B×W過去三部作①「理由」
シェパードの組織内で暗殺部隊の別名をとるナイトアイの存在が公式に明るみに出たことはなかったが、節度を知らない凶暴性から組織内部のビブセントに対する認知度は高く、勝手な噂が日々そこかしこで流れては一人歩きをした。
夜間の偵察から還りウェブスターが遅れて室内に入ると、先に戻っていたビブセントは部屋の隅の奥まった一角にあるバスルームにいるようだった。
静かだったが、床に濃いオレンジ色の灯が漏れていた
黙ってしばらくその灯りを見つめた後、ウェブスターは背負っていた荷物を床に投げて軍服の縛りを解き、うんざりした様子で喉元を解放した。
ウェブスターは清潔な白いシーツをまとったベッドの脇に腰をかけ、懲りずに煙草に火をつけた。懲りずにというのは、数日前に部屋の掃除人に煙草について注意をされていたからだ。
ビブセントとウェブスターは二人して煙草をよく吸った。掃除人は毎日回収する吸い殻の量に悩まされ、方々に散った灰を拭き取ることに時間を費やし、寝タバコで穴が開いたシーツを見ては、またかと溜め息をついた。
掃除人は母親が叱りつけるような物言いで二人を注意した。二人は肝の据わった彼女の憤怒を15分間黙って浴びた。
ビブセントの悪態とウェブスターの威圧は母性溢れるこの掃除人の前では影を潜めた。だが反省しているかと言えば、二人ともノーだった。
ナイトアイで着任する人間には例外なく広さも設備も特別な部屋が与えられ、彼らの身の回りの世話をする専用の世話係が一部屋に一人付くほどの厚遇だった。
巨大な組織でいつだって最も過酷な任務環境に放り込まれる彼らが受けるストレスは深刻で、フラストレーションを起こす者や、不可能な脱走を試みて落命する者、気に食わない隊員に憂さをぶつける「仲間殺し」が絶えなかったから、それらの予防措置という意味も込めて「せめて基地での暮らしは良くしてやろう」という、まだ人としての思いやりが比較的胸の内に息づいている将校たちが集まって提起した苦肉の策だった。
「……」
静けさは即座にウェブスターを過去へといざなった。彼は落ちそうになる瞼をこすり、眠りに呑まれる前に立ち上がった。
「ビブセント、そこにいるのか?」
いつでも無意識のうちに跡形もなく気配を消すのは生きる環境から身につけたビブセントの癖だった。ウェブスターは呼びかけに返事がないことを不審に思い、立ち上がってバスルームを覗いた。
「どうした?気分が悪いのか?……おい、ビブセント!」
ビブセントは軍服をきっちりと着たままでバスルームで床にうずくまり、その顔は蒼白だった。ウェブスターを見上げると、声を上げる代わりに苦しげに胸を掻きむしるような仕草で訴えた。ウェブスターはその身振りを一目見て彼の言わんとしていることを悟った。
バスルームを飛び出すと、脇にある低い棚の引き出しをあさって薬を手にビブセントの元へ戻った。
「飲め、ビブセント。飲むんだ!」
胸に走る激痛に我を忘れ、暴れて薬を拒絶するビブセントの体を押さえ付けて口に薬を押し込む。
「大丈夫だ。落ち着け、すぐに治まる」
励ましながら口に水を流し込むと、荒れ狂う竜巻のようなパートナーを床にはがい締めにし、凶行が治まるのをウェブスターは辛抱強く待った。それからしばらくした後、力を放散してぐったりとなったビブセントを見てから立ち上がって彼を背負っていき、ベッドに降ろしてやった 。
「……」
ビブセントはひとしきり暴れた反動で微動だにせず、ベッドに体を横たえてしばらくの間、静かに天井を眺めていた。ウェブスターも離れず傍らに付いて、ただ黙ってそこにいた。ウェブスターは自分がそこにいるべきだと知っていた。そして、したたかで陰湿な自責の念にしとしとと心を蝕(ムシバ)まれていた。
ビブセントは時々こうして発作を起こした 。その発症にはある律動があって、大抵が酒場に出かけた後か、眠りについている深夜だった。
酒場でウェブスターが女といる場を見ると、ビブセントはどうにも虫の居所が悪くなった。普段はめっぽうクールな心が潰えぬ苛立ちにがんじがらめにされ、接客しようと近付いた無防備な女をはしたない言葉で罵倒し、心底機嫌の悪い時には何の前触れもなく手を挙げることもあった。
ウェブスターは彼のその条件反射をすぐに覚えたから、それ以来酒場で自分から異性に近付くことをやめた。少なくともビブセントがいる前では、やめた。
酒場に着いても魅惑的な声と目配せで呼びかける女には目をくれず、ビブセントの着席を待って隣に座った。そして寡黙を友にタバコをやって酒を飲み、時々ビブセントをひどく真剣な目で見つめた。ビブセントの横顔は性格に歪みが生じた今でも聡明で、ひどく美しかった。
ウェブスターは恋人を見るような眼差しで彼を見つめ、隣人の無言の熱情を感じるとビブセントも振り向いて、氷の色をしたひどく冷たく真面目な瞳に一縷(イチル)の愛おしみを浮かべてウェブスターに投げてよこした。
二人に言葉は厳禁で、確立することをしなかった。勘の鋭さと共に重ねた時間だけが、相手の心を計り知る手だてだった。
ビブセントの不機嫌と癇癪、女たちへの悪態はひどくなるとビブセント自身へと攻撃の対象を変えて彼の体に深刻な発作をもたらしたが、彼自身にはこの発作が起こる理由がわからなかった。傍らに添うウェブスターだけがその理由を知っていた。
「………部屋を」
ビブセントが視線を天井に張り付けたまま無表情で言った。
「お前と部屋をわけたい」
「……」
ウェブスターは言葉を選んで返事に遅れた。ビブセントは外界を遮断するようにゆっくりと目を閉じた。
「ビブセント……部屋をわけて俺のいない所で発作が起きたらどうするんだ?」
「知るかよ。その時はその時だろう」
気遣うような言葉を平坦な調子で言われ、ビブセントはイライラした。そのイライラが自分に対するものなのか、ウェブスターに対するものなのか、だとすればどうしてそうなるのか、どれにも答えが出ないことにイライラし、発作が完遂しなかったことにもイライラした。
発作の馬鹿野郎が、さっさとなすべきことを完遂させれば良かった気がした。自分を葬りたいほど、それほど不快な気持ちだった。
「バックス…」
投げやりな返事にウェブスターはビブセントを覗き込むようにして顔を近づけ、真剣な声で名前を呼んだ。ビブセントは目を開けず、黙って静かに呼吸した。静かに呼吸し、側にあるウェブスターの息づかいを感じる為だけに聴覚を働かせた。
その低く静かな声は何にも勝る鎮静薬だった。
「お前は発作を治めてくれるが、俺達はどうやら少し……道を間違ったようだ……。俺は…」
ビブセントはすぐ傍のウェブスターの気配を注意深く捉えながら囁くように話した。
「俺は混乱している。こんなに自分自身を把握できない理由が解らない…。……とにかく、お前とは少し距離を置…」
言いかけた言葉が途切れ、代わりに開いた瞼の下から少し驚いたような、ブルーラグーンの色をした鮮やかな眼球が現れた。
ウェブスターの人差し指が唇を押しやり、ビブセントに黙るよう告げたのだ。
唇に触れた親友の指にビブセントはギクリとした。それは嫌いな食べ物を口元に押し付けられた子供の反応に似ていた。あるいは好きな人に好きだと言われ「そんなことは望んでいない」と口走りそっぽを向く意気地なしの反応に似ていた。
ウェブスターの指が触れるはずのない所に触れている。過酷な手仕事で皮膚の硬くなった若者の年齢にそぐわぬ手指。無骨なその指に触れられ、ビブセントは自分の唇の柔らかさを知った。
「部屋はわけない。俺はお前の傍を離れる気はない。お前が拒もうと、俺にはそうすべき理由がある」
ウェブスターは冷静な態度できっぱりと言い切った。その一言がビブセントの気分を害しても、彼の態度は頑なだった。
「お前の義務を背負った理由なんか知るかよ!」
ビブセントは苛立ち、彼を突き飛ばすように腕を振るった。
夜間の偵察から還りウェブスターが遅れて室内に入ると、先に戻っていたビブセントは部屋の隅の奥まった一角にあるバスルームにいるようだった。
静かだったが、床に濃いオレンジ色の灯が漏れていた
黙ってしばらくその灯りを見つめた後、ウェブスターは背負っていた荷物を床に投げて軍服の縛りを解き、うんざりした様子で喉元を解放した。
ウェブスターは清潔な白いシーツをまとったベッドの脇に腰をかけ、懲りずに煙草に火をつけた。懲りずにというのは、数日前に部屋の掃除人に煙草について注意をされていたからだ。
ビブセントとウェブスターは二人して煙草をよく吸った。掃除人は毎日回収する吸い殻の量に悩まされ、方々に散った灰を拭き取ることに時間を費やし、寝タバコで穴が開いたシーツを見ては、またかと溜め息をついた。
掃除人は母親が叱りつけるような物言いで二人を注意した。二人は肝の据わった彼女の憤怒を15分間黙って浴びた。
ビブセントの悪態とウェブスターの威圧は母性溢れるこの掃除人の前では影を潜めた。だが反省しているかと言えば、二人ともノーだった。
ナイトアイで着任する人間には例外なく広さも設備も特別な部屋が与えられ、彼らの身の回りの世話をする専用の世話係が一部屋に一人付くほどの厚遇だった。
巨大な組織でいつだって最も過酷な任務環境に放り込まれる彼らが受けるストレスは深刻で、フラストレーションを起こす者や、不可能な脱走を試みて落命する者、気に食わない隊員に憂さをぶつける「仲間殺し」が絶えなかったから、それらの予防措置という意味も込めて「せめて基地での暮らしは良くしてやろう」という、まだ人としての思いやりが比較的胸の内に息づいている将校たちが集まって提起した苦肉の策だった。
「……」
静けさは即座にウェブスターを過去へといざなった。彼は落ちそうになる瞼をこすり、眠りに呑まれる前に立ち上がった。
「ビブセント、そこにいるのか?」
いつでも無意識のうちに跡形もなく気配を消すのは生きる環境から身につけたビブセントの癖だった。ウェブスターは呼びかけに返事がないことを不審に思い、立ち上がってバスルームを覗いた。
「どうした?気分が悪いのか?……おい、ビブセント!」
ビブセントは軍服をきっちりと着たままでバスルームで床にうずくまり、その顔は蒼白だった。ウェブスターを見上げると、声を上げる代わりに苦しげに胸を掻きむしるような仕草で訴えた。ウェブスターはその身振りを一目見て彼の言わんとしていることを悟った。
バスルームを飛び出すと、脇にある低い棚の引き出しをあさって薬を手にビブセントの元へ戻った。
「飲め、ビブセント。飲むんだ!」
胸に走る激痛に我を忘れ、暴れて薬を拒絶するビブセントの体を押さえ付けて口に薬を押し込む。
「大丈夫だ。落ち着け、すぐに治まる」
励ましながら口に水を流し込むと、荒れ狂う竜巻のようなパートナーを床にはがい締めにし、凶行が治まるのをウェブスターは辛抱強く待った。それからしばらくした後、力を放散してぐったりとなったビブセントを見てから立ち上がって彼を背負っていき、ベッドに降ろしてやった 。
「……」
ビブセントはひとしきり暴れた反動で微動だにせず、ベッドに体を横たえてしばらくの間、静かに天井を眺めていた。ウェブスターも離れず傍らに付いて、ただ黙ってそこにいた。ウェブスターは自分がそこにいるべきだと知っていた。そして、したたかで陰湿な自責の念にしとしとと心を蝕(ムシバ)まれていた。
ビブセントは時々こうして発作を起こした 。その発症にはある律動があって、大抵が酒場に出かけた後か、眠りについている深夜だった。
酒場でウェブスターが女といる場を見ると、ビブセントはどうにも虫の居所が悪くなった。普段はめっぽうクールな心が潰えぬ苛立ちにがんじがらめにされ、接客しようと近付いた無防備な女をはしたない言葉で罵倒し、心底機嫌の悪い時には何の前触れもなく手を挙げることもあった。
ウェブスターは彼のその条件反射をすぐに覚えたから、それ以来酒場で自分から異性に近付くことをやめた。少なくともビブセントがいる前では、やめた。
酒場に着いても魅惑的な声と目配せで呼びかける女には目をくれず、ビブセントの着席を待って隣に座った。そして寡黙を友にタバコをやって酒を飲み、時々ビブセントをひどく真剣な目で見つめた。ビブセントの横顔は性格に歪みが生じた今でも聡明で、ひどく美しかった。
ウェブスターは恋人を見るような眼差しで彼を見つめ、隣人の無言の熱情を感じるとビブセントも振り向いて、氷の色をしたひどく冷たく真面目な瞳に一縷(イチル)の愛おしみを浮かべてウェブスターに投げてよこした。
二人に言葉は厳禁で、確立することをしなかった。勘の鋭さと共に重ねた時間だけが、相手の心を計り知る手だてだった。
ビブセントの不機嫌と癇癪、女たちへの悪態はひどくなるとビブセント自身へと攻撃の対象を変えて彼の体に深刻な発作をもたらしたが、彼自身にはこの発作が起こる理由がわからなかった。傍らに添うウェブスターだけがその理由を知っていた。
「………部屋を」
ビブセントが視線を天井に張り付けたまま無表情で言った。
「お前と部屋をわけたい」
「……」
ウェブスターは言葉を選んで返事に遅れた。ビブセントは外界を遮断するようにゆっくりと目を閉じた。
「ビブセント……部屋をわけて俺のいない所で発作が起きたらどうするんだ?」
「知るかよ。その時はその時だろう」
気遣うような言葉を平坦な調子で言われ、ビブセントはイライラした。そのイライラが自分に対するものなのか、ウェブスターに対するものなのか、だとすればどうしてそうなるのか、どれにも答えが出ないことにイライラし、発作が完遂しなかったことにもイライラした。
発作の馬鹿野郎が、さっさとなすべきことを完遂させれば良かった気がした。自分を葬りたいほど、それほど不快な気持ちだった。
「バックス…」
投げやりな返事にウェブスターはビブセントを覗き込むようにして顔を近づけ、真剣な声で名前を呼んだ。ビブセントは目を開けず、黙って静かに呼吸した。静かに呼吸し、側にあるウェブスターの息づかいを感じる為だけに聴覚を働かせた。
その低く静かな声は何にも勝る鎮静薬だった。
「お前は発作を治めてくれるが、俺達はどうやら少し……道を間違ったようだ……。俺は…」
ビブセントはすぐ傍のウェブスターの気配を注意深く捉えながら囁くように話した。
「俺は混乱している。こんなに自分自身を把握できない理由が解らない…。……とにかく、お前とは少し距離を置…」
言いかけた言葉が途切れ、代わりに開いた瞼の下から少し驚いたような、ブルーラグーンの色をした鮮やかな眼球が現れた。
ウェブスターの人差し指が唇を押しやり、ビブセントに黙るよう告げたのだ。
唇に触れた親友の指にビブセントはギクリとした。それは嫌いな食べ物を口元に押し付けられた子供の反応に似ていた。あるいは好きな人に好きだと言われ「そんなことは望んでいない」と口走りそっぽを向く意気地なしの反応に似ていた。
ウェブスターの指が触れるはずのない所に触れている。過酷な手仕事で皮膚の硬くなった若者の年齢にそぐわぬ手指。無骨なその指に触れられ、ビブセントは自分の唇の柔らかさを知った。
「部屋はわけない。俺はお前の傍を離れる気はない。お前が拒もうと、俺にはそうすべき理由がある」
ウェブスターは冷静な態度できっぱりと言い切った。その一言がビブセントの気分を害しても、彼の態度は頑なだった。
「お前の義務を背負った理由なんか知るかよ!」
ビブセントは苛立ち、彼を突き飛ばすように腕を振るった。