熱り
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決勝戦を終えて寮に戻っても、食堂に用意されていた夕食には、ほとんど手を付けなかった。それでも、空腹など全く感じなかった。
結城が用具倉庫の扉の前に立つと、中から微かに物音が聞こえてきた。倉庫の重い扉のハンドルに手をかけて、ゆっくりと横へ引く。錆びて立て付けが悪いのか、普段は気にも留めないような金属音が耳障りだった。
日も落ちて外はすでに暗く、倉庫の小さな蛍光灯の明かりだけが頼りだ。そのかすれた白い光に浮かび上がった人影が、こちらを振り向いた。
「……萩野?」
それが誰かを確認する前に、彼女の名前を口にした。結城には、中に人がいることがわかった時点で、彼女だという確信があった。こんなときに、この場所に一人でいるのは、きっと彼女だという確信が。
「哲……」
少し驚いた表情をした梓の両手には、長い柄の箒が握られていた。それから目が合ったとき、彼女がハッと息を止めたのが結城にはわかった。
もしかすると、目が腫れていることに気付かれたのかもしれない。鏡を見なくともわかる。いまだに目元がジンジンと、焼けたように熱い。
「どうしたの?」
「いや……マネージャーたちはもう帰ったのかと思ったんだが、まだ食堂に萩野のカバンだけ置いてあったから。どこにいるのかと思ってな……」
「もしかして、あたしのこと捜してた?」
「ああ」
「あ……ごめんね」
梓は申し訳なさそうに言うと、狭い倉庫の中を見渡した。
「ココ、最後に一人で掃除させてほしい、って……わがまま言って頼んだの」
「部員として最後の仕事だから……気の済むまで一人でやりたくて」
「……そうか」
そんな理由じゃないかとは思っていた。だからさっきも、確信を持って名前を呼んだのだ。こんなときまでマネージャーの仕事をしているなんて、彼女らしいと思う。
ただ、『最後』というフレーズが、やけに耳に残った。
それが表情に出ていたのだろうか、梓は重い空気を振り払うように、「ほら、あたしの場合、仕事を黙々やってる時間が、一番落ち着くから」と肩をすくめた。
「それで……捜してたって、どうして?」
「ああ。俺は、荷物もまだあるし、今日は寮に泊まるつもりなんだが、もう夜遅いだろう? 送っていかなくてはと、思ったんだ」
「……こんな日まで、いいのに」
梓は困ったように笑った。いつもの彼女の笑い方だった。どこか遠慮しているようなその表情は、奥ゆかしい彼女らしくて、結城はそれが好きだった。だがそれこそ、『こんな日まで』遠慮なんてしてほしくなかった。
「いや……それに俺は、お前に言わなければならないことがある」
そして結城は、手に持っていた自分のユニフォームを差し出し、彼女の前で広げてみせた。梓の手によって一針一針、丁寧に縫い付けられた背番号は、試合で何度着ても、何度洗濯しても、ほつれたり歪 んだりすることなく、その数字をしっかりと示していた。
「それ……」つぶやいた梓は、手に持っていた箒を壁に立てかけて、こちらへ一歩近付いた。
大会中、彼女がつけてくれたということが、何度も支えになっていた。特に、打席に入る前はいつも、背中を押されているような気がしていた。どこで観ているかは知らずとも、視線を送ってくれていると信じていた。
「萩野がコレをつけてくれたことは、間違いなく俺の力になっていた。頼んでよかったと思う」
すると、梓はちょっぴりはにかんだように、それでもやはり困ったようなあの笑顔を見せた。
「それを……わざわざ言いに来てくれたの?」
「……その、」
しかし、肯定しない結城を見て、梓は首をかしげた。
「それと……今まで萩野に、まともに礼を言ったことがないと、思ってな」
「え、そんな、」
「きちんと、直接言いたかったんだ。萩野には、一番世話になったから」
梓の言葉を遮ってまで、結城はハッキリと主張した。彼女は面食らった様子だった。
本当に『言わなければならないこと』だと思っていたのは、そ れ だった。『いつもすまない』と言ってきたから、それよりもきちんと伝えるべき言葉があると気付いた。今日で『最後』なのだから。
「今日まで、本当にありがとう」
それを聞いた梓が、ひゅっ、と息をのむ音がした──結城が、時間の止まったような錯覚を起こした、次の瞬間だった。
ポロッ──、と。
彼女の瞳、スローモーションのように、光が揺れて、水が湧いて出て、こぼれた。
目の前で起こったことに呆気にとられて、自分の口から「あ、」と頼りない、この狭い倉庫の空間にさえ消え入りそうな、か細い声が漏れたのがわかった。
「あっ……え? あ、ごめんなさい……」
慌てたように、梓がそれを手でぬぐった。涙がこぼれたことに、自分自身で驚いているらしかった。が、また新しい涙が頬に筋をつくった。その繰り返しだった。拭いても拭いても、乾くことはなかった。
泣かせてしまった、と結城は経験がないほどに、動揺した。ただ、心底情けないことだが、泣かせるほどのことを言ってしまったとは思えなかった。
それでも、彼女の泣き顔なんて初めて見るから、自分が鈍いだけなのだろう。そういうことなのだ、それで構わない。ああ、意気地のないことだ、と何度も心の内で自身を叱った。
「なんでっ……今さら、あたしが……」
顔を隠すように両手で覆い、うつむいて背を向けようとする梓を前に、どうしていいかもわからず立ち尽くす。さっき彼女のほうへ、思わず伸ばした手も、頼りなく宙をさまようだけだ。
「ごめん、なさ、い……! ぁ……」
「萩野っ……」
ふらふらと崩れ落ちそうな彼女を見て、そこでようやく、反射的に体が前に出た。正面から梓の両肩を支えると、彼女は力が抜けたように地面に膝をついた。結城も一緒になって屈んだ。
「……どうして、そんなに謝るんだ?」
俺に何を謝ることがあるんだ、と納得できないまま、下を向いた彼女の様子を確かめるように、覗き込んで聞いた。
「……あたしに、泣ける権利なんて……っ、あるわけない、のに、」
口元を覆う細い指の隙間から、嗚咽と共にそんな声が聞こえた。どこまでも己を押し殺そうとする、彼女の献身ぶりに、胸を打たれた。
しかし、お前のその言葉は、すぐにでも否定してやらねばなるまい。
「萩野……萩野、」それは違うぞ、と。地面に片膝をついて、彼女の肩を軽く揺さぶった。
呼ばれた梓の、見上げる目線とかち合った。涙に濡れた瞳を近くでまともに見て、伝えようとした言葉を失いかける。
それでもその涙が、不覚にも綺麗だと思ってしまった。場違いな脳味噌に呆れた。
それにあろうことか、泣いてはいけないと言う彼女が、自分の前では泣いてくれたことを、嬉しくも思っているのだ。その、名も知らぬ欲を、抑えることができないでいる。なんて身勝手な思考だと思った。
「……萩野、」
しかも、まただ。梓に呼びかけてみても、続く言葉が出てこない。彼女になんと言ってやるべきなのかが、わからない。せめて、涙を止めてやる術 は、ないものだろうか。
だってこのままでは──おかしな考えではあるが、なんだか彼女が消えてしまいそうに思えるのだ。
結城はそっと、そっと梓の頬に手を伸ばして、流れ出る涙に触れた。それを親指でぬぐってみると、あたたかい体液で濡れるのと、柔らかい頬の肌ざわり。自分の硬く乾いた指先とは、真逆の感触。
梓は静かに驚いていた。見開いた瞳から、また涙があふれそうになった。
彼女が消えてなくなってしまわないように。そこに確かに居ることを信じたい──その想いにしたがって、体が動いた。
結城は、梓のその華奢な背中と頭に両腕を回して、胸の中へ閉じ込めるように、抱きしめた。
「ぇ、あっ……」と、彼女が小さく戸惑った声をあげたので、少し身構えたが、それでも腕を離したりはしなかった。静まった倉庫の中、二人分の呼吸音の狭間で、ドクン、ドクン、と自身の心臓の鼓動が耳に届いてくる。
しばらくして、両腕に感じる重みが増した。梓が体重を預け──受け入れられたのだと理解できて、ほっとした。それを感じとった結城は、さらに梓を強く抱きしめた。彼女の額が、自分の肩に押しつけられた。
「……萩野が、我慢する必要なんてない」
選手とマネージャー。努力の形は違えど、同じ夢に向かって共に努力してきたことに、変わりはないのだから。彼女だって泣いていいはずだ。
むしろ、謝らなければならないのは、俺のほうだ──
結城は震える唇を押さえるために、強く噛みしめてから、絞り出すようにもう一度口を開いた。
「すまない……」
─────────────────────────
「すまない……」
やっぱり彼は謝った。
彼の腕の中にいることをまだ信じられないまま、結城に抱きしめられた梓はそう思った。
試合が終わったあとにも、彼は自分たちマネージャーのほうへ向かって、頭を下げていた。彼をずっとそばで見てきた自負はあったのに、なぜそんなことをするのか理解できず、悔しい思いもあった。
「どう、して……っ……」
どうして謝るの、と聞くつもりが、泣き声を必死に抑えた喉につっかえて、そこまでしか言葉が出なかった。代わりに、涙が出続けた。
「……連れていって、やりたかった」
想像もしていなかった。まさか、あの結城が──あれだけ真っ直ぐ“己を高めるために”努力するような彼が、そんなふうに考えていてくれたなんて、思いもしなかった。ましてやこんな自分に対して。
けれど正直、梓は気にしていなかった。選手の力になれるのなら、彼をそばで応援できるのなら、自分のことなんて、どうでもよかったのだ。
それに、戦っているのは選手たちなのに、支えることしかできない自分が、『連れていって』なんて身勝手なことを言えるはずもないと、やはりそう思った。
「お前以上に献身的なマネージャーは、きっと他にいないだろうから……連れていけるのは、俺たちだけなのに……」
なのに──彼が平気で、そんなことを言うものだから。
どうしてそんなに優しいの?
だけど、今日くらい──最後くらい、自惚れても、いいのかなあ。
「ほんとう……?」
「ああ……」
「本当に……そう思う……?」
「ああ」
結城の二度目のうなずきは、力強かった。同時にもっと抱き寄せられて、頬と耳と、彼の胸元との隙間が、ぴったりと埋まる。頬を伝っていた涙が、彼のジャージの身ごろに染みた。
片方の耳の穴が塞がって、自分の心音が頭の奥で響くのがわかった。梓は、締め付けられる思いのする心臓をおさえつけるように、両手でぎゅう、とTシャツの胸のあたりを強く握り締めて言った。
「ありがとう……」
あなたのその言葉だけで、今までのマネージャーとしての仕事、苦労も、懸けてきた尊い時も、全て報われる。
「よかった……このチームのマネージャーになって、よかった……」
夢の舞台には行けなかったけれど。それでもきっと、あたし以上に、チームの仲間に恵まれたマネージャーも、いないはずだから。
「哲がいてくれて……本当によかった……!」
何より、大好きな人をそばで支えることの幸せを知った。その幸せに終わりがあることは、わかっていたけれど、それでも入部してから今日まで、あなたの努力する姿を間近で見られたことを、誇りにすら思う。
「俺も、」
ぽつり、と発せられた結城の声が、微かに震えて聞こえた。ふいに、梓の頭の上から、小さく鼻をすする音がした。
「萩野と出逢えて、よかった」
「今の萩野の言葉で……そう思ったよ」
いつも言葉少なの彼が、そんなことをもう、呆れるほどに優しく言うものだから、梓はかつてないほどに、心を揺さぶられた。
こみ上げてくるものを抑えきれず、「……う、ぁ……! ひぐ、」みっともない声が出てしまった。
そのときになってやっと、人前でこんなに泣いたのはいつぶりだろう、なんて考えが頭をよぎった。その一瞬だけ、彼の前で大泣きしている事実に気が付いて、恥ずかしくなった。
だからせめて、顔だけは見られないようにと、結城の胸に深く顔をうずめた。その行為だって十分に恥ずかしくて、普段の梓ならばできないことだったが、すでにそんなことまで考えが及ばないほど、いっぱいいっぱいだった。
ところが結城は、それすら受け入れるように、その大きな手のひらを梓の頭に沿わせて、髪をなでてくれた。
「俺のほうこそ……ありがとう」
そこで初めて梓は、自分の心音とはズレて聞こえてくる別の音に気付いた。ドクン、ドクン、と──彼の鼓動が、早鐘を打っていることに。それによって、自分の心拍数まで上がった気がした。
口下手な彼だとしても、その生理的な現象は、何より雄弁だった。いつもは冷静な彼でも、少しはこの状況に、緊張したり、昂 っているのかと思うと、たまらなく愛しく感じた。
そして、こんなときに彼に触れられていることが嬉しいだなんて、ふがいないなあ、そんな想いが心を占め始めていた。
その想いに気付いていないフリをするように、そっとまぶたを閉じると、また涙がこぼれた。互いの涙が乾くまでは、顔を上げずにいようと思った。
この涙が止まったら、もう思い残すことなんてないと、誓ってもいい。後悔はない。
それだけ、やれることはすべてやったと言い切れるほどに、今日まで無我夢中で、あっというまで、満ち足りた幸福な時間だった。
二人は、ひどく熱を持った体を寄せ合い、泣きはらした。恥も時間も忘れるほどに、泣き尽くした。
それでも、ほんの片隅の、こんなにも小さな空間には、二人を責めるものなんて、存在しなかった。
(ほとぼり【熱り】……高ぶった感情・興奮のなごり。冷めない熱。)
結城が用具倉庫の扉の前に立つと、中から微かに物音が聞こえてきた。倉庫の重い扉のハンドルに手をかけて、ゆっくりと横へ引く。錆びて立て付けが悪いのか、普段は気にも留めないような金属音が耳障りだった。
日も落ちて外はすでに暗く、倉庫の小さな蛍光灯の明かりだけが頼りだ。そのかすれた白い光に浮かび上がった人影が、こちらを振り向いた。
「……萩野?」
それが誰かを確認する前に、彼女の名前を口にした。結城には、中に人がいることがわかった時点で、彼女だという確信があった。こんなときに、この場所に一人でいるのは、きっと彼女だという確信が。
「哲……」
少し驚いた表情をした梓の両手には、長い柄の箒が握られていた。それから目が合ったとき、彼女がハッと息を止めたのが結城にはわかった。
もしかすると、目が腫れていることに気付かれたのかもしれない。鏡を見なくともわかる。いまだに目元がジンジンと、焼けたように熱い。
「どうしたの?」
「いや……マネージャーたちはもう帰ったのかと思ったんだが、まだ食堂に萩野のカバンだけ置いてあったから。どこにいるのかと思ってな……」
「もしかして、あたしのこと捜してた?」
「ああ」
「あ……ごめんね」
梓は申し訳なさそうに言うと、狭い倉庫の中を見渡した。
「ココ、最後に一人で掃除させてほしい、って……わがまま言って頼んだの」
「部員として最後の仕事だから……気の済むまで一人でやりたくて」
「……そうか」
そんな理由じゃないかとは思っていた。だからさっきも、確信を持って名前を呼んだのだ。こんなときまでマネージャーの仕事をしているなんて、彼女らしいと思う。
ただ、『最後』というフレーズが、やけに耳に残った。
それが表情に出ていたのだろうか、梓は重い空気を振り払うように、「ほら、あたしの場合、仕事を黙々やってる時間が、一番落ち着くから」と肩をすくめた。
「それで……捜してたって、どうして?」
「ああ。俺は、荷物もまだあるし、今日は寮に泊まるつもりなんだが、もう夜遅いだろう? 送っていかなくてはと、思ったんだ」
「……こんな日まで、いいのに」
梓は困ったように笑った。いつもの彼女の笑い方だった。どこか遠慮しているようなその表情は、奥ゆかしい彼女らしくて、結城はそれが好きだった。だがそれこそ、『こんな日まで』遠慮なんてしてほしくなかった。
「いや……それに俺は、お前に言わなければならないことがある」
そして結城は、手に持っていた自分のユニフォームを差し出し、彼女の前で広げてみせた。梓の手によって一針一針、丁寧に縫い付けられた背番号は、試合で何度着ても、何度洗濯しても、ほつれたり
「それ……」つぶやいた梓は、手に持っていた箒を壁に立てかけて、こちらへ一歩近付いた。
大会中、彼女がつけてくれたということが、何度も支えになっていた。特に、打席に入る前はいつも、背中を押されているような気がしていた。どこで観ているかは知らずとも、視線を送ってくれていると信じていた。
「萩野がコレをつけてくれたことは、間違いなく俺の力になっていた。頼んでよかったと思う」
すると、梓はちょっぴりはにかんだように、それでもやはり困ったようなあの笑顔を見せた。
「それを……わざわざ言いに来てくれたの?」
「……その、」
しかし、肯定しない結城を見て、梓は首をかしげた。
「それと……今まで萩野に、まともに礼を言ったことがないと、思ってな」
「え、そんな、」
「きちんと、直接言いたかったんだ。萩野には、一番世話になったから」
梓の言葉を遮ってまで、結城はハッキリと主張した。彼女は面食らった様子だった。
本当に『言わなければならないこと』だと思っていたのは、
「今日まで、本当にありがとう」
それを聞いた梓が、ひゅっ、と息をのむ音がした──結城が、時間の止まったような錯覚を起こした、次の瞬間だった。
ポロッ──、と。
彼女の瞳、スローモーションのように、光が揺れて、水が湧いて出て、こぼれた。
目の前で起こったことに呆気にとられて、自分の口から「あ、」と頼りない、この狭い倉庫の空間にさえ消え入りそうな、か細い声が漏れたのがわかった。
「あっ……え? あ、ごめんなさい……」
慌てたように、梓がそれを手でぬぐった。涙がこぼれたことに、自分自身で驚いているらしかった。が、また新しい涙が頬に筋をつくった。その繰り返しだった。拭いても拭いても、乾くことはなかった。
泣かせてしまった、と結城は経験がないほどに、動揺した。ただ、心底情けないことだが、泣かせるほどのことを言ってしまったとは思えなかった。
それでも、彼女の泣き顔なんて初めて見るから、自分が鈍いだけなのだろう。そういうことなのだ、それで構わない。ああ、意気地のないことだ、と何度も心の内で自身を叱った。
「なんでっ……今さら、あたしが……」
顔を隠すように両手で覆い、うつむいて背を向けようとする梓を前に、どうしていいかもわからず立ち尽くす。さっき彼女のほうへ、思わず伸ばした手も、頼りなく宙をさまようだけだ。
「ごめん、なさ、い……! ぁ……」
「萩野っ……」
ふらふらと崩れ落ちそうな彼女を見て、そこでようやく、反射的に体が前に出た。正面から梓の両肩を支えると、彼女は力が抜けたように地面に膝をついた。結城も一緒になって屈んだ。
「……どうして、そんなに謝るんだ?」
俺に何を謝ることがあるんだ、と納得できないまま、下を向いた彼女の様子を確かめるように、覗き込んで聞いた。
「……あたしに、泣ける権利なんて……っ、あるわけない、のに、」
口元を覆う細い指の隙間から、嗚咽と共にそんな声が聞こえた。どこまでも己を押し殺そうとする、彼女の献身ぶりに、胸を打たれた。
しかし、お前のその言葉は、すぐにでも否定してやらねばなるまい。
「萩野……萩野、」それは違うぞ、と。地面に片膝をついて、彼女の肩を軽く揺さぶった。
呼ばれた梓の、見上げる目線とかち合った。涙に濡れた瞳を近くでまともに見て、伝えようとした言葉を失いかける。
それでもその涙が、不覚にも綺麗だと思ってしまった。場違いな脳味噌に呆れた。
それにあろうことか、泣いてはいけないと言う彼女が、自分の前では泣いてくれたことを、嬉しくも思っているのだ。その、名も知らぬ欲を、抑えることができないでいる。なんて身勝手な思考だと思った。
「……萩野、」
しかも、まただ。梓に呼びかけてみても、続く言葉が出てこない。彼女になんと言ってやるべきなのかが、わからない。せめて、涙を止めてやる
だってこのままでは──おかしな考えではあるが、なんだか彼女が消えてしまいそうに思えるのだ。
結城はそっと、そっと梓の頬に手を伸ばして、流れ出る涙に触れた。それを親指でぬぐってみると、あたたかい体液で濡れるのと、柔らかい頬の肌ざわり。自分の硬く乾いた指先とは、真逆の感触。
梓は静かに驚いていた。見開いた瞳から、また涙があふれそうになった。
彼女が消えてなくなってしまわないように。そこに確かに居ることを信じたい──その想いにしたがって、体が動いた。
結城は、梓のその華奢な背中と頭に両腕を回して、胸の中へ閉じ込めるように、抱きしめた。
「ぇ、あっ……」と、彼女が小さく戸惑った声をあげたので、少し身構えたが、それでも腕を離したりはしなかった。静まった倉庫の中、二人分の呼吸音の狭間で、ドクン、ドクン、と自身の心臓の鼓動が耳に届いてくる。
しばらくして、両腕に感じる重みが増した。梓が体重を預け──受け入れられたのだと理解できて、ほっとした。それを感じとった結城は、さらに梓を強く抱きしめた。彼女の額が、自分の肩に押しつけられた。
「……萩野が、我慢する必要なんてない」
選手とマネージャー。努力の形は違えど、同じ夢に向かって共に努力してきたことに、変わりはないのだから。彼女だって泣いていいはずだ。
むしろ、謝らなければならないのは、俺のほうだ──
結城は震える唇を押さえるために、強く噛みしめてから、絞り出すようにもう一度口を開いた。
「すまない……」
─────────────────────────
「すまない……」
やっぱり彼は謝った。
彼の腕の中にいることをまだ信じられないまま、結城に抱きしめられた梓はそう思った。
試合が終わったあとにも、彼は自分たちマネージャーのほうへ向かって、頭を下げていた。彼をずっとそばで見てきた自負はあったのに、なぜそんなことをするのか理解できず、悔しい思いもあった。
「どう、して……っ……」
どうして謝るの、と聞くつもりが、泣き声を必死に抑えた喉につっかえて、そこまでしか言葉が出なかった。代わりに、涙が出続けた。
「……連れていって、やりたかった」
想像もしていなかった。まさか、あの結城が──あれだけ真っ直ぐ“己を高めるために”努力するような彼が、そんなふうに考えていてくれたなんて、思いもしなかった。ましてやこんな自分に対して。
けれど正直、梓は気にしていなかった。選手の力になれるのなら、彼をそばで応援できるのなら、自分のことなんて、どうでもよかったのだ。
それに、戦っているのは選手たちなのに、支えることしかできない自分が、『連れていって』なんて身勝手なことを言えるはずもないと、やはりそう思った。
「お前以上に献身的なマネージャーは、きっと他にいないだろうから……連れていけるのは、俺たちだけなのに……」
なのに──彼が平気で、そんなことを言うものだから。
どうしてそんなに優しいの?
だけど、今日くらい──最後くらい、自惚れても、いいのかなあ。
「ほんとう……?」
「ああ……」
「本当に……そう思う……?」
「ああ」
結城の二度目のうなずきは、力強かった。同時にもっと抱き寄せられて、頬と耳と、彼の胸元との隙間が、ぴったりと埋まる。頬を伝っていた涙が、彼のジャージの身ごろに染みた。
片方の耳の穴が塞がって、自分の心音が頭の奥で響くのがわかった。梓は、締め付けられる思いのする心臓をおさえつけるように、両手でぎゅう、とTシャツの胸のあたりを強く握り締めて言った。
「ありがとう……」
あなたのその言葉だけで、今までのマネージャーとしての仕事、苦労も、懸けてきた尊い時も、全て報われる。
「よかった……このチームのマネージャーになって、よかった……」
夢の舞台には行けなかったけれど。それでもきっと、あたし以上に、チームの仲間に恵まれたマネージャーも、いないはずだから。
「哲がいてくれて……本当によかった……!」
何より、大好きな人をそばで支えることの幸せを知った。その幸せに終わりがあることは、わかっていたけれど、それでも入部してから今日まで、あなたの努力する姿を間近で見られたことを、誇りにすら思う。
「俺も、」
ぽつり、と発せられた結城の声が、微かに震えて聞こえた。ふいに、梓の頭の上から、小さく鼻をすする音がした。
「萩野と出逢えて、よかった」
「今の萩野の言葉で……そう思ったよ」
いつも言葉少なの彼が、そんなことをもう、呆れるほどに優しく言うものだから、梓はかつてないほどに、心を揺さぶられた。
こみ上げてくるものを抑えきれず、「……う、ぁ……! ひぐ、」みっともない声が出てしまった。
そのときになってやっと、人前でこんなに泣いたのはいつぶりだろう、なんて考えが頭をよぎった。その一瞬だけ、彼の前で大泣きしている事実に気が付いて、恥ずかしくなった。
だからせめて、顔だけは見られないようにと、結城の胸に深く顔をうずめた。その行為だって十分に恥ずかしくて、普段の梓ならばできないことだったが、すでにそんなことまで考えが及ばないほど、いっぱいいっぱいだった。
ところが結城は、それすら受け入れるように、その大きな手のひらを梓の頭に沿わせて、髪をなでてくれた。
「俺のほうこそ……ありがとう」
そこで初めて梓は、自分の心音とはズレて聞こえてくる別の音に気付いた。ドクン、ドクン、と──彼の鼓動が、早鐘を打っていることに。それによって、自分の心拍数まで上がった気がした。
口下手な彼だとしても、その生理的な現象は、何より雄弁だった。いつもは冷静な彼でも、少しはこの状況に、緊張したり、
そして、こんなときに彼に触れられていることが嬉しいだなんて、ふがいないなあ、そんな想いが心を占め始めていた。
その想いに気付いていないフリをするように、そっとまぶたを閉じると、また涙がこぼれた。互いの涙が乾くまでは、顔を上げずにいようと思った。
この涙が止まったら、もう思い残すことなんてないと、誓ってもいい。後悔はない。
それだけ、やれることはすべてやったと言い切れるほどに、今日まで無我夢中で、あっというまで、満ち足りた幸福な時間だった。
二人は、ひどく熱を持った体を寄せ合い、泣きはらした。恥も時間も忘れるほどに、泣き尽くした。
それでも、ほんの片隅の、こんなにも小さな空間には、二人を責めるものなんて、存在しなかった。
(ほとぼり【熱り】……高ぶった感情・興奮のなごり。冷めない熱。)
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