「秘密」(ミト→イフ)

頭の中で何千、何万と繰り返したその言葉が口を突いて出ることはない。それは許されることでなない。愛する人も望んでいない。

「今日の僕を忘れないでミトニス…。
おまえの為にだけ存在した今日の僕を」

ミトニスは突然別れを突きつけられたようでひどく傷心した。

これが僕。

おまえの胸の内に持っていてほしい僕。
ずっと留めていてほしい、本当の僕…。

「決して忘れません。システィクの浜辺を一緒に歩き過ごした今日のこの時間……共に作った秘密、今私の目に映るあなたを。
ですから願わくば……どうか、あなたにも忘れないでいてほしい。今あなたの目に映る私を」

イフィーはミトニスが紡ぐ言葉を肝に銘じたように何度もうなづいた。

「忘れないよ。僕はこの先、きっと何度でも思い返すだろう」

ミトニスはその返事を時間をかけて丁寧に心の箱にしまうと、帽子を拾い上げて持ち主に渡した。

「足を冷やしてはなりません。どうか靴をお履きください」

イフィーは守護者の手によって丁寧に足元に並べて置かれた靴に足先を入れた。ふと、ミトニスの声に何か今まで感じなかった色を感じた。靴に足を通す少年の心は密かに動揺した。

システィクの浜から公道へ上がり、酒場までの石畳の坂道を二人は手を繋いで歩いた。

ミトニスの大きく肉厚な手は冬の海辺の外気温に伏すことなく熱を保っていて、主人の手指を包んでしっかりと寒さから守った。イフィーは今まで散々自分の為に世話を焼いてきた彼の手を、この時ほど意識したことはなかった。

自分の手にはない雄々しさや苦労の痕跡が宿る手。血の管が隆起して蔓延(はびこ)って見える手。無骨な手。温かい手。男の手…。その包み込んでくる感覚は、少年の心に浜辺で抱き留められた時の感触を鮮明に呼び起こした。若い心は揺れた。

イフィーは揺蕩(たゆた)うまま、隣を歩く男の横顔に目をやった。男の横顔は少し不幸を匂わせたが、今は満たされているように見えた。

少年は今やこの世で一番見慣れたその顔を、新しいものでも見るようにしばらく見ていた。男は隣に添う彼の眼差しに気づいて優しい瞳を寄越した。

「どうかしましたか?」

「これから行く店にシェリー酒はある?」

「ええ。店主はシセラクェンタの出身者ですから、勿論ございます。あの男のこだわりは相当なもので、シセラクェンタ産以外のシェリーも上等なものを色々と揃えていますよ」

「そうか」

イフィーはミトニスの手をほんの少しだけ強く握り返した。

「……
先代様が特に嗜まれた訳ではございませんが、シェリーにこだわられるのですね」

「ああ。ホワイトルシアンも試してみたいところだけれど、初めて杯を交わす相手はおまえ、そしてお酒は特別に甘いシェリーと決めている。あの酒が持つ意味は今夜の僕に相応しい」

ミトニスは驚いてイフィーを見た。

ミトニスが歩みを止めたので、イフィーも同調して立ち止まった。男は公道の真ん中で接点のない貴人から口説きを受けたように狼狽えた。

「おい、ミト…」

繋いだ手は汗ばみ、その顔は耳まで赤く染まっていた。イフィーは思わず吹き出した。

「そ…そのようなことをおっしゃられて、私は一体どうすれば……」

ミトニスが見せた反応がひどく意外だったのか主人は道路の真ん中で声を上げて笑った。

その出来事は行き交う何人かの人の目をさらったが、路上ではしゃぐその二人が自分たちの君主であるウルスコと守護者のミトニスだとは誰も思わなかった。

「くどいたわけじゃないぞ」

イフィーは腹を抱えて笑いながら言うと、繋いでいた手をほどいてミトニスの左上腕にすがりついて顔を覗き込むようにした。

「おまえは女の子みたいだな。ねぇ?
Sherry(シェリー)…CHÉRIE(シェリー)…シェリーには"愛しい人"と言う意味もあるだろう?今夜はその酒をおまえにご馳走してもらうよ」

主人は彼の耳元で囁き、楽しそうに笑いを潜らせた。ミトニスにはその愛くるしさに太刀打ちする術がなかった。彼は静かに顔を赤らめ、立ち上る煩悩と無言の格闘をしながらこれ以上の悪戯を主人が控えてくれるよう願った。

「……悪い人だ。そんな風に困らせるのが目的の誘惑を御令嬢方になさってはなりませんよ」

イフィーは笑みを浮かべたままミトニスを見つめた。返事はなかった。

「行こう、時間がなくなってしまう」

ミトニスは追究する代わりに優しい笑みを浮かべ、求めてきた彼の神経質な細い手先を再び握った。






「秘密」
ー終ー
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