梵天ニ咲ク
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翌朝、六時少し前。
「うわぁぁ、遅刻…っ、ぅ…あ、あれ?」
莉乃は飛び起きた視界に映る景色が、昨日まで見ていた寮の自室とは違うことに気付いて思考を停止させる。
感覚が正常であれば、今日は金曜日。
つまり、派遣社員として三か月延長の更新面接がある大事な日で、夜は週末の稼ぎ時で指名客が来る予定も入っている。
「……どうしよう」
時計の針はまだ朝の六時を回っていない。
ここがどの辺にあるのか、目隠しをされて連行されてきたせいで場所が特定できない。電車は近くを走っているのだろうか、最悪タクシーで向かえば間に合うだろうか。
派遣の始業は九時。
せめて十分前にはついておきたい。つまりあと二時間五十分以内に会社につくには、逆算してもギリギリか。いや、まだ余裕があると願おう。
「あ、服」
そういえばメイクも落としていない。
カバンは奪い去られたと言い換えてもいいだろう。携帯も財布も手帳も全部あの中に入っているのに、これではどうしようもない。
「どういう状況、これ……え、…え?」
今頃になって焦りが莉乃を襲い始める。
わかりやすくウロウロと椅子の前を往復してみるが、時計の針がむなしく秒針を左に動かしていくだけで、何の解決にもならない。
「んー、トイレ」
生理現象は誤魔化せないと、莉乃は髪をかきあげて肩を落とした。
「うわぁ……ひどい顔」
トイレ終わりの洗面台。ホテルのアメニティのように化粧水やら乳液やらが色々そろえられているが、莉乃はその置き方に違和感を覚えて配置換えを行う。バイトで染みついたクセというのは凄い。納得のいく形にしたところで「はっ」と自分は何をしているんだと、自己嫌悪に陥った流れで鏡を見て、そのひどさに思わず頬を持ち上げた。
「まだよく寝た方だからクマはマシだけど、顔色悪すぎ……面接大丈夫かなぁ。てか栄養ドリンク飲んで、気合い入れないと…っ……はぁ……しんど」
表情筋が働いていない。
昨夜ここに押し込められた時に「好きに使え」と言われたような気もするが、あとで請求されても払える自信がないから顔を水だけで洗い、口をゆすぐだけにして、莉乃は再度自分の顔を眺める。理不尽な要求に慣れ親しんだ体が憎い。
それから無理矢理、顔の筋肉を動かして「大丈夫だよ、莉乃。莉乃なら出来る」と自然に見える表情を作り上げた。
「一回家に帰って、シャワー浴びて、用意して出る……間に合うか?」
今すぐここから出ることが出来たとすれば、そう難しい話ではなさそうな気がする。
「ここがどこか知らないけれど、絶海に浮かぶ孤島の城ではあるまいし……窓がないから確認できないし。大体今が、朝かどう、か……あ」
ぶつぶつ言いながら昨夜寝落ちたダイニングテーブルの端の椅子まで戻ってきた莉乃は、自分の呟いた発言に、不安と焦りの表情を浮かべ始める。
「あ、朝、だよね?」
誰に向かってでもなく問いかけた言葉に、もちろん返ってくる言葉はない。
てっきり感覚で「早朝」と決めつけていたが、もしかしたら可能性的に午後だということも否定できない。
もしも仮にそうだった場合、それはもう絶望でしかなかった。
「あ、あれ…っ…開かない」
駆け寄った唯一の出入り口である部屋の扉に手をかけて、取っ手を掴んだ行動に益々焦る。力任せに押したり引いたりを繰り返し、最終的にはどんどんと扉を叩いて、外にいるかどうかもわからない誰かに向かって叫んでいた。
「……どうしよう」
このままでは本当に「平凡な人生」への切符を失ってしまう。
蒼白な顔で再度、扉に向かって腕を振り上げたところで静かにそこは開いた。
「あれー、莉乃起きてんじゃん。おはよ」
「え、あ。おはようございます」
「そんなところで何してるの、ご飯食べよ」
「は…ぇ…ごはん?」
「お腹すいただろー。遠慮せずに食え」
「いや、あの…でも」
「なに、食べないの?」
「え、あ…っ」
変な姿勢で固まった莉乃の脇を喉元に長方形の刺青を入れた兄弟が通り抜けていく。いや、兄弟かどうかは実際のところ知らない。
知っているのは、彼らが灰谷の姓を持つ蘭と竜胆ということだけ。
「早くこっち来いよ」
長い足を組んだ蘭の呼びかけに、莉乃は振り上げた手の行き先に迷う。次いで入ってきた竜胆の手に乗せられたお盆の上にある料理たちのかぐわしい香りに反応した体が、莉乃の代わりに盛大に返事をしていた。
「~~~~っ、すみません」
最悪だ。せっかく開いた出入口は閉じてしまったし、腹の虫の泣き声を聞いた灰谷兄弟は馬鹿みたいに笑っている。
「いいから座れって」
「……はい」
蘭が指示を出す通り、椅子を引かれて待ち構えられているその左隣に腰かければ、自然な流れで竜胆が挟みこむように右隣を陣取った。
この無駄に広い空間で、美形兄弟に挟まれて座るこの状況が、今、このタイミングじゃなければどれほどよかったことか。簡単には逃がしてもらえなさそうな雰囲気と、目の前に置かれた朝食らしき物体に、思考が数秒フリーズしていた。
「毒は入ってないから」
「いえ、そういうつもりでは、なくて」
「好き嫌いとかアレルギーでもあったか?」
会話とは、キャッチボールでなくても成立するらしい。
それは知っている。仮にもキャバクラや接客業で経験済みだ。
問題はそこではないと、莉乃は時計をチラッと見て、すがるように蘭を見つめた。
「あ、あの…っ、ぐ」
「俺のおすすめはこれ、食ってみ」
笑顔でパンを人の口に押し込んでおきながら語尾にハートをつける異常者に救いはない。そう判断した莉乃は、ゴクリとパンを飲み込むと、反対側の竜胆に顔を向けた。
「うまいよな、それ。オレはこっちも好きだけど」
「え…ぅ…ぐぅ」
「な、どう?」
そんな上目づかいで「どう」と尋ねられても困る。
「お、おいしい、です」以外の言葉は絶対に許さないという目をして質問してくる竜胆に、莉乃はもぐもぐと緊張と焦りで味のしないパンを噛み締めていた。