなかった。
「『会いたい』、なんて……あんな声で、っ、言われたら、……来ちゃうよ……」
ふ、と息を吐いては唾を飲み込み、顔を上げた夏実の表情は真剣なもので、どこか
彼女が腕捲りした袖で、その顔を滴る汗を拭うのを、ぼうっと眺めてしまう。コックコートの開けられた第一ボタンの隙間から見える、くっきりと筋の入った首を濡らす汗が、街灯の白い明かりで反射して、てらてらと光っている。その生々しさに、釘付けになってしまった。
「……ははっ、男前」
「"どーも"」
「今のは、みゆきちゃんの真似」と笑って、夏実は息を整える。
それから、どうしたの、とでも言うように、御幸に向かって小首をかしげた。我に返って、ドキッ、と体が強張るのがわかった。
「あ、いや……」
じっ、とこちらを見つめてくる、いつもの彼女の真っ直ぐな目──そんな目で見ないでほしい──自分がなんだか情けなくなる。
彼女のそれは、呆れるほど真っ直ぐで、目をそらしたくもなって、御幸はつい地面へと自分の視線を落とした。夏実のランニングシューズが目に入る。使い込まれていても、手入れの行き届いている、そんな汚れ方をしていた。
「その……なんか、悪い」
「なにが?」
なにが? なにがって、そりゃあ……
こんな時間に、聞き分けのないガキみたいなこと言って……つーか、店の手伝いはいいのかよ。俺、迷惑かけてるよな。
そう頭には浮かんでも、口から出ることなんてなくて、なのに彼女はそれすら汲み取るように、言えてしまうのだ。
「あたしなら大丈夫だよ。ちゃんと親にも言ったし、タイムカード切って出てきたから」
「……それも、あるんだけど」
だいたい、彼氏らしいことなんて、なんもできてねぇくせに。倉持の言ってたとおりじゃねぇか。部活ですら、うまく立ち回れてやしないし……。
こんなことになってばっかだ。橘の負担になってばっかりで、俺、
俺、何もしてやれてない。
こんなことなら──そこで8月の、夏の日の朝を思い出した。夏実が不思議そうな声を上げた。
「御幸……?」
言うんじゃなかった。『好き』だとか、自分の気持ちもよくわかってないまま、中途半端に伝えるべきじゃ、なかったんだ。
付き合ってる意味、ないんじゃないか、なんて、ひどいことを考えた。だからって、この関係をなかったことになんて、俺には──橘は、
「御幸」
ジャリ、と音を鳴らし、視界の端のランニングシューズがこちらに歩み寄ってきて、自然と御幸は顔を上げた。
すると、目の前まで夏実が来ていることに気付いた瞬間──彼女は、御幸の首に両腕を回してきた。そのまま肩を包み込むようにして、抱きしめられる。
何が起こったのか一瞬わからなくて、状況を理解する前に、突然触れられたことで全身の毛がぞわ、と逆立ったような感覚がした。御幸はぎょっとして、動揺を隠すこともままならないで、おどけるように彼女を呼んだ。
「ちょっ……!? なっちゃん……っ、?」
「大丈夫だよ、御幸」
夏実のハッキリとした声。それが顔のすぐ左の、耳のそばで聞こえた。えっ、とそちらに目線をやっても、小さい耳と、後ろ頭しか見えなかった。口元に触れた、彼女の髪。
「大丈夫」
ふと、夏実の服から何かが香った。
……
「大丈夫だから」
大丈夫、と小さく、それでも芯の通った響く声で、夏実は何度も口にした。いったい彼女は今、どんな表情をしているんだろう。抱きしめられていては、わからなかった。
夏実はわかってるのか、わかってないのか、でも同情だとか、一時の慰めだなんてそんなふうには思えなくて、御幸はさっきの一瞬で激しくなった動悸を鎮めるように、ゆっくり呼吸するようにした。
「…………うん……」
上手く声が出ないのだけれど、気付けばなんとか喉を鳴らすように、うなずいていた。
あらためて実感する、10センチほどしか変わらない身長では、彼女が背伸びする必要もなくて、しっかりと、強く抱きしめられている。
先ほど強張った全身の力が、だんだんと抜けていくのが御幸にもわかって、やがてほどけた手からバットが滑り落ち、カランカラン、と金属が地面のアスファルトにかち合う音が、夜の舗道に響いた。かなり大きな音だったが、それでも彼女の抱擁が緩まることはなかった。
──いいのかな、と思いながら、それでも御幸は、そっ、と夏実の脇から背中にかけて、両腕を回してみた。彼女の両足の間に一歩、片足を入り込ませて、体同士をくっつけるようにする。
それは、想像していたよりずっと薄い体で、御幸の腕の長さでは、優に足りて持て余すほどだった。そして、服の布越しでもわかる、ふわふわとした、包み込まれるような肌の柔らかさ。
ああ、女のコの体だ、と。
真逆の筋肉質な自分の体が、本能的に反応して震えた。それが伝わるのが、なんだか気恥ずかしくて、震えを押さえつけるようにぎゅっ、と抱きしめる力を強くした。それに呼応して、彼女の腕の力も強くなったのがわかった。
あたたかい。熱を持った、彼女の体──ああ、俺のために、ここまで走ってきたからか、そうか。静かに納得する。
あたたかい──
御幸は目を閉じて、夏実の細い首筋に顔をうずめるようにした。サングラスが彼女の頭に当たって、少し浮き上がった。彼女の香りが強くなった。
胸の鼓動が、耳の奥で響く。
ドクン、ドクンと、波打っている。
「大丈夫だからね」
「……うん」
野球の試合で、チームメイトたちと抱き合って喜ぶのとは、全く違う。こんなふうに、誰かに優しく抱きしめられたことなんて、あっただろうか。記憶をたどっても、思い出せないほどだった。
そこで夏実は、背中に回してきた片手を上に伸ばして、御幸の襟足の髪をなでるようにした。それがまるで、小さい子どもを慰めるみたいにするものだからくすぐったくて、いつもなら冗談の一つでも言わなければ気が済まないのに、何もできなかった。
それどころか彼女の、あんまりあたたかくて優しい手つきに、別に悲しくもないのに、なんだか涙が出そうだった。じわ、とまた体が震えてきた。もう一度、夏実のことを強く抱きしめた。
──どれくらいそうしていたかわからない。十数秒だったかもしれない。数分経っていたかもしれない。
胸の鼓動が、心地良い、落ち着いたテンポに変わった頃、御幸は静かに正気になった。逆にまた、心音の間隔が速まった気がする。
ゆっくり、ゆっくりと力を抜いて、腕をほどくと、夏実も御幸から腕を離した。遠のいていく体温を、名残惜しく感じた。
下を向いたままの夏実の頭が、目の前にある。まだ少し、腕が触れ合っている。彼女が顔を上げた。目が合った。
「……ぁ、」
何か言おうとした、開いた口からかすれた声が漏れる。何を言ってもきまりが悪い。
それでも、やっぱり夏実は急かして来ようとはしないで、じっと御幸の言葉を待っていた。声を出すために、ちゃんと息を吸った。
「……ありがとう、もう平気」
「うん」
なんとなく、自分の顔が赤くなっている気がした。夏実からは暗くて見えないことを、祈るばかりだ。
それから、なっちゃんのこと言えねーな……なんてことを思った。ああ、恥ずかしすぎて、どうにかなりそうだ。とにかく話題、変えなきゃ、と何か言葉を発するようにした。
「えっと……その……ああ、そうだ、修学旅行」
「うん?」
脈絡のない台詞に、夏実は目を見開いた。また恥ずかしさがよぎる。離れがたくて彼女の腕に添えたままの手で、袖を
「おみやげはいらないから。楽しんできて」
「ふふ、うん」
夏実はほほ笑んで、すぐにうなずいた。
そうだ、と御幸はそこで思い出した。言ってみても、いいだろうか。今なら。
「……本当は、っ」
そこで一度、小さく怖気づいてしまった。『本当』のことを言うのは、こんなに難しいものだっけ。それをいとも簡単にできてしまう目の前の彼女は──続きを促すように眉を上げている──やっぱすげぇや、なんて思い知らされた。「こないだは、あんなこと言ったけど……」
「本当は……ちょっとは、行きたかった……橘とだったら」
振り絞ると、夏実が嬉しそうにした。彼女の表情を見て、ああ、言ってよかったと、ほっとした。
「うん。あたしも」
「代わりにいつか、二人でどっかお泊りとかして、遊びに行こうね」
『二人で』『お泊り』──その部分が妙に頭に残って一瞬、ほんの一瞬だけやましいことを考えてしまったのは仕方ないだろう、夏実が相手だからで、と誰に言い訳しているのか。それでも、普通の顔して答えたつもりだった。「そうだな」
「ねぇ」
今夜、これ以上恥ずかしいことなんてないと、御幸は半ば開き直って声をかけた。いつもより、スルスルと言葉が出てくる気がした。
「夏実、って呼んでいい?」
「え?」
唐突な問いに、夏実は面食らっていた。首をかしげながら、目をパチパチさせている。
「全然いいけど……なんでそんなこと改まって?」
「いや、それは……」
確かに、すでに何度か呼んだ記憶もある。それでも直接、確かめたかった。肩書きだけだなんて思いたくなかったが、意識していたかった……いや、ちがう。
意識
「だったら……俺のことも、名前で呼んで」
先ほどからわずかに触れていた手で、無意識に夏実の腕をぎゅっとつかんでいた。また目が合った。
街灯の白い光が、彼女の瞳の中で、夜の海に浮かぶ月のように揺れて輝いているのが見えた。ただの安っぽい蛍光灯の明かりのはずなのに、御幸にはそれが、手に取ってみたくなるほど綺麗に思えた。
「いいの?」
「うん」
夏実はそれを聞いて、御幸の目を見つめながら、ゆっくりとひとつ、まばたきをした。
「わかった。一也ね」
きゅん、とその響きに胸が高鳴る。
しまった、不覚だった。そういえば、学校で俺を下の名前で呼ぶ奴なんていないしな……と、自分で言ったくせについ目をそらしたが、夏実はけろっとしていた。
「でも、急には難しいかも」
「いいよ」
「あたし、みゆきちゃんって呼び方、気に入ってるから」
「そうだな。俺も呼ばれ慣れた」
彼女の冗談混じりの言葉に返すと、はは、とお互い笑い合った。胸のあたりがスーッと晴れ渡っていく気がした。そこへ、夜の風がさらさらと吹き込んでくる感覚。心地がいい。
「それじゃあ……また」
「うん。また明日ね」
「あっ、」
腕の中からスルリと抜けていく彼女の体。そのせいでふいに切なくなって、中途半端な声で彼女を引き止めてしまった。
帰ろうとした夏実が、振り向いて半身をこちらに見せたまま、「なに」と隙だらけなのを見て思う──あ。キスしたい。
……でも、俺から言ってしたんじゃ、意味がないんだよなあ、なんて、昼間気付いたことを思い出しては押し黙ってしまった。このあいだの保健室での出来事も、今となってはちょっぴり苦味さえ、ある。
すると突然、夏実は素早く、一歩でこちらに近付くと、ちょっとだけ背伸びをして、顔を寄せてきた。目を閉じる暇もなかった。
ちゅっ
軽やかで、弾むような、ずいぶんと可愛らしい音がした。一瞬のことだったから、御幸も思わず、確かめるように指先で、自分の唇に触れてしまう。夏実からしてきたのは、初めてだった。
「……学校では、しないんじゃなかった?」
「ココ、学校の敷地内じゃないよ」
確かに、そう、だけど。
呆けてしまった御幸をよそに、夏実は後ろ手を組んでこちらを覗き込むように笑っていた。ほんのり赤い頬で、ニッ、と歯を見せて目を細めているその表情は、どこか爽やかさすら感じられた。
「みゆきちゃんが、したそうな顔してたから」
……カッコいいな。
彼女に対して使うべきか一瞬迷ったが、一番に浮かんだ言葉はそれだった。カッコいい。言ったら困らせるだろうか。でも、やっぱ『カッコいい』なんだよなあ……。
「じゃなかった、一也だ」
「あー……俺、そんな顔してた?」
「カワイイ顔してた」
「だから……男にカワイイとか言わないの」
「性別とかは、関係ないんじゃない?」
「じゃあ、なっちゃんはイケメン」
「またそれ?」
そう言って夏実は、呆れたように肩を揺らした。いやでも、本当のことだしなあ。
「それじゃ、あたし帰るね」
「ああ。もう夜遅いし、気を付けてな」
「帰りも走るから大丈夫!」
「……いやそれ、なにも大丈夫じゃねーから」
走ればいいってもんじゃないし、とこんなときでものんきな彼女に、つい眉を下げる。タフだとかそういう前に、少しだけ心配になってきた。
「ホントに気を付けて。女のコなんだからさ」
「『女のコ』だって、ははっ」
「何もおかしなこと言ってないでしょ」
「ん、ちょっと嬉しかっただけ」
「さっきは『イケメン』とか言ってたのに」と、夏実は照れたように笑っている。
彼女は、いつか倉持が言っていたような"可愛い系"ではないのかもしれないが、自分のことを『女のコっぽくない』なんて言う割には、やっぱり笑顔やしぐさがカワイイと思う。そんなことないのにな。
「わるい、送ってあげることもできなくて」
「いいよ気にしないで。じゃあ、家着いたらメールする」
「うん。そうして」
「心配してくれて、ありがとう」
来た方向に体を向けた夏実が、手を振って笑ったのを見て、御幸も小さく手を振り返した。彼女と交わす夜の挨拶は、なんだか新鮮だった。
「おやすみなさい」
「うん……おやすみ」
うなずいて見送ると、言っていたとおり、夏実は行きと同じように走り出した。相変わらず、綺麗なフォームだ。よく笑うし、よく話す彼女だけれど、走っているときの姿が一番
そんな夏実の姿が見えなくなるまで、御幸はじっとその背中を見つめていた。やがて目で追えない距離になって、ほう、と一息ついて、バットを拾い上げた。暗い中、足元に注意して階段を降りる。
「御幸?」
ドキッ。動きが止まって、バットを落としそうになった。
御幸がおそるおそる足元から顔を上げると、階段の下に、こちらを見上げている人影が目に入った。
「ナベ……」
どこから見られていた?
そんな懸念が、真っ先に頭に浮かんだ。渡辺のほうも、動揺しているように見えた。
「えっ、なんで、」
「いや、僕は監督に王谷のデータを渡しに行ったところで……こんな時間に誰かいたのが見えたから、来てみたら……」
話しぶりからして、今ここへ来たところだろうか。それでも、御幸の不安は的中した。
「いま走っていったの、夏実ちゃんじゃなかった?」
彼女が走り去った方向を見て、渡辺が首をかしげた。見覚えのある人間だったからなのだろう、気付くのも当然だった。
ごまかしようもないな、と御幸はあえて何も答えず視線をそらすと、渡辺が「あ、」と口を開けた。頭の良い彼のことだ。なぜ夏実がここにいたのか、すぐに察したのだろう。
「もしかして、その……」
「あ……隠してるわけじゃねーんだ、ただ、言わないってだけで……」
「ゴメン、知らなくて……」
そこで気まずそうにうつむいた渡辺は、何か思い出したように、ハッとしてもう一度御幸を見上げた。
「僕、知らずに夏実ちゃんに馴れ馴れしかったかも」
「ごめん」と、渡辺は申し訳なさそうな顔で言う。御幸は、慌てて首を横に振った。
「い、いやいや! 知らなかったんだし」
つか、謝られると逆にヘコむ……俺の心の狭さに。
誠実な渡辺を前に、内心タジタジになりながら、御幸は頭を掻いて階段を降り、彼の隣に並んだ。
「あー……なんか、ヘンなとこ見られちゃったな……示しがつかないっていうか」
キャプテンだというのにこんな体たらく、と思われては、きっとよろしくない。おまけにハプニングとはいえ、年頃の女子高生を夜中に一人外へ出すのはどう考えたって駄目だろう。
御幸は、隣の渡辺の顔色をうかがった。ところが彼は、存外優しいまなざしで、静かにほほ笑んでいた。
昨日の試合中、スタンドに向かって目を合わせて謝ったときの光景が浮かぶ。それでも、申し訳ないのはこちらのほうだ。
「別に、そんなことないよ」
「いや……ごめん」
そういえば、あのとき相談してくれた彼を突き放すようなことを言ってしまったのも、この場所だったな、と思い出した。
すると渡辺は、先ほどよりも少し晴れやかな表情になって、「ううん」とかぶりを振った。
「むしろ僕は……ちょっとほっとした、かな」
「え?」
「あのとき、『人種が違う』なんて言い方しちゃったけど……」
渡辺は、口元に手をやって困ったような、ちょっと呆れたような、そんな笑顔で言った。
「御幸もそういう、なんていうか……同い年の高校生なんだなって」
「えぇ? 当たり前じゃん」
「うん、そうなんだけどね」
当たり前のことしか言われていないが、渡辺の言いたいこともなんとなくわかる気がした。
……俺、そんなにナベや他の奴らに距離置かれてんのかな……やっぱゾノや倉持みたいには、できそうにねぇなあ。
「安心して。言いふらしたりはしないから」
「ナベがそんなことするなんて思ってねーよ……なんだったら見つかったのがナベでよかったわ」
御幸がうなだれると、渡辺が笑って、ふと口元にやった手であごを支えるようなしぐさをして見せた。
「でもそっか……御幸と夏実ちゃんがね」
「ふうん?」と不敵な笑みを浮かべ、こちらに視線を送ってくる。その視線に捕まったような気になって、御幸は一瞬固まった。
「な、なに」
「いや? 先週なんか教室で、ヘンなカンジだなとは思ってたんだよ。それが今、腑に落ちた」
「あ、そう……」
「そういえば今日、夏実ちゃんにやたらと御幸のこと聞かれたんだけど、アレもそういうことだったのかなあ」
昼休みのことだろうか。さっき電話でそんなこと言ってた気もするな。彼女のその行動は、嬉しいものだった。
「御幸、
なんか、倉持にも似たようなこと言われたっけか。御幸は、かつての彼の様子を思い出して、渡辺に聞いてみた。
「……意外?」
「ううん、そんなことないよ。夏実ちゃん、優しいしね」
「それはホントそう思う……イケメンだし」
「あはは、なにそれ」
「いやマジだって。俺、男だけど負けそうだもん」
だって夜中に走って会いに来てくれるんだぜ? カッコよすぎるでしょ。
至って真面目にそう言った御幸に対して、渡辺は呆れた笑い声を上げながらも、最後には同意した。「ああでも、ちょっとわかる気もする」
「だけど
「な、なにその具体的なアドバイス」
「鋭すぎて逆に怖いわ」と、その言葉には御幸も形無しだった。渡辺がまた笑った。
ポケットに手を入れると、ケータイの感触がある。部屋に戻ったら、夏実が無事家に着いたかを確認することにしよう、と御幸は息を吐いた。
見上げればすっかり更けて、夜空は暗く落ちていきそうなほどなのに、御幸の心は昼間なんかより、ずっとずっと軽くなっていた。
《夜空のページを開けば 特別なものなどいらないよ》『Hea/rt B/eat/s』e/mon
1/1ページ