B×W過去三部作②「変兆」
「ビブセント、無理をするな」
「…無理?」
ウェブスターの真白い髪が月明かりを含んで琥珀に輝くのを、ビブセントはぼんやりと眺めた。
「お前だって将軍の前じゃ泣くこともあっただろう?泣きたいなら泣けよ。格好悪いなんて言わないぜ」
弟が真顔で差し出した言葉を憐(アワ)れみと取ってビブセントは興醒めた表情を浮かべたが、ウェブスターは表情ひとつ変えずに鋭い洞察力で兄の真意を見抜いているようだった。
「馬鹿を言うな。どけよ」
ビブセントは冷たい声で一蹴したが、ウェブスターの冷静さに押し負かされたように動揺を含んだ語尾は不完全なままに消え去った。
「わかっているさ、俺では役不足だとな」
「黙れ!!」
ビブセントは逆上し、握り込んだ拳で力一杯ウェブスターの腹を殴った。突飛な仕打ちに呼吸を遮られて、背を丸め大きく咳込んだが、白い顔をやや紅潮させただけでウェブスターはやはり冷静だった。
「レオ…」
うろたえたのは兄の方で、自らの行いに驚き、目の前で咽ぶウェブスターを呆然と眺めた。違うんだ、そうじゃないと弁解したいのに、自分の頭が言語を知らぬかように言葉を組み立てることが出来なかった。
「大したことはない……腕の力が落ちたんじゃないのか」
ウェブスターはうつむき、腹に力を込めたまま軽く頭を振って茶化した。ウェブスターはビブセントの心理をすぐに悟って怒号を食らったことを軽い冗談を言って流したが、兄は自身の失態に明らかに動揺していた。
「すまない、俺はただ…」
言いかけて耳元で掠れて消えた声に、ウェブスターは彼の喉元に伏せていた顔を上げだ。目に飛び込んできた兄の顔はひどく憔悴していた。
ウェブスターは自責の念が滲む彼の繊細な瞳を見つめた。
「俺だってな…」
ウェブスターが重い口を開いた。
「俺だって将軍が生きてお前の傍にいてくれたらと思う。だが生き延びたのはお前と俺だけだ。環境も今までとは違う。天災によって変わってしまった。辛いのを隠して、俺の前で完璧でいる必要はない。そんな必要はもうないんだよ」
ビブセントは親友の言葉に耳を疑うような顔をした。時折、ウェブスターが自分よりひどく大人びて見える瞬間があった。ウェブスターが生まれ持った意志を貫き通す屈強さは実際、遥かに多くの経験を持つビブセントを打ち負かすことがあった。この時もそうだった。
「ハッ…泣いてどうなる?泣いてすがれば楽になるとでも?現実はそんなに甘かねぇ。見苦しい自分と鼻先を突き合わせた挙げ句に一層惨めになるだけだ」
ビブセントは黙考し、見慣れたウェブスターの顔をまじまじと眺めた。
「……俺はお前が思っているより厄介な人間だ。お前が力不足なんじゃない。リオラヒュッペが特別だったんだ」
その言葉を聞いてウェブスターは失望したように溜め息をつき、うなだれた。
「なぁ、聴けよ兄弟」
ビブセントは表情を和らげ、込み上げる心痛をこらえながら、昔と変わらぬ凛々しく愛に満ちた兄の姿を見せた。
「これだけは知っていてほしい。俺はお前がリオラヒュッペの代わりに犠牲になればよかったなどと思ったことはないし、お前を責めてもいない。彼とお前のどちらがより大切かなんて比率はないんだ。お前が生きて傍にいてくれてよかった。たった一人の大切な弟だ。お前を心から愛しているよ」
ビブセントは天災以降、ウェブスターが密かに抱く罪悪の念を感受していた。そして彼の心の闇を心配していた。
ビブセントは自分の命とリオラヒュッペの命の優先順位を明確に付けたが、リオラヒュッペとウェブスターの尊さについて、どちらに分があるか測ったことがなかった。必要に迫られた時、躊躇なく自己犠牲を払うようには訓練されていたが、愛してやまない二人に死の順序を振り分ける思考回路は持ち合わせていなかった。
気丈に振る舞っていたがこの時、ビブセントの心はいいようのない感情に支配されていた。ウェブスターをいつになく近くに感じた。語らない親友がこれほど具体的に内情を示したことはなかった。愛することに一生懸命なビブセントは、返報性の原理によりウェブスターがいよいよ開示した愛に触れることで自らの中に新たな熱源を得たに違いはなかった。
床に視線を落として自らの非力について黙考するウェブスターを、ビブセントは新たな目で透かし見た。すると、目の前にいる男を何だか見知らぬ人間のように感じると同時に、以前にもまして愛おしく思う強い気持ちが込み上げてきた。そして突然、目の前にある親友のこの腕に抱かれたいという不条理に脳天を打たれたのだった。
もしウェブスターが床と睨み合いを続けていなければ、新しい感情に侵蝕された兄の顔が真っ赤になるのを見たはずだ。そうすれば、機微を汲(ク)み取ることに長けた弟は何が起きたのかを素早く悟っただろう。この夜の出来事は、二人の関係の変革の兆しであった。
ウェブスターと距離を置くことを望んだ今日(コンチニ)のバックス・ビブセントは女嫌いであったが、本来の彼は女が嫌いなのではなく正しく言えば恋愛嫌いであった。恋愛というものがよくわからなかった。
一種のアレルギーのようなもので、女性と二人きりになり色目を使われたりすると快活な性格は影を潜め、美しい顔を不格好に硬直させてもう全くだめだった。ウェブスターはそんな兄をよく脇から見物してはからかい、面白がった。ビブセントは女性を粗末に扱うでなく、それどころか極めて紳士的であった。
かつての彼は、四人の子供を育てた母親を尊敬したように全ての女性を尊敬し、崇高な存在のように扱った。その念がいつしか消え、ウェブスターと自分の間に介入する女に対して感情に任せた嫉妬の癇癪を起こすようになった。かと思えば突然別人のように塞ぎ込み、最愛の人を偲(シノ)んで涙に暮れた。
その変容は悪い薬に侵されて人格破壊を起こした人間のようで、ウェブスターは始め自分が見ぬ間に兄が世にしつこくはびこる麻薬に手を出したのではないかと疑った。だがビブセントの心身の変化は日増しに顕著になり、術後の一時の心の気まぐれだと言って片付けることが困難になった。
兄は元来周囲と調和するのが上手く、かつては周りをいつも大勢の仲間が囲んでいた。男前な性格で面白い事件があると腹を抱え、周囲を道連れにして大笑いするような性格だったが、その豪快さは消え去った。
笑う時は声を立てず、控え目な微笑を浮かべるようになった。声を立てても、クスクスという優しい声を喉元でくぐらせるだけだった。
またある時は一日中煙草にふけるウェブスターに体に悪いからやめろと言って彼を困惑させ、仕立てた張本人が何を言うのかと彼が悪態をつくとその後を三日引きずるケンカとなった。
食欲が落ち、好んで口にした肉を受け付けず、ほぼ完璧な菜食主義者になった。好きだったコーヒーも次第に飲まなくなった。ウェブスターが日を置いてから、親しんだ味でたまに淹れてやったが、香りを嗅ぐと胸がむかつくと愚痴をこぼした。
ある夜、何かが床をはうような音でウェブスターは目を覚ました。彼は起き上がって暗闇に目を懲らした。ビブセントが床に張りつくようにして何かを探していた。ウェブスターは蝋燭に火をつけ、寝床から起き上がると彼の元へ歩いていった。
「バックス、何をしている…?」
ブルツェンスカが側で眠っていたから、彼は声量を抑えて尋ねた。ビブセントは答えず憑りつかれたように部屋中をはって物色していた。ひどく冷えるのに、薄い布着一枚で、もう何時間もそうしていた。寒冷で血の気が失せた唇の震えにも、自身の両腕両足に起きている感覚の麻痺にも気付いていなかった。
「バックス」
彼の全身の表皮が深刻に青ざめていたから、ウェブスターは毛布で後ろから包むようにしてやった。するとビブセントが不可解なことを言った 。
「何かをなくした気がするんだ」
「何をなくしたって?」
ウェブスターは怪訝な顔で返した。ビブセントはぴたりと動作をやめ、背後のウェブスターを振り返った。
「わからない…何かをなくしたんだ。俺は何を探している?」
兄が正気に戻り不安げにしたので、ウェブスターは虚ろな彼の両腕を引っ張って立たせた。
「大丈夫だ。お前は何もなくしちゃいないよ」
ウェブスターは言いながら、氷のように冷たい彼の手を握って温めてやった。そう言われても納得しない兄は、しかし自分でも無意識に行う不可解な言動の答えを導き出せなかったので、その不満をぶつけるようにウェブスターの顔をじっと見つめた。ウェブスターの顔もビブセントの不満に比例して浮かなく冴えなかった。
ウェブスターには兄と違い、心の中で密かに辿り着いたひとつの可能性があった。彼はビブセントの変異の真因に思い当たる節があったが、それを認めたくはなかった。
そして一連する事柄は心の中にひっそりと隠忍すると誓い、そうした。だから真実は語られることなく、ビブセントの自己不信と苛立ちは蓄積して今日に至ったのである。
ビブセントとウェブスター三部作「変兆」
-終幕-
「…無理?」
ウェブスターの真白い髪が月明かりを含んで琥珀に輝くのを、ビブセントはぼんやりと眺めた。
「お前だって将軍の前じゃ泣くこともあっただろう?泣きたいなら泣けよ。格好悪いなんて言わないぜ」
弟が真顔で差し出した言葉を憐(アワ)れみと取ってビブセントは興醒めた表情を浮かべたが、ウェブスターは表情ひとつ変えずに鋭い洞察力で兄の真意を見抜いているようだった。
「馬鹿を言うな。どけよ」
ビブセントは冷たい声で一蹴したが、ウェブスターの冷静さに押し負かされたように動揺を含んだ語尾は不完全なままに消え去った。
「わかっているさ、俺では役不足だとな」
「黙れ!!」
ビブセントは逆上し、握り込んだ拳で力一杯ウェブスターの腹を殴った。突飛な仕打ちに呼吸を遮られて、背を丸め大きく咳込んだが、白い顔をやや紅潮させただけでウェブスターはやはり冷静だった。
「レオ…」
うろたえたのは兄の方で、自らの行いに驚き、目の前で咽ぶウェブスターを呆然と眺めた。違うんだ、そうじゃないと弁解したいのに、自分の頭が言語を知らぬかように言葉を組み立てることが出来なかった。
「大したことはない……腕の力が落ちたんじゃないのか」
ウェブスターはうつむき、腹に力を込めたまま軽く頭を振って茶化した。ウェブスターはビブセントの心理をすぐに悟って怒号を食らったことを軽い冗談を言って流したが、兄は自身の失態に明らかに動揺していた。
「すまない、俺はただ…」
言いかけて耳元で掠れて消えた声に、ウェブスターは彼の喉元に伏せていた顔を上げだ。目に飛び込んできた兄の顔はひどく憔悴していた。
ウェブスターは自責の念が滲む彼の繊細な瞳を見つめた。
「俺だってな…」
ウェブスターが重い口を開いた。
「俺だって将軍が生きてお前の傍にいてくれたらと思う。だが生き延びたのはお前と俺だけだ。環境も今までとは違う。天災によって変わってしまった。辛いのを隠して、俺の前で完璧でいる必要はない。そんな必要はもうないんだよ」
ビブセントは親友の言葉に耳を疑うような顔をした。時折、ウェブスターが自分よりひどく大人びて見える瞬間があった。ウェブスターが生まれ持った意志を貫き通す屈強さは実際、遥かに多くの経験を持つビブセントを打ち負かすことがあった。この時もそうだった。
「ハッ…泣いてどうなる?泣いてすがれば楽になるとでも?現実はそんなに甘かねぇ。見苦しい自分と鼻先を突き合わせた挙げ句に一層惨めになるだけだ」
ビブセントは黙考し、見慣れたウェブスターの顔をまじまじと眺めた。
「……俺はお前が思っているより厄介な人間だ。お前が力不足なんじゃない。リオラヒュッペが特別だったんだ」
その言葉を聞いてウェブスターは失望したように溜め息をつき、うなだれた。
「なぁ、聴けよ兄弟」
ビブセントは表情を和らげ、込み上げる心痛をこらえながら、昔と変わらぬ凛々しく愛に満ちた兄の姿を見せた。
「これだけは知っていてほしい。俺はお前がリオラヒュッペの代わりに犠牲になればよかったなどと思ったことはないし、お前を責めてもいない。彼とお前のどちらがより大切かなんて比率はないんだ。お前が生きて傍にいてくれてよかった。たった一人の大切な弟だ。お前を心から愛しているよ」
ビブセントは天災以降、ウェブスターが密かに抱く罪悪の念を感受していた。そして彼の心の闇を心配していた。
ビブセントは自分の命とリオラヒュッペの命の優先順位を明確に付けたが、リオラヒュッペとウェブスターの尊さについて、どちらに分があるか測ったことがなかった。必要に迫られた時、躊躇なく自己犠牲を払うようには訓練されていたが、愛してやまない二人に死の順序を振り分ける思考回路は持ち合わせていなかった。
気丈に振る舞っていたがこの時、ビブセントの心はいいようのない感情に支配されていた。ウェブスターをいつになく近くに感じた。語らない親友がこれほど具体的に内情を示したことはなかった。愛することに一生懸命なビブセントは、返報性の原理によりウェブスターがいよいよ開示した愛に触れることで自らの中に新たな熱源を得たに違いはなかった。
床に視線を落として自らの非力について黙考するウェブスターを、ビブセントは新たな目で透かし見た。すると、目の前にいる男を何だか見知らぬ人間のように感じると同時に、以前にもまして愛おしく思う強い気持ちが込み上げてきた。そして突然、目の前にある親友のこの腕に抱かれたいという不条理に脳天を打たれたのだった。
もしウェブスターが床と睨み合いを続けていなければ、新しい感情に侵蝕された兄の顔が真っ赤になるのを見たはずだ。そうすれば、機微を汲(ク)み取ることに長けた弟は何が起きたのかを素早く悟っただろう。この夜の出来事は、二人の関係の変革の兆しであった。
ウェブスターと距離を置くことを望んだ今日(コンチニ)のバックス・ビブセントは女嫌いであったが、本来の彼は女が嫌いなのではなく正しく言えば恋愛嫌いであった。恋愛というものがよくわからなかった。
一種のアレルギーのようなもので、女性と二人きりになり色目を使われたりすると快活な性格は影を潜め、美しい顔を不格好に硬直させてもう全くだめだった。ウェブスターはそんな兄をよく脇から見物してはからかい、面白がった。ビブセントは女性を粗末に扱うでなく、それどころか極めて紳士的であった。
かつての彼は、四人の子供を育てた母親を尊敬したように全ての女性を尊敬し、崇高な存在のように扱った。その念がいつしか消え、ウェブスターと自分の間に介入する女に対して感情に任せた嫉妬の癇癪を起こすようになった。かと思えば突然別人のように塞ぎ込み、最愛の人を偲(シノ)んで涙に暮れた。
その変容は悪い薬に侵されて人格破壊を起こした人間のようで、ウェブスターは始め自分が見ぬ間に兄が世にしつこくはびこる麻薬に手を出したのではないかと疑った。だがビブセントの心身の変化は日増しに顕著になり、術後の一時の心の気まぐれだと言って片付けることが困難になった。
兄は元来周囲と調和するのが上手く、かつては周りをいつも大勢の仲間が囲んでいた。男前な性格で面白い事件があると腹を抱え、周囲を道連れにして大笑いするような性格だったが、その豪快さは消え去った。
笑う時は声を立てず、控え目な微笑を浮かべるようになった。声を立てても、クスクスという優しい声を喉元でくぐらせるだけだった。
またある時は一日中煙草にふけるウェブスターに体に悪いからやめろと言って彼を困惑させ、仕立てた張本人が何を言うのかと彼が悪態をつくとその後を三日引きずるケンカとなった。
食欲が落ち、好んで口にした肉を受け付けず、ほぼ完璧な菜食主義者になった。好きだったコーヒーも次第に飲まなくなった。ウェブスターが日を置いてから、親しんだ味でたまに淹れてやったが、香りを嗅ぐと胸がむかつくと愚痴をこぼした。
ある夜、何かが床をはうような音でウェブスターは目を覚ました。彼は起き上がって暗闇に目を懲らした。ビブセントが床に張りつくようにして何かを探していた。ウェブスターは蝋燭に火をつけ、寝床から起き上がると彼の元へ歩いていった。
「バックス、何をしている…?」
ブルツェンスカが側で眠っていたから、彼は声量を抑えて尋ねた。ビブセントは答えず憑りつかれたように部屋中をはって物色していた。ひどく冷えるのに、薄い布着一枚で、もう何時間もそうしていた。寒冷で血の気が失せた唇の震えにも、自身の両腕両足に起きている感覚の麻痺にも気付いていなかった。
「バックス」
彼の全身の表皮が深刻に青ざめていたから、ウェブスターは毛布で後ろから包むようにしてやった。するとビブセントが不可解なことを言った 。
「何かをなくした気がするんだ」
「何をなくしたって?」
ウェブスターは怪訝な顔で返した。ビブセントはぴたりと動作をやめ、背後のウェブスターを振り返った。
「わからない…何かをなくしたんだ。俺は何を探している?」
兄が正気に戻り不安げにしたので、ウェブスターは虚ろな彼の両腕を引っ張って立たせた。
「大丈夫だ。お前は何もなくしちゃいないよ」
ウェブスターは言いながら、氷のように冷たい彼の手を握って温めてやった。そう言われても納得しない兄は、しかし自分でも無意識に行う不可解な言動の答えを導き出せなかったので、その不満をぶつけるようにウェブスターの顔をじっと見つめた。ウェブスターの顔もビブセントの不満に比例して浮かなく冴えなかった。
ウェブスターには兄と違い、心の中で密かに辿り着いたひとつの可能性があった。彼はビブセントの変異の真因に思い当たる節があったが、それを認めたくはなかった。
そして一連する事柄は心の中にひっそりと隠忍すると誓い、そうした。だから真実は語られることなく、ビブセントの自己不信と苛立ちは蓄積して今日に至ったのである。
ビブセントとウェブスター三部作「変兆」
-終幕-
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