「秘密」(ミト→イフ)
ミトニスは持ち場をキアラに託し、パーティー会場から廊下へと出た。一人になった彼の口から無意識にため息が溢れた。
アイル・ミトニスほど今日を望み、望まぬ者はいなかった。この日11月11日は彼が仕える主人、イフィー・L・ウルスコが17才を迎えたことを祝う誕生会が開かれており、ウルスコ一族に所縁のある商族や貴族、その子供たちも集まっており、宴に華を添えていた。
彼らの話題は、もっぱら今日のパーティーの主役であるこのサンフィッチェルトの若き君主イフィーだった。彼らが自分の主人のことを目を輝かせながら信者のような熱っぽさで語る姿は、ミトニスの心を暗くした。間接的に浴びる彼らの陶酔と熱狂は、この側近にとって精神的拷問に等しかった。
アイル・ミトニスの実年齢がまだ30を満たないのにそれを上回るように見えるのは、すでに人生を諦めている人を思わせる閉塞感からかも知れない。努めても物静かな彼の顔にはふとした瞬間、川が蓄える沈殿物の濁りのように皮膚を貫いて悲壮が浮き上がってくる。
それは打ち明けられることのない不幸だった。
その不幸とは、彼が主人である13才年下のイフィーに10余年に渡り捧げてきた"秘匿の恋"だった。
イフィーが一年また一年と成長の階段を登る姿を誰よりも喜ばしく思いながら、同時にミトニスは自分が絞首台の階段を登っている気がした。
最上段で待つのは麗しい上流の娘たちのいずれかと恋に落ちる主人の姿、そして結婚だ。
それは肉親のないイフィーを一番近くで見守り、育ててきた人間としての避けられぬ最終の義務であり、ミトニスの心の死が訪れることを意味していた。溜め息は安堵からだった。
会場で主人の行動を追う彼の目は多くの望まぬ光景を映した。中でもイフィーが煌びやかな娘たちと戯れる姿は、彼の心を深く抉(えぐ)った。
娘たちを目にするイフィーの顔には、自分には向けられることのない親密があった。主人の洗練された気遣いと格別に優しい眼差しは、少女たちを感嘆させ、心の中に野心にも似た特定の火を灯した。
娘たちといる主人はよく話し、幸せそうに見えた。
表面上は何の変化も起きていないその顔の下で、主人から目を背けたがる自分と格闘を続ける宴の時間は、ミトニスにとって一際強い自己嫌悪を催す責苦の時間でもあった。この時ほど自分の存在が場違いだと感じる時はなかった。彼は大勢の中に在る時、強い孤独を感じた。
疲れた青ざめた表情を自覚していたので、誰とも鉢合わせることなく廊下を渡って自室へと行きたかった。自然と歩みの速くなるミトニスだったが、ふいに彼を呼び止める声がした。足を止めて振り向くと、声の主はイフィーだった。
「ああ、ミト。ちょうどいいところへ来た」
主人は自室の扉を少し開けた隙間から辺りを伺うようにして彼を呼んだ。傍へ寄って見ると外套を羽織り、濃色の兎毛のフライトキャップを手にしている。
「イフィー様、その格好は…?」
「おまえが来るのを待っていたんだ。車の鍵は僕が取ってきた」
そう言ってイフィーは悪巧みをする顔で彼の目の前に鍵を翳した。ミトニスは彼の要望を理解したが、その突飛な提案に戸惑った。
「僕を連れ出してくれ」
「しかし…」
「客人たちか?心配するな。皆いい感じに酔って楽しんでいる。彼らの話し相手なら周りに幾らでもいるし、しばらく僕の姿が見えなくたって気にもしないだろうよ。だが目敏(めざと)いのは娘たちさ。早くしないと見つかってしまう」
娘たちがイフィーを探して駆けつける。
ミトニスはそれを拒否するように車の鍵を掴んだ。そして人目を忍びながら素早くイフィーを車まで誘導した。車に乗り込むと、ミトニスは確かめるように助手席を見た。イフィーは隣で軽く息を切らしながら両手でイヤーフラップをひっぱり、帽子を目の辺りまで深く被った。
思ってもいない展開だったが、誕生日の当日にイフィーと二人になる時間が持てたことに先程までの暗澹は過ぎ去り、ミトニスの心は年甲斐もなく嬉しさに早打ちした。
丁重な振る舞いの裏で主人が娘たちの羨望に一種の冷徹を抱いているかも知れないと知り、ミトニスは喜んで逃避行を目論む彼の共犯者になることにした。
「どちらへ?」
「海が見たい。システィクの海辺を少し歩かないか」
迷いのない発言だった。
客人も麗しの娘たちも置き去りに、パーティーを抜け出して二人で海を見に行く。一緒に美しいシスティクの海辺を歩く…。ミトニスはエンジンをかけて静かに車を発進させた。
アイル・ミトニスほど今日を望み、望まぬ者はいなかった。この日11月11日は彼が仕える主人、イフィー・L・ウルスコが17才を迎えたことを祝う誕生会が開かれており、ウルスコ一族に所縁のある商族や貴族、その子供たちも集まっており、宴に華を添えていた。
彼らの話題は、もっぱら今日のパーティーの主役であるこのサンフィッチェルトの若き君主イフィーだった。彼らが自分の主人のことを目を輝かせながら信者のような熱っぽさで語る姿は、ミトニスの心を暗くした。間接的に浴びる彼らの陶酔と熱狂は、この側近にとって精神的拷問に等しかった。
アイル・ミトニスの実年齢がまだ30を満たないのにそれを上回るように見えるのは、すでに人生を諦めている人を思わせる閉塞感からかも知れない。努めても物静かな彼の顔にはふとした瞬間、川が蓄える沈殿物の濁りのように皮膚を貫いて悲壮が浮き上がってくる。
それは打ち明けられることのない不幸だった。
その不幸とは、彼が主人である13才年下のイフィーに10余年に渡り捧げてきた"秘匿の恋"だった。
イフィーが一年また一年と成長の階段を登る姿を誰よりも喜ばしく思いながら、同時にミトニスは自分が絞首台の階段を登っている気がした。
最上段で待つのは麗しい上流の娘たちのいずれかと恋に落ちる主人の姿、そして結婚だ。
それは肉親のないイフィーを一番近くで見守り、育ててきた人間としての避けられぬ最終の義務であり、ミトニスの心の死が訪れることを意味していた。溜め息は安堵からだった。
会場で主人の行動を追う彼の目は多くの望まぬ光景を映した。中でもイフィーが煌びやかな娘たちと戯れる姿は、彼の心を深く抉(えぐ)った。
娘たちを目にするイフィーの顔には、自分には向けられることのない親密があった。主人の洗練された気遣いと格別に優しい眼差しは、少女たちを感嘆させ、心の中に野心にも似た特定の火を灯した。
娘たちといる主人はよく話し、幸せそうに見えた。
表面上は何の変化も起きていないその顔の下で、主人から目を背けたがる自分と格闘を続ける宴の時間は、ミトニスにとって一際強い自己嫌悪を催す責苦の時間でもあった。この時ほど自分の存在が場違いだと感じる時はなかった。彼は大勢の中に在る時、強い孤独を感じた。
疲れた青ざめた表情を自覚していたので、誰とも鉢合わせることなく廊下を渡って自室へと行きたかった。自然と歩みの速くなるミトニスだったが、ふいに彼を呼び止める声がした。足を止めて振り向くと、声の主はイフィーだった。
「ああ、ミト。ちょうどいいところへ来た」
主人は自室の扉を少し開けた隙間から辺りを伺うようにして彼を呼んだ。傍へ寄って見ると外套を羽織り、濃色の兎毛のフライトキャップを手にしている。
「イフィー様、その格好は…?」
「おまえが来るのを待っていたんだ。車の鍵は僕が取ってきた」
そう言ってイフィーは悪巧みをする顔で彼の目の前に鍵を翳した。ミトニスは彼の要望を理解したが、その突飛な提案に戸惑った。
「僕を連れ出してくれ」
「しかし…」
「客人たちか?心配するな。皆いい感じに酔って楽しんでいる。彼らの話し相手なら周りに幾らでもいるし、しばらく僕の姿が見えなくたって気にもしないだろうよ。だが目敏(めざと)いのは娘たちさ。早くしないと見つかってしまう」
娘たちがイフィーを探して駆けつける。
ミトニスはそれを拒否するように車の鍵を掴んだ。そして人目を忍びながら素早くイフィーを車まで誘導した。車に乗り込むと、ミトニスは確かめるように助手席を見た。イフィーは隣で軽く息を切らしながら両手でイヤーフラップをひっぱり、帽子を目の辺りまで深く被った。
思ってもいない展開だったが、誕生日の当日にイフィーと二人になる時間が持てたことに先程までの暗澹は過ぎ去り、ミトニスの心は年甲斐もなく嬉しさに早打ちした。
丁重な振る舞いの裏で主人が娘たちの羨望に一種の冷徹を抱いているかも知れないと知り、ミトニスは喜んで逃避行を目論む彼の共犯者になることにした。
「どちらへ?」
「海が見たい。システィクの海辺を少し歩かないか」
迷いのない発言だった。
客人も麗しの娘たちも置き去りに、パーティーを抜け出して二人で海を見に行く。一緒に美しいシスティクの海辺を歩く…。ミトニスはエンジンをかけて静かに車を発進させた。