B×W過去三部作③「決断」

ガラス張りの向こうに広がる藍を引き延ばした空の彼方が白け始めた。盤上を滑る双針は午前4時を示そうとしている。

どれくらいの時間こうしているだろう?
ふと考えたが、どうでもいいことだった。

彼は、手元に嗜む煙草と上物のオロロソ(シェリーの一種)があれば、若々しさにフタをして引退後の初老のように肘掛け椅子に根を生やし、何時間でもそうしていることが出来た。そこへ自分の心臓音ほどに馴染みのあるこの寝息が加われば文句はない。

寝息は快眠に等しい安らぎをもたらしてくれる。

そうやってひたすら嗜好品と寝息にふけったあとの彼の顔は、元々沈静な性格で表情筋が死んでいる上に疲労と不眠とが瘡蓋(カサブタ)のようにこびりついて老けて見えた。そんな老けた彼の元を部隊長のヌエスが訪れたのは、午前4時30分を回った頃だった。

「起きていたか。疲れているところをすまないがね」
「何かあったんですか?」

隊の指揮官が直々に隊員の部屋を訪問することはまれだったので、彼は人相に相応しい、不信感丸出しの無愛嬌で尋ねた。

「君が指揮をとった前回のルンジット作戦が功を奏したよ、ウェブスター」

ヌエスは誇らしげに彼を見た。

「彼の娘を助けたことで、あの気難しいムン将軍が我々との同盟締結を承諾した。彼は将来、カスクートの………。」

熱心に話すヌエスの口元を注視しているものの眼差しは不興で、ウェブスターの疲労は相当らしかった。

どうやら先日まで任されていた任務でうまくやり、組織の栄光に大きく貢献したようだが、本来はこの上ない褒美である上官の称賛にも彼は冷淡だった。何時間も傍らの虫の音のような寝息だけを吸い取っていた彼の聴覚は、柔らかなヌエスの声にさえ驚き不快を示した。

「なるほど」

ウェブスターはどちらが上司かわからないような言い方で返事をした。

「将軍の娘の年は19でしたか?」
「18だ」

答えてからヌエスは質問の真意を確認するような目で彼を見た。

「若すぎるか?」
「まだ子供ですね」
「君も三年前はそうだった。いや、四年か?」

ヌエスは我が子から恋愛話を受けたように優しく柔和な調子で説いたが、ウェブスターは既にその会話に興味を失っていた。自分の振る舞いによって他人が受ける快不快に頓着のないこの男の奔放は、ヌエスのように謙虚な人間が相手だと拍車がかかった。彼が丁寧に会話をする相手というのは、ごく限られていた。

無論あらゆる面で、隊長であるヌエスの方に強い権限があったが、魔獣使いとして突出しているビブセントとウェブスターはしばしば位の高い将校たちよりも価値があるとして丁重に扱われた。参謀を務める頭のいい老若の将校たちのほとんどにはしかし、魔獣を使った実戦経験がなかったのだ。

魔獣を操るというが操獣士(そうじゅうし)になれるかどうかは結局のところ、魔獣がその人間をよしとするか否かだった。金を積んで所有したり、まつわる専門書を片っ端から読み崩したり、一流の訓練を貫徹すればどうにかなるものではなかった。

地球規模の天災によって生まれた魔力というエネルギーが生み出したこの新しい生命体は、巨大で、狡猾獰猛で、まるで太古に滅んだ生物の再来のようだった。

魔獣は魔力を持たぬ人間を歯牙にもかけず、興味のない人間が恐竜図鑑をめくって何の感想も抱かず他に目移りするがごとくだった。彼らは生命体の優劣をその個体が有する魔力の強さで振り分けた。

その魔力を生み出すのは、精神力であった。もちろん魔力の優劣だけで魔獣がひれ伏すわけはなく、何をもってすれば確実に彼らの仲間として認められるのかは謎に包まれていた。

ビブセントやウェブスターのような特級兵士は、数多(アマタ)いる魔獣から高い確率で仲間と許認される資質を持った希少価値の高い存在だった。ビブセントに至っては、知能が高く最も凶暴とされるブルースケール種の雌さえ飼い猫のように手なづけることが出来た。

ビブセントは野生に暮らすこのリーダー格の雌のブルースケールを相棒と定めて「レディ」と呼んだが、ただそれだけのことだった。

彼はレディに、肢体をもぎ取られる危険をおかして調教をしたり、収監の上に鎖で縛りつける管理を施すことを認めなかった。彼が望めば、レディは何処にいたとしても空を駆いて彼の元へやってきた。煌びやかな青い鱗を持つ女王は
、降り立つと大きな喉を鳴らしてビブセントに近づき巨体を地に張り付けるようにし、彼の胸元まで頭を垂れて従順を示した。

どういうわけかビブセントは野生の魔獣と心を通わせる高次の力を持っていた。その力は新しい世界において、巨万の富とも権力とも成り得た。

だから発言にしても上層部への効力が生じたし、拝金主義の彼を組織に繋ぎ止めるために存分な報酬で応えたりして機嫌を損ねないように上層部も神経を尖(トガ)らせる節があった。

組織は熟練された戦力の損失を何より恐れ、エリートたちの少々の態度の悪さにもほとんどの将校は目をつむるのが現状だった。というわけで、ヌエスもそういう将校の一人だった 。
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