闇より深いキスをしよう

【マイキー編】

「黒」と一言で表しても同じ黒は存在しないのだと、マイキーの瞳に映る世界を見て思う。十月の終わり。先週までは汗ばむほどの陽気だったにも関わらず、一転して指先まで凍えそうなほどの冷気が髪をなびかせる。夜中の二時。


「……っ…」


ただ触れる程度に重なり合った唇。
それがキスなのだと気付くまでに何分、いや何秒の時間が流れたのだろう。


「……あ、の」

「ん?」


視界の端にテトラポットを飲み込む黒い海が見える。それから初代総長と刺繍された黒い羽織。空も黒い帳を落として、人影のない世界は黒の一言。それでも一番黒が似合うのは、満月の夜、その月光に照らされて煌めく髪とは対照的に、どこまでも深く感情の読めないマイキーの瞳。


「なに?」


唇を離して、文字通り目と鼻の先でマイキーの声が不服そうに尋ねて来る。
名残惜しいのか、腕を回して抱きしめてくるその温もりに、どう答えを出すのが正解なのか。声も抵抗も遅れてその申し出を受け入れていた。


「どうして…キス…」


片言にしか紡げないのは、寒さと緊張と戸惑いと。挙げればきりがない現状への混乱。数分前「マイキー」という名前を知っただけの相手。恋愛感情どころか顔見知りでもない初対面同然の美形に、突然キスされた衝撃は言葉では尽くしがたい。


「キス、したかったから」


当然だと言わんばかりの雰囲気で、再度重ねようとしてきた唇からほんのわずかに距離を取る。正確には顔を背けることが出来ただけで、強引に近づいてきた唇は冷えた頬にその形を押し付けていた。


「もー、何でよけるの?」

「いや、なんでと言われても」

「そんなにイヤ?」

「イヤ…では、なかったですけど」

「じゃあ問題ないよね」

「いや、そう言われても」

「一回したんだから何回も同じだと思わねぇ?」

「思いませ…ンッ…っ」


会話というのは、片方だけで成り立つものだとは思えない。
それでも再び重なってきた唇を拒めなかったのが全て。行きずりの男というには心もとない。家出少女と不良少年。制服と特攻服。
間違いなく補導対象の二人が深夜の海辺で抱き合ってキスを交わす。
ただ、どう見ても圧倒的に不利なのは優等生らしい自分ではなく、明らかに心地よさそうに瞳を閉じたマイキーの方だろう。


「んっ…ぁ…の」

「マイキー」

「ふ、ぇ…ッ?」


どうやって息をすればいいのかもわからず、猛攻してくるキスの嵐の余韻に浸りながら呟かれた言葉を拾う。
「マイキー」そう口にすれば、ほんの少しだけ今まで黒一色だったマイキーの瞳に月光が舞い込んだ気がした。


「明日もここに来る?」

「……たぶん、来れません」

「そっか」


悲しそうに笑った顔を忘れることが出来るのだろうか。
どこの誰かも知らない。マイキーしかわからない。
十月の終わり、深夜二時。黒いの世界の片隅で、触れる唇の熱だけがお互いの存在を確認するみたいに繋がっている。


「なぁ」

「…っ…ん…は、い?」

「オレ、キスすんの初めてなんだけど」

「ぁ…私だって…ん、初めて…ですけど」

「ほんとに?」


今が黒に支配された世界でよかったと思う。
額だけを突き合せた形で覗き込まれた顔の色を知られずに済む。指先までかじかむほどの寒さを忘れて、息の仕方も忘れた脳が紡ぎだす言葉をどこか他人事のように聞いている。
問うことが許されるなら、悪戯な顔で余裕に笑う目の前の男に「本当に初めてか?」を問いたい。
実際、心の葛藤はそのまま声になっていたらしい。


「見てわかんねぇ?」


困ったように見つめられて、首を横に振れば、明らかに照れたような顔で初めて視線をそらされた。


「う、わぁ!?」


なぜかきつく抱き寄せられて、バランスを崩した体勢が素直にマイキーの胸に顔を押し付ける。「顔、見るの禁止」と頭上から降り落ちてくる声が不覚にも可愛い。
加えて、ドキドキと早鐘を打つ鼓動に気付いてしまって、知らずと笑い声がこぼれていた。


「あー、笑ったな?」

「……だって」

「また笑った」


見上げた顔と見下ろしてくる顔。至近距離にあるのに、本当の色はわからない。
闇のような世界で感じるささやかな温もり。
手繰り寄せるようにどちらともなく顔が近づいて、今度は互いに目を閉じてその唇の感触を確かめ合った。
たぶん一度限り。一夜の幻。
これが最初で最後なのだと離れていく温もりに名残惜しさを感じる。


「ねぇ、マイキー」


あの夜、叶うことのない願いを胸に宿した。
実際叶うことはなく、十二年の歳月が経過している。高校生だった女の子は家出を知られる前に、門限を超えて帰宅したことを殴られるだけで済んだ。その後は優等生らしく大学に進学し、それなりの会社に就職し、変わらない日常を送り続けている。


「…っ…寒…」


あの夜と同じ、十月の終わり、深夜二時。
黒い海は変わらないままそこにあり、月の満ち欠けも照らし合わせたようにあの日と同じ。
変わったのは十二年という歳月がもたらした大人の髪と、あのときは二つだった影がひとつしかないということだけ。


「ねぇ、マイキー」


今はもう、そこにはいない影に向かって言葉を零す。
かじかんだ指先で触れた唇は当時の熱を思い出して震えたものの、それを抱きしめてくれる温もりはそこにはない。


「なに?」


幻聴が深い闇を連れてくる。
目を閉じればそこにいる気がして、深い息だけを風に乗せる。
「なんでもない」と、はぐらかした頃の若さはどこにもない。積もり積もった感情は、年月を重ねるごとに足枷のようにまとわりついて離れてくれない。


「私をさらって」


変わらなかったのは、この思いも同じ。あの日、初めて唇を奪われたあの夜からずっと。忘れたことのない存在。
「わかった」静かに、そう聞こえた気がして笑った唇に重なる感触。
驚いて開けた視界がどこかぼやけてみえたのは、月光さえも届かない闇より深いキスのせい。
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