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目の前の光景が、信じられなかった。
電光掲示板の最終スコアには、“4-5x”と
負けた──青道が、負けた。
稲実の選手たちが、ワッ、とホームベースに集まって、喜びを分かち合っている。
青道の選手たちは、足取りが重くて、なかなか守備の位置から動くことができていない。地面に伏せて泣き崩れてる選手もいる。あ……あそこはセンターだから、きっと伊佐敷先輩だ。
「そんな……もう、これで……おわり…………?」
次々あふれてくる涙が止まらない。この状況がまだ整理できなくて、頭がぼうっとしたまま、私は自分が立ってるスタンドを見渡した。
メガホンを持って声が枯れるまで応援していた、控えの選手たちも、一緒に応援していたマネージャーの幸子先輩も、唯先輩も、声をあげて泣いている。
いつもは気の強い貴子先輩まで、私の隣に立ってる梓先輩の肩にすがりつくようにして泣いていた。
信じられない。あとアウト1つだったのに。あんなに頑張ってたのに。たくさん練習してたのに。みんな本当に強いのに。
「うっ、うぅ……梓……」
「貴子……」
嗚咽する貴子先輩の背中を、そっと
3年生の二人の先輩は、いつも頼りになって、綺麗で、仕事もテキパキしてて、本当に私の憧れで。でももう、こうしてマネージャーとして、選手たちの試合を観ることはないんだ。今日で最後なんだ。
「ほら、貴子……っ、選手たち、整列してるから……」
貴子先輩の肩を叩いて、梓先輩が言った。先輩の顔を見ると、声は震えていたけれど、何かを噛み締めるように顔を
そんな梓先輩の言葉を聞いた貴子先輩は、涙を流し続けたままでもうなずいて、グラウンドのほうへ向きなおった。それから、梓先輩は私のほうを見た。
「春乃も……唯と幸も。みんな、顔を上げて……ちゃんと最後まで、選手たちを見届けよう」
そう言った梓先輩にならってグラウンドのほうを向けば、整列している両校の選手たちが目に映った。顔を覆ったり、うつむいたままの列と、晴れやかな表情で、肩の力が抜けた様子の列が。
同じ涙でも、あふれ出る理由は正反対で。その対照的な姿に、私は思わず息をのんだ。
そこで改めて、“青道の負け”を実感した。選手もスタンドもみんな、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど
「5-4で、稲城実業高校の勝ち! 礼っ!!」
「ありがとうございましたぁ!!」
審判の人にならって、選手みんなが大きな声を出して、礼をした。スタンドに立つ先輩は、その選手たちを見据えたまま、拍手し続けていた。私もそれを見て、両手を何度も打ち合わせて拍手を送った。
試合終了を告げるサイレン。歓声と拍手は、どちらのスタンドからも鳴り止まなかった。
「さあ……バスが待つ場所まで行こっか……みんなが出てくる前に」
選手たちがベンチに戻っても、スタンドではまだ泣き続ける人がたくさんいる中で、最初にその言葉を言えたのは、梓先輩だけだった。ほほ笑みながら言った先輩の優しい声を聞いて、気を取り直した貴子先輩が涙を拭いたあと、つられるようにちょっと笑った。
「うん、そうね……こっちの荷物を、持っていくわね」
「あ、貴子先輩、手伝いますっ……」
「わ、私も……」
幸子先輩と唯先輩が、サッと動き出した貴子先輩を見て、戸惑いながらも手を貸している。
でも、私はそこに入ることができないでいた。まるで、現実じゃないみたいな、まだ夢の中にいるみたいな感覚で、動けないでいる。
そんな私に気付いた梓先輩が、すこし困ったように眉をハの字にして笑った。こっちに近付いてきて、先輩の首にかかっていたタオルで、私の顔をそっと拭いてくれる。
「もう、春乃ったら……そんなにぐちゃぐちゃになるまで泣いたら、可愛い顔が台無し」
「でも……っ、せんぱい……! うぅー……!」
「うん、わかってる。わかるよ」
まるで小さい子どもをあやすみたいに、「よしよし」って慰めてくれる梓先輩は、真っ白いタオルが汚れてしまうのも気にせずに、私の頭を
ほんのり湿った柔らかいタオルに埋もれていると、ふわっと優しい柑橘の香り。先輩がいつも使ってる制汗剤だって気付いた。その涼しげな香りに、ほっ、と力が抜けて落ち着いてきた。
「……あたしだって、悔しいよ。どうしてみんなが負けなきゃいけないのかって思うよ」
同じだった。先輩が思ってることも、私が感じたことも、何も変わらなかった。
「だけど、みんなのほうが、あたしたちなんかより、きっと何倍も悔しいから」
それを聞いて、私はハッとした。そのとおりだと思った。そして先輩は、やっぱり子どもに言い聞かせるみたいに、だけど変わらず優しい声で、私に言った。
「マネージャーが泣いてちゃ、選手たちが泣けないでしょう?」
「…………はい……っ」
梓先輩のその言葉を聞いて、やっとうなずくことができた。先輩はきっとそれを、
そんなことにも気付かないでいたなんて、やっぱり私はマネージャーとして、まだまだ足りない。
だから、もっともっといろんなことを教わりたかったのになあ。やめないでくださいなんて言ったら、それでも優しい梓先輩は、困った顔で笑うんだろうなあ。
「でも、みんながずっと努力してきた……それだけは、そばで見てきたあたしたちマネージャーが、一番よく知っているはずだから」
「試合に出てた選手たちにも、そうじゃないコたちにも……『よく頑張ったね』って心から言ってあげられるのは、あたしたちマネージャーだけだと思うの」
先輩は肩に掛けてたクーラーボックスから保冷剤を一個出して、涙を拭いてくれたタオルでそれをくるんだ。
「だから……ほら、コレで目元冷やして」
「わっ……」
タオルで巻かれた保冷剤を目元にあてられると、ひんやりと冷たくて気持ちいい感触。
「みんなを出迎えるのに、腫らしてちゃ恥ずかしいよ?」
「ね?」と笑顔で首をかしげる先輩が、会場の外へ続く階段へと歩きだす。今の話を聞いたら、その笑顔が精いっぱいの我慢で涙をこらえているように見えて、私は何も言えなくなってしまった。
だけど同時に、梓先輩はやっぱりすごいなって、心の底から思った。きっと私には、絶対に真似できない。
「……はいっ……!」
それでも、その背中にちょっとでもついていけるように、私は自分にできる限りの笑顔で返事をして、梓先輩を後を追いかけた。
「期待に応えられなくて、すいませんでした!!」
応援に来てくれた人たちに向けて、先頭に立つ結城先輩が挨拶をする。
「応援、ありがとうございました!!」
「したぁ!!」
選手たちの脇にいた私たちマネージャーも、揃って礼をした。周りの人たちから、大きな拍手が起こった。
「ナイスゲーム!」
「みんな胸張れー!!」
たくさんの人が、声をかけてくれている。負けてしまったのは悔しいけれど、こんなに多くの人を感動させられる選手たちのことが、マネージャーとして誇らしかった。
ふと元の位置に戻ると、私の視界の中に、まだ頭を上げていない選手が目に留まった。主将の結城先輩だ。
「謝るな、結城ー!」
「立派だったぞ!」
「また応援来るからなー!」
そう、『また』これから秋大会もあるし、センバツに選ばれるチャンスもある。
だけど、3年生の先輩たちにはもう、『また』の機会はない。
「お疲れ様ー!」
「よく頑張ったぞー!」
鳴り止まない拍手の中、キャプテンがゆっくり顔を上げた。そしたら、結城先輩が私たちの立っているところに気が付いたみたいな反応をした。一瞬、目を見開いた結城先輩の口が、何か言いたそうに少し開いて、それから閉じる。
こちらに視線が向けられる。結城先輩の男らしいきりっとした瞳から放たれる視線は、とても力強いといつも思う。バッターボックスに入ってるときなんて、迫力があってちょっぴり怖いくらい。
だけど、今の視線はいつもよりずっと優しい。そんなことを思っていると、チリッ──微かな音が聞こえてきた。なんの音だろう。
すると結城先輩は、もう一度、小さく頭を下げた。先輩は、やっぱり謝っているように見えた。
荷物を手に取って、順番にバスの中へ入っていく選手を見送りながら、私たちマネージャーは最後に乗るのを待った。
そのとき、隣にいた梓先輩に呼ばれた。
「ねぇ、春乃」
「はい……?」
チラッと、横目で梓先輩を見上げると、先輩はバスに乗り込もうとする選手のほうを見つめていた。視線を追ってみたら、その先には結城先輩がいる。
「彼……何を謝ってたんだと思う?」
「えっ」
その問いに、思わずもう一度振り返って先輩を見上げた。
まっすぐ、ひたすらにまっすぐ、結城先輩を見つめる二つの瞳が、ゆらゆら光って揺れている。その光が放つ視線は、同時に熱も放ってるみたいに、チリチリと──さっきの結城先輩のだって勘違いじゃない、音を立てていた。
不思議な現象を目の当たりにしたような気持ち。目が離せない。
「あたしたちに、負けたことを謝る必要なんて、ないのにね……」
そうですよね、と答えそうになって、でも声に出す前に、先輩の言葉が一つ引っかかって止めた。
距離が遠かったから、確かではないけれど。結城先輩が頭を下げたのは、私たちマネージャーじゃなくて、梓先輩だったんじゃないかなって……うん、梓先輩に向けていたような気がする。
「キャプテンは……甲子園に行きたかったんだと思います」
だって、あのときの結城先輩も、今の梓先輩と同じような視線を送っていたから。
「梓先輩と、一緒に」
私がそう言うと、紅潮した顔の梓先輩はそのとき初めて、本当に今にも泣きそうになるほど、瞳を潤ませた。それでも、涙はこぼれなかった。私はそんな先輩を見て、息が詰まりそうになった。
正直、私は友だちと話していても、恋愛ってよくわからなくて、ただ、彼氏がいるコの話を聞いていると、なんだか羨ましくなったりもするけれど。いつかはそんなこともあるのかな、とかのん気に思ってしまう。そんな私でもわかる。
──ああ、きっと先輩は、キャプテンに恋をしている。
見ている私まで火照ってしまいそう。いっぱい泣いたからかもしれないけど、体が熱いのはそれだけじゃない気がする。
「そうかな……」
私の言葉に梓先輩は、肯定とも否定ともとれない一言を、小さなため息みたいに吐き出した。先輩はそうやってよく、困ったように笑う。控えめで、優しくて、穏やかな先輩らしいけど、どこか遠慮しているみたいにも見える。
それでも先輩のあの瞳は、とても綺麗で、素敵な色で、見惚れてしまうくらいに、輝いていた。きっと、しばらく忘れられないだろうなと思った。
7月31日の日曜日──夏真っ盛りのこの日、私たち青道高校野球部の夏は、予選敗退に終わった。
(3年生たちの、夏が終わる。まだ終わらないでほしかったなあ……。)
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