B×W過去三部作③「決断」
ビブセントの抱えた孤独や苦しみは空虚の皮をかぶった獰猛な怪物で、再生を試みる彼の心に巣食って精気を吸い私腹を肥やしていた。最愛の人が選んだビブセントを生かすという選択肢は、結果として収拾のつかないほど彼を追いつめ、あらゆるものを敵視する目を与えることになっていた。
「頼むから…そんなことを言うな、バックス」
さすがのウェブスターも一瞬、彼の告白にたじろいだ。
「ああ、俺の色々なものを奪っていった神よ。何故お前に彼が殺せて俺が殺せないかって話だ、畜生が!!」
兄は舞台役者のように立ち振る舞い、天井に向かって神への冒涜を放った。
「バックス、もうよせ。さぁ立て。俺を見ろ」
ウェブスターは泥酔したように足のもつれる体を支えて立たせ、子供のように泣きべそをかく彼の顔を眺めた。薬に侵されて感情が高ぶったビブセントには恥らいがなく、大声でわんわんと泣いては神を蔑み愁悶した。兄の有様に幾らかの情けなさは感じても、こんな時にウェブスターの性格は真の慈愛を発揮した。
最愛の人を亡くしたビブセントを守ってゆくと決めた時から、このような状況に行き着く覚悟はできていた。ウェブスターにしてみれば、ビブセントが隠し持つ本来の人格がどれほど繊細で脆(モロ)いものなのかは最愛の人の生前から薄々感じていたことで、だから目の前に現実となって現れてもさほどのうろたえも感じずにいられた。
「なぁ聞けよ。死にたいなんて言うな。薬もやるんじゃない、二度とだ。俺はお前が昔みたいに笑うなら何だってする覚悟があるんだ。……お前を愛しているよ。俺はお前が彼を愛したように、お前を愛している」
ビブセントは、暴行されるいわれはないのにすれ違いざまに見知らぬ人から思い切り殴られでもしたかのような顔を向け、そしてウェブスターから逃れるように身を反った体勢で驚き固まった。
「俺がクロスを愛したようにだと…?……違う、よせ。そんな筈はない。お前は何も知らないんだ」
「何も?いや…。俺はお前がどんな目で将軍を見ていたかを知っている」
「黙れ!知るものか、彼への侮辱だ!お前、俺に向かってよくもそんなことが!!」
ウェブスターは罵られながらビブセントの青ざめた顔面の皮下に鮮血がほとばしり、一瞬にして変色した様が海洋生物の擬態のようだと思った。
「事実だから怒るんだな」
激高するビブセントとは違って、ウェブスターは淡々としていた。ビブセントは不可侵領域を踏み荒らされて怒り狂ったが、ウェブスターの顔があまりに冷めていたのでそれ以上昂りようがなかった。ビブセントは閉口した。ウェブスターの目は全てを射抜いていた。
おかしなもので、ビブセントが荒ぶれば荒ぶるほどウェブスターの冷静沈着ぶりは増すばかりであった。ほかの者がこの剣幕に遭遇すれば、大体が怯えすくむか尻尾を巻いて逃げるかしたが、ウェブスターに限っては決して兄の激情に呑まれることがなかった。
「頼むからやめてくれ、レオ。そんなことは嘘だろう?取り返しのつかないことになる」
「……そんなことって?」
威嚇が通用しないと知るや意気消沈し、尻込みして後ずさるビブセントの片腕を掴むとウェブスターは尋ね返した。
「お前…俺がそんな中途半端な気持ちで将軍と誓いを交わしたと思っていたのか?俺が、彼とお前の事情に無知でありながら彼の意思を引き受けたとでも?」
「そんな…」
続きは喉の奥につまって出てこなかった。ビブセントは隅に追いやられると絶望的な顔をしてその場にしゃがみ込み、上体を折り曲げて祈るような体勢で床と鼻先を突き合わせた。そうして首を左右に振り続けることで意思表示に努めた。
「バックス」
ウェブスターは彼の前に膝をついた。
「お前は決して言わない。自分が破滅しようと言わない。だから俺が言うんだ」
向かい合い誠実な目で見つめてくる親友に、ビブセントはうろたえてしくしくと泣いた。
「俺は構わない。お前がそれで幸せになるなら二度と会わないことも、本気で愛し合うことも、俺はどっちだって…。それがお前の本望なら構わない」
ウェブスターは長年親友として連れ添った彼に、最愛の人の死後ずっとあいまいにしてきた胸中を打ち明けた。彼は以前からビブセントが自分に特別な愛情を抱いた可能性に気付いていたし、健気に最愛の人を愛し続けていることも知っていた。気丈に振る舞う裏で滞留と変化、二つの感情に揉まれ苦しんでいることを知っていた。
「何故そんなことを」
兄は両手で頭を抱えて苦悩し、目の前のウェブスターと煮え切らない自分の心に腹を立てた。
「俺にそれを選べと言うのか?どうしてそんなことが選べる!一体どうしてそんなことが!!」
ビブセントは叫び、ウェブスターの胸を拳で何度も殴りつけた。やがて罵声は嘆きに変わり、ビブセントは感情をぶつけることに疲れ、力尽きた。
「将軍のこともそうだが、お前は今の組織での環境にも参っているんだよバックス。しばらく仕事のことは忘れろ。俺とリョンナンに行くんだ」
妥協を赦さないウェブスターに兄は疲れてしまい、途方に暮れた。
「愛してるぜレオ……嘘じゃない。
確かに離れようとしたのはクロスに誠実でありたかったというのもある。だが何よりお前が大事だったからだ。頭がイカれて、お前を俺の面倒な人生の巻き添えにしたくなかった。薬を吸っていても戯言だと思うな。俺はお前のまともな未来を守る為なら、自分の人生を今すぐ捨てたって構わないんだ。それでも俺を突き放して二度と関わらないとは言ってくれないのか」
「ああ、言わないな」
全てをさらけ出してもウェブスターの心が動いた痕跡が微塵(ミジン)もなかったから、ビブセントはこの世の末のような悲壮を浮かべて、もう言葉もなかった。
「お前の人生は面倒なんかじゃない。それにお前が守りたい俺のまともな未来って何だ?俺の人生をどう使うかは俺が決める」
ウェブスターは落胆してうなだれるビブセントの顎を掴み、目を合わせるよう訴えた。乱闘の末に純真のみが残ったビブセントの瞳には、目の前の相手に全てを委ねることへの羨望が現れていた。
ウェブスターは優しい目でそれを感受したことを彼に伝えた。
「少しずつでいい。将軍は死んだんだ。それは変えられない。自分の変化を否定したりせずに、生きて今目の前にいる俺を見てくれ。俺には二度とお前を兄キと呼ばない覚悟ができている」
心臓が激しく鳴り、急にビブセントはウェブスターとの体の距離を意識した。先ほどまで感じていた戸惑いやいろいろな恐怖にすり替わって込み上げてきた輝かしい熱情を抑えようと頑張り、塞ぎきれなかったその残骸が青い双眼をじわりと潤した。
御免だ、クソ食らえ、バカヤロウ。
何でもよかったのにウェブスターの覚悟を退ける一言が出てこなかった。
油断すると、代わりに"うん"と了解の言葉が滑り出そうな気がして、ビブセントは口を引き締めていた。返事をしなかったことで、本気で愛し合うことを承諾したと捉えられたとしても。
(何だよ、本気で愛し合うって…
俺はいつだって本気だっただろ?)
頭の中で呟きながら、ビブセントは本気で愛し合うことの定義について考えた。
今までだって自分たちは愛し合ってきた。ならば、本気という部分に集約されているものは何だろう?頭のどこかで解っていたのに、考えていると装うことでビブセントは誰も見ていない脳内で言い訳をした。それから今この瞬間の、ウェブスターとの身体上の距離について言い訳をし、自分の胸の高鳴りについて言い訳をし、言い訳をすることについても言い訳をし……。
自分を低く見積もり、そうして自身を追いつめてしまうのが彼の悪い習慣だった。
あれこれと複雑に考えるビブセントと違って、ウェブスターは非常にシンプルな考え方の持ち主で、今度の場合も結論を出すのが早かった。
兄は最愛の人と自分との間で心が揺れている
。だからこれまでの経歴を捨て、彼の恋人となり導くことにした。今にも自分で自分の首をへし折りそうな兄を生かす唯一の方法だったからそうしただけのことだった。
もちろん、それに伴う現実的な問題も把握していた。だが前の心臓の移植問題で見て取ったように、彼はここでもビブセントにとっての最善を達成する為には手段を選ばぬ、恐れを知らない男だった。
「その決断は非常識だ!」
そういう野次は、彼にとって解決能力のない人間の戯言だったのである。
そして最後に物語の要ー(ビブセントがウェブスターとリョンナンに行ったか?)ーだが、結果としてビブセントは彼とリョンナンへ行った。
旅先で彼がウェブスターに従って互いの関係をつめようとしたのか、あるいは実際につめたのか、または無関心で通したのかは定かではない。だがリョンナンでの二週間のビブセントは彼の傍で心穏やかに過ごしたと聞く。
ビブセントとウェブスター過去三部作③
「決断」
-終幕-
「頼むから…そんなことを言うな、バックス」
さすがのウェブスターも一瞬、彼の告白にたじろいだ。
「ああ、俺の色々なものを奪っていった神よ。何故お前に彼が殺せて俺が殺せないかって話だ、畜生が!!」
兄は舞台役者のように立ち振る舞い、天井に向かって神への冒涜を放った。
「バックス、もうよせ。さぁ立て。俺を見ろ」
ウェブスターは泥酔したように足のもつれる体を支えて立たせ、子供のように泣きべそをかく彼の顔を眺めた。薬に侵されて感情が高ぶったビブセントには恥らいがなく、大声でわんわんと泣いては神を蔑み愁悶した。兄の有様に幾らかの情けなさは感じても、こんな時にウェブスターの性格は真の慈愛を発揮した。
最愛の人を亡くしたビブセントを守ってゆくと決めた時から、このような状況に行き着く覚悟はできていた。ウェブスターにしてみれば、ビブセントが隠し持つ本来の人格がどれほど繊細で脆(モロ)いものなのかは最愛の人の生前から薄々感じていたことで、だから目の前に現実となって現れてもさほどのうろたえも感じずにいられた。
「なぁ聞けよ。死にたいなんて言うな。薬もやるんじゃない、二度とだ。俺はお前が昔みたいに笑うなら何だってする覚悟があるんだ。……お前を愛しているよ。俺はお前が彼を愛したように、お前を愛している」
ビブセントは、暴行されるいわれはないのにすれ違いざまに見知らぬ人から思い切り殴られでもしたかのような顔を向け、そしてウェブスターから逃れるように身を反った体勢で驚き固まった。
「俺がクロスを愛したようにだと…?……違う、よせ。そんな筈はない。お前は何も知らないんだ」
「何も?いや…。俺はお前がどんな目で将軍を見ていたかを知っている」
「黙れ!知るものか、彼への侮辱だ!お前、俺に向かってよくもそんなことが!!」
ウェブスターは罵られながらビブセントの青ざめた顔面の皮下に鮮血がほとばしり、一瞬にして変色した様が海洋生物の擬態のようだと思った。
「事実だから怒るんだな」
激高するビブセントとは違って、ウェブスターは淡々としていた。ビブセントは不可侵領域を踏み荒らされて怒り狂ったが、ウェブスターの顔があまりに冷めていたのでそれ以上昂りようがなかった。ビブセントは閉口した。ウェブスターの目は全てを射抜いていた。
おかしなもので、ビブセントが荒ぶれば荒ぶるほどウェブスターの冷静沈着ぶりは増すばかりであった。ほかの者がこの剣幕に遭遇すれば、大体が怯えすくむか尻尾を巻いて逃げるかしたが、ウェブスターに限っては決して兄の激情に呑まれることがなかった。
「頼むからやめてくれ、レオ。そんなことは嘘だろう?取り返しのつかないことになる」
「……そんなことって?」
威嚇が通用しないと知るや意気消沈し、尻込みして後ずさるビブセントの片腕を掴むとウェブスターは尋ね返した。
「お前…俺がそんな中途半端な気持ちで将軍と誓いを交わしたと思っていたのか?俺が、彼とお前の事情に無知でありながら彼の意思を引き受けたとでも?」
「そんな…」
続きは喉の奥につまって出てこなかった。ビブセントは隅に追いやられると絶望的な顔をしてその場にしゃがみ込み、上体を折り曲げて祈るような体勢で床と鼻先を突き合わせた。そうして首を左右に振り続けることで意思表示に努めた。
「バックス」
ウェブスターは彼の前に膝をついた。
「お前は決して言わない。自分が破滅しようと言わない。だから俺が言うんだ」
向かい合い誠実な目で見つめてくる親友に、ビブセントはうろたえてしくしくと泣いた。
「俺は構わない。お前がそれで幸せになるなら二度と会わないことも、本気で愛し合うことも、俺はどっちだって…。それがお前の本望なら構わない」
ウェブスターは長年親友として連れ添った彼に、最愛の人の死後ずっとあいまいにしてきた胸中を打ち明けた。彼は以前からビブセントが自分に特別な愛情を抱いた可能性に気付いていたし、健気に最愛の人を愛し続けていることも知っていた。気丈に振る舞う裏で滞留と変化、二つの感情に揉まれ苦しんでいることを知っていた。
「何故そんなことを」
兄は両手で頭を抱えて苦悩し、目の前のウェブスターと煮え切らない自分の心に腹を立てた。
「俺にそれを選べと言うのか?どうしてそんなことが選べる!一体どうしてそんなことが!!」
ビブセントは叫び、ウェブスターの胸を拳で何度も殴りつけた。やがて罵声は嘆きに変わり、ビブセントは感情をぶつけることに疲れ、力尽きた。
「将軍のこともそうだが、お前は今の組織での環境にも参っているんだよバックス。しばらく仕事のことは忘れろ。俺とリョンナンに行くんだ」
妥協を赦さないウェブスターに兄は疲れてしまい、途方に暮れた。
「愛してるぜレオ……嘘じゃない。
確かに離れようとしたのはクロスに誠実でありたかったというのもある。だが何よりお前が大事だったからだ。頭がイカれて、お前を俺の面倒な人生の巻き添えにしたくなかった。薬を吸っていても戯言だと思うな。俺はお前のまともな未来を守る為なら、自分の人生を今すぐ捨てたって構わないんだ。それでも俺を突き放して二度と関わらないとは言ってくれないのか」
「ああ、言わないな」
全てをさらけ出してもウェブスターの心が動いた痕跡が微塵(ミジン)もなかったから、ビブセントはこの世の末のような悲壮を浮かべて、もう言葉もなかった。
「お前の人生は面倒なんかじゃない。それにお前が守りたい俺のまともな未来って何だ?俺の人生をどう使うかは俺が決める」
ウェブスターは落胆してうなだれるビブセントの顎を掴み、目を合わせるよう訴えた。乱闘の末に純真のみが残ったビブセントの瞳には、目の前の相手に全てを委ねることへの羨望が現れていた。
ウェブスターは優しい目でそれを感受したことを彼に伝えた。
「少しずつでいい。将軍は死んだんだ。それは変えられない。自分の変化を否定したりせずに、生きて今目の前にいる俺を見てくれ。俺には二度とお前を兄キと呼ばない覚悟ができている」
心臓が激しく鳴り、急にビブセントはウェブスターとの体の距離を意識した。先ほどまで感じていた戸惑いやいろいろな恐怖にすり替わって込み上げてきた輝かしい熱情を抑えようと頑張り、塞ぎきれなかったその残骸が青い双眼をじわりと潤した。
御免だ、クソ食らえ、バカヤロウ。
何でもよかったのにウェブスターの覚悟を退ける一言が出てこなかった。
油断すると、代わりに"うん"と了解の言葉が滑り出そうな気がして、ビブセントは口を引き締めていた。返事をしなかったことで、本気で愛し合うことを承諾したと捉えられたとしても。
(何だよ、本気で愛し合うって…
俺はいつだって本気だっただろ?)
頭の中で呟きながら、ビブセントは本気で愛し合うことの定義について考えた。
今までだって自分たちは愛し合ってきた。ならば、本気という部分に集約されているものは何だろう?頭のどこかで解っていたのに、考えていると装うことでビブセントは誰も見ていない脳内で言い訳をした。それから今この瞬間の、ウェブスターとの身体上の距離について言い訳をし、自分の胸の高鳴りについて言い訳をし、言い訳をすることについても言い訳をし……。
自分を低く見積もり、そうして自身を追いつめてしまうのが彼の悪い習慣だった。
あれこれと複雑に考えるビブセントと違って、ウェブスターは非常にシンプルな考え方の持ち主で、今度の場合も結論を出すのが早かった。
兄は最愛の人と自分との間で心が揺れている
。だからこれまでの経歴を捨て、彼の恋人となり導くことにした。今にも自分で自分の首をへし折りそうな兄を生かす唯一の方法だったからそうしただけのことだった。
もちろん、それに伴う現実的な問題も把握していた。だが前の心臓の移植問題で見て取ったように、彼はここでもビブセントにとっての最善を達成する為には手段を選ばぬ、恐れを知らない男だった。
「その決断は非常識だ!」
そういう野次は、彼にとって解決能力のない人間の戯言だったのである。
そして最後に物語の要ー(ビブセントがウェブスターとリョンナンに行ったか?)ーだが、結果としてビブセントは彼とリョンナンへ行った。
旅先で彼がウェブスターに従って互いの関係をつめようとしたのか、あるいは実際につめたのか、または無関心で通したのかは定かではない。だがリョンナンでの二週間のビブセントは彼の傍で心穏やかに過ごしたと聞く。
ビブセントとウェブスター過去三部作③
「決断」
-終幕-
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