キャッチボール
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「萩野、今日の仕事はもう終わりか?」
西東京大会もいよいよ終盤に差し掛かり、甲子園が見えてきた。
その日の午後の練習を終えて、夕食までの時間、自主練やミーティングをしようと、順にグラウンドから引き上げ始める選手たち。そんな中、用具の片付けをしていた梓に、結城が声をかけてきた。
「うん。全員が切り上げたら、あとは倉庫の戸締りだけかな」
「そうか」
「どうだろう。久しぶりに投げてみないか?」
そう言うと、結城はグローブを手にしたまま、空いた右手でボールを投げるしぐさをしてみせた。
それはつまり、一緒にちょっとしたキャッチボールをしよう、という意味だ。言ってみれば、彼ら部員にとっては“遊び”だろうが、梓は誘われたことに嬉しくなって、つい声も弾んだ。
「いいの? やるやる」
部活で練習相手には困らない彼らでも、息抜きに軽いキャッチボールをすることはある。毎日の彼らの練習を見ていると、“自分もやってみたい”と思うマネージャーも多いのではないだろうか。
結城は、倉庫にある野球部備品のグローブの中から、比較的小さいものを取り出し、梓へと差し出した。
「このグローブなら、萩野の手のサイズでも、問題なく使えるだろう」
そこで彼はハッとしたかと思うと、そのグローブを自身の鼻に近付け、「安心しろ、においもほとんど染み付いていない」と小さくうなずいてから、もう一度差し出してきた。
グローブの革には、どうしても手汗が染み込む上に洗濯もできないので、かなりにおうものなのだ。気遣ってくれたのはいいが、傍 から見るとその行為がおかしくて、どうしても笑ってしまう。「ふふ、ありがとう」
「よし、まずはこの距離から始めよう」
「オッケー」
グラウンドの端に立った梓から、10メートルほど離れた彼の合図を聞いて、受け取ったグローブを左手にしっかりとはめる。
結城は、ボールを握った右手を軽く掲げ、ゆっくりとした動きで、第一球を投げてきた。大きめの放物線を描いたボールは、梓の胸元に構えたグローブへと収まる。ちなみに、グローブはほとんど動かしていない。
キャッチボールは、たとえこちらがあまり上手でなくとも、部員たちがフォローして、大抵の球は取ってくれるし、取りやすい球を投げてくれる。
そんな調子で、こちらも上手くなった気になるので──その気になるだけで実際上手くはなっていないが、梓にとっては楽しいものだ。
「今日は、そ う い う 気分だったの?」
硬球の硬さと縫い目の凹凸を指先に感じながら、梓も結城に向かってそれを投げる。お互いに投げ合いながら、ゆったりと会話ができるのも、キャッチボールの好きなところだった。
「そうだな、気分というよりは……試合が近いと、ギリギリまで身体 を酷使するのは良くないだろう?」
「適度でないとね」
「ああ。だからこれくらいが、ちょうどいいクールダウンになる」
「とはいえ、付き合わせてすまないな」
「ううん。あたしも、久しぶりにやってみたかったから」
「いや、……ああ……」
梓が首を横に振ると、彼はボールを投げようとしていた手を止めて、申し訳なさそうに視線をそらした。変なことを言っただろうか、とこちらも構えたグローブを下ろしてみる。
「すまん、今のは建前だ」
「え?」
突然、そう詫びた結城は、距離を伸ばすため一歩下がって、動揺をごまかすように、さっきよりも速い動作でボールを投げてくる。
まだ構えていないところへ飛んできたそれに、慌ててグローブを突き出した。なんとかボールは収まった。
「実は、萩野もそう考えているんじゃないかと思って、誘ってみたんだ」
結城にしてはめずらしく、どこか照れくさそうに言うものだから、途端に彼をいじらしく感じた。こっちまで照れてしまうじゃないか。
「正解だったな」
「……そうだね」
ほんのり頬が熱い。つい眉を下げてほほ笑みかけると、結城も笑顔を返した。今度は、梓のほうが一歩下がって投げた。
「ただ、そうは言っても、マネージャーなんかがやりたいって言うのは、おこがましいかな」
「そんなことはない」
「俺は好きだぞ」
即座に否定した彼の、続けた言葉に、ドキッ、と心臓が一つ高鳴った。おかげで、取りやすい高さで飛んできたはずのボールを、グローブからこぼしてしまった。
「あっ、ゴメン」
「いや、慌てなくていい。俺も少し力んだかもしれん」
彼はこちらの反応を気にもせず、むしろ自分のせいだと思っているのか、ボールなしで投げるフリをしつつ、手首の角度やフォームを真顔で確認している。
転がっていったボールを拾いながら、梓はひっそりと深呼吸をして落ち着こうとした。自分だけ意識してしまっていることが、恥ずかしい。
だいじょうぶ、わかってる……そう、“キャッチボールするのが”ってことで……あぶないあぶない。
「ゴメンね、いくよ」
「ああ」
投げる前に声をかけてから、キャッチボールを再開すると、結城はさらに続けた。
「それに、こうして半ば遊び感覚でやるのも、初心に帰ることができるというか……改めて野球を楽しめている自分がいる」
「そう。それならよかった」
楽しい、と思ってもらえているなら何よりだ。そもそも、普段の彼は建前など使わない人間だから、さっきみたいなことは本当に稀だろう。
だが正直、彼が楽しんでいることは、言われずともわかる気がした。それは、決して梓の自惚れではなく、“この行為”がもたらす、不思議な感覚のせいだと思った。
「……あたしね、“キャッチボール”って不思議だなって、いつも思うんだけれど」
そうつぶやいてみると、結城はじっと黙って、こちらの次の言動を待っていた。
「ただボールを投げ合ってるだけに思えるのに、相手の考えてることとか、想いというか……そういうのがわかる気がする」
「そうだな」
「俺も、試合のプレー中でも感じることがある。きっと野球経験者なら、誰もが一度は思うんじゃないか?」
「やっぱり」
ほんの少しボールを触っただけの自分でも感じるのだから、それは当然とも言えるのかもしれない。
ふとボールから顔を上げると、互いに少しずつ下がっていた二人の距離が、だいぶ伸びていた。この距離だと、そろそろ梓は強めに力を入れないと届かないため、そうやって投げてみれば、思わず「えいっ」と声が出た。
すると、難なくそれをキャッチした結城が投げ返す際、一つの疑問も同時に投げてきた。
「どうだろう、そしたら俺は、萩野のことを理解できているだろうか」
「えぇ?」
ボールを受け止めながら、梓の口からは苦笑いが漏れた。だってそれを言うのなら、少なくともこの気持ちは伝わっていないはずだ。
彼は、『梓の気持ちに気付いていながら、それを黙って気付かないフリをしていられる』ほど、恋愛に器用な人ではないだろう。参ったな、と梓はちょっぴり困ったまま、手の甲で額を押さえた。
ところが、視線の先に立つ結城の表情は、なぜかとても真剣なものだった。
「ずっと、理解したいと思ってきた。もう三年目だ。そうでなくては、キャプテンとして情けないだろう?」
『理解したい』という一途な想い。ただ、それよりも梓にとっては、最後の言葉が引っかかった。『情けない』、だなんて。なんてこと言うの、と思わず息をのんだ。
「そんなこと。あたしは、」
「だから、萩野の“全力投球”を頼む」
そう言うと、結城はさらに数歩下がって、それまでの姿勢とは異なり、両足はしっかりと地面を捕らえ、グローブを胸元の先で力強く構えた。いつもの試合中、一塁で内野陣からの送球を受けるときのようだった。
そして、遠くなった距離に合わせるように、先ほどよりグッ、と声を張った。
「包み隠さず、俺にぶつけてくれて構わない」
「萩野のボールなら、俺は、どんなものでも受け止める覚悟だ」
二人の視線が、真っ直ぐに重なった。梓はグローブの中でボールをぎゅっ、と握り直した。
「……変な方向に飛んでっても知らないよ?」
もしかすると、あたしに足りなかったのは、『覚悟』だったのかもしれない──
「ああ。遠慮はいらんぞ」
だけど、彼がそう言ってくれるのなら。彼の言葉なら、信じられる。
想いを打ち明けても、いいのだろうか。
「来い!」
一際声を張り上げた結城に触発されて、大きく両腕を頭の上へ振りかぶった。
投手たちの見よう見まねではあるが、梓は左足を体の右側にゆっくり引き寄せ上げると、その足を思いっきり前へ踏み出した。
ブン──と、風を切る音が聞こえることに、梓は気付いた。
まだ入部して間もない頃、部活が終わったあとで、用具倉庫の鍵を返そうと寮の近くをうろうろしていたときだった。
部員たちはとっくに寮の部屋に戻っているはずなのに、建物の向こうから聞こえてくるその音。すっかり日の落ちた暗い空間で、梓は壁伝いに、おそるおそる音のするほうをうかがった。
音の正体は、バットが振り抜かれる音だった。そこには、一回一回、丁寧に構え直しながら、金属バットで素振りをしている一人の野球部員がいた。
ただ素振りをしているだけなのに、その彼は、まるで試合の打席に立っているかのような、張り詰めた顔つきをしていた。梓にとっては、それがとても印象的だった。
ふいに、彼が人の気配に気が付いたのか、動きを止めてこちらを振り向いた。瞬間、寮の蛍光灯が彼の顔を照らした。滴る汗が光った。
「あ……ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんですけど」
軽く頭を下げると、彼は「いや」とかぶりを振って、梓の顔を覗き込んだ。
「確か、1年マネージャーの」
「はい。えっと……」
マネージャーの人数は少ないので、彼のほうは梓の顔を覚えていたようだったが、こちらはどうしても思い出せなかった。
「ごめんなさい、まだ部員の名前、全員覚えてなくて……」
「無理もない。あれだけ、人数がいればな」
「結城だ。結城哲也。俺も1年だ」
同級生であることを知り、少し肩の力が抜けた。口元の汗を拭うようにした彼の大きな手、その反対の手に握られたバットが目に入った。
「結城、くんは……こんな時間まで、自主練してたの?」
「ああ」
「部活の練習も、あんなにハードなのに?」
「この学校に来ると決めたときからのノルマだ……自分で決めたことだからな」
結城のその台詞を聞いたとき、初対面の人間相手にもかかわらず、『なんてストイックなんだ』と強く思ったことを、よく覚えている。同い年でそんな考えを持っている人間がいることに、心底驚いたのだ。そもそも、“ストイック”という言葉が当てはまるような人間に、このとき人生で初めて出逢った気がする。
「マネージャーこそ、こんな時間にどうしたんだ? 通いなら、とっくに帰る時間のはずだろう」
「ああ……あたしは、倉庫の掃除をしてて」
「こんな時間まで、一人でか?」
「あ、ちがうの。やらせてくれって、わがまま言ったのはあたしで」
やらされていると勘違いされてしまったような気がして、怪訝そうな顔をした彼の言葉を、慌てて否定した。
「ついでに、道具や備品の置いてある場所とか、覚えちゃおうと思って……個人的に申し出たの」手に持っていた倉庫の鍵を見せながら、梓は苦笑いした。
「一日でも早く、仕事覚えたかったから」
それを聞いた結城は、驚いたような、納得したような目で、微かに笑っているらしい声を出した。
「……熱心なんだな」
「結城くんに比べたら、大したことないよ。所詮、マネージャーにできることなんて、これくらいだから」
「いや、誰にでもできることじゃない、尊敬する。俺も見習わないとな」
たった今、同じようなことを彼に対して感じたのだが、やはり梓には、結城のほうがよっぽど人に真似できないことをしているし、尊敬できると思った。
「ところで、マネージャーは……じゃないな、名前は?」
「萩野梓」
「萩野か」
答えると、結城はうなずいて、確かめるようにその名前を口にした。彼の口が自分の名を紡いでくれたことが、なんだか嬉しかった。
「萩野、これから長い付き合いになるが、よろしくな」
「そうだね。よろしく」
三年近く共に過ごすのだから『長い付き合い』に違いなかった。『よろしく』と言い合って、互いに笑った。
それから結城は、バットを脇に挟みながら、両手のバッティンググローブをはめ直して言った。
「ところで萩野、もう少しでノルマの300回を終えるところなんだ。俺も通いだから、もしよければ送っていこう」
パシン──と、気持ちのいい音を立てて、硬球は彼のグローブへしっかりと届いた。
「ナイスボール!」
大きく叫んだ結城のそれは、部活中の掛け声と同じ調子だった。その瞬間だけでも選手の一員になったような気がして、梓も高揚した。
思い返せば、初めて彼と話したあのときから、そ う だ っ た のかもしれない。
あのとき芽生えた感情は、最初こそ興味や尊敬の意だったのが、しかしそのうち、いつのまにか好意に変わっていた。気付いたときには、特別な存在だった。
今までにない確信を得た気がした。胸のあたりが、スッと晴れ渡る思いがして、そこへ夏の空気をいっぱいに取り込むように、梓は大きく息を吸った。
「哲!答 え 合 わ せ !」
再び投げ返そうと、腕を引いた彼が動きを止めた。見計らって、打ち明けた。
「あたしも好き!」
自然と笑顔になっていることが、梓自身にもわかった。
結城もまた、満足そうに笑って、強く握りしめたボールを高く掲げた。向こうから差してくる西日が、まぶしかった。彼が答えた。
「合 っ て て 良かった!」
高校生活最後の夏は、想像以上に自分たちを急かすようで、やるせなくて、憎らしいけれど、何にも代えがたいのだ。
(前回は「好き」という言葉を使わず、今回はハッキリ使う、という対比にこだわりました。)
西東京大会もいよいよ終盤に差し掛かり、甲子園が見えてきた。
その日の午後の練習を終えて、夕食までの時間、自主練やミーティングをしようと、順にグラウンドから引き上げ始める選手たち。そんな中、用具の片付けをしていた梓に、結城が声をかけてきた。
「うん。全員が切り上げたら、あとは倉庫の戸締りだけかな」
「そうか」
「どうだろう。久しぶりに投げてみないか?」
そう言うと、結城はグローブを手にしたまま、空いた右手でボールを投げるしぐさをしてみせた。
それはつまり、一緒にちょっとしたキャッチボールをしよう、という意味だ。言ってみれば、彼ら部員にとっては“遊び”だろうが、梓は誘われたことに嬉しくなって、つい声も弾んだ。
「いいの? やるやる」
部活で練習相手には困らない彼らでも、息抜きに軽いキャッチボールをすることはある。毎日の彼らの練習を見ていると、“自分もやってみたい”と思うマネージャーも多いのではないだろうか。
結城は、倉庫にある野球部備品のグローブの中から、比較的小さいものを取り出し、梓へと差し出した。
「このグローブなら、萩野の手のサイズでも、問題なく使えるだろう」
そこで彼はハッとしたかと思うと、そのグローブを自身の鼻に近付け、「安心しろ、においもほとんど染み付いていない」と小さくうなずいてから、もう一度差し出してきた。
グローブの革には、どうしても手汗が染み込む上に洗濯もできないので、かなりにおうものなのだ。気遣ってくれたのはいいが、
「よし、まずはこの距離から始めよう」
「オッケー」
グラウンドの端に立った梓から、10メートルほど離れた彼の合図を聞いて、受け取ったグローブを左手にしっかりとはめる。
結城は、ボールを握った右手を軽く掲げ、ゆっくりとした動きで、第一球を投げてきた。大きめの放物線を描いたボールは、梓の胸元に構えたグローブへと収まる。ちなみに、グローブはほとんど動かしていない。
キャッチボールは、たとえこちらがあまり上手でなくとも、部員たちがフォローして、大抵の球は取ってくれるし、取りやすい球を投げてくれる。
そんな調子で、こちらも上手くなった気になるので──その気になるだけで実際上手くはなっていないが、梓にとっては楽しいものだ。
「今日は、
硬球の硬さと縫い目の凹凸を指先に感じながら、梓も結城に向かってそれを投げる。お互いに投げ合いながら、ゆったりと会話ができるのも、キャッチボールの好きなところだった。
「そうだな、気分というよりは……試合が近いと、ギリギリまで
「適度でないとね」
「ああ。だからこれくらいが、ちょうどいいクールダウンになる」
「とはいえ、付き合わせてすまないな」
「ううん。あたしも、久しぶりにやってみたかったから」
「いや、……ああ……」
梓が首を横に振ると、彼はボールを投げようとしていた手を止めて、申し訳なさそうに視線をそらした。変なことを言っただろうか、とこちらも構えたグローブを下ろしてみる。
「すまん、今のは建前だ」
「え?」
突然、そう詫びた結城は、距離を伸ばすため一歩下がって、動揺をごまかすように、さっきよりも速い動作でボールを投げてくる。
まだ構えていないところへ飛んできたそれに、慌ててグローブを突き出した。なんとかボールは収まった。
「実は、萩野もそう考えているんじゃないかと思って、誘ってみたんだ」
結城にしてはめずらしく、どこか照れくさそうに言うものだから、途端に彼をいじらしく感じた。こっちまで照れてしまうじゃないか。
「正解だったな」
「……そうだね」
ほんのり頬が熱い。つい眉を下げてほほ笑みかけると、結城も笑顔を返した。今度は、梓のほうが一歩下がって投げた。
「ただ、そうは言っても、マネージャーなんかがやりたいって言うのは、おこがましいかな」
「そんなことはない」
「俺は好きだぞ」
即座に否定した彼の、続けた言葉に、ドキッ、と心臓が一つ高鳴った。おかげで、取りやすい高さで飛んできたはずのボールを、グローブからこぼしてしまった。
「あっ、ゴメン」
「いや、慌てなくていい。俺も少し力んだかもしれん」
彼はこちらの反応を気にもせず、むしろ自分のせいだと思っているのか、ボールなしで投げるフリをしつつ、手首の角度やフォームを真顔で確認している。
転がっていったボールを拾いながら、梓はひっそりと深呼吸をして落ち着こうとした。自分だけ意識してしまっていることが、恥ずかしい。
だいじょうぶ、わかってる……そう、“キャッチボールするのが”ってことで……あぶないあぶない。
「ゴメンね、いくよ」
「ああ」
投げる前に声をかけてから、キャッチボールを再開すると、結城はさらに続けた。
「それに、こうして半ば遊び感覚でやるのも、初心に帰ることができるというか……改めて野球を楽しめている自分がいる」
「そう。それならよかった」
楽しい、と思ってもらえているなら何よりだ。そもそも、普段の彼は建前など使わない人間だから、さっきみたいなことは本当に稀だろう。
だが正直、彼が楽しんでいることは、言われずともわかる気がした。それは、決して梓の自惚れではなく、“この行為”がもたらす、不思議な感覚のせいだと思った。
「……あたしね、“キャッチボール”って不思議だなって、いつも思うんだけれど」
そうつぶやいてみると、結城はじっと黙って、こちらの次の言動を待っていた。
「ただボールを投げ合ってるだけに思えるのに、相手の考えてることとか、想いというか……そういうのがわかる気がする」
「そうだな」
「俺も、試合のプレー中でも感じることがある。きっと野球経験者なら、誰もが一度は思うんじゃないか?」
「やっぱり」
ほんの少しボールを触っただけの自分でも感じるのだから、それは当然とも言えるのかもしれない。
ふとボールから顔を上げると、互いに少しずつ下がっていた二人の距離が、だいぶ伸びていた。この距離だと、そろそろ梓は強めに力を入れないと届かないため、そうやって投げてみれば、思わず「えいっ」と声が出た。
すると、難なくそれをキャッチした結城が投げ返す際、一つの疑問も同時に投げてきた。
「どうだろう、そしたら俺は、萩野のことを理解できているだろうか」
「えぇ?」
ボールを受け止めながら、梓の口からは苦笑いが漏れた。だってそれを言うのなら、少なくともこの気持ちは伝わっていないはずだ。
彼は、『梓の気持ちに気付いていながら、それを黙って気付かないフリをしていられる』ほど、恋愛に器用な人ではないだろう。参ったな、と梓はちょっぴり困ったまま、手の甲で額を押さえた。
ところが、視線の先に立つ結城の表情は、なぜかとても真剣なものだった。
「ずっと、理解したいと思ってきた。もう三年目だ。そうでなくては、キャプテンとして情けないだろう?」
『理解したい』という一途な想い。ただ、それよりも梓にとっては、最後の言葉が引っかかった。『情けない』、だなんて。なんてこと言うの、と思わず息をのんだ。
「そんなこと。あたしは、」
「だから、萩野の“全力投球”を頼む」
そう言うと、結城はさらに数歩下がって、それまでの姿勢とは異なり、両足はしっかりと地面を捕らえ、グローブを胸元の先で力強く構えた。いつもの試合中、一塁で内野陣からの送球を受けるときのようだった。
そして、遠くなった距離に合わせるように、先ほどよりグッ、と声を張った。
「包み隠さず、俺にぶつけてくれて構わない」
「萩野のボールなら、俺は、どんなものでも受け止める覚悟だ」
二人の視線が、真っ直ぐに重なった。梓はグローブの中でボールをぎゅっ、と握り直した。
「……変な方向に飛んでっても知らないよ?」
もしかすると、あたしに足りなかったのは、『覚悟』だったのかもしれない──
「ああ。遠慮はいらんぞ」
だけど、彼がそう言ってくれるのなら。彼の言葉なら、信じられる。
想いを打ち明けても、いいのだろうか。
「来い!」
一際声を張り上げた結城に触発されて、大きく両腕を頭の上へ振りかぶった。
投手たちの見よう見まねではあるが、梓は左足を体の右側にゆっくり引き寄せ上げると、その足を思いっきり前へ踏み出した。
ブン──と、風を切る音が聞こえることに、梓は気付いた。
まだ入部して間もない頃、部活が終わったあとで、用具倉庫の鍵を返そうと寮の近くをうろうろしていたときだった。
部員たちはとっくに寮の部屋に戻っているはずなのに、建物の向こうから聞こえてくるその音。すっかり日の落ちた暗い空間で、梓は壁伝いに、おそるおそる音のするほうをうかがった。
音の正体は、バットが振り抜かれる音だった。そこには、一回一回、丁寧に構え直しながら、金属バットで素振りをしている一人の野球部員がいた。
ただ素振りをしているだけなのに、その彼は、まるで試合の打席に立っているかのような、張り詰めた顔つきをしていた。梓にとっては、それがとても印象的だった。
ふいに、彼が人の気配に気が付いたのか、動きを止めてこちらを振り向いた。瞬間、寮の蛍光灯が彼の顔を照らした。滴る汗が光った。
「あ……ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんですけど」
軽く頭を下げると、彼は「いや」とかぶりを振って、梓の顔を覗き込んだ。
「確か、1年マネージャーの」
「はい。えっと……」
マネージャーの人数は少ないので、彼のほうは梓の顔を覚えていたようだったが、こちらはどうしても思い出せなかった。
「ごめんなさい、まだ部員の名前、全員覚えてなくて……」
「無理もない。あれだけ、人数がいればな」
「結城だ。結城哲也。俺も1年だ」
同級生であることを知り、少し肩の力が抜けた。口元の汗を拭うようにした彼の大きな手、その反対の手に握られたバットが目に入った。
「結城、くんは……こんな時間まで、自主練してたの?」
「ああ」
「部活の練習も、あんなにハードなのに?」
「この学校に来ると決めたときからのノルマだ……自分で決めたことだからな」
結城のその台詞を聞いたとき、初対面の人間相手にもかかわらず、『なんてストイックなんだ』と強く思ったことを、よく覚えている。同い年でそんな考えを持っている人間がいることに、心底驚いたのだ。そもそも、“ストイック”という言葉が当てはまるような人間に、このとき人生で初めて出逢った気がする。
「マネージャーこそ、こんな時間にどうしたんだ? 通いなら、とっくに帰る時間のはずだろう」
「ああ……あたしは、倉庫の掃除をしてて」
「こんな時間まで、一人でか?」
「あ、ちがうの。やらせてくれって、わがまま言ったのはあたしで」
やらされていると勘違いされてしまったような気がして、怪訝そうな顔をした彼の言葉を、慌てて否定した。
「ついでに、道具や備品の置いてある場所とか、覚えちゃおうと思って……個人的に申し出たの」手に持っていた倉庫の鍵を見せながら、梓は苦笑いした。
「一日でも早く、仕事覚えたかったから」
それを聞いた結城は、驚いたような、納得したような目で、微かに笑っているらしい声を出した。
「……熱心なんだな」
「結城くんに比べたら、大したことないよ。所詮、マネージャーにできることなんて、これくらいだから」
「いや、誰にでもできることじゃない、尊敬する。俺も見習わないとな」
たった今、同じようなことを彼に対して感じたのだが、やはり梓には、結城のほうがよっぽど人に真似できないことをしているし、尊敬できると思った。
「ところで、マネージャーは……じゃないな、名前は?」
「萩野梓」
「萩野か」
答えると、結城はうなずいて、確かめるようにその名前を口にした。彼の口が自分の名を紡いでくれたことが、なんだか嬉しかった。
「萩野、これから長い付き合いになるが、よろしくな」
「そうだね。よろしく」
三年近く共に過ごすのだから『長い付き合い』に違いなかった。『よろしく』と言い合って、互いに笑った。
それから結城は、バットを脇に挟みながら、両手のバッティンググローブをはめ直して言った。
「ところで萩野、もう少しでノルマの300回を終えるところなんだ。俺も通いだから、もしよければ送っていこう」
パシン──と、気持ちのいい音を立てて、硬球は彼のグローブへしっかりと届いた。
「ナイスボール!」
大きく叫んだ結城のそれは、部活中の掛け声と同じ調子だった。その瞬間だけでも選手の一員になったような気がして、梓も高揚した。
思い返せば、初めて彼と話したあのときから、
あのとき芽生えた感情は、最初こそ興味や尊敬の意だったのが、しかしそのうち、いつのまにか好意に変わっていた。気付いたときには、特別な存在だった。
今までにない確信を得た気がした。胸のあたりが、スッと晴れ渡る思いがして、そこへ夏の空気をいっぱいに取り込むように、梓は大きく息を吸った。
「哲!
再び投げ返そうと、腕を引いた彼が動きを止めた。見計らって、打ち明けた。
「あたしも好き!」
自然と笑顔になっていることが、梓自身にもわかった。
結城もまた、満足そうに笑って、強く握りしめたボールを高く掲げた。向こうから差してくる西日が、まぶしかった。彼が答えた。
「
高校生活最後の夏は、想像以上に自分たちを急かすようで、やるせなくて、憎らしいけれど、何にも代えがたいのだ。
(前回は「好き」という言葉を使わず、今回はハッキリ使う、という対比にこだわりました。)
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