悪役令嬢には、まだ早い!!
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「どぅぁああぁ」
この声は、およそ伯爵らしい威厳もなにもないヒューゴ・マトラコフのもの。妻にこってり絞られたせいで、意気消沈に近い状態で一人引きこもっている。
リリアンと仲直りしたのかと問われれば、いささか怪しい。前世の実態と照らし合わせれば、女性の感情をなだめるだけの形だけの謝罪は、ヒューゴの得意分野だった。
「リリアン、まじ怖ぇ」
デスクにうなだれて、妻の怒りを思い出したのか。ぶるりと身を震わせて、ヒューゴは椅子に座り直した。
「にしても、オレの知ってるエリスクローズとかなり歴史が変わってきてるな」
前回、自分でメモした手記によれば、今のエリーの状態は全然違っている。
エリー・マトラコフ伯爵令嬢は、乙女ゲーム『エリスクローズ』登場時点で、リックとハイドの三人家族の設定になっている。七歳の冬に父親を事故で亡くし、七歳最後の誕生日に母と長兄をダスマクトの爆発事故で亡くす。その後、次兄リックが家を継ぎ、エリーはハイドと二人で、広い屋敷に暮らしていた。両親不在を不憫に思い、彼らは贅沢三昧、ワガママ三昧をエリーに許してきたが、寂しさの転換だったのだろう。エリーの執着は本来の気質と合わさり、アーノルド王子に依存していった。エリーの要望と、リックの手腕で、王家とマトラコフ家の婚姻が成立するのはエリーが、十歳の夏。それから五年後、エリーはその他の貴族令嬢と同じく、学園に入学する。そこにゲームのヒロインも入学してくるというありがちな設定だが、華麗なる登場をした美少女ヒロインは、見事攻略者たちと恋愛を繰り広げ、エリーを窮地に陥れる。アーノルド王子と幸せに暮らすことだけを夢見ていたエリーは、その事実を受け入れられず、アーノルド王子ルートでは、ヒロインを危険な目に合わせたせいで婚約破棄後に国外追放。魔獣騎士ディーノルートでは、ヒロインを危険な目に合わせたせいで、婚約破棄後に魔獣に襲われて死亡。魔導師ロタリオルートでは、ヒロインを危険な目に合わせたせいで、婚約破棄後に人知れず葬られる。表向きは行方不明だが、ロタリオが魔法で殺したのは裏設定集に記載されている。そして、兄ハイドルートでは、婚約破棄後に国外追放と見せかけた幽閉で、ハイドの愛人として暮らすという、乙女ゲームにあるまじき闇設定が話題を呼んだ。
ハイドは本命をヒロインに置きながら、捨てきれない妹への恋慕を抱えて生きるのだ。ヒロインは心が広いから「それでもいい」とか言ったりする。その時点で、前世のヒューゴは萎えた。
「は、ありえねぇ。好きな男なら独占したいだろ。おままごとしてんじゃねぇんだぞ」
強面の男が乙女ゲームをしながら呟く姿は、さぞかし滑稽だっただろう。部下の一人が「好きな男だから許すんじゃないっすか」と、わかった風を口にしたが、前世のヒューゴはそれを鼻で笑った。
「オレは他の男に目移りするような嫁ならいらねぇな。エリーとかいう妹への思いを忘れさせられねぇ自分の不甲斐なさを見ないふりしてるだけだろ。こんなのがヒロインとかありえねぇ。これならまだ、エリーの方がわかりやすくて好きだな」
そんなわけで、前世のヒューゴは、ヒロインへ感情移入が出来なくなり、代わりにハイドにそうまで思わせる悪女に興味が湧いた。
そして、生い立ちを知り、エリーの孤独を知り、沼にはまったわけである。
「エリーたぁぁあん。やばい、これただの強がりじゃん。ツンデレなだけじゃん。こんなに愛情深くて、一途で、可愛い女を選ばないこいつらマジでなんなの。むしろハイドの闇深さがわかっちまうわ。ヒロインより断然エリーたんだろ」
「兄貴、嫉妬でヒロインへの苛めが一線を越えちまったら仕方ねぇっすよ」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。一貫してアーノルド王子だけを愛するエリーたんを見ろ。理想の嫁だろうが」
「だけど、兄貴。自分の女が危険な目に合わせられて、平常心でいる男のほうがいないっすよ。ロタリオはアーノルド王子の幼馴染みで、ディーノが王子専属騎士とくりゃ、婚約破棄したとしても、生かしとくのは無理っすね」
「そこだよ。オレがこいつらを嫌いになれない部分は。惚れた女に危害を加える奴は徹底的に排除する。いいねぇ。好きだぜ、そういうやつ。組に欲しいくらいだ。アーノルド王子の殺さず生かす精神的制裁のやり方なんかエグいぜ。婚約破棄で傷心のエリーたんが旅立った国に、ヒロインと外交に訪れ、幸せっぷりを見せつけるんだからな。エリーたんはアーノルド王子の幸せをただ遠目で見ていることしか出来ないあぁぁああ可哀想過ぎるだろ。公式キャラ設定では、その後の話に、毎晩枕を濡らして眠れない夜を過ごしているとか書かれてるんだぜ!?」
「ところで兄貴、姐さんはヒロインをどんな目に合わせたんで?」
素朴な疑問だったのだろう。前世のヒューゴは、部下からの問いかけに身を乗り出して答える。
「パクで攻撃したり、魔獣で襲わせたり、でも、一番の決定打は、ロストシストを排除しようとしたことだな」
「それってヤバイんじゃ?」
「そう。けどな。家族を奪った魔法をエリーたんは恐れている。そして、ゲームの中は、人に魔法を直接かけることは禁止されている世界だ。ヒロインはエリスの再来と呼ばれる全属性の魔法を使う。特にそれは死者蘇生の禁断魔法すら叶うとされ、エリーたんはヒロインに期待を持ってた部分もある。まあ、死者蘇生なんか出来るわけねぇよな。例え出来たとして、死者であっても、人に魔法をかける罪をヒロインは犯さない。そのへんが妙にリアルで、だからこそエリーたんの悪役ぶりに味が生まれるわけだが、つまり、『その程度の魔法しか使えないロストシストなんてこの世に必要ありませんわ』とエリーたんは行き着くわけだ。で、国にロストシストの処刑を嘆願する」
繁栄の血族と称され、パクという魔法の恩恵を一番受けている身分でありながら、エリーは踏み外しては行けない道を踏み外した。
「愛しの王子がロストシストだと知ったときのエリーたんの悲鳴が耳に焼き付くぜ」
「え、これフルボイスっすか?」
「ちげぇよ。こんなマイナーゲームがフルボイスなわけねぇだろ。オレの心が聞いてんだよ。『嘘とおっしゃってください、アーノルド様』ぁぁあぁあ、好きだぁあぁ」
「兄貴、姐さんの記事がありました」
「何、でかした、エリーたんの新情報ぅぉぉぉおお。は、え、悪役令嬢が幸せになる幻のルート発見。んだ、この見出し。ロタリオとの好感度が高いバグでは、母と兄の生存ifルートに突入しているらしい。マジか、やりてぇ。エリーたんを幸せにしてぇ。なになに、バグの発生確率は現在調査中、発生時の問題点についても現在調査中、ったく、なんだこれ、新手のテロか。運営しっかりしろよ」
「あ、そろそろ時間ですぜ、兄貴。遅れたらまた親父にどやされる」
「そうだな。愛しのエリーたんも連れていくから、運転お前な」
「またっすか、まあ、別にいいっすけど」
そう会話をして笑っていた時間が懐かしい。目を閉じれば数分前の出来事のように感じられるのに、タバコ臭い部屋も、エンジンで動く黒塗りの車も、今はもうない。あの日、エリーが幸せになるバグに遭遇するために、あらゆる手を尽くしたのに、前世のヒューゴは『エリー・マトラコフ。いまここに、第二王子アーノルド・シャルルとの婚約を破棄し、国外追放を言い渡す』というヒロインにとって、ハッピーエンドの正規ルートにしかたどり着けなかった。
「兄貴、やべぇ。敵対してる組織のもんが」
「ちくしょう、このままでは、エリーたんが公衆の面前で辱しめにぃぃい」
「兄貴ぃぃぃいぃいいぃ」
銃弾が防弾の窓ガラスを突き破り、前世のヒューゴの頭を撃ち抜くと同時に、ゲーム画面のボタンに指が触れたのが原因なのか。目が覚めたヒューゴは、小さくなった「推し」が生きる異世界へと転生したことを知る。