B×W過去三部作②「変兆」

「……綺麗だな」

どのくらい経ってか、ビブセントが呟いた。ウェブスターは部屋の反対側で、静けさに埋もれて黙々と煙草をやっていたので、寝ているところを起こされでもしたような鈍い反応で遅れてビブセントを見た。

「あの星だよ。天災以来久しく見なかったのに今夜はやけに綺麗だ」
「…… どうしたんだ?」

ようやく喋ったと思ったら兄がいやに繊細なことを言うので、ウェブスターは眉を寄せて不審な目を向けた。ビブセントがそれきり黙ったので、ウェブスターは煙草の火を消すと腰を上げて彼の元へ歩いて行き、錆(サ)びれたベッドに横たわるビブセントの傍らに座った。そして何を言うでもなく、二人してひどく汚れて曇った窓ガラスの隙間から見える空のきらめきを眺めた。

ウェブスターはビブセントが星の美しさに感激するようなロマンチストではないと知っていたから、妙な気分だった。兄にそんな感性があったのだとしても、初めて知る一面だった。暗がりの中で聞こえるのは古い真鍮の蝋燭立てに突き刺した、動物の皮下脂肪を抽出して冷やし固めて作った蝋燭に灯る火がたてる、じりじりという音と兄の密やかな息づかいだけだった。

「今朝はお前のことを刺してやろうかと思った」

またがらりと様相を変えたビブセントの言葉はまんざらでもない調子だったので、ウェブスターは神色自若としたその裏で、やっぱり兄の面子を潰したので怒りを買ったのかと考えた。

「仕方ないだろう?あのじいさんは言い出したら聞かないし、薬を飲んで黙らせるしかなかったんだ」

ビブセントは上を向いたまま首を横に振った。

「もしお前がブルツェンスカの言う通り、女を目当てに町に出かけていたら…という意味さ」

「……」

意外な答えが返ってきたので、ウェブスターは目をぱちぱちさせて隣のビブセントを見た。兄は気を揉(モ)む自分自身を落ち着かせるように、手術で縫合して間もない胸に静かに手を当ててさすった。

「馬鹿みたいだな…。何故だろう?お前の姿が見えないと不安になるんだ」

ウェブスターは黙った。ビブセントはすぐに弱さをさらした自らを思い直して失笑し、馬鹿馬鹿しいと呟いて目を閉じた。ウェブスターは観察するような目で兄を眺めた。

「……大丈夫だ、傍にいる」

ウェブスターは例の、格別に優しい声と熱意ある眼差しでビブセントの不安を取り除こうとした。ウェブスターは利口で、ひけらかしはしないが上流階級の社会を難なく渡り歩くほどの教養もあったし、たとえ知らぬ規律が存在するどのような類の世界に丸裸で投げ入れられようと、その世界で頂を見るために苦を苦とせずにたった一人で邁進する度胸もあった。

一流の教養や理性と生粋の悪性を持ち合わせており、後者のような荒々しく攻撃的な一面は、繊細な女性の扱いなど心得ていないか、元からそんな素質は備わってはいないように思わせた。だが実際はどんな高嶺の花といわれる女性の心も一晩ですっかり溶かしてしまう男なのだと周囲が囁くのを、ビブセントは過去に幾度となく耳にした。

実際ウェブスターが恋の駆け引きで見せる才能は、ビブセントの恋愛への無関心や無頓着とはまるで正反対だった。

普段の素っ気ない粗雑なものの言い方からは考えられない、女心を虜にする情熱的で甘い囁きはこんな具合だろうかと、ビブセントは何故かウェブスターの声を聞きながらそう考えた。親友が自分に向けてそんな囁きなど仕掛ける筈もないのに何故かそう思い、そして傷心した。

ビブセントは気まずくなり、青白い顔を強張らせた。ウェブスターは心の乱れを抑えて隠そうとする兄の頭を撫で、覆いかぶさるようにして髪にキスをした。

「心配するな、ずっと一緒だ。何処に行ったって戻ってくる。俺にはお前が全てだ、バックス」

心臓の移植手術以降、ウェブスターはビブセントに対して、時折こうして気でも触れたかと思う程の優しさを突拍子もなく露にした。それは単なる優しさではなく、親密を究めた人間にだけ送られる彼の特別な思考で、もっと深い意味を持つように思えた。

ビブセントの心はウェブスターが紡ぐ強い愛情が込められた言葉や振る舞いに高揚にした。

まるで"最愛の人"に扱われた時のように胸がいっぱいになって(ビブセント本人は気付かなかったけれども)、長らく変わりばえしなかった悄然(ショウゼン)たるその顔に強い感動が芽生えた。ウェブスターは兄のこの顔をよく知っていた。それはビブセントが"最愛の人"だけに贈った、奥深くに隠している一途な純心であった。

「なぁレオ、やりきれないよ。リオラに会いたい。彼を愛しているんだ」

ビブセントの声は震えていた。

「わかっている」

ウェブスターは、兄が内に溜まった感情を人前で上手く吐き出せる男ではないと知っていた。
二人は誰もが血を分けた兄弟のようだと認める仲だったが、心が折れたビブセントを再起させるのは昔からウェブスターの役目ではなかった。

ビブセントは完璧な兄としての存在を確立していて、彼にとってウェブスターは弱さを見せる対象ではなかったし、そうすべきでないことも知っていた。ビブセントは人知れず涙を流し、それをぬぐい癒すのは最愛の人だけであった。生きていたなら"彼"の答えが欲しいとウェブスターは思った。こんな時ビブセントの最愛の人ならばどのようにしただろう?

あの時、"彼"に代わって自分が命を終えた方がどんなによかったか。ビブセントにとってその方が幸せだった筈だとウェブスターは今だ信じて疑わなかったが、"彼"はそうすることを頑として許さなかった。二人きりになってから、ビブセントの傍にいて彼の心身を守ってやるにはあまりに力が足りないことを何度となく思い知った。

楽にしてやりたいと心の底から願えど、どうすればビブセントの苦心を癒すことができるのか分からなかったから、彼なりに精一杯の情愛で尽くして宥(ナダ)めるしかなかった。
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