B×W過去三部作①「理由」

あの運命の日……。

愛してやまなかった"彼"は、未来におけるビブセントの守りをウェブスターに托した。そうしてビブセントにとって自らの命より遥かに大切だった"彼"は、ビブセントがそうしようとしたのと同じように"優先すべき生命"の存続を自分の命と引き換えた。ビブセントが、ならばいっそ自分も共に死ぬと嘆き拒もうと、"彼"の愛、子を想う父の愛は絶対だった。

「頼む、ウェブスター。バックスの傍にいてやってくれ。あれが信用するのはこの先、君だけだ」

「約束します、将軍。あなたに代わってこの先は、俺がビブセントを守ります」

父と親友の一連の契りは絶望に打ちひしがれるビブセントの目の前で淡々と執り行なわれた。
それから父は、半ば狂乱するビブセントを静かに優しくなだめて、自分が乗る代わりに狭い脱出船の一角に、名も知らぬ三人の幼い子供たちを次々に抱き上げて乗せた。

親友の"最愛"を沈みゆく地に置き去ったことで恨まれるのは避けられない運命でも、ビブセントの"最愛の人"の意志と想いを、ウェブスターはそのままに受け継いだのだった。

こうしてビブセントはウェブスターと共に"運命の日"を生き延びたが、変調は即座に訪れた。生命の根源ともいえる"最愛の人"を失ったことでビブセントは激しく精神を病み、その病みが彼の肉体を浸蝕するのに時間はかからなかった。

生きることへの執着が潰えた彼の肉体は以前の屈強さをなくし、信じ難いほど呆気なく病にひれ伏した。

そうして底無しの虚無は、遂に命の要塞である心臓にまで達した。ビブセントは拘束型の特発性心筋症を発症した。ウェブスターは生きる気の失せた親友を助けようと時に力にものを言わせ、様々な地域から医者を連れて来ては失望した。

β遮断剤やACE阻害薬を試みたが副作用で味覚に異変をきたして食べることを拒絶し、ビブセントは5日もしないうちに体重が9ポンド(およそ4kg)落ちた。

限りなく死人じみた男には強心剤の効力もなく、外科的治療でも同じく望みは絶たれた。

「クソッ!何故だ、バックス!」

自分の無力さと抜け殻になった親友に、ウェブスターは絶望した。あらゆる試みで助けようとする彼の努力は、死を望むビブセントの心によって相殺された。ビブセントに生きる意志がなければ、どんな努力も無駄だった。

「バックス、一体いつまでそうしているつもりだ!何とか言え!!」

打開策につまり、ウェブスターはビブセントの胸倉を掴み、珍しく感情をむき出して叫んだ。

「……俺に構うな。置き去りにして何処へなりと行くがいい」

久し振りに発した声は暗く、老人のようにしわがれていた。

「彼を守ることが俺が生きる意味だった……だが失敗し、俺が生きる意味はなくなった。彼が死んで俺が生きていい筈はない。そんな筈はないんだ」

ぶつぶつとした言い草だったが、言葉には芯が通っておりはっきりと聞き取れた 。

「だったら俺の為に生きろ!!」

ウェブスターは目覚めの来ない冬眠寸前の彼を力一杯に揺さ振った。今目の前にいる綻(ホコロ)びをさらしたビブセントは、ウェブスターの中にある完璧な兄、あるいは親友を侮辱する醜態の塊以外の何者でもなかった 。誇りである兄をこれ以上汚されるのは、ウェブスターにとって耐え難い屈辱だった。ビブセントを救えない虚しさと彼への愛、怒りが心の中で入り乱れた。

それらの感情は若いウェブスターを鋼の鎧のように強くし、また保護者のいない赤子のように弱くもした。兄はいつだって味方をしてくれた。若さゆえの愚かさや、性格の欠陥で過ちを犯した時には愛ある辛辣(シンラツ)で尻を蹴飛ばされたが、そのあとにはあらゆる非難の鞭を代わりに受けて立ち、弁護に努めた。

ビブセントは強く美しい兄で、また血筋を分けたような親友であったが、彼にはウェブスターを凌ぐ密な絆を結び合った相手がいた。それこそが彼を憔悴させた"最愛の人"だった。

「生きる意味がないのなら俺の為に生きろ!!」

ウェブスターの言葉はビブセントの朽ちかけた心に衝撃をもたらした。その言葉には命があり、生命の躍動そのものだった。吹き込まれた生命の躍動は全身に波及し、くさびれたビブセントの瞳に生存への執着が蘇った。

「レオ…」
「俺を今のお前の二の舞にするな。独りにしないでくれ」

決して弱みを見せなかった親友のその一言は決定打で、ビブセントは溺れかかってしがみつく物を見つけた人のように、はっとして目の前のウェブスターにしがみついた。

小刻みな体の震えは、心の再生のリズムとして確実にウェブスターに伝わった。

「兄キ、愛してる」

ウェブスターは低く告げ、病魔の巣食った痩せたビブセントの抱擁に正面から応えた。ビブセントが"最愛の人"に命を添えて崇高な愛を捧げたように、ウェブスターの兄への愛も等しく強靭で、闇の底にいる彼を決して見捨てなかった。

「心配するな、助ける方法は必ず見つける」

約束を口にしたウェブスターにビブセントは刹那の笑みで返し、彼が死してなお自分が生きることを心の中で"最愛の人"に詫(ワ)びた。

ところでビブセントを助ける方法というのは健康な新しい心臓を調達する以外になかったから、ウェブスターは兄の目の届かない所でどんなことをしてでも手に入れるつもりだった。

人が生き残る世界のあらゆる場所は非常に混乱しており、誰もが消えた連れ添いを探して放浪人のように国境の消えた地を彷徨(サマヨ)い、疫病が蔓延する地では老いも若きもがバタバタと倒れ死んでいった。

年頃のいい体の丈夫そうな人を見つけて攫(サラ)うことも、連れ去って綿密な検査の果てにその体を刻んで隠蔽することも信じられないほど容易だと、ウェブスターは平静とした表情で考えていた。

ウェブスターには情愛やたくましい正義感が備わっていると同様に、天性からくるこのような悲愛な残虐性があった。その思考の根源はビブセントへの深い愛であったが、彼の性格は浸かる環境を誤まると取り返しのつかない獣に成り変わる危険な可能性を秘めていたのである。

しかし幸運にも、彼が誰かをさらって惨殺せしめる状況はやって来なかった。

心臓を患ったビブセントを助けようと、ウェブスターは様々な場所で医者を見つけては彼の元に連れ帰った。ひとたび医者が同伴を拒むと、ウェブスターはその残虐性をもって手荒な制裁を加えて従わせたから、「白い髪の医者さらい」の噂は一帯の医者たちの間で瞬く間に広まった。

この時、二人はブルツェンスカというドイツ系の年老いた医者の元に身を寄せていた。

ブルツェンスカはウェブスターの医者さらいに遭遇した一被害者であったが、目は衰え手先は麻痺が進んで役に立たなかった。しかし態度は堂々としており、殺気立つウェブスターを言葉たくみに宥(ナダ)めすかし、彼に差し迫った境遇をすっかり自白させた。

「力にはなれないが、お前さんと病を持ったその友人をここに置いてやるくらいはできる」

更にブルツェンスカは言った 。

「それに腕は使えんでもわしは医者だ。他の地で医者をやっとる奴らともちょっとした伝達をやっているから、お前さんの友人の助けになる話が入ってくれば教えてやろう」

老いた医者は口は達者であったが、確かに孤独だった。話し相手が欲しかった。二人の若者との会話は楽しんでも生い立ちに関して余計な詮索をしない流儀を心得ていたから、ブルツェンスカは二人に受け入れられた。

そしてある日、このブルツェンスカの住家に東の地の医者がやってきた。東の医者はブルツェンスカと部屋の隅で密談しながら、ウェブスターの方をチラチラと伺った。

ウェブスターは床につくビブセントの傍らで胡散臭(ウサンクサ)そうな目をして、主人を守る猛犬のように東の医者を睨みつけていた。

「心配はいらん。わしのよく知る同志だ」

東の医者が歩み寄ろうとすると、ウェブスターは立ち上がってぞっとするような怒りを露わにしたので、ブルツェンスカは間に立って彼を宥(ナダ)めた。

「お前さんに見せたいものがあるそうだ」

東の医者は、ほつれたジャケットの上着のポケットから小さな丸い光り物を取り出してウェブスターに手渡した。

この一連のやり取りは、ビブセントが眠っている間に行われた。その後、ウェブスターは東の医者に連れられていずこかへ赴(オモム)き、彼がブルツェンスカの住家に戻ったのは辺りがすっかり闇に包まれて冷え込みが厳しくなった夜中になってからだった。

起きて帰りを待っていた兄を、入口の暗がりの中に立ってウェブスターはしばらくの間無言で見つめていた。ビブセントは不安な顔をした。それは一見すると判別のつかない些細な変化だったが、ウェブスターが見極めるには十分であった。

ウェブスターは彼に寄り、頼りなく薄暗い明かりの中でも互いの表情がはっきりと見えるまで顔を傍へ近付けた。

「もう大丈夫だ…見つけたよ。お前の新しい心臓を」

それは息を飲むほどの優しさが込められた一言だった 。何年も連れ添ったビブセントでさえ、まだ見ぬ彼の一面に遭遇したと感じたほどだった。

「手を汚すような真似はしていない。だから俺を信用して、手術を受けてくれ」

その言葉を受けて切なさを孕(ハラ)んだ瞳の輝きは、ビブセントの隠れた純真を具現化していた。

彼の持つ心身の美しさは、しばしば人を分別のつかない恋の発作におとしめたが、ウェブスターは彼に対して極めて理性的であり、それ以前に家族だった。ずっと衣食住を共にしてきた家族相手に恋心が芽生えるなどと誰もが考えないように、ウェブスターの場合も同じだった。

無論この二人は同じ血筋にはなかったが、ビブセントが呆れるほど恋に無頓着なことをウェブスターは知っていた。兄には女性への熱に浮かされる習慣がなく、今のところ経験もないように見えた。むしろ女嫌いであった。

積極的に恋の相思相愛を願い出た女たちを、ビブセントは異質なものを見るような目で冷ややかに見つめた。時には同性からの願い出もあったが、それは彼の失笑を買うだけで結果は同じだった。

唯一彼に恋の相思相愛を命じることができる人間がこの世にいたとすれば、それは"最愛の人"だけであったろう。ビブセントの彼への愛はそれほど特別なものだった。職務に置いて上官であり、親友でもあり、父親の役さえも担った"最愛の人"は、ビブセントという世界において絶対の法律であった。

「どうやって、どうやって見つけた?」

自分の救いの綱である新しい心臓の出所をビブセントは知りたがったが、ウェブスターは静かに微笑むだけだった。

「愛してるバックス。お前が必要なんだ」

終(シマ)いには馬鹿に真剣な顔で囁いたこんな文句で、兄を黙らせてしまった。

こうしてビブセントは東の医者の元で心臓を取り替える手術を受けた。幸いなことに心配された拒否反応もなく、心臓は新しい主の体内で元気に息づき、彼は持ち前の強靭な精神と生命力でみるみる回復した。

この手術こそが、のちに二人を苦しめる、あのいまいましい発作の始まりであり、ブルツェンスカの住家で行われた東の医者とウェブスターの会談こそが発作の理由そのものである真相を握っていたのである。

というわけで、ウェブスターはビブセントを苦しめる発作の原因を知っていたわけだが、兄にそれを打ち明けることは頑として出来なかった。真相を告げれば、彼が再び重い心の病にかかって精神を病み、今度こそは回復しないだろう予測ができたからである。






ビブセントとウェブスター三部作
第①章「理由」
-終幕-
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