梵天ニ咲ク
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明らかにヤバそうだとわかる黒塗り高級車の後部座席に投げ込まれ、有無をいわせず頭から袋をかぶせられ、ぐるぐると後ろ手になるようヒモで全身を拘束された莉乃は恐怖に身を震わせながら時間の経過を切に願っていた。
悪い夢だと言い聞かせ、うるさく響く心拍をなだめ、こぼれそうになる涙を歯を食いしばってせき止めて、躊躇なく発砲した男を刺激しないようにじっと息をひそめて運ばれていた。
抵抗。その二文字はあの路地裏で殺されたに違いない。
「だぁかぁらぁ、今向かってるつってんだろぉが」
走る車内で男が誰かに告げている。
相手の声が聞こえないその会話に、電話だということはすぐにわかった。
「ちゃぁんと身分証で確認したから間違いねぇよ。莉乃はこっちが先に手に入れた。あははぁ、逃げようとしたから興奮して発砲しちまったけどヤッてねぇよ、あ゛、んなわけねぇだろ。ぶっ殺すぞ」
随分物騒な会話終了の合図だと思う。もうどれくらい走ったのか、緊張が麻痺しかけたころになってようやく、莉乃は車が停止したことを知った。
「莉乃ちゃぁん、つきましたよぉ」
甘い声で言いながら無機質な銃が袋の上から顔を叩く。
それにびくりと大袈裟に反応してしまった莉乃に満足したのか、男はグルグル巻きで身動きがとれない莉乃を担ぎ上げるとそのまますたすたと歩き始めた。
「いい子にしてろよぉ。また逃げようとしたら、今度はどうなるかわかってんだろ?」
視界を遮断された神経が感覚を研ぎ澄まし、建物に入る気配を感じ取っている。
錆びた匂いと潮風が混ざり、漂う冷気と響く足音。埠頭の倉庫か、海辺の廃墟か。どちらにも縁はないが、少ない情報量で結び付けた現状にさほど違いはないだろう。
なぜならば、これから訪れる未来にどちらも希望という文字が浮かんでこない。
「三途、遅いぞー」
「準備はできてる」
意外にも丁寧に床に降ろされて、顔にかぶせられていた袋を取り払われる。
「…っ…ぅ」
前触れのない強烈な光を拒んだ瞼がきつく閉じる。
徐々に薄目を開けて状況を把握しながら映したのは、ざらついたコンクリートの床。ついで、剥げかかった壁。割れた蛍光灯と窓ガラスの残骸。それから上質な革靴と綺麗なスーツ、見下ろしてくるやたら顔の良い三人の男。
工事現場で使うような照明器具に照らされた光景は、いつの間にか夜になった「普通」の世界とは真逆の世界を連想させる。
「……だ…れ?」
顔をしかめながら、存外間抜けな声が出たと思った。
「いー、眺め」
「三途、ちゃんと説明したのか?」
「説明。んなもんしてねぇよ。面倒くせぇ」
そう言って先ほど飲み込んでいた錠剤と同じものを傷痕のある口の中に放り込んでいる男は、一度見たら忘れないピンク色の髪を揺らして笑っている。
同時に、一瞬にして青冷めた顔色に変わった莉乃の表情が、その意味を悟っていた。
「それに、どう転んだってこいつの未来は一択だろ?」
二十三年。一般人として平凡に生きてきた身が関係を持つにはほど遠い人種。
三途と呼ばれたピンク頭は、腕まくりをした右腕の内側に。
髪の長さや背格好は違うものの、まとう雰囲気や瞳の色が同じ美形魔人たちは、それぞれ喉仏に。
花札のような変な刺青をいれている。
細長い長方形に円を描いたおそろいの刻印。
組織名を「梵天」刺青は警察でも手に負えない幹部の証。連日、ニュースや噂で危険視される要注意人物たち。
「ごめんなー、突然連れてこられて怖かったよなぁ」
縛られたままコンクリートのうえで座り込む体に目線を合わせるためか、スリーピースの高級スーツを着た男が猫なで声で喋りかけてくる。
喉仏の刺青が少しだけ上下に動いて、しゃがみこんできた瞳は綺麗な薄紫をしていた。
「あの…っ…」
「んー?」
「私、どうし…ッ」
どうしてこんな場所に連れてこられたのか。言葉は続いてくれなかった。
猫なで声のまま伸びてきた腕が、優しく頬を撫でて髪に触れたと思った瞬間、後頭部が掴まれて顔を持ち上げられる。痛みに顔をゆがめたものの、「よく見ろ」と言わんばかりに固定された角度に薄目をあけて言葉を失くした。
「莉乃!?」
「お父さん」と認識する前に、椅子に足を固定されて座り、両手を後ろ手に拘束された男の声が響く。一昨日、現金を渡したばかりの男。
梵天に借金をしたと仮定して、こうなる原因はただひとつ。
返せなくなる金額まで借金を膨らませたのだろう。
どうりで連日必死に金を求めてくるわけだと、莉乃は仄暗い瞳で父親の顔を見つめ返した。
「莉乃…ああ…よかった」
心底安堵した声に、少しだけ感情が揺さぶられる。
娘の身を心配してくれたのかと、期待に唇が震えそうになる。
「お父さ…――」
「金は?」
「――……」
ガラスのない窓から潮風が入り込み、どこか血なまぐさい臭いがその声の不気味さを助長しているようだった。
「莉乃、金だよ、金。連絡がいったはずだろ。あるだけの金を早く出してくれ。頼む、助けてくれ、莉乃。お前しかいないんだよ、金くれるやつなんてッ」
「黙れ。それ以上、喋んな」
髪を掴む男とは違う。喉仏に刺青のあるもう一人が、肩まで伸びた髪を揺らして、父によく似た男の顔を容赦なく殴る。
鈍い音がして、少しだけ赤い点々がざらついたコンクリートに飛んだ。
「竜胆、まだ殺すなよ?」
「わかってる」
「ひゃははは、これで役者はそろった。ようやく処刑が始められるってもんよ」
明らかに異質で異様。本能が震えてこの光景を目に焼き付けているのに、自分じゃない誰かが見聞きしているような感覚に支配されていく。
大きな手に捕まれた後頭部は、固定された世界を何色で染めるのか。
怖いはずの、恐ろしいはずの、狂気の滲む絵画に、三人の美麗な男たちの顔はひどく優艶に笑っていた。
「さあ、選べ」
「……え?」
「莉乃、お前の選択肢は二つ」
情報が何も無いなかで、唐突に莉乃に迫られた二択。
いち、父親が背負った借金を肩代わりし、死ぬまで身体を売って働く。
に、父親と共に今ここで死ぬ。
後者を選択した場合は、臓器を売って金にするという。
前者は莉乃に仕事先を紹介してくれるというが、正直どんな仕事かは考えたくなかった。
「ああ、逃げるとか考えるのは無しだぜ。逃げようとしたときは、こいつを容赦なくぶっ放す」
拳銃。それが実際に発砲できる本物だということは、すでに知っている。
「あまり時間はやれねぇ」
意地悪く笑った顔は、正気の沙汰とは思えない笑みを浮かべている。いや、いかがわしい薬を服用していた時点でもう正気ではないのだろう。
そもそも時間をくれるつもりはあるのかと問いたい。
選択肢を示す「2」から、カウントを始める「3」に増えた指の本数。その合間にも「金を出してくれ、身体を売ってくれ、俺を見逃してくれ」と懇願する父親の声がノイズのようにこだましている。
「死にます」
最後の一本が残った状態で莉乃は自分の声を聞いた。
「……わかって言ってんのか?」
ピンク色の頭をした三途という男が笑みを消して見つめてくる。
顔を覗き込むようにしゃがんだその顔は、いかれているけれど、本当にきれいな造形をしているなと莉乃は笑った。
「はい、殺してください」
瞬間、空気を裂く音がして、ピンクの頭の向こうに見えていた椅子に座る男が死んだ。
一発命中で、見事に撃ち抜かれた額からダラダラと流れる血が床を染めている。
正直、ゾクゾクした。それまでの恐怖が一緒に撃ち抜かれたみたいに、穏やかな気持ちが内側から広がっていく。
解放されるのだ。
苦しいだけの人生だった。途方もなく続いていくくらいなら、強制的に幕が降ろされるのも悪くない。
選択肢に後悔はない。
自分はずっと善人であると思っていた。
善良な市民で、善意で人を救うのだと思っていた。
「……ふふ」
あまりに呆気ない。
最果てまで続く足枷を断ち切ってくれるなら人は悪魔に身をゆだねるのかもしれないと、莉乃は自分を殺す男たちを見つめ、笑みを浮かべてそのときを待っていた。
「あー……弾が切れた」
「………………はい?」
一向に訪れない衝撃に違和感が巡ってきたころ、突然ピンク頭の男は視界から立ち上がり、代わりに「竜胆」と呼ばれていた男が近付いてくる。
相変わらず後頭部を掴む斜め後ろの男からはいい匂いがするし、どこか同じような雰囲気を持つ二人に挟まれると、変に鼓動が高鳴ろうとするのはどうしたものか。
「っ」
まさかの絞殺なのか。何とも読み取りにくい表情で竜胆という男の大きな手の平が首筋を撫でている。
予想外の事態に一瞬震えた体は、固定された非力な体勢では無力に等しい。
「はは、すっげぇ脈拍」
破顔。という言葉が思い浮かぶほど、美形が突然崩す笑顔の威力は半端ない。
普通そこで人は笑わない。今から首を締める相手の脈動を感じて、恍惚な笑みを浮かべる人間は、総じて「普通」とは言えない。
「…っ…」
「はい。これで、もう俺らのもんな」
数分間で目まぐるしく変わる状況に、脳がついていけないと思考を放棄している。
カチャっと可愛らしい音がして、次いで首筋に冷たさと重みを感じ、捕まれていた後頭部が解放される。頭から手が離れる間際、なぜかよしよしと頭を撫でられた気がした。
「……は?」
どこから取り出したのかナイフで拘束していた縄を切られ、自由になった体が呆けたように首元に手をやる。
認識が正しいのであれば、首輪のような何か。
飾り気のない平らな金属で出来た輪っかが、ぐるりと首を取り囲んでいた。
「え?」
たしかに人生が終わる選択をしたはずなのに、なぜ自分が生きているのか理解できない。
生かされた意味は何なのか。
状況が飲み込めずに自分を見下ろす三人を見上げてみる。
「状況を理解できてない莉乃可愛いー」
「いや…あの…」
「あ、その首輪。一生外せないから」
「そうじゃ、なくて」
「感謝しろやぁ。莉乃」
「……」
「望み通り、殺してやったんだ。第二の人生楽しもうぜ」
肉親を殺されたあの日、共に終えると思っていた人生が変わってしまった。
平凡な日常、先の見えない未来。同じ日々を繰り返し迎えるだけのモノクロの生活。
先の見えない未来はどうやら、どの道をたどっても当てはまるように出来ているらしい。
「莉乃の飼い主は俺なぁ」
「はぁ、ふざけんじゃねぇ。勝手に決めんな」
「蘭ちゃんって呼んでみ?」
「人の話、聞けよ」
「ずるい、兄ちゃん。俺は竜胆、莉乃の好きなように呼んでいいから」
「お前ら、二人そろって無視してんじゃねぇ」
錆びた匂いと潮風と夜の色。
のちに三途春千夜と灰谷兄弟こと灰谷蘭、灰谷竜胆と名乗る三人は、そろいもそろって綺麗な顔で「ようこそ、梵天へ」と笑った。