Story-06
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
母の精神が病に侵されていると思ったこともない。
物心つく頃からリゲイドの心に渦巻いているのは「なぜ?」という感情だけ。
「さっさと水を汲んでおいで」
「はい、母様」
従うことしか知らず、またそうすることでしか自分を守れない幼いリゲイドは、ボロボロの服のまま家を出ると、大人には陰でこそこそと好奇な目でささやかれ、同年代の子供からはいじめられる。村の端に備え付けられた共同の水くみ場にたどり着くまでに、リゲイドの身体は家を出た時以上にひどい状態になっていた。
「俺が何したってんだよ」
これもいつもの日常。繰り返される人生の一端。
ポツリとつぶやいた視界が滲んでいくのもいつものこと。
「くそっ、くそぉ、みんな大嫌いだ」
ただ、ただ、わけがわからなかった。
そして悔しかった。理不尽な世界、無力な自分、冷酷な人間、無表情の自然。心を温かくしてくれるものなど何もない。
「っ…~~~~っ」
何度、ひとりで声を殺して泣いたことだろう。
泣きはらした目で家に帰るとまた殴られることはわかっているので、リゲイドは水を汲む間に小さく鼻をすすると、あまり時間をかけないように注意しながら元来た道を戻っていった。
「遅いじゃないか」
開口一番、自分の体より一回り小さいバケツにいっぱいの水を持って帰ってきたリゲイドに、母親の叱咤がとんでくる。ねぎらいやお礼の言葉をかけてもらったことは一度もない。
むしろ今日は、その文句だけで済んだことの方がありがたかった。
「ごめんなさい」
リゲイドは、いつも帰り道ですら邪魔をしてくる村の子供たちが、今日は襲ってこなかったことに、人知れずホッと胸をなでおろす。
母親はそんなリゲイドには気づきもせずに、鏡を見ながら自分の髪をとかすことに専念していた。
「リゲイド」
「はっはい」
比較的静かな呼び声だったにも関わらず、反射的にリゲイドは緊迫した返事でふりかえる。
「どう?」
「はい?」
リゲイドは自分の前で、ただ佇むだけの母に何を聞かれているのかわからずに、正直な感想を口にした。ところがどうやらそれがいけなかったらしい、母親の顔が醜く歪んでつりあがっていく。
「ごっごめんなさい。あのっ、その」
またぶたれると思ったのか、リゲイドは無意識に両手で頭をかばっていた。事実、いつもであればここで力任せに一発撃たれるところなのだが、意外にもリゲイドの体は痛みを知らずに済んだ。
「ゴルジョバトフ皇帝陛下のおなーりぃぃぃ」
「ッ!?」
薄い木の板の玄関と呼ぶにはあまりにも質素な扉が力任せに開かれ、青い空を遮るように巨大な男が立っている。その瞬間、母親が女に変わるのをリゲイドは見た。
何が何だかさっぱりと理解が追い付いてこない。
「ゴル陛下!!」
「エレーナ。息災であったか」
「はい、ずっとお待ちしておりましたわ」
抱き合う母親とそれを黙って受け止める皇帝陛下。
自分の目は一体何をうつしているのだろうかと、リゲイドは茫然とその成り行きを見守っていた。
ただ、リゲイドが驚いたのは無理もない。この国の皇帝を名乗る最強の戦士が、帝国の中でも最貧困層ともいえるさびれた村のあばら家同然の家を訪れていたのだから。
「ほら、リゲイドもご挨拶なさい。お父様よ」
「え?」
聞いたことのない母親の声。見たことのない母親の顔。
先ほどまでの醜い顔や声が嘘のように、魔法にかけられた老婆がどこかの国のお姫様に変身したのかと思えるほどの変貌を遂げた目の前の女性に、リゲイドは言葉にできないほどの嫌悪感がこみあげてくるのを感じていた。
叶うことなら聞いてみたい「お前は誰だ」と。
「なっ何をいっているの。ほら、いつも話しているじゃない」
母親の形をした知らない女性が、聞いたことのない声と、赤らめるほど上気した顔で説明を口にする。
「お前の父親、ゴルジョバトフ・ギルフレア様。世界最強の矛と言われる、このギルフレア帝国の皇帝陛下よ」
頑張って平静を取り繕っているように見えるが、それは無駄なあがきだった。
虐待されることで育ってきたリゲイドにとって、今の母親の言葉は理解できる許容範囲を超えている。
ゴルジョバトフ・ギルフレアといえば、この国を統治する最高権力者の名前であり、生きる伝説ともいえる「最強の矛」という肩書きをもっている戦士の名前。そんな人物と接点があったような暮らしをしていないだけに、リゲイドはぽかんと口を開けたまま黙って直立していた。
「五年も前に別れているのだ、物心つく前では覚えていないのも無理はなかろう」
わははと豪快に笑う目の前の人物が悪い人のようには思えない。
それでも次に吐き出された言葉に、リゲイドは人間の恐ろしさを思い知らされた。
「エレーナ、そしてリゲイド。そなたら二人を罪人として処刑することとなった」
それはあまりにも突然で、あまりにも残酷な死の宣告。
それを聞いた途端に必死の形相で懇願し、説明を求め始めた母に、用件だけを言い伝えにきたらしいゴル陛下は背中を向けて立ち去っていく。
馬の鳴く声がして、来るときには聞こえなかった蹄の音が聞こえ、徐々にそれは遠くの方へ過ぎ去っていった。
「おのれ…っ…おのれアドリナ…ゴル陛下…なぜ」
またいつもの老婆のような醜い姿へと戻った母に、リゲイドはどこかホッと胸を撫でおろす。
「なぜ…なぜ、わたしくではなくあの女をお選びになったのですか!?」
エレーナは悲痛にむせび泣きながら、言葉にならない声で、姿が見えなくなった背中に向かって叫び続けていた。
なぜ、裏切ったのか。
なぜ、こんなにひどい仕打ちをするのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
その疑問に応えてくれる人はもうどこにもいない。
「お前…さえ…リゲイド、お前さえ生まれてこなければよかったのよ!!」
「ッ!?」
その日の記憶はそれが最後だった。