B×W過去三部作③「決断」

「話はそれだけですか。一眠りしたいんだが……」
「ああ、それでだ。肝心なのは次だよ」

そういって、ヌエスは手に持っていた光沢のある封筒を彼の前にかざした。

「褒美にリョンナンでのニ週間の休暇が出た」

ウェブスターは飲み込むのに凡そ三秒要し、あとで意外そうに瞬きをした。リョンナンは南方に開拓された高級リゾートエリアで、方々の権力や金力のある人間が訪れる至極の遊園である。

「関門通行許可証が二枚とドレアムホテルのカードが二枚だ。部屋は最上階で、ホテルの全てのサービスが使えるようになっている。同伴が一名可能だから、町に恋人がいるのなら誘うもいいだろうし…」

訝しげな顔を向けるウェブスターに語尾を濁して、ヌエスは彼の肩越しに部屋の奥に視線を投げやった。奥にあるベッドの上では、ビブセントが倒れ込むようにして泥のように眠っていた。

言動を断ち、二人は揃ってビブセントの寝息に耳をすませた。

「……ビブセントを連れいくのもいい。どうやら疲れが溜まっているようだしな。彼を同伴するなら、私に一言くれたまえ。ビブセントの日頃の働きを訴えれば、上層部も融通を効かせてくれるだろう」

説明を受けながら権利書を手渡されたウェブスターは、ヌエスと一緒に死人のようになっているビブセントを眺めた。

「ビブセントが目を覚ましたら話してみます」
「それがいい。話は以上だ、ゆっくり休みたまえ」
「有難うございます」

上官はうなづき、くるりと体の向きを変えて去っていった。

ヌエスはウェブスターを尋ねて当たり前のようにこの部屋を訪れたが、そもそもこの部屋は彼の部屋ではなかった。ここはビブセントの個室で、二人は少し前から別々の部屋に暮らしていた。ビブセントが望み、そうすると言ってきかない末のことだった。

だが部屋を分けた後もウェブスターは頻繁にビブセントの部屋を訪れたし、そのまま眠って一晩を過ごすこともあったから、部屋を別にしたことも現状としては曖昧な境界線を敷いただけのことであった。

部屋が同じだった頃、眠るのはいつもビブセントが先で、ウェブスターは眠りについた彼の傍でしばらく起きて過ごすのが決まりになっていた。それは目を離した隙にビブセントが発作を起こすことを恐れたウェブスターが自ら作り上げた習慣だった。

発作がひどかった日の晩は、手の爪で腕の内側の肉を深くえぐる自傷行為に及んだので、ビブセントが不安の兆候を見せた時は、彼の腕を背後から押さえつけるようにして一緒に眠ることもあった。

ビブセントが男同士で体を寄せて眠ることを嫌がると、ウェブスターはすました顔で「誰が好き好んでやっているものか」と返したが、眠る時に拘束した手の先を握っていてやると兄が安心して眠ることを発見した。

そうして度々二人は、さながら同性の恋人のようにして眠った。

図らずして行い続けたそのような親密はウェブスターへの、ビブセントの心身の癒着をもたらした。ビブセントは彼が傍らにいない時は不安を顔一面に滲ませるようになった。夜は眠ることもせずにいらいらした様子で不機嫌に部屋の中を延々歩き回ったり、そんな檻の中の獣のような自分を落ち着かせようとして窓際で煙草をやって朝を迎えたりした。

彼はその依存性がウェブスターに知れることを嫌った。またウェブスターは、兄の心の変化や自分たちの関係に起こりつつある決定的な変化を一切話題に上げることはしなかった。はたから見れば平然としているウェブスターが、一線を越えそうになっているその現状をどう思っていたかなど、ビブセントにさえ解らなかった。

それでビブセントは危機感のないこの親友との関係が更に"悪化"することを避ける為に、間をぶ厚い壁で隔てて距離を置こうとしたのだったが結局のところ状況は平行線であった。

どんなに睡眠のサイクルが不規則でも、7時になると機械じかけの人形のように目を覚まして起き上がるよう体を訓練していたから、ウェブスターは短い睡眠を取りに戻った自室できっちり7時に目を覚ました。それから定位置である窓際の深々とした座面のひじかけ椅子に腰掛けて煙草を吸い、二時間前に受け取った権利書を諦観した。

そしてそのまましばらく思想にふけった後、机の上に並べた書類のいくつかに目を通して署名を済ませると、制服に着替えて権利書を手に部屋を出た。

非番の時、変わらず規則正しいウェブスターとは対照的にビブセントの休日は怠惰であった。
とはいっても、ウェブスターの規則正しい生活の循環はビブセントの不調を監視する目的からきていたわけで、彼はこの日も早々にビブセントの部屋を尋ねた。

元来の兄は惰性で生きることを知らないきっちりとした性格であったが、最愛の人と暮らした世界を失ってからはその絶対的な規律も崩れ去ったらしく、荒んでいた。いつもしつこくノックした挙句にビブセントは少しだけ開いたドアの隙間の向こうにその姿を現した 。

「…何だ?…お前か…。勘弁しろよ。休みだっていうのに…」

いつも美しく身なりを整えているビブセントとはまるで違う人間が、開けたドアの隙間からこちらを見た。髪は乱れて垂れ下がり、半分だけ覗いた顔は生気に欠け青白く目は虚ろで焦点が合っていない。羽織った白いシャツは、だらしなく痩せた肩を露出して腕の先に絡み付いている。ひょろ長い二本の脚で支えられた胴体は波間を漂うようにゆらゆらと怪しく揺れていた。

「決まった時間にやってくる、お前は監獄の看守かよ」

兄は面倒臭そうに吐き捨て、重たそうに揺れる頭をドアの縁にがつんと打ちつけて固定した。金色の髪がべっとりと貼りついた額に嫌な汗が光っていた。

「二週間の長期休暇が出た。ルンジット作戦の褒美だそうだ」

ウェブスターは鋭い洞察力を働かせながら言い、権利書を彼の目の前に掲げた。

「へぇ、そうかい。ル、ルンジットの一件には俺は関わらなかったぜ……また組織での株を上げたな。そのうちムンのやつ、お前を娘婿にと言い出すかも知れないぜ。なぁ?」

賛美と蔑視が一体となった言葉にウェブスターは黙った。

「まったくお前ってやつは…女が絡むといい仕事をしやがる」

兄が呂律(ロレツ)の回らない様子で突然ドアを閉めようとしたので、ウェブスターは腕をはさんでそれを食い止めた。

「褒め言葉になっていない。なぁ、リョンナンでの休暇だぜ。二人分の権利書があるんだ」
「何だって…?それで俺を誘っているのか?」
「俺が誘える相手は、お前しか。」

ウェブスターが言うと兄は吹き出し、口元を歪めてこきおろすような溜息をついた。

「一等リゾート地での休暇に男を誘うやつがあるか…相手が違うだろう。あの娘を連れて行け。あの酒場の、…シンシアとかいう娘だよ」

ビブセントはドアにもたれて目を閉じ、眠りながら話しているようだった。ウェブスターは彼の意外な言葉に表情を曇らせた。

「シンシア?」

「ああ、そうさ。あの娘はお前に惚れている。若くしてあんな店で働いているが、お前に一途で純粋そのものだ。あばずれじゃない」

囁きながら時折奇妙な笑みを浮かべ、ひどく疲れた顔はいよいよ死相のようになってきた。

「電話をかけろ、そして楽しんで来い…じゃあな」
「おい、待て、待て」

一方的に話を切り上げてビブセントが再びドアを閉めようとしたので、今度は右足をドアの間に差し込んでそれを阻止した。兄は天井に向かってぶつくさ言い、誰かからの返事を受け取ったようにうなづいたりした。

「お前、最近、反抗的だぜ。少しは黙って兄貴の言うことを聞けないのか?」
「今のお前がまともな精神でものを言っているっていうんならな」

ビブセントはやはり面倒だ、と呟いた。ウェブスターは不機嫌な様子で兄を押しのけるようにし、部屋の中へ入った。ビブセントはふらふらとした足取りで部屋の隅へ行ってたたずむと、彼の様子を亡霊のように青白い顔で傍観した。ウェブスターは部屋の奥の窓際の机の上を見て失望したように頭をひねり、振り返った。

「ビブセント…薬をやったな」

兄は壁にもたれたまま無関心な様子で、声のした方をちらりと流し見た。机の上にはいくつかの怪しい器具と、悪い薬の粉があった。部屋を訪れた時、ウェブスターはビブセントの目に起きている瞳孔の散大や不自然な言動を見てとり事を悟っていたが、目の前に突きつけられた事実は辛辣であった。

「どのルートでこれを手に入れた?事は重大だぞ、バックス」
「構わないさ、兄弟」

ビブセントは彼の本気の心配を嘲笑った。

「俺が非番の時に薬をやることが重大なものか。日常の些細な片鱗だ。なぁ、早く行けよ。リョンナンでの宴に遅れるぞ。♪あらゆる陰湿とおさらばだ。夢の宴が待っている。いい女と最高の時を過ごすのさ…」

ビブセントは手の内に隠し持っていた薬包を口に食むと煙を吸い、病的な風貌につり合わない小鳥のさえずりのような美しい声で歌った。

「出発は明日だ。お前を連れて行く」

ウェブスターは包み紙を取り上げ、苛立った様子で吐き捨てた。ビブセントは理解したかしなかったか、一度おかしそうに高く笑い、その後しんと静まり返った。急激に表情を殺ぎ、寂しそうに背中を丸くして、憂鬱の殻に閉じこもってしまった。

「なぁレオ、頼むから……」

兄は沈み、真面目な声で呟いた。

「俺を一人にしてくれ。シンシアとリョンナンに行ってくれ。あの娘で何が不足だ?年も同じくらいだ。可愛くて愛嬌がある。スタイルがいい上に、料理ができて面倒見もいい。それにお前好みのブロンドだぞ。毎日あれだけ働いた上、家に帰れば天災で障害を抱えた弟の世話に勤しむというじゃないか。ああいう娘にこそ褒美が必要だと思わないのか?
俺にだってプライドってもんがある。俺は自分が何をしているか解っているし、尻拭いくらい自分でできる。リオラが死んでから、お前はもう嫌というほど俺のボロを見てきたはずだ……お前にはこれ以上頼れないよ。近くにいたくない。これ以上は、俺たちの関係がだめになってしまう」

懇願するように親友を見るビブセントの目には普段の覇気の欠片もなく、平常心の喪失を恐れ怯えていた。慎重に紡ぎだす声は、苦悩の重圧に揉まれてうねっていた。

「何故今更そんなことを…」

ウェブスターはビブセントの弱気に耳を疑い、くじける姿に目を疑った。

「頑張ろうとした。クロスが死んで……お前は俺を助けた……そして俺も頑張ろうとした。彼のいない世界でも生きる方法があるかもしれないと思って、お前の為にも頑張ったんだ。だが俺は…やはりだめみたいだ」

ビブセントは悲しそうに、仕方なさそうに笑った。その笑みで自分をなだめ、蔑んだ

「人は大切なものを失くしても時が経てば幾らか癒されると言うが、あれは嘘だな。俺の心は日増しに荒んでいくばかりだ。これ以上は…とてもお前の手本になれそうにない。俺はもう、死にたい」
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