横顔
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「忘れ物してないかー?」
「ちゃんと全員いるだろうな?」
他校との練習試合を終えた青道高校野球部は、帰りのバスの席に腰を下ろしていた。
「隣、いいか? 萩野」
2列の座席が左右に備え付けられたバスで、前方の窓際の席に一人腰掛けていた梓に声をかけた人物──彼はキャプテンとして、相手チームの監督やマネージャーなど、代表して一通り挨拶を終えてから、最後にバスに乗り込んできた。
今日の試合のスコアブックを清書しようと、静かにノートを眺めていたのだが、その声にハッと顔を上げると、そばに立っていた結城に驚く。こんなにすぐそこに立っているのに、気付かなかったのか。
「えっ、あ、哲……」声をかけられてから、ようやく顔を上げた梓の反応に、結城は苦笑いした。
「邪魔してすまない。が、萩野は集中していると、周りが見えなくなるタイプだな」
「そ、そう?」
「このあいだ、公園で少女漫画を読んでいたときも同じ反応だった」
無意識だからか、覚えがなくて、すこし恥ずかしくなった。ごまかすように、隣の空いた席を示す。
「ごめんなさい、どうぞ」
「悪いな」
「構わないけど……行きは後ろの席、空いてなかった?」
通路側の席を彼に譲りながら、梓はそう問うた。女子のマネージャーは5人で奇数なので、今日は梓が一人で座っていた。
青道高校に向かって発車したバスに揺られながら、結城はうなずいて答える。
「いや、そのはずだと思ったんだがな。最後に乗り込んで来たら、なぜか俺だけあぶれたんだ」
「そう……」
そこで梓は、背もたれ越しにそっと後ろを振り返ってみた。そこには、ニヤニヤしながら好奇の目でこちらを気にしている部員たち──主に3年生たちの姿があった。
梓は小さく頭を抱えた。一人で座っている自分を見て、誰かが謀ったのだろう。なぜか確信があった。どうせ面白がられているのだ。
「どうした?」
「ううん、なんでもない……。それより、そんなに離れなくても」
「ん? ああ、いや、」
「いつも言ってるでしょ。汗くさいとかなら、今さら気にならないから。ほんとに」
梓より、一回りも二回りも大きい体をしているにも関わらず、なるべく通路側に寄って小さくなろうとしている結城を見て、思わず苦笑いしながら首を横に振った。
何度言っても、相手が女子だからと気遣う彼に、しょうがないなと思いつつ、そういうところが彼の良いところでもある、と笑みが漏れる。
「む……逆に気を遣われてしまった気分だな」
「どれだけ見てると思ってるの」
ふふん、とふざけたしぐさで得意げに鼻を鳴らしてみせると、結城は少し目を見開いてから、ゆっくりと笑った。
「そうか」満足げな表情でそう言うと、彼は足元に置いていたバッグの中を探ろうと前屈みになった。
そこでようやく梓は、自分の発言の重大さに気付いた。なぜ、こんなことを言ってしまったのか。一人恥ずかしくなって、スコアブックで顔を隠すように覆う。
横目で彼を確認すると、梓の発言を気にすることもなく、結城はバッグから取り出した英単語帳を開いていた。近いうちに、英語の授業の小テストがあるのだろう。
こんなの……『ずっとあなたを見ています』って自ら申告しちゃったようなものだし……。
聞いた人間によっては、気があるのかと勘違いしてもおかしくない。いやむしろ、少なからず自分は彼に惹かれている以上、勘違いしてくれるくらいでいいのかもしれないが、あいにく彼はそういうところは鈍い、と断言できるほど、鈍い。けどそれでこそ、結城哲也という男なのだ。
「裏切らないね……」
「何をだ?」
「ううん……ひとりごと」
おかしい。前はこんなに一人動揺することなんてなかったはずなのに。ここ最近、ちょっぴり浮ついている。周りにどれだけ、彼とのことを茶化されても、今まで気にならなかったのに。
おそらく、この前学校からの帰り道で、通り雨に遭い、彼と雨宿りをした日以来だ。梓自身が、今まで気にもしなかったことを、変に意識するようになってしまった。
その証拠にかはわからないが、今も彼を近くに感じている、右肩のあたりがくすぐったい。彼の顔を横目に、その凛々しい眉から鼻筋と、唇のラインを目で追った。
「どうした、疲れてるのか?」
感情の整理で参ってしまったのを、疲れから来ているものだと思ったのか、彼は心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。本当は、いつものマネージャーの仕事をこなすくらい、何ともない。
「ん……そうかもしれない」
それなのに、口から出た台詞は、情けないものだった。顔の熱を冷ますように、手の甲で額を押さえ、目を伏せる。ここで、『大丈夫』と答えられないのは、大丈夫でない原因が目 の 前 に い る からかもしれない。
これから高校最後の大会も始まるというのに、私事の、こんなことに悩まされてマネージャーが役に立たないようでは、駄目だ。ましてや、部員に心配をかけるなんて。気を引き締め直さなくては。
「無理はするな。学校までまだかかる。少し、寝たらどうだ」
「でもコレ……清書しないと、」
「今すぐでなくてもいいんだろう?」
彼にじっ、と見つめられる。そのまなざしは、優しくて、強い。
きゅう、と心臓のあたりが締め付けられたような感覚があった。こんなに彼の近くにいることができる異性なんて自分だけだろうと、その瞬間だけ強い自負心がわいて、すぐに否定した。思い上がるのもいい加減に、と心の内で叱った。
ああ、“切ない”って、こういう感情のことを言うんだろうか。他の言葉で言い表すことができないが、体の感覚で理解できた気がする。
「うん……」
本当に、今日の自分はどうしてしまったのだろう。自分で感情をコントロールできていない。ふわふわと、落ち着かないでいる。
気持ちを和らげようと、深呼吸して目を伏せると、力が抜けたついでに、滑り落ちそうになったスコアブック。それを、彼に奪い取られたのが気配でわかった。
「寝てていいぞ。着いたら起こしてやる」
「……ん…………」
─────────────────────────
「寝てていいぞ。着いたら起こしてやる」
結城のその言葉がきっかけだった。
疲労の滲んだ、少しのぼせているような表情で、梓は目を閉じると、ほどなくして寝息を立て始めた。
相当疲れていたのか。萩野は顔に出さないからな……。
1年生の頃からそうだ。誰かが見ているところでは、彼女は疲れているところを決して見せない。先日も、食堂の椅子で日誌を書いた後、一人うたた寝していた梓のことを思い出す。
あのあと、肩に掛けてやったジャージを、本当に申し訳なさそうな表情で返してくれたのが印象的だった。生真面目な彼女だからか、それとも遠慮しているのだろうか。
だが、もしそうなのだとしたら、彼女には遠慮をしてほしくない、と思うのだった。
他の人間が相手ならば、そうは思わないのだが、理由は自分でもよくわからない。胸の奥で、何かがつっかえる。
「萩野、」
用もないのに、彼女の名前を呼んでしまったことに、声を出してから気付いた。せっかく休めているのに、起こしてしまったら申し訳ない、と一瞬慌てたが、すっかり眠りについた梓からの返事はなかった。
ほっ、とひとまず胸をなでおろし、それから気を取り直して、手元の英単語帳に目を落とす。明後日の小テストの範囲を確認しようと試みた。
次の瞬間、道が荒れていたのか、バスが激しく揺れた。視界の端で、隣に座る梓の体が、窓のほうへズレていく。
「あぶなっ、……ぃ……!」
梓の頭が窓にぶつかりそうになったところ、彼女の首の後ろへ腕を回し、反対の肩をすばやく引き寄せた。その勢いで、かくん、と梓の首がこちらへ倒れて、結城の胸の中へおさまる。
危なかった……間に合って良かった……。
肩を大きく落として、結城は長い息を一つ吐いた。梓の細い肩を支える手に、グッと力がこもる。
そして次に、落ち着いた自分の耳へ、どくん、どくん、と高鳴る心臓の音が飛び込んできた。もしも今、自分の胸元で眠る梓が起きていたなら、確実に聞こえてしまうくらいの音で。
「フゥ……」最後に、再び大きく息を吐いて呼吸を整えた後、今度はもうぶつからないようにと、結城は自身の腰の位置を少し前へずらした。ちょうど、梓の頭が自分の肩にもたれかかるように。
しかし、これだけ動いても起きないのだから、梓はよっぽど疲れているのかもしれない。
言ってくれればいいのに、と思ったが、いや、そもそも俺が気付いてやるべきだった、と結城は自分自身に対して眉をひそめた。
毎日の部活で、部員の中ではキャプテンという立場上、一番多く彼女と会話しているのは事実だろう。それなのに、なぜ気付いてやれないのか、と。
マネージャーとして世話になってから、もう三年目だというのに。反省しなければ、と首を振ると、改めて英単語帳をしっかりと持ち直した。
「んっ…………」ふいに、梓が小さく声を漏らして、もぞもぞと身じろいだ。ぬくもりを求めているのか、結城の肩に頬ずりするように身を寄せる。
身動きができれば、何か体に掛けてやるのだが、今はできそうにない。
結城は英単語に集中することを諦め、単語帳を座席の脇に置いた。
『萩野が隣で歩いていると、落ち着くというかな……』
以前、二人で下校した日、雨宿りしながら、梓にそんなことを言ったのを覚えている。本当のことだったのだが、今はなぜか落ち着かない。
梓の頭を見下ろすと、ふわふわと揺れ動く髪の隙間から、つむじの位置が見えた。しっかりと確認はできないが、鼻先と長いまつ毛がちらりとのぞいているのがわかる。
そんな彼女の寝顔、寝息と共に上下する細い肩や、車内のエアコンの風を受けて揺れる髪、それらすら、見ていて不思議と飽きないと思うのだった。
そこで、結城はもう一度思い出した。先日、食堂でうたた寝する梓を、一人見つめていたときに抱いた想いを。今も同じだった。
触れてみたい──
その、柔らかそうな髪に。ちょっぴり赤く火照った頬に。バットを振り続けて、硬く太く変化しきった自分のそれとは違う、細長くしなやかな指先に。
自分でも驚くほど、ハッキリとした願いだった。とはいえ、彼女が起きていないのをいいことに、それをしようとするのは、卑怯なのかもしれない。
ならば、彼女が起きているときに言うべきなのだろうか。ただ、言えばどんな反応をされるだろう。恐れに近いものを感じるが、その反応を見てみたい気もした。
沸き起こるこの感情を、やはり理解できなくて、もどかしい。しかし、とどまることも知らない。
ただ一つ確かなのは、こんな感情を抱くのは、彼女だけだということ。
肩に回した手を持ち上げて、そっと梓の頭の上へ置いた。すると、爽やかな柑橘の香りがふわり、と漂ってきた。
シャンプーなのか、制汗剤だろうか。何にせよ、心地良かった。思わず目を細める。彼女だって、自分と同じように汗をかいているはずなのに、こうも異なるのがやはり不思議だ。
もっと確かめたいと、彼女の頭をこちらへ優しく引き込んで、柔らかい髪に鼻をすり寄せた。ん、とくすぐったそうな梓の声が聞こえてくる。
顔は見えないが、ほほ笑んでいる気がした。つられて、結城の口角も上がった。バスの車内だということも忘れるくらいの、満ち足りた空気。たとえるなら、花の香りのように、甘い。
「……萩野、」
気付けばまた、彼女の名前をつぶやいていた。そこでわかったのは、そうすれば原因不明の、胸のつっかえが取れていく気がするからだった。さっきもそうだ。
それどころか、口にするだけで、胸のあたりが温かくなる気さえする。
そのせいかは知らないが、とくん、とくん、と自分の心臓の音が、耳まで届いてくる。彼女に聞こえてしまうだろうか、と思った。そして、できれば聞こえていてほしいなどと、我ながら馬鹿げたことを考えた。
この想いを、萩野になんと伝えればいいのだろう……?
何度だって彼女に呼びかけたくなっても、続く言葉が思いつかない。そのうち、結城も無意識に梓の呼吸に合わせて、深い息遣いに変わっていった。
それ以上、梓の姿を眺められないことを惜しみながらも、その心地良さに身を預けるように、すやすやと眠る彼女の髪に口元をうずめて、結城はしばし微睡 んだ。
《あたしはとても切ない あなたをとても愛しい》『横顔』ai/ko
「ちゃんと全員いるだろうな?」
他校との練習試合を終えた青道高校野球部は、帰りのバスの席に腰を下ろしていた。
「隣、いいか? 萩野」
2列の座席が左右に備え付けられたバスで、前方の窓際の席に一人腰掛けていた梓に声をかけた人物──彼はキャプテンとして、相手チームの監督やマネージャーなど、代表して一通り挨拶を終えてから、最後にバスに乗り込んできた。
今日の試合のスコアブックを清書しようと、静かにノートを眺めていたのだが、その声にハッと顔を上げると、そばに立っていた結城に驚く。こんなにすぐそこに立っているのに、気付かなかったのか。
「えっ、あ、哲……」声をかけられてから、ようやく顔を上げた梓の反応に、結城は苦笑いした。
「邪魔してすまない。が、萩野は集中していると、周りが見えなくなるタイプだな」
「そ、そう?」
「このあいだ、公園で少女漫画を読んでいたときも同じ反応だった」
無意識だからか、覚えがなくて、すこし恥ずかしくなった。ごまかすように、隣の空いた席を示す。
「ごめんなさい、どうぞ」
「悪いな」
「構わないけど……行きは後ろの席、空いてなかった?」
通路側の席を彼に譲りながら、梓はそう問うた。女子のマネージャーは5人で奇数なので、今日は梓が一人で座っていた。
青道高校に向かって発車したバスに揺られながら、結城はうなずいて答える。
「いや、そのはずだと思ったんだがな。最後に乗り込んで来たら、なぜか俺だけあぶれたんだ」
「そう……」
そこで梓は、背もたれ越しにそっと後ろを振り返ってみた。そこには、ニヤニヤしながら好奇の目でこちらを気にしている部員たち──主に3年生たちの姿があった。
梓は小さく頭を抱えた。一人で座っている自分を見て、誰かが謀ったのだろう。なぜか確信があった。どうせ面白がられているのだ。
「どうした?」
「ううん、なんでもない……。それより、そんなに離れなくても」
「ん? ああ、いや、」
「いつも言ってるでしょ。汗くさいとかなら、今さら気にならないから。ほんとに」
梓より、一回りも二回りも大きい体をしているにも関わらず、なるべく通路側に寄って小さくなろうとしている結城を見て、思わず苦笑いしながら首を横に振った。
何度言っても、相手が女子だからと気遣う彼に、しょうがないなと思いつつ、そういうところが彼の良いところでもある、と笑みが漏れる。
「む……逆に気を遣われてしまった気分だな」
「どれだけ見てると思ってるの」
ふふん、とふざけたしぐさで得意げに鼻を鳴らしてみせると、結城は少し目を見開いてから、ゆっくりと笑った。
「そうか」満足げな表情でそう言うと、彼は足元に置いていたバッグの中を探ろうと前屈みになった。
そこでようやく梓は、自分の発言の重大さに気付いた。なぜ、こんなことを言ってしまったのか。一人恥ずかしくなって、スコアブックで顔を隠すように覆う。
横目で彼を確認すると、梓の発言を気にすることもなく、結城はバッグから取り出した英単語帳を開いていた。近いうちに、英語の授業の小テストがあるのだろう。
こんなの……『ずっとあなたを見ています』って自ら申告しちゃったようなものだし……。
聞いた人間によっては、気があるのかと勘違いしてもおかしくない。いやむしろ、少なからず自分は彼に惹かれている以上、勘違いしてくれるくらいでいいのかもしれないが、あいにく彼はそういうところは鈍い、と断言できるほど、鈍い。けどそれでこそ、結城哲也という男なのだ。
「裏切らないね……」
「何をだ?」
「ううん……ひとりごと」
おかしい。前はこんなに一人動揺することなんてなかったはずなのに。ここ最近、ちょっぴり浮ついている。周りにどれだけ、彼とのことを茶化されても、今まで気にならなかったのに。
おそらく、この前学校からの帰り道で、通り雨に遭い、彼と雨宿りをした日以来だ。梓自身が、今まで気にもしなかったことを、変に意識するようになってしまった。
その証拠にかはわからないが、今も彼を近くに感じている、右肩のあたりがくすぐったい。彼の顔を横目に、その凛々しい眉から鼻筋と、唇のラインを目で追った。
「どうした、疲れてるのか?」
感情の整理で参ってしまったのを、疲れから来ているものだと思ったのか、彼は心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。本当は、いつものマネージャーの仕事をこなすくらい、何ともない。
「ん……そうかもしれない」
それなのに、口から出た台詞は、情けないものだった。顔の熱を冷ますように、手の甲で額を押さえ、目を伏せる。ここで、『大丈夫』と答えられないのは、大丈夫でない原因が
これから高校最後の大会も始まるというのに、私事の、こんなことに悩まされてマネージャーが役に立たないようでは、駄目だ。ましてや、部員に心配をかけるなんて。気を引き締め直さなくては。
「無理はするな。学校までまだかかる。少し、寝たらどうだ」
「でもコレ……清書しないと、」
「今すぐでなくてもいいんだろう?」
彼にじっ、と見つめられる。そのまなざしは、優しくて、強い。
きゅう、と心臓のあたりが締め付けられたような感覚があった。こんなに彼の近くにいることができる異性なんて自分だけだろうと、その瞬間だけ強い自負心がわいて、すぐに否定した。思い上がるのもいい加減に、と心の内で叱った。
ああ、“切ない”って、こういう感情のことを言うんだろうか。他の言葉で言い表すことができないが、体の感覚で理解できた気がする。
「うん……」
本当に、今日の自分はどうしてしまったのだろう。自分で感情をコントロールできていない。ふわふわと、落ち着かないでいる。
気持ちを和らげようと、深呼吸して目を伏せると、力が抜けたついでに、滑り落ちそうになったスコアブック。それを、彼に奪い取られたのが気配でわかった。
「寝てていいぞ。着いたら起こしてやる」
「……ん…………」
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「寝てていいぞ。着いたら起こしてやる」
結城のその言葉がきっかけだった。
疲労の滲んだ、少しのぼせているような表情で、梓は目を閉じると、ほどなくして寝息を立て始めた。
相当疲れていたのか。萩野は顔に出さないからな……。
1年生の頃からそうだ。誰かが見ているところでは、彼女は疲れているところを決して見せない。先日も、食堂の椅子で日誌を書いた後、一人うたた寝していた梓のことを思い出す。
あのあと、肩に掛けてやったジャージを、本当に申し訳なさそうな表情で返してくれたのが印象的だった。生真面目な彼女だからか、それとも遠慮しているのだろうか。
だが、もしそうなのだとしたら、彼女には遠慮をしてほしくない、と思うのだった。
他の人間が相手ならば、そうは思わないのだが、理由は自分でもよくわからない。胸の奥で、何かがつっかえる。
「萩野、」
用もないのに、彼女の名前を呼んでしまったことに、声を出してから気付いた。せっかく休めているのに、起こしてしまったら申し訳ない、と一瞬慌てたが、すっかり眠りについた梓からの返事はなかった。
ほっ、とひとまず胸をなでおろし、それから気を取り直して、手元の英単語帳に目を落とす。明後日の小テストの範囲を確認しようと試みた。
次の瞬間、道が荒れていたのか、バスが激しく揺れた。視界の端で、隣に座る梓の体が、窓のほうへズレていく。
「あぶなっ、……ぃ……!」
梓の頭が窓にぶつかりそうになったところ、彼女の首の後ろへ腕を回し、反対の肩をすばやく引き寄せた。その勢いで、かくん、と梓の首がこちらへ倒れて、結城の胸の中へおさまる。
危なかった……間に合って良かった……。
肩を大きく落として、結城は長い息を一つ吐いた。梓の細い肩を支える手に、グッと力がこもる。
そして次に、落ち着いた自分の耳へ、どくん、どくん、と高鳴る心臓の音が飛び込んできた。もしも今、自分の胸元で眠る梓が起きていたなら、確実に聞こえてしまうくらいの音で。
「フゥ……」最後に、再び大きく息を吐いて呼吸を整えた後、今度はもうぶつからないようにと、結城は自身の腰の位置を少し前へずらした。ちょうど、梓の頭が自分の肩にもたれかかるように。
しかし、これだけ動いても起きないのだから、梓はよっぽど疲れているのかもしれない。
言ってくれればいいのに、と思ったが、いや、そもそも俺が気付いてやるべきだった、と結城は自分自身に対して眉をひそめた。
毎日の部活で、部員の中ではキャプテンという立場上、一番多く彼女と会話しているのは事実だろう。それなのに、なぜ気付いてやれないのか、と。
マネージャーとして世話になってから、もう三年目だというのに。反省しなければ、と首を振ると、改めて英単語帳をしっかりと持ち直した。
「んっ…………」ふいに、梓が小さく声を漏らして、もぞもぞと身じろいだ。ぬくもりを求めているのか、結城の肩に頬ずりするように身を寄せる。
身動きができれば、何か体に掛けてやるのだが、今はできそうにない。
結城は英単語に集中することを諦め、単語帳を座席の脇に置いた。
『萩野が隣で歩いていると、落ち着くというかな……』
以前、二人で下校した日、雨宿りしながら、梓にそんなことを言ったのを覚えている。本当のことだったのだが、今はなぜか落ち着かない。
梓の頭を見下ろすと、ふわふわと揺れ動く髪の隙間から、つむじの位置が見えた。しっかりと確認はできないが、鼻先と長いまつ毛がちらりとのぞいているのがわかる。
そんな彼女の寝顔、寝息と共に上下する細い肩や、車内のエアコンの風を受けて揺れる髪、それらすら、見ていて不思議と飽きないと思うのだった。
そこで、結城はもう一度思い出した。先日、食堂でうたた寝する梓を、一人見つめていたときに抱いた想いを。今も同じだった。
触れてみたい──
その、柔らかそうな髪に。ちょっぴり赤く火照った頬に。バットを振り続けて、硬く太く変化しきった自分のそれとは違う、細長くしなやかな指先に。
自分でも驚くほど、ハッキリとした願いだった。とはいえ、彼女が起きていないのをいいことに、それをしようとするのは、卑怯なのかもしれない。
ならば、彼女が起きているときに言うべきなのだろうか。ただ、言えばどんな反応をされるだろう。恐れに近いものを感じるが、その反応を見てみたい気もした。
沸き起こるこの感情を、やはり理解できなくて、もどかしい。しかし、とどまることも知らない。
ただ一つ確かなのは、こんな感情を抱くのは、彼女だけだということ。
肩に回した手を持ち上げて、そっと梓の頭の上へ置いた。すると、爽やかな柑橘の香りがふわり、と漂ってきた。
シャンプーなのか、制汗剤だろうか。何にせよ、心地良かった。思わず目を細める。彼女だって、自分と同じように汗をかいているはずなのに、こうも異なるのがやはり不思議だ。
もっと確かめたいと、彼女の頭をこちらへ優しく引き込んで、柔らかい髪に鼻をすり寄せた。ん、とくすぐったそうな梓の声が聞こえてくる。
顔は見えないが、ほほ笑んでいる気がした。つられて、結城の口角も上がった。バスの車内だということも忘れるくらいの、満ち足りた空気。たとえるなら、花の香りのように、甘い。
「……萩野、」
気付けばまた、彼女の名前をつぶやいていた。そこでわかったのは、そうすれば原因不明の、胸のつっかえが取れていく気がするからだった。さっきもそうだ。
それどころか、口にするだけで、胸のあたりが温かくなる気さえする。
そのせいかは知らないが、とくん、とくん、と自分の心臓の音が、耳まで届いてくる。彼女に聞こえてしまうだろうか、と思った。そして、できれば聞こえていてほしいなどと、我ながら馬鹿げたことを考えた。
この想いを、萩野になんと伝えればいいのだろう……?
何度だって彼女に呼びかけたくなっても、続く言葉が思いつかない。そのうち、結城も無意識に梓の呼吸に合わせて、深い息遣いに変わっていった。
それ以上、梓の姿を眺められないことを惜しみながらも、その心地良さに身を預けるように、すやすやと眠る彼女の髪に口元をうずめて、結城はしばし
《あたしはとても切ない あなたをとても愛しい》『横顔』ai/ko
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